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山   下   真   史 村   田   秀   明 ﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶

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﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一三七 本稿は︑本誌前号︵二〇一四年三月︶に発表した﹁﹃李陵・司馬遷﹄注解︵一︶﹂に続くものである︒本文や注解の

方針等については前号を参照されたい︒凡例は今回新たに追加したものがあるので︑再度掲げておく︒

︹凡例︺ 注解で略記した資料名は︑それぞれ以下の中島敦の蔵書︑自筆資料を指している︒一 ﹃漢書﹄﹃百衲本二十四史 漢書﹄︵民国年間︑商務印書館︶︒﹁李陵伝﹂︑﹁蘇武伝﹂︑﹁司馬遷伝﹂は︑それぞれ

本書の﹁李広蘇建伝﹂の李陵︑蘇武︑司馬遷の伝記のこと︒なお︑司馬遷の﹁太史公自序﹂は﹃史記﹄にあり

﹁報任少卿書﹂は﹃文選﹄にも収められているが︵若干の相違がある︶︑この注解では﹁司馬遷伝﹂から引用し

た︒二 ﹃史記﹄﹃百衲本二十四史 史記﹄民国年間︑商務印書館︶︒﹁太史公自序﹂は︑本書の﹁太史公自序第七十﹂

山   下   真   史 村   田   秀   明 ﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶

(2)

一三八 のこと︒三 ﹁李陵・司馬遷年表﹂⁝中島敦が﹃御台所當座帳﹄に作成した年表︒四 ﹃東洋古代史﹄⁝橋本増吉著﹃世界歴史大系第三巻 東洋古代史﹄︵昭和八年十二月三日︑平凡社︶五 ﹃地図﹄⁝同右﹃東洋古代史﹄巻尾の﹁南北両民族対抗時代図﹂六 ﹃高青邱詩集﹄﹃続国訳漢文大成 文学部十九巻 高青邱詩集 第一巻﹄︵久保天隋訳解︑昭和五年一月二十日︑

国民文庫刊行会︶七 ﹃世界地図﹄﹃新制最近世界地図 増訂改版﹄︵昭和十四年十二月三日︑三省堂︶の﹁第五図支那︵中華民国︶﹂︒八 ﹃支那通史﹄⁝那珂通世著・和田清訳﹃支那通史 上﹄︵昭和十七年五月二十日︿第五刷﹀︑岩波文庫︶九 ﹁史記解題﹂﹃漢文叢書 史記第一﹄︵大正九年七月二十五日︑有朋堂書店︶の巻頭の﹁史記解題﹂︵桑原隲藏執

筆︶

九月に北へ立つた五千の漢軍は︑十一月に入つて︑疲れ傷ついて将を失つた四百足らずの敗兵となつて辺塞に辿り

ついた︒敗報は直ちに駅伝を以て長安の都に達した︒

*九月に〜辺塞に辿りついた︒⁝﹁李陵伝﹂の﹁軍人分散脱至塞者四百余人︒︵軍人分散し脱して塞に至る者四

百余人︒︶﹂による記述︒﹁一﹂には︑﹁逃れ去つた部下の数を数へて︑確かに百に余ることを確かめ得ると﹂とある

が︑ここでは敗残兵は︿四百足らず﹀とされている︒やや不自然な感じがあるが︑夜の逃走なので総数は分からな

かったとも考えられよう︒なお︑﹁九月﹂は李陵伝﹂にあるが︑﹁十一月に入つて﹂という記述は中島敦による

李陵軍が﹁北へ立つた﹂のを九月一日と仮定して︑小説に記された日数を数えていくと︑敗残兵が﹁辺塞に辿りつ

(3)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一三九 いた﹂のは六十数日後︑つまり十一月に入っていることになる︒*敗報は〜長安の都に達した⁝﹁李陵伝﹂の﹁陵敗処︑去塞百余里︒辺塞以聞︒︵陵の敗れし処︑塞を去ること百余

里︒辺塞以て聞ゆ︒︶﹂による記述︒﹁駅伝﹂という記述は中島敦による︒

武帝は思ひの外腹を立てなかつた︒本軍たる李広利の大軍さへ惨敗してゐるのに︑一支隊たる李陵の寡軍に大した

期待の持てよう道理が無かつたから︒それに彼は︑李陵が必ずや戦死してゐるに違ひないとも思つてゐたのである

たゞ︑先頃李陵の使として漠北から︑﹁戦線異状無し︑士気頗る旺盛﹂の報をもたらした陳歩楽だけは︵彼は吉報の

使者として嘉せられ郎となつてそのまゝ都に留まつてゐた︶成行上どうしても自殺しなければならなかつた︒哀れで

はあつたが︑之はやむを得ない︒

*武帝は〜思つてゐたのである︒⁝﹁李陵伝﹂には︑﹁上欲陵死戦︑召陵母及婦︑使相者視之︑無死喪色︒︵上陵の死

戦を欲し︑陵の母及び婦を召し︑相者をして之を視さしむるに︑死喪の色無し︒︶﹂とある︒中島敦は︑この段階で

は︑武帝が李陵は死んだものと思い込んでいたとした方が︑後の﹁赫怒﹂が際立つと考えたのだろう︒

*本軍たる李広利の大軍さへ惨敗してゐる⁝﹁漢︑使弐師将軍将三万騎出酒泉︒撃右賢王於天山︑得首虜万余級而還︒

匈奴大囲弐師︑幾不脱漢兵物故什六七︒︵弐師将軍をして三万騎を将ゐ酒泉より出ださしむ︒右賢王を天山

に撃ち︑首虜万余級を得て還る︒匈奴大いに弐師を囲み︑幾 ほとんど脱せず︑漢兵の物故するもの什に六七なり︒︶︵﹃漢書﹄﹁匈奴伝上﹂︶による記述︒

*たゞ〜やむを得ない︒⁝﹁李陵伝﹂には︑﹁歩楽召見道陵将率得士死力︒上甚説︑拝歩楽為郎︒︵歩楽は召見せら

れ陵の将率として士の死力を得るを道 ふ︒上は甚だ説 よろこび︑拝して歩楽を郎と為す︒︶﹂とある︒﹁﹃戦線異状無し︑士

気頗る旺盛﹄の報﹂は中島敦による︒﹁戦線異状無し﹂はレマルク著・秦豊吉訳﹃西部戦線異状なし﹄︵昭和四

︑中央公論社︶や昭和五年に公開された同名の映画にヒントを得た表記か︒また︑同じく﹁李陵伝﹂には︑﹁

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一四〇

聞陵降︑上怒甚︑責問陳歩楽︑歩楽自殺︒︵後に陵の降るを聞き︑上は怒ること甚だしく︑陳歩楽を責問し︑歩楽

は自殺す︒︶﹂とあり︑陳歩楽の自殺は李陵が匈奴に降ったという報を聞いた武帝に責められた結果となっている

が︑中島敦は︑﹁成行上﹂のことと曖昧にしている︒﹁哀れではあつたが︑之はやむを得ない﹂は中島敦による︒

*郎⁝朝廷の各省の部局の主任官吏︒侍郎︑郎中など様々な役職があった︒

翌︑天漢三年の春になつて︑李陵は戦死したのではない︑捕へられて虜に降つたのだといふ確報が届いた︒武帝は

始めて嚇怒した︒即位後四十余年︒帝は既に六十に近かつたが︑気象の烈しさは壮時に超えてゐる︒神仙の説を好み

方士巫覡の類を信じた彼は︑それ迄に己の絶対に尊信する方士共に幾度か欺かれてゐた︒漢の勢威の絶頂に当つて五

十余年の間君臨した此の大皇帝は︑その中年以後ずつと︑霊魂の世界への不安な関心に執拗に付纏はれてゐた︒それ

だけに︑その方面での失望は彼にとつて︑大きな打撃となつた︒かうした打撃は生来濶達だつた彼の心に︑年と共に

群臣への暗い猜疑を植ゑつけて行つた︒李蔡・青翟・趙周と︑丞相たる者は相次いで死罪に行はれた︒現在の丞相た

る公孫賀の如き︑命を拝した時に己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出した程である︒硬骨漢汲黯 あんが退いた後は

帝を取巻くものは︑侫臣に非ずんば酷吏であつた︒

*翌︑天漢三年の〜始めて嚇怒した︒⁝﹁李陵伝﹂の﹁後聞陵降上怒甚︵後に陵の降るを聞き︑上は怒ること甚だし

く︶﹂による記述であるが︑﹁翌︑天漢三年﹂は︑王国維の﹁太史公繫年考略﹂の記述によるか︒﹁史記解題﹂﹁第一史記の作者﹂には︑王国維の記述を引いた箇所があるが︑そこには﹁天漢三年︵西紀前九八︶李陵のことに坐して

牢獄に囚はれ︑腐刑を受く︒﹂とある︒ただし︑この年の﹁春﹂と時期を特定したのは︑中島敦である︒

*即位後四十余年︒帝は既に六十に近かつたが︑⁝天漢三年︵前九八︶時︑武帝は︑即位後四十三年︑五十八歳︒

*神仙の説を好み〜幾度か欺かれてゐた︒﹁神仙の説﹂は︑神通力を得︑不老不死の身となる神秘思想のこと︒﹁方

士﹂は︑不老不死・占験・医薬などの神仙術を体得したと称する呪術者のこと︒﹁ げき﹂は︑かんなぎ︑つまり神

(5)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一四一 を降ろし神意を告げる巫︵女︶と覡︵男︶のこと︒﹃史記﹄﹁孝武本紀﹂︑﹁封禅書﹂︵﹁孝武本紀﹂と﹁封禅書﹂とは

内容がほぼ同じ︒﹁郊祀志﹂にも︶には﹁孝武皇帝初即位尤敬鬼神之祀﹂とあり︑武帝は即位当初から鬼神の祀

り・呪術への関心を持っていたという︒同書によると︑最初に武帝に接近して信用を得た李少君という方士は︑不

老不死の術に通じていると称したが︑病死した︒次いで亳 はくの謬忌が泰一︵天神の名︶を祀る方術を奏上した︒次い で鬼神の法術に通じているという斉人の方士少 しょうおう翁が文成将軍の称号を授けられた︒また︑欒 らん だいという方士は五利将

軍・天士将軍・地士将軍・大通将軍・天道将軍の称号を受けて楽通侯となったが︑この二人は説いた通りに効験が

現れず︑詐術が発覚し誅殺された︒ちなみに欒大の誅殺については︑﹃漢書﹄﹁武帝紀﹂の元鼎五年︵前一一二︑武

帝四十五歳︶の項に︑﹁楽通侯欒大坐誣罔要斬︵楽通侯欒大誣罔に坐し要斬せらる︶﹂と記されている︒その後︑斉

人の公 こう そん けいという方士が︑武帝の信用を得︑詐術が露見しそうになりながらも︑取り繕って武帝に影響を与え続け

たことが記されている︒中島敦は︑これらの記事をもとにして記述したとも考えられるが︑一方︑武帝についての

概説をもとにしたとも考えられる︒﹃支那通史﹄﹁第四篇 前漢中﹂﹁第一章 武帝儒を好み︑又神仙を信ず﹂には︑

﹁帝は又神仙の説を好む︒﹂という記述に続いて︑上述の李少君︑少翁︑欒大︑公孫卿らについての記述がある︒

*五十余年の間君臨した⁝武帝は︑景帝後三年︵前一四一︶〜後元二年︵前八七︶の五十五年在位している︒

*李蔡・青翟・趙周と︑〜泣出した程である︒⁝﹃漢書﹄﹁公孫劉田王楊蔡陳鄭伝﹂には︑﹁︵公孫賀︶後八歳︑遂代石

慶為丞相︑封葛繹侯︒時朝廷多事︑督責大臣︑自公孫弘後︑丞相李蔡︑厳青翟︑趙周三人比坐事死︒石慶雖以謹得

終︑然数被譴︒初賀引拝為丞相︑不受印綬︑頓首︑涕泣曰︑臣本辺鄙︑以鞍馬騎射為官︒材誠不任宰相︒上与左右

見賀悲哀︑感動下泣︑曰︑扶起丞相︒賀不肯起︒上乃起去︒賀不得已拝︒出︑左右問其故︒賀曰︑主上賢明︑臣不

足以称︒恐負重責︑従是殆矣︒︵︵公孫賀︶後八歳︑遂に石 せき けいに代はり丞相と為り︑葛 かつ えき こうに封ぜらる︒時に朝廷は 多事にして大臣を督 とく せきす︒公 こう そん こうより後︑丞相の李 さい︑厳 げん せい てき・趙 ちょうしゅう周の三人は比 ならびに事に坐して死す︒石慶は謹を 以て終るを得たりと雖も︑然るに數 しばしばけん譴せらる︒初め賀は引きて拝して丞相たるに印綬を受けず︑頓首︑涕泣して曰 ︑﹁臣は本 もと へん にして あん 騎射を以て官と為る︒材は誠に宰相に任 へず﹂と︒上︑左右と与 ともに賀の悲哀を見

(6)

一四二 感動して泣 なみだ下りて曰く︑﹁丞相を扶 たすけ起こせ﹂と︒賀は起 つことを肯 がえんぜず︒上︑乃ち起ちて去る︒賀は已むを得ず

拝す︒出でて︑左右は其の故を問ふ曰く︑﹁主上は賢明にして︑臣は以て称するに足らず︒恐らくは重責を

負ひ︑是より殆 あやふし︒︶﹂とある︒これによった記述︒

*丞相⁝三公の一つ︒皇帝を丞 たすけ︑行政を統率する中央政府の最高官︒

*李蔡⁝元狩五年︵前一一八︶︒秦の将軍李信の子孫で漢の将軍李広の従弟︒甥に李陵の父の李当戸︑叔父の李

︑李敢がいる︒文帝の時代に李広と共に郎となり景帝の時に二千石の官になった︒元朔五年︵前一二四︶︑軽

車将軍となり大将軍衛青に従って匈奴右賢王を討った功績で楽安侯に封じられた︒元狩元年︵前一二二︶︑御史大

夫となり︑元狩二年︑公孫弘の後任の丞相となった︒三年後の元狩五年︑祭祀に使用する土地を勝手に売ったこと

が発覚し︑下獄の判決を受けて自殺した︒﹃漢書﹄武帝紀﹂︑﹃史記﹄﹁李将軍列伝﹂︑﹁衛将軍驃騎列伝﹂︑﹃漢書﹄

﹁高恵高后文功臣表﹂︑﹁百官公卿表下﹂︑﹁李広蘇建伝﹂︑﹁衛青霍去病伝﹂に記述が見える︒

*青翟⁝荘︵あるいは厳︶青翟︒?〜元鼎二年︵前一一五︶︒元狩五年︵前一一八︶︑丞相李蔡自殺後︑丞相となる

三年後の元鼎二年︑文帝の陵園盗掘の事件で︑酷吏の御史大夫張湯によって丞相青翟は見知の罪︵官吏が犯罪を知

っていながら︑それを故意に見逃す罪︶におとされようとした︒丞相青翟は朱買臣ら三人の長史︵補佐役︶と張湯

の悪事を調べ弾劾した︒張湯は﹁自分を陥れたのは朱買臣らである﹂と遺書を書いて自殺した︒張湯の死後︑遺産

は僅少であり︑張湯の母が﹁湯は大臣でありながら︑奸悪の言を被って死んだのだから厚く葬る必要はない︒﹂

と薄葬したことを聞いた武帝が調べ直させ︑長史らを誅殺︑丞相青翟は下獄して自殺した︒﹃漢書﹄﹁武帝紀﹂︑﹁

湯伝﹂︑﹁百官公卿表下﹂に記述が見える︒

*趙周⁝元鼎二年︵前一一五︶︑丞相青翟自殺後丞相となる︒三年後の元鼎五年︑酎 ちゅうさい祭という祭祀の際に献上した ちゅうきん金︵朝廷における祭祀の際に拠出する黄金のこと︶の純度が規定に満たなかった列侯一〇五人が摘発されて領地

を没収された︒この事件に関連して︑丞相であった趙周は︑列侯が献上する黄金の質が悪いことを知っていて手を

打たなかったとして︑下獄され︑自殺した︒﹃漢書﹄﹁武帝紀﹂︑﹁百官公卿表下﹂に記述が見える︒

(7)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一四三 *公孫賀⁝征和二年︵前九一︶︒公孫賀は祖父の昆邪が将軍となって戦功を立てて列侯になったことのある家の

出で︑騎士として功を立て︑武帝が皇太子の時に太子舎人となった︒武帝が即位すると太僕に昇進した︒公孫賀の

妻が武帝の皇后︑衛子夫の姉ということで重用されるようになり︑太僕のまま軽車将軍︑車騎将軍︑左将軍︑浮沮

将軍などになって匈奴と戦った︒太初二年︵前一〇三︶︑前任者石慶の死により丞相に任命され︑息子の公孫敬声

も太僕となった︒征和二年︑公孫賀︑敬声親子は巫 の獄により︑獄死した︒﹃漢書﹄﹁武帝紀﹂︑﹁公孫劉田王楊蔡

陳鄭伝﹂に記述が見える︒なお︑公孫賀の丞相在位期間は足掛け十三年に及び︑これは丞相のみの在位期間として

は前漢の丞相で最長である︒

*硬骨漢汲黯⁝﹃漢書﹄﹁張馮汲黯伝﹂︵﹃史記﹄汲鄭列伝﹂もほぼ同じ︶によると︑﹁好游俠任気節︑行脩︒其諌

犯主之顔色︒︵游俠を好み気節に任せ︑行 ぎょうしゅう脩は きよ︒其の諌するや主の顔色を犯せり︒︶﹂と硬骨漢汲黯の人となり

が記されている︒汲黯は︑景帝時代からの官僚で︑武帝の官僚人事を痛烈に批判し︑また︑武帝の尊重する丞相公

孫弘︑御史大夫張湯を非難した︒元狩二年︵前一二一︶︑匈奴の渾 こん 王が漢に投降してきた時の諫言が原因となり︑

官を免ぜられた︒また︑﹃支那通史﹄﹁第四篇 前漢中 第二章 武帝兵を窮め疆を拓く﹂にも汲黯についての記述

がある︒

さて︑武帝は諸臣を召して李陵の処置に就いて計つた︒李陵の身体は都にはないが︑その罪の決定によつて︑彼の

妻子眷属家財等の処分が行はれるのである︒酷吏として聞えた一廷尉が常に帝の顔色を窺ひ合法的に法を枉げて帝の

意を迎へることに巧みであつた︒或人が法の権威を説いて之を詰つたところ︑之に答へて言ふ︒前主の是とする所之

が律となり︑後主の是とする所之が令となる︒当時の君主の意の外に何の法があらうぞと︒群臣皆此の廷尉の類であ

つた︒丞相公孫賀︑御史大夫杜周︑太常趙弟以下︑誰一人として︑帝の震怒を冒して迄陵のために弁じようとする者

は無い︒口を極めて彼等は李陵の売国的行為を罵る︒陵の如き変節漢と肩を比べて朝に仕へてゐたことを思ふと今更

乍ら愧づかしいと言出した︒平生の陵の行為の一つ一つが凡て疑はしかつたことに意見が一致した︒陵の従弟に当る

(8)

一四四

禹が太子の寵を頼んで驕恣であること迄が︑陵への讒謗の種子になつた︒口を緘して意見を洩らさぬ者が︑結局陵に

対して最大の好意を有つ者だつたが︑それも数へる程しかゐない︒

*廷尉⁝九卿と呼ばれた政府高官の一員︒廷尉は︑法務機関の法官の長官︒

*酷吏として〜何の法があらうぞと︒⁝この﹁一廷尉﹂は杜周のこと︒﹁周為廷尉︑其治大抵放張湯而善候司︒上所

欲擠者因而陷之︑上所欲釈久繋待問而微見其冤状客有謂周曰︑君為天下決平不循三尺法︑専以人主意指為獄

獄者固如是乎︒周曰三尺安出哉︒前主所是︑著為律︑後主所是︑疏為令︒當時為是︒何古之法乎︒︵周廷尉と為

り︑其の治は大抵張湯に放 ならひ善く候司す︒上の擠 おとしいれんと欲する所の者は因りて之を陷れ︑上の釈 ゆるさんと欲する所は

久しく繋ぎ問を待ちて其の冤状を微か見す︒客有りて周に謂ひて曰く︑﹁君は天下の為に平を決すべきも︑三尺の

法に循はず︑専ら人主意指を以て獄を為す︒獄は固より是の如きや﹂と︒周曰く︑﹁三尺安くより出づるや︒前主

の是とする所︑著して律と為し︑後主の是とする所︑疏して令と為す︒時に当たるを是と為す︒何ぞ古の法ならん

︒ ︶ ﹂ ︵

﹃漢書﹄﹁杜周伝﹂︒﹃史記﹄﹁酷吏列伝﹂にもほぼ同じ記述がある︶による記述︒

*丞相公孫賀︑御史大夫杜周︑太常趙弟⁝天漢三年︵前九八︶時の三公︑九卿である︒ちなみに︑﹁李陵・司馬遷年

表﹂には︑﹁百官公卿表下﹂より抜き書きされた天漢三年時の公卿の﹁丞相 公孫賀﹂︑﹁執金吾ヨリ↓御史大夫王 卿↓杜周﹂︑﹁新畤侯 趙弟 大常﹂︑﹁太僕 公孫敬声﹂の記載が残されている︒

*御史大夫杜周⁝御史大夫は︑三公で丞相に次ぐ官職︒政務の原案の作成と皇帝の裁可した政策を丞相に伝達するこ

とを任務とする皇帝直属の秘書官と︑官吏の監察業務を司る官の長官︒杜周︵?〜前九四︶は武帝時代の酷吏

元封二年︵前一〇九︶に廷尉となり︑皇帝の意を伺うことが得意であった︵前々の注参照︶︒杜周が廷尉の時には︑

詔獄の案件は六︑七万人にも及んだという︒天漢二年︵前九九︶に執金吾となり︑翌天漢三年には自殺した王卿の

後任の御史大夫となり︑太始三年︵前九四︶に病死した︵﹃漢書﹄﹁杜周伝﹂︑﹁百官公卿表下﹂︶︒

*太常趙弟⁝太常は︑九卿の一で︑帝室の宗廟をはじめとする儀礼祭祀を司る官の長官︒趙弟は戦功を認められて新

(9)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一四五 畤侯となり︑天漢二年︵前九九︶に太常となった︵﹃漢書﹄﹁百官公卿表下﹂︶︒

*誰一人として︑〜意見が一致した︒⁝﹁李陵伝﹂の﹁群臣皆罪陵︵群臣皆陵を罪す︶﹂︑﹁報任少卿書﹂の﹁而全軀保

妻子之臣︑随而媒蘗其短︒︵而して軀を全うし妻子を保んずるの臣︑随つて其の短を媒 ばい げつ︒︶﹂をもとに中島敦が

膨らませた記述︒

*陵の従弟〜種子になつた︒⁝禹は︑李広の第三子李敢︵李陵の叔父︶の子︒﹁敢有女為太子中人︑愛幸敢男禹有

寵於太子︑然好利︑亦有勇︒嘗与侍中貴人飲︑侵陵之︑莫敢応︒後愬之上︑上召禹︑使刺虎︑県下圏中︑未至地

有詔引出之︒禹従落中以剣斫絶纍︑欲刺虎︒上壮之︑遂救止焉︒而当戸有遺腹子陵︑将兵撃胡︑兵敗︑降匈奴︒後

人告禹謀欲亡従陵︑下吏死︒︵敢に女有り︑太子の中人と為り︑愛幸せらる︒敢の男の禹︑太子に寵せらるる有り︒

然して利を好み︑亦た勇有り︒嘗て侍中貴人と飲し︑之を侵陵するも︑敢へて応ずること莫し之を上に愬

ふ︒上︑禹を召して︑虎を刺さしめ︑圏中に県下し︑未だ地に至らざるうちに︑詔有りて之を引出さる︒禹︑落中

従り剣を以て纍を斫絶し︑虎を刺さんと欲す︒上之を壮とし︑遂に救ひ止む︒而して当戸に遺腹の子︑陵有り︑兵

を将ゐ胡を撃ち

︑兵敗れ

︑匈奴に降る

︒後

︑人

︑禹

︑謀り亡げて陵に従はんと欲すと告げ

︑吏に下され死す

︒﹂

︵﹃漢書﹄﹁李広蘇健伝﹂による記述︒ちなみに︑﹁李陵・司馬遷年表﹂に記されている李陵一族の家系図には︑李

広の第三子敢の子として﹁禹︵獄死︶﹂とある︒

一人の男がたつた一人の男が︑苦々しい顔をして之等を見守つてゐた︒今口を極めて李陵を讒誣してゐるのは

数ヶ月前李陵が都を辞する時に︑盃を上げて其の行を壮んにした連中ではなかつたか︒漠北からの使者が来て李陵の

軍の健在を伝へた時︑流石は名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃へたのも又同じ連中ではないのか︒恬として既往を

忘れたふりの出来る顕官連や︑彼等の諂諛を見破る程に聡明ではありながら尚真実に耳を傾ける事を嫌ふ君主が︑此

の男には不思議に思はれた︒いや︑不思議ではない︒人間がさういふものとは昔から厭になる程知つてはゐるのだ

が︑それにしても其の不愉快さに変りはないのである︒下大夫の一人として朝に連なつてゐたために彼も亦下問を受

(10)

一四六

けた︒その時︑此の男はハツキリと李陵を褒め上げた︒言ふ︒陵の平生を見るに親に事へて孝︑士と交はつて信

常に奮つて身を顧みず以て国家の急に殉ずるは誠に国士の風ありといふべく︑今不幸にして事一度破れたが︑身を全

うし妻子を保んずることをのみ唯念願とする君側の侫人ばらが︑此の陵の一失を取上げて之を誇大歪曲し以て上の聡

明を蔽はうとしてゐるのは︑遺憾此の上ない︒抑々陵の今回の軍たる︑五千に満たぬ歩卒を率ゐて深く敵地に入り

匈奴数万の師を奔命に疲れしめ︑転戦千里︑矢尽き道窮まるに至るも尚全軍空弩を張り白刃を冒して死闘してゐる

部下の心を得て之に死力を尽くさしむること︑古の名将と雖も之には過ぎまい︒軍敗れたりとはいへ︑その善戦の跡

は正に天下に顕彰するに足る︒思ふに︑彼が死せずして虜に降つたといふのも︑潜かに彼の地にあつて何事か漢に報

いんと期してのことではあるまいか︒⁝⁝

*数ヶ月前李陵が〜又同じ連中ではないのか︒﹁報任少卿書﹂﹁陵未没時︑使有来報︒漢公卿王侯︑皆奉觴上寿︒

︵陵未だ没せざる時︑使来りて報ずる有り︒漢の公卿王侯︑皆︑觴を奉じ寿を上る︒︶﹂という記述による︒

*下大夫の一人として朝に連なつてゐたために彼も亦下問を受けた︒⁝﹁下大夫﹂は卿の下の位で︑士の上にあり上

中下の三階位に分かれた︑その第三位の大夫をいう︒﹁李陵伝﹂の﹁群臣皆罪陵︒上以問太史令司馬遷︒︵群臣︑皆

陵を罪とす︒上︑以て太史令の司馬遷に問ふ︒︶﹂という記述と︑﹁報任少卿書﹂の﹁郷者僕亦嘗厠下大夫之列︑陪

外廷末議︒︵郷 に僕も亦た嘗て下大夫の列に厠 まじり︑外廷の末議に陪す︒︶﹂という記述による︒

*言ふ︒陵の平生を見るに〜期してのことではあるまいか︒⁝﹁李陵伝﹂と﹁報任少卿書﹂に類似の記述があるが

ここは﹁李陵伝﹂によっている︒﹁遷盛言陵事親孝与士信︒常奮不顧身以殉国家之急︒其素所畜積也︑有国士之風︒

今挙事一不幸全軀保妻子之臣随而媒蘗其短︑誠可痛也︒且陵提歩卒不満五千︑深戎馬之地︑抑数万之師︑虜救死

扶傷不暇︒悉挙引弓之民共攻囲之︒転闘千里︑矢尽道窮︑士張空拳︑冒白刃︑北首争死敵︒得人之死力︑雖古名将

不過也︒身雖陷敗︑然其所摧敗︑亦足暴於天下︒彼之不死︑宜欲得当以報漢也︒︵遷︑盛んに言ふ︑﹁陵は親に事へ

ては孝︑士とは信︒常に奮ひ身を顧ず以て国家の急に殉ず︒其の素より畜積する所なるや︑国士の風有り︒今︑事

(11)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一四七 一不幸を挙げ︑軀を全うし妻子を保つの臣の︑随ひて其の短を媒 ばい げつするは︑誠に痛むべきなり︒且つ陵は歩卒五千 に満たざるを提 げ︑深く戎馬の地を み︑数万の師を抑へ︑虜は死を救ひ傷つくるを扶くる暇あらず︒悉く引弓の 民を挙げ共に之を攻囲す︒転闘千里︑矢は尽き道は窮り︑士は空拳を張り白刃を冒し北に首 むかひ敵に死を争ふ 人の死力を得るは︑古の名将と雖も過ぎざるなり︒身は陷 かん はいすと雖ども︑然るに其の摧 さい はいする所は︑亦た天下に あらはすに足る︒彼の死なざるは︑宜しく当を得て以て漢に報ぜんと欲するなり︒﹂と︒︶﹂

並ゐる群臣は驚いた︒こんな事の言へる男が世にゐようとは考へなかつたからである︒彼等は顳顬を顫はせた武帝

の顔を恐る〳〵見上げた︒それから︑自分等を敢て全軀保妻子の臣と呼んだ此の男を待つものが何であるかを考へ

て︑ニヤリとするのである︒

*並みゐる群臣〜ニヤリとするのである︒⁝中島敦による記述︒なお︑﹁全軀保妻子の臣﹂は︑前段では︑﹁身を全う

し妻子を保んずることをのみ唯念願とする君側の侫人ばら﹂と記されている︒﹁報任少卿書﹂にも出てくる語︒

向ふ見ずな其の男││太史令・司馬遷が君前を退くと︑直ぐに︑﹁全軀保妻子の臣﹂の一人が︑遷と李陵との親し

い関係について武帝の耳に入れた︒太史令は故あつて弐師将軍と隙あり︑遷が陵を褒めるのは︑それによつて︑今

度︑陵に先立つて出塞して功の無かつた弐師将軍を陷れんがためであると言ふ者も出てきた︒兎も角も︑たかゞ星暦

卜祝を司るに過ぎぬ太史令の身として︑余りにも不遜な態度だといふのが一同の一致した意見である︒をかしな事

に︑李陵の家族よりも司馬遷の方が先に罪せられることになつた︒翌日︑彼は廷尉に下された︒刑は宮刑と決つた︒

*太史令・司馬遷⁝太史令は︑﹃漢書﹄﹁百官公卿表上﹂に﹁奉常秦官掌宗廟礼儀︑有丞︒景帝中六年︑更名太常︒属

官有太楽太祝太宰太史太卜太医六令丞︒︵奉常は秦の官にして宗廟・礼儀を掌り︑丞有り景帝の中の六年︑名を

(12)

一四八 太常と更 あらたむ︒属官に太楽・太祝・太宰・太史・太卜・太医の六令・丞有り︒︶﹂とあり︑武帝時代︑九卿の一︑太常

︵宋廟︑礼儀を掌る︶の属官で︑その職務は天文︑記録︑暦法の推算およびその改革などを司り︑秩禄は六百石で

あった︒

   ﹁史記解題﹂﹁第一 史記の作者﹂に︑﹁司馬遷の事蹟は史記︵巻一三〇︶の太史公自序及び漢書巻六二︶の司

馬遷伝に備はれども︑その経歴年月等に就いては︑中華民国の王国維氏の太史公繋年考略︵広倉学窘叢書第一集所

収︶尤も参考に資すべし︒﹂とし︑王国維の﹁太史公繋年考略﹂︵民国五年︿一九一六﹀︶に基づいた司馬遷の事蹟

が記されている︒﹁史記解題﹂によれば︑司馬遷は︑中元五年︵前一四五︶に夏陽現在の陝西省韓城県︶に生ま

れる︒太史令であった父司馬談が元封元年︵前一一〇︶に亡くなると︑司馬遷は元封三年︑太史令を襲 ぎ︑太初元

年︵前一〇四︶︑四十二歳の時に﹃史記﹄の執筆に着手する︒天漢三年︵前九八︶︑李陵を弁護し︑下獄︑腐刑に処

せられる︒武帝の末年の後元二年︵前八七︶か︑昭帝の初年の始元元年︵前八六︶に︑六十歳前後で亡くなる︒

*向ふ見ずな其の男〜刑は宮刑と決つた︒⁝﹁李陵伝﹂の﹁初上遣弐師大軍出︑財令陵為助兵︒及陵与単于相値而弐

師功少︒上以遷誣罔欲沮弐師為陵游説︑下遷腐刑︒︵初め上弐師を遣はし大軍を出し︑財 わずかに陵をして助兵と為さ しむ︒陵︑単于と相ひ値 ふに及び︑而して弐師は功少し︒上︑遷の誣 まうし︑弐師を沮 はばまんと欲し︑陵の為に游説す

るを以て︑遷を腐刑に下す︒︶﹂という記述による︒武帝は︑司馬遷が李陵を弁護したのは︑弐師将軍︵李広利︶を

貶めようとする誣告と解して︑罰したという記事であるが︑中島敦は︑武帝が処断に至ったのは︑武帝自らの判断

と言うより︑﹁全軀保妻子の臣﹂の誣告によるとし︑武帝を取り巻く佞臣を際立たせている︒ちなみに︑﹁李陵・司

馬遷年表﹂の﹁天漢三年﹂に﹁遷︑腐﹂と記されている︒なお︑﹁報任少卿書﹂にも︑﹁明主不深暁︑以為︑僕沮弐

︑而為李陵游説︒遂下於理︒拳拳之忠︑終不能自列︒因為誣上︑卒従吏議︒﹂明主は深く暁 さとらず︑以為へらく

﹃僕は弐師を沮 そし︑而して李陵の為に游説す︒﹄遂に理に下さる︒拳 けん けんの忠ありて︑終に自ら列すること能は ず︒因りて上を誣 すと為し︑卒に吏 に従へらる︒﹂と︑﹁李陵伝﹂とほぼ同様の記述がある︒

   ﹁刑は宮刑と決まつた﹂という記述についてだが︑﹁李陵伝﹂では︑最初から宮刑が下されたように読める︒しか

(13)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一四九 ︑たとえば︑貝塚茂樹は﹃史記││中国古代の人びと﹄︵昭和三十八年五月︑中公新書︶で︑司馬遷は最初︑死

刑の判決を受けたが︑金がなかったので死刑を減じてもらうことができず︑宮刑に換えてもらったと記している

当時︑死刑を免れる方法として︑銭五十万を収める方法と︑願い出て死刑を宮刑に換えてもらうという方法の二つ

があったことは﹃漢書﹄によって確認できる︒前者については︑﹁武帝紀﹂に﹁︵天漢四年︶秋九月︑令死罪入贖銭

五十萬減死一等︒︵秋九月︑死罪︑贖銭五十萬を入るれば死一等を減ずと令さる︒︶という記述があり︑後者につ

いては︑﹁景帝紀﹂に﹁︵中元四年︶死罪欲腐者許之︒︵死罪にして腐を欲する者︑之を許す︒︶﹂という記述がある︒

また︑司馬遷自身も﹁報任少卿書﹂の中で︑﹁家貧︑財賂不足以自贖︒交遊莫救︑左右親近不為壱言︒身非木石

独与法吏為伍︑深幽囹圄之中︑誰可告愬者︒此正少卿所親見︑僕行事豈不然邪︒李陵既生降︑隤其家声︑而僕又茸

以蚕室︑重為天下観笑︒悲夫︒悲夫︒︵家は貧しく ざい は以て自ら贖 あがなふに足らず︑交遊の救ふ莫く︑左右親近も 壱の言をも為さず︒身は木石に非ざるに︑独り法吏と伍を為し︑深く囹 れい ぎよの中に幽せられ︑誰にか告 こく すべき︒此 れ正に少卿の親しく見る所にして︑僕の行 こう は豈に然らずや︒李陵は既に生きて降り︑其の家声を隤 とし︑而して 僕も又蚕 さん しつを以て茸 ぎ︑重ねて天下の観 かんしよう笑と為る︒悲しきかな︒悲しきかな︒︶﹂と述べている︒文中の﹁此正少卿

所親見﹂というのは︑任少卿が戻太子の事件に連座して死刑の執行を待つ身であることを受けての記述であるか

ら︑司馬遷も同様に死刑を受けたと解釈することができる︒つまり︑司馬遷は︑最初︑死刑を受けたが︑死刑を減

じてもらう金がなかったので︑死刑を宮刑に換えてもらって生き延びたという解釈が出てくるのである︒中島敦は

如上のことを知った上で︑あえて︑そのような解釈をしなかった︑あるいは︑そう解釈していたが︑小説上ではあ

えて最初から宮刑となったと読めるように書いた︑とも考えられるが︑実はそうとも言い切れない︒たとえば︑竹

内好らとともに東京帝大の﹁中国文学研究会﹂を結成した武田泰淳は︑昭和十八年に﹃司馬遷﹄︵東洋思想叢書

日本評論社︶を著しているが︑武田も中島同様︑司馬遷は最初から宮刑を受けたと考えているからである︒もし

死刑を宮刑に換えてもらって生き延びたと考えているなら︑﹁司馬遷は生き恥さらした男﹂と書く武田がそのこと

に触れないはずはない︒また︑管見の限りでは︑戦前のもので︑司馬遷が最初に受けたのは死刑だったとする解釈

(14)

一五〇

をしている書はない︒とすれば︑戦前は︑司馬遷は最初から宮刑を受けたというのが一般的な理解であり︑中島も

それに従っていたと考えるのが妥当だろう︒

*遷と李陵との親しい関係⁝﹁報任少卿書﹂には﹁夫僕与李陵倶居門下︑素非相善也︒趣舎異路︒未嘗銜盃酒︒接慇

懃之余歓︒︵夫れ僕と李陵は倶に門下に居るも もと︑相善きに非ざるなり︒趣舎路を異にす︒未だ嘗て盃酒を銜 ふく

で︑慇懃の余歓に接せず︒︶﹂とあり︑司馬遷本人は︑李陵とそれほど親密な関係でなかったと述べている︒中島敦

は︑﹁全軀保妻子の臣﹂の捏造が窺えるように変更したのだろう︒ちなみに︑﹁僕与李陵倶居門下﹂とは︑李陵が侍

中建章監となり︑司馬遷が郎中となったことを指している︒

*たかゞ星暦卜祝を司る〜一同の一致した意見である︒⁝﹁たかゞ星暦卜祝を司るに過ぎぬ太史令﹂は︑﹁報任少卿

書﹂の﹁僕之先人非有剖符丹書之功︒文史星暦近乎卜祝之間︒固主上所戯弄︑倡優畜之︑流俗之所軽也︒︵僕の先

は剖符丹書の功有るに非らず︒文史星暦は︑卜祝の間に近く︑固より主上の戯弄し︑倡 しようゆう優之を畜 やしなふ所︑流俗の軽

んずる所なり︒︶﹂によった記述︒司馬遷は︑太史令は君主の慰み者︑道化役として︑軽く見られていたと述べてい

る︒﹁余りにも不遜な態度だといふのが一同の一致した意見である︒﹂は︑中島敦による︒

*をかしな事に︑李陵の家族よりも司馬遷の方が先に罪せられることになつた︒⁝﹁向ふ見ずな其の男﹂の注で︑司

馬遷が腐刑を下されたという記述が﹁李陵伝﹂にあることを述べたが︑その部分に続いて︑武帝が李陵に気の毒な

ことをしたと後悔したこと李陵が匈奴に寝返ったと聞いて陵の家族を殺したという記述が出てくる︒﹁陵在匈奴

歳余︒上遣因将軍公孫敖︑将兵深入匈奴迎陵︒敖軍無功還︑曰捕得生口言李陵教単于為兵︑以備漢軍︒故臣無所

上聞於是族陵家母弟妻子皆伏誅︒︵匈奴に在ること歳余︒上︑因 いん 将軍公孫敖を遣はし兵を将ゐ深く匈奴 に入り陵を迎はしむ︒敖の軍は功無く還り曰く︑﹁ せい こうを捕へ得たり︒李陵︑単于に兵を為すを教へ以て漢軍

に備ふ︒故に臣は得る所無し﹂と︒上︑聞す︒是に於て陵の家を族し︑母弟妻子皆誅に伏す︒︶﹂これによれば︑李

陵の家族が罪せられたのは︑天漢四年のことと推定される︒

(15)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一五一 支那で昔から行はれた肉刑の主なものとして︑黥 げい︵いれずみ︶︑劓 ︵はなきる︶ ︵あしきる︶︑宮の四つがある︒

武帝の祖父・文帝の時︑此の四つの中三つ迄は廃せられたが︑宮刑のみは其の儘残された︒宮刑とは勿論︑男を男で

なくする奇怪な刑罰である︒之を一に腐刑ともいふのは︑その創が腐臭を放つが故だともいひ︑或ひは︑腐木の実を

生ぜざるが如き男と成り果てるからだともいふ︒此の刑を受けた者を閹人と称し︑宮廷の宦官の大部分が之であつた

ことは言ふ迄も無い︒人もあらうに司馬遷が此の刑に遭つたのである︒しかし︑後代の我々が史記の作者として知つ

てゐる司馬遷は大きな名前だが︑当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏に過ぎない︒頭脳の明晰なことは確かとし

ても其の頭脳に自信をもち過ぎた・人づき合ひの悪い男︑議論に於て決して他 に負けない男︑たか〴〵強情我慢の

偏屈人としてしか知られてゐなかつた︒彼が腐刑に遭つたからとて別に驚く者は無い︒

*支那で昔から〜宮の四つがある︒⁝﹃書経﹄﹁呂刑﹂︵周の穆 ぼく おうの時代の刑書︶には︑五刑として墨 ぼく へき︑劓 へき

へき︑宮 きゆうへき辟の肉刑四刑と大 たい へき︵死刑︶が記されている︒﹃史記﹄﹁周本紀﹂にも同様の記述がある︒

*武帝の祖父・文帝の時︑〜其の儘残された︒⁝文帝は︑第五代皇帝孝文帝︵前二〇三〜前一五七︶︒在位︑前一八〇

〜前一五七︒法制度の改革では︑刑法を改正して肉刑︵宮刑は除く︶を廃止し︑庶民を思い田畑への税金を軽くす

るなど減税を実施した︒質素倹約に努めて衣服や車馬等を新しくせず︑宮殿等建築費用も多くかかるものは中止

︑自らの陵墓を小規模なものとした︒母親に対しても大変な親孝行で品行方正であり︑﹃漢書﹄﹁文帝紀﹂では

﹁仁の皇帝﹂と賛美されている︒同じく善政を行った次の景帝と合わせて﹁文景の治﹂と呼ばれている︒﹁此の四つ

の中三つ迄は廃せられたが︑宮刑のみは其の儘残された﹂は︑﹃史記﹄﹁孝文本紀﹂の︑文帝の十三年︵前一六七︶

に︑文帝が﹁肉刑三﹂を廃止させたという記事に付された注釈﹁文帝除肉刑而宮不易︵文帝肉刑を除くも宮は易へ

ず︶﹂による︒

*之を一に腐刑ともいふのは成り果てるからだともいふ︒⁝﹃漢書﹄﹁景帝紀﹂記載の中元四年︵前一四六︶の

﹁秋︑赦徒作陽陵者死罪欲腐者許之︵秋︑徒の陽陵を作る者の死罪を赦し︑腐せんと欲する者之を許す︒︶﹂に付

(16)

一五二

されている︑腐刑についての代表的な解釈の注﹁蘇林曰︑宮刑︑其創腐臭︑故曰腐也︒︵蘇林曰く︑﹁宮刑︑其の

きず︑腐臭す︑故に腐と曰ふなり︒︶﹂と﹁如淳曰︑腐︑宮刑也︑丈夫割勢︑不能復生子︑如腐木不生実︒︵如淳曰く︑

﹁腐は宮刑なり︑丈夫︑勢を割 きて︑復た子を生ずる能はざること︑腐木の実を生ぜざるが如し︒︶﹂による︒

*此の刑を受けた者を〜言ふ迄も無い︒⁝﹁閹 えん じん﹂は︑宮刑に処せられた男をいう︒閹奴︑寺 じんともいう︒閹人・寺 人という語は︑周の時代の制度を記した﹃周 しゆうらい礼﹄にあり︑宮殿の守護︑女官の監督に使役されたという︒﹁宦官﹂

は︑去勢された男で︑宮廷で使役させられた者をいう︒宮刑に処された者たちは︑ほぼ全員宦官として宮廷で働ら

かされた︒

*史記⁝漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書︒正史の第一に数えられる︒二十四史のひとつで︑総字

数五十二万六千五百字に及ぶ古代中国最大の歴史書︒司馬遷自身が名付けた書名は﹃太史公書﹄であるが︑後世に

﹃史記﹄と呼ばれるようになった︒﹁本紀﹂十二巻︑﹁表﹂十巻︑﹁書﹂八巻︑﹁世家﹂三十巻︑﹁列伝﹂七十巻︑全百

三十巻から成り︑伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までの二千数百年にわたる紀伝体の歴史書である︒

司馬氏は元周の史官であつた︒後︑晋に入り︑秦に仕へ︑漢の代となつてから四代目の司馬談が武帝に仕へて建元

年間に太史令を勤めた︒この談が遷の父である︒専門たる律・暦・易の他に道家の教に精しく又博く儒︑墨︑法

名︑諸家の説にも通じてゐたが︑それらを一家の見を以て綜べて自己のものとしてゐた︒己の頭脳や精神力について

の自矜の強さはそつくり其の儘息子の遷に受嗣がれた所のものである︒彼が︑息子に施した最大の教育は︑諸学の伝

授を終へて後に︑海内の大旅行をさせたことであつた︒当時としては変つた教育法であつたが︑之が後年の歴史家司

馬遷に資する所の頗る大であつたことは︑言ふ迄もない︒

*司馬氏は元周の史官〜建元年間に太史令を勤めた︒⁝﹁司馬遷伝﹂︑﹁太史公自序﹂の冒頭に記されている司馬氏の

家系を中島敦は司馬談までを簡略にまとめている︒

(17)

﹃李陵・司馬遷﹄注解︵二︶︵山下・村田︶一五三 *漢の代となつてから四代目の司馬談⁝初代が昌︑二代目が毋 えき︵﹃史記﹄では無澤︶︑三代目が喜︑四代目が談︒以

下の司馬談についての記述は︑﹁司馬遷伝﹂︑﹁太史公自序﹂によっている︒司馬談︵?〜元封元年︿前一一〇﹀

は︑武帝即位の建元元年︵前一四〇︶から元封元年に死を迎えるまで三十年余の間︑太史令の職にあった︒

*建元年間⁝紀元前一四〇〜前一三五年︒﹁太史公自序﹂には﹁太史公仕於建元元封之間︵太史公︑建元元封の間に

仕ふ︒︶﹂と記されている︒

*専門たる律・暦・易の他に〜自己のものとしてゐた︒⁝﹁太史公自序﹂に記されている司馬談の思想と事績を中島

敦は簡略にまとめている︒﹁専門たる律・暦・易の他に道家の教に精しく﹂は︑﹁太史公学天官於唐都︑受易於楊

︑習道論於黄子︒︵太史公︵司馬談︶は天官を唐 とう に学び︑易を楊 よう に受け︑道論を黄 こう に習ふ︒︶﹂をもとにし

た記述︒﹁天官﹂は星や雲気︵空の有様︶を観測し︑暦を研究する学問のこと︒﹁天官﹂を︑中島敦は﹁律暦﹂と一

旦記し︑﹃史記﹄の八書に﹁律書﹂︑﹁暦書﹂があることからか︑﹁律﹂﹁暦﹂の間に中点を入れている︒また︑﹁

諸家の説にも通じてゐたが︑それらを一家の見を以て綜べて自己のものとしてゐた﹂は︑﹁論六家之

要旨曰⁝︵六家の要指を論じて曰く⁝︶﹂以下に引用されている談の論評を踏まえたもの︒談は︑当時の学問を陰

陽家︑儒家︑墨家︑名家︑法家︑道家の六派に分類し︑各派の長短について指摘し︑本質をついた論評をしてい

る︒*己の頭脳や精神力〜受嗣がれた所のものである︒⁝前注の談の六家の論評から︑中島敦は﹁己の頭脳や精神力につ

いての自矜の強さ﹂を読み取ったと推測される︒

*諸学の伝授を終へて後に︑海内の大旅行をさせたことであつた︒⁝﹁太史公自序﹂の﹁遷生龍門︑耕牧河山之陽

年十歳則誦古文︒二十而南游江・淮︑上会稽︑探禹穴︑窺九疑︑浮沅湘︒北渉汶泗︑講業斉魯之都︑観夫子遺風

郷射鄒厄困蕃・薛・彭城︑過梁楚以帰︒︵遷は龍門に生まれ︑河山の陽に耕牧す︒年十歳にして則ち古文を誦む︒

二十にして南は江・淮 わいに游び︑会稽に上り︑禹 けつを探り︑九 きゅうぎ疑を窺ひ︑沅 げん・湘 しょうに浮かぶ︒北は汶 ぶん・泗 を渉り︑業を 斉魯の都に講し︑夫子の遺風を観る︒鄒 すう えきに郷 きょうしゃ射して蕃 ・薛 せつ・彭 ほうじょう城に厄 やく こんし︑梁楚を過ぎ以て帰る︒︶﹂をもとにし

参照

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