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アメリカ自動車工業の価格政策

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アメリカ自動車工業の価格政策

その他のタイトル The pricing policy of the American automobile industry

著者 小谷 節男

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 8

号 1

ページ 269‑293

発行年 1977‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023143

(2)

ま え が き

自動車は,現代社会生活における基本的な運輸手段として,あるいは社会的な威信と地位を誇 示する対象物として,高度に可視的な耐久消費財であるにもかかわらず,一般の購売者は自動車 に関する技術上の専門知識を,殆んどもっていないことを特徴とする。ほんらい自動車は,多数 の部品からなる組立生産物であるがゆえに複雑な価格構造をもっており,また広範な購買者層を 対象とする最終消費財であることから,その価格運動は独自な性格を付与されてきた。

アメリカにおいて自動車は,高度に組織化された寡占企業の生産物であり, したがって自動車 価格は寡占産業に特有な価格決定のメカニズムをもっている。 1920年代以降の寡占構造への移行 と,その後における典型的な高度寡占構造の確立とともに,ゼネラル・モータース (GM)社が 自動車市場において支配的な地位を確立するにつれて,自動車価格の水準は,同社の価格決定方 法および価格政策によって,大きく左右されるという傾向がますます増大されてきた。 1)

アメリカ自動車工業の価格政策を明らかにするためには,自動車価格の性格,自動車工業の費 用構造,自動車市場の需要構造,および管理価格の諸特徴を分析することが必要である。これら の諸問題を取り扱うにあたって,まず戦後における自動車価格の展開過程を概銀することからは

じめようとおもう。

I.  戦 後 に お け る 自 動 車 価 格 の 展 開

1図は,新車価格の推移を労価統計局 (Bureauof Labour  Statistics : BLS)の調査に よる消費者価格指数で示したものである。したがってこれは,現実の自動車睛買者が支払った価 格を反映するものといってよい。 2)2図は, ビッグ・スリーの低価格車4ドア・セダンの指示 小売価格の推移を示す。これは,税金プラス,ディーラー・マージンを含むいわゆる表示価格で あって,かならずしも現実の自動車購買者が支払った価格を表現するものではない3)。 これら 2 つの図表はその対象期間が資料の制約から,第1図は1967年までであり,第2図は1950年代末ま

1)  Administered Prices, Automobiles. Report of hte Subcommittee on Antitrust and Monopoly of  the Committee on the Judiciary, United States Senate, 85th Congress, 2nd session,  1958. p.2.  2)  Lawrence J.  White, The Automobile Industry since 1945, 1971,  p.121. 

3)  Leonard W. Weiss, Economics and American Indudusry, 1961, p.356. 

(3)

関西大学『社会学部紀要』第8巻第1 1 BLS新車価格指数の推移, 19471967年(暦年)

1957‑1959=100  104 

102  100  98  96  94  92  90  88  86  84  82  80  78  76  74  72  0 8   7 6  

1947  1949  1951  1953  1955  1957  1959  1961  1963  1965  1967 ( L.J. White, The Automobile Industry since 1945, 1971, p.122. 

(4)

1図の註)労働統計局 (BLS)の新車価格調査は,つぎの諸点で注意を要する。

(1)  1950年末までは,シボレー,フォード,プリムスのフルサイズ・4ドア・セダンの中屑部を調査対 象にした。その後,対象はコンバクト・カー,フォルクスワーゲン,およびシボレー,フォード,プ リムスの高価格モデルまでに拡大された。そして1967年末のサンプルは,シボレー・インパーラ, フ ォード・ギャラクシー,プリムス・フュアリーなどの2ドア・ハードトップ,アメリカン・モーター ス・レベルおよびポンティアック・カタリーナの4ドア・セダン,フォード・ムスタング,およびフ ォルクス・ワーゲンであった。

(2)  19547月まで, BLSはその価格を調べるにあたって,ディーラーに質問することはあったが,

おおかたは表示価格に依拠している。ただ表示価格から逸脱するものは,自発的に提供される情報に 限られていた。 19547月からは特にディーラーの値引きの状況が調査されるようになった。種々の 事情からみて,おそらく, 1949年以前の指数は取引価格を過小評価していよう。 1949年および500)

指数はおそらくわずかに過大評価していると思われる。 1951年および52年の指数は,朝鮮戦争による 価格統制があったので,当然正確なものとなっている。 1953年から546月までの間の指数は,たし かに現実価格を過大評価している。 19546月と7月の間の指数は, 94.9から88.6に落ちているが,

これは新しい価格調査の方法を反映するものである。

(3)  1957年秋および1958年秋には,.ンポレー,フォード,プリムスの下眉部が切捨てられたので, ゅうらい BLSの調査対象であった中雁部は下雁部となった。

(4)  1959年以来, BLSは自動車の品質特性の変化に対応して指数を調整した。すなわち,保証条項 の変更,安全装備の追加,その他の品質変更は,新しいモデルの相対価格を付けるにあたって,体系 的に計算に組み入れられた。それまでは品質変更はほとんど計算に入れられていなかった。また1959 年以降の指数は,新車自体の価格上昇をいくぶん過小評価している。

(5)  BLSの指数は, 小売価格指数であるので, 運貨および地方税の変更を含んでいる。 したがって その指数の変動は,すべてが自動車会社およびディーラーの課税前価格における変更に起因するもの ではない。ただし運賃および地方税の変更は比較的小巾なものであった。 (L.J.White, ibid.,  pp. 121 

123, および 128.)

で と 異 な っ て い る が , こ こ で1950年代末までの期間をとり両図を比較すれば,第1図の現実小売 価格は1953年 お よ び54年にかなり大巾な落込みがみられたが,第2図の指示小売価格は全体とし て増大の傾向を示していることが注目に値する。こうした視点を踏まえてここでは,戦後の自動 車 価 格 の 推 移 を , 主 と し て 第1図を基準とし,第2図を参考にしながら, L.J.  Whiteの分析4)

にしたがって考察しようとおもう。

L. J. Whiteによれば,戦後における自動車価格の運動は,つぎの6つの期間に分けることが できる。すなわち 1終戦直後の自動車不足の期間(1948年以前), 2合理的な需給均衝の期間(1949 年 お よ び50 3朝鮮戦争期の価格統制 (1951年 お よ び52 4価格の切下げとその後の継続 的な価格上昇 (1953 58 5価格の平準化と低落 (1955 65 6価格増大の再開 (1966 68年)がそれである。

終戦直後の自動車不足の期間 (1948年以前)

第二次大戦後, 1946年になると本格的に自動車生産が再開されるようになったが, 戦時中の 4) L.J.  White, ibid.,  pp.121133. 

(5)

関西大学「社社学部紀要」第8巻第1 2 最廉価4ドア・セダンの指示小売価格の推移

Dollars per Unit  2500 

2400  Postwar  2300 

2200  2100  2000  1900  1800 

Plymouth 

「\勺

1700  1600  1500  1400  1300  1200  llOO  1000  900 

1946  1948  1950  1952  1954  1956  1958  1960  L.W. Weiss, Economics and A ricanIndustry, 1961, p.351. 

「抑圧された需要」から解放されて,新車市場は需要超過の状態にあった。 1946年11月に政府の 価格統制が撤廃されるや,自動車会社は価格を徐々に上昇させていった5)が,卸売価格および小 売価格はいずれも市場売りつくし水準 (marketclearing levels)以下にとどまっていた。戦 後プームの数年間,自動車会社は.生産した車はなんでも売りつくすことができた6)が,すべて の車について当然付けてもよいと思われる価格よりも低い表示価格で販売していた。自動車会社 はこの表示価格を厳守するように,ディーラーにたいして圧力をかけたが,ディーラーは下取車 を公正な価値以下に評価したり,あまり価値のないエキストラを装備したり,あるいはビンハネ さえも要求して販売価格を吊り上げた。このようにして「第二次大戦後自動車不足の期間におい 5)拙稿「戦後のアメリカ自動車工業」関西大学『社会学部紀要」第3巻第2号(昭和473 pp.42 

44. 

6)  L.W. Weiss, ibid.,  p. 359. 

(6)

ては.多数のディーラーは指示価格よりもはるかに高い値段をつけて,車を販売する方法を見出 すことができた。っ」また自動車の闇市場が発展し. いわゆる「新しい中古車」 (newusedmo‑

dels)でさえ表示価格を上回り, 1,000ドル近くで販売される状況であった。 この数年間にディ ーラーは,大巾な利潤マージンを実現し,自己資本の30%にも達する膨大な収益をあげることが できた。闇市場の発展はともかくとして,自動車会社が自動車価格を市場売りつくし水準まで引 上げることを躊躇した理由は,主としてつぎのようである。

11こ,コスト指向型価格決定が重要な役割を演じたことである。この期間では,価格先導性 のパクーンはまだ確立しておらず,各社は労働力,鉄鋼,ガラス,内装品.その他の材料のコス トが増大するばあいにのみ,適宜ばらばらに価格を引上げたにすぎない。こうした動きは,コス ト指向型の価格決定方式の現われにほかならない。

21 自動車会社が貨幣錯覚に陥りその犠牲になったことである。戦前にはフォードは800 900ドルであったが.戦後1947年の表示価格は, 1,2001,300ドルで販売された。当時の雑誌 は.戦後の自動車価格が戦前に比べていかに高いかをしばしば論じた。けっきょく自動車業界で は,そうした高い価格はいつまでも持続しないのではないだろうか.と懸念された。

31こ,自動車会社が利潤の増大にたいして,その反作用を恐れたことである。仮りに価格の 増大が費用の増大によって正当化されないとするならば,その結果もたらされる利潤の増大はさ まざまな反作用をひき起こすことが予測された。すなわち (1)当時自動車工業には多数の潜在 的参入企業が参入の機会を覗っていたが.高い公表利潤はその参入を誘発する危険を内包してい (2)価格詐欺にたいする大衆の批判が高まっていたので.民主党政権の反独占政策がきびし く,自動車の市場売りつくし価格にたいして.反トラストの容疑が向けられる可能性があった。

(3)大巾な利潤の上昇は全米自動車労組 (UnitedAutomobile  Workers: UAW)による大 巾な賃金の引上げを正当化するが,仮に将来市場が低滞に転じて自動車価格が下落しても,賃金 は殆んど低下しないことが想定されるので,そうなれば自動車会社はコスト圧力に見舞われるで あろうという懸念があった。

上記の理由から自動車会社は,価格を市場売りつくし水準以下に維持し,ディーラー利潤を健 全化し,顧客に順番を待たせるほうが得策であると考えた。もちろん自動車会社自体利潤が無か ったわけではない。自動車工業全体として1947年および48年には,課税後総資産利潤率はそれぞ 10.9%および13.7彩であり,自己資本利潤率は16.2%および21.0彩であった。また自動車会社 は市場売りつくし水準へ価格を引上げることに不本意であったにもかかわらず, 1946年から48 の間に価格は相当上昇した。たとえば, 1946年型フォードV‑8・4ドア・セダンにたいする物価統 制局 (theOffice of Price Administration : OPA)の指定価格は885ドルであったが,1949  年初頭には1,546ドルヘと上昇した。

7) L. W. Weiss, ibid., p.356. 

(7)

関西大学『社学会部紀要』第8巻第1 合理的な需給均衝の期間 (1949年および50

自動車の闇市場は, 1948年末から49年はじめには消滅してしまった。たまたま1949年の景気後 退に直面すると,ディーラーは表示価格以下で売りはじめた。またコストもはじめて低下した。

というのは, 1949年には消費者物価が低落して, G Mが前年にU A Wと締結した生計費エスカレ ータ一条項により,賃金の一時的な低下がもたらされたからである。このような情況のもとでG Mは,この期間に3次にわたり約1彩ずつ価格の切下げをおこなった(第2図参照)。 しかし大 部分の自動車会社は, 1950年末まで賃金エスカレーク一条項を採用しなかったので.総じてこの 期間の自動車価格は相対的な安定状態を保っていた。

朝鮮戦争期の価格統制 (1951年および52

19506月に朝鮮戦争が勃発すると.原材料価格は急激に高騰した。これに対応して独立会社 いち早く1951年モデルの導入にさいして, 1950年10月までに5 %の価格引上げを実施した が,ビッグ・スリーはモデルチェンジに手間取って, 12月中旬に5彩の値上げを公表した。とこ ろが,これにたいして連邦政府はただちに価格凍結を宣言し, 121日水準に価格を引戻すこと を指示した。この措謄は独立会社には好都合であったが,ピッグ・スリーにとっては不利であっ た。つづく 2年間自動車会社は生産鼠と価格を統制された。だが,この期間に3回にわたる価格 引上げが認められると同時に,新車にたいする連邦消費税もそれに相応して引上げられた (1951 11月には卸売価格の7彩から10彩へと引上げられた)ので,価格はおそらく市場売りつくし水 準に接近したものと考えれらる。たとえばフォード6気筒4ドアセダンの表示価格は, 1950年の 1,472ドルから1953年のはじめには1,675ドルヘと上昇した。しかしながら生産統制によって,自動 車会社は表示価格以下で販売台数を増やすようにディーラーヘ働きかけることはできなかった。

価格の切下げとその後の継続的な価格上昇 (1953 58

1953年になって,朝鮮戦争の停止のきざしがみえてくると, 2月13日に生産統制が解除され,

つづいて35日に価格統制が撤廃された。自動車会社はただちに生産盤の増大を競うようにな った。

1953年モデル〕 このモデルは例年より遅れて1952年11月から53年の初頭にかけて発表され たが,クライスラー社はまっ先に販売のビンチを感じ, 19533月末には平均100ドルの価格切 下げをした(註)。他の自動車会社は表示価格を変えなかったが,ディーラー,特に独立会社系の ディーラーが表示価格の割引をはじめると,現実の小売価格は低落した。

2図参照。この引下げによってプリムスは他社製品と同じ水準になった (L.W.Weiss, ibid.,  p, 352.)

1954年モデル〕 1953年秋に1954年モデルがはじまると,独立会社ではナッシュ社,ハドソ ン社,およびパッカード社が価格を切下げ,スチュードベーカー社は逆に価格を引上げたが,ビ

(8)

ッグ・スリーは価格を変更しなかった。 1954年の景気後退とともに,自動車会社はディーラーに たいして大黛販売の圧力を増大し,販売コンテストを強化し, リベートを提供しはじめた。こう

して購売者にはディーラーを通じて,表示価格の大巾な割引がおこわれた。

(1955年モデル) 1954年秋には表示価格は約3彩上昇した。 このうち約1.5彩は, 遠隔地域 の運賃率低下によって相殺されたとはいえ,この価格上昇はその後連続5年間にわたり,新モデ ル発表時における表示価格上昇の皮切りとなった。

1956年モデル) 1955年秋には表示価格は平均5 5.5彩上昇した。 この価格引上げにおい て,特に注目すべきはG M社の価格先導性であった。フォード社は9月末にカスクムライン・モ デルの下層部を99ドル引上げた。 G M社はその5週間後に,シボレーの匹敵する価格をわずか85

ドルしか引上げなかった。それをみて,フォード社は競争に対処するため, 2週間後にカスクム ライン・モデルを12ドル引下げたCllt)。また, 19562月には第2回目の運賃率の引下げの補償 として,表示価格がさらに2彩引上げられた。

シボレーがフォードよりも約25ドル低い価格で売り出すと,フォードはシボレー水準との価格 差が2 3ドル以内になるところまで引下げた (L.W.Weiss, ibid., p.353.)

1957年モデル) 1956年秋には表示価格は7.2彩引上げられた。ここでも価格先導性の明白 な事実がみられる。再びフォードは価格を最初に (929日)発表し,最廉価モデルの価格を2.9 

%引上げた。 2週間後に (1013日)シボレーは6.1%の価格引上げを発表した。その 1週間後 にフォードは価格を改訂し,シボレーとの価格差が2ドル以内となった〔註)。自動車会社は,自 動車の需要曲線がほんらいかなり非弾力的であるという信念から,このように価格先導者と価格 追随者の役割を演じるようになるのである。また, G M社は1956121日には,ディーラーに 賦課していた広告費を吸収する見返りとして. 表示価格をもう1.5彩引上げたが, それは現実の 小売価格にはなんら影蓉を及ぼすものではなかった。

ただし,合衆国上院反トラスト小委員会の報告によれば,フォード・カスクム3002ドアおよ 4ドアの2モデルは,それぞれ29ドルおよび28ドル引上げられたが,なおシポレーの匹敵するモデ ルよりも10および11ドル低いところにとどまった (AdministedPrice, Automobiles, Report., ibid.,  p.54.)。また, L.W. Weissによれば,フォードは58ドルの値上げで皮切りをしたが,シポレーが180 ドル引上げると,フォードは直ちに50ドルの値上げをし, さらに3か月もたたないうちにシポレーよ りも1 10ドル低いところまで引上げた。それは,フォードがシポレーよりもはるかに低い価格を設 定することを好まなかったからであり,ただ宣伝の目的でわずかに低い価格を付けたにすぎないこと を意味する (L.W.Weiss, ibid., p.353.)

(1958年モデル) 1957年秋には, 表示価格はさらに3.4彩引上げられた。だがこの時には,

すでに景気後退の兆しがみえて,中型車種の販売が鈍化しはじめていたので.その値上げ巾を低 価格車種よりも小さくした。これは,あきらかに費用指向型価格決定方式からの乖離を意味する ものである。 また,フォードはラインモデルの下層部を切捨てて,新しく上層部を付け加えるこ とにより値上げの一部を補償した。その結果.以前のラインの中層部がそれの下層部になった。

1959年モデル) 1958年秋には, 表表価格はさらに2.6%引上げられた。再び低価格車種の

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関西大学『社会学部紀要第8巻第1

値上げ巾は,中型車種のそれよりも大きくして,フォードとシボレーの表示価格は5.5 5.9彩引 上げられた。また,シボレーとプリムスは前年のフォードの例にならって,ラインモデルの下屈 部を切捨て新たに上展部を付け加えた。

〔小括〕 以上, 1954年末から 1959年春までに, 表示価格は全体として25 30彩引上げられ た。低価格単種の価格上昇はもっと急勾配であった。たとえば,フォード6気筒4ドア・セダン の下層部は, 1953年春の1.675ドルから1959年春の2,273ドルヘと36%の上昇を記録した。しかし ながら,自動車会社やディーラーが消費者にかなり大巾な割引をするにつれて,現実の小売価格 は表示価格以下へとますます低下した。たとえば,シカゴのあるディーラーは, 3,000ドルの車を すすんで600ドルも割引したほどである。こうして第1図のBLS新車価格調査によれば,現実の 小売価格は1954年から58年の5年間に15ないし16彩の増大を記録したにすぎない(註〕。この16 の増大は,同じ期間における消費者物価指数の上昇に比べると,その約2倍にも達するが,自動 車の品質向上を考感に入れるならば,事実上,実質価格の変化は殆んどまたは全く無かったと論

じることもできよう。

現実の小売価格において,表示価格の引上げが相殺されたことは,その主な理由として,ディ ーラー割引の増大によるものであるが,その一要因として運賃および広告費の切下げなど費用の減少 があったこともあげられよう (L.J.White, ibid. p.128.)

価格の平準化と低落 (1959 65

1959年秋の自動車市場は,つぎの2つの点で特徴付けられる。第1はビッグ・スリーがコンパ クト・モデルを導入したことであり,第2は価格安定期というよりはむしろ価格低落期が開始さ れたことである。 BLSの調査によれば,新車価格は1959年から64年の間に2.5彩 下 落 し た 。 翌 1965年には卸売価格にたいする連邦消費税が10彩から7彩へと低下したことによって,新車価格 はさらに2.2彩下落した。まずコンパクトカーに関連していえば. 自動車会社の主要な価格目標 は,そのシリーズ中の少なくとも 1モデルを表示価格2,000ドル以下にすることであった。(註I)

それは名目上のディーラー割引を, 25彩から21彩へ切下げることによって達成された。つぎに表 示価格についていえば,この期間には小巾の上下運動をともなったが.殆んど均衡状態を保つ傾 向を示した。表示価格の主要な変更は,1961年秋にG M社とフォード社が,また1964年秋にクラ イスラー社とアメリカン・モーターズ社が,ヒーターを標準装備に組入れたことから生じた。し かしヒーターは以前から自動車購買者の97%が注文していたものであるから.それが現実にオプ ション・ベースからはずされたといっても.それが価格増大を隠蔽したと考えることはできない のである。

ところでコンパクト・カーおよびインターメディエイト・サイズが中価格車種部門でも等入さ れたことは,自動車工業におけるヒッグ・スリー間の伝統的な相対価格のパターンを,混乱させ る傾向を生んだ。 1960年以前には.低価格車から高価格車に至る間に,車種別につぎの4つの価

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格ランクがあった。まず第1に最低価格車種のシボレー,フォード.プリムスがあり.第2にポ ンティアック,ダッジ,マーキュリーがあり,第31こオールズモピル.ビュイック,クライスラ ーがあり,最後に最高価格車種のキャデラック, リンカーン,インペリアルがあった。そして同 一価格ランクの車種は. 市場で相互に激しいトップ争いを演じていたロ幻。ところが1960年以 後には,ダッジ,マーキュリー.ポンティアック.オールズモビルおよびビュイックなどの中価 格車種部門は,低価格3車種部門の最廉価フルサイズ・モデルよりも低い表示価格をもつ,比較 的小型のいわゆるインクーメディエイト・サイズを提供するようになった直3)。このパクーン は今日でも維持されている。だが車種部門別のプランドにもとづく価格の識別として,たとえば ビュイックは高くフォードは安いなどという認識は,なお存続しているけれども,価格重複の程 度は1960年以前のパクーンに比べると.いちじるしく増大してきた。

さてここでは,需要と費用の両側面から.前の期間の1954 59年の価格上昇期と.この1959

..... 

65年の価格安定期を,比較検討しようと思う。まず需要の側面についていえば,前の期間で はその価格増大にもかかわらずI 1955年を除くと特に需要が高かった年はみられなかったのであ り.また需要インフレにたいする期待をよそに,利潤マージンが低落したのであるから,価格上 昇の根拠を需要の側面から説明することは困難である。したがって,両期間における価格上昇と 価格安定の根拠は.むしろ費用の側面に求められなければならない。いまそれを原材料費と賃金 の面から考察すればつぎのようである。第1に原材料価格についていえば,前の期間では特に19 55年から57年の間に一般的な騰貴がみられたが.後の期間ではほんのわずかばかり上昇したにす ぎない。耐久財生産材料に関する BLSの卸売物価指数 (1957 59=100)I 1954年の平均85.7 から1959年の平均101.8へとこの5年間に18.7%増大したが, これにたいしてつぎの5年間をみ

ると, 1964年には102.51ことどまり,わずか0.7彩増大したにすぎない。第21こ賃金についていえ ば,前の期間の方が後の期間よりも幾分急速に騰貴した。自動車および部品工業の総時間賃金率 に関する BLSの調査によれば.賃金上昇率は前の期間で23.2%であったが,後の期間 (1959 64年)ではわずか18.8961こすぎなかった。この賃金の上昇に対応すれば,後の期間でも緩慢な 価格上昇が見込まれるところであるが,生産性の増大のペースに重大な鈍化がみられなかったの で,実際上価格は上昇しなかったのである〔註4)

1〕 コンパクトカー・シリーズの表示価格をみると, 1960年モデルではシポレー・コルペア・2 ドア・セダンは, 1984ドル,フォード・ファルコン・2ドア・セダンおよび4ドア・セダンはそれぞれ 1.912ドルおよび1.974ドルであった。またプリムス・ヴァリアントは1960年モデルでは2,000ドル以 上であったが, 1961年モデルでは2ドア・セダンが1.953ドルになった。 しかしながら, ヒークーが 標準装備に組入れられてから後をみると, 1965年春には,ビッグ・スリーのコンパクト.4ドア・セ ダンの最廉価車フォード・ファルコンは2,082ドルとなり,また独立会社アメリカン・モーターズの ランプラー・アメリカン.4ドア・セダンの下屑部は2,036ドルであり,いずれも2,000ドルを超え ることになった (L.J.White, ibid., p.129,  130.)

2 ただし,車種部門別にその価格範囲は通例,多少とも重なり合っていた。たとえば,比較的 高価なシポレーは比較的安価なポンティアックよりも高くなり,アクセサリーで飾られたシポレー・

‑277‑

(11)

関西大学 r社会学部紀要』第8巻第1

ハードトップは,ピュイックと同じ価格にすることさえできた (L.J.White, ibid.,  p.630.)

3〕 ただし,これらのインクーメディエイト・サイズは,低価格3プランドによって生産された コンパクト・カーないしインターメディエイト・サイズよりはなお高価であった (L.J.White, ibid.,  P.130.)

4)最廉価フォード 6気筒フルサイズ・ 4ドア・セダンの表示価格は, 1959年春の2,273ドルか 1965年春には2,415ドルとなったが, この価格増大の殆んどすぺては, ヒーターを追加したこと,

およびライン・シリーズの下照部を切捨てたことによるのである (L.J.White, ibid.,  P.130.) 価格増大の再開 (1966 68年)

1966年モデル) 1965年秋には,表示価格は再び上昇しはじめた。自動車会社は標準装備と してすべてのモデルに多数の安全装備,たとえばパデッド・インスツルメント・バネル,バック アップ・ライト,およびデュアル・スビード・ウインドシールド・ワイパーなどを取付けること を決定した。表示価格についていえば,この年はクライスラー社が最初に平均72.94ドルの引上げ を発表した。つづいてG M社とフォード社がそれぞれ58.68ドルおよび67.88ドル引上げた。アメ

リカン・モーターズ社は販売の困難を感じて,わずか4ドルの引上げにとどめた。このため自動 車工業全体では, 表示価格がほぼ62ドルまたは2.1彩上昇したことになる。 しかしこれを安全装 備追加後の調整価格でみると,平均表示価格はわずか2ドルの上昇にすぎなかったのであり(註),

BLSの評価では,実質価格にして0.8%の低下であるとさえ判定された。特にクライスラー社の 表示価格の増大は, G M社およびフォード社よりもいちじるしく大きかったのであるが,クライ スラー社はこの新価格を固執して,通常よりも早く121日には,ディーラーにたいする卸売リ ベートのプログラムを設定し.競争企業との価格ギャップを効果的に除去したのであった。

安全装備追加後の調整価格では, G M社の価格は6.85ドルの低下, フォード社は9.26ドルの低 下,クライスラー社は28.16ドルの上昇,アメリカン・モークーズ社は65.28ドルの低下となる (L.J. White, ibid.,  P.131.)

1967年モデル〕 1966年秋には,さらに安全装備として,デュアル・プレーキング・システ ムおよびエネルギー・アプソービング・ステアリング・コラムが標準装備に組入れられた。表示 価格についていえば, 今回はフォード社が最初に発表して平均107ドル引上げ, ついでクライス ラー社が92ドル引上げた。最後にG M社が56ドル引上げると, 1週間以内にフォード社とクライ スラー社は価格を切下げた。 2週間後にクライスラー社は2度目の切下げをおこなって,最終的 には78.53ドルの上昇となった。 フォード社は82.36ドル, アメリカン・モーターズ社は76.00 ルの上昇であった。自動車工業全体では, 表示価格は68ドルまたは2.2%上昇した。 これを安全 装備を含む調整後の表示価格でみると, ビッグ・スリー間の増大巾はもっと接近し, G M社の上 昇は21.24ドル, クライスラー社は28.02ドル, フォード社は29.48ドルであった。 自動車工業全 体でみると,調整後価格はほば25ドルないし0.8彩の上昇であった。 BLSの評価では,実質価格

にしてわずか0.2%の増大にすぎないと判定された。

1968年モデル) 1967年秋には,さらに多くの安全装備が取り付けられ,価格も大巾に増大

参照

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