一日本リベラリストの社会的「背骨」(III) : 武藤 山治の「時事新報」時代と「帝人事件」
その他のタイトル Muto Sanji as a Japanese Liberalist (III)
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 3
号 4
ページ 51‑81
発行年 1954‑01‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15824
一日
本リ
ペラ
リス
トの
社会
的﹁
背骨
﹂︵
市原
︶
大正+=一年に政界浄化・政浩一新の旗織を掲げ︑日本議会史上最初の﹁商工党﹂として雄姿をあらわした﹁実業同
.
ま し
'
が
き 一︑慶応三年三月一日`尾州海辺郡鍋田村字松名新田の碍堂実家
佐野治術門氏那にて生る︒
一︑原錮地`岐早県海津郡海西村蛉池の郷里に於て今尾町小学校
に通学て明治十四年上京︑慶応義塾へ入学︑同十七年同塾卒業
一︑明治十入年学術班究の為渡米︑同二十年帰朝
一︑同二十年博闘雑誌既並に全国各新闘広告取扱所を創立鯉営
一︑同二十年横薇ジャパンガゼット新聞駐へ入既︑後ち東京イリ
ス商会に勤移
一︑同二十五年三井銀行に入ヰ神戸支店副支配人勁瀦
一︑同二十七年四月鐘淵鮨絞株式会既へ入既`兵庫支店箋配人勤
務
1︑
同一
+ 1 1 1
一年同既支配人に就任
一︑同三十九年同既辞職
1・
l!
l匹 四
4'1年同配へ再入酵導蒋取締役に就任.
1︑大正八年十月︑資本家代表者として第1回国際労働会議へ参
加︑大正九年一月帰朝
1︑同十年七月二十︳︱‑日︑鐘淵砧羅株式会既取締役紺長に就任
1︑大正十二年四月
11
+
1 11 :
t I政治教育並に政界革新の目的を以て
大阪に実業同志会を創立︑推されて会是に就任
一︑大正十三年五月`鏑淵紡餓株式会既株主一同の承認を椰て︑
大阪市南区より立候補︑衆議院議員に当選
一︑
昭和
一
年五月大阪市南区より衆議院議員に当選1 1
一︑昭和五年1月鐘淵紡蒙株式会既*長辞職︑同既相談役に就任
1︑昭和五年
11
月大阪市南区より衆議院議貝に当選
之昭和七年一月帝国議会綱散と同時に議貝立候補中止
一︑昭和七年四月︑時事新報団嘩蛍甘当者に就任
一︑昭和九年三月十日︑相州鎌倉に於て遭雉逝去
市
原
五 、J't=1
•-
‑.‑,..ー 武 藤 山 治 の
﹁ 時 事 新 報
﹂ 時 代 と
﹁ 帝 人 事 件
﹂ ー
日 本 リ ベ ラ リ ス
ト の 祉 會 的 ﹁ 背 骨
( " ) ﹂
平
結党当初より解党にいたるまで︑自らのもてるマンチェスクー・スクール・リベラリズムの信念を固持して譲ら
﹁実業同志会︵後に国民同志会︶﹂会長として不屈の産業資本家的政治実践を営みきたつた武藤山治が︑七年一
月二十四日の﹁国民同志会﹂全国大会において行った立候補中止の演説は︑当初より武藤が浄化の対象とした独占
財閥はいうまでもないが︑独占資本主義段階にはいつてますます政府の保護政策に依存せんとする多くの産業資本
やさらには彼が支柱ど侍んでいた﹁純真なる中堅実業家﹂までが︑自党を見捨てるにいたり全く孤立するにいたっ
た経緯をつたえ︑いまや商工業中間層が救泄主として見出すにいたった軍部の︑絶対主義的反動の嵐の前に立つて
経営三十七年の鏑紡が﹁大恐慌﹂の波浪に洗われて淡落の声を聞くとき︑後三ヶ月には温情主義の王国をゆるが
して鏑紡一ー一万五千の労働者がストライキに鍼起するのを知つてか知らでか︑寂然として鍮紡社長の椅子を離れてい
った彼ではあったが︑いままた満洲事変を契機とする軍部の侵出を前にして︑孤独の政界生活八ケ年を﹁人生の道
草であった﹂と自嘲して去り︑いづこに行くのであろうか︒
彼は産業資本家的実践から全く足を洗ったのではなかった︑ただ産業資本家としての紡績経営と政界生活から消
え去ったにすぎなかった︒そのことは︑彼が国民同志会を事実上の解党状態に置いて四ヶ月後︵七年五月︶︑福沢
諭吉の遺業﹁時事新報﹂の経営者兼論説委員兼編集責任者として︑戦いの場を新聞界に移しかえたことに示された︒ ﹁商工党﹂存立の余地なきことを切々と訴えているのである︒ ず︑ の解党状態に陥つてしまった︒ 志会﹂は︑立党以来十年︑党勢ほとんど進展を見ず︑昭和︱︱一年には田中政友会内閣と﹁政実協定﹂を結んでその与党となるにいたり︑立党当初の軒昂たる﹁既成政党打破﹂の色凋せて︑昭和七年一月廿一日︑犬養内閣時に事実上 1
日本
リベ
ラリ
スト
の社
会的
﹁背
骨﹂
︵市
原︶
五
こ
4
で 彼 は 政 界 に お い て 果 し 得 な か っ た 既 成 政 党 打 破 ー・ 政 商 排 撃
・ 政 治 浄 化 の 宿 志 を 果 す べ く 全 力 を 傾 け
︑ 僅 天 一 年
+ ヶ 月 後 に 突 如 兇 変 に 遭 う て 什 れ た の で あ る
︒ 彼 の 兇 死 も ま た
︑
﹁ 一 般 的 危 機
﹂ 以 降 の 日 本 資 本 主 義 と 政 局 の 渦 中 に あ っ て
︑ 彼 が お こ な い き た っ た 直 情 な 産 業 資 本 家 的 実 践 と 決 し て 無 緑 で は な か ろ う
︒
経済雑誌﹁ダイヤモン
F
誌 ﹂
︵昭
和九
年︱
︱一
月二
十
1日
号
︶ が 掲 げ た
﹁ 武 藤 山 治 氏 を 悼 む
﹂ つ ぎ の ご と き 文 字 は
︑ 武 藤 山 治 の
﹁ 時 事
﹂ 入 り の 経 緯 と そ の 新 聞 活 動 の 消 息 と を つ た え て 余 す と こ ろ が な い
︒ 武 藤 山 浩 氏 を 悼 む
鎌倉に於ける武藤山治の遭難は︑近時頻発する兇変沙汰の中にも︑言論界稀有の出来事として︑世に異常な衝動を与ヘ
挙げてその死を悼まざるはないが︑我等は同業知己の一員として︑特に傷心愛惜の愉に堪えない︒
武藤氏は時事新報社に入って︑僅かに一年十ヶ月︒本来文筆の人に非ざるに拘らず︑或は論壇に︑或は随筆に︑曾つて
一日として筆を措かず︑六十八オの高鹸を以て︑1意彼の難事業に傾倒したその熱意とその気陳︑操守何ものにも屈しな
いその態度とは︑当代稀に見る偉オであって︑新開人として確かに1種の異彩であった︒然かも新開のこと︑もともと武蒻
氏の素志ではなかったのである︒関係者の懇請否み難く︑欝然はじめて快諾したと開くが︑当時専らその衝に当った福沢桃
介氏は︑反覆勧翫数時間︑病後の福沢氏は遂にその場に卒倒したと偲えられる︒その劇的な光摂を想見すれば︑意気に起
つ武藤氏の面目躍如たると共に︑入社決意の心中のほども︑また察するに余りある︒武藤氏の横死は偉人の最後を飾る悲
劇として︑吾等は大いにこれを批とせざるを得ない︒実業界における武藤氏の功蹟は︑今更ここに説くまでもない︒夙に
政界の浮化を志し︑さきに国民同志会を組織して︑自らも政界え出馬したが︑事志と違い︑晩年政界を引退してよりは︑
専ら余生を政治教育に注ぎ︑よって国家報^ムの意を致さんことを念とした︒一度時事の入社を説かれるや︑停統の新聞を
見捨てるに忍びず︑こAに福沢氏の卒倒となり齢古稀に近く︑敢で彼の難局に当ったのである︒人生行路の曲折︑恐らく
武藤氏自身と雖も︑運命の奇なるに︑無量の感があったであろう︒即ち新たに発奔の男を揮ったものと察せられるが︑入
社決意の一面には︑新開言論の力に依つて︑別に素志の貫徹を期したものとも推量される︒
舞つて近時の世相を顧みるに︑政界財界に醜怪事の続出し︑人心険悪︑遂に幾多の不詳事件が発生した︒邦家の為め深
一日本リペラリストの社会的﹁背骨﹂
︵市
原︶
五
一日本リペラリK卜の社会的﹁背骨﹂
憂に堪えない夭第であるが︑斯かる世相に直面しては︑さきに武藤氏の起した淫化運動赤︑今において崇高の意蓑あるこ とを思い︑その運動の中道に躁鉄したことを︑逮憾至極とせざるを得ない︒犯行の動機が何であったかは︑今こ
4で問う
ところではない︒吾等は新開人として遂に貫論に殉じた武藤氏の最後を批とすると共に︑今日か
4る人を喪うたことを悲
しむ
︒
︵備考︶本稿は武藤山治の﹁前鐘紡時代﹂を扱った第一論文︵﹁経済学雑誌﹂︑二十六巻六号︶︑﹁鐘紡時代﹂を扱った第二論
文︵﹁経済論集﹂三巻一・ニ号︶︑﹁実業︵国民︶同志会時代﹂を扱った第一ー一論文︵﹁経済論叢﹂七十一巻ニ・七号︶の
完結稿たる第四論文を成すもので︑前論文を併せ参照され度い︒
昭和七年五月︑武藤山浩は名実ともに時事新報の主宰者となった︒
いうまでもなく﹁時事新報﹂は︑明治十三年に大隈重信︑伊藤博文等の﹁官許﹂の要請で︑福沢が発刊したもの
で︑諭吉流の平民的文体と独特の格調で政府の御用党紙と並立し中立を欅榜したのであった°明治後年にいたり諭
吉の衣鉢は良き継承者石河幹明にひきつがれ︑降つて大正中期以降は名論説板倉卓造︑伊藤正徳等を擁することと
つ1)なり︑諭吉以来の時事特有の品格に馴染んできた伝統的地盤
11
読者層に影響力を与えきたったのである︒
しかし︑諭吉の次男捨次郎社長の消極的保守主義が弊となり︑人事は三田閥に嬰断されて停滞し︑大正九年に株
式会社制度にするまでは固隠な個人経営の専断に委ね︑速報・報道第一主義えの紙面の転換が遅れ︑近代的営業制
度︵海外特派員︑地方特報員制の探用と速報機構の整備︶のいち早く完成した朝日・毎日固新聞に読者層を急速に侵蝕さ
( 2 )
れていったのである0すでに朝日・毎日は、大正一―-•四年以降のデモクラシ1運動の輿論指導力となり、なかんづく
朝日のごときは大山郁夫︑花田大五郎︑長谷川如是閑等進歩的名論説委員を擁して世界蚊びに日本の進運に応えた
( l )
︵
市原
︶
五四
武藤の主張は︑ の談合が厘女もたれるにいたった︒
︵市
原︶
五五
﹁自分が背後で万事命令し︑表面は代人を寄越し ﹁事時﹂は相も変らず固晒な保守主義に一貫した︒メーデーの記事には露骨な人民えの反感・蔑視
を示し︑第一普選の時には︑目に見えて無産政党えの敵意を煽動し︑全く時代の孤児となったのである︒
註
( 1 )伊藤正穂︑﹁新開五十年史﹂︱︱︱九一頁︒
( 2 )御手洗辰雄︑﹁新開太平記﹂︱︱︱九頁︒
( 3 )
寺内内閣︵官僚超然内閣︶に対する朝日︐.毎
H
新開等の倒閣運動の提唱については︑信夫涸一︳一郎﹁大正政治史﹂第二巻六六五ー六七
0
頁参照︒さらに朝日の急進的論説による筆禍﹁白虹日を貰く﹂事件については︑信夫︑同六七
0
頁︑及び信夫
︑第
一巻
=︱
1 0
八ー==一四頁参照︒
かくのごとくに︑論説の旧弊・経営の旧態・人事の停滞と内肛は時事を危機に追い込み︑昭和三年より時事の取
締役会長となった門野重九郎氏は池田成彬︑福沢桃介氏等交詢社クラプの幹部と鳩首して︑格好の時事経営者を探
すにいたった︒他方山治も︑福沢の選志を綿承して政界浄化・既成政党打倒の宿志を福沢の進業﹁時事新報﹂紙上
で果さんとする意志があり︑かつ彼が渡米留学から帰朝して直ちに就いたのがジャ︒^ン`ガゼット新聞社であった
( 4 )
ように︑もともと新聞ヂャーナリズムに深い興味と関心とを有していたから︑昭和五年夏以来武藤の﹁時事﹂入り
﹁時事﹂を日本の﹁ロンドン・タイムス﹂として保存することを国家社会の緊要事と認め︑
る国家的機関を維持する公益資金は︑三井と三菱とが負担すべきであり︑自分は経営能力だけをもつて主宰する︑
( 5 )
というにあったが︑これは物分れとなった0その後も一︑二回談合があったが︑武藤は﹁国民同志会﹂を見捨てる
わけにいかず︑さりとて時事の財政状態は悪化する一方だから︑
てやる﹂案を提案した︒﹁時事﹂の相談役は︑︹
1
︺政治から手を引くこと︑︹2︺武藤が自己の全責任でやること︑一日
本リ
ペラ
リス
トの
社会
的﹁
背骨
﹂
(3
)
のであったが︑
ヵ ヽ
.I.
ると記されていたのが︑未払込は六十万円程集ったけれども︑百五十万円の売掛は全くゼロのものだった︒それか
過 す わ け に は ゆ か な い と 思 っ た か ら
︑ や 家 庭 の 者 等 が 皆 反 対 だ っ た け れ ど も
︑ 僕
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑は自分の立場から考えて︑打算だけで以て此問題を取扱うべきものではないと思った°僕の今日あるは全く福沢先︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑生の賜であるから︑先生の為めに今日の総てを失うても構わない︑自分の力の限りを尽して御恩を報じなくてはな
︑︑
︑︑
︑︑
らないと考え︑断然決心して東京へやつてきて御引受する事を答えた0ところが新聞社の貸借対照表などというも
のは︑確実なる事業会社のとは違つてまるで目茶苦茶なものだ︒当時未払込金が八十万円︑売掛金が百五十万円あ
津田
君︵
津田
信吾
氏の
こと
ー市
原︶
一日
本リ
ペラ
リス
トの
社会
的﹁
背骨
﹂G
巾原
︶
を条件としたからこれも物分れとなった︒しかるに︑先に見たょうに︑国民同志会の解体にともない︹
1
︺の
条件
は
解消し︑さらに昭和七年上半期の時事の欠損七十六万円を計上するに及んで︑︹
2
︺の条件も成熟してきたから︑遂に九年五月に正式に武藤の﹁時事﹂入りは決定オるにいたったのである︒
武藤は時事引受けの事情と︑その時の甚しい財政の欠損状態についてつぎのごとく語っている︒ーー・﹁池田さん
と門野さんとがやつて来て︑君がやつて哭れなければもうつぶすより外にない0それでは福沢さんの進業を無くし
てしまうので︑先生に対して相済まぬ話である0そうかと言うて誰もやる者が無いのだから︑是非君が引受けて貰
いたい︑と頼まれた0新聞の事は:i
. .
.
僕に毎日新聞の後をやっ.て哭れんかとの事だったが︑僕は同志会の仕事があ
るし︑それに少しでも暇があったら美術を楽しんで静に暮したい望を持つているから︑其時もお断りしたのである
報知の話もあったが是も断った0時事の話も無論断るべきではあるが︑福沢先生の進業が絶えるという場合には見
ら毎
月一
1一万五千円の赤字になっているのが︑此外に取れない勘定の売掛として三万五千円づつ出てゆくのだから︑
結局︑金で一二万五千円を損して︑紙で三万五千円を貸して居るのだから︑七万円の欠損になつて居たのだ°流石に
五六
一日本リペラリK卜の社会的﹁背骨﹂︵市原︶ んだと思つて︑︵傍点ー市原︶
五七 僕も驚いたよ0そればかりか︑永らくの財政困難から未払金も溜つて居たので︑僕が引受けたその月末には一時に
二十何万円という金を取りつけにやつてきた︒こんな事情は全く知らなかったのであるから︑僕はえらい処へ踏越
っ )
一晩帝国ホテルで寝られなかった﹂と︒
註
( 4 )武藤氏は文学好きであって﹁時事﹂の夕刊にシェクスピア
1論やゲーテ論を行い︑ゲーテ論は正宗白鳥から冷やかされ たが︵木村毅﹁武藤山治論﹂経済往来︑昭和九年四月号︑一七ニー四頁︶︑とに角ジャーナリスト的オ能だけは充分評 価されており︑木村毅氏は﹁公平に見て武藤氏は必ずしもヂヤーナリズムのオ能が無い人とは思えぬ﹂︵前掲︶といい 伊藤正徊氏も﹁武藤氏が記者で育ったら第一流の主筆になったことを折紙づける﹂と高く評価している︵﹁武藤山治の
﹃思うま4﹄﹂中央公論︑昭和九年︑春季特大号︑
l ‑ = H ‑
=頁
︶︒
(5)この時に武藤が出した条件なり抱負なりは、つぎの首葉にしめされる。ーーー「三井•三菱が年さ――十万口宛を出してくれ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ねば経営は出来ぬ︑
1 11
十万口出してくれれば僕が引受けてやるが⁝・・・今の富豪は社会のおかげで富豪になっているのに
その社会を忘れている︒時事新報は常業機関とせずに︑社会改良のために︑人心指導機関として経常すべきだ︒ロン
F
ン・クイムスは発行部数は少いが︑発行部数のみを希わず︑人心指導機関として立つている︒しかし日本の新聞は発行 部数を求めなければ損をする︒その損を富豪が出さなければならぬ︒富豪のその身を保つ保身術は︑人心指導機関に金 を出すことだが彼等は保身衛を知らない︒人心が悪化したら富豪なんかもちはせぬ︒今日どこでも社会組織が悪うなっ て来たら︑富豪はもたないことは明らかだから︑今から保険料を支払わなければならない︒その保険料を支払う意志が ないから︑しまいにはひどい目に会うのだ︒時事新報を人心指導機関とするには金がない︑社会のおかげで幸福に碁し
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
ている富豪が︑保険斜を支払うべく自覚していない︒だから僕が出てやるのは早い﹂と︵国民会館編︑﹁公民講座﹂武 藤山治追悼号︑一九五ー六頁︶︒か
4
る山治の︑財閥は社会に負債をもつから保険料を支払うべきである︑という倫浬 観は︑彼を三井に採つて産業賓本家の門に送り込んだ︑福沢イズムの敢為な産業的実践者︵福沢の甥︶中上
J I I 彦次郎の ものでもあった︒中上川は︑﹁生糸業なるものは浮沈の多い
H
業であるのに︑今日までどちらかといえば︑賓本の少な︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
い小企業家の手に委ね富豪は之を顧みなかったが︑此浮沈の多い重要産業こそ三井家の如き富豪が進んで国家社会のた
︑︑︑︑︑︑
め経営すべきであると語っておられ﹂︑﹁こういう考え方は井上侯︵﹁三井の香頭さん井上馨﹂のこと︶の性格どは正
[8
)
彼の抱負は直ちに時事の紙面に表現されていったが︑まづ従米の保守色強い論調を消算してスクープ本位にし︑
上品︑高雅︑正確を旨とした﹁タイムス﹂的な言論指導機関たるべしと︑正統ジャーナリズムの軌道に時事を置い
たのである︒
註
( 8 )左翼のスクープは従来最も左翼記事を傍観してきた﹁時事﹂に最も多く表れるという奇観を呈し︑佐尉・鍋山の転向を
I
ヶ月以上早く抜いたり︑五・一五事件の海軍側求刑号外を発行したり︑スク
17
0本位は忽ち紙面にあらわれたのである︒
ことに注目されたのは︑三田閥の人事の独占による弊を除くため︑早稲田出身の森山久氏を抜摘して編集部長に
( 9 )
就け︑自らは入社二日目よりあらゆる困難を押しきつて夕刊に連日の随筆﹁思うまA﹂を書き続け︑文章教育を念
として︑政治に経済に時事問題に人事に果敢な武藤イズムを辰開したじ武藤の下に編集局長たりし︵援編集方針に就 に侵透していったc
反対であって︑中上川氏が逝去されると間もなく侯の厳命で一切他に売却されて三井の経常から離れるに至った﹂.ので あっ.て︵武藤﹁私の身の上話﹂一六八頁︶︑井上審・益田孝等前期的政商との径庭︑思うべきである︒山治が福沢・中
●川の産業査本家的倫理槻の最良の継承者たるゆえんが︑ここにも語られているのである︒
( 6 )伊薩正穂﹁武藤氏への=思うま仝﹄﹂前褐‑︱︱五四頁︒
( 7 )
﹁公民購座﹂前掲︑二八九ー九0
頁︒
入社当日︑武藤は編集方針として︹1
︺記
者の
大減
貝︹
2
︺︱
︱ユ
ース
重要
性の
割引
き︹
3
︺政治
=︱
.ュ
ース
の無
意味
︑等
について主張し︑五月一日付で﹁今回取締役会決議に依り︑小生に当社経営の全権を委任されたるに付︑自分時事
新報経営に関する一切の問題は総て回章に依り︑諸君に告知することとし︑従来の経営万針を全然改め︑万事を諸
君と共に一体となって時事新報本来の使命に邁進致度﹂との﹁マグナカルク﹂を全社に公示し︑武藤色は忽ち社内
‑ H
本リ
ベラ
リス
トの
社会
的﹁
背骨
﹂︵
市原
︶
五八
6
巾原︶五 九
﹁時事﹂は以降精力的に﹁
財政的窮境の克服は
て武藤と意見合わず去ったが︶伊藤正微氏は︑﹁勇敢なる斗将的性格をも備えていた0
番町会攻撃も一例だが︑かの国 際連盟脱退に反対した当時も︑主張に勇敢なる特性を感じさせた︒主義は大体リベラルで︑評論の幅もあった﹂と
(10) 評している︒
註
( 9
)伊藤正穂氏は武藤の﹁思うま4
﹂欄
の執
筆に
対し
︑﹁
いか
なる
天オ
記者
と雖
も︑
一年
︱︱
ー百
六十
五日
︑適
切な
る題
材を
一
貫することは不可能であ
p
私は当初に提言した問題主義︵その都度書く︶を今Hでも適当な忠告と信じ﹃思うまA﹄は連日制の為めに権威の牛分を損していると考えている﹂と逃べているが︑﹁武藤氏の筆欲は旺盛であり︑連日︑割麟
の要
求は
熾烈
であ
﹂
P
︑伊藤
氏も
﹁︱
︱︱
̲︳
回反
省を
求ぬ
たが
︑﹃
その
中︑
この
要求
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命線
であ
ると
気付
いた
ので
遂に
承認
して
了っ
た﹂
ので
あっ
た︵
伊藤
︑前
掲中
央公
論︑
一ー
ー五
五頁
︶︒
( 1 0 )
伊藤
︑同
一ー
ー五
七頁
︒ だが紡績経営と異なり︑新聞経営は﹁経営の神様﹂武藤にとつても門外的であったから︑
彼のあらゆる独創と悪戦苦斗にもか
4わらず意にまかせず︑入社後三ヶ月にして時事を日本の﹁ロンドン・クイム
ス紙﹂たらんとする当初の方針は一椰されるにいたった
0新聞の記事内容は一転して下層的となり︑センチメンク
ルにセンセイショナルに作り︑大部数・増広告の主張に転じ︑著しい商品化政策に移ったのである
0
武藤はまず時
事の社礎を安固な財政的礎石のうえに置がないと︑いかなる主義も︑王張も容文であり無能であるとの見地に立った
ので
あり
︑
かくては﹁時事﹂の目標は﹁朝日﹂ではなく﹁読売﹂に置かれるにいたり︑
( 1 1 )
読売﹂の読者層に挑んでいったのである︒
註
( 1 1
4る﹁時事﹂の記事内容の転換にもとづく﹁読売﹂えの挑戦は︑正力訟太郎氏︵当時読売新開社々長にして﹁番町会﹂)か
グループの一人︶をして︑武藤の﹁香町会﹂攻華の真意をつぎのごとく燻測せしめている9ーー﹁武藤さんが新闊を経
一日
本リ
ベラ
リ
K卜
の社
会的
﹁背
骨﹂
1
日本リベラリストの社会的﹁背骨﹂
営して見ると非常に困難で、A乃公出でずんば•…
. .
V
と始めたに拘らず︑どうもうまくゆかない︒おれがこんなに働ぃ
ても新聞は儲からんところを見ると、新聞というものは儲からんものと思つてしまった。••…•武藤は•…•新聞が儲かるようにするとすれば︑どうしても紙を噌やさなければならん︒ところが紙は今と違つて自由競争だから噌えない︒そこ
で武藤さんが考えたのが A 東京市政を暴<>という暴露記事で︑五十日位続いた︒それで時亭新報の部数は殖えた︒ア
メリカの新聞の話でも悪
Uを書いて殖えた新聞があるからそれをまねた︒そこで武藤さんは第二弾として^番町会を暴
' V
という記事を書いたわけは二つある︒︱つは悪日を書けば新聞が売れるのと︑いまーつは儲からん新聞を読売が殖 >
やしているのは︑正力が番町会から多額の金をとつて新聞に注ぎ込んでいる︒それでなければ新開はできるもんじゃな
い︑と思い込んだ︒﹂︵正力﹁番町会の扉を開く﹂経済往来︑二十可年一月号︑六五ー六七頁︶
彼 は
﹁ 時 事
﹂ の 赤 字 克 服 を 積 極 的 に 記 事 内 容 の 商 品 化 政 策 に 求 め る と と も に
︑ 消 極 的 に は 名 和 社 長 以 来 の 人 員 整 理 を 数 次 に わ た つ て 強 行 し 人 件 費 の 節 減 に も 求 め ざ る を 得 な か っ た
° 鏑 紡 経 営 に お い て は 温 情 主 義 の 王 国 と し て 一 度も人員整理を行ったことはなかったのであるが︵彼が去つてから以後の鐘紡は問わない︶︑いまや時事経営にあって
312)
は整理を強行すること五度︑﹁会社の経営を中心として現われる武藤氏は︑感情の他の方面を.^ランスするように 怒 号 的 で あ り 優 し 味 が 乏 し く
︑ 冷 や か な る 理 抽 が 温 情 を 氷 で 閉 ざ し て
︑ そ の 解 け る 所 に 爆 音 を 聞 く の 感 が あ っ た
︒ 時 事 経 営 の 為 に は
︑ 眼 中 に 個 人 の 存 在 を 認 め な い
0
時事更生のスチーム・ローラの行く所︑.小さい記者は小石のご
C13)
とく︑或は埋れ或は左右に飛んだ︒﹂のであった︒
註(12)
入社当初の経常方針中にも記者の減員が主張されており︑以後の整理にも記者・事務関係者に限られて淘汰され︑ H
楊労務者はさすがに最後に残したのであった︒
( 1 3
伊藤︑中央公論前掲︑三五二頁︒
)か.くて経営一年十ヶ月︑七年上半期の赤字七十六万円は次の七年下半期には四十六万円︑八年上半期には十八万
︵市
原︶
六 〇
註
( 1 4 )公民購座前椙︑一
0
三 頁
︵二︶
︒
︵市
原︶
円︑同下半期には十二万円と減少してゆき︑彼の拮据惨愴の効漸く顕われて︑﹁︵昭和九年の︶福沢先生の御生誕
C14) 百年に際しては︑此赤字を必らず克服し︑暮前に御報告する事を唯一の念願﹂としていたのであるが︑忽として兇
﹁時事﹂の経営は二年足らずして武藤の手から魔手によつて奪われてしまったのである︒
武藤が国民同志会を解党し︑時事に入社する以前ーー'昭和六年九月十六日︑
.
•-
, .
、
﹁忠君愛国を以て自已の一手専売の
ごとく唱え︑常に玉座を城壁とし﹂統帥権千犯を弾丸として政党を狙撃しきたった軍部は︑ついに満洲の野に兵炎
内政に外変に軍部の軍事的・封建的侵出は傍若無人となってゆく0浜口首相が愛国社の佐郷屋留雄に狙撃され︑
再び馘ち得なくなった後を継いだ若槻民政党内閣は︑平沼挙国内閣樹立をあてこんだ安達内相の︑倒閣のための政
友会久原派と組んだ協力内閣劇によって︑あえなく閣内不統一で桂冠0軍部の絶対主義的反動に対する浚落期政党
人の自己保存的な抵抗が政党連携
11
協力内閣の最初の提唱となつだのであるが︑武藤は﹁思うまA﹂でこの﹁政党
合同の提唱﹂に関し︑つぎのごとくに論じたのである︒ーー'﹁今度政友会の久原房之助君等が政党の合同を提唱J
るに至ったのは恰も商事会社の重役が無駄な競争をやって損をするよりは︑お互いに合同して楽に儲かるようにし
ようではないかといつて︑合同の相談を持ち出すのと同じである0買収や干渉で多数を占め︑これが民意.の総和な
どといつて二大政党に依つて政局が安定するものと思っていたのは束の間で︑今や政党は合同して立て直すか清算
‑H
本リ
ベラ
リス
トの
社会
的﹁
背骨
﹂
をおこしていた︒ 弾に什され︑
1口日本"ペラリストの社会的﹁背骨﹂
﹁軍部が国政・外交に立入って容啄す (九.―――•六)
一層
人の手に渡つて整理して貰うかの外ない窮地に陥ったのである。•…・・政党の信用を恢復する唯一の途は政党の幹部
が己れを拾てることである︑真に此覚悟さへ出来れば万事は容易に解決する0しかし︑これは言うぺくして出来ぬ
(八•五・ニ五)相談であろう︒﹂
浜口を什した狂信的超国家主義者の兇弾は︑つぎに前蔵相井上準之助︑︳︱‑井合名理事長団琢麿を相継いで什した︒
武藤は筆を執つて﹁思うまA﹂に団氏追憶の文を書いて述べた︒ー﹁斯くの如き人格の人が︑彼の如き横死を遂
げられたのは︑私は全く実業界に於ける一部人士中に動もすれば政治家と結托して︑批聞の疑惑を招く行為を敢て
する者あり︑それがため︑団氏に対し見当違いの錯談をなしたる結果︑犠牲となられたるものにあると考え︑
痛惜に堪えない︒⁝⁝実業界における人々に向つて︑団男の死の偶然ならざる所以を告げ︑正義の士は倶に相語ら
うて︑善人に与し悪人を斥け我国実業界の浄化を期せんことを希望して止まざるものである︒﹂
若槻内閣総辞職のあと︑西園寺が後継首班に奏請した犬養政友会総裁は︑
(15) ることは憂慮に堪えない0この自分の心配を犬養に含ましておいてくれ﹂との天皇の﹁診念﹂に応えて︑国民同志会の議席のとだえた第六十一議会に、単独内閣を組織して強気に臨んだ。ー—犬養はさすがに、上奏してでも陸相
を更迭し︑陸軍と一戦を交えるつもりだった0すでに武藤は大正十一年頃から︑﹁個人としては犬養氏は先輩ゆえ
(16) 援助することを辞せざるも公然関係することは謝絶致積﹂で︑爾来経済的援助をあたえてきたが︑犬養は組閣後︑
﹁国策審議会﹂を作って武藤を親任官待遇の委員に推薦したいから︑﹁自分とその一党を助けてくれ﹂と惑請する
ところがあった0武藤は謝絶していった︒ーー'﹁君が多年唱導してきて︑実行に移せなかったことを︑今実行して
こそ犬養の生命があるのだ0人の為めに職を設けるような弱いことでどうするのだ︒それよりか何よりも先に︑此 G
市原
︶
...
、 , ,
この事件は充分に資本家を反省させる材料だ︒査本主義が爛熟期に入ると共に︑どうも査本主義の持つ徳性が影を
‑H
本 リ ベ ラ リ
K卜の社会的﹁背骨﹂ さらに彼は別に︑
G市
原︶
の不景気に対する応急策を実行しなければならない°先づ二千万円か三千万円か出して失業者の救済をやりたまえ︑︑︑︑︑.︑︑︑︑︑ヽ(17)早くやらないと革命が来るぞ︒﹂と︒
註
(15)
原田熊雄﹁西園寺公と政局﹂二巻一六
0
頁 ︒
(16>
武藤の高原操氏宛書翰に次のごとくある︒ー﹁滞京中此度革新運動に対し犬養氏の財政●の世話迄致し居候宮島清次郎 君より小生え公然後援を声明する様希望被申込意外なる申込にて一寸答に苦しみ兎に角熟考を約して相別れ申候︑小生
は個人として犬養氏は先董故援助することを辞せざるも公然関係することは謝継致候積り候﹂と︵公民購座前褐︑ニ︱︱︱
九頁
︶︒
( 1 7 )公民疇座前褐︑二八八頁︒
さらにその後犬養より貴族院に這入らないか︑と勧誘があったが︑彼は傍らに﹁僕は議会に愛想をつかして政治運動を
止めたので︑議会に籍を置くつもりなり衆議院に出るぺきである︒・・・・・・犬養ともあろう者が︑こんな分り切った事を言
うて寄越す位になってしまった﹂と洩らしたのである︵同︑二八八頁︶︒
満洲事変の拡大・進展を憂えた犬養が︑勅命にすがつて撒兵させようとする気配が見えたとき︑軍部の犬養に対
する反感・憤慨はその極に達したが︑果然︑昭和七年五月十五日に一群の革新青年将校は乱入して﹁問答無用﹂に
老首相を射殺したのである0彼はこの五・一五事件に裳動し﹁思うま4﹂でつぎのごとく時代の警鏑を鳴らしたので
いては︑政党は勿論世の富豪も深く鑑みるところがなければならぬ0
・・
・・
・・
彼等
は其
数を
侍ん
で一
度政
権を
得る
や傍
若無人天下心あるもの4憤りを買つて顧みざりしことは蔽うべからざる事実である︒﹂
﹁五・一五事件の現象そのものに就ては︑善いとか悪いとか今更いったところで仕方ないが︑ ある︒ーー﹁純真にして未だ実社会の経験乏しき青年将校をして︑
. . . . . .
/ '
︵八・七・ニ七︶ 一意国を憂へて此挙に出でしむるに至ったにつ
註
(18>和田E l
出吉﹁三井n
ン ツ
ェ ン
読 本
﹂ ・
ニ 九
一 頁
︒
本主義匿救の要を力説したのである︒ は私益迫求を保護した資本主義初期の法律を悪用することによって︑その目的を達しようとしているが︑かうした︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ものが国民の恨を買わない筈はない0実際五・一五事件などは︑国民のさうした鬱結した感情の息抜きなのだ0今︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑218)のうちに︑金持ちは思い切つて反省をして何とかしないとえらいことになる︒﹂と財閥批判談をおこない︑日本資 潜めてしまう0資本主義が因由している社会共助の精神を踏みにじつて︑他を喰み︑他を陥れても私利追及に盲進
するような悪性のみが力を強めているのが現在の資本財閥のやり方である0私益の追求などは︑本来査本主義発達
の初期に於てこそ極端に必要であったが︑現在は資本家に於てこれを調整しないと大変なことになる°而もこの頃
いたった0後継内閣は議会に圧倒多数の議席を占め犬養首相を屠った兇弾は遂に政党内閣までも終焉せしめるに
る政友会鈴木内閣でも︑また親軍派政党人が軍部のバック・アップによって目図した平沼挙国一致内閣でもなく︑
軍部・官僚と政党人が﹁異夢﹂を抱いて﹁同床﹂した斎藤中間内閣であった0斎藤内閣における政党出身閣僚は政
友
I I ‑
=名
︑民
政
11
二名であったが︑政友会主流派︵鈴木滅︶の鳩山一郎は文相のボストに就いて次期鈴木内閣の劃
策と政党内閣復元
11
更生工作の一中心となつていた︒ーーが彼は八年五月に京都帝大滝川幸辰教授を﹁赤色﹂の刻
印を押して追放せんとし︑こ
4
に﹁京大事件﹂がおきたのである︒これは︑この段階における﹁護憲﹂派政党人の︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑んなく示したもので︑本格的な﹁暗い谷間﹂えの﹁大学の転落﹂を象徽するものだったが︑武藤は﹁講本質をいかu1
9)
談社文化﹂層の立場を代辮して﹁思うまA﹂で﹁京大事件﹂に就き︑つぎのごとくに論じたのである︒ー
﹁今回京都大学と文部省との間に起った学問研究の自由という事では︑吾スをして大学教育に対する根本問題に 1口2本リベラ
"
K
卜の
社会
的﹁
宵骨
﹂︵
市原
︶
六四
︵市
原︶
六 五
^ヅキリとこれを定める必要を感じせしめるに至った°昔と違つて今日では︑自分の子弟を大学に入れる
父兄の中には︑これに依つて子弟に立派な教育を受けしめるにあって︑卒業後子弟の収入に頼らんとする者は多く
はあるまい0しかしながら子弟を大学に入学せしめる父兄の大多数は︑卒業後どこかで実業に従事せしめようと考
えているのであって︑終身学者として学問の研究に浚頭せしめ︑学問上の一大発見をなさしめようと考えて︑大学
一日も早く良き社会のに入学せしむる父兄に至つて少なかろう0また学生に於ても卒業の上はどこかに職を求め︑
地位を得て︑物質精神両方面の希望を満足したいと願つているに相違なかろう︒
. . . . .
.
註
( 1 9 )﹁
岩波
文化
﹂と
﹁購
談社
文化
﹂の
悲劇
的な
背反
的性
格と
それ
赤我
国文
化構
造に
特殊
な性
格を
担わ
しめ
る理
由に
つい
ては
疲原
惟人
﹁文
化革
命と
知識
階級
の任
務﹂
︵世
界︑
二ニ
年六
月号
︶を
参照
され
たい
︒﹁
岩波
文化
﹂の
階層
蛾盤
は︑
いう
ま
でもなく、大正一――•四年以降のデーモクラシ1運動の先頭に立った「新中間階級」(インテリ・サラリーマン層)であり、
﹁講
談社
文化
﹂の
指導
的な
階層
は︑
武藤
赤糾
合し
た﹁
大日
本実
業組
合連
合会
﹂︵
大正
九年
︶や
﹁実
業同
志会
﹂︵
大正
+‑
=
l
年︶
の支
柱と
なっ
た﹁
旧中
間階
級﹂
︵中
小商
H
業者︶
にあ
ると
思わ
れる
︒﹁
京大
事件
﹂は
リベ
ラル
な最
後の
灯を
点し
つづ
けて
きた
﹁岩
波文
化﹂
の鹸
帝国
大学
に組
対主
義I
フア
シズ
ム的
反動
の嵐
が吹
き寄
せた
こと
を意
味し
︑孤
高独
歩の
﹁岩
波
1日
本リ
ベラ
リス
︸の
社会
的﹁
背骨
﹂
此点に於て間違いないとすれば︑大学教育と雖もか4る立身出批への要素たる知識と品性と経験とを与うべきで︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑あつて︑大学教育であるからとて︑学生が大学を出て社会に立ち実学に従事するに当り︑立身出批の妨げとなるよヽヽヽ.ヽヽヽ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑r︑︑︑︑︑︑︑︑うな︑常識の線路を外れた学説を濫りに教うべきではない0自転車に乗る見習に来ている者には天上に昇る知識は
︑
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︑
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︑
︑
︑
︑
必要でない0大学教育も投査者の投資の目的に叶うように施さなければならぬ︒﹂﹁昨今京大法学部教授の態度の
如きは︑特権階級に反抗するがごとくにして︑しかも帝国大学に研究の自由という︑一種の特権階級的資格を獲得︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑せんとするものであって︑其行動たるや矛盾の甚しきものである︒﹂(八•六.r
二 ︶
就い
て︑