みせる唐津くんち
―佐賀県唐津市江川町を事例に―
キーワード:都市祭礼、近代化、観光化、伝統への回帰 人間共生システム専攻 共生社会学コース 永富友樹 1 はじめに 本論文は、佐賀県唐津市にある唐津神社の秋 季例大祭、「唐津くんち」に関する論文である。 唐津くんちとは「曳山(やま、ひきやま)」と呼 ばれるものを曳いて、唐津の町中を巡行すると いう都市祭礼である。毎年11 月 2 日、3 日、4 日の日程で、提灯飾りをつけた曳山が町を巡る 2 日夜の「宵曳山(よいやま)」で唐津くんちは 幕を開け、4 日の「町廻り」で幕を閉じる。3 日だけは神輿の御旅所への神幸に曳山が随伴す る形で巡行が行われ、御旅所では神事が執り行 われる。曳山を所有する町は14 ヶ町あり、筆 者はその中の江川町という町の曳山組織に 2013 年 10 月から 2015 年 1 月まで密着して調 査を行なった。 曳山が誕生するのは刀町の「赤獅子」が作ら れた1819(文政 2)年であるが、寛文年間(1661 ~1672 年)から神輿の神幸自体は行われていた とされる。1763(宝暦 13)年には傘鉾山が奉 納され、各町の火消組が担いで神幸に随行する ようになった。これを「かつぎ山」と呼ぶ。そ の後18 世紀後半の水野氏藩主時代には車輪の ついた「走り山」に変わっていった。江川町の 「赤鳥居」、本町の「左大臣右大臣」、木綿町の 「天狗面」、塩屋町の「仁王」、京町の「踊り屋 台」などが神輿と共に町を巡った。そして「赤 獅子」の製作を皮切りに各町競争するように曳 山を作るようになる。曳山が神幸に随行するよ うになるが走り山も存在しており、両種のヤマ による巡行が行われた。走り山を維持していた 町も曳山の趨勢におされ、1876(明治 9)年の 江川町「七宝丸」の製作をもって、現在のよう に神幸には曳山のみが随行するようになった。 唐津くんちは3 日間で 50 万人近い人が見物 に訪れるほど大きな祭礼であるが、全国の多く の祭り、祭礼がそうであったように、もとは町 民たちだけの閉じられたものであった。曳山は、 祭礼日以外は小屋に格納され、人の目に触れる ことはなく、門外不出とされていた。それが現 在のように多くの見物客を集めるようになった 背景には、経済成長による社会変化がある。戦 後の復興期から高度経済成長期にかけての経済 的な発展によって、かつては祭礼時を待たなけ ればならなかった娯楽や憂さ晴らしの場は日常 に容易に求めることができるようになり、祭礼 の非日常性や人々の関心は薄れていった。この 時流は全国的なもので、唐津くんちにおいても 例外ではなかった。曳子(ひきこ)と呼ばれる 祭礼の担い手や神輿の担ぎ手が減少し、唐津く んちの存続は危ぶまれた。そこで関係者たちが 唐津くんちを盛り上げるために推し進めたのが 観光化であった。本論文では観光化について、 出動、開催期日の変更、曳山展示場の建設の 3 つを柱にしてその過程を追った。 外部に向かって「見せる」ことで観光化が成 功し見物人が増加すると、曳子たちの間に「見 られるに足る」唐津くんちにしようという意識 が芽生えてくる。具体的には、曳子の風紀の乱 れを規制したり、曳山の色や衣装の柄などを製 作当時のものに近付けたりといった動きにその 意識は垣間見られる。見せるからにはちゃんと したものを、という精神は曳行技術にも及んで おり、狭い箇所での危なげない曳行や方向転換 が優れているとされている。2 観光化によって唐津くんちに備わった「見せ る」という性格と、「見られるに足る」ものにす るという性格の両者を兼ね備え、高めた姿が現 代唐津くんちのめざすものであると考える。そ してそれを今現在高い水準で体現していると思 われる江川町の取り組みを通して、唐津くんち のめざす先を見るというのが本論文の主旨であ る。 見せるくんちから魅せるくんちへ 前述したように出動、開催期日の変更、曳山 展示場の3 つを柱にして、主に新聞記事を資料 として観光化について論じた。 まず、出動とは曳山を唐津市外で展示したり 曳いたりすることである。門外不出とされ祭礼 日以外には人の目に触れることのなかった曳山 は、1951(昭和 26)年の福岡市への出動を皮 切りに、現在に至るまで国内外を問わず様々な 場所に赴いている。宣伝隊が行った先で単にポ スターを貼ったりビラを配ったりして唐津くん ちの宣伝をするのではない。1、2 トンもある曳 山を実際に現地へ運び、曳子たちが本番同様の 衣装で囃子を奏で、場合によっては曳山を曳い て町をまわり、出動先で唐津くんちを再現する のである。その効果は写真や映像の比ではない だろう。五感をもって人々に印象付けることが でき、出動を重ねることで唐津くんちは徐々に 全国に知られるようになっていった。 次に開催期日の変更であるが、これまでに 1913(大正 2)年と 1968(昭和 43)年の 2 回 なされている。神幸はその始まりから長い間9 月29 日に行われていた。これは、西の浜で御 神体の鏡が発見されて孝謙天皇に奏上され、「唐 津大明神」の号を賜ったのが9 月 29 日であっ たという縁起に基づいている。それが新暦の一 般市民への浸透、また政府からの通達により 1913 年から 10 月 29 日に御旅所神幸、翌 30 日 に町廻りという日程になった。 1950年代後半からは、開催期日を11月3日、 4 日に変更してはどうかという意見が出始める。 その理由として、商店の月末決済と重なる、児 童生徒が学業に集中できない、開催期日が日曜 日と重なる年でないと見物できないといったも のが挙げられている。戦後の経済成長のさなか にあった当時、もはや盆暮れ決済で済むような のんびりした経済状況ではなく、商取引は月末 決済で行なわれていた。また曳子には商店経営 者やその関係者が多かったため、そういった 人々は唐津くんちへ参加するために大きな犠牲 を払わなければならなかった。また、10 月 28 日、29 日が何曜日になるかは年ごとに違い、運 よく日曜祝日と重ならない限り地域住民も容易 に見物には行けないし、市外からの見物客とな ればなおさらだった。さらに会社への勤め人が 増加したという世相も影響しており、こういっ た人々は平日の祭礼参加は難しい。文化の日を 含む11 月 3 日、4 日へと改めればこれらの問題 は解決するため、期日変更の声が徐々にあがる ようになっていった。 唐津神社や氏子総代会、唐津くんち行事をと り仕切る唐津曳山取締会で幾度も議論が交わさ れたが、伝統を守るべきであるという意見が強 く、期日変更は否決され続けた。しかし段々と 期日変更を容認する声が強くなり、1968 年、11 月3 日に御旅所神幸、翌 4 日に町廻りという日 程へと変更がなされた。ただし伝統保持の立場 の妥協点として、唐津神社本殿での神事のみは 従来の10 月 29 日に残すこととなった。この開 催期日の変更によって曳子は参加が容易になり、 観光客は見物に訪れやすくなった。 次に曳山展示場の建設についてである。前述 の通り、従来唐津くんちは町民たちだけのもの
3 で、その意識から自分たちだけのものである曳 山は、ともすればぞんざいに扱われていた。そ れが1958 年に佐賀県の有形文化財に指定され たことで保存に目が向くようになる。1959 年に は唐津神社前に全14 台を収める格納庫が完成 するが、すぐに観光面から不満の声があがり始 める。格納庫はあくまでも保存のための施設で あり、観光客は依然として祭礼期間中でないと 曳山を目にすることはできなかった。こうして、 曳山の保存と共に、展示をも目的とした施設を つくろうということになった。1970 年に念願か なって曳山展示場が唐津神社横に完成し、観光 客は祭礼日以外も常に曳山を目にすることがで きるようになった。この展示場は唐津観光の中 でも人気の場所で、全国各地から多くの観光客 が11 月の本番を待つ曳山に会いに来ている。 これらの観光化が功を奏し、見物客は徐々に 増加していき現在では50 万人を超える人々が 期間中に唐津を訪れているし、一時は存続さえ 危ぶまれるほどに減少した曳子希望者は順番待 ち状態である。外部に「見せる」ことで盛り上 がった唐津くんちは、人に「見られる」という ことを意識し出す。サングラスの禁止など曳子 の服装の規制に始まり、現在では曳山の色や衣 装の柄などの原点回帰が進んでいる。ただしこ れらは、唐津くんちによほど詳しい者を除き、 観光客には到底分からない違いである。それに もかかわらず関係者たちは伝統、原点へと立ち 返ろうとしている。それは、見せるからにはち ゃんとしたものを、というある種のプロ意識や 職人気質であるように感じる。 そして筆者は密着した調査と聞き取りから、 江川町は観光客のために「見せる」面と、「見ら れるに足る」ような祭礼をめざす面の双方を高 い水準で体現しているのではないかと考える。 行事の際に顔出しパネルを設置したり、鳩を飛 ばす仕掛けをしてみたり、巡行の最後尾である という特徴を活かして見物人を巻き込んだ見せ 場を設けたりと、「見せる」ための様々な取り組 みを行っている。その一方、乱れなく曳山を曳 くために組織は厳しく統制され、その年の曳行 を振り返るため唐津くんち期間中に撮影班を設 けてまで反省会が開かれ、巡行中に難所にさし かかる際には逐一訓示の時間が持たれるなど、 曳行の精度向上を図っている。また、曳子の魂 とも言える肉襦袢(一般的にいう法被のこと) の扱いについても、決まりを破れば即参加権を 剥奪される。例えるならば、イエローカードの 猶予なしでレッドカードでの一発退場である。 そこまで厳しくするのは全て組織の規律を正し、 恥ずかしくない曳山を曳くためである。観光客 を集め楽しませるために「見せる」ことを続け ながら、その一方で「見られるに足る」ものに しようという精神が流れている。この姿を本論 文では「魅せるくんち」と表現し、この魅せる くんちこそ現代唐津くんちの目指すものである と結論付けた。 主要参照文献 芦田徹郎 2001 『祭りと宗教の現代社会学』 世界思想社 飯田一郎 1966 『神と佛の民俗学―佐賀県の民間信仰 ―』酒井書店 古舘正右衛門 1985 『曳山のはなし』古舘鴻輔 唐津市史編纂委員会編 1962 『唐津市史』唐津市 唐津新聞社 『唐津新聞』 唐津神社
4 『唐津神社社報』 熊本大学教養部現代社会研究会 1994 『くんちを生きる人びと―曳子と曳山 組織―(現代唐津くんちの研究・中 間報告1)』 熊本現代社会研究会 1996 『くんちの伝統と変容―唐津くんちの 戦後史―(現代唐津くんちの研究・ 中間報告2)』