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近世における大和北山郷の村落構造と林業(1)

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(1)

近世における大和北山郷の村落構造と林業(1)

その他のタイトル On the Village Community and Forest Industry of the Yamato Kitayama‑go in the Tokugawa Period (I)

著者 津川 正幸

雑誌名 關西大學經済論集

巻 5

号 3

ページ 380‑409

発行年 1955‑06‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15759

(2)

大和北山郷とは現在の上北山︑下北山村をさしていふが︑吉野郡の東南部に位置し︑東は三重県北牟婁郡︑多気

郡に界し︑西は弥山を中心として南北に連亘せる大峯山脈をもつて︑天川︑大塔︑十津川の諸村に接し︑南は東熊

ま し

, . ,  

. き

目 次 一 は し が き

二村の沿革と村落構造

H

近世以前の村落

口近世の村落

イ北山一揆

ロ 文

緑 ︑

延 宝

検 地

よ り

見 た

村 落

規 模

ハ村落の経済状態

二村落の人口構成と農民階層

大 和 北 山 郷 の

近 世 に お け る

三近世に於ける山林用益関係 H 山林所有と用益

イ私有林の形成過租

ロ山林の所属と用益

ハ入会山の用益

二東之川入会山林の分割

口林業経営と林政

国林業生産の方法

四あとがき

村 落 構 造 と 林 業

JI! 

1

(3)

近 世 に お け る 大 和 北 山 郷 の 村 落 構 造 と 林 業 ︵ 津

J l l )

﹁北山之儀者紀州熊野牟婁郡二而御座候︑ る︒即ち西原宝泉寺に安置された仏像の紀年銘には ︵一︶近世以前の村落

中世にあっては吉野郡は八郷にわかれ︑その南東部に位置する北山郷は紀州牟婁郡に所属していたものの様であ

﹁南帝王勅願寺紀州牟婁郡熊野奥北山之内泉村興泉寺永享九年二月建立︵酉暦一四三七年︶﹂の刻銘が見られ︑

( 7 )  

山由緒書﹂の記録によれば︑

同郡粉ノ本村雲上寺之中柱ヲ限リ南粉ノ本村北山村便ノ山村其ノ外松島疋本コ>ラノ村々不残西野村小瀬村栃本村 つ

て い

る ︒

︑ 村 の 沿 革 と 村 落 構 造

︱ ︱ 七

j 野街道に沿つて和歌山県東牟婁郡に連り︑北は伯母峯をもつて川上村に隣り︑大峯大台両山の中央部を南下し熊野 灘にそ 4 ぐ北山川及小橡川︑白川又川︑東之川等の諸流にそ︒つて衆落が点在し︑西原︑河合︑小橡︑白川の四大字

と各字の飛地である東の川地域とからなる山村で︑古来山岳重畳︑通路瞼峻の地域でその自然的条件は杉桧の生育

に最適の地とされている︒田畑として耕作しうる土地は少なく村総面積の約九八彩は山林で占められ︑村民の生計ー

の基となるものは︑周囲を続る山林にあった︒今こ 4 に上北山村について近世における村落構造︑或は山林用益に

ついて二︑三の観点より考察し︑山村の内包する諸問題の解明に資したい︒

尚残存史料による制約もあり︑多々不備︑不明な点を残しているが︑

A7

後の研究によって補充して行きたいと思

(4)

たと見てよいのではなかろうか︒ 而御座候﹂としるされている︒

︵ 現 在 南

之領分二而御座候︒ゾ>ヨリ北大ヵ谷卜申候勢州境長島村二坂ヲ限リ川合村白川村之領分二而御座候云々﹂と書か

れている︒この記録は梢々年代が新らしく宝永五年︵一七 0 八年︶のものであるけれどもはつきりと﹁紀州牟婁郡二

抜前記の仏像紀年銘によって推察される通り十五世紀頃には寺院が建立されているのであるが︑その事によって

( 2 )  

或程度の村落のあった事が知れる︒又当時この地方即ち北山郷一円は北山公文桂将監の領する所であって︑その下

に更に細分され地下の荘司である小瀬荘司︑西野荘司︑平荘司等によって分割統治されていた︒

( 3 )  

伝えられる南朝の皇胤北山宮が熊野よりこの地に来り逼塞の御座所として小橡川の低とり王住山竜泉寺

帝山滝川寺︶を選らばれた事も︑ この地が北山公文の住居した地であり︑或程度の村落が既に存在していた為であっ

下つて弘治永禄の頃

( I

五五

0

年代︶には北山郷では紀州新宮或は尾鷲との間に境界争ひを起し︑中世末の通例と

して数度の合戦に及び自領の保全につとめたが︑その為に有力な領主に所属していない不利を痛感し︑漸く新勢力

( 4 )  

として拾頭した織田氏の支配下に服しこ 4 に於いて北山勢として海内統一の磨下に馳せ参じた︒

かくて時代の推移に従って織豊政権によってなされた封建制の再編成乃至は農奴制再建の武断的軍事的な体制整

備の一連の政策の下に屈し北山郷上組五ケ村の近世的村落に編成替されたが︑この間に北山郷農民の示した態度に

( 5 )  

直接行動的な一揆の形態と看倣される反抗運動として文禄検地防害事件が見られる︒

この事件とは文禄四年の太閤検地実施にあたり検地奉行八嶋久兵衛配下の検地竿入れに際し︑縄引︑棒打の者を

散々に打撚し︑弓矢鉄砲等の武器をもつて威嚇し検地施行を防害した事件で︑結局その年には検地は実施しえず翌

近 世

に お

け る

大 和

北 山

郷 の

村 落

構 造

と 林

業 ︵

津 川

︱ ︱

(5)

( 6 )  

年和解の後に行った事が記録されている︒しかし現在西原︑河合の両部落に保存されている検地帳に接する機会を

得たが︑この検地帳によれば明瞭に文禄四未年九月︑八嶋久兵衛署名捺印の跡が見られる︒それも表紙のみの書入

れなれば後年に補はれたものとも考へられるが︑表紙︑奥書ともに本文と同一の用紙︑筆跡であると認められるも

の で

︑ 近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶ か 4 る点から恐らく文禄四年に検地が行はれたか︑検地帳のみが作成されたかの何れかが考へられる︒

実際文禄三年からはじめられた太閤検地について他の地方で行はれた例によって見れば頗る短時日で行はれてい

る 様

で あ

り ︑

その結果作成された検地帳も現在残存するものを見るとその内容も甚だ単純である︒この点西原︑河

合両部落に保存されている検地帳の内容もその例に洩れないが︑

︱ ︱ 九

この事よりすれば︑北山郷は殊に山間僻地に属す

る地方であった為どの程度に検地が行はれたものか甚だ疑問である︒しかも検地防害事件のあった事が記録されて

いるにも不拘︑検地帳の年月日は防害事件のあった年と同じ文禄四未年としるされている︒この様な事から推察す

れば実際には検地を行はずして︑部落民の保有する土地台帳の如き種類のものから検地帳を速製して上進したもの

( 7 )  

ではなかろうかと考へられる︒その間の事情を﹁和州吉野郡御柚役由緒﹂の文禄四年条によれば

﹁翌年和儀入北山の義者格別に而上様に茂魚水の如被為思召上は縦令検地打侯而茂他の様には被成間敷其上御年貢

に可納物無之段委細申上元来御柚役の儀者有之上は御年貢の儀茂山にて御材木を御納候様に可申上候既に某検地奉

行方の申付亦は検地打不申罷帰侯而は一分も不相立殿様の御目鏡にもはつれ口惜事に候間此段了簡致由云々︵以下

としるされていて︑懐柔策をとつている事がうかがへるが︑検地を再び実施したか否かは甚だ疑問である︒

採︑しからば何故に上記の様な防害事件が起されたかその原因を一応考へなけれなならない︒ュ唯単に武断的軍事

(6)

ろ う

的な封建制の再編成に対する反抗であったと簡単に片付ける事は出来ない︒意識的なもののみならず経済的な面を

北山地方は地理的にも﹁極深山瞼岨之悪所年々十月上旬より翌春二月中旬迄雪降積り山稼等難出来都而作物実乗

﹁ 新

八 郎

﹁ 正

け ん

﹁ た

て わ

不宜土地柄然る処往古諸方ふ立越堀込柱之小屋掛にて住居致し此深山谷間之銘々畑地切開耕作渡世を専に致し御地

( 8 )  

頭之御政事も無之﹂様な所で平地村落とは遠隔の地にあって︑その事情も異なっていた︒先づどの様な人々が防害

の挙に当ったかを文禄検地帳に記入された人名によって推察すれば︑﹁文千代﹂

﹂等の武士名と看倣される様な名前が散見される︒しかもこれらの者は比較的に所有石高も多く︑村落における中

堅指導者層と考へられる者で︑彼等の郷士的意識が検地防害の挙をなさしめたものであろう︒しかも政治経済的な

( 9 )  

面より見ると︑南朝当時より諸役御免許所であった事で︑織田氏治政下においても恩賞として安堵の教書を得てい

( 1 0 )

1 1

)  

た事でもあり︑詳しくは御柚役の本役︑半役を述べる時にゆづるが︑中世の﹁公事家﹂の存在したであろう事の考

へられるところの山村地帯で︑課税の対象を土地におくのでなく︑土地を客体とするには不都合︑不可能である為

に人に対するもの公事

11

諸役においていて年貢は公事の形で納められ︑年貢本来の租では納められなかった為に︑

検地によって田畑の石高が計上されると当然従来と変つて年貢の徴牧が行はれる事になる︒

この様ななりゆきを慮ばかつて猛烈な反対の行動に出たものと思はれる︒即ち前記した﹁和州吉野郡御柚役由緒

﹂にも﹁御年貢に可納物無之﹂とあり︑ 又﹁元来御柚役の儀者有之上は御年貢の儀茂山にて御材木を御納候様に可

申上候﹂とある通りでこの様な経済事情とそれに伴ふ諸役御免許の特権意識が佑いて検地の防害を行ったものであ も考へなければならないであろう︒ 近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

︱ ︱

1

0 

(7)

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶ ﹁北山由緒書﹂によれば しかし結局和解なり型通りに検地帳は作成された︒

註田北山由緒書宝永五年幕府の命により在村の古文書類によって作成されたもの︒

② 林 水 月 著 吉 野 名 勝 志 吉野旧事記﹁桂氏伝桂狩監ハ胆父桂左衛門紀州戦二於テ無官利蟄居北山木戸秋津地下ノ者与南再興念桂氏云々﹂とある

③北山由緒書

④固同上

⑥●北山村字西原︑字河合の両自治会所蔵

⑦ 前 褐 吉 野 名 勝 志 二 六 頁

⑧ 右 同

⑨⑩北山由緒書

⑪永島福太郎氏論文︑史学雑誌六一︱一ノー︱‑﹁家﹂を中心とする村落構造の一研究

︵ 二

︶ 近 世 の 村 落

これによって当時の村落規模を見なければならないが次節にゆ

豊臣氏に代つて徳川氏の直轄地となるに至る間に豊臣氏の残存勢力を一掃し︑徳川氏の治政を滲透させ徹底せし

める為の契機となり︑為政者側にかへつて好結果をもたらした事件として慶長十九年の北山一揆がある︒

一九十五年以前慶長十九寅年権現様と秀頼公御中不和之儀二付関東力大軍を催し御発向之由大坂ニハ籠城之御用意

止時なく依之天下既︱一騒動乱ー一及び候故世間運送等相止侯︱︱付北山之儀ハ勿論諸色通路無御座候ー一付皆人餓死可 ︵ イ

北山一揆

づ る

(8)

即ち﹁北山には︵一揆徒党の者︶ ない事は知れる︒

一揆二徒党不仕方々へ逃れかくれ罷在侯﹂と主張している事で

~

仕外無御座千万難義仕リ罷在候然処大峯山前鬼五鬼ノ内鬼継と申もの棟梁にて徒党を進め関東様にや参らん大坂

へや籠城せんととりどりに評定仕候得共天下へ弓引申事恐多しと申徒党不仕もの多く御座候二付免角不仕候然共

無有二渇命二及び申候二付不止得事として何分ニモ討出様子次第関東様へなりとも又大坂へなりともつき申すべ

しと相議し奥熊野浦之在々申合せ終︱ー一揆を企て男女老若二不限徒党不仕者をば片つ端力打殺し申候二付或ハ深

キ谷へ逃れ又は余の分紀州粉ノ本北山便ノ山大ヵ谷辺へ逃れ退き一揆の徒党を相逃れ申候右一揆の者共熊野へ打

出候へ共方々相斗リ相違致本望不達或ハうたれ或ハ謀計にさばかれ赤木の城に於て一揆の者共一人も不残生捕ら

れ一々首を剣られ則城の向平に横手に獄門にかけられ此時北山亡所に罷成候御事﹂︑

と当時の事情を記している︒しかし右に記された北山一揆の動向は幕藩体制が全く確立され徳川氏の治政が逼<滲

透した宝永年代に幕府の命によって編述されたもので︑由緒書の性格から考へても事実がそのま

4

記されたもので

一 人

も 無

御 座

候 ︑

も知れるであろう︒掠如斯封建制下に於いて一揆の形を以てなされた被支配農民の反封建運動の直接的な動機は何

であっても本質的には封建的誅求に対する反抗に外ならない︒利害相反する支配者と被支配者間に於いて︑同じ利

害の下に立つ同郷の一揆に参加せず難をさけて傍観していたとは考へられない事でこの一揆の第一の対象とされた

池原陣屋の焼打にしても北山郷上組下組の貢租の牧納所であり︑直接に農民誅求の本拠であったといへる︒しかも

文禄検地に対する防害事件には主動的な役割を果した農民達であって︑豊臣政権が検地に於て示した断乎たる態度

に も

屈 せ

ず ︑

かへつて懐柔策によって一時かき消されたかの様に見えた反抗の火は再び政権動揺の期をまつて熱え

近 世

に お

け る

大 和

北 山

郷 の

村 落

構 造

と 林

業 ︵

津 川

(9)

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶ 上ったものと考へられる︒

即ち中世末期織豊政権によってなされた封建制の再編成︑農奴制再建に対する一連の農民反抗の継承としての一

しかも初期の例によって見られる百姓一揆の闘争形態が多くは逃散による消極的な反抗がなされた中で北山の場

合文禄︑慶長両期に亘つて直接行動的な形態をとつている事は北山郷士の気骨の程を物語るものではなかろうか︒

しかし結局﹁一揆の者共一人も不残生挿られ一々首を創ねられ︑獄門にかけられ﹂たと記録されている様に︑亦

その後に行はれた大坂与力の余類と北山一揆の残党或は加担者の厳しい疲議︑探索は農民を恐怖せしめ︑

文禄︑延宝検地より見た村落規模

徳川幕府は政権がその手中に入るや早速に封禄改めを行ったが︑

畠石高並に所有石高百姓数は第二表に見られる通りである︒ この武断

この頃北山郷に於いても二分された上組︑下組

の内︑上組のみについて見れば上組三ケ村即ち西野︑小瀬︑川合の村々は夫々川合村より白川村︑小瀬村より栃本

( 1 )  

︵ 第 一 表 参 照

村を分村し︑こ 4 に近世的村落五ケ村に編成替された︒

右五ケ村の経済的基盤である田畑の規模を前述の古検地帳を手掛として︑右五ケ村内では先づ中心的村落であっ

たと考へられる川合村と︑最も北に位置する西野村との両村を比較検討し︑当時の村の概況を推察すると両村の田

右の集計によれば田畠の所有状態は川合村が僅かに良い状態であって︑田畠の反別及筆数を見るに︑.田の反別二

反一歩︑この筆数八筆︑畠二町八反四畝十四歩︑百三十九筆でその内山畠一反四畝十歩の四筆︑荒一反三畝二十五

︵ 口

的軍事的な処置の結果は幕府の封建支配の強行を有利に導いた︒ 揆の性格が多分にうかゞへるところのものである︒

(10)

田畑石高及石高別所有状態 戸 \ 村

, 

川 合 村 西 野 村

26.00  .o 

399.23  247.79  29.60  10.26  合 高 454.83  258.05  1斗 以 下 14    17  16  1 0  16  11  11  1 5 

, 

16  20  

21  3 0  31  50  

合 計 55  47 

第 二 表

J I [  

,1 西

J I [  

ムロ

I] 西

JI[ 

三三

て町

. 

^ 

九 反千 畝 高

云 革

〒 石

c:: 

〒町疇 反

. 

^ 

九 反

. . 

. ヤ 畝 高

呈 = 5  

苺 益 吾

琶 喜

二石 高

芭 邑 き

一表

北 山 郷

● 組 村 別 反 高 表

近泄における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

しかし一応この数を以て百姓戸数となし︑

明 し

な い

一 戸

いては他に史料の無い為どの様にあったものか判 ると思はれるが I との差が生ずるがこの点につ が 見 ら れ る ︒ 当りの坪数に相当の差があり︑両村の規模の相異 右の数字よりすれば屋敷のみについても平均一筆 尚屋敷として八畝十七歩︑三十五筆が見られる︒ があったものと考へられる︒ 七十六筆︑その内には日浦村分として九畝六歩︑ 六筆が合算され︑当時既に日浦に僅かながら耕地 又両村共に屋敷筆数と古検地帳に記入された人名 によって得られる百姓員数合計│ー占芯らくこの数 をもつて世帯戸数と直ちに決定するには無理があ 他方西野村に於いては︑畠一町七反九畝十五歩︑ 十三筆が数えられる︒ 歩︑六筆が数えられ︑外に屋敷四反五畝二十七歩

(11)

亦他の三ケ村についても大体同じ様な事がいへるであろう︒この様に近世初期に於いては耕地化された部分は少

なく︑しかも山地の農業で極<零細に︑生産力は低く︑飯米にも達しなかったであろぅ︒この事は近世中期以降に

於いても何等変つていなかった︒

然して漸次幕藩体制の整備が進むにつれ︑幕府に於いても畿内の直轄領へ有力なる代官を派遣し︑治山︑治水︑

新田開発︑検地等の一連の政策によって完全な中央集権体制を整えんとするの動向を明白になし来ったのは十七世

紀も六

0

年代以降の事であって︑寛文年間頃よりである︒そしてその体制の基礎を更新し︑集大成したものが延宝

の新検地で︑北山郷に於いても田畑畝歩にいくらかの増加が見られる︒

幕府は延宝五年畿内及その周辺の直轄領の大検地を企画し︑

( 2 )  

﹁西沢家文書﹂で知られている通りの綿密にして用

意周到な検地条例を発布し︑同年九月より検地にか A つている︒徳川治政二百六十四年間を通じて見るに前期七十

六年間は太閤検地を基礎として年貢の徴牧を行ひ︑以後これを漸次修正しつ 4 延宝の大検地に至り︑中期・後期百

八十八年間は延宝検地に基礎を置いて幕府崩壊時に至るまでこれを根本的には変更する事なく︑随時機に臨んで修

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶ あろう状態を想像するにかたくない︒

︱ 二 五

当りの平均耕作反別を見ると西野村では三畝二十四歩強︑川合村では五畝十六歩強であって︑平均斗代一石三斗と

仮定すれば︑西野村では平均耕作反別当り四斗強の牧穫と見てこれに達しない所有石高の百姓が四十七戸の内で過

半数あり︑川合村においても平均耕作反別当り牧獲ほ七斗強で︑五十五戸の内約半数の百姓がこれに達しない状態

で あ

る ︒

又一筆当りの平均耕地面積は二畝歩強であって`その零細な事が推知されるであろう︒しかも殆んど畑地であり︑

山峡にあって冬期は雪積を見︑幼稚な農耕技術をもつてすれば︑何程の牧量が得られたか︑極めて貧困であったで

---~---·_________

(12)

3 表 新

別 表

(延宝

7年 )

JI[ 

村 小 瀬 、 栃 本 村 新 斗

古検反別

1

新検反別

1

新検石高 古検反別

1

新検反別

1

新斗検代 検 代

反 反 石 反 反 石 石'

1.202  1. 715  2.730  1. 5  3.029  4.404  6.179  612  1. 423  2.068  1. 4 

1. 511  2.620  3.467  1. 3 

13.215  19.706  25.635  26.515  31. 505  40.974  1. 3 

6.821  10.919  12.061  17.313  18.223  20.102  1.1 

下 畑

3.827  4.921  4.473  0.118  0.901  0.813  0.9 

下 々 畑

.017  .304  75 

新 開 下 々 畑

0.409  0.321  75 

II 

下々山畑

5.229  2.382  1. 328  0.627 

.応

猪 畑

.004  .007  .037  1. 6 

格 畑

.003  .003  015  1. 5 

下 々 猪 畑

.003  .011  1.1 

茶 畑

.017  .100  .139  .006  .005  .023  1. 4 

茶 畑

.011  .125  .237  017  0. 74  1. 3 

. 新 開 下 茶 畑

2.300  2.530  6.103  6.720  1.1 

, ,   下々茶畑

5.912  5.346  6.7'2:7  6.111  0.9 

, ,   下々茶山畑

4.213  2.545  0.304  0.188  Q.6 

屋 敷

4.303  7.025  9.209  9.809  11. 604  15.099  1. 3 

山手銀 山手銀

檜、雑木柴山 瞼岨場広山故検地不仕

20

左同

110

33. 1081  68. 2111  74. sooll  6 . 8081  80. 6141  95. 8sol 

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津

J I I )

により検地が行はれたが︑前同 又この延宝検地によって幕府 は新税制を確立し︑封建制の担 ひ手である農民より︑基礎財源 としての年貢の増牧を計り︑厭 ﹁延宝七年十二月三日去年より 五畿近国公料査検︑各所の大名 に命ぜられしが︑その事にあづ 七年八月︑本多平八郎配下の士

書の同年月の記録には しるされ北山郷についても延宝 かりし勘定の徒に褒賞あり﹂と 検地が成功裡に終った事は︑徳

( 3 )  

川実紀にしるす所では くなき農民搾取の政策を遂行し ャ事が窺ひしれる︒しかもこの 得られた結果を踏襲している︒ 正を行ひつ

4

延宝検地によって

︱ 二

(13)

近 世

に お

け る

大 和

北 山

郷 の

村 落

構 造

と 林

業 ︵

津 川

尚延宝七年の検地による所有石高別の百姓分布状態は第四表に示す通りである︒ のであったか疑問が残されるところである︒

︱ 二 七

﹁七日大和国公料検地せし本多平八郎忠国家士に︑時服︑羽織下さる事差あり﹂と録されている点より明らかであ

ろう︒北山郷の様に山村で課税対象を土地におく事は不便︑不都合であっても一応幕藩体制確立の為の基本的要件

としての検地は行はれたもので今この検地帳を元にして比較的史料の豊富な︑小瀬︑栃本村を中心に延宝以降の村

の状態を探つてみよう︒

北山地方の太閤検地による検地帳の内容が杜撰であった事は第二表の集計によっても見られる通りであるが︑そ

の後随時修正と用意周到な検地方法によって実施された結果である延宝検地帳の内容の充実している事とは文字通

( 4 )  

り隔日の感をあらたにするであろう︒先ず第三表に川合︑小瀬栃本村の検地帳より田畑別石高の集計を示し︑古検

地集計︵第二表︶との比較においてこれを見れば︑川合村の場合は︑古検では四十五石四斗八升余とあり︑新検で

は七十四石五斗が計上されている︒右の新検惣石高の内容は古検高四十五石四斗八升の内三石一斗一升は川成無地

の永荒であって実際の古検有高は四十二石三斗七升であって︑その他は二十四石二斗五升が竿先出目︑七石八斗七

升が新開となっている︒

他方小瀬及栃本村の場合はニケ村を一括して新検高九十五石八斗五升が計上され︑この内訳は︑古検高八十二石

五斗六升一合の内七石八斗九升八合は山崩川成地となり差引古検有高七十四石七斗三合︑その他竿先出目六石四斗

四合︑新開十四石七斗四升三合とあり︑この結果判明する事は︑川合村では竿先出目が多く︑新開地が少なく︑小

瀬栃本村の方ではこれとは逆の現象を呈している事である︒しかも川合村の場合にいたっては竿先出目が古検有高

の五割余に達している事は︑小瀬栃本村の一割にも出ていない竿先出目に比較して古検地の在り方がどの程度のも

(14)

5 表

貞享田畑祖法

(1段 )

4 延 宝

7年 石高別所有状態

品位げ晶嘉

I

石 盛 i 喜 喜

石 ぶ

上々田

3.2  16 

上 田

3.0  15  7.5 

中 田

2.6  13  6.5 

下 田

2.2  11  5.5 

下々田

1. 8 

, 

4.5 

.  . I : .   々畠

2.4  12  6.0 

上 畠

2.2  11  s.  s , 

中 畠

1.8  4.5 

下 畠

1. 4 

, 

3.3 

下々畠

1.0  2.5 

石 高

JI! 合 村 1小 瀬 、 栃 本 村

1

斗 I 

  20  14  1 0  31  14 

11  1 5  18  17  16  20  

,  , 

21  2 5 

26  3 0 

31  4 0 

41  50  

92 

6

5 

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

事は不都合であり︑従って年貢そのものも本来の形のもので 視して石盛が賦されている︒これは土地を課税の対象とする 件ーーーそれも決して好条件ではなかったであろうーを度外 なされるものであったが︑此処北山郷に於いては︑自然的条 痔︑灌漑用水の便不便︑地形地位等を酌量して︑等級区分が 一般に租米を賦課する為の穫米率である石盛は︑土地の肥

て い

る ︒

通より高率であって︑下田の盛が通常の中田の盛であり︑

︵ 第 五 表

そ 国内の平地村落に於ける検地石盛の実例をもたない為︑少し

( 5 )  

時代が下るが貞享田畑租法の石盛 を示しこれと比

較すると︑川合︑小瀬栃本村で見られる通り北山郷上組諸村

では︑田租は十五の盛︑石盛二つ下りの定法に従はず︑上田

十五•六、中田十四、下田十三となし、畠租も六分違の法は

( 6 )

用いられず中期以降の通法である下田の石盛をもつて上畠の

石盛となす方法がとられている︒しかも実質的には田租が普

れがそのま 4 畠方にも用いられている為に二重に高率となっ

又反当石盛について見れば︑今比較の対象となりうる大和

(15)

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶ の書入れで判明する様に三斤づ 4 の茶を役所用にあて 4 いた事が知れる通り茶畑も重要な土地利用の方法であった︒

註 い 上 北 山 村 誌 二 四 頁

②経済史研究誌昭和十二年一号

③国史大系本昭和六年四一云一巻 右ハ例年池原役所へ持参茶三斤代 ︑三匁 ない︒しかしか 4 る可能性は考へる事は出来る︒

ー ニ 九

納めしめず諸役に置きかへるべく意図もあったかもしれぬが︑ この様な点にも封建支配の強さが窺われるのではな

又第三表に於いて川合村の新開下々山畑五反二畝二十九歩︑小瀬栃本村の新開々山畑一反三畝二十八歩と可成な

( 7 )  

反畝歩の下々山畑が掲上されているが︑これらの山畑について地方凡例録に記されている様な﹁下々畑山畑ナドト

云名目ニテ︑実ハ畠二非ズ︑施染立木ノ山﹂とか︑

杉桧等材木ニナル木ヲ植置﹂いた植林山或は雑木山等の類のものであったか︑否か︑

又茶畑についても川合村一町二反四畝二歩︑小瀬栃本一町三反二畝二十六歩と相当の面積の茶畑のあった事が知

れ る

︒ こ

れ は

﹁都而不弁理之場所二而自然二田畑開発丹誠ヲ尽シ候得共当時之人家二割合候ハヽ耕地格外之不い

. .  

¥ ( 8 )  

たし尤当所産産物等木材並茶類ヲ専ラトス﹂としるされている様に茶を栽培していた様であり︑後年天保年代頃に

•(9)

おいても﹁谷中割並上組百人割帳﹂にも五ケ村割の項目に五ケ村各村々より︑ か

ろ う

か ︒

中川泉三﹁徳川網吉の延宝検地﹂ これを明らかにする事は出来 ﹁畑ノ名目ハ付卜雖作物不仕附松等ヲウヱ薪二伐出ン︑或ハ松

(16)

394 

とあり︑栃樫の実を食糧にあて 4 いた事をかきとどめている︒わずかばかりの田方についても稲作斗り作り申侯と 女ハ栃樫之実ヲ拾ヒ根二代候 男ハ山稼諸材木柚取仕出ツ渡世仕候 一 耕 作 間 ④河合︑小橡自治会所蔵 ⑥﹁大日本租税志﹂ ⑥⑦﹁地方凡例録﹂ ⑧前掲吉野名勝志 ⑨小橡区有文書

日 本 経 済 叢 書 三 一 巻

村落の経済状態

一 三

以上において文禄︑延宝の検地帳によって村落の規模を見てきた︒これによって耕地は極零細でしかも殆どが畑

方で水田はとるにたりない程で農耕はむしろ副業的なもので労仇力の大部分は山林による生産に投ぜられたもので

あったことが知れる︒又村人の生活の本拠である住居についても最初は﹁堀込柱の小屋掛﹂といふ程度のもので後

年に至っても大構の家屋敷があったかどうか先ず考へられない︒

彼等の日常生活は元文三年四月の文書によれば﹁上組五ケ村之義者御材木上納皆済仕候間者男ハ末木雑木或ハ桶樽

小扮つくり縄等仕出女ハ栃樫之実を拾或ハまつ香皮はき男女共鹿猿之様二山籠仕候山方一遍二家葺仕候渡世送り申

( 2 )   ( 1 )  

候﹂と記されていて︑鹿猿の様にとか 4 れているが別に誇脹でなかった様で︑安政七年三月栃本村々明帳に記され

た文字をひろつて見れば

︵ ハ

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

(17)

395 

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

( 4 )  

尚上組五ケ村の諸役年貢の納高は第六表に示す通りである︒これらの納方はすべて材木を以て上納され︑材木の直段 と山林生産物のみを掲げている︒

一 諸

木 材

木 一 舟 板 一 椎

ィ 茸

一 諸

木 材

木 一 舟 板 一 椎

一 諸

木 材

木 一 舟 板

r l 1

一 千

百六拾枚

白 川

合 f

千五百本川合村

八拾枚

八 荷 但 右 同 断

合 /

1 1

百 本

四拾枚

三荷但右 同断

栃 木

ダ 一諸木材木合

f

千 本 小 瀬 村 一 椎 茸 五 荷 但 右 同 同 断 一 舟 板 四 拾 枚

1

諸 木 材 木 合

f

百 本

一 椎 茸 五 荷

が 西野村

但ツ十貫目一荷也

( 3 )  

あり裏作は不可能であったと見られる︒又主要産物については安政四年の産物書上帳によれば

(18)

396 

二御取被為候

6

尚山年貢︑高掛物に御口米︑御口銀の附加があった︒

村高及諸役年貢表

(寛政1 1

小 瀬 1

栃 本 旧

西 野

白 川

河 合 村

西 原

白 川

河 合

11

芙 .  呂 茎

• 石

会 翌

~

盟 = 

^ 

. 

. 

. 

• 石

C

翌 涵 米

~

斧 抽

 

二丁 邑.役

-— 二~

― 藪 ' 

二藪

匁 、 賃 / 畳 匁 ヽ匁貴蚕 匁

芭 ; 芭

C

, 

、 ぞ ; へ g

宿

=

〒升

一 喜 給

^  テ升

~

. 

入 . 御

^  五 石 蔵

^ ^ 

. 

c c

.  . 

土匁 芝ジ用前

近世における大和北山郷の村落構造と林業︵津川︶

府に移つてもこの制は踏襲された︒し

かしその内容は幾分の変更があった︒

﹁依之制約御違ひなさせならず

可 申 上 候 と あ り ︶ 随 五 分 下 見 に 被 成 下 御 つ

まみとして御材木少々宛冥加として上

申候此時古初めて御年貢御材木上納仕

来り申候然二中頃右先法を取失ひ申侯処御年貢之儀御材木を以て上納仕侯故山に御か

4

りなされ候由にて段々高見

上組之儀ハ別して僅の作場悪所二而田作一円無御座候得者御取箇同北山二而も下組よリハ一倍も高

見二御座候其上新検より以来ハ大分之山年貢か

4

り申候故上組の分ハ今更山年貢御取箇の高見と愈々重々か

4

り申

候様罷成何とも迷惑仕候﹂とあり他郷に比較して高かった様である︒

( 5 )  

これら諸掛の算定法は 即ち﹁北山由緒書﹂によれば︑

は文禄四年の検地以来で政権が徳川幕 年貢を材木で代納される様になったの れ

て い

た ︒

も中項より定御直段石に三十目替とさ

参照

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