衣 生 活 の 諸 問 題 (2)
義務教育にみる洋裁教育と家庭洋裁の実態(第1報)
徳 蔵 き み
(1979年10月17日受理)
Clothing Problems(2):
Sewing Education in Compulsory Education and Actual Conditions of Home Sewing
Kimi TOKURA
(Received October 17,1979)
は じ め に
衣生活は時の流れと共に変化し,社会機構の変化に伴って変ぼうしていく幾多の要因を含んでいる。
現代の傾向は多種多様であり複雑で目まぐるしく変化しつ父けているなかで,とくにファッシ。ン面 のライフ・サイクルはみじかく,洋服はとくに短い。古い時代のファッシ・ンは,特殊階級の自我の 主張によって発生し,下層階級の人民がこれを模倣し,そのファッシ・ン効果を減殺して行く。特権 階級は自我主張をするために新しいファッシ・ンをまた考え出さなけれぽならない。こうしてファッ シ。ンは衣生活の中でそのサイクルをくりかえして止まる所を知らないものであった。しかし最近で は専門デザイナーによって,すばやく世界の流行が取入れられ,作られ,バイヤーによって選ぼれ,
マーケットに流れたファッシ。ンを導入する形がとられる。これが大衆性のファッシ。ンであり,完 全な既製型である。従って洋服のライフサィクルが出てくる以上のような要因を特に含む洋服につい て考察するために,義務教育における洋裁の指導はいかに行なわれてきたかを考え,ファ。シ.ン傾 向とのかxわり合いなどにもとついて,教科書を中心として,今後の衣生活の課題と思われる既製服 と手づくりの味をたのしむ家庭洋裁の良さなどについて検討を加え,さらに家庭洋裁の実態について 調査分析し,今後の衣生活を展望したいと考える。
1 衣生活の変化
洋服の発生については種々の説があるが,いずれもその時代の社会的経済的および文化的な諸活動 の影響をうけて,その時代の様相をあらわし,独自の服装文化を形成し表現している。わが国の服装 特に洋服のあゆみを顧みるとき,外国文化の伝来と外国人の渡来などに大きなかXわりあいをもって いることがわかる。即鉄文、2年ポルトガル船の種子島漂着をはじめ,キリスト教宣教師オランダ 人の入国などによって,洋服が紹介されている。その後寛永6年横浜開港にともなって,神奈川村に 外臥居留地が設けら紹外国人の洋服屋力瀾店し躰人難師を募集したが,外国人との接し、く をきらい,女性の応募者は一人もなかった。やむなく男子をつのり技術者を養成した。この時代は日 本の革新期であり尊王嬢夷の時であったため,外国人相手の洋服の製作は平担でなく,時には身の危
険を感ずることもしばしばあった。こうして明治に入った。
1.1 明 治 期
・明治4年に大政官布告によって,「礼服ハ西洋ノ服装二準ズベシ」となったため,宮中に関係のあ る上流階級層では洋服を着用するようになった。「般大衆は関知しない事であったが,しかし布告に よって洋裁の職人は注文が多く多忙を極めた。更に当時はヨーロッパの新思想の崇拝をはじめ欧米模 倣の時であったため,洋服熱も盛んで洋裁技術者不足をまねいた。さきに外国洋服店に技術見習とし て応募した日本人も,この頃になると技術の習得を終えて開業している。片山喜三郎,大谷清次、,井 上六造,伊藤全作,横田弥吉,柳原義郎,中屋寅吉等で「唐物屋」「西化屋」「舶来屋」「ティラ」
などと呼ばれ盛況であった。このような上流階級の洋装は,異国風俗としてながめられ,つねに和服 と対立する形で扱われ,一「般性のうすいものであったが,伝統にこだわらない職業人(官人・自由業)
は洋服の長所を受入れ,歓迎し着用するようになっていったQ一方明治教育方針の一つに女子教育の 高揚がある。欧米教育の方針を直輸入し,これにならって教育し,文部省が官立女学校として開校し,
新しい教育方針のもとに外国教師を招き,洋式教育を取入れている。服装については直接洋服を着用 することは出来なかったが,しかし外人教師に接する機会の多い女子学生の間には,自然に洋服につ いての知識は浸透され,あこがれを抱いたものと思われる。東京女学校である。
・明治5年「学制」が発布され,男女平等の教育を実施することとなった。明治8年東京女子師範学 校が開校されたが,官立であるため,東京女学校と同様に洋服の着用は許されず「袴」着用の服装が 制服であった。その後明治10年頃には,自由民権運動が盛んになり,それに対して儒教主義的道徳強 化がとなえられ,開化主義が批判されるようになった。こうして明治12年「教育令」が公布され,政 府の教育政策は変更されるようになった。
・明治16〜20年
鹿鳴館時代といわれるこの時代は 特に女性の欧米模倣の時代であった。明治16年(1883年)東京 日比谷に竣工した社交倶楽部鹿鳴館を中心に,舞踏会をはじめ仮装会,晩さん会などの行事が催され た。集会の人々は,婦人同伴と洋装の盛装がその主流であった。そのため洋装の普及はめざましい進 展をみせた。また一方欧化主義,男女平等教育の結果,婦人も職場に進出するようになっていった。
風俗の改良がさけぼれ,洋髪ひろめの会をはじめ,衣服改良などが盛んになり,特にインテリ女性層 3)
に大いに歓迎されたQまた明治20年には,「婦人服制に関する皇后官の思召書」「洋服は日本の古制 に近く,国産をもって之を作れぽ,工業と美術の奨励たらん。婦女服制に付,皇后陛下より右の通り 仰出されたるにより,ヨ昨十七日宮内省より大臣,勅任官,華族の向きへ夫々伝達せられたる由…」
(朝野新聞一月十九日)この御思召書の影響によって,洋服着用の気運は一層促進された。そして職 業婦人,女子学生の間で洋服の着用が目立ち,女学校でも洋裁教育の必要が痛感され,教育内容に取 入れられている。洋装店も,洋服仕立の店も次々とあらわれ,日本人のための洋服作りが行われるよ うになった。また三井呉服店,白木屋呉服店などでも婦人デザイナーが活躍しはじめた。一方女子学
生の制服についても同様の傾向があらわれている。明治18年に皇后の令旨をうけて,華族女学校が学 4)
K院より分離独立し,その最初の入学者に示した服装心得によると,
一,本校の生徒タルモノハ袴ヲ着シ靴ヲ穿クベシ 一,袴ハ縞ヲ除クノ外色目地紋随意タルベシ 一,結髪随意タリ
一,西洋服ニテモ苦シカラズ
という女学校生徒の服装基準を示したのである。改良袴(縞袴は男袴と混同されるため)と洋服の採 用が取入れられているQまた東京女高師60年史(明治19年9月15日号)によると1本校ノ女生徒二洋 服ヲ着セシムルコトニ定ム。但シ絹及ビレース類,金,銀,宝石等バー一切之ヲ用フルコトヲ禁ズ」次 で21年10月20日付では,「和服登校ハ病気ノ場合ノミ届出ニヨル許可制トスル」と掲示し,きびしく 洋服着用を実行させている。開校当時は考えられなかった変ぼうであるが,洋服の長所のみならず鹿 鳴館の影響をはじめ,明治19年,宮中皇后以下女官の洋装化,明治20年の婦人服に関する御思召等の 影響によって一層促進されたQまた明治20年には日赤の看護婦の制服が洋装となり,次々と職業服の 洋服化が展開されていった。このような傾向は東京のみでなく,地方へも拡大された。しかしこのよ
うな洋装化は,上流階級に代表されるものであって,一般民間人には,部分的には附属品が取入れら れシ。一ル,ケープ等和装の上にも利用されているが,実際的な生活面の洋装化には至らなかった。
改良服の展開はやがて洋装化へと導かれるようになった。改良服考案の主軸として「和服を洋服に 改める 和服の欠点を除き新しい改良服を生み出す」の二流であって,論議が活発に行なわれた。こ れに対して坪内道遙は, 「当世書生気質」(明治18年刊)で,「服装改良本質論」をのべ,欧米模倣 の着装美中心の洋装に対して反省を促している。また鹿鳴館時代の服装模倣に対して非難が集中する
ようになり,反省がせまられた。
・明治22年〜45年
明治22年憲法発布,23年教育勅語の発布と続き,日本人としての進路が示され,欧米崇拝の熱もよ うやく落着き,そして,日清・日露の勝利は一段と日本国民の自覚を高めるのに役立ち,国粋主義が 盛んになり,復古の風へと進んで行った。このような社会状勢の中で,洋装改良案は,和服を洋服へ
の案は消され,和服の欠点を除く改良服がその中心となった。その主点は,衛生に適し,動作に便利 そして経済的で堅牢性に富むことであった。その頃前記華族学校では,生徒の服装規定を改め,「本 校生徒服装ノ義二付テハ客年七日及通知置候義モ有之候処今後ハ式日ト難モ和服,洋服何レニテモ着 用随意タルベク且シ和服着用ノ向ハ紋付二限ラズ(袴ハ縞ヲ除キ靴ヲ穿クベシ)条々渾テ質素ヲ旨ト シ華奢二流レザル様精々御注意有之度更二御通知候也」とし和洋併用の形で除々に和服へ復帰してい った。この学校は,他の学校と異り,宮廷,貴族との関係が多いため,洋服の廃止は出来なかったの であろう。また早く洋服を制服に取入れている官立校も,教育勅語発令によって教育方針が改められ,
服装についても「新奇な形式に走らず,着実穏健をもって旨とし,盛装を競うことを禁ず」と除々に 和服にもどっている。地方の場合も全く同様であった。このように一時的には女学生洋服は姿を消し,
和服にもどっていったが,しかし洋式の附属品はそのまx存続し,和服・靴・カバン・シ。一ルなど は併用の形硬用された。搬人はわずカ、ではあるが,比較舶由で詳装も取入紡れていた漏 人画報明治39年2月に「御婦人の洋装は今の処では貴族富豪に限られているような有様で,その流行
の範囲が洵に狭うございます」とあるように一般的ではなく,和服が中心であった。
1.2 大 正 期
初期女子洋装は上流階級の社交服を中心として着用されたことは前述と同様であるが,一般民間に おいても生活服として一部取入れられ,普及されるようになった。一一方宮中を中心とした礼服は,そ のまX存続された。大正3年の欧州大戦の勃発によって,近代工業が大躍進し,衣料と染繊関係の研 究も進み,すぐれたものが作られるようになった。女子の職場進出もめざましく,生きるための実用
生活が中心となって来た。そのため,今までの社交中心の服装形態は改められ,服装に対する考え方 も根本から考え直す時が来たのである。今までの社交服中心から活動服へと流れが変り,実用と機能 面が強調されるようになり,スカートの丈の短縮とかんたんなデザインが多く利用されるようになっ たQ従ってこの期は,機能を中心とする服装形態と,社交を主とする形態の二つが,それぞれ目的に
よって着分けられるようになった。そしていずれの階級の女性にも平等に着る権利をもつことができ きた。関東大震災の大正12年直後は諸物価の高騰を招き,中でも衣料は特に高騰した。生活のために 働かなければならない者が多くなり,そのための労働衣が必要になった。その中から女子の簡単服が 生まれた。この簡単服は,和服地で作れるかんたんな洋服で,活動に便利なことと手製と実用をもつ 等の長所を有していたため広く利用された。このような着用傾向は,やがて洋装化への足がかりにな るのである。洋装以外の面でも新旧交替がすすめられた。学校教育面でも義務教育をはじめ,普通教 育・専門教育など全国的に普及強化され,多くの女子が教育をうけ,個人の自覚を高め社会に進出し ていった。しかし家庭洋裁については一部に取り入れられただけで,下着類などの経済的で手軽に出 来るものなどが学校教育の中にも取り入れられはしたが,全般的には和装中心であった。
1.3 昭和期・昭和初期
この時代は,大正期のあとを受けて洋服の着用が除々に多くなって来た。特にスポーツ服の流行は 目ざましく,乗馬服・水着など,若い女性の間に広まって来た。また既製服の発達によって洋服着用 の傾向は一層進められたQ既製服はすでに明治時代軍服,宮服などの製作を行なっており,数物屋と 呼ばれ多量生産していた。最も古い既製服屋は岩村吉兵衛で,明治44年頃消費地神田柳原町で開業し ている。また洋装の普及にともなって,服装雑誌も目立って多くなって来た。婦人服関係雑誌では,
家庭婦人向きのものと専門家向の二つの傾向がみられた。この期は特に衣生活全体が更生利用の推進 期でもあったから,この研究も多くまた直接外国のファッシ・ン雑誌より取入れたニュースタイルも 扱い,欧米スタイルが直接民間に伝えられるようになった。このように洋装化は,普及方法と指導そ して情報源の面から進められたのである。昭和12年12月号「装苑」に「米国服飾界の流行を覗く」ド ロシーエード夫人によると「かつて明治・大正は上流社会が仕立屋まかせで着ていた時代から,民間 において直接欧米の流行を目から耳から受止め,それを各自が理解して作製する段階に発達して来た。」
とのべ,また昭和11年1月号「婦人の友」では「衣生活の改善のための方法として家庭洋裁の方向を 推しすすめ,パタンの販売を日本婦人向に考察し,中央消費組合を通して普及活動を展開し・一・自分 でぬって着ていたゴきたい」とすすめている。またこれと同じ頃パターンの販売に着手した文化服装 学院やドレスメーカー女学院でも,独自考察のパターンを通信販売法によって,家庭洋裁の普及につ とめた。当時のパターンの傾向は,いずれもホームドレスが中心で,一枚の型紙で幾通りにも感じを 変化できるような着装型に人気があった。また婦人画報社でも,昭和9年から服飾部門を独立させて,
欧米モードを紹介したり正しい洋装の知識の導入に力を入れ,洋装の普及に努めた。このようにして 民間のホームドレスが盛んになりはじめた頃,自家製目的の婦人雑誌の付録が出はじめた。婦人倶楽 部付録,昭和7年6月「誰でも出来る子供服・婦人服の独習書」がある。ホームドレス,外出着を掲 載し,ぬい方,用布の扱い方,サイズ等,手ぬいで仕立てられるように,写真の出来上り図をつけて いる。サイズは鯨尺とメートルの両方を併用している。また写真どおり出来上る無料裁断と附属品一 切をセットした布地の販売も同時に行われていた。パターン利用以前の時期で,家庭洋裁は無料裁断 からはじめられたのである。この頃婦人服地販売店も布地購入者に対して,好みのデザインによる無
料での裁断は可能であった。前記同様洋裁独習時代の初歩の傾向であり,除々に家庭洋裁は定着しつ Nあった。なおミシンの使用でなく,手ぬい,手製という方法の指導であったため入りやすく普及さ れる結果となった。こうして日本の女性が洋装時代に入ろうとするとき,家庭洋裁が定着しようとす る時,太平洋戦争に入り,再び和装中心の衣生活へと変更されていった。しかし戦時中で和装は運動 に不便であるため,政府は「長袖断ち運動」を展開し,各地で衣生活改良のための更生服研究会,改 良服研究会など活発に実施した。さらに戦時色が強められ,衣料切符制,公定価格など生活がひっ迫 していった昭和15年には男子国民服の制定,17年には婦人標準服が厚生省より制定され,全国各地の 婦人はこの服装に統一されることになった。即ち「婦人標準服に関する件」(昭和17年2月19口・次 官会議了解事項)として「我力国民ノ服装ハ久シキニ亘リ之二関スル指導方針ノ確立ヲ欠ク余リ各自
ノ自由放任セラレタルガ為極メテ乱脈二流レ国民ノ容儀思想上二悪影響ヲ及ボセルノミナラズ保健活 動能率・経済ノ見地ヨリシテ遺感ノ点少ナカラズ。之ガ改善ノ方策ヲ講ズルコトハ刻下喫緊ノ要素ナ リトナス… ・」として,標準服を甲型,乙型,活動服等五種を定めた。甲型は洋服式によるものの,
二部式と和服式,乙式も二部形式で,その他防空服,いずれも二部式,一部式のワンピース和洋折衷 型があった。活動服はモンペで標準型の前打合せは和服と同じ右前式がとり入れられた。下衣はモン ぺの使用が一般的であった。女学生の通学服も標準服にならったものが配給品として着用されたが,
しかし配給も一時的なものであり,和服の更生服の標準服が多かった。このように衣生活をはじめ生 活全般の貧困時代であった。この戦争の影響によって女子は労働にかり出されたため一層和服から離 れるようになる。服装雑誌も戦中スタイルとして,活動服を中心に廃物利用和服更生など掲載し,衣 料欠乏時代の課題と取組んでいた。一方,欠乏時代の対策として化学繊維が登場した。この時こそ一 般女性の洋装化を展開する素地が生れたものとみることができる。
・昭和中期
昭和20年,敗戦を境として日本婦人は服装史上類のない変革が起った。即ち洋服の長所にひかれ,
洋服時代を迎えたのである。これまでは一部の人のものであった洋服が,戦時中のモンペによる活動 着によって,手軽に作れ活動に便利であることがわかると,急速に普及し,その後の産業の復興,交 通の整備によってその勢を増大させていった。さらに外国人のファッシ.ンの自由な解放的な感覚に 直接ふれることによって,外国人の生活に対するあこがれから洋服熱は一層高められ,長い間伝統の 衣服として着用されていた和服はみはなされ,新しい洋服中心時代となったのである。新しい洋服時 代も敗戦直後は衣料不足のため,和服の更生によるモンペスタイルであったが,その後アメリカ進駐 軍の影響を受けたミリタリールックが取入れられた。そして昭和22年,パリーのクリスチャン・ディ オールのロングスカートがアメリカ経由で日本に入り,耐乏生活にもか瓦わらず爆発的な流行をみせ たQファッションシ。一やデザイナーが注目されるようになり,合成繊維が開発され,ナイロン製の 靴下やブラウスが出まわるようになり,衣料事情は好転した。昭和25年にはすべての衣料統制は撤廃
され,既製品も衣生活の向上にともなって急激に普及して行くのである。昭和30年代のはじめには,
イタリアモードが取入れられ,素材の美を表現するようになる。また高度経済成長期に入ると生活の ゆとりができ,着捨ての習慣と衣服の多様化によってTPOによる衣服の使い分けの習慣が生れ,す
ぐ着られる既製服の利用はますます盛んになった。既製服界でも高度の既製品製作のため,昭和30年 頃から海外のデザイナーと技術提携した高級既製服(プレタポルテ)が売られはじめた。流行に合っ た布地を用いること,デザイン,カッテング,縫製に流行を取入れることが考慮されているため,ま すます需要を増して来た。そしてテレビの普及やファッシ。ン雑誌などによってその日のうちに全国 に紹介されるなどで,たちまち流行着として着用されるようになった。
・昭和後期
昭和40年代になると,若さの象徴ミニドレス・ミニスカート等が日本に紹介され・43〜46年にその 流行は最高潮に達した。それに付随してあらわれたのがパンティストッキングであった。その後ミニ に代ってパンタロンが婦人層に定着している。いずれも既製服中心で,特にプレタポルテの隆盛であ る。現在は完全に洋服時代であるが,情報伝達手段の発達によりファッシ・ンの変化ははげしい。一 方伝統的な和服も根強い支持を得て,特に晴着として着用され定着している。
2洋裁教育と教科書
2.1 明 治 期
文明開化で社会全般にわたる改革がなされる中で,明治政府は文部省を設置し,男女平等の思想の もとに「学制」をはん布し,大学・中学・小学の学区制をとり,国民皆就学を打出し,特に低かった 女子教育に力を入れた。女子教育の見解によると「一般女子・男子ト均シク教育ヲ被ラシム事。
人間ノ道男・女ノ差アルコトナシ。男子己二有学。女子学ブ事ナカル不可且人子学問端緒ヲ開キ其以 テ物理ラ辮フルユエンノモノ,母親教育ノ力多キニ居ル故二伝クー般ヲ論ズレノ㍉其子ノ才・不才其母 ノ賢,不賢ニヨリ,既己二其分ヲ素定スト言ヘシ。而シテ今日ノ女子後日ノ人ノ母ナリ… 」とい うように賢母教育優先の女子教育が行なわれたのである。ともかく女子を教育の場に引出すことに大 きなねらいがあった。そして普通小学の外に女子のために「女児小学」が設けられた。女児小学では
「尋常小学教科の他二女子ノ手芸ヲ教フ」とし特別に手芸を指導することを示し,男子教育と区別し て一層就学率を高めようとした。学制以前の教育は,寺小屋・家塾等で,習字・読書・珠算・謡曲・
礼法・修身・武芸・漢字・詩歌・裁縫・活花・占茶等がそれぞれ適宜伝授されていた。裁縫について は「たちぬい」「お針」などと呼ばれていた。学制ではじめて使われた手芸は「お針」と異り,裁縫 以外の手技を含んだものである。これはフランス,ドイツの教育制度「小児小学」における手芸料を 模倣し取入れたもので,文明開化による欧米崇拝・模倣型教育の傾向が制度化されたものである。し かし現実の場では,指導者もなく裁縫が大部分の和裁指導が行なわれていた。だがこの制度によって 中学校その他「般学校では,手芸的な内容の教科も設置されるようになり,手芸的内容の教育もとり あげられている。当時は義務小学においても,それぞれ指導内容は一定せず,地域により学校により ばらばらに実施されていた。従って学科課程も,各県はもとより,同一地域の学校でも異っていた・
(表1)手芸の実施状況,学科名もそれぞれ裁縫・手芸・女紅などがみられ,実施されていたQ洋裁 教育については全く発達せず,埼玉県「上等小学」に機器縫,洋服裁縫が取入れられたくらいであるQ 全般に明治維新による文明開化の教育改革の思潮は手芸科の内容にはあまりあらわれなかった。しか
し一方手芸科のために,明治7年井上治平著「小学裁縫書」同じく同年前島・田辺共著「小学裁縫道 しるべ」同じく玉木一著「小学裁縫」など刊行されている。内容はいずれも和裁の仕立ての技術の錬 達をめざすものであった。これとは別に江戸時代に往来物といわれた読物形式の裁縫書が刊行されて いる。明治8年西郷保著「女童裁縫教草」や,明治10年浜真砂著「裁縫のしおり」がみられる。内容 はいずれも前記教科書とは異るもので,衣食住についての知識をはじめ,裁縫技術の覚え方の早道や 要領,女の愛され方など,衣生活をはじめ生活全般にわたる精神面の教育が中心となって編集されて いる。衣服の供給はすべて女の手仕事で,自給自足の時代であったため,広い範囲の内容が裁縫を通
して教育されたものと思われる。
・明治12年政府は教育令を発布した。これによると「女子ノタメ裁縫ナドノ科ヲ設クベシ」の条文
表1 明治初期における裁縫教育実施状況
1 ト 等 小 学 L 等 小 学 備 考
遇 級 1f
一一一
D. 一.
P . 一 . .
@ 、@ \・ …第
̲ \ 184
一.
謔R 2 1
第8
6
τ5 4
3 i 2 1 ル縫・明治9・明治8年教科名
県名 教 則\ i級 級 級 i
一 10年教科名丁芸 東京府 ロ 程女児h等小学 裁縫術 裁縫術 裁縫術 裁縫術 裁縫術 裁縫術 裁縫術 裁縫術
ll時10分一12時
?T5時
一一. 『
神奈用県 女『児L等小学ウ 則
裁縫掛図 寀@模型
^針縫方 運針 D方
運針 D方
運針 D方 1
1運針縫方 運針 運針
D方 運針
D方 明治9年
ィ一一一一一一一 一
干葉県 ウ 則女児1.・?小学
裁縫器機扉形
^ 皇針縫
ソ「を教,
運針 D方
運針 D方
運針
D方
袖口袖形.
椁D方 袖[袖形 椁D方
裁方 d立方
裁方
P仕立方 明治9年
o
1L則小学製程
1 運針
D方
運針
D方
運釧
D方
浴衣及び
?゚の類 単衣の類 単衣及び ソの類
゙袷綿入の 袷羽織の゙一一 一 一
明治Iof{
ネ木模範小学校i 教科名
. 一一一 一
一.
鼈黶D .一黶D..
栃木県
変則小学課程
.・一一.¥一一
1
1裁縫術 裁縫術
裁縫術 裁縫術 a織術
II則…裁縫 マ則・・手芸
岐阜県 ロ 程な.∫・1漕小学 c衣服部分空縫端縫 紐くけ嬬 D谷衣袋 フ類
木綿単衣 リ綿袷衣
木綿綿入 ゚服裁縫
絹布単衣 ヲ布袷衣 a織
帯股引 r半E綿
絹布綿入 ォ袋火喫 p法
袴羽織 ァ釧縫
明治10年 ウ科名 女和.
@ .
濡枠 単物 袷 小袖 羽織 明治】0年
高知県 小学付属
絡g場仮規則
1 .一つ身
?a
帯糸紡 足袋
J糸 股引 汪G
袴織機 教科名 女糸i.
?冾Q時間 山形県 女児小学教則
一.一:級以上裁縫
孖B雛形等を 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 明治1萌
?レ1時間
示し教授する 1
茨城県 女f小学教則
1
裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫 裁縫
P
明治9年
?冾Q時間
静岡県 L等小学教則 裁縫 時間外に於いて女生徒のみに教う 明治9年
新潟県 女学概則 満IQ耳以1:裁縫に従事させる(午後1時30分〜:1時)毎日1.5時 明治9{手』
@ 一.一
一丁一一一一一一一
長野県 ウ 則女 児ヒ等小学 裁縫
P
裁縫 1裁縫 1 裁縫 裁縫 i裁縫 。縫賑一
@ 1 明治10年 山梨県 小学教則 攣醤襟瞬の灘を雛 裁縫 裁縫 裁縫
齠 ⊥一裁縫 裁縫 裁縫 裁縫
明治8年
?O1時間
和歌山県 ャ学課業表 1女 児 卜、等 手芸 明治lo年
P ..
大阪府 大阪府 学則絡g の部 紡織,裁縫
. 明治9年
@女L学
一.一一
石川県 L等小学1 手芸
r重県.教 則
1.1裁縫IO才以レの女児、本科授業時間外に教授する 1
一一r−
@ 一..一一一一 ..鼈鼈黶u..一一.一 .一一一一一1「.一鼈黶D」一.一一一. 一 罰.
一一 .一一.一
宮城県 小学教則 素縫直線法単物本綿小児帯木綿袷木綿禦人洗張補綴木綿羽織 衣具袴絹紬羽織男 卵ム小物絹紬案入帳子巻物袷巻物 禦入巻物男女帯等
明治II年 P日2時間 一一一.
@ .一
D一一一一 一黶D 一一.@ 一一.一黶D
一」 ..一 L一一
運針 闘一,、、縫単
全衣 紳入 習織単よ 袴 雛形 繍箔 雛形
縫器械及衣橘衿の 儒件 蜘}法 り複を授 図式等 守袋 了1蜿ャ織 明治9年 衣服の部一部分小 単衣 く帯 股引 衣紋及ひ 器 教科名 r芸 埼玉県
小学女生手芸 ウ 則
満10年以上の生徒に授け 分名称 X衣 糠 P紐縫 ャ枕複袋
鼈黶v一.
裁.中裁 {裁の雛
̀木綿よ 闌ヲ綿毛
袷衣 足袋
@ 紡綿
@1器械の用 1 法
種々の物 繍せし ゙機械器機
フ使用根 各租の器 B雛形の用
@機器縫
m服裁 8級まで
?冾P時聞 V級以i.
?冾Q時間
@ .一}一 一一一
鼈鼈 r
裁 縫 明治6年妹i.
.一 D
第2 第1 第6 第5
一一一一一一一一一 n一一一一一一.
謔S級 ネ布の嬬
1第3級 e布袷類 第2級
ネ布袷類 第1級
ネ布綿入 灘癩馨一聯編墾続
伽 雑巾
゙素 D平h連
前期の類ぎ伏縫道 綴物
フ仕繒ャ児
綿布.絆,単物
?ヒ澱単物
の縫方,
ネ布の裁 禔C掛綴
足袋の裁 菇D方
綿入の裁 菇D方
針練 縫, の単 縫方1 明治15年
京都府 小学校教則 習衣 桙フ
紐の ュけ
物 綴方
@ 1 裁 縫
名称 方前 i
解物 駐の l l
縫方 1 1
綿布 1
の綴 1 i
方 ・ }
(文部省年報,京都小学30年史により調査)
表2 教 育 内 容 表3 教 育 内 容
著 名 鴫撃震轟鵠 著名 ②、繰整代鵜, 書 名 小学校生徒用 新撰裁縫書一卜編
発行年 明 治 13 年
学年 行年
明 治 17 年 (阿部愛子 著)
第期 二
O裁縫用具の名称,使用法 奪 年 発行年 明 治 24 年
(ノ運鉗 1・雑巾
科 三
O衣服(各種)の名称 年 尋 三
D衣裳の畳み方 ら,解物の仕方 n伏縫,袋縫,返し縫い E洗たく及張物の仕方
第四 畢姦
o素縫 庶レ度数
b・糸結び り留針 り直線
常科 西年
第二期 ノ単儒律,袖形,裾形 i,綴物 O苧の積み方
中
学年 鐘毒
し衣服名称,織地名称 闌?D
薯P袖縫 フ小児帯
第一 (,縫方道具 ()運針 ・.)雑巾
n糠袋 C)縫方(袋縫・隠綴・返し縫い)O糸立綴方,締方,躾方,割縫,掛継
第三期 ヲP衣,神天 潤│ ノ身 単・袷・綿入
第五 錫羅
○木綿単物裁方罫引 o追し捲り縫 り縁取り
k〉単物 高
学年
○前垂,手帷 、儒祥
n衣服部分の名称 G解物,洗濯,張物
C)袷長儒衿,袷半儒衿
等 )
第四期
阮ネ布 三ツ身 単・袷・綿入
学年 翁三
(,木綿単羽織 第
の単衣,各種単衣の縫方 、0ズボンド
の綿布 四ノ身 単袷綿入及前衿裁 響 r.、木綿袷
二学
O釦孔
一 一
第力.期 前
(ノ綿布衣服
科 第 聖 9木綿綿入 年
り頭巾 ⊂)木綿袷羽織
六 奉 等
第六期
緒¢ウ裏表,大中小夜着裏表 i)三布五反蒲団、各種蚊飼 闡ォ袋,各種股引
学年 鐘琶 〔)胞着
n児童衣裳裁ち方 ロ)洗濯,張り方
p補綴 りつぎ物 ⇔飾り刺O衣服礼納理
第三学 ⇔各種綿入半天 フ各種袷 f各種綿入
リシャノ 前 ∩夜着,三布五布蒲団 年
第七期 第 塑
ρ裡鈎裁1女服留袖八ツ掛付,女無后 o袴
七 羅
〔)シャツ 科
裾交回し,目同裏,男月艮二枚取裁合,
高 ㌧!
着物三放取裁合等の縫方 学 後 P頭巾,巾着,挺掛 第 シャツ
.,絹布服縫方新訪順序 向 塑 半伽股引.脚得,腹捌,羊桁) ・洛種帯
り本比翼附比翼 轟 「)足袋
o絹紬羽織
四学
各種単・袷,綿入羽織
第八期 等
じ各種羽織 前 ㌧絹紬袷 年
笏 塑 絹紬袷,綿入羽織
し各種袴 一
㌧飾り縫 男女帯くけカ 八 轡 』男女合羽織 科
学 後 7憲轤V「繭磁
年 塑 ・巻物類
.一 .、袷綿入
毬 ・戯幕,暖簾 ・衣服礼ゐL
がみられる。 「女児小学」 以外の普通小学校に裁縫科がはじめて教科として入ってきた。小学校にお ける男女別学,性差教育が強調されたためである。続いて明治14年「小学校教則綱領」がはじめて示 され,指導内容が具体的に指示され公示された。文明開花,欧米崇拝教育傾向の時であったが,洋裁 に関する内容はみられなかったが,一部の裁縫教科書には取りあげられていた。表2は当時アメリカ 彦)教授法の一斉教授法,庶物指導,開発教授などの影響をうけて,掛図,ひな型,積り方,問答など の方法を取入れた教材に洋式下着,シャツの指導がみられ,当地の教育界をにぎわした教科書であっ た。また明治13年,黒川広子著「小学校裁縫教科書」明治17年富山県学務課編「小学校裁縫教科書」
などがみられるが,いずれも和裁高度技術を習得するため絹物仕立の教材が組まれている。和服仕立 の高度技術習得は,当時の父兄のヅ大関心事であると同時に,女子の就学に非常に関係の深いもので あったためにより高度の裁縫技術が要求される事になったのである。
明治はじめ・男子間では職業服や上流階級の社交服は大いに利用活用され発展したが,女子ではせ いぜい下着どまりであった。しかし明治16〜18年頃は,欧米崇拝主義が最高潮に達した鹿鳴館時代は,
貴族をはじめ一部上流階級の婦人たちの間で洋服が流行し,女学校などで制服に洋服を取入れられる
ようになり,洋式教育も盛んになり,女子学生をはじめ職業服に洋服が徐々に用いられるようになっ た。この影響によって,明治18年丸山万五郎著「西洋裁縫独稽古」などの刊行治用された。
・明治19年 「小学校令」の発布により,小学校が尋常科と高等科に分離し,高等科で裁縫科は必修 となり,その課程表が示されたが,いずれも和裁教育であり,洋裁教育はみられなかった。教科書で は,明治22年,会田孝女著「女学裁縫教科書」明治23年,東京府公立柳北女子尋常高等小学校編「小 学校裁縫教科書」などがみられ,豊富な内容と新しい教授形式がみられたが,洋風教材はみられない。
明治24年 阿部愛子著「小学校生徒用新撰裁縫書上編」には,表3のように洋風教授内容が取入れら れている。
明治22年憲法発布,23年教育勅語喚発と続き,それらの影響で日本式教育が提唱され,洋式教育は 下火となり,当然ながら洋裁教材も除外されるようになり,再び和裁中心の技術教育が盛んになった。
女学校に展開されてきた洋服の制服も,和服へもどっていった。
明治24年に小校教則大綱に「要旨」が設けられ「裁縫ハ眼及ビ手ヲ練習シテ通常ノ方法ノ縫方及ビ 着方二習熟セシムルヲ以テ要旨トス」とし,裁縫は縫うだけでなく,用布の用い方,用具の使い方な
ど衣生活全般にわたるよう指示している。
表4は東京北多摩郡高等小学校教程細目の実例で,これにみられるように,全般的に家庭生活の広 い範囲より実施され,姿勢をはじめ節約利用等についても指導対象にしているなど,新しい点であろ
う。洋裁指導については,シャツ等下着の教材が取上げられている。又同じく明治30年,渡辺辰五郎 著「裁縫教科書」が表4のとおり刊行されており,洋裁教材として合羽・被布・シャツ・ズボン等が
表4 教育 内 容 表5 教 育 内 容
・・ド墨識篇郡謝肝蟹辺教辰驚 . 小学校に於ける裁縫教材とr一、②その指導法
尋常小学裁縫教授細目
B
発行年 明 治 26 年 明 治 30 年
〔国民教育研究会編) (成 田 順著) (東京青山師・付小編)
ラ裁縫器具 .漬服名称 大 止 1 年 大 正 12 年 人 正 15 年
一一 尋
・運針法
E紐の桁方,裾,袖形縫方「千鳥縫,返し縫,マツリ縫 C)用具の種類,役用法
ノ)運針(姿勢・持ち針・運び方) 第
C)裁縫科学習上の心得 n用具の名称,使用法,整理
C・用具の名称,用法,整理 實^針,姿勢
1録 ㌧輪縫,巻縫,穴かがり (ハンカチーフの飾り縫 G運針 ○糸の結び方,留方,継ぎ方
・十一一 ㌧木綿,絹物縫方 ○雑巾 四 ○糸の留め方,継ぎ方庶G巾 o各種縫い方 0雑巾 ○各種縫い方帷^のかけ方
I@I第. ・一
c身,三ツ身,四ツ身濡絆・:神天の裁方・積り方
ゥ本裁男儒衿
P)女長儒祥 尋
(,糸の留め方 ○袋の類 寥pぎ方 o各種縫い方 n糠袋 ○風呂敷 n枕上被 0躾のかけ方
学年 O糊こし,壕袋,風呂敷 n躾のかけ方 Q桁け方 尠ネ布繕い方 n単前掛
o桁け方 i⊃儒祥各部の名称 処黹c身儒神 p綿布繕い方 O普通衣服の種類 .
N O翰け方 O紐 ○前掛
1 . O濡神の種類,各部の名称 ○普通綿布の種類,丈,幅 0肌着に関する知識
1鉦針叫ち方1・連針,裁縫器具の名称 ノ身単・袷・綿入身単・袷・綿入 0接ぎ方三種に)一ツ身濡衿 i第 o儒絆の種類及び地質○本裁儒神 り車裁濡神()普通綿布の名称及丈巾
.一 一洗濯,張物法 ㌧,四ソ身綿人 ○単裁濡衿 1五 ○解ぎ方・布伸し ⊂)衣服の目的及び種類
学 り破布の繕い方 O本裁儒衿 ○一ツ身儒祥 O単衣各部の名称,種類
年 Q儒衿の取扱についての心得 学 .)車裁嬬神 Q肌着類,下履
高 トー一一
常
0単衣の種類,各部の名称 随意材料 O一ツ身単衣 G子供帯 .簡単な衣服の裁方縫方
健P衣及儒神
ッ.一虜軸渤
男女綿入衿天
@綿の入れ方,絹方,縫方・児童祥天
ローツ身単衣 p三ツ身単衣 k)子供帯
年
( ズロース コンピネーシ.ン
Q四ツ身単衣 尠ネ布繕い方 O衣服整え方
蒙,:鵬磯 〔.男服単物オ男女 服袷 0頭巾(帽子) 0衣服の目的及び種類 一一 p衣服材料の種類・名称・産地
1一A巾着類 c男女服綿入 ⊂〕誕掛 Q単衣の種類及び地質 〇四ツ身単衣
等 ○名種嬬神の裁ち方 第 O一ツ身単衣 ○各種儒衿裁ち方
〔儲張物 冒裾廻し, 女月艮引返し, 裁力 科 Q四ツ身単衣 ⊂)綿布繕い方 Q本裁単衣 Q寝冷しらず
第 1各種洗濯法及色物洗濯法 1.合羽 o洗濯・解き方 六 〇四ツ身単衣 ○縫い方
科1
1単衣・袷・綿入等の縫方注意.一ツ身・..三ノ身裁縫
Pソ七リ物の仕方 部j物の繕い, ハギモノ法
し被布(単・袷・綿入)
E男帯,女丸帯 ()捕綴法,張り方,積り方 潤@一ツ身袷衣 k⊃一ツ身綿入
学年
○前衿裁裁方 本裁裁方 n≡ソ身裁方 一ツ身裁方 i)小供帯 ⊂)桁け方 i」寝冷知らず
Q洗濯の仕方 O衣服材料の性質及び選び方
一濡神,シャツ 1 ノ ツ
の古着綿入の整理 (ラ足袋・靴下のつくろい
第.e通常衣服り足袋 いスホント Q衣服材料の種類,選び方
i四「単臓袷耳撮 り各種羽織 r)洗濯
袴 u股引 dハギモノ法,紐打方
@張物,洗濯,しみおとし
( : . 身 , pq ソ身 , F巨 ・ 芹「〕
u.各種被府】
衣服保存法 ・.e種袴
取扱われ,洋裁教材も豊富にみられる。しかしこれが実際に実施指導されたかについては問題がある と思われる。しかし前述したように,当時の父兄の要求に応じた内容と思う。
明治33年,小学校令改訂が行われたが大きな変革はなく,裁縫要旨に,「裁縫ハ通常ノ衣類ノ縫方 及裁方等二習熟セシメ,併テ節約利用ノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トス。」と節約利用が強調された。
明治36年,文部省検定教科書が発行された。当時の教科書は,いずれも児童が用いるものではなく 教師用の手引書である。指導は,口授による方法が中心であり,問答式方法が取入れられていた。こ れら文部省検定裁縫書には,洋裁に関する内容は一つも取り扱わず,和裁一辺倒の教科書であった。
明治40年「小学校令」の改正が行なわれ,尋常小学校6年となり(義務制)高等小学校2年になっ 7>た。そして裁縫科は,尋常小学校第3学年より必修となった。この頃教育界は,ドイツのヘルバルト
派の教育思想が歓迎され,取入れられた。この期出版された裁縫教科書に,明治42年版,椙山正弐著
「新令適用小学校裁縫教案及教方」や同年,前田ぬい著「裁縫教授法全」などがあるが,いずれも洋 裁に関するものはなく,依然として従来の節約利用をあげ強調した衣生活の指導に徹しており,後進 性がみられる。教科書内容には,洋装化傾向はあらわれていないが,しかし日常的な衣類には,部分 的には洋風物が取入れられている。和服の上から着用するエプロンが,西洋エプロンとして歓迎され
るようになり,一部の教科書にも教材として掲載されるようになった。
22 大 正 期
大正のはじめは,明治教育制度をそのまN引きつがれた。大正8年に,「小学校裁縫科課程表」が 公布されて,「裁縫は尋常4年から必修」と改められた。高等小学では,今まで週5時間であったも のが4時間に時間減となったのである。教科書内容は,表5のように,初期出版は明治と変らぬ内容 で構成されているが,大正9年,広島県三原女子師範学校附属小学校では,裁縫科教授方法に対する
父兄・社会の過大な要求傾向に対して,警告を発して注意を促し,教材選択要件を指示している。
すなわち
一,児童の心身発達の程度に適合すること。
一,多種の教材をさけ,裁縫習得の基礎となるもの 一,反復練習のでぎるもの
一,実用的にして生活に必須なもの。
一,地方の状況に適合せるもの
等をあげ,徐々に教材の精選を目ざす傾向がうかゴわれる。また12年,関東大震災によって,洋服の 必要を体験した一般庶民は,日常の生活服の普及へと展開していった。女子の職場進出も盛んで,洋 服着用の機会も多くなり,洋服が使用されるようになってきた。また一方女性解放運動も盛んになり 女性の社会進出に拍車がかけられ,洋服着用がより多くなってきた。同時にまた,生活の合理化,科 学化が求められ,裁縫科とは別に,理科的な内容をもつ家事が入って正課となり,新しい合理的な教 育方法がとり入れられ,義務教育をはじめ,普通教育,専門教育など強化・整備・拡充されて,女子 教育は全国的に大いに躍進した。裁縫科の教科書の内容は,すべて和服中心のものであったが,技術 習得のみでなく,女性としての精神修養も合わせ,よりよい生活習慣の育成にもはげむ内容をおりこ み,国の教育方針に協力していたQ
大正12年,表5②成田順著「学校における裁縫教材とその指導法」には,随意教材として洋式下 着,ズロース,コンビネーシ。ンなどがみられた。また,表5③大正15年出版の東京青山師範学校
附属小学校編「尋常小学校裁縫教授細目」などの内容にも,洋裁教材の肌着類や下履などが扱われて いて,洋裁教育も徐々に普及され,一般化される傾向がみられるようになったが,しかしあくまで和 裁中心の教育内容であり,昭和の洋裁教育とは全く異質のものであった。
2.3 昭和期初期
昭和に入ると小学校教育も安定してきた。文部省は,将来小学校の教授要目改正の準備として,各 地の師範学校附属小学校を実験学校として,改訂のための研究を進めるための土台として,昭和2年
「小学校教授要目案」を作成して研究考察を重ねさせて,昭和7年・8年「尋常小学裁縫新教授書」
が出され,引続いて「高等小学校裁縫新教科書」が昭和9年発行されている。表6にみる通りで,洋 裁教育が広範囲に指導されるようになった。これより先,表6①のような,昭和5年発行の「広島高 等師範学校附属小学校教授要目」がある。裁縫科では,教授要目もなく,国定教科書もないため,文 部省発行の新教科書が使われ,指導されていたものと思われる。この新教科書の特徴は,教科配列に,
児童の心身の発達を遠慮し,これを標準としたこと,地域性を加味し考慮したこと,④・③のような 自由選択教材や,自由教材,補充教材などを設けて便宜をはかったことなどである。また洋服の普及 にともなって,洋裁教育教材も多く,ミシソの使用法をはじめ,ミシン縫いの衣服の製作などもみら れるようになるなど,時代性がうかがわれる教科書の内容であった。しかし当時洋裁の研究は盛んで あったが,ミシンに対する教育は不足で,特に女子は機械に対する興味・知識の不足がみられ,故障 もなおせない有様であった。昭和5年,石田ひろ子氏は,「裁縫教育の諸問題」で,洋裁教育はミシ ンに関する知識を与え,特に手入法など厳重にすべきであると指摘している。文部省発行の教科書は すべて教師用であるため,各府県の裁縫教育研究会等では,教師用教科書にもとずいて,児童用の学 習帳を作成し使用させている。
昭和8年,滝本楳華著「なにゆゑこうする裁縫学習帳」などがみられる。文部省発行の裁縫教科書 内容は,洋裁教材,和裁教材は約半数であるが,しかし日常の衣服形態は和服が圧倒的に多い衣生活 である。
昭和16年
「国民学校令」が公布され,国民の基礎的練成の目的達成のためとして,教科の統合が実施され,
裁縫科は一芸能科の科目として位置づけられ,芸能科裁縫となった。その教授要目には,「芸能科裁 縫ハ,通常ノ衣類ノ裁縫二習熟セシメ,衣類二関スル常識ヲ養ヒ,婦徳ノ涌養二資スルモノトス。」
とし,衣類技術の習得だけでなく,常識と婦徳の養成をはじめ,生活全般にわたる修練を求めたもの で,特に皇国の女性として,母として,主婦としての任務を特に強調し教育している。
昭和17年にはじめて児童用の国定教科書が刊行された。「初等科裁縫上巻」ついで18年に中巻,下 巻ができ,翌19年には,「高等科裁縫上」が刊行された。内容は表7のとおりである。「よい身なり」
「私の着物」「手入れ」を柱とした内容で,洋裁教育が中心となり,広い範囲にわたる衣生活の合理 化教育に優先して,報恩感謝の念を養う精神教育を,教材を通して養うことを主張したものであり,
また物資不足により,小物類の製作が多く感じられた。昭和17年,衣料切符制限令が公布されるなど,
国内事情による教材内容であったのであろう。洋裁教材として,5年の中着,スリヅプの扱い,寝ま き,二部式和洋折衷型がみられ,高等科でも標準服,防空頭巾,救急袋など戦時の教材内容で,特に 和服教育から洋裁教育へ変革する過渡期であり,和洋折衷型が多く取入れられている。なお,小さな 教材から大きな教材へ,直線教材から曲線へというように,洋裁もかんたんなものから複雑なものへ,