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[資料紹介] ステュアート研究に関する2つの文献( 二)

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[資料紹介] ステュアート研究に関する2つの文献(

二)

その他のタイトル [Material] Two Literatures for Study on Sir James Steuart (2)

著者 戒田 郁夫

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 3

ページ 369‑377

発行年 1963‑09‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15439

(2)

論に求めたものであるが︑そこでのイーグリイの論証は単純か

つ浅薄であり︑いちじるしい混乱に陥っているとの鋭い批判が

( 2 )  

ある︒このような指弾を生ぜしめた究極的原因が彼の歴史意識

の欠如にあることは云うまでもない︒しかしながらそこに伏流

せる意図は︑スミス型とステュアート型という相対立した二つ

決するための媒介項としてアスビレーションなる概念を﹃原

理﹄から援用しかつ造型することであった︒通説を批判する場

ステュアート研究に関する二つの文献口︵戒田︶ いる貯蓄と消費のジレンマという理論経済上の一問題を解 の経済発展方式ー│抽象的理論の帰結としての│ーが提起して 概念的模型をステュアートの﹃原理﹄の根幹となっている奢移 開発におけるアスビレーション効果の役割を高く評価し︑その

( 1 )  

前稿で紹介したイーグリイの説は︑経済発展とりわけ後進国 資料紹介

ステュ

合︑自説の正当化のため旧き権威に依拠し︑それを自己の都合

の好いように改易してしまうのはひとりイーグリイのみではな

いけれども︑ステュアート解釈に関する限り︑彼の折角の論説

次にこの紹介でとりあげるべきスキナーの論文は︑先にも記

したように︑ステュアートといわゆるスコットランド歴史学派

との思想的類似性を初めて本格的に取扱ったものであり︑した

がって通説およびセンのステュアート観の再検討を志向する極

めて意欲的な研究であるが︑これに加えて︑さいきん読む機会

( 3 )  

を持った彼の新らしい論稿を補足し紹介しておこう︒

(l

)

拙稿﹁ステュアート研究に関する二つの文献H

﹂ ︵

西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号︶九三‑101

も︑誤まれるインスビレーションに終っている︒

アート研究に関する二つの文献

•——

, 

(3)

る ︒ の孤児としてこれまで評価されてきたのも無理からぬことであ 一種の干渉ないし統制主義を注張したステュアートが時代精神 の啓発に多大の貢献をおこなっていた時代である︒この時期に ァーガソン︑ロバートソンおよびケイムズ等々が自由主義思想 の感化を強くうけたアダム・スミスをはじめとして︑︑ラー︑フ

では何故にステュアートが当時の精神から逸脱したのであろ りわけスコットランドは︑

ハチスンF•

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の道徳哲学

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9 ,  

イギリスにおける批評界がそれを自由主義思想の観点から論評

( 1 )  

したことはつとに知られている︒十八世紀中頃のイギリス︑と 一七六七年に﹃原理﹄の初版が発刊されたとき︑当時の

(2

)

小林昇﹁ステュアート﹃原理﹄における﹁奢

f i

いて︵三・完︶﹂︵﹃立教経済学研究﹄第十七巻第一

号︶一九五ページの註(150)

(3

) 

Sk

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438  

50

. 

関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号

うか︒彼が人生の最も重要な時期にヨーロッパ大陸でほゞ二

( 2 )  

十年にも及ぶ流寓生活を送ったこと︑更に前記の著名なる思想.

(3) 家グループとの交りの殆んどなかったこと︑ここから当時とし

時代錯誤の書たらしめた大きな理由ではなかろうかと︑センは

このような論説に対して︑﹃原理﹄のアプローチが決して異

例ではなく︑したがってまたステュアートが時代精神から全く

孤立していたのではなかったことを論証しようとするのが︑ス

キナーの最初の論文「サー・ジェームズ・ステュアートー—経

済理論と政治理論ー—」の目的である。そこでまず初めに、ス

インテレクチュアル

キナーは当時の精神的風土の記述から始める︒十八世紀中

頃のスコットランドで活躍した思想家グループ││̲いわゆるス

コットランド歴史学派ー~のアプローチは、冷静な経験主義、

社会的

1 1歴史的・社会学的方法︑社会制度の相互依存と発展お

よび経済的決定論においてその特質をしめしていた︒すなわ

ち︑ジョン・ミラーが典型的人物であるこの派の人々は︑経験

的事実を蒐集し︑そこから依存と権威の二類型より成る社会構

造と︑社会形態の多様性をつきとめ︑そして進化という絶

対的な確信のもとに︑諸々の社会の間に存する懸隔の理由を探 ては﹁異例である﹂アプローチが生れ︑これが﹃原理﹄をして

(4)

ステュアート研究に関する二つの文献口︵戒田︶ の分配に及ぽす影響を通して政治権力の均衡を決定的に変え始

の類型に影響を与えることを考察した﹃原理﹄と全く同じ考え ︵絶対君主制ないし立憲君主制︶と②経済的発展の過程が財産 経済的発展が政治上の諸制度に明白な影響をあたえ始めた時期 顕著であったからである︒そして︑ステュアートが近代史を田が社会構造とそれを決定する要因に深い関心を示していたことである︒かれらは支配と隷属が複雑な人間関係の大きな特徴であると力説したが︑この強調は︑経済組織の変化が依存と権威 名誉革命を頂点とする憲政史上の変化の経済的基盤はとりわけ 撃をあたえたのは最後の要因であった︒けだし︑

憲政史︑この三つであったが︑実際上もっともはっきりした衝 後者が︑それを主として異った社会・政治構造の存在と発展過

項 ﹂ としく詮索する皮相的な事件の奥底にひそむ重要な偶然的事法が生れたが︑そこでのもっとも特徴的な点は︑社会構造論と 据えた︒そしてこれこそ﹁憲政史のなかで︑低俗な史家達がひ そのものが社会変化の主たる力であ︐る︑という意味でのーを 済組織は社会の基礎的かつ本質的な要素である︑②経済的発展 的発展の観念で説明できる一定の型があるということも︑ステ彼らは社会構造論と社会動態論の基礎に経済的決定論|—山経 いし発展の原動力を彼らは経済的なものと見なした︒かくして︑ 求し社会変化の本質的解明を試みようとしたが︑社会の進歩な

︵ミラー︶を解明するものであった︒

当時スコットランドにおいてこのような史的唯物論の盛上っ

た原因は︑スキナーによれば︑山スコットランドの北部と南部

の社会構造のコントラストと両地方に内部的な歪みを与えた通

商の拡大︑②諸外国に関する情報のいちじるしい流入︑③近代 にもとずくものであった︒加えて社会的政治的発展には︑経済ュアートはかれらと均しく︑同じようなョーロッパ大陸での経験から得たものであった︒

このように︑同じ歴史的経験から歴史に対する類似の分析方

社会動態論の基礎をなす経済的決定論においてステュアートと

スコットランド歴史学派の間にみられる著しい近似性である︒

程を説明するためのクリテリアとして用いたのに対し︑前者は︑

かれの主要な関心であった経済的発展の影轡が比較的明瞭に察

知できる封建経済から市場経済への移行の分析に用いられてい

るという違いがあるにしても︒

スコットランド歴史学派のもう︱つの主要な特色は︑かれら めた時期︵共和制︶に分けたのは︑まさにこの種の歴史的経験

-~.、---,,

(5)

さて︑このような進化の観念と経済的決定論は論理上諸制度﹃原理﹄の主題はあくまで干渉ないし統制であり︑その主要概 方では立憲国家に到達するという考えを抱いていた︒想的独自性と後者との差異が捨象されるものでは決してない︒ は均しく︑経済的発展過程は最後に︑一方では貨弊経済に︑他うな方法論的親近性があるといっても︑そのことから前者の思 なかにも見出される︒ステュアートとスコットランド歴史学派ステュアートとスコットランド歴史学派との問に︑以上のよ は︑進化観念と経済的発展が進歩の原動力であるという見解のをもっていると︒ 経済的決定論の適用されたもう︱つの分野である社会動態論 て﹃原理﹄のなかにも求めることができるのである︒コットランド歴史学派の親近性を例証するものであるが︑同時 ︵レーマン︶はかくし とも明白である︒彼は経済組織の変化が社会構造と政治構造に派は︑もちろん相対性の観念を否定はしなかったけれども︑選 り︑それは封建国家から立憲国家への移行の分折のなかでもっの全般的に使ったクリテリアであった︒スコットランド歴史学 学派の典型的な見方であった︒

次に︑スコットランド歴史学派のなかで︑もっとも共通した

特徴は︑経済組織が社会構造︑したがってまた政治構造を決定

するという見解である︒これもステュアートの執るところであ

およぼす影響を︑前者においては依存の形態と程度の変化︑後

者においては権力均衡の転位を通じて跡付けた︒スコットラン

ド歴史学派の﹁経済的事実︑社会的事実および政治的事実の相

互関連性についての明快なヴィジョン﹂ 歴史学派のそれは特に明確であった︒ステュアートの史的唯物 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号

方である︒経済組織︑とりわけ生活資料の獲得方法を主たる決

定要因とみるステュアートの見解もまた︑スコットランド歴史析にも見られるものであるが︑ステュアートとスコットランド

論によれば︑あらゆる政治構造はただ経済的事実を背景にして

のみ判断し得るということであり︑そして事実問題はあらゆ

る推論よりも強力であるとかれは力説したが︑これこそかれ

択された政治制度はそれに適応した経済諸条件が存在してはじ

めて現実的となりうると︑彼らは主張した︒社会関係における

支配と隷属の様式が進化段階によって異ることを明らかにした

ステュアートの態度は︑スキナーによれば︑ステュアートとス

にステュアートの干渉主義の背景を規定するなんらかの重要性 の相対性の観念を生み出した︒この親念は︑どのような歴史分

C

・ ・ ー ・ . .一・・.. ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ ̲  , . , ~ - , ·

(6)

が人民の陶冶に向けられるのを認めていたけれども︑ステュア

ートのような問題は生じなかった︒それは︑一方では国家の教

化活動を含む自由主義が多年認められてきたこと︑他方では彼

らが現実の政治の系統的な流れをはっきりと確定していたから

である︒これに対し︑ステュアートはスコットランド歴史学派

のように干渉主義のコンテックスを明確にあたえなかったが︑

このことがステュアートを誤解せしめる原因ともなったのであ

ステュアート研究に関する二つの文献口︵戒田︶ ないことを強調している︒

家形態や政策が存在し︑かつ主唱されても︑それは矢張りその

時代の経済組織によって制約をうけるものであることを﹃原理﹄

の著者は充分に認識していたと指摘し︑ステュアートが決して

アナクロニズムでもなければ︑またそのアプローチが異例でも 織であるという経済的決定論のもとに︑たとえ干渉主義的な国 このように論者は︑社会の上部構造を決定するものが経済組 スコットランド歴史学派も同様に︑国家活動のかなりの部分張している︒ そのような政治形態ならば完全な統制計画を遂行しやすいと認識したからであって︑リクルグス・プランをそのまま踏製する意図はステュアートになかった︒にもかかわらず︑従来のステはなかったと論結しても不当ではないであろうとスキナーは主 ュアート研究者はそれを重視したために︑﹃原理﹄の目的を見完全な計画経済やそれと結びつけられた国家形態にあったので 義を容認することはないにしても︑認できる︑と云っても不思議ではない︒この点から彼の関心が

原理としてのそれを容I I とは明白である︒従って︑彼が政策としての経済的自由主 それは︑ス︒ハルタ国家が近代国家に欠けている単純性を有し︑家機能の行使方法に影響を与えるのであると彼が考えていたこ 範として政治・経済生活の全面的な規制を主張したけれども︑ということ︑このようにしてつくり出された経済様式こそが国 ステュアートはリクルグス

Ly cu rg us

代における歴史の論理的帰結であり︑経済的自由の産物である 調しているにすぎない︒ 動思想とかと指弾されたのはまさに評者がこの点をとりあげ強 念は為政家のそれである︒﹃原理﹄が千渉主義とか︑当時の反

だが︑ステュアートの経済的決定論がこの問題になんらかの

︒ハースペクティヴを与えている︒すなわち︑立憲国家はその時 る ︒

‑ ‑ ‑

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(7)

たために﹃原理﹄が重商主義的外観をよそおった理由があい 根拠が求められたのであり︑この点の類似性だけを着目しすぎ 織の変化過程をその主たる問題領域に含んでいるが︑ステュア 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号

に対してなされていた重商主義者または干渉主義者というタイ

トルに疑念を投げかけたスキナーは︑第二の論文において︑

原理﹄のなかでもっとも重商主義的分析と政策の展開がみられ

る国際貿易論をとりあげ︑歴史主義的方法論の視角からそれを

考察する場合︑そこから重商主義的論理を強引に誘導すること

である経済的決定論と結びあわされた経済的進化論は︑経済組

ートの理論と政策︑とりわけ国際貿易論もこの思惟線上をその

まま辿り︑山経済発展の性質と原因に関する分析から︑②発展

過程の問題に対する既定原理の適用をへて︑岡発展の一帰結と

して生じる国際貿易が確定され︑④当該問題に応じるための経

済政策の定式化が試みられたのである︒そして︑後の二点にお

いて︑ステュアートに重商主義者という評価を与えたところの の誤謬を指摘している︒すなわち︑﹃原理﹄の方法論上の基調

 

9 9  

ァーグソンの著作とステュアートの﹃原理﹄を照合し︑両者の

思想ないし方法論上における親近性を証明して︑ステュアート スコットランド歴史学派の典型的人物であるミラーやフ

の斉一性にもとずき︑経済・社会的変化過程はあらゆる国にお

いて外観上類似の形をとるけれども︑各国に特有の風俗・習慣

・法律・風土および土壊の影響によって︑変化に多様性の存在 この命題を経済諸制度の変化過程の説明に適用し︑人間の本性 ートは︑スコットランド歴史学派と同一の思考方法において︑ さて︑経済発展の基本的動因を人間の心理に求めるステュア

ではその原理とは何であろうか︒自利心と至福のための物質

的諸条件を求める絶えざる欲望がこれである︒この二つの支配

的原理を適用するにあたって︑ステュアートはそれの交換経済

スコットランド歴史学派も︑同じく︑経済的発展の基本的動

充足手段をつくりだし︑自己改善傾向への有効な吐け口を

用意し︑ますます複雑な経済構造が創出されたのであると︑彼 因を人間の欲望に求めた︒そのような欲望の圧力が徐々に欲求 制度におよぼした諸結果を跡ずけようとしたのである︒ 制度内での経済的発展過程のみならず︑あらゆる時代の経済諸 と︑スキナーはいう︒ まいにされて来たのである︒しかし事実は︑アダム・スミスの国富論もステュアートの著作も原理適用上の一産物にすぎない

・~—ヽ—-

(8)

風に考えなかったことである︒成長はあらゆる国において生じ すること︑そして経済活動の変化には一定の順序があるということ︑さらに人間の欲望は絶えず累増するから︑その結果︑物るが︑ステュアートの関心はとりわけ後者の点にあった︒彼は︑あらゆる国が後進ー中進︵平均︶ー先進ーステュアートで平均的発展水準ないし状態であり︑それからの乖離と復帰が分析の焦点であった︒また︑かれの経済成熟ー衰退段階への到いとか︑ヒュームやスミスのように進歩が極致に達するという

るものであるから︑いわゆる衰退は相対的なものにすぎず︑そ

ステュアート研究に関する二つの文献口︵戒田︶ トが犯さなかったこと︑固ステュアートが原理上自由貿易の利 であるけれども︑両者の懸隔は︑前者が一国の衰退は免れ得な 向に関する信頼はスコットランド歴史学派にも見出されるもの なく︑成長の信頼を反映するものであると︒この成長と衰退傾すなわち︑山﹃原理﹄の基調が経済的進化論であり︑このこ スキナーによれば︑経済衰退不可避論の確信だけで

きないとスキナーはいう︒ からステュアートを重商主義者の系列にひきずり込むことはで して行くことを認めたが︑かれの経済発展分析の尺度はあくま のいわゆる幼稚・成年・老年~という一定の段階を経て発展国内交易段階のそれは雇傭水準と貿易差額であった。そして両 準の差異にもとずく経済発展の問題︵動態論︶を含むものであ 展水準にある諸国間の交易発生問題︵静態論︶とそれら発展水 このうち︑経済発展過程における多様性の問題は︑異なった発 価騰貴の歴史的趨勢がみられるであろうと推断したのである︒ あると︑ステュアートは推論した︒そしてここから︑かれは各段階に相応する政策論を展開したのである︒すなわち︑それが山幼稚な交易図外国貿易③国内交易の諸段階における政策論であった︒ステュアートの関心.は主として山と③に向けられたが︑それは両者が平均的状態である外国貿易から乖離し︑の政策問題を提示したからである︒幼稚な交易段階における政策論の基調は保護貿易であり︑物価騰貴により市場を喪失した者の場合とも︑地金および金貨の輸出入に対する制限的な貨幣策政を主唱せんとする意図がうかがえる︒だが︑このことだけ

とから、国スミスによって批判された重商主義の誤謬ー—経済

発展の主要な源泉としての貿易の不当な強調ーをステュアー

益を論じることのできたこと︑②異なった発展段階の存在にも

とずく貿易の発生問題とそれに対応する政策論の認識が︑国国

一 っ

れが実現するのは各国がそれぞれの段階で定着する場合だけで

̲,

(9)

理﹄がスコットランド歴史学派の均しく用いた経済的進化論を 連する重要な問題である︒この点に関して︑スキナーは︑

ものであろうか︒このことは﹃原理﹄の学史上の位置ずけに関

﹃原理﹄は﹃国富論﹄と全く同じ思想系列に属すそれと同一の結論に到達していることである︒ その適用にもとずいている点に彼は意義を求めている︒ 問題は二義的なものであり︑むしろ﹃原理﹄が経済的進化論とという意味で︑ いことを証明したスキナーにとっては︑源的蓄積の理論と規定され︑それの欠如せる国富論に先行する 位する国では望ましくかつ実行可能であろうから︒ 際貿易と関連した経済政策にステュアートの関心をむけたので 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号

あって︑それは決して政治的考慮の帰結ではないこと︑岡この

ことはまた︑ステュアートの国家に対する関心が政治的なもの

ではなくて︑経済的なものであったという事実と関連があり︑

団ステュアートを特定の政策形態に結びつけることの不可能な

こと︒なぜなら︑各段階にはそれぞれに適応した特定の政策が

存在するからであり︑したがって自由貿易も外国貿易の段階に

以上の諸点においてステュアートがたんなる重商主義者でな

﹃原理﹄の性格という

拡大適用したものであり︑スミスが国富論のなかで示唆的にし

かふれなかった問題をステュアートが明確に分折しようと試み

ていることから︑国富論の補完的なものと見なしている︒そし

( 6 )  

てスミスのステュアート批判をたんなる皮肉としか考えていな

主義者という評価から救いだそうとするに急であるスキナーの

論証には︑思想史的分析手法の輝きに較比して︑学史的分折の平

板さを強く感じさせると共に︑歴史主義者としてのステュアー

( 7 )  

トと重商主義者としてのステュアートとの共棲と相剋の問題が

依然として遺されてはいるけれども︑それでもなおわれわれの

興味をひく点は︑小林昇教授が最近一連の労作で﹃原理﹄を本

﹃原理﹄を国富論の補完として位置ずけしてお

られることと考え合せ︑スキナーが接近方法を異にしながらも

(1)田添京二﹁ステュアート﹃経済学原理﹄の発刊と批評

界の動向ーーーマンスリー・リヴュー誌の書評を中心

としてーーー﹂︵﹃商学論集﹄第三十巻第一号︶およ

び﹁+八世紀批評界とジェイムズ・ステュアート

ー﹃クリテイカル・リヴュー﹄を中心としてー﹂

(2

)

ステュアートが経済学の研究を大陸︑とりわけフラ このように︑ステュアートをたんなる重商主義者または干渉  

‑‑‑‑‑ ̲̲̲̲ ,,,,,̲., 

(10)

ソスとドイツではじめたという事実が﹃原理﹄のア プローチに極めて重要な影聾を与えたと︑センは述

(S en , Sa ma r  Ranjan., 

Th e  E co no m i cs   of i  S r  J am es t  S eu ar t.  Lo nd on ,  1 95 7 .  p . 8 .)

i

方スキナーは︑ステュアートの海外での体験が恐ら く彼と当時のスコットランドにおける思想家グルー プとのじかの接触に欠いたことをかなりの程度補っ

Sk in ne r. A .S . S,   ir  J am es   St eu ar t  :  Ec on om ic s  a nd   Po l i ti c s .  (Scottish

  fo ur

lo fP ol it ic al EC

o

om y. Vo l.  I

X 

̀ 

No.1, 

F eb ・ 9   19 62 .)  p . 2 0n . ) ' かれの多年にわたる大陸生活をむし る ︒

( 3 )

スキナーはステュアートとヒュームとの間に交信と 会向の事実があったことを示す新資料を提示してい る ︒

( ib i

d . p. 20 n. )  (4 ) スコットランド歴史学派に関するわが国の啓蒙的研

究として次の論文が非常に有益である︒

H

ー忘れられた歴史主義﹂︵﹃香川大学経済論叢﹄

第三十三巻第四号および第六号︶︒

( 5 )

経済的決定論は次の四つの命題からなっている︒す なわち︑田社会生活というもっとも重要な事実は依

ステュアート研究に関する二つの文献口︵戒田︶

存の類型︑したがってまた各成員の間に存︐する権威

の類型に求められる︑②諸々の依存関係は主として 経済組織の性質︑とりわけ人々の生活資料獲得方法 によって決定される︑③経済組織が財産の性質と分 配を決定する︑④財産の分化が︑権力したがってま

た政治権力の決定的要因である︒

(S ki nn er , i b i ̲

9d

p. 22 ) 

(6

)

ウィリアム・パルトネイ宛のスミス書簡をみよ︒

(7

) 小林昇︑前掲論文︑一七七ページの註

(101)

'' 

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