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       日本の表象と日本受容 【 論 文 】

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   金閣寺と金門橋

:      一九一五年サンフランシスコ万博における

       日本の表象と日本受容 【 論 文 】

ジラルデッリ青木美由紀

(2)

はじめに一九一五年の巴奈馬・太平洋万国博覧会は︑パナマ運河の開通を記念し︑サンフランシスコとサン・ディエゴで同時開催された︒サンフ

ランシスコ万国博覧会の公式記録で︑著者のフランク・モートン・トッドは︑次のように述べている︒﹁日本の参加は自発的で︑一貫し

て素晴らしいものだった﹂︒第一次世界大戦の初期︑西洋諸国の多くが︑政治的な緊張と困難から当初は参加にためらいをみせていたな

か︑万博に参加した三二カ国のうち︑日本は﹁他のどの諸外国よりも広いスペースを占め﹂︑﹁産業︑商業︑日本のライフスタイルが︑万博

会場内の様々なパヴィリオンに印象深く展示されていた ﹂︒サンフランシスコ万博での日本の展示は︑じつに三エーカー︵約

一二︑一四〇㎡︶におよんだ︒これとは別に手工業︑農業︑食品︑園芸︑鉱業及び冶金︑教育及び社会経済︑文芸︑交通︑そして美術の分野の

各パヴィリオンに合計八一︑二六九フィート︵約七五五〇㎡︶があり︑さらに園芸品展示のための庭に一二︑四〇〇フィート︵約一︑一五一㎡︶

があったが︑﹁そして日本はまだ展示スペースを要求した﹂︒第一次世界大戦に参戦しなかった日本は︑当時前代未聞の好景気を

謳歌していた︒米国へは主に生糸を輸出し︑戦時下の欧州各国へは︑食品や武器を輸出していた︒一九一二年から一九二〇年の間︑日本の

輸出総額は︑ほぼ四倍となった︒同公式記録によれば︑一九一三年の日本の生糸の対米輸出額は一二五︑九〇九︑〇〇三円︑二〇年前に比べ

て二〇倍となっており︑二位以下のフランス︵三二︑一二八︑九〇六円︶︑イタリア︵二四︑八一〇︑七四四円︶︑ロシア︵四︑四一五︑二四七 円︶をはるかに引き離して︑米国は第一の貿易相手国だった︒したがって︑サンフランシスコで開催された博覧会で日本が最も広

い展示スペースを獲得したのは自然に見える︒太平洋をはさんだ対岸のアメリカ西海岸に位置するサンフランシスコは︑歴史的にも日本人

移民を米国で最初に受け入れた土地であり︑当時世界的に見ても︑海外で最も重要な日本人コミュニティーを擁する都市であった︒だが︑

日本の外務省外交文書館の所蔵文書を紐解けば︑公式カタログで﹁自発的で︑素晴らしい﹂と形容された日本のサンフランシスコ万博参加

の裏に︑もうひとつの違う物語が浮かび上がってくる︒

この博覧会での日本の展示についての研究は︑パヴィリオンの建築の分野について︑黒川論文 ︑藤岡・深谷論文 ︑三浦論文︵二〇〇四 ︑二〇〇五年 ︶がある︒また︑日本の博覧会参加の歴史的経緯を︑米国の排日運動の角度から考察したものとして︑伊藤論文がある

これらを踏まえて︑本稿は︑本博覧会の日本の展示を︑外国における日本文化のプレゼンテーションという観点から︑歴史的・社会的文

脈において考察してみたい︒第一章では︑サンフランシスコ万博で建設された日本庭園とパヴィリオンの前段階というべき︑過去の博覧会

での日本の展示を概観し︑﹁日本文化﹂の海外での展示の経緯をみる︒第二章では︑サンフランシスコ万博の日本の展示で︑特に日本の茶の

湯の文化︑岡倉天心の思想を受けてその深い精神性と高尚さが強調された背景に︑植民地における茶の生産︑日本の筆頭輸出品目である茶

という実業があったことを論じる︒また︑日本文化の姿として︑本博覧会での日本の美術展示にも注目する︒第三章では︑博覧会という国

(3)

際的な場での﹁日本文化﹂の展示の背景に︑サンフランシスコを中心とする米国・カナダの一般国民とのあいだの文化的摩擦︑すなわち排

日運動があった点に注目する︒

一、日本文化の典型の創出:金閣寺と日本庭園

サンフランシスコ万国博覧会における日本関係の展示のなかで︑もっとも魅力的だったのは︑おそらく︑金閣寺の姿を水に映した典雅

な池が配された︑日本庭園であろう︒︵図1︶小さなジオラマとしても意匠された池泉回遊式の庭園で︑いくつかの小さな滝が配され︑一

点一トン以上もの巨岩が二五七点使用されていた︒太平洋を隔てて運ばれた︑一点三トン以上の巨石も七点展示された︒三六種︑一三〇〇

点になんなんとする園芸樹木︑二一種︑四︑四〇〇点の園芸花卉︑二五︑二〇〇平方フィート︵約二︑三四一㎡︶分の苔が輸入された︒公

式ガイドブックによれば︑当時米国で希少だった紅葉︑竹︑杜若︑皐月︑萩をはじめ︑樹齢二百年以上の藤︑Thuya Abtusa 矮鶏檜葉に よる盆栽二点︑樹齢八百年︑千年のもの二点を含むCycas revolute︵蘇鉄︶数点なども日本から運ばれた︒︵図2︶

公式記録によれば︑庭園は日本の造園家井沢半之助 によって設計された︒井沢は︑その数年前︑一九一〇年の日英博覧会で︑ロンドンの シェパーズ・ブッシュに建造された日本庭園の造営で大英帝国女王 の賞賛を得ており︑すでに海外での造園経験があった︒︵図3︶

一九一〇年日英博覧会での成功は︑一九一五年サンフランシスコ万博での人選に影響したと考えられる︒京都大学教授で建築家の武田 五一︵一八七二︱一九三八︶は一九一〇年日英万博のコミッショナーの一人としても名前が見える︒武田は一九一二年︑京都中心地に建設

された円山公園の設計で高評価を得たばかりであった︒当時︑公共インフラとしての公園の建設は︑都市計画政策の重要な項目のひとつで

あった︒武田は︑カリフォルニア大学出身の伊藤文四郎︑古橋柳太郎︵一八八二︱一九六一︶︑モンナ  ショウサク︑コバシ  ミツオ 10

といっ

た︑アングロ・アメリカンの背景を持ち︑キャリアの階に立つ若い建築家たちとともに︑サンフランシスコ万博の任にあたったのである︒

サンフランシスコ万博の日本パヴィリオンは︑京都・鹿苑寺の金閣︵一三九八年︶をモデルとした︒金閣は︑室町時代の連歌の会所・茶

の湯の流行を反映し︑風流な時を過ごす場として建造されたものである︒この時代︑日本庭園は︑金閣の周りに設えられた池泉回遊式庭園︑

あるいは禅の思想を反映した枯山水のような︑独自の様式を確立しつつあった︒金閣の正式名称は鹿苑寺舎利殿であるが︑建物の表面がす

べて金箔で覆われているために︑一般的に﹁金閣﹂の名で親しまれている 11

万国博覧会において︑日本の建築的伝統のうち︑外国人にとって意表をつく建物の複製を作るという着想は︑実はサンフランシスコが初

めてではない 12

︒一九〇四年のセントルイス万博でも︑金閣のモデルは会場の人々を魅了していた︒残された画像から二つのパヴィリオンを

比較する限り︑一九一五年サンフランシスコ万博のパヴィリオンは︑鉄筋コンクリートなどの近代技術を使用し︑オリジナルの金閣の建築

家による近代的な解釈であるのに対し︑一九〇四年セントルイス万博の方は︑よりオリジナルに近い複製を作ることに主眼が置かれている

(4)

ように見える︒︵図4 13

︶海外で行われる万国博覧会において︑パヴィリオン建築のモデルと

して︑これほど短い期間に繰り返して同じ金閣寺が選ばれた背景には︑金閣寺が観客に対して与える視覚的・文化的インパクトがあったに違

いない︒日本文化の海外における視覚的・文化的インパクトとは︑万国博覧会の展示においてどのように考えられてきたのか︒

そこで︑以下︑万国博覧会における日本文化の表象︑海外への発信︑という観点に立って︑海外における日本・日本製品の受容とサンフラ

ンシスコ万博以前の日本の展示を歴史的に概観してみたい︒万国博覧会への日本の参加は︑正式には一八七三年ウィーン万博に

始まった 14

︒一七世紀前半に始まった鎖国政策により︑日本の外交関係は大幅に制限され︑貿易は幕府に独占された︒しかし︑量は少ないな

がら︑出島に駐在する外国商館を通じて︑日本製品は海外に輸出されていた︒たとえばフランス王妃マリー・アントワネット所蔵の日本の

漆器コレクションや︑ヨーロッパの王室での柿右衛門珍重に見られるように︑特権的な人々の贅沢な嗜好に供される品であった︒一八五八

年︑安政の五ヶ国条約によって通商が開かれると︑万国博覧会の効果も伴って︑日本製品とその職人技は︑外国のより広い階層へと知られ

るようになってゆく︒そもそも︑ウィーン万博に先立つ初期の万国博覧会で︑日本は︑日

本と関係のあった外国人によって︑多くは︑日本人がそう望むのとはちがった形で表象されていた︒一八六二年のロンドン万博では︑初代

駐日英国総領事ラザフォード・オールコック卿Sir Rutherford Alcock︵一八〇九︱一八九七︶が︑私的なコレクションを展示して訪問者の 注目を集めている 15

︒だが︑これは外国人の視点︑あるいは外国人の好みからみた日本の文物であり︑日本人にとって必ずしも好ましいもの

ではなかった︒江戸幕府が海外に派遣した初めての遣欧使節団︵文久遣欧使節︶の一員で︑この万博を訪問した高島祐啓は﹁日本ノ品ハ外

国未曾有ノ奇物多トイエドモ︑惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ︑各国ノ下ニ出タルハ残念ナリトイウベシ 16

﹂︑同様に淵辺徳

蔵は︑﹁全く骨董店のごとく雑物を集めしなれば見るに堪えず﹂と書き残している 17

︒︵図5︶

万国博覧会は︑ときに国家間の互いの認識についてのデリケートな問題を図らずも露呈する︒一八六七年パリ万博は︑日本の歴史にとっ

てまさに危機的な時期に開催された︒当時江戸幕府は崩壊の危機にあり︑薩摩・肥前などの有力諸侯は︑幕府の鎖国政策を無視して︑すで

に国際舞台で独立した活動を展開していた︒一八六七年パリ万博にそれぞれの判断で参加した薩摩藩と肥前藩は︑フランスの新聞﹁モニトー

ル・ユニヴェルセル﹂において﹁藩﹂にあたるドメインDomainあるいはプロヴァンス Province ではなく︑独立国﹁政府﹂の意味に当た るグヴェルヌモンGouvernementと表記された︒これは︑単なる誤訳であったのかもしれないが︑当該藩の代表者たちはさほど意に介さ

ず︑国際的に﹁独立政府﹂と認識されても構わないと言わんばかりの態度をとったとされている︒︵図6︶これは︑海外に出て初めて︑﹁︿日

本﹀を表象する﹂という経験から起こった齟齬であった︒ちなみにこの万博には︑その後滞在を続けて延長するべく︑将軍の一四歳の弟昭

武が参加していたが︑その昭武は︑到着後程なくして徳川幕府崩壊の報をパリで受けることになるのである︒

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もっとも︑日本に限らず︑ほかにも似たような事件がこの同じパリ万博であった︒オスマン帝国と︑当時正式にはオスマン帝国領であり

ながら︑ヨーロッパのメディアではほぼ独立国として取り扱われていたエジプトである︒その背景には︑スエズ運河の開通を成功裏に運

ばせたいと目論むフランス政府とメディアの後押しがあった︒﹁モニトール・ユニヴェルセル﹂などフランスの新聞は︑各国が建設するパ

ヴィリオンにエジプトを加えたい万博主催者側と︑エジプトはオスマン帝国の属国であるため︑独立したパヴィリオンを建設するのは不

適当とするオスマン帝国代表側との交渉を連日報じている︒結果︑万博会場にエジプトのパヴィリオンは建てられたが︑フランス政府側

は︑それまでの﹁王﹂としての扱いを改め︑オスマン帝国がエジプト総督に与えていた称号﹁ヒディヴHidiv ﹂を︑﹁副王 vice roi ﹂と表記

することを認めざるを得なかった︒この博覧会で︑意図的かそうでないかは不明だが︑鉢合わせは避けられた︒エジプト総督イスマイル・

パシャは開会式に出席しているが︑オスマン帝国スルタン︑アブデュルアジーズは︑それよりのちに到着している︒アブデュルアジーズに

とってこの旅行は︑自らの帝国領土以外の土を踏んだ最初の機会でもあった 18

先に述べたように︑一八七三年のウィーン万博は︑維新後明治政府が正式参加した初めての万国博覧会となった︒この機会に明治政府

は︑鳥居・神社・神楽殿からなる日本館と︑小さな池・反り橋からなる日本庭園を建設した︒︵図7︑8︶庭園の造営には津田仙に加え︑

内山半エ門︑佐久間芳五郎︑宮城忠左エ門の三人の植木職が当たった︒これは︑日本人によって外国に作られた最初の日本庭園である 19

一八七六年フィラデルフィア万博では︑旅館タイプの二階建ての家屋と数寄屋が日本庭園の中に建てられ︵図9︶︑一八七八年パリ万博で

も日本の住宅建築が会場の注目を集めた︒この博覧会では︑百合や柿など日本固有の植物が好評だったという︒︵図

10

こうして︑日本庭園と園芸品は各国で開かれる万国博覧会の︑最も人気を集める定番の一つとなってゆく︒一八八九年パリ万博では︑日

本の園芸の伝統ははっきりと注目された︒東京帝国大学植物園の笠原恵が植木職一名を伴って出展・販売した盆栽が嘆賞を博し︑蘇鉄︑百

合根その他が好まれた︒それと同時に︑建築的な表象もより正確さを目指すようになってゆく︒︵図

11

一八九三年シカゴ万国博覧会では︑平等院鳳凰堂︵一〇五三年︶の正確な複製が池の中に作られた池の中島︵グリーン・アイランド︶に

建てられた︒知られるように︑平等院鳳凰堂は︑仏教の想像上の動物であり不死の象徴である鳳凰が羽を広げた形に因んで意匠されたもの

である︒池の中の島というロケーションは︑仏教の極楽浄土を意味している︒平安時代の高度な宮廷文化を反映して︑鳳凰堂の建築と中に

安置されている阿弥陀如来像は優雅で女性的な性格を湛えるとされる︒︵図

12︶一八九三年シカゴ万博は︑日本側コミッショナー岡倉天 心の不断の努力により︑日本画がそれまでの工芸品としてではなく︑西洋の﹁美術 fine arts ﹂のカテゴリーとして展示された機会として記

念される 20

︒一九〇〇年パリ万博で︑日本は七世紀の奈良の法隆寺金堂複製を建

設した︒︵図

て知られる︒仏教が日本に伝来した最初期の建築である法隆寺は︑中 13︶いうまでもなく法隆寺は︑世界最古の木造建築とし

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国にはもう実例が残っていない同時代のオリジナルの中国建築を反映したものでもある︒このパヴィリオンの庭には︑多くの種類の花々︑

園芸品種が展示された︒﹁松︑高野槇︑矮檜︑羅漢柏︑斑葉ひよくひば︑そなれ︑大きな蘇鉄︑百日紅︑白花萩︑斑葉なぎ︑棕櫚竹観音竹の巨

株︑木賊︑斑葉胡頽子︑牡丹五〇種︑花菖蒲五〇種︑八重紫藤︑こぶし︑白蓮︑山茶花の太神楽種 21

﹂︑盆栽各種多数︑百合多種︑などである︒

このほか︑大菊の展示︑菊花栽培の図書︑庭園模型︑庭園写真︵松浦伯︑西郷侯︑山縣侯︑岩崎男︑大隈伯の庭園その他数カ所︶が出展さ

れたという︒一九〇〇年のパリ万博は︑フランスにおけるジャポニスムの頂点として有名だが︑当時最新流行のオブジェに描かれた日本の

花々は︑園芸品種としても人気だったのである︒一九一五年サンフランシスコ万博に日本から運ばれた園芸品種の多

種多様さと驚くほどの贅沢さは︑ヨーロッパでのこのような日本・日本庭園・日本の園芸品種への人気を背景にしている︒そしてまた︑博

覧会における日本庭園の設営が︑単なる装飾や︑万国博覧会での国家の文化的表象政策の一部としてだけでなく︑園芸と園芸品種がすでに

大きな産業となっていたこと︑そしてパヴィリオンと庭園は︑それらの展示場︑プロモーションの場とみなされてもいたことを物語ってい

る︒産業という観点からみれば︑庭園のなかに建てられた日本のパヴィ

リオンは︑当時の基幹産業である絹生産の紹介・宣伝の場でもあった︒博覧会の公式記録者フランク・モートン・トッドによれば︑金閣

寺を模したパヴィリオン内部には︑貴族の家のなかで和服を着た日本女性が蚕の世話をする優美な姿を描いた日本画の作品が︑日本の絹製 品の各国への輸出の統計的な数字とともに展示されていた︒貴族的な雰囲気の中での蚕の生産のイメージは︑トッドによれば︑明治維新後︑

国の基幹産業を支援する目的で英照皇太后︵一八三五〜一八九七︶が再開させた皇室の養蚕事業である 22

︒日本の近代化政策の根幹︑殖産興

業の成果である絹製品は︑古代の貴族的な文化の衣を纏わせ︑優雅なイメージが演出されていた︒

なお︑パヴィリオンの一階には︑金箔︑銀箔︑銅版や漆塗りなどを駆使した日光東照宮の精巧な建築模型が展示された︒︵図

14 15︶記

録者トッドは︑とくに建築模型の見事さに言葉を尽くしているが︑建築史の傑作を高価な材料で作った模型は︑当時日本から盛んに輸出さ

れた輸出用高級美術工芸品の人気商品でもあった 23

二、世界市場のなかでの〈日本文化〉:

     伝統文化の近代的変容と植民地

サンフランシスコ万博の公式記録によれば︑各国に先駆けて落成し

た日本パヴィリオンのオープニングで︵図

参加の目的を︑次のように述べた︒﹁古代の精神と︑歴史的儀礼の象 16︶︑代表者はその博覧会

徴的表象とを通じて︑人生についての︑より内的で深い意味の探求︑さらに︑古き時代の儀式の重要性をもって︑日本を世界に誠実に紹介

すること﹂︵拙訳 24

︶︒すなわち︑博覧会で世界に提示されるべき日本の姿とは︑産業の発展で近代化し︑米国を最大の貿易相手国とした日本

よりも︑歴史的過去と儀式の象徴性が強調されていた︒公式記録で描かれる日本の姿も同様である︒公式記録で︑﹁古代の

(7)

デンマーク﹂︑﹁シャムの夏宮殿﹂︑﹁進歩するアルゼンチン﹂︑﹁トルコのモスク﹂など︑魅力的なタイトルによる各国の参加経緯と展示紹 介に並んで︑日本の章は︑﹁日本の庭園で In the Gardens of Japan﹂と名付けられている︒展示の目玉は庭園である︒公式記録には︑博覧会

場に設営された日本庭園︑茶室のモデル︵実際は訪問者に茶を供する喫茶店︶や︑茶の湯の本質について︑詳しく解説されている︒その解

説に︑公式記録の著者トッドは︑﹁米国で大学を卒業し︑︵英語で︶東洋的概念を西洋的形式に翻訳することのできる学者﹂として︑原田治

郎︵一八七八︱一八六三︶の言葉を丸一ページにわたり引用している︒一五歳で単身渡米︑アメリカの高校とカリフォルニア州立大を卒

業し︑のちに東京国立博物館職員となる一方で日本文化を海外の読者に英文で伝える著作を多数発表した人物である︒原田は︑一九一〇年︑

英語で論じたものとしてはもっとも早く日本の庭園への禅の影響を紹介したことが近年指摘されている 25

公式記録に引用された文章で︑原田は︑茶の湯の本質を﹁日常の雑事の中に在る美しさの崇拝 26

﹂︵拙訳︶としている︒これは︑一九一〇年

に京都商品陳列所のために原田が執筆した英文案内書と同じ表現で︑片平論文にも示されているように︑岡倉天心﹃The Book of Tea茶の本﹄

︵一九〇六年︶の冒頭の引用でもある︒すなわち︑万国博覧会という国際舞台において︑茶の湯やその外部空間である日本庭園を解説する

にあたり︑岡倉の﹃The Book of Tea茶の本﹄は少なからず影響力をもっていたといえるだろう 27

︒本書は︑茶道が幕末・明治期に過去の伝統と

していったん廃れ︑日清・日露戦争期の愛国的風潮のなかで復活しはじめるという絶好のタイミングで︑海外での評価を高めるべく出版さ れたという文脈も︑忘れてはならない 28

︒ところで︑公式記録と原田の解説によってその真髄が説かれた博

覧会場の茶室 tea houseは︑じつは二つあった︒Japan Central TeaAssociation︵茶業組合中央会議所︑現日本茶業中央会の前身︶と︑当 時植民地としてすでに日本経済に組み込まれていたFormosa OolongTea Company︵台北茶商公会︶によって提供されたものである︒︵図

業組合として再編成・設立された︒とくに一九二〇年までの時期︑総 17︶台北茶商公会は︑一九一五年に任意組合から台湾総督府公認の同

督府は従来の包種茶よりも明確に烏龍茶振興の政策を重点的に実施していた︒内訳は︑見本品の配布︑新聞雑誌の広告とともに︑博覧会の

喫茶店経費補助が挙げられている 29

︒万国博覧会における﹁茶室﹂︵実際は茶店︶は︑日本庭園内に設え

られた茶の湯の文化の紹介の場という芸術的な性格をアピールする一方で︑開国以来日本の筆頭輸出品目である﹁茶﹂を︑最大限に宣伝で

きる装置でもあった 30

︒茶業は︑この時期植民地である台湾でも積極的に展開され︑とくに烏龍茶の生産・輸出に力が入れられていたが︑万

国博覧会の場で日本政府が国際的に演出しようとしたのは︑日本精神の精髄としての︑しかし実際は近代に変革した伝統文化としての︑茶

の湯であった︒日本文化の姿は︑美術部門でも展示された︒公式カタログによれ

ば︑美術部門の展示でも日本は主催国米国以外の参加国のうち︑最大数の一〇の展示ギャラリーを︑やはり冒頭に与えられている 31

︒日本の

美術部門展示でもっとも目を引くのは︑第一に︑他国の出品が︑西洋美術の古典的な分類である絵画︑彫刻の二部門にほぼ限られていたの

(8)

に対し︑日本は金工︑七宝︑陶磁器など独自の分野を︑手工業製品としてではなく﹁美術﹂セクションに展示している点︑第二に︑日本の

みが︑当時の現代作家のほかに︑日本美術史の過去の代表作を回顧的に展示している点である︒

既述のように︑万国博覧会において西洋と異なる日本の﹁美術﹂概念を西洋の主催国に認めさせる努力は︑一八九三年シカゴ万博の際に

岡倉天心を中心としてなされた︒これによって︑日本産の美術工芸作品は︑﹁手工業﹂ではなく﹁美術 Fine Arts ﹂の部門に展示された︒し

かし︑次の一九〇〇年パリ万博の際には容れられず︑絵画・彫刻のみが﹁美術﹂部門に展示されたという経緯がある︒

一九一五年サンフランシスコ万博では︑シカゴと同様︑日本画のみならず︑日本の美術工芸品はすべて﹁美術﹂部門に展示された︒内

訳は︑﹁油彩と水彩 Oil paintings and water colors﹂三九名︑﹁彫刻Sculptures ﹂二一名︑﹁金工Metal works ﹂八名︑﹁漆芸Lacquer wares 一一名︑﹁木工︑皮革︑その他の材料 Wood, Leather and other media ﹂四名︑﹁陶磁器および七宝 Pottery, Porcelain and cloisonné 一六名︑﹁染色刺繍Dyed Fabrics and Embroideries ﹂一一名︑﹁版画Prints ﹂四名︑﹁意匠Designs ﹂七名︑合計六〇名︑六六点が出品さ

れている︒出品者名から︑日本画は︑﹁油彩と水彩﹂のカテゴリーに入っていたことがわかる︒また︑本博覧会では︑全出品作のうち︑金・

銀・銅賞・佳作などなんらかの賞を﹁受けなかった﹂のは︑一〇名のみであった︒すなわち︑八割五分ほどの高い割合で︑ほとんどの出品

作が受賞している︒先述のように︑本博覧会の美術部門展示では︑一八九三年シカゴ万 博︑一九〇〇年パリ万博で﹁美術﹂部門での出品が主張された日本画のみならず︑陶芸や七宝などの美術工芸品までも﹁美術﹂に入れられ

ている点が注目できる︒︵写真

ヨーロッパほどアカデミーの権威的な伝統が根強くなかった地であっ 18︶博覧会の開催が︑アメリカという

たこと︑第一次世界大戦中で︑主催者のアメリカ側は一国でも多くの参加国を得ようと努力していたこと︑それ以上に︑博覧会も回を重ね︑

カテゴリーわけに国家の威信をかけるほどでもなくなってきていた点が挙げられよう︒

工芸品の美術部門への出品は︑日本一国のみであった︒当時美術工芸品は日本の主たる輸出品目であり︑日本側はこの点でも美術部門で

の出品に力を入れていたといえる︒リストには︑金沢の鍛金師山田宗美︵出品は本名の長三郎︑一八七一︱一九一六︶︑陶芸の宮川香山

︵一八四二︱一九一六︶︑七宝の濤川惣助︵一八四七︱一九一〇︶など︑過去いくつもの博覧会に出品・受賞歴のある巨匠の名前が見える︒

美術部門の日本の展示の第二の特徴として︑他国に見られず特異なのは︑当時の現代作家とは別途︑日本美術史の名作七四点が美術部門

の展示に出品されている点である︒﹁回顧作品 Retrospective Works﹂と名付けられ︑絵画︑彫刻︑漆芸︑木工︑七宝と磁器︑刺繍染織の六

つの分野に分けられている︒現代作家の出品点数六六点をうわまる数で︑回顧展に出品されたのは︑帝室博物館所蔵︑東京美術学校蔵の作

品︑皇室蔵や個人蔵の作品であった︒回顧展には︑俵屋宗達︑土佐光成︑伊藤若冲︑狩野永徳など日本美術史のマスターピースの他に︑同

時代作家だがすでに名匠として審査の対象外にあった石川光明作の象牙彫文鎮︵皇室蔵︶なども出品されていた︒

(9)

美術部門の展示で︑日本以外の他の国は︑回顧作の展示はなく︑同時代の作家の作品のみを展示していた︒ところが日本政府は︑庭園内

の各国パヴィリオンとは別途︑歴史的な本物の美術品を︑美術部門の展示の一部として行っている︒しかも︑当時の現代作家を上回る分量

である︒これは︑日本の工芸は西洋の﹁美術﹂に相当する︑との認識を広めるための努力が︑一九一五年の時点でもまだ続いていたと見る

べきであろう︒ところで︑蛇足だが︑本章の最後に︑この展覧会で設営された日本

庭園のその後の歴史をここに紹介しておこう︒現在サンフランシスコのゴールデン・ゲート公園にある日本庭園は︑実はもう一つの別の国

際展︑すなわち︑一八九四年に開催されたミッドウィンター国際博覧会の記念物である︒つまり︑もともと一九一五年開催のパナマ太平洋

博覧会のために作られたものではなかった 32

︒日本経験のある実業家で園長のジョン・ターナー・マーシュJohn Turner Marsh の貢献による︒ そして︑日本移民の造園家ハセガワ  マコトは︑一八九五年に公式の管理人となり︑一九二五年の死まで公園内に家族とともに居住した︒

同公園の公式サイトによれば︑石灯籠と五重塔は一九一五年のパナマ太平洋博覧会の遺物である︒第二次大戦中の一九四二年︑ハセガワの

家族は国際収容所に収容され︑コレクションは接収︑住居は破壊され︑公園名も﹁オリエンタル・ティー・ガーデン Oriental Tea Garden

と改変されて︑中国人によって経営が続けられた︒戦後︑一九五二年になって﹁ジャパニーズ・ティー・ガーデンJapanese Tea Garden

と戻され︑一九八六年︑公園の車道は庭園への貢献者を記念してハセガワ・ティー・ガーデン・ドライヴHasegawa Tea Garden Drive と改 名された︒現在では︑サンフランシスコの日本茶庭園 San Francisco Japanese Tea Gardenは︑アメリカ合衆国で最古の日本庭園として知

られている︒日本庭園と茶は︑ここでも分かち難くむすびつけられている︒

三、一九一五年サンフランシスコ万博と排日運動

一九一五年の万博までに︑サンフランシスコはすでに相当数の日

本移民を受け入れており︑米国で最大の日本人コミュニティーを有していた︒候補地選びの段階から︑サンフランシスコ総領事代理の永

井松三から外務大臣小村寿太郎宛の一九一〇年九月付の文書で︑永井は︵万博の開催が︶太平洋岸のサンフランシスコのほうが内陸の

ニュー・オルリンズよりも日本にとってより便利であると述べている 33

︒同文書にて︑永井はサンフランシスコ万博への日本の積極的参加

の理由を︑日本の万博参加がアメリカ合衆国の一般大衆の対日感情を改善するのに良い機会であるとも記載している︒

一八九〇年以来︑サンフランシスコは︑アメリカ合衆国での日本人移民の中心であった︒一八八二年の中国人排斥法の影響もあって︑日

本人を排斥する類似の法案が︑一九〇〇︑一九〇三︑一九〇四年に相次いで提案されている︒また︑アジア系移民を防止することを目

的したアジア排斥同盟Asiatic Exclusion League 34

︑一九〇五年五月一四日︑サンフランシスコにおいて六七の労働組合によって組織され

た︒二年後の一九〇七年にはカナダのバンクーバーで同様の同盟が組織された︒バンクーバーでは︑結成の約一ヶ月後︑同地の中国人

(10)

街・日本人街が襲撃される暴行事件が起きた︒一九〇六年︑大地震を経験後︑サンフランシスコの教育委員会は日本人および朝鮮人を︑そ

れ以前にすでに隔離されていた中国人と合わせて隔離することを決定した︒一九一五年に万博がサンフランシスコで開催された決定理由の

一つは︑一九〇六年の大地震後の復興でもあった︒震災後︑日本人コミュニティーは中心をロサンゼルスに移しつつあった 35

︒博覧会開催の

二年前の一九一三年︑カリフォルニア州外国人土地法 California Alian Land Law が可決され︑市民権獲得資格のない外国人によるカリフォ

ルニア州での土地所有および三年以上の賃借が不可能となった︒日本人排斥の感情的風潮は︑日本の美術界においてカリスマ的

存在だった岡倉天心の次のようなエピソードに如実に表れている︒一九〇三年︑岡倉はボストン美術館の東洋美術部門チーフ・キュレイ

ターだった︒ある日︑和服を着た岡倉が道を歩いていると︑次のような罵倒の野次を飛ばされたという︒

﹁お前らは︑何ニーズなんだ?  チャイニーズ︑ジャパニーズ︑

それともジャワニーズ?﹂

﹁我々は日本の紳士である︒ときに貴殿らはいかような種類のキー であるか?  ヤンキーか︑ドンキーか︑モンキーか? 36

英語で書かれ︑ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から一九〇六年に刊行された岡倉の代表作﹃The Book of Tea 茶の本﹄は︑

この文脈で理解される必要があるだろう︒その六年前には新渡戸稲造の﹃Bushido: The Soul of Japan 武士道﹄がやはり英語で刊行され︑ ベストセラーとなって各国語に翻訳されたばかりである︒折から︑日露戦争によって日本と日本文化が世界の注目を集めた時期でもあっ

た︒その意味で︑一九一五年のサンフランシスコ万博での日本の展示

は︑米国在住の日本人にとって︑排日運動で踏みにじられたプライドを取り戻し︑米国にはない歴史の深い国というアイデンティティーを

強調する意味合いがあったに違いない︒博覧会で︑日本政府は雛祭りや端午の節句︑八月三一日の大正天皇の誕生日には︑﹁日本デー﹂を

開催した︒自動車三〇〇台︑電動自動車四〇台以上によるパレードや相撲興行など︵図

19 20︶︑現地在住の日本人が多く参加した華やか

な行事の背景には︑排日運動に苦しみ︑退けようとする現地在住日本人の強い意志があった︒また︑一国でも多くの参加国を集めたい米国

の主催者側︵主催会社︑メディア及び政府︶の思惑︑すなわち︑米国の一般国民の排日運動・排日的風潮に対して日本のイメージを向上さ

せようとする政治的配慮も働いていた 37

︒日本政府は同時に︑新しく建国された中華民国への強烈なライバル

意識をもち︑米国での中国の影響を注意深く観察していた︒一九一一年十月に駐サンフランシスコ日本総領事の永井松三は︑外務副大臣宛

中華民国がサンフランシスコで行った敷地選定式を詳細にわたって報告している︒同報告において︑永井は観客の数︑式典の式次第︑レセ

プションの有無に至るまで日本と比較し︑﹁・・・一般観衆ノ多カリシコト我帝国政府委員敷地選定式ノ当日ニ譲ラザリシモ式ノ順序ハ大

体一軌ニ在リテ而モ全般ニ約略サレタルヲ認メ︑・・・ 38

﹂と記述している︒また︑一九一四年付の文書では︑在サンフランシスコ日本総領

(11)

事代理の沼野安太郎は︑農商務省次官の上山満之進宛︑中国人は米国入国の際に証明書携帯が必要のこと︑出品者・見学者は博覧会閉会後

九十日以内に米国を退去すること︑博覧会事業の労働者は一人あたり五〇〇ドルの保証金預け入れの必要があること︑などの条件が発表さ

れたと知らせている 39

︒いうまでもなくこれは︑中国人・日本人・朝鮮人を主とした外国人排斥の風潮を受けてのものである︒

結語に代えて

一九一五年サンフランシスコ万博は︑たんなる外国での日本文化の

展示をはるかに超えて︑米国の日本人移民の歴史と緊密な関係を持っている︒同時に︑一九世紀に開催された一連の万国博覧会と比べて︑

一九一五年の万博は︑もはや王侯や皇帝が出席した特権的な外交の舞台ではなく︑対照的に︑人種差別主義に対して︑より好意的な感情を

喚起させる働きかけの機会となっている︒日露戦争に勝利し︑アジアの新興の帝国であった日本にとって︑自国民の米国での権利を守る

ことは深刻な課題だった︒しかしもう一方で︑当時日本は︑すでに朝鮮︑台湾を併合し︑東南アジアを視野に入れた植民地主義への道に足

を踏み入れてもいた︒日本は︑一九一〇年の日英博覧会でアイヌ人やパイワン族︵台湾原住の一種族︶を︑日本が所有する領土の住民とし

て民族学の凡例に展示することで西洋列強の振る舞いを真似た︒同様に一九一五年サンフランシスコ万博では︑朝鮮︑台湾︑満州を日本の

植民地として魅力的な演出で展示していたのである︒日本文化の精髄として茶の湯を紹介した日本庭園には︑植民地台湾産の烏龍茶を日本 のものとして紹介する喫茶店が出されていた︒だが同時に日本は︑その展示をした同じ都市で︑これらの住人と同様に︑差別的な状況を脱

却しようと苦しんでいた︒この皮肉な矛盾が︑一九一五年サンフランシスコ万博で図らずも展示された︑日本の現実だったのである︒

注記本稿は︑二〇一五年一二月一日︑ローマ大学ラ・サピエンツァ  建築学部において行われたシンポジウムEast Meets West: Le Esposizioni Internazionali di San Diego e San Francisco per la aperture del canaledi Panama において︑“A Golden Temple Beside the Golden Bridge: Representations and Perceptions of Japan at the 1915 San Francisco

Expositio

n”と題して行った口頭発表をもとに︑大幅に加筆したもの である︒本稿の作成にあたり︑エンブリーチェEmbrice協会会長のカルロ・セヴェラーティCarlo Severati 氏︑特に資料収集に関して茨

城大学教授の甲斐教行氏︑建築家の内田慶造氏に大変お世話になった︒記して謝意を表する︒

︵1︶ Frank Morton Todd, The Story of the Exposition: Being the

Official History of the International Celebration Held at SanFrancisco in 1915 to Commemorate the Discovery of the Pacific

Ocean and the Construction of the Panama canal, in 5 vols, G.P. Putmnam’s Sons, The KniceerBocker Press, New York and London, 1921, pp. 210-216.

(12)

︵2︶黒川直樹﹁一九一五年パナマ・太平洋万国博︵サンフランシスコ︶の日本館について﹂﹃日本建築学会二〇〇三年度大会︵東海︶ 学術講演梗概集F-2﹄︵3︶藤岡洋保・深谷康生﹁戦前に海外で開かれた国際博覧会の日

本館の和風衣装について﹂︑日本建築学会計画系論文報告集︵四一九︶︑一九九一年︑九九︱一〇六頁

︵4︶三浦雅博﹁一九一五年巴奈馬太平洋万国博日本館の建築意匠について﹂︑﹃日本建築学会計画系論文集﹄第五七六号︑二〇〇四

年二月︑一八五︱一九〇頁︒︵5︶三浦雅博﹁一九一五年巴奈馬太平洋万国博の日本館と日本庭園

の意義について﹂︑﹃日本建築学会計画系論文集﹄第五九三号︑二〇〇五年七月︑一八七︱一九四頁︒

︵6︶伊藤真実子﹁一九一五年パナマ太平洋万博とサンフランシスコ排日運動﹂メディア史研究二三︑二〇〇七年︑二五︱四一頁︑

ゆまに書房︵7︶おそらく︑Thuja Obtsusa のことで︑ヒノキの一種︒米国に おけるThuja Obtsusaと矮鶏檜葉の盆栽コレクションについて︑次を参考のことhttp://www.arboretum.harvard.edu/wp-content/uploads/Bonsai-Collection.pdf︵8︶小林治人﹁醉園  小沢圭次郎  伝統庭園庇護・継承に生きた﹃設

景家﹄﹂︑ランドスケープ研究五八︵三︶︑二四五︱二四八頁︒︵9︶ヴィクトリア女王ではなく︑同年即位した国王ジョージ五

世の妃メアリー・オブ・テックMary of Teck︵一八六七︱一九五三︶︒

10︶この二人は︑漢字名︑その後のキャリア不明︒ 11︶金閣の歴史について︑吉永義信﹁鹿苑寺金閣史雑考﹂︑﹃造園雑

誌﹄一三︵一︶︑一九四九年︑四︱一一頁︒︵

12︶海外における日本庭園表象の前提として︑外国人による日本 庭園に関する研究・考察の基本的なものEdward S. Morse, Japanese Homes and Their Surroundings, First ed. Boston, 1886. ︵筆者はFourth ed. Harper & Brothers, New York, 1889. を参照︶Josiah Conder, Landscape Gardening in Japan, Tokyo, 1893.

一九五五年に火災で焼失し︑現在訪れることのできる金閣はそ 13︶ただし︑知られているように︑京都にあるオリジナルの金閣は

の後の再建である︒︵

14︶それ以前に︑一八六七年パリ万博に薩摩︑肥前藩が参加し︑開

会式に将軍・徳川慶喜の名代として参加・その後残って留学する予定で渡仏した弟︑昭武の幕府一行と国家主権をめぐる軋轢

が生じた事件があったが︑それはここでは割愛する︒吉見俊哉﹃博覧会の政治学  まなざしの近代﹄中公新書一〇九〇︑中央

公論社︑東京︑一九九二年に詳しい︒︵

15︶オールコックの業績について︑詳しくは︑佐野真由子﹁万博の人︑

ラザフォード・オールコック︱一八五一︑一八六二︑一八七八︑一八八六︱﹂︑佐野真由子編﹃万国博覧会と人間の歴史﹄︑思文閣出版︑京

都︑二〇一五年︑二一︱五二頁︒︵

16︶高島祐啓﹃欧西紀行﹄︑巻之一至四︑求誠堂︑慶応三年

  ︵宮

永孝﹃幕末遣欧使節団﹄︑講談社学術文庫︑講談社︑東京︑二〇〇六年︑一〇六ー一〇七頁よりの引用︶

(13)

17︶吉見俊哉︑前掲書︑一一二頁 dülaz 18Cemal Kutay, 47 Gün Sultan Ab-︶この旅行について︑詳しくは︑

iz’in Avrupa Günlüü, stanbul, 2012.ğİ 19︶佐藤昌﹁外国における日本庭園︱初期の造園︱﹂造園雑誌四九

︱三︑一九八六年︑一六七︱一八八頁︒︵

20︶これについて︑詳しくは展覧会﹃万国博覧会の美術﹄カタログ︑

東京国立博物館︑大阪市立博物館︑名古屋市博物館︑二〇〇五年︑一〇ー一三頁

21︶佐藤昌︑前掲論文︒ 22︶サンフランシスコ万博公式記録には孝明天皇の嫡母の英照皇太

后と書かれているが︑正しくは︑一八七一年に孝明天皇の妃昭憲皇太后︵一八四九〜一九一四︶が吹上御苑内に復活︒そ

の後中断したが︑一八七九年に英照皇太后が青山御所に再開︑一九一四年に皇居内に紅葉山御養蚕所を新設︒再びの中断後︑

貞明皇后が再開︑一九二八年に香淳皇后が引き継ぎ︑一九八九〜一九九〇年頃に皇后美智子が引き継いだ︒皇室の近代になっ

てからの養蚕復活は︑イギリスの歴史家ホブズボーム EricJohn Hobsbawm ︵一九一七︱二〇一二︶が唱えた﹁発明され た伝統 Invented Tradition﹂の典型的な例といえる︒︵

23︶例えば︑日本からオスマン帝国に輸出された商品のリストの中

に︑﹁家の模型﹂が見える︒詳しくは︑ジラルデッリ青木美由紀他編﹃オスマンの宮殿に吹く日本の風﹄︑トルコ国立宮殿局︑

イスタンブル︑二〇一七年︵

24 Todd, Ibid., pp. 194

立大学を卒業︒一九〇四年セントルイス博覧会︑一九一〇年日 25︶山口県生まれ︑一五歳で渡米︑現地で高校とカリフォルニア州 英博覧会︑一九一五年サンフランシスコ万博に携わる︒英国の美術雑誌The Studioに寄稿多数︑日本文化を紹介する英文

の著書に The Gardens of Japan, The Studio Ltd., London, 1928, Hiroshige Masters of Color Print VI, Lonton, The Studio Ltd., 1929, The Lesson of Japanese Architecture, The Studio, 1936,

The Glimpse of Japanese Ideals: Lectures on Japanese Art and Culture, Kokusai Bunka Shinkokai, Tokyo, 1937などがある︒欧米での引用は突出しているが︑業績は日本ではあまり知られて いない︒詳しくは︑片平幸﹁欧米における日本庭園像の形成と原田治郎のThe Gardens of Japan ﹂︑﹃日本研究﹄三四︑二〇〇七

︱〇三︑一七九︱二〇八頁︒︵

26 Todd, Idid., p. 213 Langdon Warner ︵一八八一〜一九五五︶は︑ハーヴァード大 27︶原田が指導を受けたとされる美術史家ラングドン・ウォーナー

学卒業後一九〇三年ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め︑一九〇七年日本に派遣された人物である︒原田は岡倉と直接面

識があったかどうか︑関係について明確な研究は知られていないが︑渡米時期が重なることもあり︑間接的に弟子筋に当たる

と言える︒なお︑ウォーナーは第二次世界大戦中日本の文化財を戦災から守るために米国政府に提言したことでも知られ︑原

田と並んで戦後の日米文化外交で重要な役割を果たした︒︵

28︶本書は英語で出版され︑日本語訳出版は岡倉の死後一六年経っ

(14)

た一九二九年である︒︵

29Formosa Tea Company︶台北茶商公会の歴史について︑詳しく は︑河原林直人﹁植民地台湾における業界団体︱﹃台北茶商公会﹄の歴史的意義︱﹂︑名古屋学院大学論集  社会科学篇 

四九巻︑第二号︑七七︱九三頁︒︵

30︶茶道が幕末・明治初期にいったん廃れ︑近代日本の文化的ア

イデンティティとして形成されていく過程について︑詳しくは︑田中秀隆﹃近代茶道の歴史社会学﹄思文閣出版︑京都︑

二〇〇七年︒同時代の茶業の経済史的分析について︑寺本益英﹃戦前期日本茶業史研究﹄︑有斐閣︑東京︑一九九九年︒

31 Official catalogue (Illustrated) of the Department of Fine Arts Panama-Pacific International Exposition (with Awards), Wahlgreen Company, San Francisco, California, 1915日本セクションはカタログ九︱一四ページ︒一番から一〇番までの一〇

のギャラリーを使用した︒ちなみに︑他の参加国と獲得した展示ギャラリー数は次の通り︒アルゼンチン︵一︶︑中国︵一︶︑

フランス︵八︶︑イタリア︵五︶︑オランダ︵四︶︑ノルウェー︵七︶︑フィリピン︵一︶︑ポルトガル︵三︶︑スウェーデン︵九︶︑

ウルグアイ︵一︶︵

garden/ 32 http://sfrecpark.org/destination/golden-gate-park/japanese-tea- 33 JACAR()Ref.B12083603500 ︶アジア歴史資料センター︑桑港ニ

於テ巴奈馬運河開通記念博覧会開設一件︵附軍艦派遣ノ件︶ 第一巻(B-3-15-2-63_001)( 外務省外交史料館) 文書中に︑﹁本 邦人ノタメニ一般対日感情ノ改善ニ資シ得ベキ事項ノミニシテ・・・﹂とある︒

Japanese and元の名前を︑﹁日本人および韓国人排斥同盟﹂ 34︶二〇世紀初頭︑アメリカ合衆国とカナダで結成された組織︒ Korean Exclusion Leagueといった︒︵

35︶蓑原俊洋﹃カリフォルニア州の排日運動と日米関係︱移民問

題をめぐる日米摩擦1906︱1921﹄神戸法学双書

2006年︑太田孝子﹁排日運動化におけるシアトル穂高倶楽 33

部︵

2000, 3-16, 2001-20, pp. 3-16 大学留学生センター紀要 II︶﹁﹃写真結婚﹄と﹃外国人土地法﹄を中心に﹂︑岐阜 or Javanese hat sort of nese are you guys? Are you Chinese, or Japanese, “W 36︶拙訳︒原文は以下の通り︒

?”

His answer was“We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Areyou a Yankee, or a donkey, or a monkey?”斎藤兆史﹃英語達人列伝  あっぱれ︑日本人の英語﹄中公新書︑東京︑二〇〇〇年︒

37︶この点に関して詳しくは︑伊藤真美子︑前掲論文を参照︒ 38 JACAR()Ref.B12083603500 ︶アジア歴史資料センター︑桑港ニ 於テ巴奈馬運河開通記念博覧会開設一件︵附軍艦派遣ノ件︶第一巻︵B-3-15-2-63_001)( 外務省外交史料館︶

B-3-15-2- ニ於テ巴奈馬運河開通記念博覧会開設一件第四巻︵ 39 JACARRef.B12083606600︶︵アジア歴史資料センター︶︑桑港

(15)

63_004︶︵外務省外交史料館︶

︹じらるでっりあおき  みゆき/     イスタンブル工科大学非常勤准教授補︺

参照

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東海日本語ネットワーク 代表 酒井美賀