アカデメイア
言葉から世界を見る
−獲得を意味する前綴り er‐−
人文学部長 山 中 博 心
言葉は単なる道具としての機能を果たすだけ ではない。リアリティに代わってバーチャルリ アリティが支配的な現代では、体験が意味を失 いかけている。便利になった分、生活から生ま れてくる知恵、身体で感じる直感のようなもの が退化している。ドイツ語では日々の生活から 得ることをerleben(体験する)と言 い、旅 を したり書物を通して知ることをerfahren(経験 する)と言う。体験はどちらかと言えば個人的 で限定的なものであるが、経験は個を超えた世 界への広がりを見せる。重さと密度を旨とする 体験を普遍的な経験へどのように架橋するかが 人文学にとっては特に重要である。
『生の哲学』を唱えたディルタイは自然科学 のerklären(説明する)と精神科学のerleben(体 験する)を対置した。客観的に「こと」の仕組 みを解析していく分野と人間の関わりを不可欠 とする分野を分ける必要がある。説明のつくと ころと説明のつかぬところ、言葉で言い表せる ことと表せないことから世界は成り立っている。
これは誰もが経験的に知るところである。どれ だけ理想のスウィングを解説したビデオで示し てもそれを実のあるものにするには身を以て会 得するしかない。そこにも個人差があってマス ターできる者とできない者がいる。また、教え る側のパーソナリティも大きく作用する。(因 みにドイツ語では教えるという動詞は「だれ〜
に」に対しても「なに〜を」に対しても直接目 的格の4格をあてる)。
私の好きなフランツ・カフカの作品は難解で 狐につままれたような感じがする。彼の作品世
界は現実世界と言うよりむしろ作者の内面で大 きく屈折して噴出した世界を描写していると 言ってよい。まさにカフカの心のうちがリアル に反映されたものである。カフカ研究者がよく
使うerschreiben(書くことで現実を構築する)
はまさに目に見える世界に「構築された現実」
を対置することである。カフカの父親が「現実 の論理」を代表するものであるならば、その絶 対的な権力の下に組み敷かれていたカフカはそ うした形で生き延びるしかなかったのかもしれ ない。彼の小品に『掟の前』というのがある。
田舎から出て来た男が掟の前の門番に「中に入 れてくれ」と懇願するが入れてもらえず、死を 迎えるまで待ち続ける話である。最後に門番は
「一体おまえはこの期に及んでなにを知りたい と言うのだ」といって田舎の男のためにだけあ るこの門を閉めてしまう。ただ知ることに終始 し、立ち去ることもなくまた中に入ることもな い田舎の男と門番の対応を巡っては意見の分か れるところである。彼の長編『審判』のある章 で、田舎の男がだまされたと考え、世界を虚偽 が支配しているという主人公ヨーゼフ・Kに対 して、真理ではなく必然であると思えと教誨師 は諭す。人間の価値判断の入る余地のない世界 と、まさに人間の意味付けが問われる世界がこ こで対立しているように見えるが、現実の世界 にはこの二つが混在しているのではないか。
人は歴史を学ぶことがあるがそれでも歴史は 繰り返す。それは事実を単にfinden(見つける)
のではなく、erfinden(捏造する)のが人間の 常であるからかもしれない。
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