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観光客への温かいおもてなしの心の醸成は 観光客の心に寄り添うことから始まります そのためには 大津が有する財産を まずは大津の観光に関わる人や 市民自身がしっかり享受し 知り 学び 楽しみ 大津人が一番の大津ファン になることが必要です 大津商工会議所では 大津にある数多くの寺社 歴史資産 文化資産

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大津商工会議所

大 津 おもてなし塾

講 演 録

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観光客への温かいおもてなしの心の醸成は、観光客の心に寄り添うことから始まります。 そのためには、大津が有する財産を、まずは大津の観光に関わる人や、市民自身がしっかり享受し、 知り、学び、楽しみ、「大津人が一番の大津ファン」になることが必要です。 大津商工会議所では、大津にある数多くの寺社、歴史資産、文化資産について理解を深め、大津人 としての誇りを感じていただける連続講座「大津おもてなし塾」を 3 つのテーマに沿って開講しました。 この講演録をご活用いただき、一人でも多くの方に大津のファンとなっていただれば幸いです。 観光客がまた大津に来たくなる! おむかえする大津の人が、大津を学ぶ 観光客へのあたたかいおもてなしの心の醸成は、観光客の心に寄り添うことから始まりま す。 そのためには、大津が有する財産を、まずは大津の観光に関わる人や、市民自身がしっか り享受し、知り、学び、楽しみ、「大津人が一番の大津ファン」になることが必要です。 大津商工会議所 観光・運輸部会では、大津にある数多くの寺社、歴史資産、文化資産に ついて理解を深め、大津人としての誇りを感じていただける連続講座「大津おもてなし塾」 を開講します。 第1 第1 第1 第1回回 回回 平成平成 27平成平成272727 年年年年9999月月月月30303030日((((水日日日水水水)))) 14141414:00:00:00:00~~16:00~~16:0016:0016:00 日本天台三総本山を知る日本天台三総本山を知る日本天台三総本山を知る日本天台三総本山を知る 大津市には、「天台宗総本山 比叡山延暦寺」、「天台寺門宗総本山 三井寺」、「天台真盛宗総本山 西教寺」 の天台三宗の総本山があり、これは他都市では類を見ないことです。各寺の歴史・由緒・文化財など、 それぞれの特徴と共通点について知っていただきます。今秋の日 本天台三総本山キャンペーンについてもご紹介します。 登壇:比叡山延暦寺 副執行参拝部長 中山玄童師 三井寺 執事 福家紀明師 西教寺 社会部主事 中島敬瑞師 (公社)びわ湖大津観光協会 事務局長 田中眞一氏 会場:琵琶湖ホテル 2 階 ローズ 第 第 第 第22回22回回回 平成平成 27平成平成27 年2727年年年12121212月月月月7777日日日日((((月月月月)))) 14:0014:00~14:0014:00~~~15:3015:3015:3015:30 近江神宮を知る近江神宮を知る近江神宮を知る近江神宮を知る 天智天皇をまつる近江神宮は、4 月 20 日の例祭には天皇により勅使が遣わされる全国 16 の勅祭社の 一社です。大津市の発展の源泉は、天智天皇の大津宮遷都に始ま り、古都指定を受けた意味もそこにあります。百人一首とのゆか りも深く、競技かるたが題材のアニメ「ちはやふる」に関する取 り組みについてもご紹介します。 登壇:近江神宮 権宮司 大木伸二氏 (公社)びわ湖大津観光協会 事務局長 田中眞一氏 会場:大津プリンスホテル 2 階 伊吹 第 第 第 第3333回回回回 平成平成 28平成平成28 年2828年年年2222月月月月9999日日日日((((火火火火)))) 14:0014:0014:0014:00~~15:30~~15:3015:3015:30 石山寺を知る石山寺を知る石山寺を知る石山寺を知る 紫式部が「源氏物語」の着想を得た地といわれており、「蜻蛉日記」「更級日記」「枕草子」にも登場す るなど、芸術家や文人たちに深い感応を引き起こす石山寺。聖武 天皇の勅願により、如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりと されています。2016 年は、本尊・秘仏如意輪観世音菩薩の 33 年振りの御開扉の年にあたります。 登壇:石山寺 座主 鷲尾遍隆師 (一社)石山観光協会 副会長 和田博氏 会場:ロイヤルオークホテル スパ&ガーデンズ 1 階 ラベンダー ●対象 大津市内の住民・事業者の方に限らず、どなたでも受講いただけます ●定員 各回 50 名(先着順、受講できない場合のみご連絡いたします) ●申込 申込書に必要事項をご記入の上、FAX にてお申込み下さい。 ●受付 当日は、各回開始 30 分前より受付いたします。 ●主催 大津商工会議所 観光・運輸部会 (大津市打出浜 2-1 コラボしが 21・9 階 TEL077-511-1500 FAX526-0795) 受講料無料

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第 1 部  

中山 玄童

 師

(比叡山延暦寺副執行参拝部長) 比叡山延暦寺は信長の焼き討ちにあって全山が一旦消滅しましたが、現在、建物は 100 ほど復興 されています。焼ける前は「比叡山 3 千坊」と言われるほどたくさんのお堂や建物があり、多数の お坊さんを養うだけの勢力を持っていました。延暦寺というと僧兵というイメージがありますが、 広大な領地の見張り番をする役目を担っていたお坊さんも一部いた、というだけのことです。 その中心のお堂である根本中堂がある地域を東塔、西に行くと西塔、少し北へ行くと横川があり、 それぞれ本堂があります。山全体の総本堂が根本中堂であり、西塔にはお釈迦様をお祀りする釈迦堂、

日本天台三総本山を知る

【大津おもてなし塾 2015】 

2015 年 9 月 30 日(水)14:00 ~ 16:00

琵琶湖ホテル 2F ローズ

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手に薬壺を持ち、私たちの方に向けられた右手の中でも薬指が少し前に出ており、この指で、人々 の願いごとにあったお薬を左にお持ちの薬壺の中から調合して授けます。 西塔の釈迦堂でお祭りするお釈迦さまというのは過去仏。横川中堂の観音様は未来仏。亡くなっ た後のことは未来仏にお願いするわけですので、現在と過去と未来の仏様に周囲 100km の比叡山全 山、または日本全体をお守りいただいているということになります。 都であった京都から見ると、比叡山の方角は鬼門の北東にあたります。鬼は、鬼の通り道を通っ てわれわれ人間の弱い心の隙間に入り込む。ですので、京の都に鬼が入らないように山で一人籠っ て修行している青年のことが桓武天皇の耳に入り、いろんなお力を頂戴して、現在に至る大きな比 叡山延暦寺へと発展してきました。 根本中堂には三つの六角灯篭の中に不滅の法灯がともっています。直径 30 センチ程の大きな金物 の盃状の器の中に菜種油が入っていて、灯心の先に 2 〜 3 センチほどの小さな火がついています。 その火を大事にして、その教えを守り続けて守ってきました。ですので、建物や境内だけではなく、 その教えが今もちゃんと守られ続けているということも含めて、世界文化遺産に登録いただきまし た。 根本中堂中は総欅造で、焼き討ち後に三代将軍家光公により復興され、通称大名柱と呼ばれる太 い柱が 76 本あり、また格天井には全国各地から納められた花の絵が描いてあり、花天井と呼ばれて います。 建築様式は天台様式中堂造りで、拝観の皆さんがお参りするところと相対する仏様の高さが変わ りません。これは、「皆が仏になれる」という教えからきています。お坊さんがお勤めする場所は それより 2.5 メートル下にあります。そこは通称煩悩の海、煩悩の谷、修行の谷ともいわれており、 そこへ迷い込まないように、お坊さんが橋渡しをするということで、一段下がったところでお勤め をしているわけです。 平成 24 年より今年の 3 月 31 日まで第一期、慈覚大師円仁が亡くなられて 1150 年の御遠忌を迎 えていました。4 月1日からは第二期に入り、恵心僧都、そして回峰行を始められた相応和尚、伝教 大師の御生誕 1250 年のお祝いということで、いろいろな方々の節目を迎えようとしています。そ の事業の中心は総本堂の根本中堂の改修です。工事中でも必ずお参りできますので、歴史・建物に 興味のある方は、是非お参り下さい。

第 2 部  

福家 紀明

 師

(三井寺執事) 正式名は園城寺ですが、地元の方にも通称の三井寺という名前で非常に親しまれています。壬申 の乱で敗れた大友皇子の子である大伴与多王が父の菩提を弔うために、田園城邑を投じて寺を建立 されました。そして、朱鳥元年(686 年)に敵対していた天武天皇より園城の勅願を賜り、長等山 園城寺となったのが始まりです。 その後平安時代初めの貞観元年(859 年)、前年に入唐求法、遣唐使として唐に勉強に行かれてい

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た比叡山延暦寺の第五代目の座主・智証大師円珍が唐院というお堂を建立されました。そして、唐 で勉強された経典や仏具類をここにお収めになり、その年に初代の長吏となられ、貞観8年に天台 別院、比叡山の別院となりました。 三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いられたという「閼 伽井屋」という井戸があるため、当初は御井戸のある寺ということで御井の寺と呼ばれていました。 のちに、密教の厳義「三部灌頂」に、智証大師様がその法水を用いられたことに由来します。 入り口である仁王門(大門)は宝徳4年の建立で、元は甲賀郡の常楽寺の門です。それを秀吉が 伏見城に移築した後、慶長6年に家康によって寄進されたと伝えられています。国の重要文化財で、 檜皮葺のカーブが非常に美しく、少し離れて見ると美しさを味わっていただけるかと思います。 仁王門の右側にある釈迦堂は京都御所の清涼殿を移築したといわれ、もとは食堂として建立され ました。釈迦堂と呼んでいるのは本尊が清涼寺式の釈迦如来像であるからです。そこを過ぎると、 正面に大きな金堂、三井寺の本堂が現れてきます。この国宝の金堂は慶長4年に秀吉の正室の北政 所によって再建された、桃山時代を代表する名建築といわれています。金堂の中には天智天皇のご 念持仏の本尊弥勒菩薩(絶対秘仏)がお祭りされています。 本堂のすぐ横に、三井寺では一番有名な、日本三名鐘の一つ三井の晩鐘があります。音がよいこ とで知られ、「日本の残したい音風景百選」にも選ばれています。本堂の横には、三井寺の名前の由 来になった閼伽井屋という井戸が湧いており、建物自体も慶長5年の建築で重要文化財になってい ます。閼伽井屋のすぐ上側には弁慶の引き摺り鐘があります。 この鐘のすぐ横にある一切経蔵は山口県の国清寺から毛利輝元公によって移築されました。中に は巨大な回転式の八角輪蔵があります。その横の三重塔も重要文化財で、奈良県の比蘇寺にあった ものを移築したものです。比叡山の焼き討ちだけではなくて何回も災難にあい、現在のような伽藍 状態になったのは慶長年間になってからです。こういう大きなお寺の復興の場合、新しく建てたも のだけでは追いつきませんので、時の権力者の力をもって、よそのお堂などを移築した形で再建さ れています。 三重塔の横にある唐院には智証大師円珍が中国で勉強したときの経典などが収められ、唐院大師 堂の中には二体の智証大師像(国宝)があります。 その南にある微妙寺は三井寺五別所の一つで、ご本尊は十一面観音。湖国十一面観音霊場第一番 札所にもなっており、観音様は三井寺文化財収蔵庫で拝観できます。 そこから階段を登ると、琵琶湖の見晴らしが非常によい西国十四番札所の観音堂に出ます。本尊 は如意輪観世音菩薩で、三十三年に一度御開帳になる仏様です。観音堂から降りたところにある水 観寺も五別所の一つで、ご本尊が薬師如来、西国薬師霊場第四十八番札所になっています。 仁王門に近い護法善神堂は鬼子母神さんをご本尊とする千団子社で、五月の中旬に千団子祭が行 われ、植木市や露店も出て非常にたくさんの方に親しまれています。この他に、光浄院と勧学院、 両方とも国宝の書院ですが、普段は一般公開していませんのでご拝観いただくためには予約が必要

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それからもう一つ、大津市役所の山手の方にある新羅の森には新羅善神堂があります。本尊の国宝・ 新羅明神像は三井寺の中では秘仏中の秘仏のため拝観できませんが、国宝の建物を見ていただくこ とはできます。 このように三井寺には重要文化財や国宝が非常に多く、建物の博物館といわれることもあります。 ほかにも焼き討ちに何度もあっているなかで歴代の僧侶の方々が仏像や宝物などを守り、現在に多 く伝えられています。また春の桜が非常に有名で、疏水から三井寺にかけての桜は非常にきれいで すし、疏水の橋から三井寺を見上げる景色はどこにも負けないなと私はいつも思います。

第 3 部  

中島 敬瑞

 師

(西教寺社会部主事)  西教寺は歴史的には三山の中でも一番古く、推古天皇 26 年、618 年に聖徳太子によって創建さ れました。聖徳太子の師僧である高麗の僧・慧慈、慧聡らが日本に仏教を持って来られ、太子にい ろいろお説きになって帰られた記念として西教寺を建立したといわれています。そのあと、天智天 皇から西教寺の名前をいただいたのが天智8(668)年と歴史は古いのですが、大変小さなお堂でし たので、その後延暦寺の念仏道場として使われました。宗祖の真盛上人が唱えた無欲清浄というのは、 念仏を申すことによって欲望を抑えるという教えですから、その念仏を、ここ西教寺ではより多く の皆様に体で味わっていただきたいと思っています。 西教寺は本堂の瓦の一番上に、厄除けとして猿の大きい瓦があるため、猿の寺とも言われます。 その由来は、明応2年に馬借一揆が起こって坂本の馬借と比叡山の僧兵が戦ったとき、一部の僧兵 が西教寺を焼き討ちに来ると、本堂からカーンと鐘の音がする。これは真盛上人が鐘を叩いている 音だと思って、勢いよく本堂に入って来ると誰もいない。しかし、どこからともなく鐘の音がする ので鐘のなる方へ見に行くと、猿が真盛上人のかわりに鐘をついていた。それをみた僧兵は何もせ ずに帰っていった。ということから西教寺はこの猿に守られたと言われています。 西教寺には重要文化財が2件あります。本堂と客殿です。本堂は紀州徳川家吉宗公によって、総 ケヤキの良材とその当時の最高の技術をもって作られました。内部の装飾は大変美しく、色々彫り 物もあります。本尊は明智光秀公によって寄進された丈六の阿弥陀如来で、重要文化財に指定され ています。西教寺は明智光秀の菩提寺ですので、坂本城の大手門として使っていた城門を西教寺の 総門として、坂本城陣鐘として使っていたものを当寺の釣り鐘として使わせていただいています。 「見る者をして菩提を生ぜしむ」という言葉がありますが、人は美しいものやすばらしいものを見 ると、心が豊かになります。それを見ていただき、豊かな心を取り戻してもらうことがお寺の一つ の役割だと私は思います。また、「観光」というとき、観るのは自分の光です。自分の光を見いだす のが観光です。西教寺に、三井寺に、そして延暦寺にお参りして、「あー楽しかった今日は最高やっ た!」、良い物を見て素晴らしい心になって帰ってもらうことによっていいことが広がっていく、こ れが仏教で言う転法輪ですね。笑顔で帰るのと、「ああしんど」と言って帰るのとはまったく違います。 観光というのはそういうものですね。

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昔、京都の平安神宮の近くに六勝寺があり、そのなかで一番大きい法勝寺が何度も焼けて復興で きなくなって、最終的に、伏見桃山城から移築した、西教寺の客殿の賢人の間に、このご本尊を安 置しています。ですから西教寺では本堂のご本尊のご利益と、客殿のご本尊のご利益もいただけます。 今回、この秘仏の薬師如来をご開帳させていただきます。また、数珠のブレスレットづくりや念仏 も行っていますので、ぜひお越しください。 おもてなしというのは、一つは想定外の気遣いをすること、もう一つは見返りをもとめないこと、 もう一つは考える時間をつくること、これを揃えて行うことがおもてなしということです。大津市 に来てお店に入ったらすごい歓迎をしてもらったとか、笑顔をいただいたとか、そういう想定外の 気遣いを感じてもらうことが大切です。日本人は目に見えないものに感謝や供養を捧げることを昔 からやっていますので、見返りを求めてはいけということはよくわかるはずです。「考える時間をつ くれ」というのは自分の心に余裕がなければ到底おもてなしができない。考える時間をもって、一 言発言するにも一呼吸置いて自分の中でかみしめてから言葉を発するということが大切だというこ とで、仏教におきかえると座禅ですね。 皆さんも大津市に来られた方々にはこういうおもてなしの本当の心で接して、こんなすばらしい ところはなかったと帰っていただけるように、ご協力お願い申し上げます。

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皆様方は大津にお住まいで、近江神宮へ一度も行ったことはないという方はたぶんいらっしゃら ないと思いますので、できれば、目を閉じて、情景を思い描きながらお聞きいただけたら、普段と 同じようにご案内できるかと思います。 プリンスホテルを出て、道路を北へ進み、浜大津を越えて、旧競輪場のあった柳が崎の交差点を 左に折れていただきますと突き当たりが近江神宮です。正面に大きな鳥居があり、右側には「近江 神宮」と書いた社号表があります。本当は正面の参道の砂利道を歩いていただくといいのですけれ ども、車でお越しの方が多いので、そのときは正面の鳥居の左側を上がっていただきます。そうし

近 江 神 宮 を 知 る

【大津おもてなし塾 2015】 

大木 伸二

 氏

(近江神宮 権宮司)

2015 年 12 月 7 日(月)14:00 ~ 15:30

大津プリンスホテル 2F 伊吹

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ますと左側に時計学校というのがあります。さらに上がると正面にトイレ、左側に駐車場があり、 そこを右に折れていただくと大きな 40 段の階段があります。さらに 10 段上がると、薄緑の屋根で 朱色の建物、「楼門」があります。楼門から中へ入ると石畳があります。石畳を上がっていただくと 外拝殿があり、賽銭箱があって、ほとんどの方がお参りをされるところです。 外拝殿でお参りしますと、正面に内拝殿があります。そこから先は神主しか入ることができませ んが、登り楼、そして中門があり、まわりに透き塀があって、そのなかに御本殿があります。ここ に御祭神・第 38 代の天智天皇様をお祀りしています。楼門は一度火事で焼け、もともとは白木であっ たのを朱塗りにしたため文化財にはならなかったのですが、その他の建物はほとんどが国の有形登 録文化財になっています。 又、内拝殿と外拝殿を結ぶ回廊は昭和づくり、または近江づくりと言われる建物で、ご祈祷をし ていただく方は内拝殿まで入っていただけます。 そこから下へ降りて、楼門に向かって右側には龍の形をした日時計があります。これは、中国 4千年の昔から使われていたといわれ、もともとは線香の香時計というのが本当だと思います。雨 や風に左右されないような特殊な線香を作って龍の背中におくと、燃える時間が変わらない、それ で時間を計る。一目盛で2時間と言われています。そういう時計があります。ロレックス社がご奉 納されました。 そこから少し下がると、赤い日時計と白い日時計があります。赤い日時計は東京時計組合が奉納 されました。日時計はみなさん方小さいときにお作りになったと思います。北極の方に棒を立てて その影によって時間を計るというもので、すごく正確で、五分刻みで計れます。まわりには香港ま では何㎞、九州までは何㎞というふうに記されています。影が示す通りの時間かというと、明石が 標準時間ですので少し違います。月によってプラス何分、マイナス何分しなさいという表があり、 その表に基づいて、見た時間からプラスマイナスすることによって正確な時間がわかるという日時 計、これが赤い方の日時計です。その隣にある白い日時計には発想の転換があります。これは、表 に基づいて文字盤を動かしておくというもので、それなら見たままが時間ということになります。 その発想の転換が面白いと思います。 もう一つ漏刻というのがあります。これは水時計で、天智天皇が皇太子のときに作られたものです。 これをもとに大津の宮で時刻制度をして、鐘や太鼓で時を知らせました。漏刻には四層の水槽があ ります。一番上に水を入れ、4 つの層で段々と落ちていくことによって、水がたまる速度が一定になっ てきます。今みたいに例えば 2 時 20 分だなということではなくて、おおよその時刻がわかるという ものです。時間を知るということは人間関係にとってすごく大事なことで、太鼓や鉦で時刻がわか ることによって約束を守れるようになり、人間関係もよくなるのではないかと思います。 時計の話になりましたので先にお話しさせていただきますと、時の記念日は6月 10 日、天智 10 年、 671 年4月 25 日に漏刻を新設し、鐘・鼓を打って時報の開始をした。その日が現行の暦の6月 10 日ということなんですね。時の記念日が制定されたのが大正9年、そして平成 32 年に時の記念日制

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う運動があります。大津市の議会を通って、国に請願があがっています。一つの市だけでは動かな いので、明石市などに声をかけて、なんとか実現するように頑張っています。6月の第一日曜に流 鏑馬がありますが、時の記念日の奉祝ということでやっています。去年までは 11 月3日にやってい ました。そして漏刻のすぐ横には宝物館があります。 近江神宮ができたのは昭和 15 年。ということは 75 年前とまだまだ新しいんです。大津には建部 大社や日吉大社がずっと昔からあります。近江神宮はたった 75 年の歴史しかないんです。でもご祭 神は天智天皇様をお祀りしている。なぜ天智天皇様をお祀りする神社が大津にできたのかといいま すと、皆様ご存じの大津京を開かれた天皇様でありますし、大化の改新の中大兄皇子のときに、藤 原鎌足と組んで、色々な事業をされました。地方に国学、都に大学を作り、班田収受の法ということで、 私地私民制を変えて公地公民制にして、土地を貸して租庸調の税金をもらうことにしました。また、 馬の放牧をして武力を整えて、時計もそうですし、そのように天智天皇の実績はあまりにも大きい ものでしたので、平安時代には、「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつ つ」というお歌が小倉百人一首一番目になったわけです。これはなぜかというと、平安時代にも天 智天皇様はえらいという認識があるからこそ、第一首目になった。だから、かるたの神様にもなっ ているわけですね。 近江神宮ができたのは昭和 15 年。いきなりできたのではなくて、明治 36 年ごろから大津に天智 天皇を祭る大きい神社が欲しいという運動をしていました。昭和 13 年の5月に昭和天皇のお許しが 出て、昭和 15 年の 11 月7日に近江神宮ができました。戦争のさなかに作っていたため資材が徐々 になくなってきて、普通釘隠しは金属で作っているのですが、一部は木で作ってあります。平成 10 年に登録文化財になりました。たった 60 年にも満たないのに文化財になったのは、昭和づくり、近 江づくりといわれるように特異な建物であったこと、近代建築の代表であるということでそうなっ たわけです。 皇室と近江神宮ということでは、昭和天皇は昭和 50 年に、平成2年には今上天皇・皇后両陛下、 平成6年には今上陛下がふたたびお越しになられています。今上天皇の御製御歌「日の本の国の基 を築かれしすめらみことの古思ふ」、皇后陛下からは「学ぶみち都に鄙に開かれし帝にましぬ深くし のばゆ」という歌を頂戴しております。 神道指令が出るのは昭和 20 年の 12 月 15 日、午前中に勅祭社に指定されて、午後になると神道 指令、これは政教分離をちゃんとしなさいということであって、これが出ると勅祭社という扱いが できなくなるわけですね。その日に近衛文麿が自決をされたというのもあります。そのような劇的 な日であったわけです。勅祭社というのは、天皇陛下がお祭りに自分の代わりに勅使をつかわせて 御幣物をお供えする例祭を執り行う、これが伊勢神宮を含めて全国で 17 社。北から、鹿島神宮、鹿 取神宮、明治神宮、氷川神社、靖国神社、熱田神宮、近江神宮、上賀茂神社、下鴨神社、平安神宮、 石清水八幡宮、橿原神宮、春日大社、出雲大社、宇佐神宮、香椎宮、これだけが勅祭社という扱い を受けています。この中には 10 年に一度というところがあるなかで、近江神宮は毎年お勅使が来ら れて例祭をさせていただいております。それほどまでに大事にされているわけです。

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そんなに大事なお社であるのと同時に、『昭和天皇実録』のまだ発刊されていないものに、昭和 21 年8月 14 日の項に書いてあるのですが、終戦一周年を迎えての座談会が催され、最初に天皇陛 下より、日本の敗戦に関し、今後の日本の進むべき道について述べられる、というような記事が載っ ています。 もう少し詳しくお話しすると、近江神宮の社務日誌にも載っており、これは何かというと、その 日のことではなくて、昭和 21 年の 11 月9日、この日に滋賀県知事をされ、侍従次長でもあった稲 田周一さんという方に近江神宮にお越しいただいたんです。そのときはまだ宮司も権宮司も自宅に おりまして、突然お越しになったものですからあわてて出てきて稲田さんのお話しを聞いたわけで す。8月 14 日、天皇陛下には総理以下閣僚、元内閣総理大臣東久邇宮稔彦王、それから鈴木勘太郞、 幣原喜重郎、また時の総理である吉田茂、大蔵大臣の石橋湛山、のちの総理ですね、など 14 名を集 めてお話しされたお言葉が、「この度の大東亜戦争は全国民必死の努力にかかわらずついに大敗した こと遺憾の極みであり、祖宗に対して申しわけない次第である。しかしながら我が国にも今をさる 1300 年の昔、天智天皇が韓国に出兵、唐・新羅の連合軍と白村江に戦って一敗地にまみれたことが ある。ご聡明な天智天皇はただちに兵を撤せられて大化の改新を断行、律令を改め、戸籍をつくり、 産業を開発、学問を奨励して、近代国家体制の基を築かれ、国防に励まれ、国力の充実に力を注がれた。 自分は天智天皇の実践されたことにならって諸政を一新して文化を振興、経済を盛んにして、長い 将来に対処したいと強く念願しているから一同もこのような心で失望することなく勇気をもって奮 励努力してほしい」旨の御謹話があって、この旨報告神助を仰ぐようにご命令があって、翌日参拝 して果たしたいと稲田さんがおっしゃったわけですけれども、ひょっとしたら8月 15 日のことをも う一度陛下が稲田さんに伝えられて、近江神宮にお参りしてこいとおっしゃられたのかなと推察さ れるわけですが、ということは、戦後の復興を近江神宮で祈られたということなんですよ。このよ うに昭和天皇の思い入れがすごく深いお社なんですね。 そして現在、私どもはこうやって生かされているということはありがたいことだなと思います。 終戦 70 年という今年ですけれども、今世の中は何もかもが幸せかというとそうじゃないかもしれな い。神主やお坊さんなどの宗教者、本来神社は宗教ではないんですけれども、そうした宗教者から 言うと、もっとみんなを諭していかなければならないのか、努力が足らんのかなと反省はするんで すけれども、そういう世の中になってしまったことに対して残念な気がしています。 天皇になられてからかどうかはわからないのですが、天智天皇が近江八幡の方の蒲生野に狩りに 出られた際に、長寿の人が多くて、「みんな元気にしてるね、何かやっているの?」と尋ねられたら、 「私どもはこの果実を食べておりますと」。今でいうトキワアケビ、ムベともいいますが、「むべなる かな」と仰せられたのでその名がついたと言われます。「それを食べているからみんな元気なのか」と、 天智天皇が命名されたんですね。たまたま昨日、テレビでやってたんですけれども、トキワアケビ を食べたら種ばっかりなんですが、この種からあけび油というのがとれるんです。これは椿油より もいい、最高級の植物油であるということを言っていました。ゴマ油の五倍ほどの価格がするとい

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そんなエピソードも含め、天智天皇様のことをご紹介させていただきました。これで近江神宮に お参りしたような気分になっていただけたかなと思います。 これからは、外国の方々も多く来られるかも知れません。映画にもなってブームになり、近江神 宮に来られる方も増えるかと思います。当然のことですが、大津にもっと来ていただきたいなと思 います。日吉大社、建部大社、石山寺、比叡山延暦寺、西教寺、浮御堂などなどいっぱいお参りし ていただくと、滋賀県、大津の良さをわかっていただけるのかなと思います。 みなさんにはそういうときに「大津って良いところや」って一番に言ってほしいわけですけれども、 みなさん自身が大津のいいところをぜひ体感していただいて、近江神宮に来て、ああええところやな、 ここに来ると心が洗われると、そんな感じになっていただいて、これからもぜひご鳳声いただけると、 来られた方が気持ちよく感じていただけるのかなと思います。

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石山寺には三つの創建説があります。 一つは 747 年(天平 19 年)、この年、東大寺の良弁僧正が石山の地に来られ、東大寺の大仏様の お体に塗る金の産出を願われました。その2年後の 749 年(天平勝宝元年)に、仙台の近くの涌谷 という町で日本最初の金が発見され、皇室に献上されました。この年も創建の年ではないかと言わ れています。 それともう一つは、西暦の 672 年、壬申の乱の負け戦の将である大友皇子を祭る寺として石山寺

石 山 寺 を 知 る

【大津おもてなし塾 2015】 

鷲尾 遍隆

 師

(石山寺座主)

2016 年 2 月 9 日(火)14:00 ~ 15:30

ロイヤルオークホテル スパ & ガーデンズ 1F ラベンダー

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皇子が葬られました。こんなふうに歴史が三つもあるというのは非常に珍しいことです。 石山寺の創建当時の記録が正倉院文書のなかに残っています。これは安都宿禰宜雄足が、人夫を 何人くらい使って、どういう食べ物を用意して、どこの木を集めてきて石山寺を創建したかという 記録です。石山寺の所に関所を設けて、琵琶湖一体から集めた材木をここで整理して船で流します。 そして瀬田川から宇治川、木津川の接点から木津川をさかのぼって木津の港から奈良の都まで材木 を運んだ。その中継点として、この石山が重要なポイントとなっていました。 石山寺のご本尊は如意輪観音菩薩で、創建当初は高さが5メートルありました。木の枠組みにわ らを巻いて、その上に土を貼った塑像の観音様で、奈良時代から拝まれてきました。奈良時代の仏 様というと薬師如来が有名ですが、これは医療の発達していないときに病から救っていただくとい うことで、薬師如来がまず日本の中に入り、それと同時に如意輪様も日本に伝わった。如意輪陀羅 尼経を唱えることによって病気が軽く済むという教えが昔からあり、私どもは 2 本の手ですが、6 本の手を持つ如意輪様がたくさんあります。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界・天人界、その 6 つ の道で苦しんでいるすべてのものに救いの手を差し伸べてくださるという意味で、6本の手の如意 輪様が数多く作られた。それより前のお姿が石山寺の如意輪様です。 観音様というのは、今は幸せだが、もっと幸せにしてくださいと手を合わせて拝んだら、より効 力が強く、幸せを与えてくださる仏様です。阿弥陀様は、世間が乱れてきて、この世では救われそ うもないというときに、来世に幸せにしていただけるように、亡くなったときに西方浄土へ連れて 行ってくださる。修行しやすい場所に連れて行くから、そこでお前の修行をせよ、という仏様が阿 弥陀様です。 真言宗の場合は、修行して、誰の心にもある仏の卵を磨くことによって、生きたままで仏様とお 話しすることができるようになるというのが私どもの教えです。真言密教が昔からの仏教とどう違 うのかというと、教主がお釈迦様から、宇宙全体を具現化した大日如来様に変わった。教主の違い ということと、欲を肯定している。仏を求める心というのは良い欲で、そういう欲を増やしていき なさいというのが大悲、仏様の大きいお導きの心であると、そういうふうに捉えています。 多宝塔には多宝如来と釈迦如来が並列して一つの塔のなかに描かれるのが本来の形ですが、石山 寺にある多宝塔には快慶の大日如来様が祀られているので、本来は大日堂です。 石山寺は華厳宗から平安になって真言宗に変わっています。これは、東大寺自体が弘法大師の教 えを受け入れて真言宗に変わり、私どもは東大寺といっしょにできたお寺ですので、同時に平安時 代から真言宗に変わりました。 石山寺も明治の初めごろですと、門の外からみんな手を合わせ、誰も本堂まで行かないものです から草ぼうぼうになって、お辞儀の観音様と言われたときもあります。非常に厳しい時代を過ごし てきました。 ただ、ありがたいことに奈良時代・平安時代には天皇様、鎌倉時代には源頼朝公が、多宝塔・鐘楼・ 山門を寄進していただきました。これはなぜかと言いますと、お兄さんの源義平が平家との戦いで 負けて、落ちのびて来られたときに石山寺の奥、隠れ谷で難を逃れられた。連れて行かれたあとに、

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逢坂山で捕えられて処刑されましたが、それを頼朝公が喜ばれて寄進されたわけです。 その後、淀殿には本堂の南半分、内陣に対して外陣の方がちょっと短かったので、そちらを広げ てもらいました。内陣は滋賀県最古の木造建築で、外陣は 400 年前に広げてもらった慶長の建物です。 中と外で 500 年以上の差がありますが、うまく調和がとれており、全体が国宝に指定されております。 本堂におられる如意輪観音様は平安時代の作で、高さ5メートルの木造の観音様の体内に4体の 胎内仏が収められていました。鎌倉時代の記録、あるいは江戸時代の古文書の中に4体の胎内仏が 収められたとはっきりと書かれています。平成 14 年に東大寺が創建 1250 年の催しをされたとき、 東大寺といっしょに開きたいと宮内庁に申し出て、了承されました。そのときに思い切って背中を 開きましたら、4体の仏様が出て来られました。正倉院文書のなかには「観世菩薩」と出てきますが、 おそらく左の二人目の小さいめの方ではないかと思われます。よく見ると燃えた跡があり、落雷に あったときに燃えてしまったようです。石山寺の紋には 16 枚の裏菊が使われており、裏からご祈祷 によって天皇家、あるいは国を支えていく使命をもったお寺であることを表しています。4体も入っ ておられたというのは、天皇家や国家をお支えするには1体では足りないので4体こめられたので はないかというふうに、私は勝手に考えています。 金剛蔵王様の心木は奈良時代のものです。これはご本尊が真ん中におられて、向かって左が蔵王 権現、右側が執金剛神ということで、左側の方は心木そのものが残っています。蔵王権現のお像は 塑像でしたが、このお像の左の足首が傷んでいた時、私も左の肩と足が非常に痛くなりまして、先 代がおられましたときに、国宝修理所の方に直してほしいと頼みました。直すと決まったとたんに 私の痛みが取れまして、なんとかそういうことがありましたらこれからはやさしく教えてください ますようにとお願いしました。 心木の周りには江戸時代の土がまだついていたんですが、中身の木が奈良時代のものなので、大 事だということで、土をはがさせてほしいと国立修理所の方が仰いまして、その人が死んでしまっ たらえらいことだと、お顔は江戸時代の木のままにしてあります。これと一緒の土台(心木)を作っ てそれをあてがって、まわりは全部同じように作り直しますからということで蔵王さまに渋々承知 してもらいまして、この方が厨子の中から出て来ました。新しいお像は現在、厨子に安置しています。 お不動様は本堂の観音様といっしょの、向かって左手の、十世紀のお像です。この方はヒンズー のシヴァ神を仏教に取り入れて仏教の守護神とされ、背中の炎にはカルラまたはガルーダと呼ばれ る鳥がおります。人の心の邪気、悪いものを食べ尽くすという鳥です。 真言宗に変わって、聖宝理源大師、観賢僧正、淳祐内供という順番に、非常にえらいお坊さんが 座主になられました。理源大師は醍醐をたてられた醍醐の神様です。石山寺の初代の座主という形 になっています。二代座主は観賢僧正、三代座主は淳祐内供。この方の塑像が今年の1月 28 日に修 理が終わって、帰って来られました。この方も書かれた「聖教」は校倉造の経蔵に入っていたため「校 倉聖教」と呼ばれております。昨年の3月末で冊子本の修理が 14 年間かかってやっと直ったところ です。

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常に根気のいる仕事です。大正時代に、内藤湖南という京大の先生がおられて、石山寺の聖教類の 調査に来られた時、非常に傷んでいるから直さないといけないということがありました。それまで はヨーロッパ・アメリカから渡ってきた用紙が非常に安くて簡単に作れるので、和紙の製法がわか らなくなっていましたが、福井で和紙を作っていただいて修理にあてて、その少しあとに東大寺様 も修理されて、それで日本の和紙が復興されたというお話があります。明治・大正の学者さん、い いこといっぱいなさっているんですけれども、石山寺の貢献によって和紙が残ったというのも全然 伝わっていないのがちょっと残念です。 この聖教の中には、割字いうのが多く使われています。字の半分だけを使って言葉を表すという ものです。私ども石山寺の中に、公風園というところがあるんですけれども、公の左に木をつけて もらったら松ですね、風の左に木をつけてもらったら楓、松と楓の園であるということで、両方と も木をはずして公風園という名前なんです。お釈迦様の人間と違う相が、三十二相といいまして、 32 の人間と違う相があります。一つ言いますと手の指の間にみずかきがついている。扁平足で甲が 非常に高い、頭の頂にこぶがあります。このこぶには不老長寿の効能があるといわれ、玄奘三蔵様 が食べられそうになったというお話があります。その三十二相のことを、聖教には四八相と書いて あるんです。掛け算で4×8= 32、四八相と書いて三十二相を表しているんです。漢字の遊びですね。 もっとほかには酉酉とかいて醍醐寺をあらわしたり、室生寺というのが、「室」という字ですね、「う かんむりにむいちざん」(※これは「ウ、ム、一、三」を表します)と書いて室生寺と読ませたり、「十 寸」と書いて本尊を表す遊びが行なわれています。 江戸時代から初めてお墓が大量に作られるようになりました。これはなぜかといいますと、徳川 の政策によって、全部文書で伝える、それを受け取ってくれるのがお寺さんで、みんな勉強してい るから字が書ける。そこで通達を回して、そこで人を何人か集めて檀家制度のもとになったわけで すね。五人組とか、七人組とかができあがりまして、村から人が逃げないようにといいますか、そ ういう形がとられました。 高野山にいっぱいお墓がありますね、大名のお墓。あれは参勤交代だけではあんまりお金を減ら せないから、高野山にお墓を作って年に一回お墓に参れ、みんな行列作って歩いて行ってお金を減 らすと、そういう主旨で作ったわけですね。 石山寺は女性の方、とくに平安時代の女性の方にたくさんほめていただいた。これは安心して泊 まることができる、僧侶の勉強のお寺としてまじめなお寺であるからです。まじめなというのは ちょっと言い方が悪いのではないかと思います。そしたら三井寺さんとか比叡山はまじめでないの か、ということになりますので。これは何を言っているのかと言いますと、僧兵がいなかったから ですね。僧兵がいるとあんまりまじめでないというふうに、国の方はとらえていたのかもしれません。 唐橋はうちからものすごく近いんですけれども、三井寺は僧兵がおりましたので、僧兵たちは国 の命令で仕方がなく橋を守りに行きました。しかし石山寺には僧兵がいなかった。淳祐内供様とか 偉い学僧がたくさんおられ、そういう人の流れを汲んで学問の寺として有名だった。さらに、女人 禁制ではなかった。内陣には入れませんが、合いの間とか外陣には入れる。安心して泊まることが

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できました。 何よりも淡い海、近い海とかいて「おうみ」と読ませているんですね。これは盆地からパッと開 けてすごくすっきりして、そこから川を下って石山寺へ来られた。安心して泊まれるということで 紫式部もうちに籠っておられます。その三十何年前に『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母、『和泉式 部日記』の和泉式部、『枕草子』の清少納言、『更級日記』の菅原孝標の女(むすめ)、こういう方も うちに籠っておられる。江戸時代には、松尾芭蕉はうちの中に住んで、『幻住庵日記』を書いておら れます。幻住庵のご本尊は 10 世紀の阿弥陀如来様で、明治に近津尾八幡として神道で生きていくか らということで石山寺へ返されました。現代私がしっかりと拝ませていただいております。江戸時 代に戻って近松門左衛門、井原西鶴、こういう人もうちに来て、明治には谷崎潤一郎、与謝野晶子、 与謝野鉄幹、大津で百首くらい歌を詠んでおられるようです。 最後に、勅封の仏様で三十三年に一度のご開扉が平成 28 年 3 月 18 日から異例に長く平成 28 年 12 月 4 日まで行われます。ぜひこの機会にお参りいただけたらありがたいと思います。

参照

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