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社会研究室前田光夫 (1968年10月9日受理)

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(1)

一八五〇年プロイセン憲法の成立

をめぐる政治過程(一)

   社会研究室前田光夫

(1968年10月9日受理)

  (一)問題の所在

(1)1848年3膵命を分岐点として・ドイツ型立憲君主体制は微妙な変化を示した.3月 前期のドイツ諸邦の憲法,なかんずく,1818年のバイエルン憲法に典型的に現われ,また 1820年のヴイーン最終議定書57条によって同盟法上の承認を受けた君主主義原理(Monar chisches P・in・ip)は・初期ドイツ立憲蟻の存在型態(=法型態)であり且つ運動型態

(=政治型態)であつな5が・3月後期の代表的憲法であるプ・イセン憲法には,君主主 襯理の定式はな ?カ法体制の騰決定は榊・政治的対決の方法により,成文憲法よ

り独立して生ずることにな ノ脂すれば・憲法㈱の性撒定は渓定法flilJの未齪

を政治闘争に委ねることにより・この政量欄争の結果婚酌した憲法体制の繍こより行 なわれたのである・ところで・プ・イセン憲激上,特筆すべき政治闘争は云うまでもな く,48年〜50年の憲法成立期と62〜66年の憲法争議にみられる。論者はこれらの時期にお ける政治的結果を考慮して,プロイセン憲法の運動型態の中に存在型態を求めようとする。

以下,若干の論者の所説を瞥見してみたい。

 (i) プロイセン憲法体制を君主主義原理と把握する学説。

 第一次大戦前に活躍した憲法学者の多くはこの立場をとった。ここでは,その一人であ るE・フープリ・ヒ(Edua・d Hub・i・h)の所説をとりあげaる.フープリ。ヒは,プ ロイセン国家の立憲主義への移行は,「法発展の継続性を慎重に維持しつつ,プロイセン 政府の側から行なわ唐ニする・従がって・次の如き見解が当然に生じて来る.曰く,

 [85°年1月31日のプ・イセン憲法1よ現行(19・5年一引賭)のプ・イセン憲法の諸原則の完全な 姿を示すものではな・ ・憲法の諸条項によ・てふれ合う諸関係が嫡に多様であろうとも,こ嚇法 は全体的には・憲法鮒のくまなき法典化では決してなく,むしろ立瀦は,その時代に彼にと撮 も鞭と思われた憲法領域のみ濾瀕中で考慮したのである.従。て想激の諸熈・Jは,今日に 至るまで・なおきわめて多くの部分で前立憲蟻国法}・よる腰な補充綬けているのである。

そして・二つ嚇成部 fi すなわち・現在なお緬子されている前立憲議的法素材と憲法典それ自 身の内容とを纏することにより・始めて現在行なわれているプ・イセン憲法体制の正しV、姿が得

(2)

られるのである」

それ故に,雛主義雁が憲激中において定式化されていないことが憲法の欠鉄を意

味するということにはならない.この論者によれば,憲法は前立憲犠時代の国家基本法 の修正を含むものにすぎないのであるから,憲法体制の基本原則はむしろ前立憲主義法制 の中に存するのである。君主主義原理を表明する前立憲主義法制としてあげられるのは,

1794年のプロイセンー般国法典第2編13章1条である。曰く,

 「市民並びに要保護者に対する国家のすべての権限と義務は国家元首の中に統合されている」。

 本条はフープリッヒのみならず,多くの論者によって,憲法制定後もプロイセンにおい ては,国王が統一的且つ不覗の嚇権力の保儲であることの法的根拠とされ聴   「国王による国家権力の独占的掌握」を中核とする君主主義原理を立憲体制の文脈にす

える時,これは憲法解釈指導原理の側面と政治体制形成原理の側面との二面性をもつこと になる。前者は,国王と国民代表との関係において,「権限の推定は疑わしい場合には国 王のために語る・国黙表の鮒よ制約的に鰐さ ソ」との内容を有し・後者の面か らは,議院内閣制の否認が導かれる。プロイセン憲法体制を君主主義原理と把握する学説

は「王家頷及麟即ち1?イツ国家指導の古い伝統的翻力の鰍る鮒こ基

づく立憲体制としてプロイセン王制を解したのである。

 (ii) プロイセン憲法体制を二元主義(Dualismus)と把握する学説。

 二元主義論は革命に基づく制憲行為により民選議院が設立されて,絶対君主制が立憲君 主制に転換した事実に着目して構成された憲法論である。この理論は立憲君主制成立の根 基を「革命」に求めるため,政治型態としての立憲君主制への評価は著るしく消極的であ

る。

 かかる傾向は48年革命の中途においてすでに看取されるところであった。一例をひこ う。革命時代に民主的一共和制的理念の鼓吹者として活動したフレーベル(Julius Fr6bel)は,いわゆる憲法協約(Vereinbarung)によって成立する君主制を契約君主制   1o)

 (Vertragsmonarchie)と呼び,その実態に対し次の如き評価をあたえる。

       11)

  「国民の主権に対する要求が承認され,君主にもかかるものが認められるとすれば,国家は二人の 王位継瀦間における戦争状態の下にあることとなる。所謂協約なるものは国法行為ではなく,和平 締結,あるいはむしろ二人の戦争遂行者間における休戦状態である。それ故に,戦争は後に間違いな  く新しく生ずるはずである」。

       12 

  フレーベルにとっては,立憲君主制は,「絶対君主制と共和制との間における静かな戦 争,すなわち瀦局,将来におい松然化するひそかな戦いの形式にほカ・ならず・その解 決は絶対君主制への復帰か共和詣 への綴となる」という性髄もつ体fliilであって・「立

(3)

 憲君主制とは政治的危機にほかならないのである」

      13)

  鋭敏な政治感覚の所有者によって提示されたかかる発想は,君主制崩壊後のワイマール  ・ナチス期の憲法学者によって採用され,憲法学的に精緻化されて,立憲君主制の二元主 義論の基礎にさエC シユミ・ト(C・・1S・hmitt)はプ・イセン・ドイツ型蜷法体 制を二元主義と評価した学者の先駆的存在であろうが,彼は次の如く述べる。

  「ドイツにおいては, 1848年の革命が一般的にいわゆる立憲君主制,すなわち,国王の政府と国民 代表の二元蟻(R・v・モー P宅1を導いた・そして・この蟻の下では,両者一君主と国民代表一が 政治的統一体の代表者として現われた。かかる二元主義は(制憲権の主体は誰かという)決断(Entsc heidung)が延期されていることを意味しているにすぎなかった」。

      16)

  シュミットによれば,すべての政治的統一体の内部にあっては,一つの制憲権の主体が 存し得るにすぎないのであり,憲法の基礎が君主主義か民主主義かについての決断の延期 されている立憲君主制の二元主義は暫定的にのみ存続可能な形式的妥協であって,長期に 互って維持することの出来ないものである。かくの如く,シュミットは制憲権帰属主体の 未決定状況より生じる暫定的妥協的憲法体制を指示する語として二元主義を用い,この二 元主義的中間状態の克服を制憲権の帰属をめぐる真正な闘争に求めたのである。

       17)

  シュミット的見解に依りながら,さらにこれを敷術したのはK・カミンスキー(Kurt Kaminski)である。フレーベルが立憲君主制の現実態を「政治的危機」と名ずけた如く,

彼はこれを「例外状態(Ausnahmezustand)」と認識し,以下の如き理由づけを行なっ

た。

  「最終的に決断のないままになっている3月革命での君主主義国家と市民社会との問の対立によっ て,闘争が延期されたにすぎないことが予見されねばならなかった。立憲主義憲法の二つの内在的な 要素,すなわち,君主主義原理の代表者としての国王と,議会において政治的に現われて来る国民主 権の代表者としての市民社会との間に,平衡状態,妥協への意思が長期に互り存続することは不可能 であった。君主及び国民代表の両者が政治的統一体の代表者として登場して来る国王の政府と市民社 会の二元主義が何故継続状態として考える事が出来ないかということの決定的理由として,我々はそ の観念的存在,その精神的現実的構造によって,まことに対立しているこれら二つの政治勢力の間に 実際上の契約は不可能であることを顧慮せねばならない。妥協憲法(Kompromissverfassung)は それ自身から生じて来る対立を決して克服することは出来ない。多元的グループの妥協体制は,その 自明の性質によって政治的統一とそれによる政治組織を継続的に創出することは出来ないのである。

立憲主義憲法は,本来の意味においては,架橋体制であり,移行体制なのである」。

 「憲法的妥協の中にいる異質的当事者の本来の状況は一あらゆる隠蔽とはうらはらに一自己の政治 的存在を全体的に貫徹しようとする意志である。プロイセン立憲国家の本来の状況,そしてそれによ り立憲主義憲法に適合する状況はこの国家の諸要素の対立,すなわち,闘争である。この状況は完全 なまことの政治秩序を表示するものではなく,またそれを実現することが出来ないのであるから,立

(4)

憲主義憲法をもつ国家は絶えず例外状態にある。この国家は例外状態の中にその固有の本質をもつの である。例外状態が立憲主義憲法の政治現実なのだ」

       18)

 3月革命時の体制成立期に表明されたフレーベルの立憲君主制論と体制崩壊後にシュミ ット,カミンスキーによって構成されたこの体制の評価とは,立憲君主体制の政治的現実 は危機的例外状況であるとの認識において一致し,この体制の盛期において,多くの憲法 学者によって理論構成された君主主義原理論と著しく対礁的なのは興味深い。

(2) しかし,注目すべきは,君主主義原理論と二元主義論は対礁的な理論構成をとりなが ら,「立憲君主体制は固有の根基をもつ,それ自身完結した秩序体ではない」という体制 性格論において見解を一にしていることである。すなわち,前者にとっては,立憲体制は 時代の要請に応じてなされた前立憲主義的法秩序の修正型態にとどまって,前立憲主義時 代より引き継がれた国家権力のexercitiumに変更を齎らしはしたが,そのiusに変更を 加えるものではなく,後者にとっては,それは絶対主義から議会主義へとの移行体制にす          19)

ぎないのである。

 しかしながら,1848年より1918年に至るまでの70年間の存続をもつプロイセン憲法体制 を単に前立憲主義的法体制の修正型態であるとか,架橋体制であるとかの消極的評価にと どめておくことが可能であろうか。

 君主主義原理論も二元主義論も立憲君主体制の部分的側面を体制全体の本質的性格を表 示する微表に高めた憾みがある。シュミット=カミンスキー的二元主義論では,例えば,

以下の如きエルヴァインの指摘に対処し得ぬものと思われる。

 「ドイツにおいては,自由主義は憲法思想を一般の意識の中に持ち込みはしたが,しかし,新しい 憲法国家を自己本来の計画に従って形成するには至らなかった。他の諸勢力がこの発展を我がものと し,由自主義は反動的・復古的グループの反自由主義的傾向と第四階級の新しい権力に対して指導的 運動となることを放棄したのである。これによって,自由主義は自己自身に不忠実となった。(略)。

市民層は自己の希望を王室に託したのである。ドイツ自由主義が国家内での指導を放棄した結果は,

君主蟻原理が君主制倒壊に至るまでドイツ内に翻していたということであ・16S・

 エルヴァインの指摘の通り,プロイセン憲法体制の性格づけにあたって,48年革命後の ドイツ市民層が君主制内部に包摂され,君主制の本質的対立要素でなくなっている点を見 落す事は出来ないであろう。が,一方,市民層が君主制内部に包摂された事により,君主 主義原理それ自体も三月前期型の「君主による国家権力の独占的掌握」という定式に固執 することが実質的に不可能となる。多くの論者によって,プロイセンにおける君主主義原 理の確立とみなされた憲法争議の勝利に対して,シュミットがあたえた次の評価は矢張

り,プロイセン憲法体制の本質規定に際し(シュミッ5=カミンスキー的二元主義論とは

(5)

別に)一考すべきものを含んでいると筆者には思われる。

  「国王の政府は議会の意思に反して軍制改革を実行し,二度の戦争に勝利を得た。しかし,政府は 勝利の後に,議会に(政府の違憲措置の)事後的承認一承認と責任解除一,すなわち,Indemnitatを 乞うて得たのである。(中略)。憲法争議は決断なくして終った。(政府と議会の)各々は自己を内政 上の勝利者とみなし,各々が自己の良き法を守り貫徹したとのことから,更に一一層の対立に進むこと が可能となったのである」

      21)

 以上の所説を顧りみる時,君主主義原理か二元主義かという憲法体制の本質決定論の対 立は・帰結するところ,市民層=議会勢力の国家=君主勢力への包摂の範囲と性格の評価 にかかわっていることが明白となる。フープリッヒに代表されるような君主主義原理論は プロイセン立憲主義の歴史的過程からの帰納物であるとしても,なお実定憲法解釈原理と しての性格を濃く有し,他方,シュミットやカミンスキーの二元主義論は,決断理論又は ナチス政治体制のアポロギアのための歴史構成という面を強く出していることも否定出来

ない。

 筆者は以上の論者の成果を尊重しつつも,再度,歴史の場に立戻り,政府対議会の関係 を軸として1848−50年のプロイセン制憲作業をめぐる政治過程を分析し,まず制憲時にお けるプロイセン立憲君主体制の憲法像を明確にしたいと思う。それによって,「まさしく あらゆる政治型態の中でもっとも難解である」立憲君主制の国家型態解明のため一つの資        22)

料が提供され得ると思うからである。以上は本研究に対して筆者がもつ憲法史的面での問 題意識である。

(8)憲法理論の面からみるとき現代における立憲君主制研究の意義は以下の点にあると筆 者には思われる。社会主義諸国の憲法学者が現代の西欧型憲法体制に下す評価はきわめて severeである。一論者はブルジョア憲法の制定時の進歩的作用を承認しつつも,

 「ブルジ。ア階級の本質を隠蔽するのがブルジ。ア国家の憲法の特色である。同時にブルジ.ア諸 国の調和することのできない階級矛盾,およびプロレタリア階級とブルジョア階級とのするどい階級 闘争は,ブルジョア階級に自己の支配地位に動揺をきたさない範囲内で,あの虚偽的な,貧困な,欠 陥だらけのものであるが,デモクラシーを認めざるを得なくさせている。しかし,ブルジョア憲法は ブルジョア階級の意思を表現し,資本主義的原則を確立する根本法であるから,それは,どのような 時期に,どのような形で現われようとも,その搾取階級的,反勤労人民的本質にかわりはなく,少数 の搾取者と大多数の被搾取者に対する支配とブルジョア独裁とを永遠に反映する」

       23)

 と述べ,他の論者は,国家の階級的本質よりして,国家の自立性という観念はブルジョ ア国家の弁護人によって拡げられている神話であるとし,

 「議会,政府の階級的構成,市民的国家機構,裁判所,軍隊,警察などの上級および中級公務員の 社会的地位,これらの諸機関の活動は,この国家が,広範な選挙権が存在する場合においてさえ,労

(6)

働者階級や勤労大衆に対してばかりか,中小企業家に対して,自国民の国民的利益に対して向けられ た独占資本の道具であり,国民に重荷を負わせ,国民にではなく独占資本に有利で都合のよい内・外 政策を行う道具であることを反駁の余地なく立証している。      

      24)

 と主張して,現代ブルジョア国家においては,独占資本と労働者階級の間に,ボナパル チスムがみせたような一時的な「均衡」のための条件さえ存在しないことを指摘する。

 ドイツ型立憲君主体制に対する批判であったシュミット・カミンスキー的二元主義論を 彷彿とさせるこの社会主義憲法学からの現代西欧型市民憲法体制への批判(それは日本国 憲法にもあてはまる)はたしかに,我々にこの憲法体制のもつ病理の一面を指示してくれ るが,決してそれ以上ではない。市民国家における憲法の役割は,多元的政治・社会勢力 の存在を前提としつつ,これら勢力相互の衝突・矛盾を調整・解決することにより,国家 生活全体の恒常的更新をすすめていく過程の法規範化である。我4にとって問題なのは,

      25)

先述の論者の如く,市民国家における諸対立を治癒不能としてすましてしまうことではな い。この立場からは,プロダクチブな日本国憲法論は生じないであろう。問題なのは,諸 対立を包蔵する国家の生活過程の中で,その統一性と全体性を維持し且つ新たに創出して いくために不可欠の憲法の統合力なのである。ヘッセ(Konrad Hesse)は,「結局のと       26)

ころ,憲法は変遷する政治的・社会的現実の中で生活能力を有しているためには,一方的 な構造の上に創設されてはならないのである。,憲法がその基本原理の規範力を維持しよう

とするのなら,入念に考慮して,反対構造の一部を自己にとり入れなければならない」と        26)

いう。ヘッセの指摘は憲法理論と憲法政策の根本を突く。立憲君主体制においては,君主 は自己の譲歩によるとするのであれ(君主主義原理論),革命に基づくとするのであれ(二 元主義論), とにかく,民選議院という自己の反対構造の一部を採用して,君主制の維持 を図った。立憲君主体制の憲法史を検討して,そこにおける憲法の統合力の強度と消長を 關明することは,類似の憲法様相を提している現代の憲法国家の問題解決のための何等か の指針を産むであろう。それはまた,先述の社会主義憲法学からの日本国憲法をふくめた 現代市民憲法への藁ll滅的批判に対する対応につながるものと筆者には思われる。

 (註)

 1)三月前期の君主主義原理とその憲法制度については,前田光夫「三月前期南ドイツの憲法制度

←)⇔」(大阪市大法学雑誌第12巻3号,第13巻1号)参照。

 2) ただし,君主主義原理の定式一「国王は国家の元首であり,国家権力の全権限を自己の一身に 統合し,且つ彼によって制定された現憲法により確定されている規定によって,それを行使する」

(1818年バイエルン憲法)一をプロイセン憲法典内に採択しようとする動きはみられた。

 まず,1848年5月15日の内閣奏上案によると,その第20条に,「国王は国家の元首である」との規 定があった。しかし,この規定は5月20日の改正草案では削除されている。それ以後の草案及び欽定

(7)

憲法にもこの種の規定はない。しかし,49年における欽定憲法改正に際して,下院の憲法改正委員会 は欽定憲法41条の「国王の一身は不可侵である」との規定を,「国王は国家の元首である。彼の一身 は不可侵である」と改正するように提案し,その理由として,「憲法中に含まれている国王の種々の 属性を一つの表現で表示し・君主制の本来の特質を明確に述べている条項が(国王の章の)先頭に属 すべきである」と言明した。本提案は下院本会議で承認をみ,上院に送附された。しかしながら,上 院中央委員会は,「 国王について (Vom Konige)という章の表題が,そもそも,プロイセンで は元首問題が如何に規制されているかを完全に明らかにしている」と思惟し,下院改正案は,「あた かも国王への元首としての尊厳の附与が(憲法によって)契約的に確定されたかの如き理念に存在の 余地を与える可能性がある」として,41条の無修正維持を提案し,上院本会議もこれに同意した。

 上下両院の議決の不一致により,本改正案は下院に差しもどされたが,下院は国王元首規定は,「特 別に憲法に採用されることがなくても,国民の意識の中で生きており,そこにおいて,立憲君主制と いう思想によっても,変ることなく,維持される」ものとして,上院の議決を採択した。

 また上院においては,「国土」の章の審議に際し,憲法の最初に,「プロイセン国家の憲法型態は 議会の憲法上の協賛により制約された世襲君主制である」という一条項を置くという提案がされたが この条項は憲法全体よりみて自明のことを表明しており,従って余計であるとして否決された。

 L.v. R6nne, Die Verfassungsurkunde fttr den preussischen Staat vom31. Dezember 1850

(1859)S・96;E・H・b・i・h・P・eu・・isch・・St・・tsre・ht(1909)SS.1。同02、J. H・i・・i・h, D。,

monarchische Prinzip in Preussen(1920), S.48f.

 3)Vg1, Th・EIIw・i・, D・・E・b・d・・M・narchi・i・der deutsch・n Staat・k・i・e(1954),

S.103f。

 4) Vgl, L. von Ronne, Das Staatsrecht der preussischen Monarchie(1899), Bd,1, S.151;

H・S・h・1・e・D・・p・eussi・ch・Staatsre・ht(1・888−90), Bd.1, SS.141〜142;Sti・・−S。m1。,

Preussi・・hes St・・t・・echt(19。6), Bd』, S・78・F.Gi・・e, Preussi・ch・R・・ht・g・・ch{・ht・(1920),

S.191f.

 5) E. Hubrich, Deutsches FUrstentum und deutsches Verfassungswesen(1905), S.149,

(F荘rstentumと略)

 6) E.Hubrich, FUrstentum, SS,146〜147.

 7)一般国法典を採用し,プロイセンにおいては,全国家権力は国王の一身に統合されているとの 主張を憲法制定後に行なった最初の学者は恐らくv.ダニェル (v.Daniel, Preussisches Privat。

recht, Bd・1(1851))であろう。 VgL E・Hubrich. Preuss. Staatrecht, S.101.一方,プロイセン 憲法体制が君主主義原理として確立したのは憲法争議の勝利によってであるとする見解もある。

Vg1・Th・EIIw・i・,・aOS・104;E・S・hmidt, Recht・entwi・k1・・g i・P・eusse・(1961), SS.44_45,

 フーバーは,「すでにして, 1848tEFの欽定憲法は国民代表制度へと譲歩したにも拘わらず,君主主 義原理をプロイセン国法の制度的核心として,これにしがみついていた。1850年の修正憲法は立憲体 制のこれらの君主主義的要素を強化したのであった。プロイセン憲法国家においても,君主主義原理 論によって,全国家権力はその実体についてはその国王にとどまり,議会の影響力は個々のそして特

(8)

定の協賛権の行使に制約されることになったのである。いまや創設された国民代表制度にも拘わらず プロイセン型立憲君主制は君主権力の優位に基礎づけられていたのである。国王はプロイセン憲法国 家の単なる象徴と保証人ではなく,まことの且つ事実上の支配者であった」と説くが,君主主義原理 の法的根拠が何に基づくかは明らかにしていない。

 E,R. Huber, Deutsche Verfassungsgeschichte, Bd.皿,S.55・(以下・E・R・Huber, DVGと略)

 8) E.R, Huber, DVG, Bd.皿,S.12, Stier=Somlo, aaOS.79.

 9) 「君主主義原理の立憲主義は結局,国民代表の参与は制約的阻止的のそれであり,それによっ て国家内の一一切の形成的権力は君主にとどまっているとのことによる」。Th. Ellwein, aaOS.140.

実定憲法支配下にあっては,憲法典の最終的解釈権者が憲法生活の形成的権力を有する。

 9a)オットー・ケルロイター著矢部貞治・田川博三訳,「ナチス・ドイツ憲法論」(昭和14年)60頁。

10)J・フレーベルの簡単な略歴は,E. R. Huber, DVG, Bd』,S・413参照。

11) フレーベルは立憲君主制を君主制的権威国家と民主主義的純粋法治国家の中間にあるものとし それを,(1)国民代表制的君主制(Reprtisentativmonarchie),(2)契約君主制(Vertragsmonarchie)

(3)民主的君主制(demokratische Monarchie),(4)君主制的民主制(monarchische Demokratie)の 四型態に分類した。彼によれば,(1)は国王の地位は古い権威思想によっているが,現実の国王は政治 的に無(国家の象徴)であり,主権的国家権力が国民に属している君主制である。(3)は国王の地位が 国民主権によっている君主制であるが,これは君主独裁をも惹起し得るものである。(4)は,「主権者 ではない,最高の地位と名誉をもっ国民の官吏」として,換言すれば,「拡大された執行権能と不確 定の期間をもつ大統領」としての君主をもつ君主制である。この体制では,君主は国民の最高裁判所 において国民に個人的に責を負うことが不可欠であり,もっとも共和制に近い君主制である。

 J.Frobe1, Das Konigtum und die Volkssovveranitat(1848), S.10f.

 12) J.Fr6bel, aaOS.12.

 13)J.Frobe1, Monarchie oder Republik?(1848), S.11.

 14) フレーベル以外の急進派によっても,立憲君主制は消極的に評価されていた。これらの論者と シュミットとの直接的な思想的聯関を提示することは出来ないが,当時の急進派の雰囲気をみるため に若干の資料を示しておく。例えば,ラッサールは,「自分は絶対君主制をよく理解するし,共和制 も判る。しかし,自分には立憲主義は判らない。立憲君主制は奇型児で虚構だ」といい,J・ラスカ ーとF・ゲルハルトは,「立憲君主制における歴史的法と哲学的法との二分裂の解決の企図」を「こ れらの敵対者の結合の不可能性を示し,新しい戦争をもって終了し,両者いずれかの勝利とそれによ る新しい単独支配を導入することとなる長期の休戦にすぎぬ」ものとの認識をしている。ここでは,

歴史的法で前立憲制的君主体制が,哲学的法で近代立憲主義の理念とその制度が思惟されている。

 (以上,K, Kaminski, Verfassung und Verfassungskonfl ikt in Preussen 1862−−1866(1936),SS.

36〜37による)。C・フランツは,立憲君主体制の原理を「多年性的矛盾 (perennievender Widers−

pruch)として,その実際を虚構として示し,この体制の終末は国家の破綻(Bankrott)であると予 言している。C. Frantz, Die Constitutionellen(2auf, 1851), s.4f.(本書は匿名出版物であるが,

筆者がバイエルン国立図書館より,ゼロックスで取りよせた時,表紙にVon Consfantin Frantzの

(9)

書きいれがあったので,一応,これに従がった)。」

15) しかし,R.v.モールの二元主義の語の用法は,シュミットのそれと明らかに異なる。

  モールの二元主義論は,三月前期の南ドイツの立憲諸国の議会の機能が政府の違憲措置に対して,

国民の権利を擁護するにすぎず,君主との共同統治,国家権力への(協力はあっても)参与にあるの ではない状態,換言すれば,議会の激しい対政府闘争も政権への意思とは隔絶されたところで行なわ れた状況に基づいて構成されているのである。Vg1, E. Angermann, Robert von Moh1(1962),

S.390f.

 16) C.Schmitt, Verfassungslehre(1957), S,53.

 17)C.Schmitt, aa OS.54.ただし,シュミットは前掲書の別の管所で,[850年のプロイセン憲 法は市民的法治国の様式による立憲君主制への(制憲権の主体としての)国王の決断を含み.その

       コ      

際 (執行部の型態としてのみならず)国家型態としての君主制が維持されたのである」(Schmitt,

aaOS・23・圏点一引用者)と述べている。この点はシュミットの矛盾であろう。

 18) K.Kaminski, aaOSS.35〜36.

 19) Vg1. F. Giese, aaOS.192.

 20) Th, Ellwein, aaOS.132.

 21) C.Schmitt, Staatsgeftige und Zusammenbruch des zweiten Reiches(1934), S.10f.

 なお,シュミットの提言と関連して,憲法史家ハルトウンクの見解を,いささか長文であるが紹介 しておきたい。

  「憲法争議のこの経過と共に,時を同じくして,立憲君主制としてのプロイセン国家の特殊な性格 が確定した。そして,この性格は君主制の崩壊まで続いたのである。王政は諸党派の上にその地位を

もち,南。西ヨーロッパ及びプロイセン憲法の模範国ベルギーの議会制度はプロイセンでは模倣を見 出さなかった。王政復古期の国家学がドイツの君主制の本質にのみ適合する国家型態として,君主主 義原理のスローガンの下に確認したものが,なによりもまず,J・シュタールが体係へと高めたもの が,これによって現実となったのである。立憲君主制はドイツにおいては可能であった。何故なら,

ここでは,絶対主義時代からの古い国家秩序の担当者である君主,官僚,将校団が独立性を維持し,

1848年の動揺に耐えたのであったから。かくの如くして,憲法及び議会によって,君主の大権を制約 することが出来たが,国家における決定的要因としてのそれは他のものの代替し得るところではなか った。プロイセン下院の広範な要求は憲法争議の終結によって拒絶された。しかし,下院は政府とな らぶ国民の代表者として自己を全うしたのである。かくして,その結果は,多くの関係において,古 い等族的二元主義を回想させ,それと同じ様に,治者と被治者,君主と国民との分離を導いた均衡体 制の表出である。その実際的活動は両勢力の広汎な発展によっていた」。F. Hartung, Deutsche Verfassungsgeschichte(1954), SS.2ア2〜273.ハルトウンクは,憲法争議によって,君主主義原理 がプロイセンで確立したことを述べながら,他方,またこの争議において,プロイセン下院が国民代 表としての自己を貫徹して,君主と国民との間に均衡体制が成立したと主張する。これは明らかに論 理的に矛盾している。が,かかる矛盾を生み出す程,立憲君主体到なるものは多様な性格を有してい

るともいえよう。

(10)

22) J,Marriott, Dictatorship and Democrcy(1935), P.9.

23) 中央政治幹部学校国家法教研室編著・高橋勇治・浅井敦共訳「中華人民共和国憲法講義」(昭 和35年),12〜13頁。

24) レービン著,・中山研一。畑中和夫共訳,「現代憲法と福祉国家」,49〜50頁。

25)V91, R. Sm・nd, Verfassung u・d Verfassungsrecht, i・・St・atsrechtli・h・Abhandlungen

(1955),S. 189.

26) シ.イナアーが国家を定義して,それが「一定の領域内で,最終的に秋序と平和の維持を課せ られている人間的活動統一体」としながら,また「国家が静的存在ではなく,恒常的な運動と新形 成の状況にある生活過程である」と指摘するのは憲法史の研究にとって一つの指針をあたえてくれる

U.S,h。un。,, D・・Wesen d・・St・at・・und der B・9・iff・d・・P・1iti・ch・n i・d・・n・u・・en Staats−

 lehre, in:Staatsverfassung und Kirchenordnung(1962), SS.258−259.

27) K.Hesse, Die normative Kraft der Verfassung(1959), S.14.

 (二)プロイセン国民議会の成立

(1)1848年4月8日の第二次合同議会によって成立した選挙法の規定によれば,選挙権は 公的貧民扶助を受けておらず,確定判決による市民権を喪失していない24才以上のプロイ

セン人にあたえられ,被選挙権は同じく30才以上のプロイセン人に承認されていた。選挙 方法としては,間接・秘密選挙制が採用された。

 この新選挙法に基づき5月1日に選挙人団の選挙が行なわれ,次で5月8日議員の選挙 が行なわれた。引き続き5月22日,すなわち,F.ヴィルヘルム三世が1815年の同日に

「新たに形成されるべき国民代表に関する勅令」を発布してより,丁度,33年後,宮城内

「白亜之間」において,「国王との協約により,将来の憲法を確定する」(選挙法13条)

プロイセン国民議会が開かれたのである。

       1)

(2)次に議会に集合した議員の構成を一瞥しよう。社会的構成よりみれば,次の如くであ       2)

る。まず,選挙による国民議会は,その社会的構成においては,旧等族的合同議会から根 本的に異なる。402人の議員中,貴族的土地所有者は,僅かに12人である。この数は貴族 層の一部がフランクフルトのパウロ教会に選出されたために,ベルリン国民議会に参加出 来なかった事情を考慮するとしても(富裕な候補者は主としてフランクフルトに選出された)・

多年に亘ってプロイセンの指導的勢力であった貴族階級の政治勢力の驚くべき凋落ぶりを 示すものである。しかも,貴族議員中3名のみが真正の封建主義の代表と看倣され,他は 大体において自由主義的か又は自由保守的態度の持主であった。シュレージェン出身のラ

イヘンバッハ(Reichenbach)伯爵は明らかな共和主義者であったと云われている。ブル ジョア的土地所有者の代表はかなり多かったが,農民代表は68人を数えた。農民議員の多

(11)

くはシュレージェン出身の農民であったが,その中には文盲である小作人や農業労働者が いた。貴族的大土地所有者の代表と農民層の数的コントラストは政治体制の転換の象徴で ある。商人と工場主,手工業者出身の議員もかなり多い。前者は約40名。後者は28人であ る9)賃金労瀦出身の議員が1名い ラ・獅出身議員は27名であるが・学者層の代表は教 授議会と云われたフランクフルト国民議会と比較して強力ではなく,学校教師が多かっ た。学校教師議員には,思想的には自由主義よりもブルジョア的急進主義に傾斜した者が 多く,師範学校出身の小学校教員は農民及び手工業階層出身であって,三月前期型の体制 に忠誠な国民階層に属するものではなかった。50名の聖職者議員はプロテスタント及びカ トリックの出身であったが,プロテスタントの牧師議員は絶対君主制のイデオロギー的支 柱の一つである政府に従順な国教会派ではなく,自由信仰に属していた。

 国民議会の重要な構成要素をなす法律家出身の議員は100人の司法官,50人の行政官,

28人の市町村官吏からなる。法学的専門知識を身につけたこの層は議会に於ける強力な反       5)

政府派であった。シルファートは,「これらの法律家が,これまでの官僚機構や裁判所の 指導的地位を占めていた顕官であった場合は,きわめてまれであった。彼等の大部分は一 層高い位置への昇進を熱望する人々の問から出ていた。彼等は支配階級によって監督され ていると感じていたので,それだけなをいっそう,いまやこの議合において一・一一■つの役割を 演じたいという熱意にもえていた」と指摘するが,事実,立憲派や左派の主要な議員,例        6)

えば,ウンルー(Hans Viktoru Unruh),シュルツェ・デーリッチ(Franz Hermann Schulze−Delitzsch),グラボウ(Willhelm Grabow),キルヒマン(Julius Kirchmann),

ヴァルデック(Benedikt Franz Waldeck),ギールケ(Julius Gierke),テムメ(J. D.

Hubertus Temme)等はすべて法律家出身であった。検事もまた左翼に属していた。裁 判官・行政官層の出身の議員こそ,長年に亘ってドイツ議会史における反政府派の核心で

あった。

   7)

(3)政治的党派に目を転ずれば以下の如くである。

 (i)超保守派.四八年の国民議会には,指導的な超保守主義者は誰も属してはいなか った。この派の代弁者はグラィフスヴァルト大学のバウムシュタルク教授(Eduard Bau mstark)であったが,彼は主要な保守主義者の系列に属する人物ではなかった。従って,

超保守派は議会内でフラクチオンを形成することを思いとどまり,ほとんど右翼自由主義 者のフラクチオン内に逃避場所を見出していた。

       8)

 (ii)立憲派.立憲派は国民議会内の主要勢力を形成するものであったが,統一勢力を 形成するものではなかった。それは,グラボーの指揮下にある右翼(Rechte)とハルコ ルト(Friedrich Harkort),ウンルーが指導する右翼中央派(rechfes Zentrum)とに

(12)

分裂していた。政府構成者であるカムプハウゼン(Ludolf Camphausen)やノ ンゼマン

(David H盗、el_)のライン自蜥も政治的には立憲派嘱して・・た.この派の政治

・憲法理念は1789年のフランス革命の諸理念よりもイギリス型立憲主義に傾斜し,革命を 排して,歴史的漸進的過程を重んじ,伝統的諸勢力との妥協の上に改革を進めることであ

った。立憲派はイギリス型立憲主義を重んじたが,それは立憲化の過程の歴史性や有機性 を評価したのであって,議会主義を尊重したのではなかったから,その描く統治体制は議

会に対する旺の絶対的拒否権という君擁嘱髄有する立繍主制であ衙以上の

事と関連するが,平等選挙権は拒絶されていた。

 (iii)左翼中央派(Linkes Zentrum).左翼中央派はu一トベルツス(Karl Rodvertus)

シュルツ・デーリ・チ・キルヒマンレ・よって鱒されていた・この派の憲羅念は国王と 国民がそれぞれ憲法によって確認された持分を有し,共同して主権を行使するが,その際 停止的拒否権のみを国王に賦与するという形で立法権を国王と議会とに分割する議会君主 制であった。左翼中央派は一種の共同主権論を主張していたので,議会成立当初は国民主 権論に対して否定的であった。さらに,この派は反封建的反教権的態度を持して小市民層 やプロレタリア層のために社会改革を要求していたが,もちろん,社会革命を志向するに は至らなかった。

      12)

 (iv) 左翼急進派

 ヴァルデック,テムメ,ヨハン・ヤコビ(Johan Jacoby)によって指導され・徹底的 な民主蟻を雛していたが・共楠1を志向していたか否かは明らかで1よ G主繍に

ついていえば,「国民主権を明確に承認しない立憲君主制は,ただその名称によってのみ 絶対主義統治から区別されるだけである」という48年6月3日のヤコビの議会演説から理 解されるように国民主権論が主張されていた。従って,国民主権の原則の実現を要求した        14)

この急進派が国王との憲法協約の形式を基本的には,「立憲国家における絶対主義の再密 輸入」(ラッサール)として拒絶したのは当然であった。

  15)

(4)国民議会の開会にあたって,会場問題に関し小さな争議が生じていた。争議そのもの は小さかったが,それを指導する精神は今後生じて来る対立の性格を予示するものであっ

た。

 5月20日,内務大臣は,「会議場としては音楽学校が用いられるであろうが・開会式は 国王の希望により,白亜之間で行なわれるであろう」という告示を出した。合同議会が宮 城内で開かれたので,議員の一部は,開会式場として「白亜の間」が用いられることによ り,国王は国民議会をその政治的意義において合同議会と同置し,国民議会のもつ特別の 意義を否定しようとしていると危惧し,むしろ国王が音楽学校に出席すべきであるとの提

(13)

 案を行なった。しかし,国王は激怒して,この要求を拒絶した。国王も議員もこの問題で 譲歩することを嫌った.何故なら,議会の開会に際してと謂た立場が,国王.議会*目互  の政治的関係の象徴として暗示されることを両者が恐れたからである。結局は,国王の意 思が貫徹されtこの争議の中に・後のあらゆる轍の核心点・すなわち・国民議会を  政府と憲法を協約させるために召集した自己の創造物とみる国王の立場と議会の存在と権

利を革命よりひきだそうとする議会左派の立場との間に宥和し難い対立があることがすで  に看取されるのである。

       18)

  (註)

  1)この選挙法の成立に関する最良の文献は,H, Mtih1, Die Vberleitung Preussens in das K°nsti ti°nelle S・・t・m d・rch d…w・i・・n V・・ei・i…n・Land・・9(19・9), SSI68〜192である.㈱

開会日に5月22日が選ばれたのはヴィルヘルム四世の記念日好きによるようである。V. Valentin,

G・・chi・ht・der deutsch・n R・v。1・ti・n,(1968), Bd. ll, S.・42.

  2)主として・V・Valentin・aaOSS・43〜44;E. R. Huber, DVG, Bd. ll, SS.584〜585;シルフ  ァート著・上杉重二郎。伊東勉訳「ドイツ三月革命の研究」136頁以下による。なお,シルファート.

前掲書附表1(421頁以下)は議員の社会的素性を表示するものであるが,その数は本文及び諸前掲 書と往々にして喰いちがい,いずれに最も信愚性があるのか筆者にもよく判らないが,大凡の傾向は 看取される。

 3) シルファートの附表によれば・商人と工場主は23人,手工業者は26人である。

 4)シルファートの附表では2名となっている。なおW.Bloss, Deutsche Rev ol ution(1893),

S.312によると,職人が1名いることになっている。

 5) シルファート。前掲附表によれば官吏議員の総数は160人である。

 6) シルファート・前掲書139頁。

 7) E.R. Huber, DVG, Bd. li, S.585.

8)R・K°ser・Di・A・fa・g・der p・liti・chen P・・t・ibildung i・Preussen bi,1849, i。、Zur preussischen und deutschen Geschichte(1921), SS,388〜389.

 9)R・Koser・aaOSS・ 391〜392・国民議会の政治分派の分類についても種々の立場がある。コ_

ゼルは,立憲派を右翼,中央派(Zentrum)右翼中央派に分ける。フーバーは自由主義中庸派(d量e lib erale Mitte)の名の下で,右翼中央派と左翼中央派とを分けている。しかし,中央派の名称は他の 書にはみえず,一応,立憲派を右翼と右翼中央派に分けた。

 10)この派の政治的見解を代表している最適の文献は1830年にハンゼマンが起草した1830年末にお けるプロイセンの状況と政策に関する覚え書(Denkschrift tiber Preussens Lage und Politik am Ende d・・J・hres 183°)であろう・それによれば,・・ンゼマンの構想する政治体制は183。年のシャ ルトに近いものである。すなわち,それは国民主権の拒絶強い国王の地位,上院の身分的構成と下 院の選挙権の租税率による制約という立憲君主制である。少しく,詳細にみれば以下の如し。.

 まず,王室は,王権に国家の全力が集中されているため,国家生存の第一の原理である(蒼23)。そ

(14)

して,国家の第一原理は生存であり,力の増大である(?18)。

 いまや,古い封建的制度に代わり,新しい輿論という原理が生じている(§22)。従がって,王室は 多数の国民の支持に基づかなければならない。しかしながら,王室は,まさしく,「頭数の多数にで はなく,より大なる教養によ。てより多くの洞察力をもち,財産をもつことによ・て安定した政府の 存続により大なる恥をもつ国民の固有の力に基づかなければならぬ」のである(?14)・そして演 論と国民の支持を受けることの出来るのは制限王政のみである。権力の完全な無制約ということは一 つの麟にすぎない.「国王は神聖であるが,姫は国王勧のすべての行為レこ対して績である」

との原則によ。て,国王は危険な結果力・ら懸となる(237)・が汰副・おける王室は購議院のみ に依ることは許されなV・.むしろ,言義会は二院か嚇成されるべきである(e32)・上院は政治制度と

して不覗的に腰である(e43).その構成員は陪臣雛,長子相続の大財産(M・1・「at)の所有者 皇族,国王任命議員よりなる。更に,一一般的権利と政治的権利とはするどく区別されねばならない。

万人に属する前者の権利は均斉のとれた国家顛への義務法の前の平等・飯就任権等である・政 治的欄は,とりわけ大君主国家レ・お・・ては潤民の一部の特権である・さもなければ,−室と規制 された自由とは危殆に瀕せしめられる。しかし,政治的権利が一般的権利を侵害することは許されな い。個々人の影響力の程度は直接国税によってのみ測定されねばならぬのである。

 それ故に,(政治的影響力をもつには)課税の平等が必要である。影響力はいまや下院への選挙資 格の中で表明される。下院は,国民の常に若返りゆく力を表示している〉澱渕とした制度くである。

一定の租税額を支払い,公民権を完全に享有し,すくなくとも,25才に達した者はすべて選挙人であ る.それに対し,被鮮権の要件は3・才という鮪だけである・腿挙憩・つ・・ては・租税率を腰

 としなレ・。

 何故なら消瀦と纏家の影響力は鮮民の下で保醗れているからである・これ。よまさし債 族制である(e43).公共の秩序については,特に定住的市民からなる市民的護騨がこれを醜すべ  きである。

  最後にこの体制は憲法典によ。て完成をみる.r憲漱は欝によ・て成立し・国民のまことの力 を代表す磁会に提案され,このようにして,契約により・雛されなければならない・かくの如く  して,欽定憲法の理念が避けられ,国民主権という有害な理論が破壊的な議論のキッカケになり得な

くなるであろう」.D. H…em・・M, D・・Preussi・ch・und D・・tsch・V・・fassung・werk(185°),

  SS..11、_、52、 J. S。it。, E。t・t。h・ng・und・E・twi・klung d・・preussi・ch・・V・・fassu・g・u・k・nd・im

  Jahre 1848 (1909)SS.14−15.

  H)Vg田, Ment・, K・・I R・d…t・・J・g・t・・w・1・P・!itik・・i・d・・J・h・e 1848 und 1849

  (1911),S. 10f. und S. 114f.

  12) E.R. Huber, DVG, Bd. ff, S.585f.

  13)「撰急進派が基本的には斯・制を志向して・・た」(E・R・H・b・・, DVG, Bd・fi t S・585・

  V.Valentin, aaOS.44) とする論者もあるが,コーゼルは「民主主義者の中で・或る者は共和制 原理を信奉していたが,党としては共稀・1の要求を採用してはいなか・た」(K・・e「・aanS・ 389)と  いう。当時のドイツ国民のほとんどが何等かの意味で君主制論者であったことに鑑みれば,コーゼル

(15)

の所説が正しくはないであろうか。Vg1. W, M)nnsen, Gr6sse und Versagen des deutschen BUrgertum(1964), S.124.

 14) R. Koser, aaOS,389.

 15) K.Ka:ninski, aaOS.13.

 16) 5月21日のカムプハウゼンへの国王の書簡は,宮城参内に反対する者が多い時は,布告を出 すようにとして,その起草を命じていた。その文案は次の如くである。

 「神の恩寵によるフリートリヒ・ヴィルヘルム四世は,この布告により,憲法審議のため選出され,

朕によって召集される全議員をいわゆる宮:城「白亜之間」に召集する。朕はこの布告により,議会の 全議員に対し,汝等の国王及び支配者として,断固として且つ明らかに,汝等議員の出席をS朕の大権 及び汝等の臣従宣誓によって命ずる」E. Brandenburg, Friedrich WillhelmlV. Briefwechsel mit Ludolf Camphausen(1848−1850)(1906)S,118.

 17) しかし,すべての議員が参内したのではない。左翼急進派の代議士は参内を拒否している。

W.Bloss, aaOS.312.

18)H・Pf・ff・・k・・n, D・・K・mpf d・・Li・ken um・d・n Ei・fluss a・f d量・E・。k。fi。g。w。lt i。 d。,

K・n・tit・i・・end・n Versamml・・g fU・P・eusse・1848(1926), SS.4−5、 V. V。lentin aaOSS45〜46.

(三)「革命の承認」をめぐる闘争

(1)通例,「革命の承認」と呼ばれる国民議会内での政治闘争は,憲法協約議会として召 集された国民議会を憲法制定国民議会に転化させようとする左翼及び左翼中央派の攻勢に 対する右翼及び右翼中央派の防禦戦で,プロイセンにおける主権問題の決定をめぐる重要 な争議である。そしてまたこの事件から,三月後期型のドイツ立憲主義の憲法構造が,単 純に国王対市民階級,又は,国家と市民社会という二元主義で割りきれるものではなく,

超保守派をふくめての国王,右翼及び左翼の自由主義者,急進民主派の相互の闘争や妥協 の中で構築されたものであることが知られよう。

(2)三月事件の諸成果を反動勢力より防禦し,同時にそれを新たな国家的・社会的関係の 基礎たらしめようとする要請及び運動は,すでに3月下旬より輿論の中で展開されていた。

3月27日・「立憲クラブ」の創設に際して,クラブの主宰者エルリンガー(Erlinger)は,

 「われわれは,最近のヨーロッパの変革行為がすべての関係に滲透していくまことの革命をふくん でいること,および,国王より最後の一人にいたるまでの全市民関係の再生が,われわれが志向すべ きであり且つ内外両面にわたってわれわれを強化するのに適する目標であることを承認する」

 と宣言して,「革命の承認」の思想を表明した。これは最もはやい革命承認論の一つで        D

あろうが,未だ「革命の承認」が主権論と結びつかず,革命による3月所得の全市民関係 への滲透が意図されていたにすぎなかった。

(16)

 「革命の承認」が国民主権論と結びつけられて論じられるようになったのは,プロイセ ン国民議会への選挙戦が始まった四月中旬以降である。急進的民主主義者の議員候補者,

例えば,ヴェーレンヅ(J.Berends)やユンク(G・Jung)一その当時の彼等自身の言 葉によれば,彼等は「最も広い意味における国民擁という目馳もった革命の継続的発 展によって達成される共和制の賛成者」であった一一は激しく,「革命の承認」=国民主        2)

権論を主張した。更に,5月19日,ガーゲルン(Heinrich von Gagern)が・フランクフ ルトにおいて,aツ国購会議長の就任演説の中で,「われわれは全ドイツのために一

つの憲法をつくらねばならぬ。われわれは国民の主権(Souveranitat des Volkes)から 使命と権能を受けとるのである」と言明した時,国民主権の要求は一般財産となり,大衆

の中に灘して・あらゆる集会におけるス゜一ガンとなっ

 5月22日のプロイセン国民議会の開会と政府による憲法草案の提出は,「革命の承認」の 問題を輿論において一段と燃えたたしめた。すでに,5月24日には,「革命の承認」を行 なって,国民議会を協糠会ではなく・常憾議会たらしむべしとの要請が出されてい ̲

 6月5日の「フリーリヒ・ヴィルヘルム市区域団体」(Der Friedrich −Willhelmsta−

dt圭sche Bezirksverein)が国民議会に提出した請願書は,従来民間で論じられて来た諸要 請・諸主張の総括の如き感があるので引いておきたい。

 「全国的な,プロイセン国民による 革命の承認 はいまなお存在しない。それだけに一層,プロ イセン国民の前で,これらの諸闘争(3月の諸事件のこと一引用者)が始めて真の完全な自由の承認 を戦いとったということを認めるのが議会の義務である。……旧体制は互解した。それ故に国民代表 は互解したプロイセンの旧国家生活の諸形態に法律上連結しようとすることは不可能であるし,旧法 の歴史的発展を企だてることも出来ない.この新しい国家一法型態が礁忍されぬ限り・人々は革命の 上にいるのである」

       6)

(3)輿論において展開された「革命の承認」の思想は,次で議会において公然と論じられ ることになった。6月8日,左派の代議士ヴェーレンヅは国民議会での最初の論争の発端 をなす著名な提案を行なった。いわく,

       7)

  「本議会は革命を承認して,3月18日及び19日の闘士はよく祖国に貢献せる旨を記録にとどめた

し」。

 これに附加されたヴェーレンヅの提案趣意書は,「革命の承認」が呼び出す論議の中心 的な部分を入念に避けてはいたが,論議が一度生ずればかかる回避は不可能となるはずで あった。それは後の経過が示すであろうが,ひとまず趣意書の大体をみよう。

  「革命の承認はすでに,議会の存在に基づく当然の成行である。実際には,それにより,革命は承 認されているのである。問題は,議会が,自らの基礎は国民が自己統治と自己立法という不可譲の権 利を取戻したこの革命に存する(auf dem Boden dieser Revolution)のだということを宣言するこ

(17)

譲∵麟灘繍農塩欝驚ご麟欝警甥

ない移行が生ずるという見解が支酉己して・・るという報の中に,そもそも真の鞘なるもの姓ぜず 真の靴なるものが生じていたとしても誠々の国家生活醗駄と。て腰でなか。たということ の承認がmaしているのである・そこで。ま現在この謙で猴化されている様な国民の権利は国王 によ・て承認され献与されたとするか・或・・は冶騰会の謙・よ。て産み出されたのだという 原則が述べられているのである・しカ・しながら・もちろん,闘争は3月19日以前にすでに葡的に与 えられていた約勅顛のものとなる保障をt5るために腰であ。た.かかる保障1よ,例えば,国民 武装である………。」

        9)

  彼は・特に配統治の思想につレ・て触れることなく,ただ靴の事実を述べ,言義会の存 立が「靴に存する」(auf・d・m B・d・n der Rev・luti・n)ことの宣言を求めたにすぎな かった・しかし・d・・B・den・der・Rev・1uti・nという強烈な印象をもった表現とそれに結 びつく過去の状態の否認の暗示によって・彼の提案の鮨が奈辺にあるかが知られよう。

そして・議会による「靴の承認」が渡なされるや,それが如何なる国法上の効果を産 み出すかは当時の内閣及び議会の諸党派もよく理解していたのである。

(4)@「革命の承認」の国法上の効果は,消極・積極の二面において考察される。

消極面では・それは既存の法秩序にむけられ爆力行為より「法破剰の汚名を消去し て,革命の事後的承認によるこれの合法化を生ぜしめることである。革命参加者にとって は,それにより,彼等の法破棄行為に基づく刑事法上の訴迫より解放されるという効果を も㌔しかし・「靴の承認」醐・消極献その効果を及ぼすだけであるなら,超保守 主義者をのぞいては,それは問題にされることもなかったであろう。

 積極面の効果は,前革命状況を不法状況とみなし,それと共に国民の革命権,ひいては 国民擁の承認姪ることであ G国購会壱よそ嚇無からの創造をなす委任を国民か ら与えられ・制憲作業の期間中は洞時に靴の継続中とみられる事になる.この場合,

協約理論は国民の憲法制定勧論に席を譲らなければならない.そして,な々、よりもまず 国民議会はプロイセン絶対君主制の正統性を拒絶することにより,その残津物である第二 次合同議会の諸議決にも拘束されなくなるのである。「革命の承認」のこの中心的部分を 直載に述べたのはヴェーレンヅを擁護したヨハン・ヤコビである。

(5)自らを「暴動者ではないが洪禾゜主│と呼ぶこの左翼の代議士は・明融・国駐

権論を説く。

「3月の日に至るまで,主楓すなわち・完全な勧は国王の下にあ。た.彼の意思力・決定的法律 であった。服従と服属のみが残りの臣民の運命であった。しかし,いまは違う。3月の日に,地上の 如何なる権力も国民の一致せる意思に逆らうことの出来ない事が示された。国民の全体意思が国家に

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