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朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 −国際理 解教育における教材開発−

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 −国際理 解教育における教材開発−

著者 田渕 五十生

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 35

号 1

ページ 123‑140

発行年 1986‑11‑25

その他のタイトル Kim So Un and His Book of Korean Folk Lores

"The Man Who Has Planted Welsh Onions"

Teaching Material Development in International Understanding

URL http://hdl.handle.net/10105/2137

(2)

奈良教育大学紀要 第35巻 第1号(人文・社会)昭和61年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol.35, No.1 (cult. & soc.), 1986

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲

‑国際理解教育における教材開発‑

田  測  五十生

(奈良教育大学社会科教育教室) (昭和61年4月24日受理)

Iはじめに

強者に学び、他は無関心をおし通す、これが「脱亜入欧」以来のわが国の文化受容の伝統であ った。それは、童話や民話の翻訳・出版においても当てはまる。遠い北欧の「アンデルセン童 話」は熟知していても、アジアの童話や民話について無関心なのが、われわれの一般的傾向なの である。児童・生徒にアジアへの暖かい認識を得させようとすれば、このような傾向に意図的に 対応していく必要がある。就中、隣国である韓国・朝鮮との間には「相互いに憎み合い、その憎 悪の百分の‑も貢に相手を理解し知るために、心を用いなかった」不幸な過去があり、その後遺 症は今なお癒えていない。

そのように反目し合った時代、両民族を隔てる牢乎な「心の壁」に、生涯挑み続けた一人の詩 人かいたOそれが金素雲(1908‑1981)であった。「ドン・キホーテ」と自喝した彼が携え続け た武器は、「相手文化の尊重」という長槍であった。最近、彼の作品を再録した著作集や自伝が 刊行・翻訳され、彼の行動の軌跡が鮮明になってきた1980年、随筆集『こころの壁』の序文で 彼は自己の文筆活動を顧みて、次のように分類している(1)

㈹民族の古い詩心を日本‑紹介伝達するための口伝童・民謡の採集と翻訳 (B)韓国現代詩移訳

(C)日本の児童たちに、並びに僑胞子弟らのための韓国史物語や伝承童話・民話の出版 (D)主として民族感情の紅齢と摩擦に規準をおいた日本へ向けての発言と随想 (E)終戦後の韓国文学作品(長短篇作家五十人と、詩人百十人)の日訳

(F)韓文による随想、日本を主題とした論説やコラムなど

本稿の目的は、つp)の分野、即ち両民族の相魁と葛藤のなかで、彼が「何をしようとしたか」を 確認して、彼の編訳した『ネギをうえた人』との関係を考察することにある。その成果は、民話 や人間の教材化という視点で、国際理解教育において、新しい教材開発の可能性を示唆するもの と確信している。

Ⅱ朝鮮民話集『ネギをうえた人』

1953年、金素雲編訳の朝鮮民話集『ネギをうえた人』が岩波少年文庫から出版され、翌年、学 校図書館選定図書に指定された。その後、この本は多くの読者を獲得し、28刷と版を重ねて現在 に至っている。内容は、「古い昔から、口づたえに伝わる朝鮮の民話を三十四だけえらん」だも 123

(3)

*e 田 測 五十生

のとして、序文で次のように言及している(2)

降り積む雪の夜のオンドル(温突)で、真夏の夜、蚊やり火のけぶる庭ゴザの上で、おじいさんやおばあ さんにせがんでは、朝鮮の子どもたちが飽かずに聞き入った物語や、野良仕事のあいまを、お百姓さんたち が木陰にあっまっては、語りあい、笑い興じた短い話など、いろとりどりです。"‑*中略一・一つとし て韓国に生まれた人たちののどかなこころのすがたを写してないものはありません。

収録された34舞の民話は変化に富み、日本の民話や世界の民話に共通したプロットも少なくな い。けれども大半が、朝鮮独自の民話で、朝鮮民族の価値観や生活充実感が色濃く反映されてい る。儒生が主人公として幾度となく登場するのは、儒教文化が浸透したソンビ(士)社会を示す もので、「科挙」や「登官」への民衆の憧憶を反映したものであろう。更に四書五経への教養が 重視される点で「桃太郎」や「金太郎」的ヒーローの日本民話と著しいコントラストをなして いる。また、ユーモラスな虎が登場したり、小悪魔トッカビが活躍するのも朝鮮民話の特徴であ ろう(3)

このような朝鮮民話への感銘深い印象を懐きながらも、筆者がこの民話集に接して、先ず疑問 に思ったことは、何故編訳者はこの民話集に『ネギをうえた人』という書名を冠したのかという ことであった。というのも、書名に選ばれた民話は、34篇のなかで極めて短く、ネギが人間と牛 を見分ける秘薬であったという、実に荒唐無稽な物語であったからである。以下、全文を紹介す る。

ネギをうえた人

人間が、まだ、ネギをたべなかったころの話です。

そのころは、よく人間が、人間をたべました。それは、おたがいが、牛に見えるからでした。うっかりす ると、じぶんの親や兄弟を、牛とまちがえて、たべてしまうことがありました。

ほんとうの牛と、人間の見さかいが、ないのですから、こんなぶっそうなはなしはありません。ある人が やっぱりまちがえて、じぶんの兄弟を、たペてしまいました。あとで、それと気がついたときは、もう、取 りかえしがつきません。

「ああ、いやだいやだ。なんて、あさましいことだろう。こんなところに暮らすのは、つくづくいやだ。」

その人は、家をあとにして、あてのない旅に出ました。広い世間には、きっとどこか、人間が人間に見え る、まともな国があるにちがいない。何年かかってもよい。その国をさがしだそうと、そう、心にきめてい ました。

ながいあいだ、あてのない旅がつづきました。山の奥にも、海べにも、いきました。どこへいってみても、

やっぱり人間どうし、たべあいをしていました。

それでもあきらめずに、旅をつづけました。秋や冬を、なんども、おくりむかえました。若かったその人 も、いつのまにか、だいぶ、おじいさんに、なってしまいました。

旅の空で、年をとっているうちに、とうとうその人は、ある見知らぬ国へ、たどりつきました。それが、

ながいあいだ、その人のさがしていた国でした。

そこでは、だれもが、仲むつまじく暮らしていました。牛は牛、人間は人間と、ちゃんとした見さかいが、

ついていました。

「もしもし、あなたは、どこからきなすったかね、そして、どこへ、いきなさるんだね。」

そこの国の年寄りが、旅の人にききました。

「どことい'って、あてがあるわけではありません。」

(4)

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 125

そういって、旅の人は、人間をたべない国はないかと、ながいあいだ、さがしあるいた話をしました。

「まあ、まあ、それはえらい苦労をなすった。なにね、もとは、こちらでも、やっぱり、人間が牛に見え たもんです。それで、しじゅう、まちがいがおこったが、ネギをたべるようになってから、もう、そのまち がいもなくなりましたよ。」

「ネギですって‑。」

その人は、びっくりして、ききかえしました。

「そのネギというのは、いったいどんなものです?」

「こっち‑きて見なされ。あれがネギというものです。」

年寄りは、しんせつに、ネギ畠へあんないして、ネギを見せてくれました。そのうえ、作りかたや、たべ かたまで、くわしく教えてくれました。

その人は、大よろこびで、ネギの種をわけてもらい、じぶんの国‑帰っていきました。これをたべただけ で、人間が人間に見えるようになる‑oそう思うと、一時も早く、みんなに教えたくなりました。遠い遠 いみちのりも、くるしいとは思いませんでした。

やっとのことで、その人は、じぶんのふるさと‑帰りつきました。なにはさておき、まっさきに、やわら かい土の上に、ネギの種をまきました。

ネギの種をまきおわると、安心して、その人は、ひさしぶりに、なつかしい知りあいや、友だちをたずね ました。

だれの目にも、その人が牛に見えました。よってたかって、その人をつかまえようとしました。

「ちがいます。ちがいます。よく見てください。わたくLは、あんたたちの知りあいです。」

そういって、いくら大きな声でいいわけをしても、みんなの耳には入りません。

「おや、おや。なんんてまあ、よく鳴く牛だろう。」

「ほんとうだ。なんでもいいから、早くつかまえてしまえ。」

とうとう、その人は、みんなにつかまえられて、その日のうちにたべられてしまいました。

#

それから、しばらくたってのことです。

畠のすみに、いままで見たことのない、青い草が生えました。ためしに、ちょっとばかりたべてみたら、

よいにおいがしました。

それがネギだということは、だれも知りません。知らないながらも、みんなは、その青い草をたペました。

すると、たべた人だけは、人間がちゃんと人間に見えました。

それからは、みんなが、ネギをたべるようになりました。もう、むかしのように、牛と人間を、まちがえ るようなことも、なくなりました。

ネギをうえた人は、だれからも礼をいわれません。そのうえ、みんなにたべられてしまいました。けれど も、その人のま心は、いつまでも生きていて、おおせいの人をしあわせにしました。

童話集や民話集を上梓する場合、次のような方法で書名を冠するのが一般的であろう。第一は、

抽象的な書名を冠する方法である。例えば、 『三国史記』、 『三国通事』から40篇を集めた朝鮮史 話集に『三韓昔がたり』と名づける場合である。第二は、収録された複数の物語から、最も典型 的、又は有名な物語を選択し、それを書名に冠する方法である。例えば、アンデルセンの童話集

に『おやゆび姫』と命名するケースである。

けれども、このネギ移植評である「ネギをうえた人」は、そのいずれにも該当しないのである。

その人の行為が無償に終ったという物語は、 「善行応報」的発想の強い朝鮮民話の典型ではあり 得ないし、民族特性を示す、 「シカとウサギとヒキガエル」の「年じまん」ほど有名ではない。

にもかかわらず、金素雲は、 34篇の民話の中からこの「ネギをうえた人」を採り上げて、彼の民

(5)

126 田 測 五十生

話集の書創こしているのである。おそらく、金素雲はこの小篇に特別な感慨を懐き、彼にとって 特別な意味を持っていたに違いないであろう。そして格別な想いを託して、書名に冠したものと 考えられる。

しかし、彼は録舌にもかかわらず、その理由については何も言及していないし、既に不帰の国 に旅立った彼に問い乱す術もなくなってしまった。しかし、従来断片的でしかなかった彼の生涯 が、最近刊行された彼の著作集を通して、だんだんと明確になってきた。筆者は、その生涯のな かに『ネギをうえた人』命名の秘密があるのではないかと確信するようになってきたのである。

以下、筆者の推論を展開するため、次節で彼の生涯を検討してみたい0

Ⅱ金素雲という人

「金素雲は巨大な物語そのものであった」と四方田犬彦氏は評する。(4)日韓両国で50冊に達す る著作をなした金素雲の全体像記述は、きわめて困難である。ここでは、彼が日本と韓国・朝鮮 の狭間で「何をしようとしたか」に限定して、彼の生漣をたどってみたい。晩年、彼は「人間の 生き方の上で、『何をしたか?』よりは『何をしようとしたか?』が、はるかに重要な意味を持 つ場合がある」と述懐しているが、(5)彼がなそうとした「夢の軌跡」のなかに、彼の本質が凝縮 されていると考えるからである。

波乱に富む73年の彼の生鮮は、大まかに、次の六つの時期に区分できるo (1)出生から日本渡航に到る少年時代、民族意識の覚醒がなされた時期(1908‑20) (2)民族文化の紹介に志した青年時代、朝鮮民謡の採集と翻訳に努めた時期(1920‑33) (3)朝鮮児童のために、祖国の文化の伝達・継承に退進した時期(1933‑45)

(4)独立・朝鮮戦争を体験した後、韓国から日韓両国民の和解を呼びかけた時期(1945‑‑52) (5)祖国を追われ、日本人の対韓国・朝鮮感情の底にある露骨な偏見から、在日同胞を守り、

それを是正しようとした時期(1952‑65)

(6)帰国後、韓日辞典の編纂や、韓国現代文学の翻訳を通して、日韓の心の梓をつくり出そう とした時期(1965‑81)

以下、それぞれゐ時期、彼が「何をしようとしたか」について、著作の一部を紹介しながら素 描してみたい。

1.少年時代と民族意識の覚醒

金素雲は、1908(明治41)年、釜山郊外の絶影島に、門族の尊敬を一身に集めた大韓帝国度支 部(大蔵省)財務官の長男として生まれた。

0・F氏は、その民族の不幸のただ中に生まれた。国土併合に先立つ二年であるが、事実上では、財政、

外交は日本の手中にあり、彼の祖国は、実質の伴わぬ架空の独立国家であった。二年後に彼の父は、日本と 直結されたその職務のために同胞の手に暗殺され、つづいて国土が併合されたが、その時、彼は数えて三歳 であった<6)

0・F氏とは彼のことである。軍隊解散後、全土に反日義兵闘争が蜂起していた頃であった(7)

併合をひかえて、度支部の官僚が日本と接触なきまま職務が遂行できる筈がなかった。「夜間に

(6)

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 127

は郷党の子弟を集めて国難を説き、愛国歌詞まで草した」(8)彼の父であったが、「日本人とつな がりをもつもの」として、先鋭化した「愛国者」によって「親日家」に仕立て上げられたのであ る。伊藤博文暗殺の年である。

母は、遺児の養育について祖父母と対立し、遠いポーランド国境周辺のロシアの地に去り、孤 児となった彼は、祖父母の庇護の下で小学校に入学する。そのような幼少期、彼の「一生に影響 を与えた、芥子粒ほどの出来事」が起こるのである。

‑幼い日の私の記憶に、こういう一場面がある。

私の生れた牧の島(絶影島)と釜山の市街とは、いまは開閉式の鉄橋になっているが、当時は八トンのボ ンボン蒸気が往復しながら人を運んでいた。ある日、その渡船の中で、私の前に腰かけていた朝鮮の青年が 一人(島でも指折りの知識人であるが‑)、靴履きのまま片肺を膝へのせたという理由で、同じ牧の島の 米常商店という米屋の、十ノし九になる日本人の小僧から、「キクナイじゃないか、バカヤロー!」といい ざま、下駄履きの足で蹴りつけられるという侮辱を受けた。

瞬間、裏白なッルマキ(周衣)を着たその青年が、米常の小僧をつまみ上げて海に投げ込むものとばかり 思ったが、それは物心づかぬ、まだ七つ八つの子供の計算で、当の青年はもとより、渡船に乗合せた朝鮮人 の誰一人、この無法者を制裁する者がない。当人は憤りに顔を其赤に熟らしながらもだまってうつ向き、同 船の白衣族は顔をそむけてあらぬ方に目をやっている。面を真っすぐに向けているのは乗合せた四、五人の 日本人だけである。

米常の小僧を私は憎んだが、それにもまして私は同族のその廉甲斐なさ、意気地なさを憎んだ。「大きく なったら、まっ先に憤る者になろう」‑その日、小さい胸に刻まれたこの誓いは五十を目の前にした今日 只今まで少しも変わるところがない。殺人強盗は恕せても敵性無礼は忽せない一一生きてゆく上に厄介千万 な私のこの損な性格、損な気質は、根をたずねれば四十年前のあの日、米常商店の小僧君から授かったもの だといってよいC9>

この「米常の小僧」は決して例外ではない。この他にも、日本人の‑下士官が、通行中の市民 を殴殺した事件を彼は目撃している。彼らこそ、植民地における典型的な日本人の姿であり、こ のような野郎自大な振舞いが、いかに朝鮮民族の魂に癒しがたい傷痕を残したか想像に難くない であろう。「国のないゆえに無事に死し、あるいは生涯を泥にまみれて空しく朽ちたわれわれ同 族の告発状は、日本の議事堂一つまるまる倉庫に充てても」入りきらぬと彼は代弁している。

幼少期、彼の精神形成に最も影響を与えたのは、狂信的民族主義の叔父であった。8才で漢文 の『越南興亡史』を与えられ、ナポレオン、ビスマルクを心の友として育てられたという。叔父 の計画では、成人に達した暁、彼は「民族のメシア」として「救国の義剣をふりかざす」予定で あった。直接には国を、間接には父を奪った宿敵、日本に対して‑0

2.民族の詩心を伝達・紹介した時期

父を喪った一家は急速に没落していく1920年、小学校卒業直前に彼は伯母を頼って日本に来 航する。流言から朝鮮人6千人が虐殺された関東大震災は、その3年後に起っている。苦学と独 学の期間中、日本人のいわれなき優越感に、彼の民族意識は、ますます掻きたてられる。しかし 一方では、「よき日本人」とも出会うのである。それは、植民地では決して出会わなかった種類 の人達であったという。その一人が西阪保治氏で、「真新しい名刺」というエッセーで、彼との 出会いを感動的に綴っている。それは、彼が大阪で電車の車掌と喧嘩をした時の回想であるが、

(7)

128 田 測 五十生

車掌が朝鮮服の彼をぞんざいに扱ったことへ抗議したことが原因であった。

終点に屯していた運転手や車掌に取りまかれたまま、半ば曳き立てられる格好で私は乗務員たちの詰所へ 連れ込まれた。ほぼ二、三十人‑、殺気立った連中が「やっちまえ、やっちまえ、生意気な野郎だ!」と 喚きながら、ぐるりと私の周りを取り囲んだ。

電車の中ではイキのいい唆珂を切った私も、こうなると多勢に無勢、あわれな捕虜である。いずれはタダ ですまないと観念のホゾをきめたその時、雷のような大声が私のすぐ後ろでした。 「待て!馬鹿者ども!」

振り返ると四十がらみの、背の低い中年の紳士が、満面<朱を注いだ>形容そのままの表情で車掌たちを 呪み据えている。

「この恥知らずども!その人をどうしようというのだ。指一本触ってみろ、このわしが相手になってや る!」

地獄で仏とはこのこと、それよりも私が感動に胸を衝かれたのは、その人の、怒りに燃えた眼に、うっす らと涙が歩んでいるのを見た瞬間である。歯切れのよい言葉の調子や顔つきは、まざれもない日本人で、多 分私と同じ電車に乗合わせていた一人に違いない。

その人は幾分声を和らげながら、呆っ気にとられて突っ立っている制服の連中を見回した。 「・‑事の起 りをわしはこの目で見ている。ゴミや虫ケラじゃあるまいし、金を払って乗ってる客を二本の指先でつまん だら、誰だって腹を立てるのは当り前じゃないか。悪かったら悪かったとなせ素直に謝れんのだ。きみたち は一体、どれほど立派な人間のつもりだ。海山越えて遠い他国へ来た人たちを、いたわり助けは出来ないま でも、多勢をたのんで力ずくでカタをつけようという、それじゃまるで追剥ぎか山賊じゃないか。そんな了 見で、そんな根性で、きみたちは日本人でございと威張っているのか‑‑‑」

殺気にみなぎっていた詰所が、し‑んとして声一つ立てる者もない。いままで歯ぎしりしていた私も、有 難いのを通り越して、何か相済まない気持、謝りたい気持ちで一杯である。

その人は大通りの電車道まで私を連れて出ると、手をとりながらしみじみと言った。

「どうか許してやってくれたまえ、きょうのことは私が代ってお詫びをする。これから先、またどんなイヤ な思いをするかも知れんが、それが日本人の全部じゃないんだからね。腹の立つときはこの私を想い出して

くれたまえ一一」

子供をなだめるようにそういいながら、その人は私の手に一枚の名刺を握らせて立ち去った。

‑ 「日曜世界社長 西阪保治」

それから三十年‑、 ‑しかし、その時の一枚の名刺は少しも汚れずに、いまも私の記憶の中に、真新し いままで保存されている(10)

これは一例に過ぎない。実際、彼は多くの「よき日本人」と出会ったのである。不倶戴天の敵、

憎むべき日本人の中に、 「よき日本人」を発見したことが彼を葛藤させる。 「日本に向って牙を研 ぎながらも、こんな人に考えがおよぶ時、私の闘志は揺らいでしまう」と‑。そのジレンマの 中で、彼は「救国の義剣をふりかざす」代りに、 「民族の踏みにじられた誇りのために、気永く、

根気強く戦う途」を選択させられたのである。それが、朝鮮文化を紹介する「武器なき戦い」で、

民族の古い詩心を翻訳・伝達することであった。彼の桐眼は、日本人の朝鮮民族蔑視の根底に、

朝鮮文化への無知が存在していることを察知していたからであった。

こうして、 「歪められぬ素朴な郷土の詩心と民族のたどった心の歴史」である朝鮮口伝民謡の 採集・翻訳に着手したのであった。作品を書き込んだノートを携え北原白秋の門を敵いたのは、

19才の時であった。白秋は「こんな素晴しい詩心が朝鮮にあったのか」と感嘆し、 "金素雲を紹 介する夕べ"を主催し、彼を文壇に紹介する。一面識もない白秋との劇的な避遍は、自伝『天の

(8)

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金累雲 129

涯に生くるとも』の圧巻である。

1929年、『朝鮮民謡集』(泰文館)が出版されたが、北原白秋序文、岸田劉生木版装画、山田耕作 採譜であった。いずれも当代の一流人士であり、白秋の知遇がいかに厚かったか一目瞭然であろ う。その後、1933年には口伝民謡二千音を集大成した『諺文朝鮮口伝民謡集』を土田杏村の力添 えで、出版している。「カタカナ一字も入らない」ハングル文字で七百貢の大刷で、今なお、韓 国の民族学・方言学研究の第一級資料であるという(ll)

。また、同年、岩波茂雄の知遇で、『朝鮮

童謡選』、『朝鮮民謡逮』を岩波文庫から出版している。こうして、詩人金素雲の名は文壇に知れ 渡っていく。

多くの知遇を受け、「よき日本人」と出会ったことが、彼の人間観を変化させる。「民族の敵、

日本人」というステレオタイプな認識から、「よき日本人」も「悪しき日本人」も存在するとい う柔較な考えに‑。その頃、「‑<人間>それは民族に優先するということ‑。民族のあ

とに人間が生まれたのではなく、人間があってこそ民族がある」(12)という信念を懐いたと告白 している。けれども、その信念は幾度となく裏切られていく。その一つが日本人妻との離婚であ った。理屈では割切れない、業深い民族感情の重さ、宿縁であろう。

3.祖国の児童に語りかけた時代

文壇に登場した金素雲がなそうとしたことは、自己の文名を更に高めることではなく朝鮮児童 のための課外雑誌を発行することであった。朝鮮の児童たちは「アポジ、オモニ」と家では呼び ながら、なれぬ日本語で「オトウサン、オカアサン」と言い換えねば学校で罰を受けた。このよ うな情念の発露を閉ざされ、「情操的栄養失調」に陥っている児童たちに,精神的「潤滑油の一 滴でも」というのが彼の祈願であった。その雑誌は、日本語半分、‑ングル半分であったが、総 督府の管理下で「リンゴ(‑ンブル)一切れのためにドングリ(日本語)」も与えなければなら なかったからである。しかも、「情緒面の記事は‑ングルで、科学記事は日本語で」、と配慮した のであったが、「総督府の御用雑誌」という石碑が背後から飛んできたという。

発行部数4万、全部売れても赤字、「児童世界」、「新児童」、「木馬」と三度も雑誌名が変更し たことが経営難を物語っている。足かけ6年、災大な借金を残して彼の夢は挫折する。その「欺 け戦き」に彼を駆り立てたものは何であっただろうか。次の文章は、彼がこの事業を開始した年、

「朝鮮の児童たちに」と屈した『朝鮮童謡避』の序文である(13)

君たちと郷国を一つにして生れたことは何という倖な偶然であったろう。いや、これは偶然ではない。数 学は‑から始まる。君たちと私のつながりは伝統の‑の単位から始まっている。君たちの呼吸する息吹は、

それは私の息吹だ。君たちの泣き歪めた顔は、それは私の顔なのだ。君たちの憧憶、君たちの幻想、君たち の歓呼、君たちの意欲、さては五体に脈打つ君たちの血潮さえが悉くそのまま私のものではないか。誰がよ くこの根深い約束を断ち阻むことが出来ると思う。

‑中略‑

壊雨に晴衣を濡らすことがあっても、足の運びは早めない‑、そうした「沈着」と「余裕」を君たちの

父祖は人格の本道として愛した。古い昔から、絵画や工芸美術、衣の紐や舞の手に現われた柔和な線の持ち 味が、何よりもよくこの民族性を反映している。閑雅なこの伝統を継承する君たちに、殺伐な武勇の精神が 分る筈はない。「桃太郎」の凱旋が君たちにとってはこの上なく退屈であるように、君たちには君たちだけ が知る心情の世界があり、その世界だけで君たちは思うさま翼を拡げて君たちの精神の高さを物けることが 出来るのだ。

(9)

Hm 田 測 五十生

・・ヰ略‑

君たちの歌は、君たちが伝統の継承者として祖先の時代から一筋に受継いだものだ。君たちにとっては大 切な系図ともなるもので、ここには君たちのたどり来った「精神」の記録が綴られている。しかしながら、

君たちはいつまでも「昨日の子」ではない。ここに訳された童謡も、僅少な例外を除いて大方は忘れ去られ たであろう。それはよい。私とて君たちに過去帳の復読をさせようとは願わない。ただ畏れるのは、旧殻を 棄つるに急な余り、伝統の精神までも君たちが没却してはいないかということだ。「きのう」を忘れて成立

°°つ「あす」はない。古い礎石の上に新たな「今日」を打建てることは、君たちに許された荘厳な権利でもあ る。文化の精神の上で迷児となるな。奇形児と呼ばれるな。君たちに伝える切実な私の希求はこれだo 彼の祖国への熱い思慕が文章の底に潜々と流れている。当時の別の作品で、「郷土‑の思慕は 私にとって一つの<宗教>であった」と述べている(14)

。この序文が、いかに朝鮮児童の心の琴線

に触れたかというエピソードがある。出版から13年経過した解放の年、一人の青年が釜山に金素 雲を訪れ、この序文を「お経でも唱えるかのように暗唱し、大粒の涙をポクボタと流した」とい う。彼自身、底冷えのする東京のアパートの一室で、目頭を濡しながら書いた文章であった。け れども、このような祖国への愛を告げていても、「日本語で書いている同胞の本」という理由で、

多くの朝鮮知識人に無視されたのも事実であった(15)

莫大な借金地獄のソウルを逃れ、次に彼がなそうとしたことは、朝鮮現代詩の訳出(『乳色の 雲』1940)と、『三韓昔がたり』等の児童向け朝鮮史話集の刊行であった。戦争末期の数冊は、

「鉄甚平」という日本名で刊行されている。この時期、彼が日本名を使用したことと、作品の序 文に「聖戦」遂行の時局に便乗した姿勢があったことを、今なお論議する人もいる。けれども、

創氏改名政策が推進されていた当時、朝鮮名金素雲の使用がはばかられ、軍部に「不用不急」と 判定されなければ本の出版がおぼつかなかった時代である。彼は自伝で、「『シンガポール入城の 日』だとか、あるいは『灯火管制下の望汝山房で』とか、こんな飾り文句が必ず一言ずつはさま れる。本文をそこなわずに木を出すための、これが最小限度の<交換条件>で」(16)あったと弁 明している。時局に便乗した語りは免れないかもしれないが、筆者はこの碍壇でもって、彼の業 績すべてを否定しようとは思わない。むしろ、「金を失った鉄、甚だ平らなり」と日朝する(17)金 素雲に、したたかなレジスタンスを認めたいと思うのである。

4.日韓両国民の和解を呼びかけた時代

1945年2月、戦争協力事業を逃れるため満州に赴き、帰途8月、釜山で解放を迎える。独立回 復後、朝鮮民族を待ち受けていたものは、国土の分断と同胞相撃つ悲劇であった。その混乱の後、

金素雲がなそうとしたことは、手紙で日韓両国民の和解を呼びかけることであった。その手紙は、

「サンデー毎日」が動乱下の韓国について偏見に満ちた報道を行ったのに憶激して、「東亜日報」

に公開状として発表したものであった。川端康成の紹介で、「中央公論」(1951年11月号)に「日 本への手紙」として全訳転載され、日韓両国民の目に触れることになった。

内容は、韓国国民が「人間が想像できる最大限の不幸と悲しみ」を嘗めながらも、民族の誇り を衿持していることへの理解を求めたものである。

私たちは逆境にあって強い民族でありました。新羅の昔は知らず、高麗の文化、李朝の学芸が、いずれも 苦難の只中にあって咲き出でた華です。顔料の神秘をもって知られた高麗磁器の最上品は、三十年にわたる 蒙古の兵火を避けて、江華島に聾居した時代の産物です。西洋に先立つ二百二十年の印刷活字の発明が、六

(10)

朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 KH

千五百巻・十七万面の高麗版大蔵経が、いずれもこの時代の所産だということは驚異に値します。壬辰倭乱 (文録役)、丙子胡乱‑この二大国難のあとで李朝の学風は一新され、自我の意識は明らかにされて、か ってない学芸の隆盛を来しました。このように韓半島は苦糞酎こ鍛えられ励まされて、常に一歩ずつ前進して 来たのです。

われわれがいま繰返しつつある過誤‑、われとわが手で不幸を自乗しつつあるこの現実を否定するもの ではありません。しかしながら、ここに一つの摂理がありますO

凍る風、厳しい霜に堪えて、地に埋もれた一粒の麦が芽をふきます。これが民族の地熱です。もしもこの 地熱がなかったとしたら、われわれはとうの昔、幾世紀前の或る国難に滅び絶えていたはずの民族です。

<神風>の奇蹟ではありません。侵略せず、呪血を知らぬ民族の、汚辱と振難に堪えて生き抜く、これは 一つの<抗毒素>なのです。(185

また、この手紙で日本人に敗戦の沈痛な体験を、 「背信と倣榎の民族から、謙虚と誠実の民族 に再生するチャンス」に転化して欲しいと訴えるのである。そして、彼は次のように、自己の立 場を明確にして言うのである。

<太平洋の橋になる>といわれた新渡戸博士のお言葉ではないが、私は過去半生の乏しいエネルギーを傾 けて、 <玄海の橋>となることを念願して来た者です。日本を知り、日本に学び、日本の倣慢と尊大の前に、

郷土の文化と伝統の美を、誇り示すことをもって任務として来た者です。 ‑‑‑どれほどの橋であり得たか 一一一一それを問われては赤面のほかありませんが、ただ、いささか日本を知り得たと、それだけはいえるかと 思います。

日本の<悪ンを挙げよとなれば、私は酔国のいかなる志士、いかなる速成愛国者にも譲らぬつもりです。

同時に、日本のく善>を語るにも、敢えて人後に落ちようとは思いません09)

そして、彼は両民族の和解のために、お互いのく善>を認め合おうと提案する。その際、日本 のく善>として、彼は次の二つの出来事を継介する。一つは、彼の息子の死を告げた電報が東京 駅に誤配されたとき、国鉄職員が弔意を添えて電文を取り継いだ心遣いであり、もう一つは、彼 が暗闇を歩いていた時、提灯をさしかけてくれた婦人の善意であった。いずれも日本人には意識

されない小さな親切であるが、彼には感銘深く映ったのである。それらの<善>に言及して、彼 は次のように言うのである。

十年経ち、十五年経っても、私にはその日のその鉄道職員の声を忘れることができません。他人の不幸、

他人の悲しみを、そのまま自分のものとなすことのできる‑その心情、その良識こそは、私が命にかけて、

わが郷土、わが祖国に移し植えたいと願うところのものです。そのゆえに敢えて私は、日本の<善>を識る と自負するのです。 ・‑中略‑

さっき私の仔んでいた地点に、上からさしかけた提灯がボンヤリこちらを照らしていました。私の通りき るまでぬかるみを照らしてくれていたのを、そのときはじめて気づきました。

なにか熱いものが私の胸をかすめました。そして自分の故里のどこぞの夜路にも、この隣人愛の寸景を見 かけることがあるだろうかととっさに考えてみました。それから、いま一つ胸を締めつけたのは「散らすに 粧しや」という、哀切たる思いでした。

この瞬間こそ私が身も心もおしなべて、日本に親しみ切ったときです。この夜の、この小さな出来事を、

私は二度まで韓国の新聞の何かの文章の端に書いたことでした。

それを書くことが私の先祖への背信だというなら、私はいつなんどきでも、その科に甘んじで悔いますま い。C20)

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132 田 汎 五十生

相手民族の<善>を見つけ出し、それを尊重しようという彼の提言は、相手が日本である限り、

当時の韓国の国民感情には受け入れがたい考えであった。民族の年輪である歴史が否定され、魂 である言葉まで奪われたのが植民地統治下の朝鮮であった。生活のすみずみに日本が浸透してお り、まず日本的なものすべてを排除しなければ民族のアイデンティティーが確立できないと考え られた時代である。(21)特に李承晩政権は徹底した<倭色一掃>政策をとっており、このように公 然と日本人の<善>を語ることは、当時の対日文化政策を推進する公報処に敵対する行為であっ

た。彼は以前にも<倭色一掃>一本槍の文化政策を推進する公報処長李哲源を批判しており、彼 の文名が高かっただけ、金素雲の存在は公報処には目障りであった。

1952年9月、彼はユネスコの招請により、韓国代表として国際芸術家会議に出席する。東京経 由でヴェニスに向う途中、朝日新聞のインタヴューに応じたことから「舌禍事件」に巻き込まれ る。その時の記事「最近の韓国事情」 (9月24日付)が本国で問題にされたのである。記事その ものは、縮刷版で確認したのであるが、貧富の拡大やワイロの横行など朝鮮戦争下の混乱を素直 に語ったもので、何故「問題発言」なのか理解に苦しむ内容であった。けれども、韓国の恥部を 日本で暴露したとして糾弾されたのである。それは、ためになされた金素雲攻撃であった。糾弾 キャンペーンの震源地は公報処長、李哲源であったという。欧州の帰路、再び東京に立寄った時、

駐日韓国代表部にパスポートを押収され、彼は帰国不能になってしまった。日本の<善>をあげ、

韓国の<悪>を語ったくその科>が14年間の遠島の刑であった。

5.日本人の民族的偏見と闘った時代

金素雲は心ならずも再び日本で過ごすことになった。彼がこの期間なしたことは、日本人の民 族的偏見から在日同胞を守ることであった。当時、日韓関係は最悪で、 「李承晩(平和)ライン」

が韓国への敵慌心を煽り立て、 「日韓会談」決裂と、 「竹島(独島)問題」が、それに油を注いだ。

受難者は常に在日同胞で、差別の石磯は彼らに投ぜられた。このような日韓の対立問題について 金素雲はその論点を明確にして、日本人の自国中心的恩唯に反駁していったのである。

「日韓会談」決裂の直接的契機となったのは、日本側代表久保田貫一郎氏の、いわゆる「久保 田発言」であった。それは、 「日本は朝鮮の鉄道や港湾を造ったり、農地を造成したりしたし、

大蔵省は当時、多い年で二千万円も持ち出した」、という日本人には何げない発言であった。彼 は、その発言は植民地支配への反省を欠落させた朝鮮統治恩恵論そのものだと断じ、 「よその家 に入り込んで四十年をわがもの顔に振舞った侵入者が、さてその家を取り返されたあとで『垣根 をなおした、壁を塗りかえた、おまけに屋根も葺きなおした。恩を忘れるなというわけじゃない が‑・‑』と開き直った理屈だと指摘し、(22)次のように理非をただすのである。

一見、何気なしに見える久保田氏のこの一言に、なせ韓国側がイキリ立つか. 「鉄道や港湾の造築が朝鮮 人の福利のためだというのか。二千万円が二億円だろうと、それはきみたち日本人が自分の国力を伸張させ るために植民地をつくったそのかかり(入費)ではないか。それを恩に着ろとでもいうのか。いかにも農地 を造成したoその農地は東拓の手で朝鮮人の手から取上げられなかったのかO農民たちは日本人の経営磨大 な農場の奴隷ではなかったのか・‑‑」

水掛け論のお手伝いをしようというのではない。 <ソロモンの栄華よりも飢え渇えながらの真の自由 一一>それが国を失ったものの悲願であった。久保田氏のこの放言は、いかにも聞き捨てならぬものがある。

ひところの日本の、あの反省と慨梅はどこ‑行ったのか。言葉尻どころか、これは根本問題である。こんな 考え方を日本がしているかぎり、会談が百回くり返されたところで円満な妥協が期待されるものではない。く23)

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朝鮮民話集rネギをうえた人』と金素雲 133

また、「李(平和)ライン」を「韓国の海厳的行為」と報じて敵意を煽り立てる一部マスコミ の姿勢に対して、「何はともあれ、百済、任那の昔から、日本に与えてこそすれ奪ったことなく、

日本によって侵されはしてもかつて日本を侵したことのない民族であったということを、心ある 日本の人々にいま一度思い潜めてもらいたいものである」(24)と訴える。また、在日同胞の居住 問題が論議された時である。仏文学者でかつ文化放送社長、水野成夫氏が「韓国政府に在日韓国 人を引きとり願おう」と朝日新聞で論じたのに対して、彼は朝鮮人渡航に至る日本側の先導権を 指摘して、その経緯を次のように説き明かすのである(25)

「数十万の異民族がどっかと腰をおろして動かばこそ‑‑・」主人側からこうまで言われて、それでも腰を 上げないのだから、なるほど礼儀知らずの客人どもである。だが、湖ればその素因をつくったのも他ならぬ 日本自身であった。第‑には国土を追われ土地を失った農民たちが、溢れ水のように満州や日本へ流れ入っ たのであり、第二に、それ等の労働力は日本にとって必要不可欠のものであった。強制徴集された彼らの集 団は、北海道で、九州で、ツル‑シを撞らされた。日本の津々浦々、目ほしい工事と名のつくもので彼らの 労働力の与らなかったものはなかった筈である。

その因縁が尾を引いて戦後なお数十万の<客人>が日本に残る結果となった。半世紀前の無思慮無分別な 日本の進取精神は、回り回って今日の日本にこういう有難からぬ配当をもたらした。「因果はめぐる小車の

‑」天然自然のその道理を、仏文学者ともあろう人が御存じないとは不思議である。

そして、韓国国民の心の底にあるもの、彼らが日本国民に期待するものを開陳して、日本人が 何をなすべきかを示唆するのである(26)

日本の敗戦によって歴史は一転した。当の朝鮮人には一言の相談もないまま国土は南北に両断されていた。

解放から同胞殺数の戦場‑‑O今日、韓民族の嘗めつつある苦難の遠因を潮れば、韓国の宮廷前に鞄列を 敷いて国土併合を強行した日本敗戦三十六年前の<その日>に突き当たるのである。

今日、日本の政治人にして思いをここに致す人がただの一人いるなら、財産権を請求する前に、海洋線を 争う前に、日本が韓国に対して先ず何をせねばならぬかを悟る筈である。<一人の大人>‑その大人によ って日本の艮心が代弁されるのだ。

彼の期待は、「一人の大人」、「カレーを救った一人の義人」の出現であったO冗長さを顧ず棲 棲引用したのは、韓国・朝鮮および在日韓国・朝鮮人に対する日本人の基本的認識は、今なお不 変であると考えるからである。彼の指摘は、30年経過した現在においても通用する論議であろう。

「天皇の言糞」や「指紋押捺」問題に対しても‑.両民族の和解の前提条件を示した彼の訴え に対して、政治家が真剣に答えていたら・‑‑、国民が謙虚に耳を傾けていたら‑‑、教師が真撃 に教育課題として受け止めていたら‑‑、事態は大きく改善されていたに違いない。

不幸にして私は<楯の両面>を見る位置にいる。海一つ距てて相接するこの二つの民族の、憎悪と侮蔑の シーソーゲームが終りを告げる日はついにないであろうか?私はそうは思わない。

お互いに相手を憎む気でいなから、その実、傷つき辱しめられるのは、おのれ自身であることにおたがい が気づかずにいる。こんなバカな話はない。自分の祖国に対して私は機会あるごとに同じ念仏をくり返して きた。日本に対しても、私のいいたい言葉は同じである(27)

彼の闘いは、全て日本人にかこまれ、文字通り孤立無援であった。徒労感から、希望と落胆が

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134 田 測 五十生

激しく交結したというo「声を大にして叫ぶ者だけが愛国者ということになっている‑。これ が今日の大韓民国に於ける<愛国>の相場である。いずくんぞ知らん、真の愛国者は田野に在っ て黙々と土を耕している。晒巷に埋れてひとり沈吟している。眠られぬ夜の臥床に坐して祖国の 分断に涙している」(28)と、時には流講の暗漁たる思いを吐露するのであった。このような不過 時代、冷たい祖国の仕打ちに、友情から帰化まで勧める友人もいたという。「私の生の母はレプ ラ(痩)かも知れない、けれども私は自分の母とクレオパトラと取り換えようとは思わない‑」O これが友人への回答であった。

6.日韓の心の辞を創造しようとした時代

1965年、終戦から20年経過して日韓両国の国交が正常化した.14年に̲百̲る「日韓会談」がやっ と妥結したのである。この時、彼の帰国も認められたのであるが、既に57才に到していた。祖国 への帰路、「再び日本についでは発言すまい」と自分に言い聞かせていたという0

帰国後、彼がなそうとしたこと.は、「韓日辞典」の編纂と出版であった。終戦直前、高野山大 学長に約束した宿題でもあった。1968年、3年間の執念で語菜数8万5千の『精解韓日辞典』

(徴文出版社、ソウル)が完成し、1972年日本でも高麗書林より出版される。こうして彼の「韓 日辞典」は両国語学習者の共通の必携書となったのである。

長い日韓の宿縁にもかかわらず、この『精解韓日辞典』が韓国で最初の本格的「韓日辞典」と なったことが、韓国における日本語の位置を象徴している。かつては学習することが、そして一 転して排除することが強制された「いわくつきの言葉」であることを‑。現在でも、学問対象 として日本語学が大学で講ぜられることは少なく、街角の日本語教室で「商業語」・「実用語」と して学習される傾向が強いのである。韓国における日本語学習の問題点を金素雲は次のように指 摘する(29)

商取引や実務上の便宜のために学ぶ日本語‑‑‑これは記号的な働き以上のものを期待できない。言葉の背後 にある伝統や生活とは一切無縁のままである。‑そのような記号的日本語を如何に積み重ねても、それが韓 日両民族の心の交流には役立ぬということである。一心の背景を持たぬエスペラントが「万国共通語」を標 傍しながら現にどのような位置にあるかを知れば、思い半ばに過ぎるものがあろう。

文筆活動における活躍は自ざましく、日本での空白期問を取り返すかの如く、『健忘虚妄』『器 一杯の水の幸福』『兎糞随筆』『香魚』と次々に作品を発表していく。また「東亜日報」に連載さ れた自伝「逆旅記」も『天の涯に生くるとも』として刊行される。そして本領の翻訳活動では、

詩にとどまらず、現代小説の翻訳を試み、1975年、個人全訳『現代韓国文学選集』(全5巻、同 和出版公社、冬樹社)を日韓両国で刊行する。

これら金素雲の一連の文筆活動に対して正当な評価がなされはじめたのは、70年代の後半であ った。評価が遅れたのは、日本語が「いわくつきの言葉」であったからであり、終世、「親日家」

というレッテルがつきまとったからである。それは、今なお最大の侮辱呼称だという。(30)彼の 訳業や随筆に関しても、「日本恋しや、日本恋しやと呼びかけているだけ」と評する友人もいた というし、(31)「過ぎ去った戦前の日本に執着しているだけ」と酷評する者もいたという(32)an,誉 褒肢が世の習いとはいえ、葛藤・反目しあう日本と韓国の狭間で生きることの困難さを物語って 余りある。

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朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 135

1977年、彼の翻訳分野での業績に対して、韓国翻訳文学賞が与えられたが、 「へソの緒切って 初めて寅というものをもらった」と彼は言うのである1979年には東大に招かれ、二度講演を行 う。比較文学研究の分野で、彼の若い日の翻訳が「鴎外、敏(上田)、荷風、また白秋らの訳業 に匹敵して劣らず、そのまま日本文学の宝でもある」C33)と評価されて既に学問研究の対象にな っていることを知り、喜び驚くのであるO 講演後、 「朝日新聞」に一文を寄せているが、その結 尾を、 「楯の両面を活かし合おうと願った私の祈りは、どうやら絵そらごとに終るらしいが、そ れでも私は後悔していない。ザルで水を掬いつづけた一生‑、その虚しさには虚しさなりの安 らぎもあろうというものである。 (10月20日付)」という文章で結んでいる。

1979年には随筆文学賞も与えられ、 80年、ついに大韓民国銀冠文化勲章を受賞するのである。

けれどもこの時、彼の肉体は既に癌細胞の跳梁するところとなっており、翌1981年、 73才の生涯 を閉じたのである。

Ⅳ 『ネギをうえた人』と金素雲

金素雲が『ネギをうえた人』を翻訳出版したのは1953年で、追放の翌年であった。.その頃、彼 が心ない日本人の偏見に対していかに身を挺して闘っていたかば、前節で見たとおりである。そ の闘いの一方で、彼は「コリアン・ライブラリ」の設立を在日同胞に呼びかけていた。それは、

日本と韓国の文化交流を推進する韓国文化資料センターのようなもので、そこを拠点に、本国の 韓国文化を収集し、その粋を出版して日本社会に紹介しようという構想であった。(34) 「個性ある 文化内容と、それの相互交流‑そこから来る相手方への解りない理解と信頼」、それが茂視と 反目の悪循環を断つ「予防医学」だと彼は信じていたのである。

六十万の同胞が住むというこの日本に吾々の手でつくる日刊新聞一つがない。祖国の出版物、新聞雑誌を 取揃えた図書館一つがない。

ある同胞実業家が言った。 「経済的に、日本人と対等の地盤さえできたら、民族感情など自然に解決され ますよ」 ‑果して然りか!

世界の経済実権はユダヤ人の掌中にあるといわれる。そのユダヤ人さえ民族感情の障壁を乗り越えること はできなかった。僑胞の経済力が、もう一つのロックフェラー財閥を築いても、そのことで問題は解決され tfSW

日本の良識と良心に訴える吾々の誠実な努力‑文化への自覚と関心、これだけが民族の威信と誇りを維 持し、両民族問に介在する悪循環を正常の位置に置きかえる只一つの手段である。民族感情の毒素を浄化す

るにこれ以上のワクチン血清はない。

日く、人がない。 ‑‑日く、金がない。 ‑数千人の同胞学徒が日本にいるO この中に五人や十人の人材 がないはずはない。ことゼニ金に至っては論を侯たず、キャバレー一軒、パチンコ屋一軒の資金でこのワク チンは成就するOないのは金や人ではない。民族の威信への欽豪と熱意‑それがないだけの話である(35) これは在日同胞に呼びかけた良識であるが、日本人にも「相手の立場を思い計り、そこから

<美>や<善>を見出そうとするお互いの良識だけが、隣り合った二つの国の分厚い心の壁を押 し崩す挺子となる」(36)と訴えるのである。お互いの立場や感情を正しく理解するための文化交 疏‑その第一歩を既に彼は開始していた。それが朝鮮民話の翻訳であった。民話には、その民 族の文化(価値観や生活充実感)が昇華されている。少年文庫として出版すれば、読者の未来、

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136 田 測 五十生

次世代に希望を託すことができる。おそらく彼はそう考えていたに違いない。

さて、34篇の朝鮮民話を編集し、訳し終えたとき、どのような書名を彼は思い浮べたであろう か。どの物語が、書名としてリアリティーを持って彼の胸に迫ってきたであろうか。おそらく、

「ネギをうえた人」の物語でなかったかと筆者は推測するのである。人間と人間の争いを嘆き、

平和を求めて遠くへ旅した男。平和の地に留まらず、故郷にネギを持ち帰ろうとした男。食べら れてしまって、誰からも感謝されなかった男‑。時代こそ違え、金素雲も同じ憂目にあってい る。反目し葛藤しあう民族に、理解と信頼の粋をと願いながら、いわれなき指弾を受け、異郷で 流諭同然の日々を送る現実。金素雲が、この物語の中に自己の分身を発見し、彼の報われること 少なかった半生と「ネギをうえた人」を重ね合わせたとしても不思議ではない。この時、『ネギ をうえた人』が書名として脳裏をよぎったと推測するのは誤りであろうか。いずれも、祖国への 熱い思慕と、無償を心の桂にしなければ納得できない物語であり、不条理な現実である。次の文 章は、死の一年前に書かれた「狭間に生きる」と題する自伝風エッセーの結尾部分である(37)

幼い一時期をすごした牧の島(絶影島)‑その牧の島と釜山の市街を結ぶ渡し船のボンボン蒸気‑、

ノいン、二十トン、五十トンとだんだんに大きくはなったが、一つだけ変らないのは船の舷側に一列にぶら 下げられた短い丸太ん棒だった。

桟橋に横づけするたび、じかにぶつかる衝撃を避けるための防備である。日に三十回、五十回と桟橋に着 くたびに、その棒っ杭は、ぶつかり、乱しみなから、あとでは中細りの杵のように真申が削られ、やせ細っ てゆく。その吊り下がった丸太ん棒が船に代ってわが身を削ってゆくのだ。

きょうまで私は、いろいろな人にその丸太ん棒の名を聞いてみたが、誰もハッキリと教えてくれる人はな かった。丸太ん棒とはかぎらない。少し大きな船になると、古タイヤなどを船べりに並べたり、もっと大き な何千、何万トンの汽船では二抱えもあるような大きな球状のものを、桟橋へ着ける前にロープで吊り下げ ては船と桟橋の問に垂らす‑、いずれも目的は同じだが、大きな船の場合、これを「防舷物」というそう な。ゲイのない名である。

しかし、いつも私の念頭にあるのは、あの渡し船の横にぶら下がった短い丸太ん棒なのだ。幼い日に無心 に見過ごしたあの船ペりの丸太ん棒が、その後、長の年月、私の脳裏を離れ去らなかった。韓国と日本の二 つの国の間にも、この丸太ん棒はあっていいのではないか。桟橋と船の間で身を削り、やせ細ってゆく丸太 ん棒を誰一人はめ讃える者はない。だが、生活の伝統が異なり、利害が相対立する二つの民族の間に、この 防舷物なしに、どのような提携や文化のまともな交流があり得るというのだろう。

船べりの棒っ杭は英雄でも志士でもない。削られ、やせ細って、ついには消えてなくなるもの‑、だが、

もしもそのような生涯があるものとしたら、それこそ「民族の戦いで義則を振るう」などよりは、百千倍、

意味のある生き方ではあるまいか。

隣り合った二つの民族の葛藤と摩換‑その果てしないシーソーごっこに思い到るたびに、私は幼い日の あの渡し船の棒っ杭を自分自身の象徴のように心に思い浮かべるのである。

彼の「巨大な物語」は、故郷の連絡船の回想で静かに終る。この船こそ、彼に民族意識を胎魅 させた「米常の小僧」が乗っていた船であった。

Ⅴ お わ り に

国際化した社会にあって、国際理解教育の充実が叫ばれている。それは異なった文化を持つ人

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朝鮮民話集『ネギをうえた人』と金素雲 na

々を理解し、彼らとどうつき合っていくかを教育課題として受け止めることを意味している。け れども、検討してきたようにわれわれの隣国‑の関心は極めて稀薄であるか、そうでなければ著 しく偏っている。換言すれば、政治的・経済的関心のみに終始して、人々が何を考え、何を大切 にしているかという文化的、人間的理解に致っていないということである。更に残念なことであ るが、国民感情の末端に、在日韓国・朝鮮人に対する根深い差別と偏見が依然として存在してい る。在日韓国大歌人、李正子(イ・チョンジ+)は彼らの働巽を次のように歌う(38)

・金大中(キム・テジュン)と経済のみが語らるる祖国と日本と何とわびしき‑0

・民族と出会いそめLはチョ‑セン人とはやされし春六歳なりき‑0

このような隣国への差別や偏見を放置して、わが国の国際理解教育一般はあり得ない。また国 内にいる外国人との協調ができずして、国外で国際協調を求めてもそれは説得力を持たない絵そ らごとに終るであろう。その意味で、韓国・朝鮮および在日韓国・朝鮮人理解は、日本の国際理 解教育の原点であり、かつ国民的課題である。

日本人の認識の歪みを鋭く指摘し、半世紀に亘って、その是正を訴えつづけたのが金素雲であ った。われわれは、彼が二つの民族の狭間で如何に苦闘したか具に検討してきたが、彼の生き方 を通して、より普遍的な国際理解精神と、その具体的方策を確認することができる。それは、偏 狭な自民族中心主義から解放された柔軟な思考であり、相手文化への謙虚な態度である。次の彼 の言葉は象徴的である。

日本の悪口をいうことが<愛国>だと勘違いしている連中が韓国にもワンサいる。私が日本人なら、こう いう手合は歯牙にかけない。それよりも日本を知り、日本の善や美を大っぴらに認めてかかる相手をこそ警 戒する。前者は権威や利益の前ではシッポを振るが、後者にはハッタリやマヤカシが利かない。こういうの を敵にまわすことは不利で手ごわいからだ<39)

最後に、国際理解教育における人間の教材化について言及し、本稿を閉じたいと思う。金素雲 という人格を媒介にして、自民族中心主義から解放された国際精神を確認してきたわけであるが、

われわれが、授業を通して児童・生徒に与えたいと思う教育内容も、この普遍化された国際精神 なのである。けれども、「国際理解精神‑相手文化への敬意」と板書し、それをいくら強調しても、

それは徳目主義・観念論に終ってしまう。そのような授業における言葉主義を打破し、より具体 的な形象(イメージ)を与えるものが教材である。たまたま筆者は金素雲という人物を教材とし て選択したのであるが、金素雲以外、国際理解・国際協調に貢献した人物を探し出すことは容易 であろう。国際理解の精神や思想に対して、児童・生徒の共感や連帯感を培い、その価値を内面 化させる教材開発、とりわけ人間の教材化がもっとなされてしかるべきだと思うのである。

金素雲は、憎み傷つけ合う二つの民族の問にネギを植えた人である。いや、少なくとも植えよ うとした人であった。相手文化の尊重というネギを‑。けれども、そのネギは人々によってま だ食べられていない。

(1)金素雲『こころの壁‑金素雲エッセイ選』サイマル出版会1980年序文より.

(2)金素雲『ネギをうえた人』岩波少年文庫1953年5頁。

(3)平林久枝「民話からみた朝鮮人のこころ」『季刊三千里』第16号三千里社所収。

(17)

138       田 測 五十生

(4)四方田犬彦「詩人金素雲のこと」 『現代詩手帖』 1980年6月号 思潮社 所収。

(5)金素雲『近く造かな国から』新潮社1979年159貢。

(6)金東雲『霧が晴れる日‑金素雲エッセイ選2』サイマル出版会1981年 20頁o (7)中塚明『近代日本と朝鮮』三省堂選書1977年 90‑94頁。

(8)金素雲著 穫博光・上垣外憲一訳『天の涯に生くるとも』新潮社1983年14頁o (9)金素雲『こころの壁』 60‑67頁。

uO)同上書 82‑85頁

(ll)金東旭『朝鮮文学史』日本放送出版協会1974年 巻末の朝鮮文学研究の基本文献解題によるo (12)金素雲『天の淀に生くるとも』 138頁。

(13)金素雲『朝鮮童謡選』岩波文庫1933年 序文より。

㈱ 金素雲『こころの壁』 217頁。

a5)金素雲『近く遥かな国から』 8頁。

OG)金素雲『天の涯に生くるとも』 232頁.

㈲ 四方田犬彦 前掲書。

個 金素雲『こころの壁』 214頁。

u9)同上書198頁。

(20)同上書 200‑201頁。

(21)李健『日韓相互理解への構図・韓国の桃戦』 PHP. 1982年 66‑68頁。

(29 金素雲『霧が晴れる‑日』 49頁。

㈱ 金素雲『こころの壁』 44‑45頁。

C4)同上書 34貢。

幽 金素雲『霧が晴れる日』 50頁。

榊 金素雲『こころの壁』 67頁。

(n 同上書 34頁。

幽 同上書186頁。

L瑚 金素雲『近く遥かな国から』 249‑250頁。

(30)鳥羽欽一郎『これからの韓国』サイマル出版会1984年 258‑264頁。

糾 金素雲『近く遥かな国から』 12頁0 89 四方田犬彦 前掲書。

63 芳賀徹「金素雲氏のこと」 『中央公論』 1980年4月号。

糾 金素雲『近く遥かな国から』 158‑172貢。

69 金素雲『霧が晴れる日』 231‑232頁。

鯛 金素雲『近く遥かな国から』 150‑151頁。

(37)金素雲『天の涯に生くるとも』 50‑51頁。

C3噂 李正子『鳳仙花のうた』雁書館1984年0 89)金素雲『こころの壁』 41頁。

参 考 文 献 旗田親『朝鮮と日本人』動草書房1983年。

金容雲『韓国人と日本人一双対文化のプリズムー』サイマル出版会1983年。

同 『鎖国の汎パラダイム一日軽文化の異質性‑』サイマル出版会1984年。

黒田勝弘『韓国社会を見つめて』亜紀書房1983年。

宋建鍋『日帝支配下の韓国現代史』風涛社1984年。

瀬川拓男他『朝鮮の民話』太平出版社1973年。

金奉鍍『朝鮮の民話』国書刊行会1978年。

(18)

139

Kim So Un and His Book of Korean Folk Lores

"The Man Who Has Planted Welsh Onions'

Teaching Material Development in Intemational Understanding

Isoo TABUCHI

(Department of Social Studies Education, Nara University of Education, Nara 630, Japan) (Received April 24, 1986)

In 1953 Kim So Un (1908‑1981) published "The Man Who Has Planted Welsh Onions in Japan which included thirty‑four Korean folk lores. The title of this book was named after one of the thirty‑four folk lores. Here is the story:

Once upon a time because the people could not distinguish htiman beings from cows, people fought each other and killed their fellow countrymen to eat them. In grief over this situation in his homeland, one gentleman went on a pilgrimage to seek for non‑belli‑

gerent country. Finally he reached the country of peace. Over there one old man told him that ever since the people started eating Welsh onions, people coulc become to tell

human beings from the colvs. He, therefore, brought back the lVelsh onion seeds to lュis

homeland and planted them. He, however, was mistaken for a co、v and was eaten by his fellow countryman. The Welsh onions have grown up thereafter and have eaten by the people. The country has becoi‑ae peaceful, however the countrymen did not thank the gentleman at all and forgot him.

Since the author has wondered why Kim So Un named his book of folk lores after such a short story, he has looked into Kims life.

Kim So Un was born in colonial Korea ruled by Japan in 1908. He came to Japan lvhen le was 12 years old. In his encounterance lvith discrimination and prejudice against the Koreans in Japan, he noticed the ignorance of Korean culture in the background of Japanese discrimination against the Koreans. He, therefore, started translating the Korean folk songs into Japanese to introduce Korean culture to Japan, because folk songs imply the Korean peoples heart of poem. Thanks to the support from many Japanese intellectuals including Hakushu Kitahara and Tdson Shimazaki, Kim So Un published series of collec‑

tions of Korean folk songs, nursery rhymes and poems. He consequently became an ouト standing poet in Japan.

In 1945 after Korea won its independence, Kim So Un remained to stay in South Korea, lvhere the Government has taken a policy to deny and exclude all of the Japanese

cu一ture. Despite such a national policy, Kim So Un insisted the importance to recognize

バgoodness" andバbeaLity" of each country and to respect each others culture in order to

reconciliate the Japanese and the Korean. He also commented the excellence of Japanese culture. He was therefore labeled as "pro‑‑Japanophile and was deported from Korea.

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This book of Korean folk lores was published during his deportation.

The authors presumption why Kim So Un has deliverately selected this story is that Kim So Un might have seen himself in ̀̀The Man Who Has Planted the Welsh Onions".

Because people did not understand Kim So Uns effort to try to establish mutual under‑

standing and reliance through cultural exchanges between the Japanese and the Korean, who have hatred each other. Kim So Un had a lot to sympathize about this folk lore. The author believes it is Kim So Un himself who has planted Welsh Onions. The Welsh onion means the spirit to respect other culture.

参照

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