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法の理念的性格について

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

法の理念的性格について

著者 今井 直重

雑誌名 奈良学芸大学紀要

1

1

ページ 39‑49

発行年 1951‑03‑01

その他のタイトル On the Ideological Character of Law.

URL http://hdl.handle.net/10105/5228

(2)

−39−

法の理念的性格に一)いて

今  井  直  垂

On tlleIdeoIoglCalCharacter of Law.

by NAO軸I(jE htAI

日  次 ま へ が き

I.社会的入間の棒造

∬・法と道徳の牽聯 l.法理念としての自然法 朋.法の檀債的先感的契機 Y.法理念と串実との関聯

Ⅵ.法 の 妥 当・

ま ′ヽ が・き

私は人間の社会に存在する一切の現象、即ち社会現 象はすべて文化現象でなければならないと考える0そ れは人間の本質的構造より由来する必然的なり綿であ る。人間は理性的存在者である。而し人間は純粋なる 理性的存在者ではなく、他面に非理性的或は反理性的 な契機を含んだ弁証軸勺統一としての理性的存在者で ある。人間に本質的な契機は非理性的なるものではな

くして理性的なものでなければならない0理性的なる ものと非理性的なるものとは同位的なるものではな い。理性的なるものが、より餞位の、よりオ質的な契 機として、非理性的なるものを克服し、理性の恩寵に 浴沢せしめ、その事美を讃仰せしめんとして不断に葛 藤L、それが帰順の隊掛こ努力しているのである○こ れが人間の眞実の賓である。理性的存在者たる人間の 本質たる理性の志向するものは、ありのまゝの世界ヽ存 在の世界、事実の世界ではない。それはあるべき世界 非存在の世界、焼値の世界である。理性は低次なる存 在の世界に飽満して、不完全なる現実に摘蹄としてい るものではない。無根の彼方を目指し,端悦すべから ざるイデアへの思慕憧憬禁ずる能わざるものである0 こゝに理性的存在者としての人間の意義と低値、気品

とけだかさが存在する○

かくて人間は本性上、イデア硯雇的、但値担荷的存 在者である。それ故に社会的人間の一別の行啓の稔和 である社会現象も、イデアを志向し、偵値を附帯する 文化現象であると理解する0換言すれば現実のある世 界から理想のあるべき世界への進展の道行きであると

考へる。宗教も道徳も塾術も科学も法律も政治も経済 もすべてこの道行きに於て発生した文華である。低値 の世界を志向せざる事実の世界、存在一元の世界から は文革は生じない。

私はイデア的、鹿値的、文化的世界硯の上に立脚し て、すべての社会現象を文化現象と解する。存在一元 の枯渇した世界に留まる触り文化は発生しない。敵兵 現象軸も文化現象の一部を構成する法現象もその有質 的中鋲は法腺値でなければならないと考える。その債 値はイデア的、兜故的鰻値であって、経蛤的、実用主 牽約億倍ではない。法は事実であるとしてその実致性 が喜成せられ、その当馬性、イデア的、先払的飽値が 閑却せられる障向が退くあらわれて寂でいる。特に国 家によって制定せられたところの法律のみが唯一の法 であるとなし、実定法に先行し、それの原理として定 立せられる自然法を否定する実定法主著の学政によっ て法の実定性が疏詞せられ、その先絵的餞値的当窟性 が無覿せられるのである。

而し私は法現象は文化現象の一部をなすものであっ て、法規範は人選の文化の駐韓と発髭のために謀せら れたところの人頭の生活粛係の親律であると考える0 それは人類の文化的要求に應じて文化を促進するため の娩範であって、決して文化を阻止、抑圧するが如き ものであってはならない。この立場は人間のオ質的構 造の考察に起因する酋学的先験主菜に依存するもので あって、歴史的、鮭去的、政治的、突拇主剤勺な経験 主要に立脚するものではない。それ紋に溝の文化低値 的性格を明らかにするために法と道徳との牽聯、法と 道徳との中間背としての且懇法と実定法との謁掛性、

法における債値的、先払的契機について述べることに する。

(1)

人間のあり方については種々の観点から様々の考案 がなされることが出爽る。そこに色々な世界紙が成立 し得る。かゝる世界観乃至は人間の存在論に関する哲

奈良学董大学紀要 第1番 餅1号・1951年(昭和26年)3月1日

(3)

ー40−       今  井  直  重

学的省察は暫くこれを描き、人間存在の皐も基本的な る契機として、人間は一滴に於て先顕的には煩値担荷 的性格を有L、他面に於て緩協的には社会的、事実的 存在的性格を首するものである。

この宿命的な矛盾に満ちた性格が人間の本惟であ る。人間が純粋理性的な潮にも向上し得ず、非理性的 な動物にも下落し得ず、中間的なる人間特有の存在領 域を構成する所以である。人間が生成流韓常なき現象 の世界に存在し、而も自然的事案としての存在、所興 的な現実に滞足し得ず、現実を克服して、偵僻担荷者と して、現雫を償倍づけ文化の創造に努力する0現実に ありながら現等を超増して、煩悩を思慕し、イデアに対 してあこがれをもつことは人間の木質的性格である0

(富童〕プラトンは人間か薫高度のあり方としてイデ ア(id卓a)に対する愛(占1・6d)を有つことであるとし た。そしてかゝる存雀の仕方をしている人を哲人

(Phi16ヨ0西1°S)と名づけた。プラトンはその対話欝饗 宴(汚l】一日p由ion)に於てェロス(変)はポロス(Pol・鵬富 裕)を父とし、ぺェア(Penia貧困)を母として坐れた

ダイモーン(D乱il118n精霊)である。それ故に母の如 くに貧しいけれども父に似たるところがあって善と 美とを常に追い求めて止まないものである0この善 美なるものがイデアであって、人間をこの感性界か ら叡知界(イデア界)へ導く案内者である0人間が軍 に感性的軍票の世界に留まり得ず、更に遊んで高次 なる本源の世界、イデアの世界まで追求して行くこ とがイデアに対するあこがれであり、これが人間の 革質的傾向(N油1Tanlage)である。(PlatoIlisOper礼甘.

P.182.U)Winde丑吼lld はプラトンのイデアを畢な る概念とせずに明瞭に低値的概念として規定した。

この暦債に対するあこがれ(SellllSuCl−t zum We雨)

が人間の特性である。(Windell−and;Ge$ClliclltedPr PllilosolIhie,S.90)hfaxsdle】erによれば入間は慣億 のこ担い手(Ⅵbrttr鞄er)である0入間は慣債認識能力 を有する。それは冷静なるものでなく倖倍に対する 情熱とそれを実現せんとする努力性の随伴する性向 を有するものである。かくて人間は偶倍を認識し、

等質的確債の実現に努力する確信的行悠主体であ

る。(Maxざdleler;DeJIForlllalislnu8in der Ethik urld dielll礼teriale Wertethik,S.16)J比SPerSによれ

ば埋性と寒布は人間の存在の二つの大きな擁di(3gト 0蝿5811上,01ellnSeTeSSeinsであって両者は切11態すこ とが粗密ない。実存は押佃によってのみ射るく helI なり、理性は等有によってのみ内突Odlaltをもつ。

実存なき珊性は内実を失ってうつろ holllであり。

理性なき実存は眠ってSClllafel1tlいる。(JasperB,lre−

rnlmft1111dlxistenr,声.41ff)

生命哲学に於では単なる生存そのものに最高の位倍 を見出そうとするのであるが、畢なる生存は事実の領 域に留まり、観燈と無線のものとしてヽ無償倍であり、

人間的存在の嵩費を有しない。軍に生きでいるとい うことは無意拳である。生存以外に人生の目的があ る。生きることよりも生き方に人間的特質があるので

ある。債倍を実現しない生事は無意味であり、陰徳の 実現を妨樽したり、反僻値を実現せしめるが如き生存 は否定せられねばならない。人間に於て但値の実現が 鐘を意養づけるのである。生そのものが必要なのでは なく偵倍の実現をなすために生が必要なのである0生 の意蓑はそれが寒現するところの但僻に依存するので あ考。(RickeTt,l一PlJendWP止11ndKt一部的仕雨S・152の 単なる生そのものは無償樺(WeTtfTei)である0位倍 の実現を妨繹し、文化を破壊する生は軍に無債値であ るのみならず、反債鰐(Wertfeil1dlich)である0而し て焙値そのものは人間によって認識され、実現されね ばならないのであって、人間が儲値を認課せず、これ を実現しないならば、供倍も亦無意寿となる0人生と 没交渉な蜃値は憤値たる意義を膏しない。人生と胞値 との緒合するところに、人生の意責も、鈎値の意薫も 生ずるのである。人生とは人間の生き方であり、位値 の担い手として、低値実現者としての人間の生き方で ある。低値も畢なる低値の世界に幽陪することなく、

一歩下降して人間を通じて現実に触れるとき、はじめ て煩倍としての意聾が生ずる。これが眞に生きた生

(Cl鵬1e1−endige−lJeben)であるD(Hickert,SrRtem del−

Pl−ilosophieI$・316)

人間の構成する社会に於て人間を通じて単なる事実 的自然状態を蒐服して、煩倍の実現されたものが文化 である。文化とは自然に対する俵倍附輿である0人問 生活はすべてその本質的構造から見て、文化生活であ り、債倍生曙である。人間の構成する鮭全円の現象は 人間の生活現象であって、文化現象である。文化現象 は低値瑠係的現象であって、すべて債鱒によって制約 せられ、鰯値酌評僻の対象となる現象である。社会的 文化現象は偵値瀾係的現象であって、すべて侃債によ って制約せられ、倍倍的詳債の対象となる事象であ る。社会的文化現象はその制約的條件としての安当煩 倍に應じて宗教、遺徳、科学、要術、法律、経済、政 治等琶々の領域が生ずる。而してこれらの領域は社会 内に浪清罪塁して鋒郡たる様相を呈している。今本稿 に於て叙述せんとするものはこの多様な社会現象のう ち社会的人間の行態に関する現象、特に法現象につい てゞある。

(2)

すべての社会的人間の行啓を低値の体系の下に規律 し、位樺的評壇の対象とする規範として法と道徳とが 提示せられる。親範とは償位担街着としての人間に当 然に迫守すべく要求すらところの人間行態の規律であ る。偵値はすべて規範の様相に於て示鞍する。従って 規範は非現象的な偵倍を現努に妥当せしめる現実的性

(4)

法 の理念的性格に つい て

柊を膏するもので、現実に直結して人間行啓の樋律の 原理となるものである。即ち債概は規範を麒介として それの債噂的機能を人間行者のうちに発揮するのであ る。社会的人間の行態に関する一定の内拝の規準が提 示せられそれの海事が要求せられる場合にその規準は 現囁たり得るのである。行馬主体に規範を提示せられ た場合に存馬主体をしてこれに1寸してひたすらその規 範を遵奉せざるを得ざる心的態度をとらしめこれに違 背するに忍雄ざる心情を懐かしめるのである。かくの 如く行霹黄体の心術に対して専らその固有の鹿倍の構 成によって、これに随順せしめ、これに背反する可能 的自由を威圧する。但帝に裏づけちれた威力が当矯

(細仙川)である。当膚は寛苛が行屑主体の心術に対し て自己の漫守を迫ろ命令であり、経喩的禁義朗個由に 対して規範への恭順の要求である。

(雲量)K鋸ltによれば行篤∃二体である人間は慣伍担 荷・考であると同時に多分に諮;昔的傾向を具有する。

従って客観的な珊性の法則たる規範に必ずし・も従臍 ではな、、。かゝる場合に規範はその尺社費たる語意 に対して強′履力を発効して命令(dtll・I一理ピー・托tilr)の 形を以て峻囁ぺ臨むのである。この命令が等篤(Hn llell)である。従って等鴨は命令の形式を以て行篤主 体にある行怯、不行篤を命ずるのである。而してそ の命令には定言的命令(Clerklt噂01・iHClleIlllPemtiv)

と喝言庸命令 仙・1・JlγPn†111イihCllu Tml−tll・まltiv)とが ある。音符の令針ま定言的命令であり。法規範の命 令は′!て言的命令であるとした○定言的命令は箪律的 であるが、付言的命令は実用的であ11、技術的であ る。K礼nt,(11・11−1Llle針mg州r Me叫)1−y訂k dげSitt−

e−lS・34ffJ而し私は江規範を単なる恨言的命令の 限界に留まらず苗言的命令の領域にも連るべきもの であると考える。法規筍が断言的命令の領域に汚る ことによってそれの情債的当虎的惟柊が蹴興せられ る。

社会的人間の行啓を現律する当馬の法則としての租 範には道徳現筍と法規筒とが挙示せられる。この両親 範は執れも人間の共同生活に於ける行態を現律する能 会視硯である。而し遺療現範の許供の対象は主として 行琵主体の内面性であって、可能なる得々の行濱娘の うち避規範的行路娘を選択して爾余の行矯線の拠粟が 行眉ヰ体の内面に於て行われるのである。この行第線 の音訳に対しての責任追求が道徳胸部亀である。従っ て合樋範的行矧こ対する外部的強制性は阿慨しない。

また反規範的行啓に対する課罰性も追髄しない。若し 行馬主体の行選に対して外部的規制や課罰性が附加せ られるに至れば、それはもはや迫徳規範ではなくして 法現場に鴨化しているのである。即ち造籠凰範は法規 範と同じく赦女親竃ではあるが.法規範の如く厳格な る外部的堀制性や暖帯なる公輝力による課罰性を有し ない。デルヴェキオ(DelVeccllio)によれば人間行鰐の 主潤的誹点よりの許境が道徳親華の妥当領域であり、

−41−

その客紆併札束よりの評煩が法海軍の妥当領域である とするっ(DplVpccllio L(いIIH(lepllilo紳l)11ie・111dltOit 和田教授謂P・289)即ち遺徳勤評憤は行馬]ご体の行態 が彼自身にJI二つている場合も他の主体に影響を及ぼす 場合に於ても、すべて行矯主体の幸司的内面的椚点に 於て行われるのである。法規鵜はその行環主体と他の 主体との閲碑に於て多数千体間の可能な行熊の客rl泊勺 規律である。K朋lt d、法はその下にある者の諾意と他 の者の深意の自由とが普遍的荘別に従って一致し得る が如き講僚件の結合であるとした。(Ka叫Metal・1−rSik derSitten・S・35)こゝに旗の社会性か窄在する。道徳規 範はその内両性に評個の買点が置かれるに句し、故規 範はその社会的性格により、外部的、社会的側面に要 点が置かれるのである。而し昏規範に於では主観的心 的側面が無闇せられてはならないのである。行璃主体 の接的行馬を決定促進せる致陶や心意を考醇に容れて 法的許供がなされねばならないことは勿論である。こ れは特に課罰性の附通せる刑法に於で考謄せられると ころである。慈覚範は現契約には社会の秩序を維持しl その社会的人間の生活安定を保障することを志向する ものであるから、単なる主閥的生活秩序の規範ではな く、祀会生活の地盤としての客配的生活秩序の現節で ある。従って行層主催の行噂の法的評境も客観的にな さるべきであるとして、客観子葉が÷辞せられるに対 して、法現稲の主用jニ蓑が唱道せられている。刑法に 於ては犯行の結果のみでなく、その酎機たる君思が評 供の対象に入れられて刑法の与的主要が確立せられる に至った。文民勘こ於てもその占有理論は手相的意思 の状態に基いて\畢純占有ヽ適法占有、睾意の占有等評 債の没糟が生ずる。かくの如く客硯的秩序の規律とし ての法現職に於ても行橋に喝聯せる意思が顧醸せられ るのである。ラードブルッフけhdhl−C111は道徳規範と 法規範との差異を寄実線からの距離によって量的に種 別した。遺應槻範は行房の親準としては串賓より遠く、

且つ寄契よりの蛙朝が高遠であればあるほど、より高 き段欄に属するのである。これに対して、法規囁は行 賃の基準として出乗るだけ事実に近接して鼓底限度に 止められている。(R凱Itげ1−Cll:弟inf融11m1㌢in diplてeC一 1悠Wふ油田描Cl一紙,S.13)即ち置繚津野は事筆との封 ̄輝に より無限の段槽をなし、その窮極者として蹄を目指す ものである。かゝる高遠なる遺徳理念の窄接は到底一 殴人にとっては不可能であるが、理念としての道徳視 乾はその寒環の如伸二かゝわりなく存在し、それが理 念の燈火を掲げることによっで世道人心を匡救するこ

とに於て存在の意葦を有するものである。かくの如き 高遠なる遺臆理念の実践の舛部的弓員制は不可能である から、それは主観的薯恩の道徳的当馬に対する随順性

(5)

−42− 今  井  直  窟

に委されているのである。従ってこれに関しては外部 的強制性や謀罰制はl卿適しないのである。勿論遺徳規 範の至って低度の牛均人的段階のものに至っては、こ

れが実践不履行やそれの違反行雷に対しては内面的強 制として艮心の呵責があるのみならず、外部的覗制と して非錐糾弾の加わることは当然である。而し如何な る場合にも公権力による課罰性は附着せしめられ得な いのである。この点に於て低次の道徳弟華と法規範と の種別の鑑課が存在する。これに対して法規範は革実 線に近接して視聴線を劃し、軍均人的の能力を膏する すべての行膚主体の実践可能を限度として、所謂平均 人的親準を以て規範の実践を強制するのである○法凍 範はその基準を平準人の社会生活秩序保持育成のため に、必要な皐鹿渡に置いているのである0従って特異 者でない限りすべての普通人の実践可能な限匿に於て 定立せられるのである。換言すればそれ以下に下降し 得ざる限界線であって、それ以下の下降は平均人の社 会生活の秩序と安全の破壊を蘭すものである0従って 法親範の示す最底水準はこれを社会公共の福祉のため に確保しなければならないのである。これ法基範が最 小限接の道徳(etllisches Miniml一m)Lと言われる所以で ある。(Jellinek:Diesozialethi8ClleBedeutt−llgVOnRec一 ilt,S.42)而してそれがた鋸こは社会生活関係にある平 均人のすべてにそれが実戌を要求せられるのである0 笑成不履行者や反法親範者は社会公共の諦融止を維持し 又は害われたる秩序を回擾するために公権力を以て強 制的に実蹟せしめられ、又は課罰的制裁が加えられね ばならない。

(註)新憲法に於ては法の理念として叉基本的入極 としての個人的自由の限界として公共の福祉けtlbl−

icヽVelf壬11・e)が京きれている。アメリカ合衆国の憲法 の前文にも一般の福祉(genefalwelfare)のために 憲法が制定せられたことを宣言している0 フランス

の入梅宣言に於ては国民のすべての幸福(bonhe11r de tot】S)のために宣言がなされたことを蛎示してい

る。憲法は国家の椒本法であってすべての国内法秩 序の基本原理として一切の実定法を制約し整序して いる抄であるから、憲法の明示する目的は法規範の 目的でなければならない。この法規範の目的が公共 の福祉である0

ラrドブルッフ(RadbrllCll)によれば法の理念とし て正式(GeIeClltigkeit)、合目的性(zweckl11玩S京gkeit)

及び法的安定性(Rechtsicllerheit)を拳示している。

このうち第一義的な法の通念は法的安定であり、そ れは秩序と平和である。正義が実現せられた法的安 定が公共叫福祉である。(RadhuCll;ReclltStIllilo射ヰト llie,S.70)ヂロス(Delos)は法の理念は公共の福祉

(lIien coll11111−n)であるとする。公共の両社について は或は祀会の成員のすべての着の利益(bielltlc to−

us seslllel11bres)といいl或は法秩序によって支配 せられた祀会全体に関する公共の利益(bien pl】blic)

或は産金の各成員の利益の條件たるところの社会的

利益(bien sncial)とする。叉ダーノヾン(DこIIJill)に よれば共同体の成員のすべての適法な欲望を調和的 に満足せしめることを目的としたところの偶人的公 共的活動の諸塾とする(COOl・dinatiolltles呈tCti17it毎 part二Cl111かes et pl−blil111es)(木村博士、法の理念と

して〃公共の福祉、法理学及国際法論集tI・73以下)

(3)

法親範はかくの如く弓追制的契機を首する石籍姐範で あるところに純粋なる遺徳親範とその宙ヵ、を具にする ものであるが、法と追徳との混合韓に追徳であり乍ら 法的性格を有し、法であり乍ら迫徳的性格を有するが 如きものが存在する。そのうち糠に法塊範の概念を明 確にする上に於て必要なる概念は自然法(.illSll血11・呈11 e)である。近代法特に民主々義の法理論は自点在の 原型に依存するものである。新憲法に於ける基巷的人 権の如きも天賦の人権であって国家によってはじめて 興えられたものではない。これは制定法の設定せる権 利ではなくして制定法に先行する自然法によって賦輿 せられたものであるとする。自然法に於ては理性的存 在者としての人間の理性を以て一助の思索の最高の準 組たらしむべきものと考へたのである。宗教的教義や 社会的因頚の如き非合理的、超論敏的な権威に反対し て合理的論理的な知識の権威を曜立することにより、

合塾的なる鉦真が実現せられ得ると考へられた。人間 生活の非合理性によって歪められた哩実の法の上に天 理自点に赴く恒久不易の自然の法が存在する。かゝる

自然法が法規範の鞋怨であると考へた。自然法は永劫 恒常の相に於て(subsl概1eaeteP11itatis)観られたる法 のオ質であってヽ実定法は時基的に制約せられた、経漁 的不純性を含んだ愛略儀まりない差別梱(}110〔liriea帖)

である0(Spilll)za:Etllical,PrOP・25)

トーマスアキナス(T】10111鵬Aquin礼S)は人間は沖の 擁壁たる永久法(lexaetel・na)に参興することによっ て自然法(lex natur礼lis)を認識する。自然法は人間に 啓示せられた限りの沖の意思であって永久法そのもの の全体ではない。国家の法たる人定法(Iexllu】llana)

は自然法を原理としてこれを布栢して現実の人間生活 の秩序(0Idoil−Stitiae)を定めたものである。かくし て自然法は稗の轟哩であり、沖の啓示であり、沖の意 思であって、人間の理性(ratio)のみがよくこれを認 識し得る0従って人間の理性の声に傾培することによ って碑の芦を措くことが出来るのである。かくて人間 の理性の法は碑によって異へられた法である。(Tll0−

mがAql】jJlが;Slmll・latll的logic且, ユ11aeSt・90)

等走法が樺定の国家と特定の時代との制約の下に可 変的であるのに対して自然法はそれらの経敦的な立法

の原理として時宗を超喝して普遍妥当的な法である。

(6)

法の理念的性格につい て      −43−

輿定法が立法者によって人膚的に制定せられたのに対 して、自然法は人間の理性によって認識せられる、画 の意思を表現する理性の法である。従ってそれは客観 的に明示せられた法規範ではなく黙示的な理想法であ

る。

(菖主)自然法に関する話語を蔑うに先ず自然法を以 て坤法(Oivine hw)と同意責に解する。虞の法は神 の定めた法の殊であって、それ以外の人間の定めた 法は不完全極まるものである。神の前には人間は平 等であるべきである。然るに階級を作り、支配階級 が被支配階級を抑堕する手段として法を定立したの である。奴隷制慶を公認した実定法の如きも正しく 紳法に反する。入定法たる実定法の反伸法的性格を 排撃した。人は生れ乍らにして創造柵から入間に国 有なる人格庸(自然掩)を輿えられている。これは個 人の善両のために存在する篠利である。これには生 命l自由l草間の追求等の基本的入庫がある。これら の自然権に対しては同家と錐も之を侵すことは出水 なレ、。寧ろ国家はこれを保障すべき任務を有するも のである。これについてライアン(Ryan)は禁酒法 や言論の自由の制限は人間の葺両のための不可欠の 樺刊の梗犯でなく日.つ法が人間相互の関係を規律す るものとして共同の両社(bonumC0−1−1111−me)のた めに制定せられたるものとして自然法に摩るもので はないとする。(Ryal一;f)ecliningLibertY,P.30以下)

攻に円無法を以て押性法(t胤W OfユtPaSOn)と考え る。自然法は人間の純粋なる≡哩性によって認識する 法の原珂である。フーヨ㌧−グuチウス(且一撃O Grot−

iHg)プーフエンドルフ(Pl】fendorf)等の自然法諭 はこの理性法であって−中世川柳11学的な自然法から 哲学的合理主義的自然法の段階に迂したのである。

人間の特質は頸性であって、押性によって人間は正 しい原理を詑讃することが田凍るのであるから理性 によって定立せられる原理こそ人間の世界に於て長 も正しい立法である。実定法のうちには非珂性的な 多くの要素が混合しているから実定法は不完全たる

ことを見るゝことが田凍ないとする。

攻に自然法は路律法(Mora11的V)であるとする。滝 徳の存在椒鞄(mtio essendi)は人間の良心(COnSCi−

ence)であるから道徳法の保持も良心に依存する。

而してそれは法であるから実定法との開聯に於て実 定法の理念ともいうべき正義Cjustice)衡平(eql】itr)

等をその本国とするものである。法の珊念たる音義 衡平の観念はその根源を入間の良心に発するとす る。かくの如き意味に於て遺徳的自然法は実定法の 押想法であり、際理法であると考えられる。こゝに 法と培徳との臆も密接なる関聯が穿見せられる。遭 徳を以て法の親整的原理CregulとLtiヽ▼PS Prinzit))と言 われる所以がこゝに存する。

最后に人間生活の多年の慣行により自らそれに達磨 して最も妥当なる生活基準として自然に形成された 法(N雨1−rallaw)であってこれはまた歴史的自然法

(historisclleS NatlmeCllt)とも呼ばれるものである。

これは囁輪的、事実的に形成せられたものであって 際坤的な性格を有しないが、多分に実用主義的な性 格が観取せられる。従ってこの自然法は実定法より も高次であって原理的なものであるとは言い得ない

のである。(高柳資三氏司法権の優位、P129以下)

自然法はかくの如く実定法に対照の意味に用いられ る。実定法の原理であり、文実定法の不完全さ、不備 を補充すべき性格を有するものである。従ってそれは 実定法よりも高次でありより深遠であり、より完全で あり、より原理的であり、より正当なるものである。

実定法は人によって明示的に定立せられたものである が白.然法は人によって明示的に定立せられたものでは ないが哩性的人間の貴も正しい判断根拠として人間の 理性乃至は良心のうちにその根拠を有するものであ る。従ってそれは法というよりも内実は道徳の範疇に 肩すべきものである。而し法とその妥当領域を異にし、

その性格を異にする道徳たることに満足せず法の銃城 に侵入して実定法の原理となり実定法を匡正し実定法 を蛍潤して、法の理念としての正単性よりの逸脱を制 御せんとするものである。これは即ち法と道態との問 に架橋せられた法であって、本来道徳規範が法超越的 立場にあって別個の地槽を形成していたのであるが、

法の地帯に閑人して法内在的立場に立つに到ったもの であると解することが出来る。蘭人の目的は実定法を 指導匡正することであって、実定法に反抗し実定法秩

序を琵乱し破壊するためではない。

カ1−トライソ(C誠hTein)によれば自然法ほ道徳律 の一面であるが、寒定法はその妥当棍拠をひとえに自 然法に仰がねばならないとずる。従って実定法の内容 は自然法に適合しなくてはならないのである。それ故 に実定法も間接に道徳的な規範でなければならないの である。

かくしてすべての道徳法は法規範であるとは限られ ないがすべての法規範は道徳律法でなければならない のである。すべての法親範は道椿法なる自然法によっ て基礎づけられねばならないからである。時間と客間 に無関係に理性的人間のあらゆる共同生活の必然的前 提たる法原理が自然法であって自然法が実定法の不動 の基盤を築くのである。それは軍に評的原理(statisches PIillzit−)として実定法を指導し、その不備を補充する

という単極的な意味における理想的な法たるのみなら ず、むしろ動的原理(dyna1−1isc1−eS Prin五p)として実 定法を通して事実の世界に自己を討現し、その実放性 を発揮しているのであって、実定濠は自然法の媒介者 に過ぎないと解する。(Victor Catlltrein;Nat11rreCht

ulld positiYeS RleCl11.日・223.279・310)

オツトrシリゾグ(Otto軋llil】ing)は文化主蓑の立

°

場から債樫的渡歩き叢を弓昆湘し文化をリ、て人間の道徳 的精神的並に物質的泄歩の表現と理解し、すべでの社 会現象の許債の窮極の監準は人顆の文化共同態の理念 である。これ以外の許債基準ほすべて誤りである。文

(7)

ー44− 今  井

化的進歩への努力こそ人間の射性である。自然法とは 理性が感性を更醗すべき音質的構造を甫する人間の水 性から導き出された自明の法(Oi】lIet−CiltellCle8Recilt)

であって、それはまた良心の声が宣言する遺葦的な呟

(8ittlidlLS NlltlけgeSe旬である。それは理性から流出 するものであってそれの絶対的草、正孝、最高償倍の 故に絶対的に安当するという要求をもつ棍摘、規礎から 由来するのである。白、惑法の姐範は紀射的正喜であ る。(銅Iillilヽg;UllIi$tliclle Soziaト11nLl恥とh叩Ililosop hie,S.47軋)

ペトラシエッグ(Petで鵬CheclC)は従来の自然法に修 正を加えて自然法はあらゆる賀定法の基礎をなすもの であるがそれが直接に事実に変当する法規範とは考え ない。それが法現象に安当するためには具体化の媒介 として笑定化されねばならない。従ってそれは間接に 適円さわ頒る潜在的に買足的な法である。

かくして自然法は実定法と結合して現実的具体的な 渡を形成するのである。自然法は現篭の速に内在しヽそ のうちに於て自己を具体化する原理である。自然法は 現実の法の形相として現実の法に内在して現実の法を 形成していくのである。実定法は自然法の形相を内在 せしめ、自らを形相の理念に従って法偵倍的に形成し ていくのである。それ故に自悪法と実定法とは二元ウ勺 な存在ではなくして、その対立は形相と素材との関係 に於て止揚せられるのである。(KarlO症oPetl・aSChek;

声ystelllLIellRech坤hilo801撮e,F・60,98)

法規範は法理念たる自然法の理念が具体的に実現し たものである。法は法理念を実現する限りに於てのみ その低値を保育するのである。

(4)

フエリックスゾムロ(Felix S0−−116)によれば自我を 意欲する自我と思惟する自我に分ち、嵩欲する自我は 素朴的なる自我であり思惟する自我は党敦的なる自 我である。法本質は普遍的、客概的な先像的自我の思 惟的作用によって生ずるものであり踵内容は軽珍的素 朴的自我の意欲の総体としてあらわれるとする。素朴 的自我の意欲する経壕的素材を先験的自我が法理念の 範疇によって整序することによって経態的法が契足せ

られるのである。法政値が超時間的な理念の世界から 時間的な自然的な意思の現実に浸透していくことによ って法が契現せられるのである。かくして親範の時間 化により抽象的な法の妥当性(Recllt8geh11g)は具体

°

的な旗の規範力CRecllSkl・風的 となるのである。(Pel

ix Sollllる;He血nlken zm eiller el・雨en Pllilo80Pllie,

声.66ff)

先酸的自我の形式は普遍的な当馬命題であって、こ

直  重

れはまた且然法規範とも称せられるのである。自然法 的規範迂法累材を先通約に整序することによって緩娘 的なる実定法を定立するのであるから実定法の形式た る自然法的軌範は実定法の内容たる経駿的意欲の陳件 としてそれに先行するものである。形式が内容の前提 である。法規範にかくの如く法の形式的なる当房的要 素と内容的な事額的意欲的要素力二先数的に鶴合せられ ているのである。それ故に法形式は法内容一般であ り、法内容詫呟形式の播殊化であるということか出来 る。こゝに法の規範座と法の実枚性との不離の困窮が あり、法理念を実現しない法晩範は考えられないし、

法内容を賀しない法理念結末だ寒現されない宗虚な形 式にすぎないのである。

セエーンフェルト(SdliinfelLl)は実定法の本質的形式 としてそれを可能ならしめる法理性(Reclltヽrerlll】llrt)

を定立する。法理性はそれ自身註法で註ないが、それ は濱を可能にする膵件である。法理性はカゾトの実践 理性(Pr鶴田iSClle Vernunrt)の如きものであってこの故 に法ほ必惣伽こ倫理の蘭塀をもつ。法理性は普遍的で あり、絶対的であるが故にロゴス的であるが、それは 無銭的行的なる原理として、意思を指向して責務を善 鰐するか故にエスト的である。(Waltller鮎lldnfelLl:

Dielogische Strtlktl】r deT RechtsoTdnt111g,声.28)

この普遍的なェスト的絶対者は法のうちに実現せら れるのである。法は法理性の倫理的使命に奉仕するこ とにより法共同体の存在を可読にするた鋸こ必須的な るものであり、共同能の倫理的行席を可能ならしめる ものである。

かくて法は法理性の自己実現であり共同体の法理念 にる正竜への意思の発現てある。法は法共同体におけ る法理性の莫堀であり、正義への嵐恩の発現として表 現せられる。

ヨセフコーラ「(Josef Kohk汀)は韓に法の文化的意 茸を強的し、怯現象は文化現象の一部であるとする。

踵は文化に詐仕するものである。文化現象は街燈現象 である。煩櫓を輩的し、希求することにより、人間生 活を一一厨高度の生活形式へと不軌の努力を捧げ、文化 の進歩(Kl血1・fofbc】lritt)を促すものである。法規 範も亦文化現乾の一部としてこの目的に奉仕するもの である。(J°LIUf Kolllq1JehrbucllLIer Rec】lhphilos−

OPllこら軋14)

旗の文化的意藁の歌謡者としてウイルへルムザウエ ル(WIlheユー=熊山げ)を挙げることが出来る。彼は文化 の本質詫日.窯への供蝉賦輿、自然状態の底値的状態へ の移行、自然の克服とそれの債倍化と完成への匪接で ある。憤値担荷的入間の鏡檀追求と臍値実現への努力 は文化活動の現寒的基礎であり、文化ほかゝる億償追

(8)

法 の理念的性格に つ い て −45−

求の総体である。蝕値担荷的人間によって懸多の低値 の最小統一体としての、文化の原子、飽倍の原千、億 倍モナ「ド(WeI・もー11(−nごItle)が生産せられる。かゝる 債値モナードの嗣和コ勺統一が文化の世界である0文化 は諸種の飽値モナードから綜合される、それの調和朗 統一である。法は呟理念によって整序された債値モナ ードの秩序である0

而して債値モナrドは債倍を追求し実現する人間 の現実的努力を意味し、但値自体を意味し、また低値 の具体的表現たる文化客体をも意味する。人間の社会 生活は社会競飴倍追求(SOzirtleWert†)eStl・el)1−11g)の生 活であり、それは運動状態における債値モナrド(We一

Tt−ユron孔dei−ll ztISt紘llLie dep BewegtIllg)である。(W−

il】lell】1‰uer;T.ehrbuch derRechtsphilos。Pllie,β・12 7.199)

かくて法はまた鍍金生活促進(Pdrderungdes酢Se llSCll礼ftlicllenI.ebens)のための債値モナ←ドの秩序 であるということが出粟る。文化は唐倍甜輿的現寒で あり、法規範はその法鮨倍たる正蓑に関興することに ょって規定された一つの現実即ち低値モナrドである ということが出水る。

グスタアプラrドブルッフ(Gustav R鋸持田−Cl−)は法 の概念を規定し、法のオ質を制約するものは法の偵値 または法の理念であるとする。法の概念は一つの文化 概念である。それは低値に関係ずけらた実在の概念で ある。但倍あるが故に実放性を膏するという意味を育 つ実在の概念である。それは法理念によって整序せら れるものである。(GlはtaVRRdbrl−CIl;lech呼hiユ(j80−

Pllie,声・29)

而し彼は法の憤倍形式に清足せず、法債値の内容を 開祖とするのである。芭偲値の内容を三三つに分ち、個人 的低値を高く許厳するか、囲伽勺鏡倍を高く許但する か、文化の客班的債脳を高く許儀するかに従って\個人 的人格墳値、囲体墳値と文化鰯倍の三貴とする。個人的 人格憤値に於ては法注個人の関係であり、固体低値に 於ては法は超個人的立場に於て、即ち国家的全体的立 場に於て埋解せられ、文化低値に於ては法は超人問的

(tran叩er軋meな立場に於て哩解せられる。これらの 鰯値は各人の鰯値相世界瑞こよって何れかを辰高のも のとして信奉するのみであって、理性によって論理的 に墳値の優位性やその客親的正当性を証明することは 出爽ないとする。彼にあっては債値は認識出来るもの というよりも確信出来るものである。低値判前は証明 が可能ではなく、それらは確信せられるのみである0

而し法理念としての正義(Gerechtigkeit)と合目的 性(zweck了雨SSigkeit)と法的安全性(RecjItSqiclleユ.11e−

it)は世界砲但値域の対立を超えた普遍妥当的なもの

である。これらの法理念が互に衝突し合う場合にその 執れを着高のものとするかについても個人の艮心の決 狛こ委ねられるのである。彼によればかゝる場合に旗 的安全性を第{養とし他を第二菱的のものとすること が撃まれている。白己の法的確信を犠牲にして蕪定法 を鞋守すべきであるとする。それ故に現実の案定法は 債値紳士文化規敵手なければならないことが必然的に 要請せられる。然るに視察には人間の良心が全くは順 し得ない惑法も存在する。かゝる場合に法理念たる正 義に殉せんとする艮心の要求を現実的安定を最守せん とする宰定法の犠牲とせざるを得ない語傑となる。こ ゝに正当性(1−egはimlt就)の要求と安定性の保持との 間の矛盾接着が存在する。

(5)

かくて法規協は法理念、法偲俄の鞄現であると共に 現実的実定性によって制約せられるのである。法瀕輩 は現実的等定性に都南せられることによって事実に盛 典するのである0法義範が実敦性を育するのはこの事 実的鯛興を意味するのである。勿論法はいつも重夫と して討在しているとは限らない。旗の嘉走せる該当事 実が発生しない間は潜在している。それ故法の潜在効 力:ま纏えず存続しているのである0従って法には潜在 効力と顕在効力とがある。椒在効ノjは法義範が奇異に 妥当して行われていること、軋ち実効性を有すること に於て存し、潜在効力話法税聡が該当事契さへ発生す れば直ちに期在効力となってその鶉寒に妥当して実効 性を発揮する可能的な法の効力である。それ故に旗の 効力には該当事実さへ発生すればそれに卸して夏当し その実効性を発揮せんとする不加の嵐範竹要求が含ま れている。法の潜在効力は法理念の司法態崩、兢範妥 当的性格に存するのである。むしろこれが法のオ質的 な部分をなすのである。法はこの法哩念、法億値の現 実的期現である。

法実証ヰ義の学振(腫史法学庇や社会法学取)に於 ては法は苺巽を杭拠として即ち祉会や民族む藁態とし て、それから発生したものであって、これか慣行によ って次第に凝瀧し、同定化して遂に事実が変質して規 範的性格を附帯するに至ったものであるとする0イェ りネック(Jelli11ek)はこれを堵実の視囁力(1−Orlna一 tive KraftllかrF訂di吋11en)といっている。((eorg JollIllt,k;=Lll押llellle軋 tSlehre,$・329ff)而L単な

る経輪的な欲華的な奉賀そのものから先顎的な規範は 生ずることが出来ないのである。かゝる現謹化される と考えられる事理注軍なる事実ではなくして既にそれ 自体のうちに理念が潜在しているのであって、その潜 在理念が鞘在性を顛わにして規範力をあらわすのであ

(9)

−46−       今  井  直  重

る。外面的には全く事実から発生するが如き綴相を呈 するが内実的に考察すれば社会や民族の意欲や慣行の うちに奴に党酸的な理念が胚胎しているのである。即 ち形相としての法理念が法菜紺としての鉦会意職や民 族意識のうちに内在して社会的環礁竹男材を形相化し て法轟範を構成するに至ったのであると解するのが安 当である。

文法の輝力的契機を罷寵する実力寺茸的法繹矧こ立 却する古くはギワシいデのソフィスト(βopllist)近くは ヲツサール(PQrdinandI一礼約1e)は法を以て政治的実 力者の命令であるとする。法はこの実力的文既済の意 思によって定立され、その階力によってそれの効力を 保障されているものであるとする。かくの如き法は全 く軍配者の悪意的暴力的強制の覇絆であって非合理的 な物理力に異らない。力は正義なり(−】lightis right)

という律言は契力士薫を謳歌するものであって、章里性 の認証を許さ々る立言である。パスカル(P乱SCal)は実 力なき正苛は無力である(justice sanslaforce e雨illl−

p1−1絹地nte)tP礼埠Cal;Pem料鵬,SeC.298)といいりウメ

りソ(RbTltelin)は不法な実力によって保障せられる 秩序は実力のない法に優る(Max Riimel叫I)ie Ree htssicllerheit,S.24)といっているのは法の権力的契機 を礪調しているに過ぎない。力が正茎であるのではな

く、むしろ正苛こそ力なのである。正宅が力に依存す るのではなく、力が正茸に依存するのである。自ら顧 みて正しからば千五人と錐も吾ゆかんとの勇猛心は、

力が王E聾に依存することを表明するものである。いか に強大なる惜舶勺更厘者の命令と経も被更配者が眞に 衷心よりその命令を正黍の発現として畏敬の念を以て 苛奉するのでなくして、軍に課罰に対する感怖の念よ り外面的擬菜的軍行をするのみであれば、速に障れて 恥無きの輩たるのみである。かくの如くなれば法の本 質的性格:ま全く忘却せられ、債倍的、文化的意味は喪 失して、法は祁二会的現者の自己防衛自己拡大の具と化 するに至るのである。

社会き茸的法律観に立却する学的見解より近代法は すべて近代市民社会の鼓強者であるブルジョア(bo11r−

geois)擁護とその発展のための規範であると理解する のは、法をかくの如き経惨的方便的な単なる制渡と考 察するからである。而しそれは法の列表であって法の

本質ではない。

いかに絶対若手や独裁者の命令としても、それが法 として行われる場合には軍にそれがカなるが故に正義 として行われるのでほなくして、その命令が法の理念 としての正竜を内合するが故に法としての実効性を膏 するのである。即ちそのうちに打合せられている法理 念たる正熟こ対する披更配藩の理性の認証によって文

持せられてその実効性を有するのである。若しこの理 性の認証が得られない場合にはその法は単なる仮葬的 垣守はせられるのであるが、間隙に乗じて革命的圧力 として爆発し理念的ならざる法は排除せられ理念的な 法が所に定立せられるに至るのである。

(謹)法の実効性の根拠については繹々なる教詮が あるがそのうちの喜たるものを拳示すれば先ずピア

リング(攻erli−1g)の承認謀である。法が社会に行わ れるのは祀会的人間がその法規範を承認してそれを 遵守するからであるとする。法なるがために盲目的 にこれを承認するということは全く合理的な説明を 欠いている。法規範が法として承認されるのはその うちに償値が存在するからであって、法の承認は法 の慣値の認証である。法に内在する慣債が法に規範 力を輿え、理性的人間の承認を必然的ならしめる。

こゝにまた法の客観性が存在し、客領的妥彗即ち実 効性が保障せられるのである。(Bierling;ztlf Kl・itik

der jlll・istiトCllen Grllndhegrifffl,声.2仔)

ラレンツ(K且で11.ヱIrellz)は法は民族共同体の国体意 思の表現であるとする。民族共同体の意思が個別的

人間の意識のうちに自己を実現してゆく所の力が法 である。法は民放共同体の意思の嬰求であって、若 し個別的人間がこの意思の嘆求に違背してそれの志 向する軌道よ 逸僚せんとするとき、その個人の意 思に固して規範としての力を発揮するものであると 考える。(Larenz;Das ProblellldellRechtsgelttln 第日.5仔)

彼:ま法は特定の共同体の具体的な生活秩序であると する。法が要等するのは民族の客観的将帥に結びっ いているがためである。法は民茶の普遍意思と個人 の特殊意思との統一を志向するものである。法の妥 当・は畢なる尊慮の安等(sollengeJtlmg)ではなくし て、民族の客観的精神の現実意として同時に現実的 要等(re且Ie Geltmlg)である。正義とは特定の民族 における尊慮的意思と特殊意思との繚一再たるべき 法の概念に一致することである。かくて法は民族的 客観的法掃神に適合するときに於てのみ正しいので ある。而し乍ら民放共同体の意思の志向するところ が正義であるとの先験的理由は確認せられることが 出衆ないのである。

ダインー(Albertヽ enn Dicey)によれば法は輿論 によって動かされる。紅色の輿論が現実の支持して いる間は法秩序は安定し、法は有効に祀会秩序を規 律する。かくして輿論こそ法定立の原動力であり且 つ定立された法の効力を支持する根拠であるとして 輿論記を手張する。こゝに輿論とはその時代の祀会 の多数によって支持せられた意見である。その法規 範が有益であるとして祀会に廉く行われている信念 であるとする。(Dicer;hectureslDllthe Rehtion bet、TeenIJaW andPublicOpiniol11−1Englanddur−

illg tlle19tIICt・P・3),而して単なる多数の悪意的 意見が祀会せ動かす力をなすものではなく輿論のう

ちに澄会を動かし、祀会を指導する客観的な理念が 内証しているからである。単なる輿論の多数性が法 を作り、法を動かし祀会を支配するのではなく、客 観的な法の理念たる正義を志向する輿論にして法を 定立し、祀会を指導することが可能なのである。

(10)

法 ら三哩念的性格に.つ=い て      −47−

へrゲル(Priedl・icll且egL・1)によれば単なる多数意 見の集積と超個人的な超主歓的な客朝紡紳(oltekti Ver Geist)である普編意思(nllg細Ienぐ1・W上lle)即ち 固体意思(Gellleinwille)とは巌に区別せられねばな らないのである。前者は輿論の仮象ドChill)であ り、后者は輿論の本質である。后者は嫡蹄たる個別 者(d且S E1−1Zelne)の立場を持てゝ個別肴を包接し 両も個別的契機を止揚する普邁者(das Alユgenleille)

抄立場に立っものである。かゝる普遍者の超他人的 な固体を迫義態(Sittllell1くelt)という。国家は道義 態であって、閲哀れ普遍意思にして始めて法を定立 L、法を動かすことが比茹ミるのであるDかく して法 は国家の普通意思の拡現である。個別意思の璃殊性 は囲射こ於て始めて国家意思わ普遍性にまで高めら れることが出乗るのである。航殊個別の精頑が閲家 lCよって普遍的容顔的特利=Cまで数化、昂揚せられ ることが出来るのである。かくの如き普邁意思の要 請として打法は個人的恋意の集積ではなくして理念 が国民の自慢を通じて好現したものと理解せられる のである。/∬鴨el;Grundlillien der Philosopllie tl es Reehts,声.195丘)

(6)

眞なるもの、窮極的なるもの、先蛤的なるもの、理 念的なるものを追求してそのオ源を把握せんとするこ とは哲学に課せられたる使命であらねばならない。こ ゝに於て法哲学に於ても法の理念、法の侶値酌先患鱒 契機についての扱党がなされねばならないことは当然 である。それ故に新カゾト振特にバアデ/学涯に於て 法の低値的先奴的要素についての研究に専念せられる 所以が存する。tWindelband;Eillleitullgin die Phiト OSOplliq声,211.fL Ricke叫Gegen軸Lltd tler El・kenll−

tnis,S.205仔.h料唇pic Logik der Pllilosuplliel−n−

d Kategorienlehre,S.2庁)

而し乍ら彼等に於ては余りに先論的偵値的側面に忠 実であり過ぎ形式的契機のみに局偲せられたためにそ の内容的側面が全く閑印されて了った幌向がある。勿 論存在の認識棍軌ま先験的煩値判甜こ存するのでなけ ればならないが、全く存在を疎外したる認識論的形式 的制約者はあり得ないのである。軸ち存在は当馬にま で高められ、当馬のうちに止揚せられねばならないの である。かくして法規範は胞値的当馬の性格を保有す ると共に存在をその内容として具有するものでなけれ ばならない。法視聴の問題は法の理念性とその実定性 との統一的なる法理的課題であらねばならない。而し 法規範が故理論に根拠を膏し、その実定性に底礎せら れるからとて法況範の問題を以てその契定性の成立根 拠を探求することを能事することは非哲学的な皮相な 見解といわねばならない。(Billder RechtsbegIifrl−11−

d Rechsi(leq S.6う)

それ故に法理念と法事実との関聯の涌竃が法哲学の

中核的課題である。即ち法の妥当が問題の法規範の本 質的課題である。従つ七最后に更にこの間題について 考察を軍ねることにする。

イエリこネック(Je11ilieli)によれば法の妥当の置き 拠を法凝範の壇守の心理的確信、競班毎守の責務意讃、

義範の意思を数糖づける能力(Motivatjonさ柑1jgkeit)

に存するのである。而してこれは遠実的なるものtdas P礼ktische)を妥当的なるものくdas Ge圧ende)に輯化 するもの、春賀的なるものゝ規範カ((liellOrll】ative

Kpaftdes PaktilCh組)であって法的確信の心理的設 明を以て法の客用的妥当性の債倍判断に代へることは 出来ないのである。LJeunek;AIIgemeine Ftaatslehr

e,声・333斤BiIldel・;RedltSbegfiff und Rechts三dee,札 24仔)

シユタムラr(Stalllllller)も心理主記の立場に於て 法を以て枯合せられなる意慾(einve油indelldeS Woll en)であるとなし、それは人間の意慾の社会的に完全 なる諏和(vollcndete王IaIll10nidであるとする。法 の妥当は定立さるたる法たる轄合意慾が自己の存在を ヨニ張し(BehauptungdeでeigenenExistenz)自己を毘徹 するカであるとする。而し彼のかくの如き組合誌慾、社 会軋調和的意慾はアポステリオリな経験的なるもので あって、純粋な党旗性を欠いたものである。彼の意慾 が軍に心理的なる概念に存する限り、法の妥当の哲学 的諭卿勺詮明は不可能となる。法は入間が恵慾するが ために妥当するのではなくして意慾せられねばならな いから妥当するのである。従って事実的心理的な意慾 を以て先敵的な法の妥当の紋拠とすることは不可能で ある。(Sta−I一m如;rrileO∫ie rlerRechtSwis6enqCll;tft,8.

57仔)

法の妥当の開題は心理的可能性乃至は動触づけの問 題ではなく、偵艇的な妥当要求(Geltl】ngS楓1−Sl)1・llCll)

の関越でなければならないのである。ラレンツ(】一礼でe−

m)は泰実としての妥当を串実的雇土会的変当と称し観 念的戎範的変当と区別する。(Kal・11al・eIIZ;DaJPf。

1−1e−lldel・RecIltSgeltullg,日.13仔)

法の蛋当の檻鍵をそれの実効惟(W▲1・kSalllkeit)に 求めるものに社会学渡がある。産土会学灰も心理主菜の 限界内にあるのではあるが、港を個人における関係よ りも虹会における関係に於て理解する。社会学涙は個 人的心理作用を出発点とするものではなく、社会的心 理を出発点とするのである。法の変当は法の社会生活 における社会的事実的実効性の承認にとゞまるのであ る。法の妥当は社会的、事実的実効性の衰記にとゞま る限り、それは睾なるアポステリオリな事実であっ て、アプリオリな権利(qllidjufis)ではない。而し法 の妥当の問題は事実の問題(ql−iLIfacti)より権利の開

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