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第 3 部ノーザンダンサーの遺産 サラブレッドという種を生み出したのは 専門家や技術者でもなければ 動物学者でもなかった それを成し遂げたのは たった一枚の板 そうエプソムダービーのゴール板だった もし別の基準にしたがった選択や淘汰が行われるとしたら その結果として得られるものは もうサラブレッドと

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ノーザンダンサー物語

第3部 ノーザンダンサーの遺産

前編

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第3部 ノーザンダンサーの遺産 「サラブレッドという種を生み出したのは、専門家や技術者でもなければ、動物学者でもなか った。それを成し遂げたのは、たった一枚の板、そうエプソムダービーのゴール板だった。もし別 の基準にしたがった選択や淘汰が行われるとしたら、その結果として得られるものは、もうサラ ブレッドとは呼べない、まったく違うものとなってしまうだろう。ダービーは昔から現在にいたるま で、何ら変わることなく、その正当性を疑われることすらなく続いてきた。そしてエプソムダービ ーこそが、いまある形のサラブレッドという存在を作りあげたものなのだ」(フェデリコ・テシオ)

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ノーザンダンサーのナショナルスタッドファームへの帰還は、ケンタッキーダービー馬を生産し たいというテイラーの夢の成就を象徴する出来事であったが、それは同時にサラブレッドの歴 史におけるターニング・ポイントとなるものでもあった。 競馬の歴史、そして競走馬生産の歴史は、ノーザンダンサーという存在を境として、はっきり と過去と未来に分かれることとなった。彼自身はもちろん過去の中から生れてきた馬だ。若き 日のテイラーの情熱と、自らの愛する牧場を不動産開発業者の手で破壊させるのは耐え難い と考えたひとりの老人の想いとが交錯した結果、この馬がこの世に生を受けることとなったのだ った。 ノーザンダンサーが生れた頃には、競走馬のオーナーとなることはカネのかかる趣味でしかな く、何頭もの馬を所有し走らせることはただ多額の費用を浪費するのに等しいことだった。だが、 ノーザンダンサーの登場を機に状況は劇的に変化した。すなわち、競走馬は金よりも高価な商 品となり、また新世代のオーナーたちは自分の所有する馬から莫大な財産を築いてみせたの であった。 「馬に財産を注ぎ込む」時代から「馬で財産を築きあげる」時代への変化、それは1970年代 半ばのことだった。豊富な資金が競馬の世界に流れ込み、新しい時代のオーナーたちは投資 に見合う収益をあげるべく血眼になった。彼らはノーザンダンサー産駒を競って求めた。これは もう自然の不思議としか言いようがないのだが、ノーザンダンサーはケタ外れに強い遺伝能力 の持ち主だった。その当時のアメリカではおよそ7千頭もの種牡馬が供用されていたが、ノーザ ンダンサーほど多くの勝ち馬、チャンピン馬を輩出した種牡馬はただの一頭もいなかった。 サラブレッド生産においては人工受精は認められていない。したがって、ノーザンダンサーの 精子が冷凍保存されるような事態もありえない。つまり、ノーザンダンサーの血を受け継ぐ産駒

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は限られた数しかいないということになる。 人々は貴重なノーザンダンサー産駒へと殺到することになり、その結果、彼の種牡馬価値は 金銭には換算できないほどまでに高まることとなった。 ここで、太古から続いてきた人間の馬への愛情に「量的飛躍による質的変化」が現れることと なった。「優れた競走馬を得たい」という人々の情熱がエスカレートするにつれて、競馬はスポ ーツからビジネスへとその姿を変えていったのだ。ついにはイヤリング・セールの結果が、ウォー ルストリート・ジャーナル紙で分析・報道されるまでになった。それまで普通の商品の分析に慣 れていたマーケット・アナリストたちにとっては、何の実績もない仔馬に数百万ドルを投じるサラ ブレッドの売買はまったく無意味な投資に思えたことだろう。高額で購入された2歳馬が将来 に勝ってくれるどころか、デビューしてくれるという保証さえまったくありはしないからだ。 だが、そんなことは気にするまでもないことだった。ノーザンダンサーの子供たちは競走馬とし て飛び抜けた成績を残したにとどまらず、偉大な父の遺伝子をもしっかりと受け継いだからだ。 多くのノーザンダンサー産駒が、あるいは種牡馬として、あるいは繁殖牝馬として、次の世代の チャンピオン・ホースを送り出し続けた。確かにノーザンダンサー産駒を手に入れるには何百万 ドルもの大金を支払わなければならなかったが、そうして手に入れた馬たちが引退するときに は初期投資の十倍にも及ぶ額でシンジケートされることも少なくなかった。こうした例が積み重 なった結果、競馬産業自体の構造が根本から変革されることとなったのである。 ノーザンダンサーが種牡馬として大きな成功を収めてゆくプロセスは、そこにいたるまで彼が 歩んだきた道とは異なり、まったく順調なものだった。とはいえ、彼自身の能力がこれほどケタ 外れのものでなかったとしたら、その速さと魅力、そして「勝利への意志」をこれほどまでに強く 産駒に伝えることができなかったとしたら、こうしたすべては起こりようもなかったはずだ。

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ノーザンダンサーが遺したサラブレッドたちは合計で635頭。そのうちの 80 パーセント(511頭) がデビューし、そのさらに 80 パーセントが勝ち上がり、そして146頭がステークス級のレースを 勝っている。それだけではない。ノーザンダンサーの名を父に持つ 26 頭の優駿たちが、英・愛・ 仏・米・加でチャンピオン・ホースに輝くこととなった。

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偉大なダンサー ノーザンダンサーの初年度産駒という意味では、ヴァイスリーガルほど、これにふさわしい存 在はあり得なかったろう。父譲りのありあまるほどの勝利への意志も忘れられないものだったが、 何よりも彼は美しい馬だった。すみずみにいたるまで貴族的な馬体。陽の光を浴びてキラキラ と輝く金色の被毛。普段は優しく穏やかなくせに、いったんレースとなると、まるで鷹のように鋭 い光を放ち始めるその瞳。額から鼻面へと走る流星は、完璧な顔立ちに強いアクセントを与え ていた。これまで競馬場に姿をあらわした中で最も美しい一頭といってもいいだろうと思う。彼が コースを走る姿は、まるで宙を飛んでいるかのようにさえ見えたものだ。 その母ヴィクトリアリジャイナはヴィクトリアパークの半妹にあたる馬で、その血統をさらに遡れ ば、ウィンドフィールズの歴史を築き上げた何頭もの種牡馬や繁殖牝馬の名前を見つけること もできる。 その年、1967年のイヤリングセールは特別なものであった。何しろノーザンダンサーの子供た ちが初めて登場するのである。少なくともテイラーにとっては特別なものでないわけがない。そう したこともあり、セールの方式もこれまでとは変わっている。というのは、前年までは同じ2歳馬に 複数の買い手がついた場合、テイラー自身による抽選が行われていた。つまり、カシミアの帽子 に入れられた希望者名のカードを、テイラーが自らの手で引き出し、当選者を決めていたわけ だ。だが、この年からはテイラーはプロを雇うこととした(ニューヨークのせり会社ファシグ・ティプ トン社から、競売人のラディ・ダンスとアナウンサーのジョン・フィニーを借りた)。その結果、それ ぞれの馬に正価が定められている点は変わらないものの、同じ馬に複数の買い手が名乗りをあ げた場合には、正価をお台に競売人がセリをスタートさせる方式となったのだ。また過去数年

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にウィンドフィールズの馬を買ったことのある買い手に対しては、一般公開の 10 日前に馬を購 入するチャンスを与える優先会員制度も取られることとなった。 そのイヤリングセールの数週間前のこと。いつものようにヴァイスリーガルを放牧場へ迎えに いったスタッフが発見したのは、3本の脚だけで放牧場の入り口にポツンと立っている彼の姿で あった。その左前脚は、球節から上の部分が大きく腫れあがっていた。これは不幸とばかりはい えない出来事だった。すなわち、リーガルがセールで売れずに済む可能性も出てきたからだ。 ヴァイスリーガルの捻挫はさほど重症でなく、歩調もセールまでには普通に戻っていた。それ でも、球節部分の腫れはまだ引かずに残っていたため、リーガルを買いたいと申し出た者は、 優先会員にも、一般バイヤーの中にもいなかった。 そして、その年の秋が深まる頃、ヴァイスリーガルもウィンドフィールズの他の仲間たちとともに ピート・マッキャン厩舎に加わることになった。 ヴァイスリーガルは確かに並外れた競走能力と勝利への意志とを兼ね備えていた。しかし、 その球節は何かにつけ悪化することとなった。それでも、ピート・マッキャンはこのノーザンダン サーの偉大な長男を何とかしてピークに仕上げ、スターティングゲートへと送り続けた。 1968年、3歳になったヴァイスリーガルは合計で8つのレースに出走し、そのすべてに勝ってい る。しかも、そのうち7レースまでがステークス級のレースであった(しかし、こうした連戦の間には 右前脚まで悪くすることとなった)。 特に圧巻だったのは 10 月6日に行われたカップアンドソーサーS(ウッドバイン競馬場)。この レースでの彼は、直線の入口でもまだ先頭から 10 馬身以上も離された位置を走っていた。だ が、誰もが「ついに連勝記録がストップするか」と思った瞬間である。リーガルはものすごい勢い で伸び始めたのだ。金色のたてがみを風になびかせ、その長い尾をまるで旗のように打ち振り

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ながら疾走する彼の姿は、まるで空を飛ぶかのようにさえ見えた。そして先頭を走っていたグレ イフィッツよりわずかに首だけ前に出たところ、それがゴールだった。 この日の午後、これほどまでにヴァイスリーガルを駆り立てたものがいったい何だったのか。そ れを言葉にすることは不可能だが、その「何か」があったからこそリーガルは、肉体的限界を超 えてまでカップアンドソーサーSを勝つことができたのだ。そして、それは同時に彼のからだを傷 つけたもした。レース後、リーガルはあまりの痛みのためウィナーズサークルに立つことさえでき ないほどの状態だった。すでにボロボロになっていた両脚の球節は、その内側を自分の脚にぶ つけ、その外側は別の馬に蹴られて、レース中に何度もの打撃を受けていたのである。レース 後、ヴァイスリーガルはすぐに放牧へと出された。牧場に帰れば四六時中スタッフによるケアを 受けられるし、また専属の獣医も住み込んでいるからだ。 ヴァイスリーガルの4歳緒戦となったのは、1969年4月5日のホイットニーパース(キーンランド 競馬場、1200㍍)。果たしてヴァイスリーガルは父に続くダービー候補としての実力を証明で きるだろうか、その一点に大きな注目が集まったレースだった。 この日、コースに姿を現したヴァイスリーガルはすっかり調子を取り戻しているように見えた。 輝かんばかりの栗毛に隠された筋肉をゆるやかに波打たせ、頭を高くもたげて行進する様子 は、どこから見てもチャンピオンホースと呼ばれるにふさわしいものだった。 スタートでは落馬した騎手に気を取られ、少し出遅れたものの、すぐに馬群につけるまずまず のレースぶり。直線に入ってからも順調に脚を伸ばしたが、ゴール前では少しばてたか、3着で の入線となった。とはいえ、この年の最初のレースであることを思えば、じゅうぶんに実力を示し たといえる結果ではある。しかし、これが彼にとって最後のレースとなった。 ゴールを過ぎた次の瞬間、クレイグ・ペリト騎手は慌ててヴァイスリーガルから飛び降りた。果

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たして、ヴァイスリーガルは跛行していたのだった。後年のテイラーは、このときのことを次のよう に語っている。 「ゴールを過ぎたところで、騎手が馬を止めて下りるのを見たときには、喉からの心臓が飛び 出すぐらいにびっくりした」 このレースのヴァイスリーガルは、後には左前脚蹄骨骨折と診断されるような状態で3着にが んばってみせたのだった。

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当時、ブラッドホース誌の編集委員だったケント・ホリングワースは「過酷すぎるレースを走っ た名馬」とのタイトルで、このレースのことを記事に書いている。 「本当にいい馬たちは、自らの中にある競争心と勇気とにつき動かされるままに肉体的限界を も超えようとするものなのだ。一方、そうでない馬たちは、次のレースにむけて余力を残す走りを する」 ノーザンダンサーの初年度産駒は全部で 21 頭。美しさと感動という点ではヴァイスリーガル が抜けた存在だったが、その他の産駒たちもかなりの能力を示した。 ノーザンダンサーの子供たちの中でデビュー一番乗りを果たしたのは、グリーンツリー・ステー ブルズが所有していたジッターバグという牝馬だった。この馬は1968年1月 26 日に行われたハ イアレアパークの600㍍戦に出走し、勝利を収めた。 続いて、その2カ月後にはトゥルーノースという牡馬が900㍍戦でデビューし、なんと 22 年ぶり にコースレコードを更新する勝利を飾っている。オーナーのC・V・ホイットニー氏はサラトガの セールでこの馬を購入したのだった。 種牡馬が最初の種付を行ってから、産駒がデビューするまでには3年間のタイムラグがある。 さらに大レースのほとんどが4歳になってから行われることを思えば、新種牡馬のオーナーもしく はシンジケートが、その馬の種牡馬能力を判断できるまでには4年の歳月が必要なのだ。いか なる技術や科学を用いても、この期間を縮めることはできない。そして、これまでに多くの名馬 たちが種牡馬としては期待外れの結果に終わってきた。 だが、ノーザンダンサーの場合は、種牡馬として理想的なスタートを切ることができた。全 21 頭の初年度産駒のうち、18 頭がデビューを果たし、16 頭が勝ち上がり、さらに 10 頭までがス テークスでの勝利を飾った(普通でいえば、ステークス勝ち馬になるのは、ほんの一握りの馬で

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しかないのだ。北アメリカでは、全レース数のうちの4パーセント程度がステークスに指定されて いるに過ぎない)。 一般的にいえば、生まれてきたすべてのサラブレッドの中でデビューを果たせる馬は半分に 満たない程度でしかない。さらに、3歳時に勝利をあげることができるのは、その4分の1(同世代 全体の 12・5パーセント)程度だ。したがって、76・2パーセントの産駒が勝ち馬になるという種 牡馬ノーザンダンサーの成績は、実に平均の6倍にも相当するわけだ。 その生産馬をイヤリングセールで売却するマーケットブリーダーたちにとっては、ノーザンダン サーほど素晴らしい投資の対象はなかった。1967年には合計7頭の2歳馬がサラトガ及びキー ンランドのセールで取引されたが、7頭すべてが勝ち上がり、さらに5頭がステークスウィナーと なった。 さらに、決して多くはない初年度産駒から3頭ものチャンピオン・ホースが出ている。すなわち、 ヴァイスリーガル(1968年カナダ最優秀3歳馬・年度代表馬)、ダンスアクト(1970年カナダ最 優秀古馬・最優秀ハンデキャップ馬、1971年カナダ最優秀ハンデキャップ馬)、ワンフォーオー ル(1971年カナダ最優秀ターフ馬)がそれである。このうちワンフォーオールという馬は、ジョン・ A・ベルというアメリカの生産者の生産・所有馬であり、主にアメリカのレースに出走していたの だが、その年のカナディアン・インターナショナルに勝ったことを評価されての受賞だった。

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1968年 10 月 17 日、E・P・テイラーは「ノーザンダンサーにさらなる名声と幸運とを与えるた め、これまで他のカナダ産種牡馬が取ったのと同じ道を歩ませる」ことを発表した。すなわち、ダ ンサーをアメリカへの移動させることとしたのである。ウィンドフィールズファーム・メリーランド支 場がノーザンダンサーの新たな住所となった。 「難しい選択だった」とテイラーは語っている。 「この馬はカナダ国民にとってのヒーローであり、ここカナダでもじゅうぶんな成績を出している。 しかし、その将来を考えるなら、北米における最高の繁殖牝馬たちと交配するチャンスを作って やるべきだと思った」 とはいえ、確かにメリーランド州にも大規模な生産牧場はいくつかはあったものの、「北米にお ける最高の繁殖牝馬たち」の大多数はブルーグラス生い茂るケンタッキーにいたのである。ケ ンタッキーの牝馬たちがノーザンダンサーとの交配を行なうためには、メリーランドに移ってから もなお馬運車で 12 時間から 14 時間もの長旅をしなければならなかった。事実、ケンタッキー からメリーランドまでの900㌔という距離は、ケンタッキーからナショナルスタッドファームのある オシャワまでの距離とほとんど変わらない。したがって、もし利便性ということを理由にノーザン ダンサーのアメリカ移動が決定されたのなら、メリーランドではなく、ケンタッキーへと向かうべ きであった。さらにノーザンダンサーの代表産駒2頭、すなわちニジンスキーとザミンストレルは 結局カナダで生れることとなったのだから、結果からいえばノーザンダンサーをメリーランドに移 す必要はまったくなかったのである。たとえテイラーが「ノーザンダンサーの供用はオンタリオ湖 に浮かべた船の上で行なう」と決定したとしても、なお多くの生産者たちが最良の繁殖牝馬を 連れてやってきたに違いない。 この決定のひとつの理由として考えられるのは、これに先立つ数年前からメリーランド州チェ

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サピーク市の郊外でのトレーニングセンター建設をテイラーが進めていたことである。 テイラーは、競馬場での調教よりも、牧場におけるトレーニングこそが若駒たちのためになると の信念を抱いており、セシル郡にあるリチャード・C・デュポン夫人のウッドストック・ファームから 道路を隔てた向いに700エーカーの土地を買っていた。そこはトレーニングセンターを作るには うってつけの場所といっていい。競走馬の輸送という点では多くの競馬場から手頃な距離にあ ったし、その豊富な青草は馬を放牧するのに理想的とも言えるものだった。さらにメリーランド州 では競走馬育成事業に対し、税制面でのインセンティブも提供されていた。そして、もちろんテ イラー自身が新事業に情熱を傾ける性質の持ち主だったこともあって、このトレーニングセンタ ーが世界有数の施設に数えられるまでにそう長い時間はかからなかった。 また、テイラーはノーザンダンサーのアメリカ入りを発表する数ヵ月前に、トロントのウィンドフ ィールズファームを売却している。住宅開発の波がそこまで押し寄せてきたからだった。それで も、テイラー邸と彼のオフィス、乗用馬のための小さな馬房を含む 30 エーカーほどの土地は売 らずに残された(後には、ナショナルスタッドファームがウィンドフィールズと呼ばれることとなっ た)。 ノーザンダンサーがメリーランドに到着したのは1968年 12 月3日のこと。それは、その後に世 界の注目をノーザンダンサーに集めることになる一連の出来事が静かに始まりを告げた、ほん の3カ月後のことだった。

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それは夕暮れのウッドバイン競馬場でのことだった。 舞台となったのは、カナダ・サラブレット協会が毎年開催しているイヤリングセール。そして、 両脇にコンクリート造りの厩舎施設が立ち並ぶ砂利道を抜け、セリ会場へと向かう一頭のノー ザンダンサー産駒、彼こそがこの日の主役であった。 そのエレガントな馬体は力強さと優美さとを兼ね備えており、他の馬とはひと味もふた味も違 う印象を与えていた。 首をしっかりと伸ばして歩く様子は、ただでさえ他の馬たちよりも大きな馬体をさらにひと回り 大きく見せるものであり、また、その大きな瞳はシカのように柔和な色をたたえながらも、用心深 く周囲を見わたすことを忘れなかった。 そして、額の中央にくっきりと浮かぶハート型の星。この珍しい特徴こそ、後から思えば、父ノー ザンダンサーのスピリットをそのままに受け継いでいる証しだったのかもしれない。 この日、集まった大勢のバイヤーたちは、まる一日を費やして厩舎を歩き、214頭もの2歳馬た ちの一頭一頭に目を凝らして、セールに備えていた。また、そうしたバイヤーたちの姿を観察す るため、好奇心旺盛な見物人たちも数多く集まってきていた。 この年からテイラーはその生産馬をサラブレッド協会のセールに出場させることとしたのだっ た。ノーザンダンサーの第2世代も含めてである。ウィンドフィールズの生産馬の参加は、それま でローカルなイベントに過ぎなかった同セールを一気に国際的なレベルにまで押し上げた。そ れ以前には、これだけ多くの一流バイヤーたちがカナダ国内のイヤリングセールに顔を揃える ことはなかったのである。 セリ会場は、すでに大勢の人々で一杯になっていた。会場の中央には馬蹄形のセールス・リ ングがあり、その周りに半円を描くようにバイヤー席が設えられていた。このセールス・リングへ2

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歳馬たちが一頭、また一頭と登場し、観客にその姿を見せるというわけだ。 セールスリングの上方には小槌を手にした競売人のラディ・ダンスがセリをリードするためス タンバイし、一方、パートナーのジョン・フィニーは各馬の血統などを説明することになっていた。 この二人の抜け目ないプロフェッショナルたちが、あるいは煽りながら、あるいはおだてながら、 より高額での落札に向けてバイヤーたちを誘導するという寸法だ。 さらにタキシードを着込んだスポッターたちが、まるで獲物を狙う鷹のように、ほんの僅かな関 心の現れでも見逃すまいと、バイヤー席の自分が担当するセクションに目を光らせていた。 こうしたセリの場合、手首を軽く叩いたり、うなずいたりする仕草も購入の意志を表わすもので、 それらを目にしたスポッターがひと声大きく叫ぶと、競売人席の右側の壁に取付けられた電光 掲示板が新たな付け値を表示する仕組みになっていた。したがって一部のバイヤーたちがそ のようにしてセリを進めている間、他の観客たちは一切の動きを止めなければならない。もし何 気なく知合いに合図を送ったりしたなら、気がつかないうちにその馬を落札していたという事態 も起こりかねないからだ。そして、競りあっていたバイヤーたちからついに最高額がしぼり出され たと見ると、ラディ・ダンスが重々しく小槌を振り降ろしながら、重々しく「売却」と告げ、その馬 はセールス・リングから連れ出されることとなる。すると観客たちはようやく緊張から解放され、か らだを動かしたり、会話したりできるようになるというわけだ。だが、それも次の馬が入場するま でのことだった。 このときまでにバイヤー席はすきまなく埋め尽くされ、さらに後ろの通路も大勢の見物人たち でいっぱいになっていた。彼らは話題のノーザンダンサー産駒のセリをひとめ見ようと待ってい たのだ。 その鹿毛の大型馬は、セールスリングの中央で、まるで彫刻にでもなったかのように動かずに

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立っていた。だが、その明るく神経質な瞳は、自らに熱い視線を注ぐ観客たちの姿を注意深く 見わたしていた。 セリに先立と、ジョン・フィニーの説明が行われた。彼はゆっくりとした口調で、父ノーザンダン サーと母フレミングページの競走成績について紹介した。 それが終り、ラディ・ダンスの「6万ドルから始めます」との宣言とともに、やっとセリが始まった。 6万ドルというのはテイラーのつけた最低価格で、もしこの額でも購入したいというバイヤーが現 れない場合には「主取り」となることになっていた。 しかし、そのような事態を考えるまでもなく、この馬への付け値は会場のいたるところから殺到 することとなった。見物人たちは、誰がいくらを付けたのか知ろうと必死になった。 ラディ・ダンスが「8万4000ドルで売却されました」と叫び、小槌を振り下ろしたのは、それから 2分も経たないうちのことだった。そして、フレミングページの牡馬は会場から自分の馬房へと帰 って行った。 同馬がアイルランド行きの飛行機に乗せられたのは、その数日後のこと。それは同時に栄光 への出発でもあった。 新たなオーナーとなったチャールズ・エンゲルハートは、ロシアのバレー・ダンサーにちなんで、 この馬をニジンスキーと名付けることとした。 20 世紀を代表する天才ダンサーといわれたヴァーツラーフ・ニジンスキーが死んだのは1950 年のことであったが、死の直前の彼は、自らが馬であると信じ、さらには来世も馬として生まれ 変わると考えていたという。彼の名が付けられた2歳馬がティペラリー州キャシェルにあるヴィン セント・オブライエン調教師のバリードイル厩舎に到着することとなったのは、それから 18 年後 のことであった。

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後には多くのノーザンダンサー産駒がバリードイルへ運ばれることになるのだが、ニジンスキー こそが、その最初の一頭だった。 誰もが認める「天才調教師」だったオブライエンは、特にノーザンダンサーが現役時代にそう であったような難しいタイプの神経質な馬を扱わせれば、その右に出る者はいない手腕の持ち 主であった。実際、彼ほど多くのノーザンダンサー産駒を預かった調教師はほかにはいない。オ ブライエンが手掛けたノーザンダンサー産駒としては、ニジンスキーのほか、ザミンストレル、ウ ッドストリーム、エルグランセニョール、サドラーズウェルズらの名をあげることができる。 ニジンスキーがオブライエン厩舎に加わることになった経緯、これもやはり運命のいたずらと言 ってもいいかもしれない。このとき、チャールズ・エンゲルハートは、競走馬のオーナーを始めて からまだ9年でしかなかった。しかし、彼は並外れた熱意を傾けて、この競馬という事業に大が かりに取り組んでいたのだった。 「カナダまで行って、ウィンドフィールズがセプテンバー・セールに上場させるリボーの牡馬を 見てきて欲しい」とオブライエンに打診した時点で、エンゲルハートはイギリスに4人、アメリカ、 フランス、南アフリカに各1人づつの調教師を抱えていた。 エンゲルハートに頼まれたリボーの2歳馬にはあまり感心しなかったオブライエンだが、しかし、 ウィンドフィールズ滞在中には他の2歳馬たちも見ることができたのだった。結局、オブライエン のエンゲルハートへの報告は、リボーの仔はやめた方がいいというものだった。そのかわりにノー ザンダンサーとフレミングページの間に生まれてきた牡馬を買うよう彼は勧めた。エンゲルハー トもこれに同意し、「うちのカナダ人幹部をセールに行かせることにする」と答えたのだった。 だが、その言葉はオブライエンを不安にするものだった。 「チャールズの指名した男は馬の売買についてはまったくの素人だった。もし何かヘマをしで

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かして、あの馬を手にいれられないようなことにでもなったら、と非常に心配した」 さらにガーフィールド・ウェストンもこの馬を狙っているらしいとの情報も同じくオブライエンの不 安の種となるものだった。ウェストンは、ウェストン・ベーカリーや、スパーマーケット・チェーンの ロブロウズ、百貨店のフォートナム・アンド・メイソンなどで知られる一大食品産業グループの 総帥で、つまり資金は豊富というわけだ。 セリには、やはりウェストンも参加してきたが、馬の売買にはズブの素人だったチャールズの 幹部、ジョージ・スコットはみごとウェストンに競り勝ったのだった。 こうしてニジンスキーを手に入れたオブライエンだったが、今度はそのニジンスキーが多くの 心配を引き起こすことになった。バリードイルに到着したニジンスキーは、オブライエンが用意し た最高級のアイルランド産燕麦に口をつけようともしなかったのである。間違いなく空腹ではあ ったはずなのだが、それでもこの二歳馬はカイバ桶のにおいを少し嗅いだだけで、燕麦には見 向きもせずに、乾し草を食べ始めるのだった。2日ほど様子を見た後、オブライエンは慌ててウ ィンドフィールズに国際電話をかけた。そして、ニジンスキーが、燕麦、ふすま、シロップ、添加剤 などを原料とするキューブ型混合飼料を食べて育ったことを知った。オブライエンはそれを至 急送って欲しいと頼んだ。もちろん混合飼料が到着するまでには、ニジンスキーもアイルランド 産燕麦を食べるようになっていたが。 だが、それはオブライエンにとっての苦労の始まりでしかなかった。次なる問題は、馬房から出 るのを嫌がることだった。ほとんどの馬の場合、馬房から出してやろうとすると喜んでついてくる ものなのだが、なぜかニジンスキーはこれを拒んだのである。それも後ろ脚立ちになり、ただの 一歩でさえも動いてなるものかと言わんばかりの頑強な抵抗だった。さらに何とか馬場に連れ 出すことができても、そこからがまたひと苦労だったのである。

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というのも、馬場に出れば出たで、今度は他の馬と一緒に走るのを嫌がり始めるのだった。そ れでも何とか走らせてみると、まわりがキャンターで進む中、一頭だけ競技用サラブレッドみた いな格好で全力疾走を始めるのである。もしほんの一瞬でもストップさせようとしたなら、すぐに 得意の後ろ脚立ちだ。 後年、誰もが認めるチャンピオンホースとなった後には、バリードイルのスタッフたちも、この後 ろ脚立ちの奇癖もその並外れたバランス能力のあらわれだったと解釈するようになったが、この 時点の彼らにとって、それは驚きとストレスとの種でしかなかった。 こうしたニジンスキーの様子はオブライエンを困った立場に置くことになった。オーナーのチャ ールズ・エンゲールハートは、オブライエンにとっては新しい、そして上々のスポンサーであった し、第一、このニジンスキーという馬を購入したいと言い出したのもオブライエンなら、わざわざ アイルランドの自分の厩舎で預かりたいと言ったのも彼だった。馬代金と輸送費とをあわせると、 オブライエンはエンゲルハートにすでに 10 万ドル近くも投資させているのである。その結果が 調教も満足にできないということでは、エンゲルハートはオブライエンの判断を疑うこととなるだ ろう。 そこでオブライエンは、エンゲルハートへ釈明の手紙を書くこととした。 「ニジンスキーの気性については、調教を嫌がるところがあり、少し心配しております。現在、こ の馬にはうちのいちばん優秀なスタッフを騎乗させるようにしていますので、後は何とかうまくい くよう祈るだけです」 すなわち、自らがニジンスキーという馬の中に中に見出した大きな可能性、それが気性難の ために損なわれることになるかもしれないとエンゲルハートに報せたわけである。 だが、この手紙が書かれてから、さほどしないうちにニジンスキーは何とか調教をこなしてくれ

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るようになった。そのわがままなところやすぐにキレそうになる性格は変わりようもなかったが、そ れでも人間の側でこの馬の反抗的な部分を理解し、それにあわせてやるようにしてからは、ニ ジンスキーの側も以前より協力的に動いてくれるようになったのである。結局、ニジンスキーは その父や偉大な祖先たちと同じく、人間に好きなようにさせることが我慢できなかったのだっ た。 この手のかかる若駒の扱いについて、オブライエンは厩舎専属のジョニー・ブラブストンとダニ ー・オサリバンの両騎手を誉めちぎっている。 「ニジンスキーは、下手に扱ったら、すぐにでも使い物にならなくなってしまうタイプの馬だった。 だが、このふたりは、この馬を扱うだけの強さとムチを入れずにガマンする忍耐力とを備えてい た」 しかし、ニジンスキーに関する最大の功労者がオブライエンであることはもちろんだ。 彼は、コーク州で小さな競走馬厩舎を構えていた農夫の息子として生れ、子供の頃から常に 馬に夢中になって育ってきた。そして寄宿学校を卒業すると、「進学せず、馬に携わって生き ていきたい」と父を説得したという。その後レパーズタウンの調教師の下での1年間の修行を経 て、彼は父の厩舎に戻り、厩務員として、調教助手として、そしてポイント・トゥ・ポイント競走の 騎手として経験を積んだのだった。 ヴィンセント・オブライエンが天才調教師としての頭角を最初にあらわしたのは、障害の分野 でのことだった。3年連続でグランドナショナルを制覇したのを初めとして、チェルトナム・ゴール ド・カップに3連勝したコテージレイクや、チェルトナム・チャンピオン・ハードル・カップをやはり3 年連続で制覇したハットンズグレイスなどの名障害馬を送り出した。しかし1959年の春、ヴィン セントは障害馬の調教をきっぱりとやめ、今後は「平地レースに専念する」と宣言したのだった。

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オブライエンがエプソムダービー初制覇を成し遂げたのは、それからわずか3年後のこと。当 時のアイルランド駐在アメリカ大使だったレイモンド・ゲスト氏の所有馬ラークスパーが、その 記念すべき初ダービー馬だ。さらに1968年には、やはりゲスト氏が所有するサーアイヴァーで ダービー2勝目をあげている。そして、その勝利の数ヵ月後にニジンスキーがバリードイルに到 着したというわけである。 ニジンスキーの素質を見抜いていたのはオブライエンばかりではない。テイラーもこの馬には 何か特別なものがあると考えており、ニジンスキーのレースを可能な限り追いかけるようにした のだった。 ニジンスキーがデビューしたのは、7月の初め、カラ競馬場のアーンSだった。テイラー夫妻と 息子のチャールズも、はるばるカナダからこのレースを見るために駆けつけた。結果はニジンス キーの楽勝で終わった。 レース後、当時アイルランドのチャンピオン騎手だったリアム・ウォードは、以下のような最大 級の表現でニジンスキーを賞賛した。 「どんなことでも成し遂げてくれると感じさせてくれる馬だ。ゲートに入るときはまるで乗用馬み たいな感じだったが、ゲートを出てしまえば、後は好きなところで折り合ってくれる。この馬でなら 銀の糸を渡ることだってできるだろう……。 後の仕事は、全部、馬自身がやってくれた。騎手はただ座っているだけで構わない。それだけ のスピードの持ち主なのだから。 馬群のどこだろうが、好きなところで走らせていい馬なのだ。ちょっと外側に出してやって、ゴー サインを出せば、それで終わりだ。あっという間に馬自身が加速してくれる。どこで勝ちに出るか、 それがすべてだ」

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ニジンスキーは3歳時には全5戦に出走し、そのすべてを本気で走るまでもなく楽勝している。 そのうち4レースはアイルランドでのもの。残りは、イギリスへ遠征したデューハーストSだ。このレ ースは翌年のクラシックにむけての前哨戦と位置付けられているレースで、これを楽勝で飾っ たことで、ニジンスキーに大きな注目が集まることとなった。 『タイムフォーム・1969年の競走馬』でも、ニジンスキーは以下のように絶賛されている。 「ぶっきらぼうないい方をすれば、この馬のライバルとなり得るのは最高級の血統を持つ馬だ けだろう。(中略) この馬は超一流の競走馬だ。その何もかもが印象的であり、……。(中略) 同馬がクラシックにむけての最有力候補と見なされるのに何の不思議もない」 だが、一方でニジンスキーの血統に疑問符をつける専門家もいた。父ノーザンダンサーがベ ルモントで勝てなかったことを考えると、ダービーの2400㍍は長すぎるかもしれないというのわ けだ。 ともあれ、ニジンスキーがクラシックの有力候補へと躍り出たということは、すなわち他の馬と は異なる調教・調整のスケジュールが必要になるということだった。だが、ニジンスキーは自分 自身の意志を持っているタイプの馬であり、そのことが他の競走馬たち向けのスケジュールをこ なしながらも、この神経質でわがままなノーザンダンサー産駒のための特別プログラムを進め なくてはならないオブライエンにジレンマを与えることになった。 というのも、第一グループの調教の準備が終わるか終わらないかのうちに、ニジンスキーはもう いらつき始めるのだった。一頭だけ馬房に残されるのが、彼には気に入らなかったのである。だ が、オブライエンは、最終的にはニジンスキーの気性にぴったりの解決策を考え出した。それは 毎朝、次のような手順で調教を行なうことだった。まず最初は、ニジンスキーも他の馬とともに

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馬房を出発し、軽いウォーミングアップまでを一緒に行なうこととする。ついで最初のグループ が追い切りに移る頃、ニジンスキーは大きな馬房へと向かう。このときにはもう一頭、付き添い の馬をつける。そして自分の調教の時間になるまで、その中を付き沿いの馬と一緒に歩き回る、 というわけだ。 こうしたニジンスキーの性格について、オブライエンがどのように考えていたかについては、リ チャード・バーレインが書いた『三冠馬ニジンスキー』という本の興味深い一節を引用する。 「一流馬の多くは、厩舎にいるときはリラックスしているものだ。(中略) たとえば、サーアイヴァーという馬は、どんな馬と併せてもきっちりと併せ馬になった。たとえ、 相手がかなり格下の馬だったとしても、サーアイヴァーはきっちり頭分だけ先着してみせたので ある。 だが、ニジンスキーはいったん調教パートナーの馬より前に出ると、耳を立てて、そこからスピ ードを出し、最後はパートナーを置き去りにしてしまう。これはとても珍しく、そしてまったく尋常じ ゃない眺めだ。(中略) また、この馬にはさほど多くの追い切りは必要なかった。(中略) 毎朝、調教に出かけると、後はとにかくずっと動き回っているのだ。自分自身で休むことなく運 動しているのである。まさか側対歩をしているわけではないのだが、常に自身を緊張させ、体を 動かし続けるのだ。したがって、軽く追ってやれば、すぐに仕上がるタイプの馬なのである。」 ニジンスキーの4歳緒戦となったのは、カラ競馬場で行われたグラッドネスS。このときもリア ム・ウォードを背に楽勝、連勝を「6」に伸ばした。 次はいよいよニューマーケット競馬場で行われるクラシック第一弾、2000ギニーだった。 ブックメーカーたちは血統的な不安からニジンスキーの能力を疑う立場をとっており、レース

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前の賭け率も、この馬の能力を過小評価するものとなっていた。もしニジンスキーが2000ギニ ーを勝ったなら、ブックメーカーたちの損失は合計で100万ドルにも及ぶものになるだろうとの 噂さえ流れた。そこで用心深いオブライエンは、ニジンスキーの保安体制を万全とすべく私立 探偵たちを雇って、24 時間体制でこの馬を警備させることにしたのだった。 アイルランド国内のレースでは今後もリアム・ウォードが騎乗することとなっていたが、2000ギ ニー及びその他のイギリスのレースについては、レスター・ピゴットがニジンスキーの主戦騎手 に指名された。そして、ピゴットとの初コンビで臨んだ2000ギニーも2馬身半をつける楽勝に終 わった。次のダービーまでは1ヵ月もあるので、ニジンスキーはいったんバリードイルへと帰厩し た。 ニジンスキーが再びイギリスの土を踏んだのは本番の5日前。だが、オブライエンはニジンス キーをエプソムの他の出走馬たちに合流させずに、サンダウンに「隔離」する方法をとった。サ ンダウンはエプソムから車で少し走ったところにあり、不穏な動きやマスコミの殺到から馬を守 るにはうってつけの平和な場所だったのだ。そして、レース前日には、コースに慣れさせる目的 でエプソム競馬場の下見も行われた。 こうして何もかもが順調に進んでいるかのように思われたときに、災いは襲ってきた。コースの 下見を済ませ、厩舎に帰ってきたとたん、ニジンスキーは体中から汗を吹き出し、地面を蹄で 叩き始めたのだった。これは、明らかに疝痛の症状である。疝痛とは、激しい腹痛を伴い、ときに は死にいたる病ともなりかねないものだ。馬という動物は、とても小さな胃(吸収面も狭い)と極 端に長い腸とを持っており、また食べたものを吐き出したり、あるいはゲップしたりすることはで きないつくりになっている。したがって、ときには食べ物やその他の異物が腸壁のひだにひっか かってしまうこともあり、それが疝痛の原因となるのだった。通常は、痙攣している腸壁を弛緩さ

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せ、痛みの原因となっているガスが排出されるよう、薬の投与が行われる。だが競馬規則は、レ ース前 24 時間における、いかなる薬剤の投与も禁じていた。つまり、薬を使えばダービーに出 れなくなるということだ。そこでオブライエン・チームは、治療薬が発明される以前に行われてい た古くからの治療法に頼ることとしたのだった。すなわち新鮮な牧草、ふすま、そして重炭酸ソ ーダを混ぜ合わせたものをニジンスキーに食べさせてみたのである。これがみごとに効を奏し、 それから2時間もしないうちに、ニジンスキーはまた普通の状態に戻ったのだった。 「ザ・ダービー」のコース、激しい曲折と起伏に富んだ2400㍍は、世界で最も過酷なコースと して知られている。これを乗り切るためには、莫大なスタミナ、そして瞬発力、スピードと勝負根 性とを兼ね備えていることが必須条件なのだ。 この年(1970年6月3日)のエプソム・ダービーに集まった出走馬は全 11 頭。ニジンスキーに とって最大のライバルは、フランスから送り込まれてきたジルという栗毛の大型馬であった。「エ プソム・ダービーはもちろんのこと、4歳クラシックを総ナメにできる馬」と、エティエンヌ・ポレ調 教師がゾッコンになっていた馬である。この馬を走らせるために自身の引退を一年延長したほ どの惚れ込みようであった。そのほかには、アプルーヴァルやメドウヴィル、そして無敗のままで の挑戦となるスティンティノといったところがチャンスありと見られていた。 レース前のパドックでは、発汗と少しイレ込むようなところが見られたニジンスキーだったが、ス ターティングゲートに入る頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。 レースが始まると、好スタートを切ったニジンスキーを、ピゴットは中団へと落ち着かせる。その まま、最初の緩いカーブを左に、次の大きなカーブを右へと、楽な手応えで進んで行った。 エプソムの丘の頂上にあたる部分はコースのほぼ中央、スタート地点よりも150フィート(約 45 ㍍)ほど高い部分にあるのだが、そこまで来てもピゴットはすっかり落ち着いて動こうとする

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気配もない。 11 頭の優駿たちは、左への水平なカーブを曲り、タッテナム・コーナーへの急な坂道を下っ ていくが、まだニジンスキーは動こうとしない。タッテナム・コーナーは、ゴールまで700㍍程度の 地点にあたる場所であり、このあたりから各馬が好位置を取ろうと動きを見せはじめる。残り40 0㍍地点では、ついにジルが先頭に立った。 そのときである。突然、ニジンスキーが加速を始めた。耳をピンと立て、その瞳はまっすぐに地 平線の向こうを見つめながら。 通常の競走馬の場合、その歩度は常歩、速歩、駆歩(キャンター)、襲歩(ギャロップ)の4種 類と言われている。だが、ニジンスキーには5番目の歩度、「魔法の加速」があった。その蹄が軽 く地面を撫でるたびに、その跳びはどこまでも大きくなっていく。そのままニジンスキーは完璧な リズムとハーモニーとを備えたひとつの交響楽と化し、地に脚を付けて走る動物としての限界 さえも超えていくのだった……。 「2000ギニーも観に行ったはずだが、ダービーのときにも、やはり親父はイギリスまでニジンス キーを応援に行った」とチャールズ・テイラーはこのときのダービーを回想する。 「チャーリー・エンゲルハートは親父に一緒にウィナーズサークルへ行こうと誘ってくれたんだ。 馬主が生産者にそれだけの敬意を示してくれるのは珍しいことだ。忘れられない光景だった」 思えば、テイラーがニューマーケットのセールで「最高の繁殖牝馬」を購入し、その馬レディア ンジェラにもう一度ネアルコを種付すると言い張ったときから、すでに 18 年の歳月が過ぎてい た。まさか、そのレディアンジェラの血を引く生産馬で海を越えたエプソムのウィナーズサーク ルに立つことになろうとは、テイラーの豊かな想像力をもってしても、やはり思いつきもしないこと だったろう。

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ニジンスキーの次のレースとなったのは、アイルランド・ダービーだった。まるで沼のようなで行 われたこのレースでも、2着に3馬身をつける楽勝。史上2頭目の英愛ダービー連覇を達成した。 だが、ニジンスキーは日を追うごとに神経質となり、レース前のイレ込みと発汗もより激しくなっ ていた。 「レース前にはかなり汗をかいていた」と、このレースで再びニジンスキーに騎乗したリアム・ウ ォード騎手も語っている。 「かなりチャカついており、スターティングゲートに入るまでにひとレース走ったぐらいの体力を 使ってしまったと思う。だがゲートを飛び出した瞬間には、もう勝ちを確信していた。レース全体 を通じて、全力で走る必要が生じる場面はまったくなかったし、ニジンスキーはすべて思い通り に動いてくれた」 その後は、ひと月ほどバリードイルで充電期間を過ごし、次の目標のキングジョージⅥ世&ク ィーンエリザベスS(7月 25 日、アスコット競馬場)に備えることになった。このレースに出走した 4歳馬はニジンスキーただ一頭のみ。一方、対する古馬陣は錚々たるメンバーが揃っていた。 前年のダービー馬ブレークニー、前年の仏オークス馬クリペラーナ、前年の伊ダービー馬ホー ガース、コロネーションC勝ち馬カリバンなどである。このキングジョージは、相手関係の強さとあ まりに鮮やかな勝ち方から、ニジンスキーのベストレースといわれることとなった。 「たぶん、ニジンスキーにとってのベストレースだろう」と手綱を取ったレスター・ピゴットも興奮 ぎみに語っている。「一流古馬たちを相手にして、なお、これだけの楽勝を収めてしまうのだから ……。これまで騎手をやってきて、これほど衝撃的な馬は見たことがない」 こうしたニジンスキーの並外れた強さと鮮やかなまでの楽勝ぶりは、彼のレースを、その不思 議なまでの加速力を目にしたすべての人々にとっての貴重な財産となった。2000ギニーに、あ

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るいはダービーに、いやニジンスキーのどのレースだっていい。その場に居合わせる幸運にめぐ りあえたことは、大きく胸を張れる経験であり、何度も何度も繰り返して思い起こされる記憶と なったのだ。 確かに、その父ノーザンダンサーは新進種牡馬としての名声を確立しつつあったが、それはあ くまで北米でのことだった。彼を国際的な大種牡馬にまで押し上げたのはまぎれもなくニジン スキーという息子の存在だったのである。もしニジンスキーがこれほどケタ外れの馬でなかった としたら、ノーザンダンサーの血が世界中に広がることも、サラブレッドの生産と競馬とを根本か ら変革することも起こり得なかったろう。とはいえ、この時点におけるノーザンダンサーへの注目 は一時的なものでしかなかった。欧州におけるノーザンダンサーの評価はすぐにまた下がるこ ととなった。一方、将来の種牡馬としてのニジンスキーに対する期待は大きなものであった。 当然、イギリスの生産者たちはニジンスキーを種牡馬として国内で供用することを望み、同馬 の取得のために300万ドルもの資金を確保した。これに対し、アイルランドの生産者たちが用意 した資金はさらに高額の400万ドルだった。だが結局、ニジンスキーのシンジケート権を獲得し たのはアメリカの生産者だった。

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1970年8月 14 日、ニジンスキーを総額540万ドルでシンジケートすること、そして翌年からケ ンタッキーのクレイボーンファームで供用することが発表された。 当時の北米のシンジケートは、通常の場合、32 株から組織されることとなっていた(イギリスで は 40 株から 48 株)。その1株につき、繁殖牝馬一頭を毎年シンジケート種牡馬に交配させる 権利をもらえるわけである。 したがって、ニジンスキーの1株あたりの価格は 17 万ドルであった。チャールズ・エンゲルハー トは 10 株を自分用に残したが、テイラーにも2株を譲ってもいいと申し出た。もちろん、テイラー は喜んでこれを購入することにした。2年前に8万4000ドルで売却した牡馬の、ほんのわずか な権利を手に入れるために、34 万ドルを支払ったというわけだ。 ところでアスコットからバリードイルに凱旋したニジンスキーの方だが、帰厩後1週間ほどして、 かなり重症の馬真菌症にかかっていることがわかった。これは皮膚に急速に真菌が広がってい く病気で、そのため皮膚の炎症と毛嚢とが生じ、最終的には感染した部分の毛が抜け落ちると いうものである。ニジンスキーの場合、症状は胸部からき甲にまで広がっていたので、痛みのた め鞍をつけることもできなくなった。そこでバリードイルのスタッフたちは、手綱を引いて歩き回る ことでニジンスキーの運動を行うこととした。 だが、次走(そして引退レース)に予定されていた凱旋門賞までには、まだ2ヵ月もの時間が あり、そう深刻な事態と考える必要もなかった。また、この時期のニジンスキーは調子もよく、馬 体にも力がみなぎっていたので、それも回復を早めるのに役立ったろう。 こうした間も、ニジンスキーはイギリス競馬界の話題の中心となり続けた。町の居酒屋で大騒 ぎする厩務員たちから、会員制のクラブでグラスを傾ける貴族たちにいたるまで、もう二度とニ ジンスキー級の馬はあらわれないだろうということで意見が一致していた。

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こうした人々の感傷をマスコミが代弁するようになるまでにそう多くの時間はかからなかった。 ニジンスキーにイギリスでの「アンコール」を求める多くの記事が競馬ジャーナリズムを賑わすこ ととなったのである。つまりファンやマスコミは、ニジンスキーにセントレジャーに出走するよう求 めたのだった。 セントレジャーはヨークシャー州ドンカスター競馬場の洋梨型のコースで争われる 14 ハロン1 27ヤード(約2920㍍)の長距離レースで、2000ギニー、ダービーに続き、英3冠レースの掉尾 を飾るものとなっている。これらすべてに勝つという偉業を成し遂げた名馬は、1935年のバーラ ム以来あらわれてなかった。 結局、ニジンスキーは凱旋門賞の前にセントレジャーに出走することとなった。 そして1970年9月 12 日、ニジンスキーはいつも通りの楽勝でセントレジャーも制し、晴れて三 冠馬の栄誉を手にしたのだった。だが、これが彼にとっては最後の勝利となった。 セントレジャーの3000㍍にも及ぶ距離、そして真菌症が及ぼした体調への影響は、ニジンス キーに大きなツケを支払わせることになった。オブライエンはその当時の調教師としては珍しく、 レースの前後に馬体重を計ることを習慣としていたが、ニジンスキーはこのセントレジャーでな んと 30 ポンド(約 13・6㌔)も体重を減らしたという。 レスター・ピゴットの見解も、これを裏付けるものだった。 「セントレジャーはこの馬には長すぎた。レース間隔も開いていたし、その間には皮膚の病気も あった。現実には楽勝したものの、やはり距離が長すぎたことで、馬にとってはこれまでのどのレ ースにもまして苛酷なレースとなったのだろう」 その3週間後、ニジンスキーはパリ中心部から数マイル離れたブローニュの森・ロンシャン競 馬場にいた。もちろん凱旋門賞に出走するためである。

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毎年、4歳以上の優駿を集めて行われる、この由緒ある2400㍍戦は、世界でも最も格式の 高いレースとして知られており、その結果が種牡馬としての運命を左右するとまで言われてい る。 ロンシャンの下見所に登場するや否や、ニジンスキーは大群集に取り囲まれることになった。 すでにいらだちはじめていたニジンスキーの周囲に、大勢のカメラマンや記者たちが押し寄せ てくる。テレビ局のスタッフは何の悪気もなく、その鼻面にマイクを押しつける。さらに、下見所を 取り囲む大勢のファンたちの大声援だ。本場馬に姿をあらわした時点では、ニジンスキーはもう 泡のような汗で馬体を白く染めており、この馬の繊細な神経はズタズタにされていた。 それでも、レース序盤は後方を気持ちよく走っていたニジンスキーだったが、いつのまにか、脚 を伸ばす余地すらない馬群の真ん中に閉じ込められることとなった。前年の英ダービー馬ブレ ークニーに外をふさがれた状態で、馬の壁の中を走らざるを得なくなったのである。 ピゴットは、直線半ばでニジンスキーをわざわざ大外にまで持ち出し、馬群の外を通らせた。 抜け出すには、それしか手がなかったのである。こうしてニジンスキーがゴールまでの貴重な時 間を浪費している間に、フランス馬ササフラが先頭に躍りでた。ピゴットは身体を低くして、ほと んどニジンスキーの首にしがみつくような格好で必死に追う。そして残り 50 ㍍弱のところ、ニジ ンスキーがほんの少しだけササフラより前に出たところで、2頭の脚色が一緒になった。このレー スではもう「魔法の加速」に頼れないことを理解したピゴットは、ゴールまで何とかもたそうと、ニ ジンスキーにムチをいれた。そして、これまでムチを入れられた経験のないニジンスキーがこれ を避けようとたじろいだところ、それがゴールだった。 写真判定の結果、ササフラがハナ差で勝ち、ヘトヘトになったニジンスキーはそのまま馬房へ 帰ることになった。

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もし凱旋門賞に勝っていたなら、これがニジンスキーにとっての最後のレースとなるはずだった。 だが、エンゲルハートとオブライエンは、2週間後の英チャンピオンSにニジンスキーを出走させ ることを決めたのである。 「最後のレースは勝利で飾らせてやる責任があると思った」 オブライエンはそう事情を説明している。 レース当日のニューマーケット競馬場には、史上最多の観客がニジンスキーを応援するため に押しかけた。この日もピークに仕上がっているように見えたニジンスキーだったが、下見所か ら本馬場までの間、止むことなく追いかけてくる賞賛と応援の叫びは、やはりその神経をボロボ ロにした。彼はもはや競馬場のプレッシャーに耐えられなくなっていたのだ。 今回は逃げ馬の後をスムーズに追走する流れとなったが、最後の1ハロンまで来たとき、彼の 「魔法」はもう解けてしまっていることがはっきりした。彼は、またしても自分より劣る相手の2着 に敗れたのだった。 チャールズ・エンゲルハートは、ワシントンポスト紙のインタビューの中で、ニジンスキーに対す る外野の期待についての反省を、次のように語っている。 「ニジンスキーはまぎれもなく偉大な馬だ。しかし、一頭の馬に、それもわずか一年のうちに、さ まざまな距離、まったく違うコース、そしていろいろな環境の下での勝利を要求するのはアンフ ェアなことだったと思う。 この馬に対しわれわれが望んだような数多くのレース、さまざまなタイプでのレースの勝利は、 限界を超えたものだったのかもしれない。そのようなこともあって、私は、われわれ人間がニジン スキーをだめにしたのだと思っている」 そして、このインタビューのほんの数ヵ月後の1971年3月、そのエンゲルハートもこの世を去っ

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てしまった。 種牡馬としてクレイボーンファームに到着した彼は、「ニジンスキーⅡ」と改名されることになっ た。アメリカにはニジンスキーという同名の種牡馬がすでにいたからである。北米とイギリスのジ ョッキークラブは、それぞれに馬名登録を行っている。そのため、競走馬としての成績も種牡馬 としての価値もはるかに落ちる「元祖」ニジンスキーがアメリカに存在することとなり、偉大なノ ーザンダンサー産駒の方が名前を変えなくてはならないはめになったのだった。 ニジンスキーⅡは、父と同様、数多くの勝ち馬とそしてチャンピオンホースを輩出する名種牡 馬となった。1982年には産駒のゴールデンフリースが英ダービーを勝った。さらに1986年には、 ケンタッキーダービーをファーディナントが、そのひと月後の英ダービーをシャーラスタニが勝つ という離れ業まで演じている。 イヤリングセールで1320万ドルもの値をつけ、史上最高額の落札と話題になったシアトルダ ンサーもニジンスキー産駒だった。 そして、こうした多くのニジンスキー産駒たちが、あるいは種牡馬として、あるいは繁殖牝馬と して、次の世代のチャンピオンホースを送り出し続けている。 だが、人々の心の中に生き残るニジンスキーの姿は、偉大な種牡馬としてのそれではなく、競 馬の歴史の中に現れたもっともすばらしくエキサイティングな競走馬のままであり続けるだろう。 彼は本当に特別な馬だった。沈みこむように第5の歩度、「魔法の加速」へと移っていく様子は、 それを目撃した者、すべての胸に永遠に輝き続けるだろう。彼という存在に接し得たことは、ま るで星に手が届いたのと同じことであった。 そして、もう一度、星をつかもうとしたイギリスやアイルランドの競馬関係者が行き着いたとこ ろ、それはとてつもない競走馬たちを休むことなく送り出し続ける「尽きせぬ源泉」、そうノーザ ンダンサーの血統だったのである。

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