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独立採算制批判序説(一)

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(1)

独立採算制批判序説(一)

その他のタイトル A Critical Study to the Financial Self‑Support in Public Enterprise (I)

著者 寺尾 晃洋

雑誌名 關西大學商學論集

巻 6

号 1

ページ 1‑23

発行年 1961‑04‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/00021698

(2)

独 立 採 算 制 批 判 序

最近いくつかの公企業で︑運賃や料金の値上問題が重大化している︒こうした現象の基礎にある公企業の一般的

﹁公企業とは何か﹂という問は一見自明のようで従来必ずしも一定した解答があるわけではない︒しかしな

﹁公﹂という概念の理解に﹁企業﹂という概念の理解を加えることによってつくりあげられたのであるが︑それら

独立採算制批判序説H

一︑公企業の本質把握について

(3)

からは当然の順序として次の第二の型が現われる︒ 独立採算制批判序説H

第一の型︒かつて中西寅雄教授は企業とは価値増殖の契機であるという立場︵営利説︶に立って︑

れる資本体﹄とみるときには︑ ﹁企業の意味を厳密に解して︑

会に於ける﹃公企業﹄なるものは︑利潤獲得を直接の目的としないものと解する限り︑それは厳密な意味における② 企業ではない﹂とのべておられる︒同じく営利説に立って福田徳三氏は公企業を営利企業たる公営事業に限ってお③ られる︒またこの種の見解と関連して国弘員人教授は︑﹃増殖を目的として運営さ

いわゆる﹃公企業﹄の多くは︑この企業の性格を有していない︒

には︑企業とみうるものがあるとしても︑その数はきわめて少ない︒したがってここでは︑公企業という言葉をさけて︑公有公営事業ないし公営事業という言葉を使用する﹂というように︑実際上問題を回避しておられる︒そし

て﹁公営事業は︑国家または公共団体が所有経営︵少なくとも支配︶する事業であって︑するものである﹂と規定される︒しかしこのような概念規定は全くの外形的理解にすぎず︑公企業の機能と結びつ ﹃公共﹄の利益を目的と

いた本質把握を示す規定とは言い難い︒こうして第一の型に属すべき諸氏とも︑資本制生産と公企業との内的関連

の正しい把握を欠除しているので︑切角の正しい企業概念の把握にもかかわらず︑その企業概念の適用にあたり︑

公企業の特殊性を理解できず論理的矛盾におちいり︑結局概念規定それ自体失敗に終っているのである︒そしてそ

の外形的理解のために単純な公共性の主張以上にでることができないのである︒しかも国弘教授は前記の定義をな

すにあたって﹁ここでいう事業とは︑生産体︵いわゆる経営︶であり︑財貨または用役を生産︵広義の生産︶する組織体である﹂と規定されている︒公企業において企業範疇が否認されるとき︑これに代って企業の技術的基礎で

あり労働過程の契機たる経営範疇が登場するのである︒このような公企業を﹁経営﹂として技術的に把握する仕方

﹃公企業﹄のなか

(4)

独立採算制批判序説H

第二の型︒竹中龍雄教授は﹁公企業は経済的事業であるが︑それは単純なる経済的事業ではなく︑交換経済上に

於ける独立の一単位を構成している︒換言すれば︑公企業は生産物若くはサーヴィスの生産をなすものであり︑交換経済に参与する経済的独立体である﹂と規定し︑交換経済なる契機と独立体なる契機を強調されている︒この交

換経済なる契機は公企業として国家が機能する場を示す基本的な指摘である︒しかし後者の独立体なる契機はかな

りの理論的振幅をもって解釈できる要素をもっている︒権力行政のような一方交通ではなく︑ある程度の対価の支

払を前提として経営されている政府活動について独立体なる用語を使う場合がある︒このような政府活動の管理に

任ずる者は︑形式上官庁会計の方式がとられ支出と収入が別建てになっていても︑この二つを程度の差はあれ関連

させつつ経営しうる立場にある︒

﹁独立体﹂なる概念はこのようにもとれる︒したがって所有と経

営の分離という尺度はまだここにはおかれていないようにも思える︒しかしこの﹁独立体﹂なる概念はリーガーの

﹁私経済学﹂から脱皮した近代経営学の発展を背景として形成されてきた概念であり︑結局﹁経営自主体﹂までゆ

く内容をもっている︒少しくこの点をふりかえってみると︑近代経営学の発展はとくに事業体の主体の性格をめぐ

ってなしとげられた︒つまり﹁私経済学﹂にあっては︑企業という際の中心は個人的資本家であって︑いまだ企業

体なる観念は形成されてはおらなかった︒しかるに近代経営学においては︑企業の活動内容が生産経済体であるこ

との認識が生じ︑同時に主体についても個人的性格が否定され︑企業自身の独立性を重視すると共に︑独立的な収

益計算の組織として企業それ自体の概念が主張されるに至ったのである︒この独立性の考え方がさらに進展すると︑

経営自主体の概念に到達する訳である︒かかる次元で公企業の概念規定を行わんとしたものは山城章教授のそれで⑧ あると思う︒教授においては﹁公企業は官公営事業の企業化形態であり﹂︑﹁官公営事業が主眼とする行政形態や行

(5)

 

かくの如くこの二つの型とも公企業の本質的規定を与えるには十分とはいいがたい︒ところがこれらの二つの型

l l   にたいして理論的に特異な位置を占めるものに占部都美助教授の見解がある︒氏によると︑公企業はその中立国家

﹁非資本主義的企業﹂であって︑私企業における労働過程︵経営︶と所有過程︵企業︶の矛盾︑すな

体化されるといってよかろう︒ 論によれば︑公企業が独立体に限定されることによって︑自主化

1 1 独立採算制が生まれながらにして正当化され絶

的外形的特徴をとらえている場合でも︑

独立採算制批判序説

H

︐ 

政原理に対し︑企業的運営原理と企業運営形態をとりいれたものが公企業である︺︒

﹁企業化﹂とは﹁行政と経営の分離﹂を意味しているのである︒しかしこの基底にあるものは︑独占の成立を背景 とした歴史的範疇としての所有と経営の分離の事実である︒したがって教授の公企業の概念規定は歴史的範疇たる 経営の独立性を観念的固定的範疇として企業概念判定のメルクマールにすえるものであって︑このような把握では 公企業の歴史的諸形態を理論的にはくみつくすことが出来がたいのではなかろうか︒教授は︑たとえば以前の郵便

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事業にみられるような財政と結びついた旧い官庁企業を公企業からはずしておられる

0 1 国営事業の史的発展のある 時点から後の局面を観念的に構成された﹁企業﹂概念に合致するからといってとりあげ︑公企業と呼称するという 態度ではなしに︑同一の実体が歴史的に変転する姿態を統一的に把握することができる如き概念把握でなければな らぬ︒前者の如き態度と立場では︑公企業の﹁公﹂と﹁企業﹂の概念が有機的につかまれているとはいえない︒独 立体を公企業と称するのでなく︑公企業の概念把握の中から独立化の事実を説明できなくてほならない︒したがっ てこのような﹁経済﹂の超歴史的技術的範疇としての把握の上に立った公企業の概念規定は︑ある程度正確に経験

一面的であって本質的側面を明らかにしているとはいいがたい︒かかる理

このように教授においては

(6)

Aわち適正対価主義原価経営>が公共需要の充足や経済計画性といっ ⑳  る。ここでは私企業に特有の収取性の原理は公企業を特色づける「社会化の原輿〗によっておきかえられる。すな 夫他の犠牲において給付なくして対価をえようとすることを意味している︶との矛盾を止揚するものとして現われ わちこれらの過程に対応する能率の原理と収取性の原理︵出資者︑労働者︑消費者︑経営者などの企業参与者が夫

( p r i n c i p l e o f   r e a s o n a b l e   v a l u e )  

た派生的機能をともなって公企業のメルクマールとされる︒こうしてA原価経営>の経営原則が︑公企業を他の公

経営︑たとえば公営造物︑公有の営利事業や専売事業から区別する判定基準となるのである︒また氏は造幣局の如

き国家や公共団体の自己需要を充足するための事業︑いわゆる﹁自己生産﹂を公企業から除外しておられる︒

さて以上において経営原則のちがいから︑氏が公企業を規定しておられると果して断定してよいものだろうか︒

念のため一応検討しておこう︒氏自身︑上田貞次郎氏が公経営を不足経営︑実費経営︑収益経営に分け︑後二者を

公企業とされたのを批評して︑﹁収益の不足あるいは収益性の有無によって公経営類型を分類する方法は︑

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限定された妥当性しかもたないものである﹂と論じて︑氏自身経営原則に判定甚準を置いていないように自己解釈

しておられるようである︒ここに食い違いがある︒この言葉の背後には公企業一般の非営利的性質を適正対価主義

という概念において理解しておられるような印象をうける︒しかしまた専売などの収益主義経営に対して公企業を

区別する基準として︑この概念を使用されている仕方をみると︑上田氏に対すると同様なことが逆に占部氏自身に

ついてもいえるようにも思える︒氏は同じ箇所において﹁専売事業および営利企業が︑独占的あるいは競争的地位

において最大の収益の獲得を目的とするに対して︑固有の公企業が適正対価主義によることは︑重要な相異をなす

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ものである﹂とのべておられるが︑最大の収益の獲得を目的とするならば私企業と全く同じである︒しかし専売事

独立採算制批判序説H

(7)

く︑持続的な経営原則で分類しておられるのである︒

独立採算制批判序説

H

業や営利事業の場合でも最終目的は財政にたいする寄与ということを通じての﹁公共性﹂にある︒ただ氏のいう公

企業の場合が直接的であるに対しこの場合は間接的というにすぎず︑

ーただこの﹁公共性﹂が何を意味するかは問題であるが︑後に検討するまで一応﹁公共性﹂ということにしてお

く︒ところで一口に目的といっても︑二次的な目的と最終的な目的との相異があることに留意すべきである︒最終

的な目的に対し二次的な目的は手段的な意味をもっている︒氏が先程の引用の中で﹁目的﹂といっておられるのほ

経営原則︵収益の有無︶のことであって︑これは﹁公共性﹂という共通の最終目的にたいして手段として追求さる

べき二次的な目的にすぎない︒最終目的たる公共性の達成ということに対しては︑経営原則の相異は結局は直接達

成するか︑財政を通じて間接かという問題だけである︒これでは目的といっておられても︑氏の理論的根拠ほ上田

氏の場合と甚本的な相異はないといわねばならぬ︒上田氏の場合も決して日々の経営政策をいっておられるのでな

では何故氏が一方で経営原則を基準にすることが適当でないと言われ︑他方で﹁適正対価主義﹂なる概念を現実

の経営原則を指すように使われているのだろうか︒ここに︑氏が適正対価主義といわれる場合︑本質的に利潤を手

におさめることを目的としないということと具体的に利潤をあげていないということとを区別しておられぬことが

現われているように思う︒適正対価主義と言われる場合︑それを﹁利潤を自己目的としない資本﹂と言われるなら

はっきりするところを︑現実の経営政策としての非収益的経営方針と混同されているのである︒本質上利潤を手に

おさめることを目的としない資本︵国家資本︶であって︑現実にも利潤をあげていないという場合もあれば︑本質

﹁公共性﹂に抵触せずに現実に利潤をあげているという場合も可能である︒思うに本来公企業に収取

﹁公共性﹂が究極目的である点は共通である︒

(8)

くのでなくて︑公企業の概念は国家資本を通じて﹁適正対価主義﹂ う観念的な前提から出発して︑

性の原理を如何なる仕方においても認めまいとする観念的な国家観に問題があるのである︒公企業にも資本主義的

搾取関係は厳存するが︑

ただ通常の公企業の場合公企業自体が剰余価値を占有しないだけである︒しかしこの潜在 的な剰余価値をある種の場合利潤として顕在化して占有しても﹁公共性﹂に触れぬ場合がありうるのである︒例え ば専売事業や収益事業では相当の利潤が現実に存在するが︑これは私的資本であれば原則的にいうと当然配当され るはずのものである︒利潤を目的としない資本︵国家資本︶だから国庫納付ということがあり得るのである︒また 前掲﹁自己生産﹂をとっても︑これは実費であげることを主な目的にしているが︑利潤目的の私的資本ではこれは 不可能であり︑利潤を目的としない資本をまってはじめて可能となるのである︒また公営造物が公企業でないのは︑

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それが﹁手数料主義﹂をとるという点に第一義的な理由があるのではなく︑それが社会的再生産のなかに位置づけ られてはいないということ︑すなわち資本の性格をもたないというところにある︒思うに矛盾の止揚

1 1公企業とい

独立採算制批判序説H

﹁適正対価主義﹂なる経営原則つまり非収益経営から︑公企業か否かを判別するの は論理の方向が転倒している︒﹁適正対価主義﹂すなわち現実に儲けをあげない経営をするということが︑

経営政策でなく︑経営の一般原則となるためには︑これ以前に私企業ではやれぬということが前提となっているの であり︑利潤を目的にしない国家資本にしてはじめて可能であるということが歴史的・論理的に先行していると思 う︒このことは前述のごとく専売事業などについてもいえる︒それ故に公企業の概念ほ適正対価主義に直接結びつ

︵非収益経営︶とも︑また収益主義とも結びつ くべき論理構造をもっといえる︒もし経営原則を﹁適正対価主義﹂に置くもののみを公企業とすると︑特殊会社形

態を如何に説明するつもりだろうか︒後述の如く法律形態はともかく経済的には当然公企業範疇に入るべき理由を

(9)

格をもっと言ってよい︒ 独立採算制批判序説H

つぎにこの点について考えてみたい︒ もっている︒しかしながら経営原則は決して﹁適正対価主義﹂でなく︑通常の配当率を保障する収益経営であることは明らかである︒このように論理の組立が転倒しているのみならず︑実際的にもかかる考え方は︑公企業における﹁社会化の原理﹂の支配ということで内部の搾取関係を美化し︑内容的に幅をもった概念である﹁適正対価主義﹂の原則の名において﹁経営の自主化﹂

1 1 独立採算制のあらゆる実質的内容を客観化し是認するに至らしめるという

意味で︑批判されるぺきであろう︒

この点と関連してー氏は公企業の組織原理を﹁能率の原理﹂と前掲﹁社会化の原理﹂の二面からとらえ︑この

H u

二つの結合点を経営の自主化に見出しておられる︒したがって氏は自主化を公企業の概念規定の場合︑概念内容に

含ませてはおられないが︑しかし論理の延長線上にそれを位置させておられるので︑効果としては概念規定に含ま

せた場合と同じことになっている︒かくて﹁経営の自主化﹂

1 1 独立性︵←独立採算制︶は︑論理的な必然としてこ

こにおいても是認され絶体化されているといえるのである︒このように氏の論理の展開をたどってゆくと︑前記の

第一の型に示された認識をもっとはいえ︑基本的には︑第二の型の性格︑つまり自主化

1 1 独立採算制至上主義的性

以上諸氏の見解の批判的検討を通じて問題点を明らかにしてきたが︑従来のこれらの概念規定が大部分の場合必

ずしも公企業をその本質的機能から把握するものではなかったと言える︒制度学派の立場から意欲的な接近を試み

られた占部助教授の理論も︑その体系的把握にもかかわらず︑成功したとは考えられない︒そこでこれらの諸見解

の検討を基礎にして︑積極的に公企業をどう把握すればよいか︑

二七ページ参照︒

(10)

U2l  Ull  UO)  (9)  (8)  (7)  (6)  (5)  (4)  (3)  (2) 

中西寅雄著︑経営経済学︑七四ページ

国弘員人著︑企業形態論︵全訂新版︶︑二

0 1

国弘︑上掲書︑二0

国弘︑上掲書︑二0四ページ

竹中龍雄著︑国営企業論︵増補︶︑一00

山城︑上掲書︑五七ページ

山城︑上掲書︑五ニページ

占部都美著︑公経営管理︑第一章ー第六章参照︒

社会化

( s o c

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o n )

とは︑氏によると︑﹁1︑生産手段に対する私的資本支配の排除︑2︑労働者︑消費者︑経営者によ

3︑経済計画的機能﹂を意味する︒しかも︑第一の点については︑﹁先ず公企業が生産手段の公的所

有に基づくかぎり︑その当然の機能として生産手段に対する私的資本の支配は排除されるものと一応規定することができる﹂

と評価されている︒第三の経済計画的機能については︑﹁必ずしも資本主義市場を排除するものではなく︑むしろそれの存

在を前提として市場法則ないし資本収益性の限界を超えるところ﹂に存在するとみておられる︒最も重視されるのは第二の

点で︑﹁それは︵社会化ー引用者︶︑生産手段にたいする労働者︑消費者の管理的要請を充足する意味での社会化であり︑い

ゎば﹃経営の社会化﹄を意味している︒経営の社会化とは・:・・・公企業管理における経営者︑消費者︑労働者の共同関係を樹

立することを目的としている︒企業各参加者の共同関係は︑公企業の本質概念から要請されるところのものである︒この意

味の公企業の社会化要素は︑その組織形態の選択にあたって︑能率とともに︱つの基本原理をなしている﹂とのべられてい

る︵占部︑上掲書︑九一ー九ニページ︶︒このように社会化は公企業を規制する原理の一つにかぞえられているが︑他の一

つである能率の原理はすべての経営に共通するものであるから︑公企業に固有な原理は社会化の原理ということになる︒し

かしこの場合﹁社会化﹂という言葉で表現した事態の把握の仕方が恣意的︑非現実的ではないだろうか︒なるほど労働運動

のなかに社会化の要求は存在するが︑現在の階級間の力関係の中では︑決して公企業の主導的原理とはなりえなく︑公企業

独立採算制批判序説H

(11)

資本として剰余価値を生産し︑あるいは商業資本︑貸付資本として剰余価値の配分にあずかるものが含まれる︒公 企業の場合においても同様なことがいえる︒すなわち資本としての性質をもちつつ︑換言すれば搾取関係は温存さ

れつつ︑自己増殖を盲目的に追求しないという点の把握が︑公企業の本質的理解のため基本的に重要である︒

ることが︑その機能を果たす条件になっている企業を公企業というのである︒通常企業という場合︑

基本的には産業

つの現象形態である︒

﹁公共性﹂を追求することにその本領がある︒

﹁国家資本﹂とは︑ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑利潤を直接の目的としない資本であり︑かかる資本が大なり︑

小なり入

US)  U'()  (16)  U5)  U4)  u3) 

独立採算制批判序説H

より厳密にいえば︑

公企業は

﹁国家資本﹂の のいくつかの側面の単に︱つの側面を示すにすぎない︒これに代るぺき現実的な公企業の原理︑すなわち﹁公共性﹂につい

適正対価主義とは︑氏によれば︑企業総収益を経営給付で割った商が一00彩につねになるよう公企業の価格料金を決めることである︒これは﹁消費者と企業との共同関係の基礎﹂である︒またこの適正対価主義は︑労働給付︑資本給付︑経営手

段給付にたいしてもいえて︑労働者その他の企業各参加者の共同関係の基礎を形成するとされる︒この場合適正対価は︑能率的経営の下に生じた原価を適正な方法基準によって計算した原価すなわち適正原価を基礎にして決定されるのであり︑公企業では必要な建設改良積立金︑恩給退職積立金︑設備近代化積立金などの適正額を算定し︑それを適正対価の決定におい

てコスト化することができると説明せられている︒ここからみると明らかに経営原則の一っとして考えておられることがわ

かる︵占部︑上掲書六七ー七0ページ参照︶︒しかし後にも触れるように必ずしもまた経営原則とも割切っておられないふ

しもある︵上掲書︑三ニページの上田氏への批判︶︒この辺の明瞭化が氏の場合問題になる点である︒

1三ページ占部︑上掲書︑三ニページ占部︑上掲書︑二四ページ株式会社における公私混合出資をわが国では特殊会社と称する︒後述のところを参照︒占部︑上掲書︑九四ー九五ページ参照︒

10  

(12)

償うに足らないため﹂といっている点がそれである︒マルクスも﹁資本制的生産が未発展な段階では︑長い労働期

公企業の生産過程においても労働過程と価値増殖過程の二面がある︒この場合これらが私企業とくらべどのよう

な特異性をもっているかという点︑この二つをどのように統一的に把握するかといった点が重要である︒アダム・

スミスは次のごとく言っている︒国防・司法と並んで﹁元首又は国家の第三にして最後の任務ほ︑公共施設

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又は土木工事

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の利澗が個人又は少数の個人に対してその経費を償うに足らないため︑個人又は少数の個人がそれを作り又は維持するとほ考えることのできないものを︑作り且つ維持することである﹂と︒そしてこのような公共施設また土木工︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑事として具体的にほ﹁商業の利便を一般的に増すために必要な﹂

湾﹂︑﹁造幣﹂施設︑﹁郵便局﹂︑未開国との貿易のごとき特殊な商業部門のための施設など︑さらに青少年教育およ⑳ び成人︵宗教︶教育の施設などといった限られた特殊なものではあるが︑使用価値として共通な性質をもつものを

つまり全資本にとって関係があり︑私的資本でこれが占められると利潤生産が︵私的所有が︶生産の 社会的性質とするどく対立するごとき使用価値生産が意識せられている︒﹁商業の利便を一般的に増すために必要

な﹂という語がこれを語っている︒しかしこの場合そうした使用価値的特性が価値形成の側面と結びついて論じら

れている点に注意しなければならない︒前出の引用で﹁その性質上利潤が個人又は少数の個人に対してその経費を

間・したがって長時間にわたる大きな資本投下・を必要とする企業は︑殊にそれが大規模でのみ遂行されうる場合

には︑資本制的にはまったく経営されないことがある﹂とのべ︑﹁たとえば︑共同体または国家の費用で︵昔は︑

n3 労働力を問題とするかぎり大抵は強制労働によって︶営まれる道路や運河など﹂と例示している︒こうした引用に

独立採算制批判序説H

﹁ 港

一大社会にとっては大いに有用ではあるが︑その性質上そ

(13)

きめられる場合︶︑不足経営︵費用価格を多少下回って価格がきめられる場合︶という概念をもち出すと不正確にな

る゜ーところで平均利潤があげられぬと言っても︑具体的にはマルクスの先の引用で示されているごとく﹁長時

間にわたる大きな資本投下を必要とする企業﹂すなわち資本の有機的構成の高い企業の場合と﹁それが大規模での

み遂行されうる場合﹂すなわち資本の調達が私企業の手で困難な場合との二つの場合がある︒この後の場合は株式

会社の形成と似た意味をもつのであるが︑蓄積の進行と共に解決される問題である︒したがって払下の問題が最も

容易におこりうる︒前者は︑資本の移動が困難で︑余りに価格が高くなるので有効需要が伴わず︑このため私企業

の利潤生産にのらない事業であって大体伝統的な国営部門に多くみられる︒これらに対して特殊なものは財政専売

事業である︒これは乎均利潤以上の独占利潤を﹁公共性﹂の見地から設定するもので例外であるが︑その性格にお

いて大衆消費︑それも代替性にとぽしい使用価値を有するそれにのっているので︑後にのべる公共企業体の収取機 営︵価格が費用価格まで引下げられる場合︶︑ 独立採算制批判序説H

示されているように国家の活動はある種の特定の使用価値生産に限定されているとはいえ︑私企業が単に使用価値

視点から避けるということはありえないので︑ここに価値形成︑価値増殖過程の特殊性が結びついてこなければな

らない︒すなわち一定の技術的条件を前提にして私企業では採算があわない︑

家がひきうけるということであるから︑国家資本の価値増殖過程は少なくとも原則的に平均利澗の大きさもない剰

余価値の生産ということを特徴とするものでなければならぬ︒しかしこの場合搾取関係はあっても労働の生産性が

低いため単なる価値形成におわっていることもありうる︒また投下資本の価値量を下回る価値生産しか現実にない

場合すらある︒ー価値形成の水準と価格形成の水準とは論理段階が異なる︒したがってこの段階では原価補償経

余剰経営︵平均利潤以下ではあるが費用価格を多少上回って価格が つまり平均利潤があがらぬ事業を国

(14)

るべきであろう︒こうした側面を公企業がみたす限り︑これらの公企業は︑ さてこうした不採算部門をどうして引受けなければならないのか︒これは矢張使用価値の側面と価値の側面の両

︱つは私企業が手を下しえぬ使用価値生産を国家の手で現実化しえたという点である︒これに

よって国家は社会的再生産の円滑な運行と発展を確保するという役割を果したのである︒資本主義成立期の公企業

の場合こうした役割は大きい︒また独占資本主義の下においても︑現代国家による新技術の開発︑新産業の経営︑

また帝国主義諸国家の腐朽した諸生産部門の近代化のための国有化の側面︑これらはある程度同様な意味を担って

いる︒また他の一っはこうした部門を国家が引受けるということで結果的に社会的総資本の平均利潤率を高める作

用を果たし︑これを通じて資本蓄積の一般的条件を好転させるという点である︒マルクスが﹁株式会社の増加﹂を利潤率低下傾向に反対に作用する要因としてあげた趣旨はここにおいて最も適切にあてはまるといえる︒この二点に

公企業の生産力に対する進歩的な側面が存在し︑資本主義が私的所有の部分的否定たる公企業を容認した理由がよ

こたわる︒したがって公企業の発展とそのあり方はこれらの進歩的側面と関連させ対照させることによって評価さ

独立採算制批判序説H 面から把握できる︒

構の一面と似たものをもっている︒

生産力の発展に伴う生産関係

( l

(15)

独立採算制批判序説H

1 )

の再調整︑生産力と生産関係の矛盾の資本主義のわく内での﹁内部的止揚﹂

であって︑等しく生産力の発展を私的所有

1 1利潤生産の拘束から部分的に解放したという意味で進歩的意義を有し

ているといえる︒

そこで公企業の姿態転換の特徴をみてみよう︒それは一応次のかたちをとるといえる︒

G

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W

G

生産過程の特徴点についてはいまのべた︒そこで問題は流通過程にある︒まず

G│W

であるが︑これは性格的

つまり後に掲げるニンゲルスの言葉での﹁経済的進歩﹂を意味している︒しかしこれだけで割り

一般の特徴からのがれることはできない︒私企業では仕入管理はコスト切下のため重要な問題であ

ることは論をまたない︒しかし公企業ではこの点をむしろ軽視することが政府市場としての性格に合致している︒

合理化がいわれるようになっても物件費の節約はつねに後回しとされる︒ただ労働力については同様な性格からあ

る程度異った角度が入る︒すなわち総資本のための低価格要求とのこの面での矛盾の調整弁として労働コストの切

下が入ってくる︒公企業における合理化が公共性の限界内の問題である限り︑公企業の

G

W

での不合理性がむ

しろ合理性に外ならない︒さてつぎの問題点は

W

G

にある︒歴史的にみると公企業は採算上さまざまな水準を

たどって発展してきた︒形態的発展については後段において論ずるが︑.最初減価償却もあげえない生産力水準から︑

減価償却部分をあげうる状態に発展してきた︒そしてこの減価償却部分をふくみ価格が設定され︑この償却分は国

庫納付されていたと一般的にみられる︒事実上公企業の集積がすすんで剰余価値生産が可能となるにしたがい︑

価格はそれに応じ上昇し︑︵勿論平均利澗をあげえない水準ではあるが︶︑減価償却も行われるに至るのであるが︑ 切ってはしまえない問題を公企業は本来もっている︒

(16)

部的発展の様相である︒

こうしたある程度蓄積を行える段階に達しても︑この剰余価値分は内部に残されず︑それは国庫納付されていたの

期の公企業から独立採算制採用にいたる間の公企業︑ である︒これらを通じて拡大再生産のための投資はすべて財政から行われてきたのであり︑財政従属という点が初

いわゆる行政企業の特徴であって︑以上がこの行政企業の内

公企業内部で再

投資される︵拡張・改良費︶という現象もこの行政企業の場合でもある︒しかしこれを無視しても︑理論的にはさ

らに剰余価値生産の拡大がある場合︑これが全部国庫納付されているとは考えられない︒国庫納付はそれ自体大き

な意味をもつものではない︒むしろ利用者にたいして低価格で︵できるだけ︶商品・サービスを提供することが公

n3 企業の重要な役割である︒したがって理論的に考える限り︑剰余価値を全部国庫納付せず︑低価格要求をみたすべ

く利用者に低価格

1 1

﹁価値よりも低い価格﹂︵価値からの背離︶というかたちで譲渡される分が存在することが考

えうる︒したがってこれを計算に入れると単に乎均利潤もないという意味で低い生産物価値であるだけでなく︑こ

の価値よりももっと低い価格が実際の価格であるといった意味で二重の低価格ということがいえるように思われる︒

この譲渡分1公企業の剰余価値の一部あるいは全部すら︑ときには費用価格の一部をもひっさらって│ーは結局

終局の利用者たる総資本︵大衆的消費にむけられた公企業サービスでも結局労働力の価値を下げるという理由で間

接に総資本の利潤にたいしてプラスになる︶もしくは総独占ー独占資本主義の場合にはーーの利潤への追加分

︵特別利澗︶となる︒したがってこの価値部分はかれらの手で終局的には価値実現されることになる︒もちろんこ

の分量は必ずしも固定的に考えることを要しない︒利用資本の収益の増大がこの特別利潤の減少をカバーするに十

分なほど大きい場合︑かれらはある程度自らにたいする公企業価格の値上を許容し︑公企業における蓄積を推進さ

独立採算制批判序説H しかし実際ある場合には︑出た利益金が全部国庫納付されるのでなく︑

(17)

程に入りこみ︑結局G

47 6

独立採算制批判序説H

せることに利益を感ずるような場合も起りうる︒こうした程度の問題はあっても︑剰余価値のこの部分の価値実現

の仕方は公企業における資本の循環の特徴の︱つにふくまれるものであり︑とくに公企業の集積集中の発展と共に

大きな意味をもってくるものであり︑したがってこの特徴を明確に把握しておくことは問題の一層の展開の基礎と

なる︒公企業の循環の形態は︑価格をきめる水準によって︑従って歴史的にも若干の相異を呈するとはいえ︑上述

の国家資本の本質的機能を典型的に示すいわゆる原価補償経営の場合では次のような姿態をとる︒したがって国庫

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〔註〕有機的構応Cン<を6:4、剰余価値率一00~とする。公企業の投下資本を一00、社会的総資本のそれを一1100とし、

内 一 00

公企業は投下資本一00で︑生産手段六0︑労働力四0を購入し︑生産を行った結果商品一四0をえ︑この商品

を公企業は社会的総資本に一00なる価格で売るとする︒したがってここでは不等価交換が行われる︒この結果剰

余価値四0を担った生産物は社会的総資本に譲渡されるかたちをとり

(W 40 11 40

)︑現物形態のままでその生産過

のなかに含まれて実現される︒これによって︑社会的総資本が価値通り一四0

(A 洪 ︶

納付相当分は︑ここには現われていない︒

(18)

業から商品を購入した場合

(G 30

W300<0琴芦ー

n一 瞑

・ ・ P ・

W420│G

42 0)

よりも高い利潤率を社会的総資本に

13 6 

保障することになる︒社会総資本が公企業から剰余の分だけ安く買ったところの前の場合ではP

11

︑価値通り

12 0,  

買った場合では

P ̀ I I

引已てある︒再言する訳であるが︑価値と価格の政策的背離は歴史的にさまざまな内容をもっ

ので︑この循環の式における公企業のWGGほどんな場合でも必ず費用価格に等しくなければならぬという

ものではない︒この湯合丁度そうであるというだけである︒利潤を自己目的としないという国家資本の本質的特徴

を可視的に表現するに最も便宜な形態をとりあげたにすぎない︒ここにおける価値実現の特殊性はいわゆる﹁公共

しかしかかる諸側面は生産力の発展あるいは進歩という点には如何なる意味をもつだろうか︒大体利潤率がひく

いということ︑したがって財政にたいして根本的に従属的であるということは能率の点ではマイナス要素である︒

行政企業はこういった制約面をかかえつつ︑尚全体として進歩的な面がかっていた︒先述した現代国家による新技

術の開発︑新産業の経営等もこうしたことが言える︒しかし公企業における生産力の発展︑剰余価値形成の発展と

ともに乎均利潤率の水準に近接し︑私企業による採算化←払下問題の発生がおこるほずであるが︑実際にはこれが

起らないのは︑使用価値側面の公共性に制約されて私企業による高価格を回避するため価値以下に価格を抑えてい

たからである︒これによって公企業内部の蓄積が抑えられたのみでなく︑公企業への自主的な能率化の要求もこの

段階では未だ消極的にとどまった︒そこで独占段階にいり独占が国家機関をにぎると積極的に直接支配の管理機構

をつくり︑自己の特別利潤のため公企業を利用すべく能率化の体制を公企業に導入するのであるが︑その能率化︑

合理化は︑したがってかれらの﹁公共性﹂のわく内での合理化という形をとる︒これは後述のごとく進歩的なもの

独立採算制批判序説H 性﹂の一面をいわば加重するものと言える︒

(19)

独立採算制批判序説H

ところでこの場合問題となるのは﹁社会的総資本﹂という概念の内容である︒公企業は例示した場合のように生

産手段生産部門だけとは限らない︒消費手段生産部門にも位置する︒前者では需要資本における使用生産手段の低

価格を通じて︑後者では労働者の生活手段の価値引下︵相対的剰余価値生産︶を通じて︑資本総体の利潤獲得を側

援する︒この場合国家はあくまで資本総体

1 1社会的総資本の利益を代表するものであり︑また公企業も資本にたい

しては区別なく︑資本総体にたいして均等な条件で︑すなわち大資本には大きく小資本でもその大いさに比例して

役立っていると一応は考えられる︒これは前述の無償譲渡された価値が総資本内部で誰に帰属するかという問題に

外ならぬ︒こうした無差別という考え方は現実的条件︑主として当該公企業の生産する商品・用役の利用度を決め

る技術的条件︑を考慮にいれてくると必ずしもこうはいえないのであって︑具体的にいえば国営の安い石炭を最も

多く利用するのは大資本たる機械制大工業であり︑また広大なる市場を対象とするかれらが安い国有鉄道の最大の

利用者に外ならず︑したがって結果的に移転価値の大きな部分がかれらに帰属し︑かれらを有利にするといえる︒⑳ しかしながら社会的総資本とは馬場克三教授の表現を借れば﹁大資本を中心とする資本競争の体系﹂であるが︑こ

れを言い換えた場合競争における大資本の立場と言いきってしまえないものがある︒﹁総資本﹂が問題になる独占

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑以前の資本主義の場合︑公企業の機能は大資本に傾斜的ではあるが︑資本総体の資本蓄積のため役立っていると言

えるのではないだろうか—|公企業で財政資金を資本蓄積(拡大再生産)に動員している点、低廉な公企業を利用

したため大なり小なり個別資本の資本蓄積が促進されている点などにおいてー︒したがってこの場合の公企業は

経済的進歩に積極的な役割を果していると言うことができよう︒ とはいいがたいのである︒

(20)

(20) U9)  これにたいして独占資本主義においては︑ある種の限られた場合の外は理論的に﹁総資本﹂なる概念は成立しな

ばらかれらに向けられ︑

われるというよりも︑独立採算制をかれらに有利に運営するやり方︑

一 九

かつての﹁総資本﹂なる概念は﹁総独占﹂なる差別的内容をもった概念によって置き換えらるべき

である︒そして﹁結果的に﹂という前述の但書は﹁政策的に﹂という言葉に置き換えられねばならない︒独占資本

主義の下では︑公企業における総独占向けの価格引下げによって︑公企業からの移転価値の一層大きな部分がもっ

かれらを有利にするのである︒しかもこの場合大切なことは︑このことが単に差別的に行

う逆のやり方によって可能となっているという点である︒これによって独占資本主義の場合は︑資本蓄積に関する

限り一方で得るところを他方で失うことによって相殺されているというべく︑全体として生産力の発展への公企業

の前進的役割は減殺されていると言って過言ではない︒独立採算制それ自体は︑独立採算制以前の公企業における

資本蓄積が財政資金の制約によって困難化した局面でこれを打開する効果的な手段として生産力の発展にたいし進

歩的な側面をもっているとはいえ︑総独占の支配の下にある公企業ではこうした側面は通常抑えられざるをえない︒

かくしてこの場合公企業は︑総独占向けの価格引下げにより実質的には大資本の資本蓄積をはかっているのである︒

この場合公企業それ自体の収益性否定の仮象

w

G

は公企業の労働過程

1 1 物質代謝の側面をのみ表面化し︑自主

化を客観化し︑結局現実の独立採算制のすべてを是認する主張を生む訳である︒

このように公企業の理論的把握は︑統一的な理解の方法を必要としている︒

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21 5.

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24 9  f. , 

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27 3  f .

独立採算制批判序説H つまり非独占や大衆にたいする価格引上とい

参照

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