山村経済の構造 : 和歌山県東牟婁郡四村の場合
その他のタイトル Socio‑Economic Structure of a Mountainous Country in Japan
著者 東井 正美, 津川 正幸
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 8
ページ 900‑928
発行年 1956‑01‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15731
900
本稿は本学経済学部農業経済学研究室が演習学生を主体とし . ヽ
ま し
9
ー
が
きによつて調査を行なった︒ 方面より検討するという事にあり︑この目的をよりよく達成す
ー ー 和 歌 山 県 東 牟 婁 郡 四 村
目 次
一︑はしがき
二︑村の概況三︑村の沿革
四︑農家経済の構造五︑林野の利用所有・所有状態
六︑山林労佑者の実態
七︑村の文化・衛生
て︑昭和三十年八月に夏期休暇を利用して一度︑更に十月末よ
農 業 純 済 學 研 究 室
り十一月にかけて津川︑小山︑十川らが再度︑和歌山県東牟婁
この調査の中心となる問題は︑山村における農家経済の構造
及実態を農耕地規模︑林野所有︑林業労佑及文化・衛生等の各
る為
に︑
四枚
︑
一五項目よりなる調査表を作成し︑聞取り記入
調査の対象は︑四村の内︑世帯戸数五九戸よりなる渡瀬部落
を選び︑学生諸君が分担して調査を実施したが︑初めての経験 おいてとりまとめたものである︒ 郡四村で行った山村経済実態調査の結果を︑それぞれの分担に
津 東
川 井
山 村 経 清 の 構 造
の 場 合
I
正 正 六0
幸 美
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
痛感させられたが︑すべて今後の出発点となし︑かつ此後の研 し︑そのさいに色々な問題にぶつかかつて︑ ある︒その意味で︑これは調査参加者全員の所産である︒しか それぞれ比較的優れたレポートを提出してくれたが︑紙数の都 が分担した︒なお本稿に執筆を分担しなかった調査参加者も︑ この調査には左記の一︱名が参加したが︑本稿の執筆に当つ 懐中電灯をたよりに夜半まで︑担当農家を訪ねて︑二里近くも往復する様な事もあったが︑り調査を完了しえた︒て
は︑
主と
して
︑
一応︑調査可能戸数五二戸の聞取
口村の概況・国村の沿革︑ほ津川正幸︑四農家経済の構造ほ十川孝義、国林野所有•利用状態は津川正幸、因山林労佑の
実態は小山柏︑囮四村の文化・術生は竹内邦術・馬淵博直
合により割愛した︒しかしそれらは本稿に多かれ少かれ生かさ
れて
いる
︒
またここに発表するところのものは︑調査参加者全メンバー
が数度に亘つて検討を行い︑相互に批判しあってできたもので
一︑二回の調査で
いかんともなしがたい点も多々あり︑われわれの力量の不足を でもあり︑しかも天候に恵まれず連日の雨に︑なれない山道を
二 ︑ 村 の 概 況
六
稿の文責は︑すべて東井︑津川にある︒ れ︑御批判御教示賜れば︑幸甚である︒
博 芳 正 正
清 直 夫 柏 勉 幸 美
究の︒ハースペクテイヴとなし︑将来さらに検討を加え補充する
こととして︑中間報告という意味で発表した︒だからあえて見
解の統一もはからなかったし︑用語例の統一もやらず︑あとが
ぎをつけることを遠慮することとした︒この点よろしく寛恕さ
なお︑本調査の指導および本稿の最終的検討およびとりまと
めをやったのは︑東井︑津川である︒だから︑本稿の不備やそ
の他の全責任は︑東井︑津川のふてぎわによるものであり︑本
調査参加者
関 酉 大 学 経 済 学 部 助 教 授 東 井 助 手 津
J l l 大 阪 大 学 医 学 部 副 手 善 成
関西大学経済学部﹁農業経済学﹂演習生
十 川 孝 義 小 山 竹 内 邦 術 辻 本 桑 原 進 馬 淵 赤 松 猛 結 城
H自然的社会的条件
90a
四村は元﹁四村の荘﹂二十四カ村の内︑渡瀬︑湯之峯︑下湯
川︑曲川︑桧薬︑小々森︑皆地︑武住︑大瀬︑久保野︑平治川 氏
︱︱
︱一
度前
後︑
降雨
量ニ
ニ五
0耗を示している︒ んど跡をたつている︒気象は温暖多雨であって︑年平均温度摂
各班に一名の班長を置き旧正月︑盆に開かれる自治会総会と必 会等によって協議運営されている事は勿論であるが︑なお︑各 が︑雑木林間に豊富に自生する土地であったが︑今日では︑殆村行政については村長以下役場吏員︑或は村議会︑教育委員 り︑土壊は植質壊土である︒熊野名産音無紙の原料である猪
る ︒
地質は︑中生層に属し︑基岩は砂岩︑頁岩︑粘板岩よりなて︑諸物貨を背におつて往来する外に方法のない様な状態であ で︑これらは何れも熊野川に合流し︑往古には関出し︵せきだり四村の中心部に至る所要時間は約四時間を要する︒一方紀伊 野本宮から約三粁の地にある︒四囲に山をめぐらし︑主要なる 硫化水素を成分となし︑温度九0度を保つ湯峯温泉を有し︑熊 四村は和歌山県東北部に位置し︑東経一三五度四五分︑北緯三三度五0分の間に位する︒北は三里村︑南は請川村︑東は本
宮村︑西は近野村にそれぞれ隣接する︒
本地は︑吉野熊野国立公園に包含される地であり︑i亡硝含有
河川としては︑大塔山に源を発する大塔川及び四村川の二川
し︶の名で呼ばれている木材搬出の主要な役割を果した河川
で︑これらの諸川に沿つて耕地が僅かに開け︑山の斜面に桧皮
に石をならべたような屋根の家屋からなる衆落が︑点在する山
村で
ある
︒ 山
村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
の一一カ村を明治二十二年町村制実施に当つて合併し成立した
村で
︑
従つて現在右の旧村名を称する一︱大字に分かれてい
る︒村役場︑農業協同組合︑山林組合等は︑小字串峠に所在す
︒交通の便は極めて悪く西牟婁郡田辺市より朝来︑鮎川︑栗栖
川︑近露︑小広峠を過ぎ四村︑湯之峯︑本宮に至る七十一粁程
の中辺路︵旧熊野︶街道を国鉄バスが一日三回往復し︑田辺よ
新宮より四村に入る時は︑熊野川をプロペラ船にて本宮まで遡
上し︑バス或は徒歩にて本村に至る方法をとらなければならな
い︒又村内各部落間の交通は︑中辺路街道ぞひの部落を除い
ては︑自転車︑荷車の通行も容易ではなく︑殆んど徒歩によっ
部落に自治会組織をもち︑渡瀬部落を例にとれば︑互選による
区長︑副区長各一名︑評議員三名︑及び同一区を六班に分ち︑ る ︒
六
903
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶ 人工植栽にか4る杉桧の用材林を除けば︑その大部分は︑低伐
一部
の
*2表
一八六千石︑広葉 彩は新宮市並に新庄方面に移出され︑薪は殆んど地区内で自給自足している︒木炭については大半が輸出されている﹂とあるが︑林業といつても︑次のような状態のそれである︒その山林所有状態等については後述するが︑第三森林区即ち四村︑請川村を包括する︱二︑三00町歩の森林の現況は︑民有林一〇ヽ
七八
0町歩で︑その立木蓄積は︑針葉樹二︑
樹一
︑
0一四千石︑計三二0万石で︑民有林の内その面稼の九
八形に当る私有林は︑比較的零細規模の所有者が多く︑
職業別就業者状態
林産物の需給状況は年生産量用材林約一0万石で生産量の八五 なく︑寧ろ林業にあるといわなければならない︒森林区施業計
( 2 )
画書の記するところによれば︑﹁当施業区内の産業は林業が主
体をなし︑農業商業は僅かに副業的な地位を保つにすぎない︒
オ1表
四村の人口及職業状態︑農業経営状態を全般的にとらえると
( 1 )
第一︑二表以下に見られる様な状態で︑生活基盤は農業にでは 口産業経済的状況 れ︑各区間の連絡をはかり側面より村政に参与している︒ は︑はかられている︒なお︑四村一村各区の区長会議も開らか 要に応じて不定期に招集される常会とによって︑部落内の自治
大字別人口戸数分布状態 ご
、
業 種 I男\女 1許‑ [ i siる1
農 業 274 483 757 64
林 業 251
゜
251 22水 産 業 1
゜
1商 業 17 10 27 2
金 融 業
゜゜゜
建 設 工 業 18
゜
18 1製 造 工 業 22 13 35 3
逗 鍮 業 6 5 11 1
サーピス業 8 25 33 3
官 公 庁 14 5 19 1
自 由 業 18 10
281 I 2
そ の 他 12 1 13 1
合 計 I641 I 552 1. 1931
(29.7.1現在)
29年住民癌) 30年国勢調査
名 称 (29.7.1 (30.10.1―)
人 日 [ 戸 数 人 口 戸 数
渡 瀬 335人 62戸 297人 59戸
湯 峯 169 37 163 36 下 湯Ill 258 56 263 61 曲 JI[ 128 20 115 21
檜 葉 246 52 242 52
小々森 138 26 135 26
皆 地 481 90 483 97
武 佳 217 46 203 47
大 瀬 178 35 199 45
久保野 377 67 355 67
平治川 108 19 107 19
2. 629 I 510 I 2. 560 I 530
~4 表米単作、兼作作付面積広狭別米作
面積農家及人口表
*
3表 業 態 別 世 帯 数広~
狭翔i 面(畝積)米 1戸(戸数)因作(人)i I
面(畝積)米 僚 作1戸(戸数)I A
(人U) 業農 種 戸 数業 55I
% 115畝 未 澗 l 10 3 11 190 71 354 林 業 410 80
5 1反 未 謂 413 58 278 商 業 19 4 1反 1.5 // 400 33 160 製造工業 4 1 1.5 2 II 669 38 202 料理飲食 1 1 2 3 II 1,069 44 250 旅 館 業 15 3 3 4 II 857 25 169 (29.7.1現在)
4 5 II 523 12 9C 5 6 11 265 5 34 6 7 II 61 1 7 7 1011 73 1 10
10反 以 上 ,
計
I
10 1 s 111 4, s20I
288 1,554(24. 8.10)
*
5表 自 小 作 別 農 業 経 営 状 態 (26.2.1現在)~年 ,u II
自 作I
自9卜作I, J
、自作l , J
、 作 1 計 疇 右 恵 五I
而 積 1戸 数1面 積I p ; ! ( I
面 種 五I
面 積 3 畝 未 濶 17 42 2 5 19 47 3畝 5畝 未 澗 29 113 1 5 2,
1 4 33 131 5畝 1反 未 滴 87 630 2 15 2 14 2 18 93 677 1 1.5 II 55 690 4 51 1 11 60 752 1.5 2 ,, 44 771 3 51 2 32 49 854 2 3 II 64‑ 1,475 7 159 1 26 72 1,660 2 4 II 56 1,781 4 128 1 37 61 1,946 4 5 II 26 1,185 3 136 29 1,321 5 6 II 15 798 1 54 16 852 6 7 II 4 266 4 266 7 10 11 3 213 3 21310反 以 上 I
計
I
4ooj 7, 964 j 25I
599 I 9I
129I
sI
21I
4391 s. 719山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
六四
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
数通を見るのみで︑これらも検地帳︑村明細帳︑宗門改帳等の 一巻と字栗垣内の坂足家所蔵の約百通の古文書及渡瀬区有文書 い︒僅かに下湯川の淵竜寺に安政年間の村替一件に関する写本
六五
態で
ある
︒
続行されたもので︑本宮組における御仕入方についての具体的
C 3 )
な史料を掲げると︑ れ︑それによって︑製炭︑木材或ひは小割物︑樽丸等の生産が 四村の沿革を知る史料は︑従つて紀州藩の御仕入方の制度によって生活の保債がなさ
一 ︑
四村在には殆んど残されていな
村 の 沼 革
り︑第三表の業態別世帯数表に見られる林業世帯数四一0戸も
その殆んどが林業労佑者でその過剰人口︵山林労働者︶も村内
︑︑
︑︑
︑
でははけきらず︑奈良︑岡山︑広島︑高知県等へ出稼ぐ様な状
書の﹁副業的地位を保つにすぎない﹂という言葉の意味すると
ころは︑第四表︑第五表で判明する通りの状態であって︑完全
保有農家は全村通じて唯四戸が数えられる位で︑その他は︑
部保有の農家である︒その他所謂農家副業としての養蚕︑製紙
原料栽培︑家庭什器製造︵説箸つくり︑藤.つる籠等︶は何も見
られ
ない
︒
註①和歌山県東牟婁郡四村役場調査統計表より作成
R同村森林組合所蔵
何はともあれ︑現存の史料を基礎にして四村の近世における
この十ニカ村は現在四村の十一大字即ち︑大瀬︑武住︑皆地︑
小々森︑桧葉︑曲川︑平治川︑久保野︵窪野︶︑下湯川︑渡瀬︑
湯峯の諸村と本宮村とである︒これら諸村の経済的状態は︑
御表御蔵領之内二而茂極山内之悪組二御座候二付組内二而作物
取入雑穀二至迄壱ケ年分飯料見詰三ッ割壱分丈ケも無御座其余
( 1 )
は山方諸稼を以日々買食之場所二御座候︒﹂或は︑﹁其余飯料は
山物諸色仕出シを以渡世之第一と仕候より外致方無御座候︒元
来当組之儀は御国第一之極難渋之場所柄故荒立と申して米穀買
囲仕候者も無御座村々二付前段申上候通従往古御救御仕入方被
為御建置︑炭板材木小割物等御仕込を奉頂戴候色物仕出シ御定
メ御直段を以買上被成下先操二色物相納聯御見出しを以諸御上
( 2 )
納向は勿論露命相続仕罷有候﹂ような村柄であった︒ 農業についても詳細は後述するところではあるが︑施業計画 状態を考察すれば︑奥熊野本宮組十ニカ村に所属したもので︑ 期の広葉樹の薪炭林であるような山林に立脚している林業であ主要な地方文書は欠けている︒
‑,
一︵前略︶尤先年
l i 御救御手入二奉預候条々左二奉申上候 一︑奥熊野本宮組御仕入方宝永三戌年癸旦
一炭山雑木代無利足にて貸渡月々出炭俵掛リを以一俵に付︱︱︱
候事一炭板小割類諸仕込賃之儀は都て無利足にて貸方取計右仕色
物売払代銀を以取立候事
足月八朱毎年十二月貸五ヶ月限取立侯事
一猪鹿垣飯米為御救年々十石七斗宛村々へ貸方取計毎年十二
月貸渡翌年十月相場を以取立候事
は︑四村在の安政二年卯四月に書上げられた村替一件について
( 4 )
の歎願書の内容によって知る事が出来る︒即ち︑
乍恐奉歎願口上
一御仕入方氷年賦古未進毎年十一月庄屋元へ取立御上納仕罷有 とあり︑右は本宮の御入方調であるが︑これに相異なかった事 一御納所銀村々より依願年々二貫二百八十匁つ4貸方取計利
一本宮村川船所持神迫船座之儀は従往古由緒も有之第一御宮殿 而拝借候御事 入方御上納仕来リニ御座侯御事仕候而御貸下二相成候御事一猪鹿垣結人足飯米として御米三十一石五斗村々庄屋中連印二
二而代銀御上納仕侯御事
一炭板色物御仕込銀拝借之儀ほ御救御仕入方之儀二付無利足ニ
一御仕込米御直段之儀は外在方相場よりハ格別御用捨御置段を
以御仕入被為成下罷有候御事
一毎年御囲米之儀奉願候而御囲置成戴長雨大水之節二新宮へ川
船上下難出来其節二御仕入方二而右囲置被為下候御米格別二
御直段御下置二而御売下ケ被為下侯二付当組之並百姓共偏二
御役所表之御影を以危急取続仕難有奉存候御事
事
而奉願毎年十二月廿日頃御貸下ケ被為成下翌年九月頃無利足 一御囲米取計置本宮十一ケ在之者共え時相場を以小売取計之 より霜月迄十一月か六月迄先操二拝借仕来リ候尤庄主中印形 一夏冬両度御納所奉拝借聯薄利二而御貸下ケ被為成下毎年六月 一板山立木代も同様無利足にて貸渡月々出板厘掛を以て取立 四分遠近之差別にて取立候事愁之御取立を以無利足年賦二成戴毎年各庄主共より直々御仕 一前々御仕込銀奉拝借無拠品二而残銀等二罷成候筋は格別御憐
山 村 紐 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
侯御事
六六
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
は指上ケ候者共へ御下ケニ相成侯筋又は年賦御取立二相成御
座候筋数株御座候御事 別之御取扱を以直段宜御買上ケ置被為下成木之上御売払土地 御上納難出来候筋は根賢山等御引上ケ被為成下候様奉願上格 一村々庄主共之内御仕込銀米拝借自然之成行二而残銀等二罷成 ひ入用i一仕来リ御座侯御事 一大瀬村橋之儀は御炭壱俵二付銀弐厘つ4引置二而破損又は繕 れも手二逢候稼仕者是又多人数罷有候御事 儀も難相勤様成行可申と当惑歎息仕候間何分御仕入方御役所一在々之儀は諸職人之外縄類炭薦あみ持稼等二而老人女子いつ 御事 御引払之儀は幾重二も御見合二相成候様御賢察之程奉願上候 掛リ之者とも福卜当惑難渋二迫リ候ハヽ乍恐自然宮殿奉仕之 払二相成候而は組内小前日々稼二指支候儀は眼前指当り船手 相立罷在侯事二御座候︒然処今般被為仰聞之通御仕入方御引 仕来猶右様稼を以両御納所並拝借返納迄も其節之上納二規矩 当御仕入方御仕出シ色物年内新宮へ上下運送相営ヽヽヽ家内渡世 キ神役等も相勤来り年内船稼之業合一座限リニ御座候就而は 川中嶋之御鎮座之儀二付宮社奉仕之船株二而大祭礼之節は重
六七
しかし拝借銀といつても唯右に見られる通りのものだけでは 以上のように田畑に関する具体的な史料はないけれども︑農耕地面積は︑極く零細で︑それから取れる飯料も︑年間の三分の一を満す程にもなく︑所謂﹁紀州の茶がゆ﹂で山方を稼場となし︑それぞれ手にあった﹁杉皮ほぎ︑鍛冶職︑柚木挽︑出し日用︑伊丹取持稼︑桧縄なひ︑船稼︑藤かずら伐︑筏組︑松葉
( 5 )
切線香師﹂等の職業に従事していた︒
( 6 )
本宮御仕入方への拝借銀願ひも弘化三年の例によって見れ
﹁時節柄恐多奉存候得共御憐悠を以当各前段御銀村内訳之通
何卒御減し無之様︑本宮御仕入方拝借被為仰付被下候様幾重二
も奉願上候︒・・・・・渡瀬百二十目︑桧葉百五十目︑下湯川百目︑
︵曲 川力
︶
小々森百目︑北川百三十目︑皆地二百三十目︑久保野百二十目︑
武住百八十目︑平治川百二十目︑大瀬百五十目︑計一貫四百目﹂
の拝借方を願出ている︒
なく︑なお︑その外色々な名目でもつて銀子拝借方を許可され
た場合も見られ︑銀子のみならず御救米として︑或は国普請の
形などで︑藩の保護に依存していた傾向が多分にうかゞえる︒
( 7 )
即ちその一︑二をあげておくと︑
ま ︑
9 ,
銀五百目 一牛馬往来道井関溝片手川除根囲ひ等不残御上様t御普請奉成
一三疫病相煩ひ侯節は御救米御下ケ被為成下候御事
一難渋人共疱癒相煩ひ候節は入用銀無利足二而奉拝借候而三十
年賦二十年賦二而御上納仕候御事
一御貸麦之儀は往古t正麦代銀等二而村々奉拝借罷有候御事
一天保五年午年御銀拾壱貫目余無利息十年賦御了簡相済候御事
一同八年酉年御金六百両五朱之御利息附十年賦拝借奉了簡相済
一近年申年以来凶作並大水荒等t床進相滞御銀七拾貫余無利足
十年賦二十年賦と拝借仕罷有候御事
等︑或ひは御炭方よりの拝借もあり︑即ち︑
( 8
>
奉願上炭之事
一炭弐千五百俵
但新宮着時々御見分二御越被成御買可被下候
拝借奉願候 貫目不足仕候ハヽ御指図次第仕直売上申度奉存候 分念ヲ入悪炭無之様二仕出シ売上ケ可申候若悪炭御座候力又ハ 右之通炭仕出売上申候へ共家職二罷成添奉存候然上ハ炭之儀随 本願的な︑藩制に依存して漸く退転をまぬがれていたような生活状態では生産も滞り勝で︑彼等百姓の生活基盤である山林をも手ばなすような仕儀に至った例が艇々生じ︑元禄︑宝永の頃から山林移動の増加が見られる︒一例を掲げると︑
C 9 )
奉願口上
一私儀御炭方拝借銀段々相滞返納得不仕候二付急度御催促被成
侯何とも返納仕度奉存侯二付去十二月私持分中井谷と申草山
中分&うへ新宮附伏羽村へ代銀五百目二売申筈二約束仕侯二
付御売を被下様二と御願申上候得共百姓之所持山売払返納二
致義きびしき義二候間暫指控候︑然共大切成御銀拝借仕永々
︵袋
︶
樫雑木当分焼込炭風代共六貫五百目 剰をたくわえる程に進展するような状態ならいざしらず︑他力 候御事 出する事が出来なかった︒しかも生産が負債を上廻り︑生活余 十年の永年賦で返納すればよかったが︑年貢小物成等も田畑よりの生産物で納めるのではなく︑山林生産物を売払ひその売代銀をもつて銀納の形で納められたし︑一方では古未進︑拝借銀︑永年賦借銀の返済も加わり︑常に借銀を負つている状態から脱 以上のように貸下げられた拝借銀は無利息で或は二十年︑ 座候二付自分達銀子調達申二付拝借奉願候︵以下欠︶ 戴候御事右奉願被仰上可下侯炭がま仕入銀並山代金共大分入申儀二御
山 村 紐 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
此質物二みの手谷杉山壱ケ所
し ︑
﹂ ヽ
1ノJ
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
註
①
R R
④ R
⑥ 相滞候二付御催促強御座候故当八九月迄二不残返納可仕旨御請合仕候手前二而色々オ覚仕候へ共難調御座侯間右之山売払返納仕度奉存候二付御断申上侯私義御未進銀少も無御座侯間
宝永七年寅七月
同村庄屋肝煎署名捺印
以上のような近世に於ける四村在の社会的経済的状態はその
ま4現在にまで持越されたものではなく︑その間に明治維新の
変革︑明治末期の林野統一︑或は昭和初期に再度おとずれた不
林労佑者の追従を計さぬ独特の木材搬出技術をもつ山林労佑者
の形成は︑その朋芽をさぐれば︑既に旧藩時代にその端緒或は
和歌山県東牟婁郡四村字下湯川淵竜寺所蔵文書
新 宮 木 材 協 同 組 合 熊 野 川 林 業 誌
淵竜寺所蔵文書
前掲熊野川林業誌 芽生えが見られるのではなかろうか︒ められる林野所有の状態及﹁紀州人夫﹂の名で呼ばれる他県山 況期を通じての変遷は見られるけれども︑現在四村に於いて認 淵上弥三右衛門殿
願`王久保野太郎右衛門@
奉願通山売払申様二被成下候ハヽ難有奉存候以上
六九
主義への惹起を見せることとなったのである︒もっとも︑社会 たのである︒従ってこの山村では︑村外資本によって山林資本 附近や川向うの山林を何十町歩何百歩と
. . . . . .
囲い込んでしまつ
那や小旦那は︑ほとんど見られず︑渡瀬部落には小旦那が一人
いるに過ぎない︒これがこの山村の特徴である︒
しかしてこの山村に前述した如く商品・貨幣経済が浸入した
が︑そのときにそれとともに村外資本がこの山村へ浸入してき た﹂というような︑﹁貧しさからの解放﹂にでてくる村の大旦 在村地主ではなくほとんど不在地主である︒
の山
村で
は︑
﹁部落の耕地のいいところを大部分占有し︑部落
主は
︑
だから 用から隔離されている︒そしてこの林野の大部分を支配する地 分が山林地主によって占められ︑村内一般の人々の自由なる利 はあるが︑山村においては山林地主の支配がまだ根強く残っている︑といわれている︒この山村においても全山林面積の大部 きわめて顕著︵農地改革により純小作は僅か五彩に減少︶
で
農地改革後一0年の今日︑平地農村では地主的秩序の崩壊が
四 ︑ 農家経済の構造
⑦ 淵 竜 寺 所 蔵 文 書
⑥R四村字久保野︑坂足宮喜雄氏所蔵文害
如くなっている︒これによってわかるように三反歩未満の経営
が六九•四彩、五反歩未満では八三・七クタとなっており、三反
歩以上五反歩未満農家が全体の一四
・ = ‑ 9
6 をしめ︑残りの僅か
一六•三彩が五反歩以上八反歩未満の農家であり、一戸平均耕
作面積は︑およそニ・五反歩に過ぎないものである︒
以上によって明らかなように渡瀬部落における農業経営の大
部分が五反歩未満であるが︑しかし単に耕地面積だけをとりあ 渡瀬部落においては︑農家の経営面積別の構成は︑第六表の 先づこの渡瀬部落における農業経営の構成からはじめよう︒ た ︒ れわれが行った渡瀬部落での四九戸の農家聴取調査に基づい 経済の構造を明らかにしよう︒なお︑この構成及び構造は︑わ では︑以下このような山村における農業経営の構成及び農家 に隷属していくことを意味するに過ぎなかったのである︒ は︑彼等が︑ほとんどすぺて一義的に賃労佑者として外部資本 起といつても︑それは︑せいぜいこの山村の人たちにとつて 成立するというようなことはなかったのではあるが︒そして惹 下して︑この山村で山林資本主義が︑その規模の大小を問わず 経済的あるいは立地諸条件の制約から︑この山村で資本が根を
山 村 綽 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
*6表
反 戸 数
別一
実数
一比
率
経 営 面 積 別 農 家 戸 数
門
0
.
に炉r~-:1い :212:313:平: 5 1 5 : 6 ‑ 1 0 : : 8 1 7 こ~413 513149
6 9 . 4
形1 4 . 3
形1 6 . 3
形1 0 0 9 6
計
搾取こそしないが︑自己のもつきわめて 族労佑力によって耕作し︑第二に自己の家族を養いえなければならない︒とするとこの山村部落の農民は︑他人の労佑を
低位生産力の零細な土地片では︑家族労
佑力を燃焼さしえず︑家族を扶養するこ 佑を搾取することがなく︑原則として家 人﹂と考えれば︑小農は第一に他人の労 さくないところの土地所有者或は小作 大きくなく︑そして家族を養うよりも小 ともに通常耕作することが出来るよりも ところで︑小農経営を﹁自分の家族と に
これ
を見
よう
︒
り正しく把握しなければならない︒次 かを明らかにし︑零細だという意味をよ 済にとつて︑いかなる意味をもつている 耕作面積がこの部落の農業経営や農家経 のあることではないので︑かかる零細な げて零細であるというのは︑それ程意味 七0
山 村 紐 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
小農以下の貧農であるといわなければならないのである︒
次に渡瀬における農業経営と労佑力構成の関係について大
観的にいえば︑家族労佑力が支配的な比重をしめている︒しか プロレタリアにならざるをえないのであり︑その意味で彼等は 彼等の労佑力の一部の商品化を意味し︑その限りでは彼等がす
七
経営が家族労佑力を主とする半プロレタリア的性格をもつ貧農 さて以上において︑経営面稽に着目してこの山村部落の農業 小作料を払つているが︑これも山村の特徴であろう︒ 彼等が農業だけで家計を支えなければ︑半プロレタリアまたは でに︒フロレタリア化していることをしめすものである︒かくて それに従属していかざるをえないということになる︒だから︑彼等は︑その農業経営だけでは家計を支えて行くことはできずに︑農業以外の面︑主として林業賃労仇による賃銀収入をえてその生計をたてている︑ということになる︒そしてこの場合が を完全に燃焼さしえず︶︑
村では一毛作田にして︑第七表を見ても明らかなように渡瀬部
落では自作地・自作農が四0戸となっている︒かように自作地
ー自作農の比重がきわめて高いことほ︑山村の土地制度の特質
として一般にいわれる処であろう︒なお︑小作農の場合︑現物 次に渡瀬部落における自小作別の構成を一瞥しよう︒この山 点において︑この部落の農業は零細だというのである︒ アとしての性格をもつ貧農経営によってしめられているという かつ半プロレタリア又はプロレタリ 業が惹起すると︑一義的に仕とんどすべてが山林労佑者としてとんどすぺてが技術的に家族労佑力に依存し︵但し家族労働力 は︑山林所有から切離されているために︑村外資本による山林 に現金収入をもとめていかざるをえない︒その場合に︑彼等日二五0円から三00円が賃銀相場である︒
そこで以上のことを併せて考えるならば︑この山村部落のほ 営だけでは家計を支えて行くことはできないから︑農業以外なお︑その際における日傭賃銀は︑この山村部落においては できないような︑非商品生産者なのである︒
そこ
で︑
農業経 だから︑この部落の農民は︑自己および家族の食糧をも自給
﹁ ゆ
の食糧を完全自給のできうる土地をもつ農家は︑皆無である︒
一︑二の農家が農繁期における家族労佑力の補充として︑
い﹂を利用し︑あるいはたまに僅かの農村日傭を使っている︒ よってもこと足りているという意味だけしかない︒例外的な とはできないのである︒事実︑渡瀬部落では︑自己および家族も︑家族労佑力を完全燃焼できずに︑婦人労佑︑年少者労佑に
*1表 自小作別経営構成
│自小作車疇
I'訳
,1作 ト l
計 農家戸数f4o 4 o I 5149村外資本の巨人的所有の形式は必然的に農
出し
てい
る︒
等以外のごく僅かな比較的富裕な農民は︑か
なり大きな山林を所有しており︑かような山
林所有地の広狭が︑この山村農民の間で︑貧
富両者の経済力の差となって︑はつきり浮き いう半プロレタリア的農民である︒そして彼 廃で経営を行っているけれども︑農業経営だけでは生活しえ
えば山林所有から隔離されていること︶︑ れている︒そしてこのことは︑第一に社会的経済的原因︵たと 業技術の水準がきわめて低く︑従って農機具の使用も遥かに遅 なわち未だに金肥の使用が少く自給肥料が支配的であって︑農 わめて小さく︑又農業経営費も絶対額からいつても貧弱Iす ず︑自己の労佑力を売らなければならないと に自給できない非商品生産者的性格を有するそれであり︑平均しても︑絶対値においても︑猫額大にたっしない程の田畑を所民でなく︑大部分は量からいつても質からいつてもごく貧弱で 民的な林野所有を重圧し︑対極に零細にして堵大な所有者層
を︑耕地における所有関係を相似的に拡大した形でつくり出す
有関係の相似的に拡大した形は︑第八表の如き一見それとは異
なった形として現れている︒しかしその理由は︑この部落では
たとえ土地をもつことができたにしても︑山林からやはり完全
にしめ出されているからに低かならない︵第八表参照︶︒
でも
やは
り︑
一部にはその相似形がみられるからこの山村部落
このような山村部落の農家においては︑すべての労佑可能な
家庭が農業労佑に従いながら︑農業収入ー現物部分ーはき
第二に地理的条件に
制約されているものと措定し得るであろう︒かくて︑かかる技 で
ある
︒
あるが︑ともかくも必要な生産手段の一部を所有し︑自分の計含めた全土地所有の観点からみなければならないこととなるの での富幾か貧農かというときには︑耕地だけでなく林野所有を 産者としての農民︑すなわち販売のための生産を行うが如ぎ農 家が全部であるという状態である︒従って彼等は決して商品生
それ
有するに過ぎず︑故にこの山村部落では還元米を受けている農 ここでの農業は自給的色彩が濃い︑というよりはむしろ完全といわれるが︑この山村部落では山林所有者と耕地所有者の所 山村部落の農家経経の構造について見よう︒ 経営によって構成されていることを見たのであるが︑以下この
山 村 経 済 の 構 造
︵ 東 井
・ 津 川
︶
七
913
*B表 経営面稿別林野所有反別表
i!\ 山 林 \ ( 反 〉田畑(反)0.1 0.50.5 11 22 I 2 3 3 4 4 5 5 6 6 8 合計
未 澗 II II II II ,, 4
0 5未 濶 6 12 4 1 2 2 1 28
5 10 II 1 3 2 2 1
,
10 20 II 2 1 1 2 6
20 30 II 1 1
30 40 II
40 50 II 1 1
50 60 II
60 70 II 1 1
70 80 II
80 90 II
80 100 II 1 1
100 200 II 1 1
1,000 以 上 1 1
メ口 計 I 7 13 8 6 4 I 3 5 3 I 49
七
落・離村となって現われるように思われる︒このように彼等の
貧農であるため︑その家族労佑力の一部分はどうしても農業以
外において消化されなければならず︑それなるが故に︑ここで
は主として山林労佑ー林業賃労佑ーによっている︒従つてその
意味で彼等は絶えず相対的過剰人ロー産業予備軍の形態をとつ
ているのであるが︑かかる過剰人口が現実に農業外に消化され
るとき︑それは農家の方から見れば兼業という形になることは 大部分が農業だけでは最低の生活さえ維持することのできない を必要とするから│ーその支払能力なく︑忽ち赤字または転 な医務費︵無医村なるゆえ︑往診一回につき三千円から四千円︶ 合にはー~たとえば病気は強敵であって、一旦病気すれば莫大 送つている人々でも何かかなりの臨時的な支出を必要とする場 思議ではない︒かような状態であるから︑ に認められ︑中には三0万円にも上る赤字農家さえあるのも不
一応安定的な生活を 生計費さえも賄うことが容易でない︒こういった事情が一般的 ないと思われる程であって︑兼業所得を加えてもこの小さい 彼等はプロレタリアート以下の生活水準へ引下げなければなら 彼等はその生活水準を著しく切り下げなければならず︑むしろ 術をもつてしては︑低位生産力だけしかあげられず︑その結果