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2.はじめに

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(1)

茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)129−138 ユ29

明治期中等学校図画教員の研究(2)

東北地方

金 子

2.はじめに

 本稿は『茨城大学教育学部紀要』第37号に発表した無題の論文(1)に続くものである。宮城県と福 島県における明治期中等学校図画教員の一覧を作成して示す。調査の目的,方法等は(1)において述 べたので,そちらを参照されたい。

2.宮  城  県

 宮城県の図画教員の特徴は,複数の学校に嘱託講師として勤めたりして,県内の学校を異動することが多 いことである。そのような図画教員としては武田文太夫,小泉成一,道家弘,川上為之助,布施淡など がいる。

 宮城県師範一既に発表した「明治期師範学校図画教員の研究」(『茨城大学教育学部紀要』第32号)

の付表においては,明治11年の河東田剛が記入されていないが,その後,図画担当が判明したので加え ておく。宮城県図書館蔵県庁文書の中の「仙台師範学校維持金概算」 (明治11年3月)に「金拾五円 画学 河東田剛」とある。また,仙台中学校書類綴の中に「河東田剛 国文書ヲ免シ画学教授兼務ヲ申 付ノ件」 (明治ll年2月21日)がある。これらを見ると,明治12年に駒峯忠臣が着任するまで師範学校 中学校ともに河東田が教えたのだと思われる。河東田の専門は修業したことはあるが図面ではなく,史 学であるらしく,師範の勤務は明治10年2月から19年7月号でである。

 仙台第一中学校一仙台中学校として発足し,ついで宮城中学校,さらに宮城県尋常中学校となるが 第二高等学校と重複するので明治21年4月に廃校,25年4月に再置。廃校前の石原,溝口の勤務時間は 履歴より推定。駒峯については(1)の盛岡中学の項で述べた。溝口は宮本三平に学んだ人で,宮本の後 を受けて明治7年7月から12年2月まで東京師範学校雇,その後体操伝習所雇を経て宮城中学校へ移る。

溝口は明治21年から第二高等中学の図画教員となるのであるが,明治19年の事項まで記載した履歴が福 島大学に残っている。おそらく溝口は明治ig,20年頃,短期間福島県師範学校に勤務したが,採用寸前 までいったのではないかと思われる。

 明治25年宮城県尋常中学校再置後の図画教員の勤務期間については,仙台第一高等学校の教示による。

武田文太夫は25年間同校で教鞭をとる。武田の履歴は駆通か見ることはできたが,いずれも絵画の修業 歴については記載がない。武田は明治20年「小学習画法』を仙台で出版した。簡単な小冊子であるが,

それによって当時の絵筆画の手法を通ることができる。この本は溝口耕一閲となっているので,武田は 溝口に洋画を学んだのかもしれない。また,この中学は図画担当が二人いる期間が長く,最初は林竹治 郎,明治33年から野村虎松ほか三人が武田とともに勤めている。

(2)

ユ30 茨城大聖教育学部教育研究所紀要20号(1988)

 仙台第二中学一宮城県尋常中学の分校として創立,明治33年第二中学となる。明治期は福原謙之助 と小泉成一の二人の図画教員が勤務。勤務期間等は仙台第二高等学校からの教示による。福原は山口県 岩国の出身で東京美術学校絵画科卒業。狩野友信と川端玉章から主に学んだらしい。小泉は山形中学の 項でも触れたが,彰技堂,不同舎と洋画を学び明治22年,明治美術会展覧会には油画「平軍南都二乱入 ス」と「小春ノ日和」を出品しているが,その後,巨勢小石や渡辺省亭に日本画も学んでいる。佐藤明

「仙台地方絵画史』(昭和26年冬には,仙台では酒を飲んで大作を描かず,描かざる画家と称されたと

ある。

 古州中学一宮城県尋常中学志田郡立分校として創立。勤務期間は古川高等学校の教示による。菅野 真は変った経歴をもつ人で,宮城県尋常中学に入学するが同時に数学を千葉秀麗,英語を斎藤秀三郎に 就いて学び,尋常中学廃校後,東華学校に転学して卒業,そして第二高等中学に入るが27年に退学。さ らに宣教師に就いて仏語を学ぶ。同時に佐野常成に洋画を学ぶ。佐野は第二高等学校の図画教員であっ た。その後,志田郡立分校の嘱託等を経て東京外国語学校伊語科別科修了し,東京美術学校の外国語担 当の助教授となった。秋保盛明の絵画修業歴等は不明。

 角田中学一宮城県尋常中学伊具郡立分校として創立。勤務期間その他は角田高等学校の教示による。

目黒博は小山正太郎の不同舎に学んだ人で,不同舎の門人名簿の順からすると明治30年頃入門している。

嘱託とはいえ,勤務にさしさわるので夏休みあたりに学んだのではないかと思う。また,目黒は重扇と 号し,茂庭竹泉に日本画も学んだ人でもある。鈴木英一は履歴によると明治22年9月から31年まで高橋 由一の天工学舎に学ぶとある。次の石田常連は仙台で佐野常成に学んだ後,東京で明治美術会の明治美 術学校卒業,さらに松岡寿に学び,最終的には東京美術学校西洋画科選科に入学し,明治33年4月に四 年級を終了している。東京美術学校では西洋画の旧派系統の生徒は不遇で,教授の浅井忠はパリへ出張

してしまい,明治美術学校を卒業して入学した生徒の多くも33年7月には西洋画選科を卒業してしまう ので,石田も卒業せずにやめてしまったのであろう。山岸柳三は福島県師範の卒業で,毛筆画が専門で

ある。

 自石中学一私立,さらに郡立刈田中学として創立。『白高七十年史』 (昭和43年)所収の旧教員表 を参照。それによると高橋精一の着任は明治35年4月であるが,『庁府県学事職員録一明治34年8月 現在』には私立刈田中学の助教諭として高橋の名がある。つまり,明治34年以前から勤務している。白 石高等学校の教示により就任期日判明。渡辺長蔵は『日本美術年鑑』 (大正元年)によれば柏翠と号し,

三好松柏に学んだH本画家で,明治37,8年頃は陸軍省雇となって戦争実景を写生したという。

 築館中学一宮城県第三中学栗原分校として創立。勤務期間等は宮城県図書館県庁文書より確定。高 須重洋は愛知県出身で水野万資,犬塚又兵に洋画を学んだ。水野は岡崎中学,犬塚は愛知県第二師範学 校(岡崎)の図画教員であったので,岡崎で学んだと思われる。佐治友八の離任期日は雑誌『図画教育』

の「会員動静」欄より判明。佐治の後任は不明。

 佐沼中学一宮城県第二中学登米分校として創立。「佐沼高校七十五年史』(昭和52年)所収の教員 表その他を参照。大内は歴史が専門。小野隆三郎は中丸精十郎,ついで本多錦吉郎,さらに川村清雄に 学んだ。小野は本務が書記で,図画は嘱託教授である。次の菅原,小山も書記兼図画担当であり,この 勤務形態が当時の登米分校の方針であったのであろう。佐藤辰衛は習字が専門の教員である。

 県立高女一勤務期間は宮城県第一女子高校からの教授による。片岡宣徳は『日本美術年鑑』(大正 元年)によれば,渡辺小華に学び雲鶴と号した南宗画家である。

 東北学院一東北学院同窓会『会員名簿』(昭和56年)および宮城県図書館蔵県庁文書を参照。布施

(3)

金子:明治期中等学校図画教員の研究(2) 131

淡は天折の画家として知られる。布施は宮城県尋常中学校中退後,東北学院に入学第三年級まで進むが 中退。上京して不同舎に入門。門人名簿からすると,明治25年6月中に入門したものと思われる。明治 26年5月東北学院の図画教員嘱託となる。嘱託教員になるについては布施に関する学院長押川方義のは からいがあったとされる。しかし,明治34年病没。布施の後任は第二中学の小泉成一が嘱託で勤めるが,

離任期日は,はっきりしない。

 東北申学一勤務期間等,東北高等学校からの教示による。道家弘は同校および宮城県図書館所蔵の 履歴によれば,毛筆画を高橋東次郎,用器画を武田文太夫に学んだらしい。最初の二年間は武田と道家 の師弟で勤務したことになる。川上為之助は東京美術学校日本画科を三年修了後,図立科へ転科卒業し た人である。

 宮城女学校一勤務期間等は「宮城女学校五十年史』(昭和ll年)を参照。武田文太夫,布施淡,道 家弘は前出。石原重思は習字が専門で,明治40年から43年まで宮城県師範学校教諭であった。その他の 図画教員は経歴不明。『宮城女学校五十年史』には図画教員に関する生徒の回想も載っていて,たとえ ば長谷川田母次は生徒の図画がまずいので泣きだしてしまったとある。

 尚綱女学校一山務期間は「尚綱女学院七十年史』(昭和37年)所収の旧職員表および尚綱女学院高 等学校の教示を参照。中島武四郎の履歴は宮城県図書館の県庁文書中の教員認可書類にあり,それによ

ると中島は溝口耕一に学んだ後,上京し一三画塾や叔美館で画学修業した人である。

 市立仙台工業一『仙台工業七十年史』(昭和46年)所収の旧職員表を参照。その表では明治33年か ら35年まで図画担当者が不明であるが,『庁府県学事職員録』によれば明治34年度は梶山泰助が国文,

体操と兼担で図画を教えている。

 市立仙台商業一勤務期間は市立仙台商業高等学校の教示による。道家も小圃も嘱託勤務である。

3.福  島  県

 福島県の明治期中等学校図画教員は,師範学校や工業学校を除き,一般的に勤務期間が短かく,県内 での異動も少ない。全体的にあわただしい勤務といった印象を受けるが,服部保一,犬塚又兵,島田豊 堀江繁太郎,児島明など有力な図画教員も少なくない。

 安積中学一明治17年県立福島中学校として創立されるが,明治22年郡山に移転。那(奈)須真弓は 明治17年頃の福島県師範の図画教授嘱託をしていると思われる人である。『安中安高百年史』(昭和59 年)141頁に明治17年8月着任,福島中学校教授雇として奈須真弓の名がある。福島中学でも図画を教 えたと想像する。犬塚又兵以下の図画教員の勤務期間は安積高等学校の教示による。犬塚又兵は山形県 鶴岡出身で,致道館の句読師をしていた。絵画は独学とも言われるが修業については不明。甘古と号し 考古学の草分け的存在の一人で『東京人類学会雑誌』に多くの論文を発表している。福島県尋常中学校 を離任してからは愛知県第二師範学校に勤務。明治末頃は東京にいて『国分史』三冊(明治45〜大正2 年)を個人で刊行する。犬塚はその途中の大正元年9月に没。犬塚の後任の大矢広は彰技堂出身の坂広 である。

 会津中学一勤務期間や教員名は『福島県職員録』や中等学校職員録を参照。津村米太郎は明治27年 2月に東京美術学校卒業であるから,それ以後の勤務と考えられる。小貫廉については山形県宅内中学 のところで触れた。荘内中学にいた高橋が会津中学に転任し,小貫と勤務先を交換した形になる。

 磐城中学一現在の磐城高等学校には火災による焼失で勤務期間を確定できる資料はないとのことで

(4)

132 茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)

ある。『安中安高百年史』は福島県尋常中学磐城分校明治31年3月の文書で英語・図画担当加藤教諭と ある資料を紹介している。ただ,明治31年頃の『福島県職員録』に加藤姓の磐城分校教員の名はない。

加土重成という教員はいるが,当の加藤と同一かどうかは不明。島田豊は後の島田墨仙である。勤務期 間は雑誌『国画』第3巻第8号(昭和18年9月)「墨仙特集」所収の略年譜を参照。千葉真弓について は山形県山形中学の項で触れた。

 福島中学一勤務期間は『尊高八十年史』(昭和53年)所収の教員表を参照。開校時の白田章太郎は 習字・体操と図画を兼担。香川新十郎は教員表では習字担当とあるが,橋本雅邦に師事し必堂と号した 画家でもあるので図画も担当したと思われる。堀江繁太郎は明治40年目ら昭和12年まで勤務した。

 相馬中学一勤務期間は『相中相高八十年』(昭和53年)所収の教員表を参照。同表に担当教科は入 っていないが,藤巻以下は出身学校からみて図画担当は間違いない。最初の成田三千郎は青森県師範の 訓導で図画を主に教えたことがあるので,図画も担当したのではないかと想像する。他の学校で図画も 教えたことのある白岩金次郎が明治32年4月に着任している。藤巻直治が着任するまでの短期間,図画 を担当したかもしれない。

 石川中学一『東京美術学校一覧』の卒業生の部分,および学校法人石川高等学校の教示を参照。

 福島高女一勤務期間は福島女子高等学校よりの教示。伊藤テツは江戸出身で在原古玩に師事し,落 剥と号した土佐派の日本画家である。

 磐城高女一私立磐城女学校として創立,明治45年から県立となる。私立時代の教員に関する資料は 磐城女子高等学校にないとのことである。『磐女高55年史』(昭和34年)所収の明治37年出勤簿に島田 豊の名がある。創立当初から島田が磐城中学をやめる明治39年まで図画担当と思われる。後任の千葉真

弓も磐城女学校を兼任している。

 会津高女一井上の勤務は『女子美術学校校友会雑誌』第4号(明治43年)の「会員消息」を参照。

勤務期間は会津女子高等学校の教示による。

 県立(会津)工業一勤務期間は会津工業高等学技の教示による。ただ,同校の資料に鈴木成夫の名 はないそうである。しかし,「中等教育諸学校職員録一明治39年10月現在』には毛筆画・用器画担当 の教員として名がある。また,『図画教育』第14号(明治4ユ年)所収の会員名簿にも福島県立工業学校 教員として入会が記されている。なお,児島明は会津中学の小貫廉の実兄

 本稿執筆あたり多くの諸機関,諸個人に御教示,御協力いただきました。以下に記して御礼申し上げます。

宮城県立仙台第一高等学校および同校川村景三氏,周仙台第二高等学校,同古川高等学校,同角田高等学校,同白 石高等学校,同第一女子高等学校,東北学院高等学校,南光学園東北高等学校,宮城女学院資料室,引綱女学院高 等学校,仙台市立仙台工業高等学校,同仙台商業高等学校,福島県立安積高等学校,同磐城高等学校,同石川高等 学校,同福島女子高等学校,同磐城女子高等学校,同会津女子高等学校,同会津工業高等学校,学校法人石川高等 学校。宮城県図書館,同美術館,福島県立図書館。小泉晋弥助,吉田千鶴子氏。

(5)

133 一一 134

明治5 6    7    8    9    10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21   22   23   24   25   26   27   28   29   30   31   32   33   34   35   36   37   38   39   40   41   42   43   44   45

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宮城県

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第エ図 宮城県の図画教員勤務一覧1

(6)

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第2図 宮城県の図画教員勤務一覧ff

。校名は原則として,多くは地名を冠した明治末年時の名称で統一した。校名の変遷は繁雑になるので

。記入していない。創立と廃校の時期は縦の二本線で示した。

。実線は勤務の期間を示し,その両端の数字は着任と離任の年月を示す。端が矢印の場合は,その時点ま での勤務が確実なことを示す。

・破線はその附近の勤務と思われる場合,また勤務は確実でも図画担当が不確実な場合を示す。

。人名の後または下の括弧内には修学校名あるいは師匠名を記入した。数字は卒業または終了の年月。

複数箇所に学んでいる場合は,原則として後の方を記入。ただ,重要と思われる場合,前の方や複数 を記入した。

出身校名の略記

(工美画)………工部美術学校画学科

(東美特)………東京美術学校特別ノ課程

(東美絵)………東京美術学校絵画科

(東美日)………東京美術学校日本高科

(東美西)………東京美術学校西洋画科

(東美図講)……東京美術学校図画講習科 その他は以上の要領に従って略記。

(京府西)…… 京都府画学校西宗

(京市美)………京都市立美術学校

(東工)……… 東京工業学校

(引写)……… 東京師範学校

(東高師手)……東京高等師範学校手工専修科

(東高師井手)・凍京高等師範学校図画手工専修科

(7)

137〜ユ38

明治5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 2e 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45

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第3図 福島県の図画教員勤務一覧

参照

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