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舟橋聖一『北村透谷』

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舟橋聖一『北村透谷』 昭和初期における透谷受容の一面

早   川   元   将

  一九四〇(昭和十五)年一月、舟橋聖一は『文学界』(第七巻第一号)誌上で、「歴史の一枚」と題した連載を開始した。タイトルが「北村透谷」へと改められる (1)のは同年六月のことである。翌年の六月まで、一度の休載 (2)を挟む全十七回で連載を終え、四二年一月には『北村透谷』(中央公論社)として単行本化された。一九六九(昭和四十四)年には再販(日本ソノ出版)もなされているが、この作品に対する言説は非常に少ない。あまり活発とはいえない舟橋研究においてはもちろんのこと、透谷研究者によっても中心に据えて論じられたことはなかった。その最大の理由は、勝本清一郎の次のような批判に端を発する。

  透谷の像はゆがめられ、その醜悪化されたものがかえって神聖な像として、戦争協力の神がかり的な精神主義・ローマン主義に悪用された。透谷の真実の立場にとって、これほどひどい侵害と汚辱はないであろう。舟橋聖一の小説「北村透谷」などがそういう役割を演じた。しかもその作たるや、不勉強きわまる間違いだらけの知識の上に、ほしいままにでッち上げられたものであった。透谷会なるものを作った中河与一は透谷の名で富豪に寄附をさせ、次は透谷賞という名でその金を自分のふところに入れた。透谷の精神とはおよそ正反対の精神の男に、透谷の名が盗用されたの

(2)

である。 (3)

  勝本のスタンスは「透谷の真実の立場」という一言に尽きる。実証的な調査・研究を旨とする勝本にとって、恣意的な創作に満ちた『北村透谷』は「間違いだらけ」の「でッち上げ」でしかない。舟橋が描いた透谷像など、勝本にとっては「透谷会なるもの」の怪しい動きと同一視されるべきものだった。以来珍しく『北村透谷』の名が持ち上がると、決まって勝本の主張が踏襲されている (4)。平岡敏夫は『北村透谷』の記述を、「舟橋説」として参考にすることもあった (5)。しかし結局は「これ以上の具体的事実をいま知るよしもない」とか、「推定は困難だと思う」などの言辞から明らかなように、仮定されうる透谷周辺の出来事という域を出ない。すなわち『北村透谷』は、戦後長らく否定的なバイアスの下にあり、そうでない場合にも、事実か虚構かという基準でしか俎上に載せられなかった。

  七十年代に入り、はじめて『北村透谷』を客観的に捉えたのは東郷克美である。東郷は戦前の透谷研究史を概説するなかで、「かなりの調査研究も含み「伝記と小説の中間的存在」(「序」)である舟橋聖一氏の『北村透谷』も刊行された」 (6)と位置付け、「「透谷会」なるもの」によって「透谷が歪められ」たこととは、明確に区別している。この見解は小沢勝美によって肯定され (7)、鈴木一正も「当時の研究の水準から見れば、伝記としてはかなり綿密に調査がなされており、小説としても面白い読物となっている」 (8)と評価している。

  また七五年に発表された江木文彦の「北村透谷と髪の毛」 (9)と題する作品には、『北村透谷』の第一章を剽窃した疑いがある。この疑惑は中山誠に指摘され、濱竜治によって厳しく追及されたものの

)(1

(、江木側からのリアクションはなく、真相を探ることには意義を見出しにくい。ただ中山が『北村透谷』について、「戦前に書かれたものとしては非常に面白いし、かれの透谷への視点がうかがえて意義のあるものだった」と称揚しながら、剽窃によって「透谷がけがされた」と感じているのは興味深い。中山による江木批判は、かつて勝本が舟橋を「透谷の真実の立場」に対する「侵害と汚辱」として批判した

(3)

論法とそっくりであるにもかかわらず、中山の評価は『北村透谷』の提示した透谷像を許容しているのだ。

  東郷によって相対化され、「面白い」という好意的な評価が散見された七十年代だったが、その評価を引き継いで、『北村透谷』を再検討する機会は今日まで設けられなかった。剽窃の疑惑が持ち上がったのが、舟橋の亡くなる一九七六(昭和五十一)年前後であるにもかかわらず、大きな議論を呼ばなかったこと自体が作品の影の薄さを物語っている。七六年といえば、勝本の『透谷全集』(岩波書店)における恣意的な校訂を疑問視する研究者たちによって、より精度の高いテクストクリティークが施された『北村透谷集』(筑摩書房)が刊行された年でもある。勝本が作り上げたテクストに厳しい眼差しが向けられ、初出に立ち返る動きは活性化した。一方で、勝本によって否定された戦前の透谷研究の再検討は近年ようやく現れ始めており、本稿もその流れを汲むものである。

中は『三田文学』の雑誌紹介欄において、計九回言及されている   『北村透谷』に対する研究が皆無に等しい状況にあることは、発表当時に読者を得ていなかったことを意味しない。連載

)((

(。序盤は先行きを不安視する声も散見されるが、中盤以降は「今年での最も良い仕事の一つになるであらう」 )(1(とか、「こんな手掛のない題材に対してよくも一つの距離を保つて看通してこれた」 )(1(など、概ね肯定的である。ほかに『文学者』の三上秀吉も、生前の透谷周辺を「非常にわかり易くかいてくれてゐる」と述べており

)(1

(、連載誌である『文学界』の同人以外からも注目されていたことがわかる。

  単行本化を受けて、『新女苑』誌上で五頁にもわたる書評を寄せているのは亀井勝一郎だ。亀井は「舟橋聖一氏の新著「北村透谷」は、近頃最も感動して読んだ伝記小説である」と書き始め、「舟橋氏のこの本は、[中略]今日の読者に深い感銘を与へずにはおかぬであろう」 )(1(と絶賛する。ただ一点、「透谷の小田原における少年時代の描写など、いさゝか新派悲劇じみたところがあつていやらしい」と難色を示している。この点は岩上順一も同様で、「小田原の少年時代に於けるおせん、フレンド女学校に於ける富井、明治女学校の斎藤冬等の女友との関係は全くくだらぬ彩色だ」 )(1(と一蹴する。岩上は色恋沙

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汰に取り囲まれた甘い透谷像ではなく、「透谷の時代に対する不調和の悲劇」という厳しさを求めていたようだ。それでも透谷と美那子との恋愛模様や、明治『文学界』周辺の雰囲気を描写し得ている部分は評価している。

  同時代評からは、透谷が文学的な活動を行った時代に対する強い興味が読者にはあり、『北村透谷』がそれに応えていたことと、過剰に書き加えられた恋愛関係の部分が不評だったことがうかがえる。ある部分では読者の期待に応えていた『北村透谷』は、どのような経緯で成立したのだろうか。

  これについて舟橋は、いくつか発言を残している。まず連載の第一回を掲載した『文学界』の巻末には、「ことしは、ひとつ、北村透谷を書くことにした。本文でもことはつた通り、こんどは小説で行かうと思ふ。といつても、随分変わつた形の小説で、小説と伝記の合の子のやうなものになる」 )(1(と、意気込みとともに形式に対する配慮が述べられている。続いて勝本清一郎、神崎清、塩田良平、吉田精一らが透谷を研究していることに触れ、「こんどから、僕も其仲間に入るわけだが、これといふ資料の乏しい処に、少からぬ難渋が、予想される。正直なところ、当つて砕けろといふやうな気持で、向つていくほかはないのである」という見通しを示している。「資料の乏しい」なか、舟橋が既存の資料や先行研究を踏まえて執筆しているという前提は、『北村透谷』のセールスポイントになっている。事実、単行本が刊行された際の新聞広告では、「在来の透谷論に慊 あきたりぬ著者は、乏しい文献を発掘し環境家系時代の一切を究明し、近世と現代の潮目に立つて悪戦苦闘竟に殪れた天才の記念像を打ち立てた」

)(1

(と宣伝される。あたかも研究書のような印象を受けるのは、この広告に「小説」や「伝記」という文言がなく、「北村透谷・舟橋聖一」とだけ明記されているためだろう。

  だが、あくまでも舟橋の意図は、単行本の「序」に表れている。すなわち「こんどの作品は、厳密な意味では、伝記とは、いい憎い。可成りに、私の創作家としての作用が、はたらいてゐる」のであり、「伝記と小説の中間的存在」という言い回しに改まってはいるが、連載当初からの「小説と伝記の合の子」という自覚は変わっていない。舟橋には起稿から擱筆まで、資料によって担保された「伝記」の部分と、味付けのために創作した「小説」の部分との差異が、常に意識されていた。

(5)

  国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」上で公開されている『北村透谷』の奥付裏には、署名「永田勝男」とともに、「昭和十七年二月十三日朝日紙上ノ広告ニヨリ本書ノ刊行ヲ知リ即日巌松堂ニ註文ス翌日入手内容伝記小説ナリシヲ以テ安堵セリ」という書き込みがある

)(1

(。これは一読者の感想に過ぎないが、「伝記小説」であることが第一に喜ばれているのは意味深長である。亀井勝一郎も「伝記小説」という言葉を自然に用いていたように、「伝記と小説の中間的存在」であることに引っ掛かりを覚える読者は見られない。その一方で、舟橋が「伝記」と「小説」とをいかに意識し、どのように把握していたかについては、『帝国大学新聞』に掲載された「創作メモ」が参考になる。

  〇  岩野泡鳴伝は純粋の伝記だつたが、今度の北村透谷は、小説で行くことにした。しかし、小説だからといつて、嘘を書かうといふのではない。小説を志し、小説を学んで、今日まで来た私は、小説だと心得て原稿紙に向ふ方が、精神が緊まるからである。[中略]

  〇  資料は労力を惜しまず、集めなければならぬ。泡鳴伝のときは、材料が豊富で、まとめるのに骨が折れる位だつたが、こんどは資料の乏しい点で、明治文豪中、最も条件が悪い。

)11

  舟橋は「北村透谷」の連載より二年早く、『岩野泡鳴伝』を書き上げている

)1(

(。「泡鳴伝は純粋の伝記だつた」という自負が、「北村透谷」の「伝記」としての純粋性を相対的に低下させ、反対に「小説」の性格を高めている。『北村透谷』に比べて『泡鳴伝』が「純粋の伝記」となった理由は、そもそも舟橋が「岩野泡鳴の小説及び小説論」と題する卒業論文で東京帝国大学国文科を卒業しており、泡鳴への造詣が深かったことに起因する

)11

(。『泡鳴伝』は「厖大精確な資料と深淵なる研究に依り筆を起してより十年」

)11

(と謳われるほど、念入りな下準備の上に成立した著作である。だからといって『北村透谷』が、「資

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料の乏しい」というやむを得ない都合だけで「伝記と小説の中間的存在」に留まったわけではない。『文学界』誌上で連載していた「泡鳴伝」を脱稿した直後の舟橋は、次のような感想を残している。

  武田[麟太郎]君。元気ですか。僕は、二三日前にやつと泡鳴伝を書き上げた。詳しく勘定もしてみないが、全部で千枚未満になるかと思ふ。

  長い間の肩の荷を下ろしたやうな気持だが、その割に、大して爽快な気分でもないのは何故だらう。[中略]

  たゞ、作家としては、やはり、この種の仕事よりも、たとへ、三十枚の短編でも、いい小説の書けた方が、心の底からこみ上げてくる喜びがあるのは止むを得ないと思ふ。

  無論、僕は泡鳴に喰ひ下ることによつて、随分と文学の勉強はした。[中略]―しかし、僕はやはり、何たる因果か、小説を書く方が、十倍も苦しく、そして又、十倍も愉しいのを如何せん。

)11

をやり過ごす手段だったと解釈している 脱した」と記している。この記述から佐伯彰一は、『泡鳴伝』や『北村透谷』のような一連の「伝記」は、舟橋がスランプ )11( 一九三六(昭和十一)年五月にスランプに陥り、一九三八(昭和十三)年に「「木石」を「文学界」に発表してスランプを   「伝記」への挑戦を終えた舟橋には、「小説」を書きたいという欲求が再燃していた。舟橋は自身が監修した年譜の中で、

)11

(。だがここで、舟橋が「伝記」というジャンルに初めて取り組んだきっかけの一つとして、同時代における「伝記」の流行を無視するわけにはいかない。

  中村光夫は日本の近代文学おける「伝記」に高い評価を与えていないが

)11

(、研究雑誌『伝記』

)11

(の創刊に象徴されるように、昭和十年代には文学者の「伝記」が多く執筆された。そのような傾向に対して川端康成は、「明治の文学に対する一種の敬ひやあこがれが、近頃また新たに興つて来たらしい」と考え、森銑三は「事変後出版物の健全性が特に強調せられる結果

(7)

であらう、伝記書類の刊行が際立つて多くなつてゐる」と見ている

)11

(。「伝記」の流行が、スランプ中の舟橋の背中を押したであろうことは想像に難くない。そして「泡鳴伝」を書き上げた著者が「大して爽快な気分でもな」かったこととは裏腹に、舟橋の「伝記」は高い評価を受けた

)11

(。

  この成功が次の「伝記」に着手する動機にはなるだろう。ただし舟橋は、「泡鳴伝」の執筆中に「小説」をまったく書かなかったわけではない。それどころか「泡鳴伝」の完結から「北村透谷」の連載開始までのあいだに雑誌掲載された「木石」と「母代」は、発表から一年足らずで映画化されるほどの人気を博した「小説」だ

)1(

(。「伝記」よりも「小説」を書きたいという舟橋の願望は、名実ともに叶えられていたのである。このまま「小説」だけに注力することもできたはずの舟橋が、なぜ「北村透谷」を扱うことにしたのかについては、当時の明治文学研究の隆盛に目を向ける必要がある。

  東京帝大系の近代文学研究グループ「明治文学会」が発足したのは、一九三一(昭和六)年十二月のことである。舟橋はこの「文学会」設立時の「役員」の一人に名を連ねている

)11

(。ところが「文学会」は、設立直後に神崎清と塩田良平とを中心に内部対立を起こし、神崎らのちに「明治文学談話会」(一九三二年八月発足)に集うメンバーが退会した。「文学会」と「談話会」とを「妙な関係」と述べているのは高田瑞穂である。高田は「文学会」に留まっていながらも、「酒井森之介の属する談話会の例会にもよく出掛けた」と回想している

)11

(。逆の立場の酒井もまた、「実際は柳田泉氏・片岡良一氏の古参格をはじめ、学校を出て間もない年層のかなり多くが、両方の会を往来して」いたと、同様のことを述懐している

)11

(。

  舟橋は高田や酒井のような記述を残してはいないが、状況はさほど変わらなかっただろう。舟橋の原稿が「文学会」の機関紙である『明治文学』や『リーフレット明治文学』にのみ掲載され、「談話会」が発行する『明治文学研究』には見られないことから、舟橋は「文学会」に残留したと推測される。とはいえ「文学会」に所属しながら「談話会」にも顔を出していた高田が、やはり「文学会」の機関紙でしか執筆していないことから、舟橋もまた「両方の会を往来して」いても

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不自然ではない。

だと考えられる。 ほどである。戦前の透谷研究において重要な役割を果たした「談話会」の動向は、舟橋が透谷へ接近するきっかけの一つ 資料や同時代人の回顧録は、『北村透谷』にも活用されており、第三章には「明治文学研究」という雑誌名が登場している これが翌年四月の『明治文学研究』における「特輯北村透谷号」へと結実する。この号に掲載された透谷に関する新発見   「談話会」を牽引する神崎清は、一九三三(昭和八)年の九月から十二月にかけて「北村透谷研究会」を計四回開催し、

偏重に対する疑問と、明治文学研究の進歩を歓迎する旨を述べている   「文学会」が発足した年の八月、舟橋は塩田良平の『明治文学史抄』(一九三〇年、大鐙閣)を批評して、実証主義への

)11

(。ところで『明治文学史抄』には「北村透谷」の章立てがあり、塩田は同年六月に『岩波講座

日本文学 北村透谷』

(岩波書店)を上梓したばかりなのだが、書評する舟橋は、具体的な作家や作品について言及していない。一九三一(昭和六)年の時点ではまだ、明治文学に対する舟橋の興味は漠然としていた。また同じ文中で、「教科書用に併用するため、引用文が多すぎ」ることを指摘している舟橋が、翌年から立て続けに高等教育(大学講義)用教科書を編纂しているのは示唆的である。そしてこれらの教科書にこそ、舟橋の関心が近代文学全体から透谷へと絞られていく過程を辿ることができる。

  一九二八(昭和三)年に東京帝国大学国文科を卒業した舟橋は、明治大学予科講師の職を得て教壇に立ち、三二(昭和七)年に同校が文科専門部を開設すると、明治大学文芸科講師に着任した

)11

(。この文芸科が開設した年から四二(昭和十七)年にかけて、舟橋は七冊の教科書を手掛けている。このうち『方丈記新講』(一九三三年、三省堂)と『明治小説新選』(一九三四年、三省堂)を除く五冊で、透谷作品が採用されている点に注目したい。

  最も早いものが、「北村透谷」の連載に八年先立つ『明治文学新選』(一九三二年、大倉廣文堂)である。透谷の短い「略

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傳」と、頭注を付した「鬼心非鬼心」の全文を収録している。頭注は二つしかないものの、他の収録作品の注と比べて少ないというわけではない。この翌年に『明治文学新選』の収録作から精選(一部作品変更)した『明治文学新講』(一九三三年、三省堂)でも、透谷を残している。「略傳」は細部を変更して流用され、「鬼心非鬼心」が抄録されている。こちらでは本文が半分程度しか掲載されていないものの、詳細な語釈と口語訳が追加されている。続いて半年後の『明治文芸評論』(一九三三年、三省堂)では、「内部生命論」の後半と簡易な「評傳」とを収め、主として外国語に脚注を付している。その後『近代日本文学』(一九三七年、中興館)では、「内部生命論」の終盤部分と「鬼心非鬼心」の全文を収録し、「略傳」(『明治文学新選』のものと同一)と後注を付し、「参考」として島崎藤村と小林秀雄の文章を引用している。この三年後に「北村透谷」の連載を始め、その単行本化と同年に『明治文学選』(一九四二年、三省堂)を刊行した。本書では二頁にわたる「略歴」(ただし後半は藤村の回想からの引用)と「富嶽の詩神を思ふ」の全文を載せ、主として人名に脚注を施している。

  このうち、一番はじめの『明治文学新選』について石川巧は、「編者の嗜好性が如実に反映され」、「「小説神髄」の出現から自然主義の隆盛までを重点的に描い」た点において「画期的な教科書」であると評価している

)11

(。ただし石川は、舟橋を一貫して「作家」としてのみ捉えているため

)11

(、なぜ「画期的な教科書」を編むことができたのかについては素通りしてしまっている。しかしながらこれまで述べてきた通り、舟橋聖一は精力的に創作活動を行いながら大学教員も務め続けていた稀有な作家である。舟橋は「この一年、自分で編著した明治時代文学に関する教科書を使つて見て、[中略]学生の研究心をつかめると、信じられて来た」 )11(とも述べている。作家として大学に籍を置いているだけとか、教科書の編纂代表として名前を貸しているだけということでもない。一連の教科書は、編著者の興味関心を基礎として構成されながらも、学生の反応を直に受け取った舟橋自身によって改良されていく点に大きな特徴があった。そのようなテクストとして透谷が繰り返し再録されたことは、透谷作品が「学生の研究心をつか」むに足る魅力を持ち続けていたことを意味している。

  これらに加え舟橋は、学生と同年代かそれより若い読者に向けた近代文学案内として、『文学と青年』(一九四二年、潮

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文閣)を上梓している。その第二部「作家論」には高山樗牛や樋口一葉に続いて、やはり透谷の章立てが設けられている。特徴的なのは、この透谷の章が『北村透谷』本文からの引用

)11

(のみで構成されていることだ。これを舟橋の手抜きやおごりとみなすのは間違っている。「作家論」と題して透谷像を伝える上で、舟橋が最も相応しいと判断した場面が抜き出されているとみてよいだろう。引用された場面で主題となっている透谷作品は、「秋窓雑記」と「富嶽の詩神を思ふ」である。ここで「秋窓雑記」が、旧制中等教育の国語科教科書に最も多く採用された透谷作品だということが想起される

)1(

(。二番目に採用回数の多い作品が「富嶽の詩神を思ふ」だということも勘案すると、当時の若い読者が馴染みやすい作品が取り上げられているともいえる。

創作意欲および技術があり、『北村透谷』は「伝記と小説の中間的存在」として戦略的に作り上げられたといえる。 ランプをやり過ごす手段として低く見積もられがちだった。しかし舟橋には教員としての十年間の蓄積と、作家としての を享受する一方で、次の世代に透谷作品を教授する立場にもあった。これまで『北村透谷』は、不勉強なでっち上げやス 間見ることができた。それは著者の舟橋聖一が、作家と教員の二つの顔を持っていたためである。舟橋は最新の透谷研究   『北村透谷』が成立した背景を探ることで、昭和初期の近代文学研究と大学教育の現場における透谷の受容のされ方を垣   ところで舟橋は、一九四三(昭和十八)年十月の『読売新聞』に、「国の有事と文学」という連載を四回掲載している。この第三回で透谷の言葉と『方丈記』を取り上げつつ、「文学報国の道」を説いている舟橋の論調は極めて時局的だ。『文学と青年』の序文にも全体主義的な傾向が表れており、「富嶽の詩神を思ふ」の評価がナショナリズムに偏重している点は、勝本から「戦争協力」と捉えられても否定できない。ただその点については、「富嶽の詩神を思ふ」の国粋主義的な評価がどこから発生したのかを見極める必要がある。なぜなら舟橋が教科書に掲載した透谷の略伝に、「富嶽の詩神を思ふ」が記載されたことは一度もないからだ。当初舟橋が着目していた作品は、「鬼心非鬼心」と「内部生命論」である。特に「鬼心

(11)

非鬼心」は現在でも注目されることの少ない作品であり、戦前の「鬼心非鬼心」の扱われ方を検証することは、透谷作品の忘れられた評価軸を掘り起こすことにつながると予感する。

註(引用に際して旧漢字はすべて新字に直した)

1)   舟橋聖一「改題と病気」 『文学界』第七巻第六号、一九四〇(昭和十五)年六月

   「「 歴 史 の 一 枚 」 は 序 章 の 小 題 の つ も り 」 で、 「 原 稿 に は「 北 村 透 谷 」 と し て 出 し た こ と も あ つ た が、 編 輯 部 の 方 で、 前 の 題 を 踏襲してゐた」 。しかしタイトルの誤植が多かったため、 「結局、改題することにした」 。 (

2)  

河上徹太郎「文学界後記」

『文学界』第八巻第四号、一九四一(昭和十六)年四月 『文学界』第八巻第四号を「新人創作特輯」としたため。 (3)   勝本清一郎「透谷の文学的立場」 『東京民報』一九四八(昭和二十三)年一月十五日 ( 4)   小 田 切 秀 雄「 透 谷 と の 出 会 い 」『 近 代 文 学 研 究 必 携 』( 一 九 六 三 年、 学 灯 社 )、 北 川 透「 〈 他 界 〉 と そ の 眼 」『 ピ エ ロ タ 』 第 十 五 号 (一九七二年) 、平岡敏夫「一輪花の咲けかしと」 『群馬県立女子大

国文学研究』通巻二十八号(二〇〇八年)など。

( 5)   平 岡 敏 夫『 続 北 村 透 谷 研 究 』( 一 九 七 一 年、 有 精 堂 出 版 ) 所 収 の「 透 谷 の 家 系・ 家 族・ 環 境 」、 「 透 谷

  (6) 東郷克美「解説 など。

の「 恋 愛 」 の 行 方 」

―北村透谷研究史への素描―」日本文学研究資料刊行会

編『北村透谷』

(一九七二年、有精堂出版) (7)   小沢勝美「昼寝の隙を見て起草す但し当分清書せぬ者に候

―『富士山遊の記臆』の奥書より―」

『日本文学』第二十七巻第 七号、一九七八(昭和五十三)年七月 (8)   鈴木一正「主要参考文献・解題」 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 (一九七九年五月、旺文社) (9)   江木文彦「北村透谷と髪の毛」 『小田原わが街』通巻五号、一九七五(昭和五十)年二月 (

10)   中山誠 「いま小田原で――時評的架空対談――」 『小田原地方史研究』 通巻七号、 一九七五 (昭和五十) 年十一月/濱竜治 「舟

(12)

橋聖一の 『北村透谷』 を剽窃した江木文彦の 『北村透谷と髪の毛』 について」 『風』 (第二次) 通巻三号、 一九七六 (昭和五十一) 年九月 (

( 11)   「 《今月の雑誌》文学界」 『三田文学』一九四〇(昭和十五)年三、五、六、七、八、十一月、翌一、七月

( 12)   「 《今月の雑誌》文学界」 『三田文学』第十五巻第六号、一九四〇(昭和十五)年六月

( 13)   「 《今月の雑誌》文学界」 『三田文学』第十六巻第七号、一九四一(昭和十六)年七月

( 14)   三上秀吉「文芸時評」 『文学者』第二巻第十二号、一九四〇(昭和十五)年十二月

( 15)   亀井勝一郎「黎明の先駆者」 『新女苑』第六巻第五号、一九四二(昭和十七)年五月

( 16)   岩上順一「時代的精神の探求―最近の伝記文学―」 『読売新聞』一九四二(昭和十七)年四月二十八日朝刊四面

( 17)   舟橋聖一「 〈六号雑記〉無題」 『文学界』第七巻第一号、一九四〇(昭和十五)年一月

( 面 18)   広 告「 北 村 透 谷・ 舟 橋 聖 一 」『 読 売 新 聞 』 一 九 四 二( 昭 和 十 七 ) 年 二 月 十 一 日 朝 刊 一 面、 『 東 京 朝 日 新 聞 』 同 十 三 日 朝 刊 一

:0920017947

号 ) 19)  

http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_YMNK-00902

( 二 〇 二 〇 年 一 月 六 日 参 照 )、 山 梨 大 学 附 属 図 書 館 近 代 文 学 文 庫 所 蔵( 請 求 記    書き込みを残した元々の所有者と同姓同名の人物として、 永田勝男 (一九〇七~六一年) を挙げることができる。一九三七 (昭 和十二)年以降、 横浜専門学校と神奈川大学で国文学や日本文化史を教えていた経歴を持ち、 学生新聞『横専学報』には「漱 石 と 明 治 の 精 神 」 と 題 す る 論 考 の 掲 載 も あ る( 参 考

( 史講義案』 〉」 『神奈川大学史紀要』第四号、二〇一九年三月) 。

: 後

田 多 敦「 【 資 料 紹 介 】 神 奈 川 大 学 資 料 編 纂 室 蔵〈 永 田 勝 男『 日 本 文 化

( 20)   舟橋聖一「歴史の一枚覚書―創作メモ―」 『帝国大学新聞』一九四〇(昭和十五)年二月五日七面

21)   「岩野泡鳴伝」

(全二十五回) は、 一九三六年七月の 『文学界』 (第三巻第七号) から連載が開始された。単行本 『岩野泡鳴伝』 (青木書店)は、一九三八年七月に「上」 、同年十二月に「下」が刊行された。 (

した小論を展開している。一方で北村透谷に関する同様の言及を見つけることはできない。 22)   舟 橋 は「 岩 野 泡 鳴 伝 」 の 連 載 を 開 始 す る 以 前 に も、 『 国 語 と 国 文 学 』、 『 近 代 生 活 』、 『 新 潮 』 等 の 誌 上 で、 岩 野 泡 鳴 を 主 題 と

(13)

23)   広告「舟橋聖一著

岩野泡鳴伝」

『東京朝日新聞』一九三八年七月七日朝刊一面 (

( 二面 24)   舟 橋 聖 一「 《 往 信 復 信 》 武 田 麟 太 郎 氏 へ 小 説 の 六 ケ し さ に 就 い て 」『 読 売 新 聞 』 一 九 三 八( 昭 和 十 三 ) 年 十 一 月 十 六 日 夕 刊

( 25)   長谷川力(舟橋聖一監修) 「年譜」 『舟橋聖一選集』第十三巻(一九六九年、新潮社)

26)   佐伯彰一「舟橋聖一伝」 『現代日本文学館

34舟橋聖一』

(一九六七年、文藝春秋)

   こ う し た 一 連 の ノ ン・ フ ィ ク シ ョ ン 物 は、 氏 と し て「 ス ラ ン プ 」 を や り す ご す 手 段 だ っ た か も し れ な い が、 こ う し た 記 録 と 歴史への沈潜はそのまま受けつがれて、戦後の舟橋氏に数多い歴史小説を書かしめる原動力ともなっている。 (

27)   中村光夫「伝記」 『日本近代文学大事典』 (一九七七年、講談社)

   私 小 説 を 含 め て 考 え れ ば、 わ が 国 の 近 代 文 学 に お け る 自 叙 伝 は、 独 自 の 発 達 を と げ た と 見 ら れ る が、 他 人 を 扱 い、 そ の 偉 大 さ を   欠 点 と と も に 浮 彫 り す る 伝 記 は( 前 述 の よ う に 遺 族 の 記 念 事 業 と 化 し た 事 情 も 手 伝 っ て ) 貧 弱 と い う ほ か は な い。 こ れ は 文 学 者 が 文 学 以 外 の 世 界 に 興 味 を 持 た ず、 そ こ に 生 き る 人 々 に 無 関 心 で あ る と い う わ が 国 の 精 神 風 土 に も と づ く 現 象 で ある。 (

28)   『

伝 記 』 は 一 九 三 四( 昭 和 九 ) 年 十 月 か ら 一 九 三 七( 昭 和 十 二 ) 年 十 二 月 ま で、 全 三 十 九 冊 が 刊 行 さ れ た。 時 代 や 分 野 を 問 わず様々な人物を取り上げているが、 一九三六(昭和十一)年七月(第三巻第七号)には、 「明治文学者特輯」を組んでいる。 (

( 売新聞』一九四二(昭和十七)年十一月五日朝刊四面 29)   川端康成 「二つの伝記小説」 『東京朝日新聞』 昭和十二 (一九三七) 年十二月十八日朝刊七面/森銑三 「何を読むべきか」 『読

30)   『

読 売 新 聞 』 紙 上 で は 正 宗 白 鳥、 三 好 達 治、 中 村 武 羅 夫、 岡 本 か の 子、 『 東 京 朝 日 新 聞 』 紙 上 で は 小 林 秀 雄、 阿 部 知 二 が 絶 賛 し た。 ほ か に『 国 語 と 国 文 学 』、 『 三 田 文 学 』、 『 文 学 界 』、 『 文 芸 』 誌 上 に 書 評 が 掲 載 さ れ た。 ま た 後 に 小 田 切 秀 雄 は、 「 舟 橋 さ ん に は、 後 に 伝 記 小 説 で、 「 北 村 透 谷 」 と「 岩 野 泡 鳴 」 と 二 つ あ る ん で す け ど ね。 「 岩 野 泡 鳴 」 の ほ う が 格 段 に い い の で す 」 と述べている(座談会「新興芸術派のころ」 『風景』一九七四年六・七月号) 。 (

31)   「

木 石 」『 文 学 界 』 第 五 巻 第 十 号、 一 九 三 八( 昭 和 十 三 ) 年 十 月。 単 行 本 化 と 戯 曲 化 を 経 て、 一 九 四 〇( 昭 和 十 五 ) 年 八 月 上映(監督 ・ 五所平之助) 。舟橋作品を原作とする映画は三十作を越えるなかで、 「木石」が最初の映像化作品である。/「母

(14)

代」 『文学界』第六巻第九号、一九三九(昭和十四)年九月。一九四一(昭和十六)年二月上映(監督・田中重雄) 。 (

( 32)   神崎清「明治文学会の状況」 『国語と国文学』第九巻第七号、一九三二(昭和七)年七月

( 33)   高田瑞穂「近代文学研究の思い出」 『日本近代文学』第十二集、一九七〇(昭和四十五)年五月

34)   酒井森之介「明治文学談話会の頃」 『国文学

解釈と教材の研究』第十巻第五号、一九六五(昭和四十)年四月

( 35)   舟橋聖一「明治文学史抄を読みて」 『国語と国文学』第八巻第八号、一九三一(昭和六)年八月

( (一九三〇~三三年)や東京家政学院講師(一九三七年、翌年から教授)も兼任している。 ~( 五 五 年 の 予 科 廃 止 ま で か )、 明 大 文 芸 科 講 師・ 一 九 三 二 ~ 三 七 年、 明 大 教 授・ 一 九 三 八 ~ 七 四 年 )、 戦 前 は 拓 殖 大 学 講 師 36)   舟 橋 は 大 学 教 員 と し て、 死 の 前 年 ま で 明 治 大 学 に 属 し た が( 明 大 予 科 講 師・ 一 九 二 八 ~ 三 二 年、 明 大 予 科 教 授・ 一 九 三 三

( 37)   石川巧「戦前における〈近代文学〉の教科書」 『日本文学』第六十三巻第一号、二〇一四年一月

38)   註(

( 講義について強い関心を持ち続けた作家 」として説明される(傍点引用者) 。

00

37)。 「 近 代 文 学 を 専 攻 し た の ち、 作 家 と し て 活 躍 す る よ う に な っ て い た 舟 橋 聖 一 」 や、 「 高 等 教 育 に お け る 近 代 文 学 の

00

39)   舟橋聖一「明治文学と国語教育」千葉春雄

編『国語教育の科学的研究』

(一九三三年、厚生閣) (

( 40)   具体的には、第七章一節、第七章三節、第八章二節。

41)   田 坂 文 穂

編『

旧 制 中 等 教 育 国 語 科 教 科 書 内 容 索 引 』( 一 九 八 四 年、 教 科 書 研 究 セ ン タ ー) に よ る と、 一 八 八 八 年 か ら 一 九 四 三 年 ま で の 間 に 教 科 書 へ 収 録 さ れ た 透 谷 作 品 は、 「 秋 窓 雑 記 」 二 十 回、 「 富 嶽 の 詩 神 を 思 ふ 」、 「 山 庵 雑 記 」 十 回、 「 眠 れ る蝶」五回、 「一夕観」二回、 「万物の声と詩人」 、「双蝶のわかれ」一回となる。

(文化創造研究科国文学領域博士課程前期二年)

参照

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