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戦後日本経済自立への転機と科学技術行政

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戦後日本経済自立への転機と科学技術行政

その他のタイトル The industrial policies in relation to the turning point toward establishing the

economical independence of the postwar Japan

著者 友松 芳郎

雑誌名 関西大学社会学部紀要

12

1

ページ 67‑88

発行年 1980‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/00022875

(2)

戦後日本経済自立への転機と科学技術行政*

朝 鮮 戦 争 の 勃 発

それは, 1950年(昭和25 625日(日曜日)払の暁午前4時であった。北朝鮮(朝鮮民主 主義人民共和国)軍は,突如, 38度線のほぼ全域にわたって,一斉に砲門を開き,韓国に向って 破竹の侵攻作戦を開始した。ソ連製戦車,飛行機など圧倒的に優勢な攻撃用重装備を駆使する十 分計画された怒渚の進撃であったo劣勢な韓国軍は, この奇襲をうけて為すすべもなく,忽ち壊 減的な打撃をうけ,ただ敗走につぐ敗走を余餃なくされたのであるll

アメリカは,即座に, この開戦を「ソ連による世界の軍事的征服計画の第1着手にほかならな い」と断定する見解をとった。換言すれば,アメリカは, 38度線の突破を局地的次元においてで はなく,世界的次元においてとらえていたのであった。 これは『トルーマン回顧録』2)に お い て も,明確に読み取ることが出来る。即ち,休養のため,家族と週末 (624日土曜日)をミズリ ー州イソデペソデ`ノスで過ごしていたトルーマン大統領は,同日夜10時(日本時間25日午後1 アチソン国務長官から電話で緊急事態勃発の連絡をうけたo翌朝急逮ワ・ンソトンヘの帰途,機上 にあって,大統領が考えた次の3つの理由によってアメリカの参戦は,事実上,決まったといっ ても過言ではなかったo即ち「もし,韓国が陥落するのを許せば,共産主義者たちは,これに勇

*本稿は, 『関西大学社会学部紀要』第7巻第1号,第2号,第8巻第1号,第2号,第9巻第1号に掲 載された拙論につづく一連のものである。

1)  朝鮮戦争に関しては,次の著述を参照した。

神谷不二『朝鮮戦争』中央公論社 (1966),

秦郁彦・袖井林二郎『日本占領秘史』 (下)朝日新聞社 (1977) 小谷秀二郎『朝鮮戦争』サンケイ出版 (1978)

小谷豪治郎『朝鮮半島の軍事学』教育社(1978) NHK編『日本の戦後』 (下)日本放送出版協会(1978)

朝鮮戦争は,北が先攻したのか,南が挑発したのか.諸説が乱れている。これについては,例えば,

上記『日本占領秘史』 (下)に詳しく取りあげられているが, 1976625日の朝日新闘に「李承晩大 統領の密命で,勃発の前年 (194睛~) 8月10日夜,夢金浦湾に結集している北の艦隊を奇襲したという 当時韓国海軍作戦局長(後に参謀総長となる)李竜翼の回想」が報道された。この奇襲を自ら指揮した 李竜薬は,現在, ロスアンゼルスのステュディオ・シテイでモーテルを経営しているということである が,李は「この奇襲事件がきっかけとなって,6• 25の朝鮮戦争が起った。戦争は,事実上,私たちの 行った南からの挑発で始ったのだ」と語っている。この作戦は在韓米軍も韓国海軍部も全く知らないう ちに展開されたものであったという。しかし,本論で論じようとする科学技術行政には,このような問 題は直接的に園係しない.::.とであるから,これ以上深入りはしないでおこう。

2)  『トルーマン回顧録』 2p. 284286, 恒文社 (1966)

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関西大学『社会学部紀要』第12巻第1

気づけられ,米国の海岸により近い諸国まで蹂躙するようになるだろう。もし, これが抵抗を受 けることなく進み得るならば,それは第三次世界大戦を意味することになる。もし,韓国に対す るこの不法な攻撃が阻止されないなら, 国連の甚礎と原則が崩れてしまうことは明白である。」

ここには,まさしくドミノ理論の原型を見ることが出来る。ルボルクージュはこれくらいにして おこう。

さて,朝鮮戦争の性格をこのようにとらえることによって, ソ連の膨脹政策に対するアメリカ のヨーロッパにおける封じ込め政策をアジアにも拡大し,世界的規模において反共軍事同盟網を 形成することは,アメリカ世界戦略の必然的な帰結であったo先きの拙論3)に述べた1947年の対 日占領政策の大転換とそれに続いたドッジ・ラインの強行実施0も,夙にこの世界戦略の一環を なすものであったことは,改めて繰返すまでもあるまい。

他方, ソ連では3)・モロトフ・プラソを強力に推進するとともに, コミンフォルム(共産党情 報局)を結成 (1947105日)した東欧9ヶ国は,第二次大戦による人的,物的被害が甚大で あったにもかかわらず,その経済復興は,19497月4日,国連事務局経済部の発表によると,

フランス, イクリーなど西欧諸国をはるかに上回る成績を示していたのである%朝鮮戦争は,

この復興の活力が,いわば,噴火山の爆発のごとく,西欧において強化されていた封じ込め体制 に対する突破口を,西欧に代わって,アジアにおいて求めることを意図したものであったろう。

乎 和 攻 勢 と 講 和 問 題 一 ー 朝 鮮 戦 争 勃 発 に 至 る ま で の 国 際 的 背 景 と わ が 国 の お か れ た 状 況 ー 一

アメリカの封じ込め政策も,当初は政治的イデオロギーの対立であったものが,やがて経済的 な断絶へ,さらに軍事的緊張へとニスカレートしていくのであった。即ち, 1947312日トル ーマン・ドクトリン宜言Bl,1947712日マーシャル・プラソ制定n, 194843日経済協力 法 の 成 立8)(西欧同盟に対する経済援助に中国蒋介石政権の援助を含めたもの), 194944 北大西洋条約調印9)(集団安全保障のための軍事機構の成立), 1949106日対外軍事援助法10>

(北大西洋条約加盟国のほかに,イラン,韓国,フィリッピンを加える), 1949年1130日対共産 躙翰出統制委員会 COCOM(Coordinating Committee for Export to  Communist Area)設立

3)  友松芳郎「産業経済復興への転機と工業技術庁の設骰」『関西大学社会学部紀要』第8巻第1(1977) p.  p.249

4)  友松芳郎「ドッジ・ライン実施下における合理化政策と科学技術行政」『関西大学社会学部紀要』第9 巻 第1 (1978)p.lp.31

6)  『戟日年錘』 1950年版「東欧の発展と復興」の項, p.37p.41 6) 友松芳郎上掲論文(8)p.247

7) 友松芳郎上掲論文(8)p. 8

8)  『朝日年鑑』1949年版「マーシャル・ブランの発展」の項, p.7 9)  上掲害(5)「北大西洋条約の調印」の項, p.23

10)  『朝日年鑑』 1951年版「アメリカの軍事体制」の項, p. p.56

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戦後日本経済自立への転機と科学技瘤行政〇屯~)

(アメリカの援助を受ける欧州諸国が加盟し,パリに本部を置く, 日本も19521114日参加),

195065日国際開発法Ill(1949120日のトルーマソ大統領年頭教書において,その第4 番目の項に掲げられた重要政策,いわゆる PointFour Programである低開発地域技術援助政

このように,アメリカの戦略機構は,経済援助,軍事協力,技術開発を包含する危大,複雑な ものとなったが,朝鮮戦争を契機として,その勃発1年後の1951524 トルーマソ大統領 の議会教書で軍事援助を中心として関係法規を調整統一し,立法化することが要請され, 1951 1010日,相互安全保障法 MutualSecurity Act.  M. S.  A,mが制定されたのである。 (但し,

これは次号で述べる対日講和条約調印の1ヶ月後のことになる。)

このような封じ込め政策に対抗して, ソ連や東欧諸国も,軍備の強化に意を用いたことはいう までもないが,一方,戦争反対,平和擁護という名のもとに, 1948年夏以来,特に人民戦線を国 際的に動員する広範な平和攻勢を展開して,この運動で内部分裂を浸透させてきたのである18) たとえば, 1948825 28日,ボーランドのウロクラウでは「平和擁護世界知識人会議」が 1949325 28日,ニューヨークでは北大西洋条約調印 (194944日)を前にして「世 界平和のための文化科学者会議」が, 1949420 25日にはパリ及びプラハで「平和擁護世 界大会」が,それぞれ世界各国から数千の知識人の参加を得て活発盛大に開かれたのである。

占領下のわが国からは,これらの会議への参加は, もちろん許されなかったがm, 19487 18日,ユネスコから発表された欧米8人の社会科学者による戦争の原因と平和の条件に関する声 11)を検討した安部能成,大内兵衛,仁科芳雄ら50名余の学者で組織された平和問題談話会は.

「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」を岩波雑誌『世界』第39 (1949.3)に発表し,知 識人の大きな関心を呼びおこしている。また,海外の平和擁護大会に呼応して, 1949425 26日,平和擁護日本大会が東京九段の家政学院で開かれた18)。これは,やがて「平和を守る会」

となって,東京,京都,大阪,広島など各地に展開されていくことになった。

しかし,内政面では,上記ドッジ・ライソ実施宜言 (194937日)以来,産業や行政のあ らゆる面において,徹底した合理化政策が推進されるとともに,探刻な安定恐慌のなかで,おび ただしい人員蓋理がレッド・バージと抱き合せて強行され,知識人,文化人らは立ち上って,思 想の自由,大学の自治を守ったことなどは,すでに先きの拙論0で詳述したところである。

講和問題については,中共の大陸制覇を踏まえて, 1949年(朝鮮戦争勃発の前年) 913日〜

17. ヮシントソで開かれたアチソン米国務長官とペヴィン英外相の会談m (17日にはシューマ 11)  上掲書囮「後進国閥発計画」の項 p.5Sp.54

12)  松尾弘,山岡喜久男編『職後日本経済政策史年表』p.204p. 205, 勁草書獨 (1962) 13)  上掲書(6)「東の平和攻勢」の項, p.27p.SQ

14)  大沼正則ほか『戦後日本科学者運動史』 C..l::)p.77,青木書店 (15)

15)  「平和のために社会科学者はかく訴える」 『世界』第37p.16p.22,岩波書店 (19, 1)  16)  大沼正則ほか,上掲l}l4), p. 77p, 7S., 

17)  上掲書岡「アメリカの早期濃和論」の項, p.132,,.,p.133

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関西大学『社会学部紀要』第辺巻第1

ソ仏外相も加わる)で, 「対日講和条約はソ連を除外した単独講和を進める」という方針が打ち 出されてからは,わが国では,単独講和か全面講和かをめぐり,講和問題が平和擁護論議とから んで,与論を喚起するようになったo単独講和は,わが国を西側陣営にしっかりと組み込んでし まおうというアメリカ世界戦略によるものであることが明白であったからである。殊に, 「ソ連 原爆所有」というクス通信925 (1949年)の報道18)は,わが国の講和論議を益々深刻なもの としたoかつて,国連の第1回総会 (19466月)で,原子力国際管理問題が取りあげられた19)

とき以来,一貫して原子兵器の即時禁止を提唱してきたソ連が.ここにいたって事実上,その仮 面をかなぐり捨てたものといわざるを得ないであろう。この現実は,原爆の独占を前提として世 界戦略をたててきたアメリカに測り知れない衝撃を与え,米ソ対立の角逐はきわめて峻烈な新し い局面に入ったのである。日本学術会議第4回総会では,仁科芳雄,荒勝文策両博士の緊急動議 によって「原子力に対する国際管理の確立」を要請する声明が可決され20)20, 逍ちに内外に発表 された (1949106

この状況を踏まえて,マックアーサー元帥は19501月元且のメッセージ22)で,中華人民共和 国の成立 (19491010日)は日本への脅威であるとして, 日本国憲法の「戦争放棄」を規定す る第9条は,自衛権を絶対に否定するものではないことを強調したが,これは,やがて日本に再 軍備を迫まる伏線であったoまた,アチソン米国務長官は, 110 (1950 上院外交委員 会で「アメリカは, 日本をアジアにおける共産主義の主要防壁として再建しなければならない。

アメリカの安全保障の最後の防衛線は.日本,沖縄.比島である」28)と言明したo ところが,韓国 に駐留していた米軍は,すでにこの半年前に大部分が引き揚げており, しかも,アチソン言明に よって,韓国がアメリカ最後の防衛線の外にあると見てとった北朝鮮は,韓国を攻略しても.ァ メリカは韓国を守るために軍事介入してくることはないという判断に立って,韓国への侵攻作戦 を計画するにいたったことが,朝鮮戦争勃発に対して推定されるのではなかろうか。

学者グルーブでつくる前記の平和問題談話会が. 115 (1950年)発表した「講和問題につ いての平和問題談話会の声明」20は,精魂こめて全面講和を選択すべきことを格調高く訴えたも のであって,多くの知識人の間に大きな影響を与えたのである。しかし,シーボルト対日理事会 議長が対日単独識和を表明した (214日)ことは,占領下の日本では,いかに平和憲法を楯に とって全面購和の理想を希求しようとも. 日本の運命を決めるものは,悲しいかな, 日本人自身

18)  上掲書(6)「ソ連に原子爆発」の項, p.649

ソ連のモロトフ外相が, 17年1161:110月革命記念日に際しての禎磁」において,「原爆は秘密 兵器ではない」と声明していることは, ソ連では, このクス通信の裁道 (19, 9,  25)より少くとも

2年以前に,原爆の秘密を握っていたことを意味している。

19)友松芳郎上掲論文(8) p.24"4o 

20)  『日本学箭会談二十五年史』 (1977) p.15

21)  井尻正二「第4回日本学衛会議の紛糾」 『自然』築51 (19)p.14, 中央公論社。

22)  『朝日新岡』 1011日第1面トッブ記事。

23)  上掲新聞綱 1950112日第1面トップ記事。

24)  『日本科学技術史大系』6,資料91, p. 369p. 371 70‑

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戦後日本経済自立への転機と科学技術行政〇屯~)

ではないことを思い知らされるのであったo東西対立の厳しい世界的状況のなかにあっては,そ れは,所詮,空しい抵抗でしかなかったといわなければならない。

現に,ホーチ・ミソのペトナム共和国を1月18日中共が. 131日ソ連と北朝鮮が承認してい るが, さらに. 214日には,中ソ友好同盟及び相互援助条約がモスクワで調印され,そして,

4月19日には中ソ貿易協定が成立するなど,アジア大陸には共産主義の強固な一枚岩が形成され る趨勢にあったのである。

一方.上記のアチソン言明 (1月10日)に引きつづいて, 131日には,プラッドレー米統合 参謀本部議長ら陸海空3軍の各首脳がマックアーサー元帥と,以上のような極東の緊迫した情勢 について検討するため来日するという慌しい動きと時を同じくして, トルーマン大統領は「いか なる侵略からも平和と安全を守るため」という名目のもとに米国原子力委員会 AtomicEnergy  Commission A. E. C. (1946年設立)に対し,ついに水素爆弾製造を指令したのであるIll (1 31日)。これは,全世界に甚大な衝撃を与えずにはおかなかったoここにおいて,いよいよ,人類 の存亡にかかわる米ソ核兵器製造競争の幕が切って落されたといえよう。そして.沖縄には恒久 的な軍事基地建設の工事が開始されるのであったIB>o

しかし,アメリカでは,水爆製造に対するトルーマソ指令が発せられた数日後 (2月4 かつて原爆製造に積極的に協力したオッペンハイマーら12名の著名な核物理学者が,連名で,水 爆製造に反対声明を発表しているm。 さらに, 211 アインシュクインはテレビを通じ,

「水素爆弾と平和」と題する水爆製造反対の声明28)を行い,「原子力国際管理は,取締措置として 第二義的効果しかもたないものであって,ーそう重要なことは,拘束力をもつ世界政府の実現に 協力することである」と,かねての持論を強調している29)。平和擁護世界大会は,この前年 (19 49年) 1025 31日,ローマにおいて原子兵器禁止と軍縮をすでに決議していたが, 1950

315 19日,ストックホルムでは,ノーペル賞受領物理学者ジaリオ・キューリーを議長と して,原子兵器の禁止と原子力管理の確立を要求したばかりでなく,原爆最初の使用者を戦争犯 罪人と規定する有名なストックフォルム・アッピール80)が採択され,世界各地から5億人を越え る署名を集めるにいたった。

このような状況に呼応して,日本の諸学会でも,前記の平和問題談話会の発表 (69•70頁)を 支持する平和声明が, 43日,素粒子論学会31)を皮切りに, 日本地質学会.歴史研究会有志,

H本心理学会有志などによって相ついで発表されたoこうして426 28日の日本学術会議第 25)  上掲新聞綱 195022日,第1面トップ記事。

26)  上掲新聞綱 1妬~2 月 11 日,第 1 面。

27)  『水索緑弾に閥する声明」 『自然』第6巻,第8 p.12,中央公論祉。

28)  アルベルト・アイソシュクイン「水素爆弾と平和」 『自然』第6巻.嬢8 p.lOp.11,中央公論

29) 友松芳郎上掲論文(8)p. 5"'p.246

30)  謁浅年子訳『ジaリオ・キ...ーリー造稿集』 p.16公 .. p.164., 法政大学出版 (1961) 31)  『日本科学技術史大系』5 資料 9ー2,P• 371"'1). 372

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関西大学『社会学部紀要』第立巻第1

6回総会では, 「•••…戦争を目的とする科学の研究には, 今後,絶対に従わないというわれわれ の固い決意を表明する」という声明が行われたm。日本学術会議の「科学と政治」にかかわる基 本的姿勢を確認するこの歴史的声明は,まさに,その2ヶ月後に勃発した朝鮮戦争を予見するか のような厳しい状勢判断に立っていたという感なきをえない。しかし,わが国の科学者や知識人,

それに多くの与論が真摯に希求する,このような全面講和の論潮を尻目に, 46日トルーマン 大統領によって任命された対日講和担当のダレス国務省顧問は, 424日,対日講和を促進する ことを表明し,着々と単独講和路線が敷かれていくのであったo吉田首相が, 53日,全面講 和を強調する南原東大総長を「曲学阿世の徒」と罵ったことに対し,南原総長は「これは学問の 冒漬学者に対する権力強圧以外のなにものでもない0 ... そ こ に 民 主 政 治 の 危 機 の 問 題 が あ 18)と反論する一幕もあったが, 518日には, トルーマン大統領の対日早期識和を要望する 声明が出されるに及んで,われわれには,占領政策に抵触しないかぎりにおいてしか,選択の自 由はありえなかったことを痛惑させられるのであった。この観点に立つとき,日本学術会議が,

上記のように,戦争のための科学研究拒否を明確にしたことは,わが国の科学技術政策の今後の 方向を決定づけた極めて重要な意義をもつものといわなければならないであろう。

国 土 総 合 開 発 法 の 公 布

19503月ごろから,上述のような国際情勢の緊迫化を反映して,世界的に軍備拡張気運が喚 起され,わが国でも軍需関連物資の輸出が徐々に伸びはじめ, ドッジ・ライン実施下の安定恐慌 による景気の沈滞が,部分的には,解きほぐされていく状況が見られないではなかった84)。しか

し,産業界が全般的に深刻な不況に喘ぎ,苦悩している窮状は紛れもない現実であった。

従って,マーシャル・プランの援助によって,産業の復興がわが国よりも先行できた西欧諸国 の商品に対抗して,わが国の商品が国際輸出市場での厳しい競争に太刀打ちできるためには,産 業の合理化は,いささかも,忽にすべからざる必須の基本政策であった。それに加うるに,敗戦 によって一切の植民地を喪失し,やがて1億 に 達 し よ う と す る 人 口 を 残 さ れ た4つの島に収容 して,経済自立を達成するためには,産業合理化の推進とともに,原材料の輸入もさることなが ら,まず,なすべきことは,乏しいながらも,国内資源を可能なかぎり有効に活用する地道な努 力がなければならない。産業の合理化は,要するに,技術開発にかかわるものであるとすれば,

国内資源の活用は,要するに,国土開発にかかわるものといえよう。ところが,政府が,ようや

195051日,北海道開発法atl(法律第126号)を公布し,続いて,国土総合開発法ae>( 

律第205号)を公布したのは,産業界が深刻な不況下, ますます窮地に追い込まれつつあった 32) 上 掲 害 勧 資 料9ー3, p.372,, 

3S)  『資料戦後二十年史』 1僑嘩篇) p.87,  日本評論社, (1966)  34)  経済安定本部編『経済白害』 (昭和町年度,年次経済報告) p.8 

35)  北海道開発法(法律第126) 『世界大百科事典』 28, p.345, 平凡社(1976) 36)  国土総合圃発法『日本科学技術史大系』6,資料8‑28, p. S28p. S3~。

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戦後日本経済自立への転機と科学技術行政(友松)

鮮戦争勃発のまさに1ヶ月前. 5月26日であったのである。

しかし,政府も,それまで国土開発の重要性を無視してきたわけではなかった。敗戦後早くは,

19463月,外務省特別調査委員会報告「日本経済再建の基本問題Jmにおいて取りあげられ,ま た,同年9月2日,内務省(これは1947年末に廃止される)からは「復興国土 5ケ年計画要綱」8&>

が発表されている。 1947年になると,経済安定本部の中に長期経済計画幹事会39)3月29日に発 足し,資源委員会40)が12月13日に設置される。資源委員会は,国の資源調査室とその開発,利用 方法の改善に関して,総合的に研究調査をつづけ,且つ,勧告,報告を行う専門機関であった。

(これは, 19496月1日資源調査会41)と改称される)さらに, 1948年になると,上記の長期経 済計画幹事会は経済復興 5ケ年計画委員会に改組され39), また,主要河川の総合開発計画を行う ために河川総合開発協議会が設けられた40)0 

経済安定本部のこれら3つの組織(経済復興5ケ年計画委員会,資源委員会及び河川総合開発 協議会)の活動は,相呼応して建設省,農林省,通産省,運輸省など関係各省それぞれの立場か らの基礎資料の蒐集,整備を進め,一方,地方においても, 1946年以来,各県で県の経済再建の 基本的事項として,総合開発計画を立てるところが多くなってきた。しかし,各省,各地方団体 のセクショナリズムに禍されて無駄が多く,しばしば,重要資源が未開発のまま放置されてきた。

そこで,当時喧伝されたアメリカの TVA方式42)に範をとって,これら多くの事業間の調整を総 合的に処理する要請が高まり,総理府に首相の諮問機関として設置された国土総合開発審議会48) によって,国土開発行政の一元化が進められることになった。こうして国土総合開発法が公布さ れるにいたったのである (1950526

さて,国土総合開発法86)の目的とするところは, 「国土の自然的条件を考慮して,経済,社会.

文化などに関する施策の総合的見地から,国土を総合的に利用し,開発及び保全し,ならびに産 業立地に適正化を計り,あわせて社会福祉の向上に資すること」 (同法第1条)となっている。

その具体的な内容として,同法が定めるところによれば,

1)  土地,水その他天然資源の利用に関する事項(資源開発)

2)  水害,風害その他の災害の防除に関する事項(国土保全)

3)  都市と農村の規模および配置の調整に関する事項 4)  産業の適正な立地に関する事項

37)  友松芳郎「日本再建への胎動と科学技術」 『関西大学社会学部紀要』第7巻,第2 (1946)p.17   p.20

38)  稲葉秀::::「総合開発」 『経済学大辞典』 n.p.279, 東洋経済新報社 (1955)

39)  「経済復興計画ができ上るまで」経済復興委員会編『経済計画委員会報告』第3 p.lp.2 40)  経済企画庁戦後経済史編纂室編『戦後経済史⑪呈済安定本部史)』 p.405

41) 上掲也斡 p.377

42)  D.  E.  リリェンソール著,和田小六択『 TVA-—民主主義は進展する一』岩波書店 (1949) 43) 上掲臼鯛 p.4~~p.406。

経済安定委員会建設委員会連合審査議事録 007回国会衆議院,昭和蕊年430 73‑

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関西埓『社会学部紀要』第U巻第1号

5)  電力,輸送,通信その他の重要な公共施設の規模と配置ならびに文化,厚生,観光に関する 資源の保護.施設の規模と配置に関する事項

以上の5つの事項があげられている。そして,国土総合開発計画というのは,これら5つの事項 についての国または地方公共団体の施策の総合的,基本的計画であり,その対象とする地域によ

1)  全国総合開発計画

2)  都府県総合開発計画(北海道は,別に北海道開発法による)

3)  地方総合開発計画 4)  特定地域総合開発計画

4種類に分けられる(以上が同法第2条)。また, 計画及びその実施に関する調査,審議のた め.総理府に委員約30名を擁する(第6条)ところの国土総合開発審議会(第3条)を, 地方に は都府県あるいは地方総合開発審議会を設置することができる(第9条)ことになった。

北海道が別枠に取り扱われている理由については,衆議院の経済安定委員会建設委員会連合審 議会ヽ8)において, 430日,田中角栄委員が「北海道が内地ではないような感覚を起す」として 批判的な質問をしているが,これに対して,政府委員は北海道の特殊事情という不十分な説明だ

けに終り,将来は,国土総合開発法に吸収するという釈明がなされている。

当初,最も関心を集めたのは,上記(4)の特定地域であった。特定地域U )とは,国民経済自立目 標の達成に寄与する資源開発,産業振興ならびに国土保全.災害防除等に関し,高度の総合施策 を実施することにより,著しく効果の増大を期待し得る地域であったからである。特定地域には 利根川,只見川,北上川,天竜川,木曽川,飛越河川群,熊野川,渡)IIなどの主要河川流域を含 んでいる。 19の特定地域のうち, 13地域までが河川域の総合開発であるのを見ても,いかにアメ

リカの TVA方式に範をとろうとしていたかが,よくわかる。

しかし,こうして電源開発,治山治水,食糧増産.産業構造の重化学工業化等に重きをおく国 土総合開発体制が.ょうやく緒につき,これから,その活動を開始しようとする段階に入ったと

き,朝鮮戦争勃発によって局面は全く一変してしまったのである。

特 霊 プ ー ム と 産 業 合 理 化 政 策 と の 相 剋

朝鮮戦争の勃発 (1960.6.  25)に直面して,緊怠決定されたアメリカの参戦 (1950.6.  27) 国連安全保障理事会の追認を受け,北朝鮮軍の「平和の仕犯と仕略行為」に対する韓国支援国連 軍としての軍事行動となったi>(1960. 7.  7)。アメリカ駐留軍出動のあとの治安維持のため必要 不可欠として,マックアーサー元帥は, 78(1960)わが政府に対し,警察予備隊7万5,000

44)  稲葉秀三「日本の総合開発問題」 『経済学大辞典』 JI,p. 279p. 280, 東洋経済新報社 (1965) 長尾俊彦,遠山仁人「国土総合開発」 『世界大百科事典』 11, p.115, 平凡社 (1972}

74‑

(10)

戦後日本経済自立への転機と科学技術行政(友松)

名の創設,海上保安庁員8,000名の増員を指令した。こうして,わが国の再軍備につながる第1 が踏み出されたことを見のがしてはならない。先きに述べたところであるが,この年の11 マックアーサーのメッ七ージにおいて, 「戦争放棄」は自衛権を否定するものではないという表 明が,いま,ここで且大な意味をもってくるのであった。異常に緊迫した国際情勢がわが国を蔽 ぃ,占領政策と相容れない平和運動や労慟運動は,厳しい弾圧で押しつぶされ, レッド・バージ は仮借なく推進されたf5)

一方, ドッジ・ライン実施下,課税強化による有効需要の減退,海外市況の不振による輸出の 停滞などから,過剰生産,滞貨累積のもたらす深刻な不況に喘ぎつつ,経済自立の契機を模索し ていたわが国の産業界は,戦争勃発とともに,その窮状は全く一変して,蘇生するにいたったの である。それは, 日本を甚地として出動する米軍の武器の修理や軍需物資の買い付けなどによる,

いわゆる特需がプームを呼ぶ異常な活況を呈したばかりでなく,世界的な軍備拡張気連から軍需 関連物資に対する海外からの需要の高まりで,輸出の急増をもたらしたからである。もっとも,

日本の対共産圏向け戦略物資の輸出は,米国政府によって統制強化された (1950.7.  20,  8.  18)  ことはいうまでもない。

上記特需の主なる中味についていえば,修理,再生に関するものは,軍用車輛(トラック,ジ ープ,貨車等),船舶,航空機及び各種兵器等であり,また,軍需物資としては弾薬,有剌鉄線,

ドラム罐,石炭,建築鋼材,セメント,繊維製品(綿布,毛布,麻袋など),鉄帽,携帯口糧な どに及んだが, 日本政府が, これらの戦力形成に寄与する軍需作業を直接に発令するとか,運営 するとかは,本米,平和憲法に抵触することはいうまでもない。そこで,国連の軍需要求に応ず る米軍からの命令の形式をとって,米軍の管理のもとに「特需」として行われたのであったtl)o こうして実質上,アメリカの戦争下請に奉仕するものとして,わが国における兵器生産が再開さ れたことを重視しなければならないであろう。(その後, 195238日 GHQが一般民間工 場に対して,兵器生産を制限付ぎで許可する旨の覚書が出され,さらに48日,生産制限に関 する一部改正が行われ,購和発効前に生産の例外許可の道が開かれた)特需の受註高")は,貿易 外収入として19507月から19516月までの1年間に32,900万ドルに及び, 朝鮮戦争勃発 1,000億円から1,500億円と推定されていた滞貨を一掃するほどの額であった。しかし,特需の このような急増は,たしかに国際収支の破綻を防止し,大きな資本蓄積をもたらしたとはいえ,

わが国産業構造に,対米依存旋を高めるとともに,軍事的な偏りの肥大化t8)と科学技術の体制化 を復活させる契機となったことは否定できないであろう。

45)  たとえば,上掲湛(l{9「対共産党対策」の項, p.144p.146

松尾弘,山岡喜久男『増補戦後日本経済政策史年表』, p.l p.143,助草沿房 (1962) 46)  佐伯喜一,千賀鉄也「軍裾産業」 『世界大百科事典』 8, p.604, 平凡社 (1972) 47)  極東軍司令部経済科学局精算事務所資料。

経済安学本部編『経済白害』昭和27年度年次報告 p. 75,  東洋歯館版。

48)  長洲ーニ「戦後技術の展開と変貌」 『現代日本産業識座』 1 近代産業の出発, p.o,岩 波 西 店 (1967) 

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(11)

関西大学『社会学部紀要』第立巻第1

とまれ,特需と輸出の急増は,特に大企業を潤おし,戦争の長期化にともなって,それらが関 連需要を連鎖的に喚起させ,やがて産業界が全般に好況を迎え,一勢に生産力拡大をめざして増 産体制に転じた。鉄鋼,非鉄金属,皮革,ゴム,自動車,ガラス,セメント,紙,化学薬品,綿 紡化繊など製造部門は,電力,石炭,海運などの基礎部門とは異なって急激な発展をしヽe>,内需 にしか市場をもたない分野にも,この好況が波及していったのである。わが国の産業は,まだ,

国際的に見て生産性が低く, コスト高であったにもかかわらず(欧州側がマーシャル・プランの 受入協力機構として, 19484月,欧州経済協力機構 OEEC(Organization for European Eco nomic Cooperation)を設立したのを契機として, その加盟各国は相ついで生産性センクーを設 置し, アメリカの高い生産性の尖情を調査し, その成果の普及に努めていた)50>,  海外の有効需 要,仮需要の増大51)は,輸出単価の急騰となってあらわれ,一方,原料の輸入単価は,その値上 りが概して鈍かったため,輪出の大半が工場製品であり,輸入の大部分が工業原料及び食糧であ るというわが国特有の産業構造では.これが国内価格における原料安,製品高となってあらわれ,

企業に高い利潤をもたらした。 194951,000万ドルであった輸出総額は, 1950年には82,00 0万ドルになり, 1951年には125,000万ドルにふくれあがった52)。そして,鉱工業生産指数は19 5010月には,早くも戦前水準を突破する有様であった。

しかし,このような戦争ブームのもとでは,企業は無理をしてコストを引き下げ,品質向上を はかる必要はなくなる58>。品物をつくりさえすれば売れるからである。ドッジ・ラインが強要し た産業合理化と技術進歩への必死の努力がゆるんで,生産の安易な量的拡大が再び可能になった のである。従って, 1949913日,閣議決定の「産業合理化に関する件」が合理化の目標とし て掲げた「国際価格への鞘寄せ」H ) なんら現実的な意味を持ち得なくなった。戦争プームに よって蓄積された資本による産業設備投資が活発化したとはいえ (1950年度1,650億に達し,戦争 勃発の前年度1949年度に比ぺて,約 3 割増`"—ー物価上昇を調整すると 18%増ーー),投資の重 点は,生産施設の補修整備や単なる量的拡大であって,技術進歩を目ざす近代化志向の合理化投 資は,戦災をひどく受けた消費財生産関係を除き,被災が少なく残存設備の大きい重工業部門で は殆んど行われなかったのである。 ドッジ・ラインは, もはや,不徹底のまま,大きく崩れ去ろ

うとしていたといえよう。

49)  経済企画庁戦後経済史編纂室編『戦後経済史』総観編, p.344,大蔵省印刷局 (1957) 50)  通商産業省編『商工政策史』第10巻,産業合理化(下) Cllllt p.288p.289 51)  経済安定本部編『経済白由』昭和27年度年次報告, p.66

52)  松尾弘,山岡喜久男『戦後日本経済政策史年表』, p.141,勁草宙房 (1962)

*註 本拙論の83ページに掲げた自立経済総括表昭和2F度の翰出の項を参照。

53)  上掲書閾, p.56

54) 友松芳郎上掲論文(4),p. 

合理化の目標として掲げられた「国際価格への鞘寄せ」は「合理化の基本方針ならびに榔想」として,

すでに, 194975日「企業合理化方策の確立に調する件」の中にとりあげられ,それが, 19499 13日「産業合理化の件」に盛り込まれ,閣議で決定されたのである。

55)上掲占躙, p.56

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