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日本稲の起原について(1) : 南方伝来説批判

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(1)

日本稲の起原について(1) : 南方伝来説批判

その他のタイトル The Origin of Japanese Rice

著者 鋳方 貞亮

雑誌名 關西大學經済論集

巻 7

号 1

ページ 1‑14

発行年 1957‑04‑01

URL http://hdl.handle.net/10112/15669

(2)

日本稲の起原について︵鋳方︶

( 1 )  

去る昭和十年三月︑筆者は﹁本邦古代に於ける稲の問題に就いて﹂と題し︑わが国における稲の由来︑当時︑栽

更に︑同十五年十二月︑

( 2 )  

﹁本邦古代の稲に関する二三の問題︒ー│l稲由来説批判ー﹂と題して︑

さて︑日本稲の起原に関する研究史を幡くに︑一明治・大正年間にあっては︑専ら南方伝来説が行はれたが︑昭和

( 3 )  

( 4 )  

ところが︑去る昭和二十六年四月︑農学博士安藤広太郎氏が﹁日本古代稲作史雑考﹂を上梓せられて以来︑南方

ー ー 南 方 伝 来 説 批 判 ー

日 本 稲 の 起 原 に つ い て

(‑) 

方 貞

いわゆる南方

(3)

( 6 )  

安藤博士は﹁稲の伝来﹂の冒頭において

伝来説は再び脚光を浴び︑抜くべからざる勢力を有するに至っている︒改めて言うまでも無く︑前期

1明治・大

正時代ー—·の南方説と、現在のそれとが、質的に異つていることは勿論である。と同時に、精密の度を加えたこと

もまた寧ろ当然である︒而して︑新南方説ー│寧筆者は明治・大正時代の南方説と区別するため︑敢てこのように名

( 5 )  

づけたいーーは︑先に挙げた安藤博士とともに︑民俗学者・柳田国男氏︑及び︑国分直一氏等によって力強く支え られているかのようである︒たゞし︑安藤博士が︑江南地方から直接朝鮮半島南部及び日本の北九州へ別々に稲が 齋らされたとするのに反し︑国分氏が中国東南沿海を北上した稲が一とまづ南西朝鮮半島へ移入され︑そこから九

州へ伝播したと考へておられる点︑純粋な南方説と云えないかも知れない︒

しか

し︑

この新南方説が如何に説得力ある研究であるとしても︑筆者は直ちに該説に承服することは出来ない︒

納得し難い二三の疑義が筆者をして︑以下︑まとまりのつかない愚説を述べるべく駆りたてたのである︒初めに安

藤博士等の諸説を紹介し︑最後にそれらを批判︑且つ︑管見を述べてみたいと思う︒

我国に於ける稲作の起原頗る古きことは︑各地より出土せる弥生式土器に籾の圧痕あるものが幾多の考古学者によりて発見

報告せられ︑また我国最古の文献である古事記︑日本書記の神代の記事中に稲を栽培したることがあり︑尚地方に於ける伝記

を記した風土記中に稲の記録せられていることによりて見るも明かである︒稲は其熱帯性植物である点より︑これが我国に自

日本

稲の

起原

につ

いて

︵鋳

方︶

(4)

日本

稲の

起原

につ

いて

︵鋳

方︶

先づ

︑ ︵ 二 ︶ ︵ 一 ︶

江南地方より東して対馬海流により我北九州或は南鮮に来ること︒

後者は印度型稲

(O

ry

za

S at i

v a 

l nd i

c a)  

であ

生したとは考へられぬから何れかの地方より伝来したものであることは云うまでもない︒されば何処より伝へられたかが問題

である︒この伝来について学者の間に二つの説があり未だ定説に達していない︒その一っは南方より海を渡りて来たとする南

方説であり︑他の一つは北支那より朝鮮を経て来たとする北方説である︒この両説何れが事実に近いかこれを今日立証するこ

とは頗る囲難であるが︑次にこの両説の主なるもの及びその論拠を記すと共に之に対する私見を述べてみやう︒

と述ぺつ4

︑従来行はれた南方説・北方説および南北二源説を批判し︑更に︑現時︑中国では不粘稲を梗.釉に 大別しているが︑前者は日本型稲

(O

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za

S at i

v a 

Ja

po

ni

ca

)

であ

り︑

( 7 )  

て︑梗稲伝播の中心地は︑江南地域であろうと指摘された︒

( 8 )  

さて︑北方説を否定せられた博士は︑﹁かように支那に於ては古くより南支及江南地方に稲作が行はれていたの

であるから︑

これ等の地方に居住する民族によって稲作が北支及東方日本︑朝鮮に伝へられたのであらうことは容

( 9 )  

易に想像し得られる︒そうして我国への伝来が前に述べたやうに北支より朝鮮を経たのでないとすれば何れの地方 からであったらうか︑またどの経路が最も重要であったかを尋ねて見たい︒この経路について考へられるのは凡そ

( 1 0 )  

次の三海路である︒﹂として︑次の三つの場合を挙げて居られる︒

︵ 三 ︶

南支の海岸より黒潮に乗って薩摩の南端より本島の太平洋沿岸地方に来ること︒

南方より島伝ひに来ること︒

︵一︶については﹁黒潮に乗って来ることは距離が遠く航海の危険も多くて彼我の交通が容易でないか

(5)

ら︑この径路で多数の民族が移動することは困難であり従って我国に稲作を伝へたとしても漂流人が持ち来った程

度であり且つその稲は南支一帯に栽培せらるる印度型稲であるべきだ﹂とせられ︑三河出土弥生式土器の圧痕が印

度型であること︑及び日本後記・巻第八・桓武天皇・延暦十八年七月に毘裔人が三河に漂着した記事あることなど

近に過ぎずして広く他の地方に及ぼすこともなく日本型稲の伝播につれてその栽培が次第に洵汰せられたのではあ

( 1 1 )  

るまいか︒﹂と結んで居られる︒

︵二︶に就いては﹁この経路はその可能性が多いと思はれるが︑そうであるならば台湾より沖縄群島を経て伝ヘ

られたことになるのだから沖縄地方と台湾との間に稲の呼名に関聯があるべきはずだと思はれる︒台湾の高砂族の

︵昭和一六年阪︶及古野清人氏著﹁高砂族の祭儀生活﹂

和二

0年版︶によれば台湾東海岸のアミ族では稲を︒ハナイ

(P

an

ai

︑米をブラツ)

(B

ra

ts

)

と呼んで居り︑又同海岸南

部の︒ハナ︒ハヤン族ではロマイ又はルマイ

(L

om

ai

,  Lu

ma

i)

︑中央部のプヌン族ではパル

(P

al

)

族で

は︒

ハイ

(P

ay

i)

と呼んでいる︒このパナイ︑

イー

︐  ゜ ︑

西海岸中部のツオウ

︒ハル及プラツなどはマライ語の︒ハッヂー

(P

ad

i)

︑プラ

(B

ra

s)

と相通ずるものであるから台湾までは南方諸島から稲作が伝へられたことを認め得られる︒しかるに浜

田博士の示槌る琉球語はウルヒシ

(U

ru

hi

si

)

又はウルビシ

(U

ru

bi

si

)

であって台湾高砂族語とは一致しない︒この

点は或は新村博士の説かれたやうにプラスの転化したものと考へられるが︑それならば台湾と沖縄群島との間に他

︵昭

和一

八年

阪︶

一頁に﹃日本語圏の南部境界線は八重山方言圏と台湾原住民語圏との間に劃せられているのであるが︑台湾原住民 に言葉の連絡があるはずだとの疑がおこる︒これについて奥里将建氏が其著﹃古代語新論﹄

の五

稲及米の呼名は帝国学士院編纂の﹁高砂族慣習法語彙﹂

︵ 昭

から

一応︑黒潮による南方からの渡来を認めておられるが︑﹁しかしその時代は知る由もなくその区域も三河附 日本稲の起原について︵鋳方︶

(6)

第三の径路である江南地方海岸より東して対馬海流によって我北九州或は南朝鮮に来ることは支那大陸と本邦との間の距離が最短であり第一︑第二の径路に比ぺて危険も少く集団的の移動が容易に行はれ.得るから三径路中最も重要であると思はれ

( 1 4 )  

る︒前に引用した烏居西村両博士は我国に移動して来た南方系の民族は江南に居住していた民族であると説けるによっても︑

これ等の民族が多数我国に移動する際に江南の稲を齋して我国稲作の基礎を築いたのだと考へてよいであるまいか︒現在のと

ころこの民族が我国に稲を伝へたとの確かなる証拠を挙げることは出来ないが︑この民族が古くより稲作を行っていたことは

( 1 5 )  

宇野博士の論文にも明かであり︑また中華民国の古史である史記平準書中に﹁江南火耕水蒋﹂筆者訓︑

の語あり︑漢書地理志楚地の条下に﹁江南地広︑或火耕水縛︑民食魚稲︑以漁猟山伐為業﹂

耕水蒋す︑民魚稲を食ひ︑漁猟山伐を以つて業と為す︶とあり︑呉地の条下には﹁今之会稽︑九江︑

丹陽︑予章︑麗

麿

これを知らない﹂と説き︑

(‑︱‑︶については次のように述べて居られる︒

り︑又伊庭普猷氏は其著﹃沖縄考﹄

︵昭和一七年版︶に於て沖縄列島の民族は九州の東南端より大隅の口之永良部と

七島間七

0

海里の阿麻弥州之渡を渡つて南下したもので︑最初奄美大島に辿りついた後に沖縄島の北部或は西北諸 島に上陸して漸次南方に移動したやうに思はれるといつて居り︑且つ沖縄列島の方言は古代日本語から分岐したも のであるといつてゐる︒この両氏の説くところによれば︑言薬の関係からは南方より島伝ひに来たことは台湾まで であり︑台湾よりは黒潮に乗って我国に来なければならないことになる︒又言葉の関係を離れて菅氏の説けるやう

( 1 2 )  

に島伝ひに来て薩摩の南端地方に上陸したとしても︑その齋した稲は第一径路の場合と同じく印度型のものである

べきはずである︒しかしこれ等の点については未だ確かな証拠となるべきものがないやうであり少くとも予の寡聞 語から八重山方言圏への流入が殆ど全く認められない﹄と記し沖縄︑

(7)

︵ 三 ︵ 二

て創始せられたと認めてよいであらうと思はれる︒

︵ 一

江︑広陵︑六安︑臨淮郡は尽く呉の分れ也︑本︑呉毒は楚と接比し数々相併せ兼ね︑故に民俗略々同じ︶とあるによっても知

ることが出来るから︑この民族が我国に移入したとすればその常食たる稲を齋してこれを栽培し我民族に伝へたであろうこと

は容易に想像し得られる︒そうして前に述べたやうに江南地帯殊に其東海岸地方には日本型の梗稲栽培が発達していたと想像

せられることと︑我九州︑大和等より出土せる弥生式土器の籾痕が日本型稲であったこととを併せ考へれば我国への稲の伝来

にはこの第三径路が最も主要なるものであるといつてよいと思ふ︒

而して︑稲の伝来に関する総括的結論として︒

稲の原産地としてはアジアでは印度のみでなく南支那︑印度支那が含まれ︑稲の耕作が印度と南支那に於て各独立し

我国の稲作は江南地方に於て稲作を営み稲を常食とする南方民族の我北九州及南鮮に移入し来り稲作を伝へたるに始

るものと思はれ︑その稲は江南地方で栽培が発展していた日本型梗稲であったと推考せられる9

稲作渡来の時代は考古学上の弥生式土器時代の西暦紀元前一世紀頃にしてこれより多く遡らないものと思はれ︑平坦

低湿なる河辺又は沼沢地に於て始まったと考へられる︒

︵四︶我国の稲作は南鮮地方と略同じ時代に双方に於て始まり我国と南鮮との間には何れから何れに伝へたといふのではな

( 1 6 )  

と述べて居られる︒而して︑右結論の大前提ともいうべきものは︑稲は熱帯性植物であるから我が国に自生した とは考へられぬという点である︒換言すれば︑右の結論は熱帯性植物である稲が温帯地域の我が国で栽培されてい

それが他地域から移入されたからである︑という点から出発している︒筆者は先.つこの点に大なる疑問を

( 1 7 )  

もっのであるが︑これについては後に述ぺる︒たゞ︑殆どすべての稲乃至稲作の研究者達が︑安藤博士と同じ立場

(8)

日本

稲の

起原

につ

いて

︵鋳

方︶

から日本稲乃至日本稲作の起原を研究していることを附加しておこう︒

以下︑便宜上︑博士の結論について︑思いつき的であるかも知れぬが︑二三の批判を試みる︒

︵一︶については筆者も略々同感である︒稲の原産地︵野生稲の被発見地︶は︑

南島︑台湾︑インドシナ︑比島︑シャワ︑ビルマ︑インド︑マダガスカル︑中部アフリカ︑︐オーストラリア北部︑中

( 1 8 )  

米キューバ島︑南米ブラジル等﹂を数えるが︑各地域で別個に稲栽培が創始されたとは今のとこる考えられない︒

︵ 二 ︶

これは先に掲げた三つの径経の中︑第三径路にあたる︒問題はこの︵二︶にある︒博士の論拠は凡そ次の

一︑江南において古くから日本型梗稲が栽培されていたこと︒

二︑日本においても古くから日本型梗稲が栽培されていたこと︒

三︑江南からわが北九州あるいは南朝鮮への航路は︑支那大陸から本邦あるいは朝鮮半島への最も安全且つ最短

距離であること︒

四︑江南の稲作住民が稲をたづさえて我が国へ移動したことが我が国の稲作起源であること︒

一︑二︑三については問題は無い︒四︑

を業となす︑

故に海を越える冒険を敢えてしてまで︑ しかしそれならば何故に彼等は北九州或は南朝鮮に移住しなければなら

なかったのであろうか︒先掲のように漢書地理志には︑江南の地広く︑或は火耕水蒋す︑民魚稲を食ひ︑漁猟山伐

とあるように︑この地方は極めて自然条件に恵まれている︒このように恵まれた然も広い地域から何

わざわざ狭監な九州へ移住したのであらうか︒筆者はどうしても理解する

ことが出来ない︒今仮に一歩をゆづつて︑江南住民が稲を携えて移住したと考へよう︒ 四点に要約されるかと思う︒即ち︑

﹁新旧大陸にわたり中国広東︑海

(9)

であ

る︒

いるのは何故であらうか︒ 定住の目的であるならば︑恐らく︑彼等は稲以外に日常の什器をもつて移住したに違いない︒例へば農耕具︑漁携具︑狩猟具等を初め︑貯蔵用土器︑炊事道具等を携帯した筈である︒稲ーー移住先で種子︵播種用︶に役立てるためには米では不都合であるーー`だけをもつて来る筈もない︒しかるに︑わが国の遺物は江南的色彩に全く欠けて

中支方面で甕棺

( 1 9 )  

が発見されたこと︑北九州・南朝鮮で甕棺が発見されていることを一の傍証として居られるようあるが︑稲と死体

埋葬用の甕棺とだけをもつて移住するということを果して考え得るであらうか︒これ亦筆者の理解し得ないところ

︵ 三 ︶

︵ 殊 に ︑

弥生式土器系統の文化は殆ど凡て朝鮮半島系である︒︶また博士は︑

︵四︶については︑拙稿と現在直接関係が無いから省略する︒

(1)経済史研究•第十三巻•第三号(2)農業経済研究•第十六巻•第四号

( 3 )

日本原始農業・東京考古学会︒第一部・論考編︑第二部報告編から成つている︒

( 4 )

日本古代稲作史雑考・一︑稲の伝来︑

尚︑後に引用するであらう﹁稲の日本史﹂のあとがきには次のように書かれている︒﹁もう五年前に遡るが安藤広太郎 先生の﹃日本古代稲作史雑考﹄が出版された祝賀会を柳田国男先生の提唱で︑中野星ケ丘茶寮で開催されたのは昭和二 十六年初夏であった︒それは安藤老先生をかこんで柳田国男・石黒忠篤・東畑精一の諸先生のささやかな而も心から御 労作を祝福する会合であった︒周知のようにこの御労作は稲の伝来を考古学︑言語学︑史学︑栽培学︑植物学︑或いは 人類学︑海洋学と広い視野から深く考察されたものであり︑日本人と稲作の関係の究明に大きな鎚を与えられた画期的

のものである︒

もともと日本人にとつて最も関係の深い稲や稲作の伝来の解明は︑日本民族文化のれい明と︑その発展の探求︑日本 国民生活の展開を︑科学的に瞭かにする貴重な手掛りであると信じているものも少くない︒稲や稲作の歴史を明らかに

日本

稲の

起原

につ

いて

︵鋳

方︶

(10)

︐ 

日本稲の起原について︵鋳方︶

することは︑日本の文化史を見直していこうとする上に︑科学的な方法であり︑農業発展過程の研究にも基本的な態度 でもある︒このような立湯で文化科学と自然科学の分野から︑従来研究されてきた稲及び稲作についての学問的成果を 総合して︑将来の学問発展への礎石たらしめようとの主旨で︑稲作史研究会が生れたのは昭和二十七年六月であった︒

それは安藤先老先生の御労作の発刊が機縁となり︑柳田先生の熱心なる勧奨と農業総合研究所長東畑精一博士の理解と 協力の下に出発したのである︒会員には安藤広太郎︑柳田国男︑石黒忠篤の諸先生の低か︑文化科学と自然科学の専門 家が十数名参加し︑この会の責任者には農林省農業技術研究所長盛永俊太郎博士があたられたのである︒﹂如何にこの 書の影響が大きかったかが察せられよう︒しかも︑稲作史研究会の業績は目ざましく︑廿七年以来︑十一回にわたる貴 重な研究会を開催し︑廿九年には﹁出土古代米﹂︑冊年には﹁稲の日本史﹂を刊行している︒

(5)国分直一氏、「我が国古代稲作の系統」農林省•水産講習所研究報告・人文科学篇•第一号・昭和三十年九月発行。.

(6

)

日本古代稲作史雑考︑一︒

(7

) 同右︒主として中国文献に依拠して考察を進められた博士は次のように述ぺて居られる︒

﹁以上述ぺたことによって古代支那に於て日本︑印度両型稲が栽培されていたことを推測し得られると思う︒そうし て現在中華民国に於ける江北︑江南や南支の米生産地である各省に亘つて面積の多少はあるが梗稲の栽培されているこ とはこの推測を支へる傍証ではあるまいか︒殊に江蘇省江南地区内の蘇州︑常熟︑無錫に亘る一帯の地方では米生産額 の約六五形が梗米であり︵昭和一五年興亜院華中連絡部の調査による︶︑又この地帯に接続している浙江省東部海岸地 方には梗稲が甚だ多く且同省全部の稲田面積の半以上が梗稲を栽培している︵民国二六年中国経済研究室絹商品研究叢 書﹁米﹂の邦訳による︶ことは地方其他の環境の関係以外に大なる原因が在るのではなかろうか︒それはこの地方を占 有し稲作を行った先住民族が南支より北上の際当時南支に於て成立していた日本型梗稲を偶然斎し其栽培を発展せしめ たのではないかと思はれることである︒もしこの憶測が許されるならばこの地方が梗稲伝播の中心地であったであろう

と云うことが出来ると思う︒﹂

(8

) 浜田秀男博士の北方説に対し︑安藤博士は︑次のような反取を行って居られる︒筆者も曽て﹁本邦古代の稲に関するニ 三の問題﹂において︑浜田博士の説に対し︑別の立場から批判を加へた︒冗長になるかと思うが︑安藤博士の立場を判

然させるため、敢て次の用を試みる。(前掲書・一、稲の伝来)「博士(筆者註•浜田秀男博士)は我国への稲の伝来

(11)

については︑南方を認めつつ主として北支より朝鮮を経て伝へられたとし︑其理由として漠時代に於ける朝鮮討伐及其 以後に於て朝鮮との交通頻繁なりしこと︑並に現在北支︑朝鮮の稲に日本型の多きことを挙げているが︑予はこれに 対して多少の疑義なきを得ないのである︒漠の武帝が朝鮮を討伐して楽浪四郡を置いて以来︑北支と朝鮮との交通頻繁 なりしこと︑我国と楽浪郡との交通ありしこと︵註略︶等よりして︑稲が北支より北鮮に伝へられ︑更に我国に渡来し たのだという博士の説は一応肯づけるように思はれるが︑ここで考うべきことはある民族が他の民族の地に移入する場 合に其商す所の食用作物は其民族の常食であり︑且つ一般に広く栽培せらるるものであろうということである︒この意 味よりして当時北支に於ける民族大衆の常食が何であったかといへば黍稜麦等であったことは余りにも明かで特に証拠 呼ばはりをする必要はないと思う︒﹂而して︑北支が所謂乾地農業地帯であって︑パック

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の地域を冬麦小米区︑冬麦高梁区と名づけたことを挙げ︑更に︑戦国時代から秦漢時代にかけて盛に溝渠を掘り濯漑を 行っているがそれは稲作のためでは無く︑禾.黍作のためであった︑稲はあくまで貴族的食糧であり︑周礼・稲人の 条︑斉民要術等より稲作は隔年であって労苦の多いものであったから﹁かかる特異性を持つ稲作が北支と風土関係が略 類似している北鮮に於て漢民族によって伝へられたとしてもその発展は望めなかったのではなかろうか︒仮りに漠の朝 鮮討伐後北鮮に於て稲作が移入され発達したとするならば︑少くも北鮮に於ける稲の呼名が北支のそれと近似性を持つ べきであると思はれるが︑この間に何等の関聯を認めることが出来ない︒又北鮮と南鮮の韓民族︑及我北九州とは楽浪 郡時代に交通があったのであるから稲がこの地方より伝へられたとすれば南鮮及我国に於ける稲の呼名である方言が北 鮮と同一であるか︑或は相互に密接なる関係を持つぺき筈である︒しかるに小倉進平博士の﹃朝鮮語方言の研究﹄︵昭 和一九年阪︶によれば朝鮮に於ける稲の方言は

P j : >

又は

Pe

na

, ra

k

との二系統があり︑

na

, ra

k 系は南部方言に

P j : >

は北部方言に属するということが出来ようと述ぺ︑昔の三韓地方であった全罐及艇尚両南北道の大部分は

na

  ,  r

ak

系統に属し︑京畿以北の各道は主として

P j : >

系統の語が用いられることを記している︒このように朝鮮の南北 に於て稲の方言がはつきりと異つていることは︑其南北によって稲の伝来系統を異にしていることを想像せしめ︑南鮮 の稲作が北鮮より伝へられたことを否定するものではないだろうか︒それと同様に我国の稲作が楽浪時代に於ける彼我 交通の産物であるとは考へられないと思う︒これ予が直ちに氏の北支説に賛意を表し得ない理由の一である︒又氏は我 国︑朝鮮及北支に於て現在栽培せらるる水稲の多くが日本型であるということを北支説の一翼としているが︑其根拠は

日本稲の起原について︵鋳方︶

10  

(12)

旧本稲の起原について︵鋳方︶ ( 1 0 )

( 1 1 )

(12)菅菊太郎氏「我国の稲及び稲作の起源に関する研究」農業及園芸・(第一九巻四·五号、昭和一九年四•五月)安藤博

士の前掲書引用に依れば次の通りである︒

﹁稲の原産地が既に南洋東印度なることを肯定するに於て︑南洋諸島又は隣接諸国を経て我国に早く伝来せらるぺき は民族の遷移又は漂着と共に容易に実現せられ得べき妥当性は何人も否むことは出来ない︒︵中略︶況んや北支より山 東省にかけて︑我国へ伝来の経由たるぺき地方の稲作史実は︑我国︵葦原中ツ国︶乃至高天原稲作実施より後るるもの

甚だ薄弱であると思はれる︒それはこれ等の地方に日本型水稲の伝来が氏の説くように北支に起るとの考へが唯一

5

のでない限り正しいとはいへないのであり︑又水稲栽培の盛なる中支地方に於て日本型の多いことは︑伝来の源として

考へ得らるべきことであるからである︒氏はこれ等の.点を考慮せずして北支に力を注げるほ漠時代に於ける朝鮮討伐を

余りに重視したためではないだろうか︒このことの当否については前に述ぺた通りであり︑その他に北支よりの伝来を 支ふぺき何等の根拠を見出すことが出来ない︒これ又予が北支説に賛意を表しかねる他の理由である︒﹂

(9

) 南支那より印度支那に亘る地域が印度とは別なる稲の原産地であり且つこの地域の先住民族がこれを利用して稲作を創 めたとするならば支那︑安南等の稲の呼名が印度と関聯のないことは容易に肯けるであろう

9

かように南支に於て始められた稲作が如何にして北支及中支地方に伝へられたかについては確証がなく想像に委すの 外ないのであるが︑これには二つの径路があるように思はれる︒その一つは苗族が南支の南方地帯︵広東を中心とせる もの︶より河流に沿つて北上し楊子江両岸に到る地方に稲作を伝へ更に北支地方に及ぼしたと考へられる︒それは漠武 帝の南越討伐が河流の利用によったことから察すれば︵漠書武帝本紀及列伝南幕の条下参照︶北︑中支と南支との交通 が主として河川に依ったのであろうと思はれるからである︒また他の径路は時代は後れているかもしれないが宇野博士 の説いている西暦紀元数百年前の時代に南支の海岸より北支の海岸部を占めていたモンクメール族︵筆者註・宇野円空 博士﹁マライシャに於ける稲米儀礼﹂︶などが南支より楊子江以南の江南︑浙江地方に稲作を伝へて更に江北︑北支に

及ぽしたのであろうと思はれる︒

(13)

と考へらるるに於ておやである︒是に於てか之を伝へた民族は如何なる民族なりやとの問題が起るが︑前段にら記述し たる常世族︑苗族及び隼人民族こそ伝入者でなかるまいか︒隼人民族がインドネツア族であり︑苗族が印度支那族であ り︑共に南方種であることは︑夙に吉田東伍博士等も唱嘩したる所であって︑彼等が我国の原始民として特に籾藁等の 圧痕を残したる其弥生式土器を研究する時︑南方土人固有のものなることは︑其底面不安定なるもの及底面に小穴ある もの︵米穀を蒸煮する甑に使用︶を有するにて一般考古学者の認むる所となって居る︒是等の民族が我国に渡来するに 当りては︑其土器と稲種を携へながら︑道順の便宜に於て先づ薩南の南に上陸したと見ることが妥当である︒﹂

しかし︑実は弥生式土器が北方系︵朝鮮半島系︶の土器であることは︑先刻︑考古学者の定説であり︑鳥居竜蔵博士 によって唱えられた説ー│'銅鐸は苗族が我が国にもたらしたものであるから︑稲も彼等が移入したとする説︶もすでに 銅鐸が弥生式文化の一所産であることが︑梅原末治博士によって確められている現在︑肯定し難い︒また隼人民族とい うものが︑インドネツア族であったかどうか︑実証する必要がある︒そして︑安藤博士の説のように︑南方ィンドネッ ア或は印度支那から北上したとするならば︑それは印度型稲であった筈である︒

( 1 3 )

鳥居竜蔵博士は其著﹁人類学上より見たる我が上代の文化﹂︵前記菅氏の論文及小野武夫博士﹁日本農業起源論﹂に引 用せる所に拠る︶に於て我国に出土する銅鐸を南支那地方の苗族の有せる銅鼓と比較し︑この銅鐸が我国に於ては殆ん ど何等の伴出物を有しないこと︑且つ其面に描かれたる風俗画からして銅鐸は南方的であり且つ苗族の銅鼓にも類似し ているから︑我国出土の銅鐸は南支那種族の商したものに相違なく︑この種族が我国に稲を携え来り︑その前から我国 に住居していた弥生式民に稲作農業を伝播せしめたものであると論じている︒︵筆者註︑鳥居博土の説を理解するため には︑﹁人類学上より見たる我が上代文化・ニ

0

我が上代の農業と農具﹂を見ただけでは不充分である︒同博士著﹁有 史以前の日本﹂の中︑﹁我が国の銅鐸は何民族の残した物か﹂︑﹁銅鐸使用者と吾人祖先先駆者との接触﹂︑﹁人種学 より見たる南支那に就て﹂︑﹁苗と裸獨﹂を併読する必要がある︒尚︑本説が現在殆ど考古学的

否定されていることi c

を附加しておこう︒︶

( 1 4 )

西村真次博士は国史辞典巻一︵宮山房版︶いねの条下に於て﹁稲はどこから︑いつ頃︑何人によって翰入されたかと云 う問題が起る︒最初に烏居博士は楊子江に沿ふた沖腋層に住んでいた苗族と同種の印度支那族が稲を栽培していたこと を指摘し︑そこから我国に稲作が翰入されたらしいことを銅鐸その他の傍証によって主張した︒併し一般にはインドネ

日本稲の起原について︵鋳方︶

(14)

日本稲の起原について︵鏑方︶

ツヤ地方から稲が将来されたことを信じようとしている︒これらの二通りの仮説の中︑どちらがより真実に近いかは砕 かに判断できないが︑印度支那起源説の方が立証し易くはなかろうか﹂と述べている︒

(15)安藤博士・前掲書より引用︒

宇野円空博士は其著﹁マライツヤに於ける稲米儀礼﹂︵昭和一六年阪︶第三章・稲作の起源と伝播の条下に於て印度 及支那に於ける稲作の起源︑マラインヤヘの稲作の伝播を民族学的見地より研究詳述せるが︑博士は稲作の起源を印度 なりとし支那に於ては野生稲を耕作したと考へることは不可能な想像ではないとしても南支より北支に亘る海岸地方を 占めていた民族が印度稲作地帯の民族と同じである関係から印度よりもたらしたというのが寧ろ至当であろうといい︑

マラインヤは旧マレイ族が東南アジア大陸より伝へたものと述べている︒こ

4にその支那に関する要点を摘録すれば次

のようである︒

支那に於ける稲作は印度のそれと共に歴史的に最も古く︑その伝説は悠古の時代に遡るが︑漠民族が西北から漸次黄 河以南に侵入し稲作を始めたのは周代の中頃以後のことである︒そしてこの以前既にこの地の先住民は相当進んだ方法 で稲を耕作していたので︑西北から入って来た民族層も漸次これを伝習したのであるが︑先住民族が如何なる民族であ ったかは未だ十分明かでない︒現在四川︑雲南から東京及緬匈の北辺に居るロロ

Lo

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が南支那の原住民と云はれる が︑其の生活は狩猟と牧畜が主で稲作民族ではない︒又広東から緬匈︑印度支那︑泰に拡つているタイ

T ai ,

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とも云はれるが︑この民族が楊子江沿岸の南支那一帯の文化を代表したとは思はれない︒なお後代まで江南に残された 先住民の子孫として︑今の苗族

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M,

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se

の一類を挙げる人もある︑この民族の分布爾囲は嘗ては南支那の大半 に拡つていたので中部支那の先住民であったと見なされるのは当然であるが︑中部支那の稲作がこの苗族の原始的な方 法を学んだ支那人によって発展したとしても︑苗族がどこから伝承したであろうか︒それは彼等の祖先が野生の未を得 てそれを耕作するに至ったと考へることも不可能な想像ではないが︑寧ろ南方の地方で既にこの風習を持つていた民族 から伝承したと見た方が少くも風土の関係からいつて自然である︒それでは南支那の稲作の起源は如何なる民族によっ て支那人に伝へたのであろうか︒それは紀元前数百年の時代に南支那海岸より北支那の海岸部を占め支那人や苗族とも 接触したことが不可能でないと見られるモンクメル人若くはオーストロアジア系民族であろう︒この民族はその原住地 はともかくペンガル湾沿岸まで全体に亘つて稲作の風習を持ち︑これを民族生活の固有の様式としていたので︑殊にそ

(15)

の東部及中部印度に於ける同族ムンダでは支那人の江南侵入より約千年前に既に稲作が可なりの程度まで進んでいたの であるから︑このモンクメル人が南方から稲を資して直接支那人に伝へたか或は苗族の間に先づ取入れられて後さらに 漢人がこれを伝承し発展させたというのは民族学的に極めて至当な想定であるう︒﹂

( 1 6 )

安藤博土・前掲書︒(17)拙稿、本邦古代の稲に関する二三の問題・農業経済研究•第十六巻•第四号(昭和十五年十二月)

( 18 )

浜田秀男理博﹁日本稲と野生稲﹂︵朝日新聞・昭和三十年三月四日︶

( 1 9 )

前掲書︑一︑稲の伝来︒梅原末治博士﹁日本考古学論孜﹂より引用︒

日本稲の起原について︵錆方︶

一 四

参照

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