• 検索結果がありません。

佛教大學大學院研究紀要 03号(19730330) 073久下 陞「天台智顗の三因仏性の構造とその現代的課題」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大學大學院研究紀要 03号(19730330) 073久下 陞「天台智顗の三因仏性の構造とその現代的課題」"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

天台智語、の三国仏性の構造と

その現代的課題

自 次 一、二仏性から三仏性へ 二、三因仏性の時の構造 三、三因相望円具の構造 四、三因仏性の現代的課題 記 註

二仏性から三仏性へ

﹃一乗要決﹄﹁大文第七耕一一悌性差別こには、仏性論の所説の中で最も問題化した四つの主張を挙げ、それぞれ に悪心の批判がなされている。中でも最後の﹁第四明−一天台三因梯性この章は、古来中国から日本へと受け継がれ た仏性論請の総決算として、最後の断を下す悪心の立場が提唱されている注目すべき一章である。 この章には、天台智顎の所説を引用して三因仏性の枢要が指摘された後、その根拠が次のように問答態で示され 天 台 智 頭 の 三 園 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 七

(2)

tゴ 四 て い る 。 ﹁問。此三悌性。以レ何億レ護。答。未レ知一一其詮一。然浬繋経第二十八巻。師子肌菩薩云。善男子。衆生悌性亦二種 因。一者正因。二者縁因。正因者。謂諸衆生。縁因者。謂六波羅蜜。又云。縁困者卸是了因。世尊。警如下闇中 先有日一諸物一。矯レ欲レ見故以レ燈照了上。若本無者。燈何所レ照。己上此文相ニ順三因悌性や﹂ これは三因仏性がもと正縁二因に根源をもつことを明らかにしたものであって、この二因はまた理行ニ仏性とも共 通の基盤にあることを示している。 ﹃一乗要決﹄はついでこの二因から三因への道を次のように解明している。 ﹁ 問 。 此 経 既 云 一 一 縁 因 者 。 郎 是 了 図 一 。 故 唯 有 レ 一 一 。 云 何 矯 レ 三 。 答 。 此 義 難 レ 了 。 且 私 解 云 D 文 雄 レ 無 レ 別 。 義 意 有 レ 異了図卸是観照。縁図師是資成。如レ是般若。解脱。報身。慮身。智慧荘巌。一繭徳荘巌 D 如 レ 是 等 法 。 如 レ 次 相 封 。 由 − 一 此 理 一 故 o A 鵠 − ニ 一 一 因 一 。 如 下 色 名 逼 市 立 二 色 慮 一 。 及 我 名 通 。 而 別 中 我 執 上 。 今 亦 如 レ 是 D 於 一 一 通 名 中 一 口 尋 − 一 其 義 別 一 。 分 億 三 一 因 一 。 ﹂ 五殖の一である色は、十一色を含めて境全体を通じて示す名であるが、特に狭義では眼識の対境として、十二処の 一に数えている。また我は小我、大我、真我と、人法二無我の対象とされる低次の我から、如来の法身を意味しす る生命の主体そのものをも指す高次の我までの通称ではあるが、特にこれを我執とおさえるところに仏教としての 求道がなされたのである。これと同じ筆法で、六波羅蜜の中、特に智慧波羅蜜を仏母とおさえることによって度の 体系は明確化する。 このように仏性を因とし、これを果の位に立って主客に分つならば、客体としての正因と、その因を果たらしめ る縁を主体としての因と、この両者を成立させることができるであろう。そしてこの主体をさらに主客に別ち、因

(3)

どしての観照と、その因を果たらしめる解脱修行どを立てることができるかここに正・縁・了の仏性が成立する。 しかも、こうして立てられた三種の仏性は、これをあくまで因としてとらえる以上は、主客の位置は逆転する。 理曜を仏果として実らせるものは行仏性である。しかし、行仏性はあくまで芝居よって導き出されたもので あ る 。 ﹃法華玄義昭梓畿講述﹄は種熟脱の三時︵三益︶の観点から次のように説いている D ﹁ 以 一 一 帰 一 種 従 レ 縁 起 一 故 霜 一 一 下 種 縁 一 。 下 種 有 レ 三 。 謂 正 了 縁 。 於 レ 中 正 因 悌 性 億 一 一 是 縁 了 所 依 一 。 故 下 − 一 縁 了 二 種 一 而 不 レ ① 下 一 一 正 因 種 一 無 レ 有 一 一 此 慮 、 然 下 − 一 正 種 一 之 相 無 レ 他 。 先 念 レ 修 − 一 縁 了 一 。 是 岳 地 レ 下 − 一 正 因 種 一 。 ﹂ 縁了あっての正因である。縁了を主とする観点である。ところが正因を主とするならば、この所依・能依の関係の 主客は逆転する。 こ の 間 の 経 緯 を 、 ⑤ ﹁ 此 種 矯 − 一 回 疋 二 因 所 依 九 所 依 既 成 尋 下 一 一 能 依 二 種 一 。 是 名 一 一 縁 了 一 。 下 時 必 依 − 一 正 因 一 。 議 時 輿 レ 正 共 議 。 ﹂ 正因あっての縁了である。ところが体系の上からみれば ﹁ 三 因 相 望 則 正 策 レ 正 。 縁 了 矯 レ 傍 。 ﹂ どなり、この位置づけをさらに縁と了どに及ぼして次のように定義づける。 ⑥ ﹁ 二 因 相 望 則 了 矯 レ 正 。 縁 因 岳 地 レ 傍 D ﹂ そして下種の順を論理的に言えば、 ﹁ 若 言 一 一 下 種 前 後 一 正 因 必 前 。 縁 了 必 後 。 縁 血 ︵ レ 了 者 前 後 不 定 。 嘗 レ 知 二 中 了 因 是 正 意 故 。 諸 文 多 約 − 一 了 因 一 而 説 − 一 成 傍 ⑦ 下 種 コ 非 レ 謂 三 縁 因 不 − 一 下 種 一 也 。 ﹂ これが理仏性の立場である。 天 台 智 頭 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 七 五

(4)

七 六 ところがこれを実践上からみれば、 ﹁ 三 中 正 因 則 雄 ニ 是 主 一 口 市 初 下 一 一 正 種 一 時 未 一 一 一 必 下 − 一 縁 了 種 一 。 ③ 読 − 一 成 併 下 種 九 非 レ 謂 ヨ 一 正 因 縁 因 不 二 下 種 一 也 。 ﹂ 下 三 了 種 一 時 則 己 下 − 一 正 種 一 寛 。 是 故 諸 文 多 約 一 一 了 因 一 而 となり、行仏性の立場はこれをいう D

三因仏性の時の構造

天台智顎の所説によれば、 ① ﹁正因是本有。了因是現有。縁因是嘗有。﹂ と、三因はそれぞれ明確にその位置が定義されている。しかし、本

l

l

現 1 1 当 成立するのであって、この三は修性に付された仮の名にすぎない。それが智頭の立場である。 ﹁ 正 図 悌 性 非 レ 因 非 レ 果 。 而 言 是 因 非 レ 果 名 ニ 併 性 一 。 是 果 非 レ 因 名 一 一 大 浬 繋 一 。 又 併 性 非 レ 嘗 非 レ 本 。 而 一 一 一 口 ニ 本 自 有 v 。 一 切 衆 生 卸 浬 繋 相 。 不 レ 可 一 一 復 滅 一 。 又 言 。 一 切 衆 生 悉 有 − 一 併 性 一 。 而 賞 未 レ 有 三 二 十 二 相 一 。 未 来 醤 レ 得 一 一 金 剛 之 身 九 以 コ ⑩ 其 非 忌 曲 目 疋 故 言 レ 本 。 以 − 一 主 主 す 本 是 故 言 レ 嘗 。 ﹂ ここにいう正因仏性とは三因仏性を代表させたものである。仏性はもと浬撲と一体である口ただ、因果によってみ たとき、因の側を仏性といい、果の側を浬繋というむこれを時の構造からみるならば、過去は正因、未来は縁因と の三者の立場は相即して初めて なり、それらはそれぞれ現在である了図に働きかける。現有の了因の中に本有として現在にあるものが正因であり、 当有として現在にあるものが縁因である。この現在どは修用の起点、今日、ただいまをいう。仏性はいつも現在に

(5)

おいて、具体的現実において捉えられねばならない。 従来、仏性論は経典の意義の単なる形式論理的推論によって解明されようとしてきた傾向がある。しかし、仏性 は仏教本来の論理から捉えられなければ真の仏性の把握にはならない。 仏性はあくまで因であって果ではない。浬繋はあくまで果であって因ではありえない。しかし、仏性の因位性は 浬繋によって証せられ、浬柴の果位性は仏性によって証せられる。仏性と浬柴とはその否定的媒介のゆえに仏性た りえ、浬柴たりうるのである。因となり、果となりうるのである。悉有仏性とは、今まで多く本有的、可能的存在 として考えられてきた。しかし、これこそ形式論理の所産といわねばならない。悉有とは単に無媒介的本有にすぎ ないものではない。智頭の三因仏性の提唱はここにある。われわれは有無の見を越えねばならない。有を越えると は有になり切ることである。本有が本有になり切るためには本有は当有となって否定されねばならない。当有によ って本有はありぺ本有によって当有はあると言わねばならない。仏性の本有はそれを否定する当有によって証され る。単なる無媒介的な本有はありえない。当有もまた、本有によって否定されるところに絶対の当有性がある。単 なる無媒的当有はありえないからである。﹁非嘗非本﹂とはこの謂いであり、これこそが現有の仏性である。しか も、あくまで本有とし、因の側から追究されるところに仏性の本質がある。働く仏性の真のすがたがある。それこ そが現有の仏性である。 本有なるがゆえに現有、当有なるがゆえに現有、 しかも現有なるがゆえに本有とし、当有として仏性は信ぜられ、 行ぜられ、証せられ、働く仏性たりうるのである。 仏性はあくまで因であり、あくまで本有である。そこには以上のような時の構造をもって、因があり、本がある。 無始の過去を背負ってィ本として有り、無限の未来を望んで当として有るところに、現前に働く仏性は有る。しか 突 台 智 顎 の 三 国 仏 性 の 構 造 ど そ の 現 代 的 課 題 七 七

(6)

一 正 図 一 /本有 現 有 一 了 図 一 / 蛍 有 一 縁 因 一 七 }\ も、あくまでも図、あくまでも本として捉えるところに仏性の本質がある。 ﹁ 正 因 是 本 有 ﹂ と い い 、 ﹁ 正 因 併 性 非 レ 因 非 レ 果 。 而 言 是 因 非 レ 果 名 − 一 悌 一 性 九 ﹂ と い う の は こ ⑪ の 意 味 で あ る 。

、三因相望円具の構造

﹃ 金 光 明 経 玄 義 ﹄ に い う 。 ﹁ 云 何 三 悌 性 。 悌 名 矯 レ 魔 性 名 − 一 不 改 九 不 改 卸 是 非 常 非 無 常 。 如 − 一 土 内 金 藤 一 天 魔 外 道 所 レ 不 レ 能 レ 壊 。 名 一 一 正 因 悌 性 一 。 了 因 悌 性 者 。 魔 智 非 常 非 無 常 。 智 輿 レ 理 相 慮 。 如 三 人 善 知 一 一 金 誠 一 。 此 智 不 レ 可 − 一 破 壊 一 名 = 了 因 悌 性 一 。 縁 因 悌 性 者 。 一 切 非 常 非 無 常 。 功 徳 善 根 資 − 一 助 費 智 一 。 関 エ 穎 正 性 一 。 如 下 転 一 一 除 草 誠 一 堀 申 出 金 蔵 九 名 一 一 縁 因 悌 性 一 。 嘗 レ 知 三 悌 性 一 一 皆 常 築 我 揮 。 輿 三 ニ ⑫ 徳 一 無 二 無 別 。 既 以 − 一 金 光 明 一 韓 国 三 ニ 徳 二 還 以 − 一 金 光 明 三 字 一 。 墨 田 三 ニ 悌 性 一 也 。 ﹂ この警除は三因仏性相互の関係を示したものである。土中の金蔵を真如法性、それを埋める土は煩悩妄念の堆積と 見たててのことはむろんである。土中の金蔵は正図、その発見の眼力は了困、発堀は縁因の警えである。金蔵を深 く隠匿する地界は己れ自身である。 まず、了因を軸にしてこの警聡をみるならば、眼力が土中に金蔵ありとにらむ。この洞察が鍬を執らせ、土塊を 堀り起す。この作業がはかどるに従って、いよいよ金蔵の所在が確かなものとなる。了図を起点としたこの一連の 作業はその発堀まで循還して続けられる。了図によって正因を照らし、照らされた正因は縁因を起動させ、起され た縁因はいよいよ了因の智を明了ならしめる。

(7)

また、正因を起点としてこれをみるならば、ここに土中の金蔵がある。有るがゆえに、この金蔵は眼力の作用を 発動させて発見の喜びを与え、与えられた智はそれをいよいよ確実に手中に納めるために発掘の作業を導き出し、 それに没頭させる。この没入はいよいよ金蔵の存在を確かなものとし、貴重なものに高めてゆく。 正因は了因を発動させ、発せられた了因は縁因を導き、かくて導かれた縁因は、行ぜられることによってその功 徳の善根はいよいよ正因を崇高なもととして確かめることができる。この循環は無限に続けられる。かくして因と 果、本ど当との関係は一体化の方途をたどりつづけてやまない。 それは順次の進展であり、この円環は無限の高まりを求めてやむことはない。 ﹁非常非無常﹂といわれる所以で あ る 。 ﹃法華玄義﹄に、この三因の性は三軌に照応され、次のように明言されている。 ﹁類遁三悌性者。異性軌卸是正因性。観照軌印是了因性。資成軌印是縁因性 m q ﹂ 宋の四明知種はこの三因相望円具にして妙どいわれる関係を次のように説いている。 ﹁ 正 謂 − 一 中 正 一 。 了 謂 ニ 照 了 、 綾 乃 助 縁 。 縁 助 一 一 於 了 一 。 了 穎 − 一 於 正 一 。 正 起 − 一 勝 縁 二 亦 是 正 義 一 一 於 了 一 。 了 導 − 一 於 縁 一 。 縁 巌 − 一 於 正 一 。 正 起 一 一 勝 縁 一 。 相 由 既 然 非 一 一 横 義 一 也 。 一 心 頓 呉 非 一 一 縦 義 一 也 。 此 之 妙 因 能 魁 − 一 妙 果 一 倶 名 レ 因 者 。 其 義 在 レ ⑭ 葱 。 ﹂ これを図示すれば上掲の如くである。 助 互いに因となり、果となり、その円具した三者一体の軌道は妙果を魁する妙図たりうる といううのである D 次に三徳、三道と三仏性との関連をうかがえば、その媒体は三軌である。これを司法華 天 台 智 顕 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 七 九

(8)

}\

玄義﹄にたずねだいと思う。 ま ず 、 三 軌 と は 、 ﹁ 異 性 軌 得 レ 穎 名 震 一 一 法 身 一 。 観 照 得 レ 額 名 矯 − 一 般 若 一 。 資 成 得 レ 額 名 億 一 一 解 脱 一 ゅ ﹂ これを仏性の側からみれば、﹃止観輔行停弘決﹄に次のように結論やつけている。 ⑬ ﹁三悌性者。正因郎法身。了因卸般若。縁因卸解脱。﹂ この基盤に立って三道との関連をみれば、同じく﹃法華玄義﹄に ﹁ 三 道 輪 廻 生 死 本 法 故 矯 レ 初 。 ﹂ どいい、もし生死の流れにさからわんど思うならば、すべからく三仏性を知れど言う。そして三軌と三道とを類通 対応させて次のように説いている D ﹁類遁三道者。異性軌郎苦道。観照軌卸一煩⋮望。資成軌卸業齢。﹂ その一々についての解説の要点は次の如くである。 ⑬ ﹁苦道郎異性者。下文云。世間相常住。量不レ印コ彼生死一而是法身耶。﹂ ﹁煩悩卸観照。観照本照レ惑。無レ惑則無レ照。一切法空是也。文云諸法従レ本来常自寂滅相。印煩悩是観照恥﹂ ﹁ 資 成 卸 業 選 者 。 悪 是 善 資 。 無 レ 悪 亦 無 レ 善 。 文 云 。 悪 鬼 入 = 其 心 一 。 罵 − 一 回 一 百 毅 三 辱 我 一 c 我 等 念 レ 傍 故 皆 嘗 レ 忍 コ 是 事 一 。 @ 悪 不 − 一 来 加 一 。 不 レ 得 レ 用 レ 念 。 用 レ 念 由 − 一 於 悪 加 一 。 ﹂ ⑫ ﹁三軌卸三道。是矯 τ 理 性 行 一 一 於 非 道 一 通 中 一 連 俳 道 主 。 ﹂ 以上を図示すれば次のぺ l u の 如 く で あ る 。 これは仏が衆生に働きかける基盤が生死にあり、三道の輪廻にあることを示している。かくて三因仏性が三者一

(9)

因 ︵ 三 悌 性 ︶ l i l 果 ︵ 三 徳 ︶ 1 正因 lil −− v 法身 係 十 了 図 l i l l 1 ψ 般若 ﹁ 縁 因 I L I − − L V

l

l

i

I

体の円具の作用をなすのは、この三道の 輪廻に相即するといえるであろう。 次に三仏性ど三識との関係をうかがっ てみたい。先に掲げた﹁土内金戴﹂の警 観 昭 一 聡 は 、 ﹃ 撮 大 乗 論 ﹄ ︵ 貫 諦 訳 ︶ に よ る も の 解 脱 資成 で あ る 。 ﹁阿毘達磨修多羅中悌世尊説、法有−一 三 染 汚 清 湾 分 。 依 一 一 何 義 一 説 = 此 三 分 一 。 於 一 一 依 他 性 中 一 、 分 別 性 矯 一 一 染 汚 分 二 貫 貫 性 箆 = 清 海 分 一 、 依 他 性 矯 − 一 染 汚 清 海 分 一 、 依 一 一 如 レ 此 義 一 故 説 一 二 二 分 一 。 於 一 一 此 義 中 一 、 以 レ 何 億 レ 盛 吉 田 。 以 − 一 金 蔵 土 一 億 レ 睦 言 。 警 如 了 於 一 一 金 蔵 土 中 一 見 丙 有 三 ニ 法 一 。 一 地 界 。 二 金 。 三 土 。 於 − 一 地 界 中 一 土 非 レ 有 而 額 現 、 金 賞 有 不 z 現 申 。 此 土 若 以 レ 火 焼錬土則不レ現金相自現、此地界土穎現時、由一一虚妄相一顕現、金額現時、由−一異質相一額現、是故地界有三一分一。 如 レ 此 本 識 未 下 矯 一 一 無 分 別 智 火 一 所 中 山 焼 錬 ム 時 。 此 識 由 コ 虚 妄 分 別 性 一 額 現 、 不 下 由 − 一 異 質 性 一 穎 現 牛 若 矯 − 一 無 分 別 智 火 一 所 一 一 焼 錬 一 時 此 識 泊 三 成 就 異 質 性 一 額 現 、 不 下 由 一 一 虚 妄 分 別 性 一 顕 現 上 。 固 定 故 虚 妄 分 別 性 識 郎 依 他 性 有 一 三 分 一 、 警 如 − 一 金 蔵 土 お 一 中 所 レ 有 地 界 一 。 ﹂ 地界は阿禁耶識、これは真妄和合していて金と土とをもっている。依他性とはこれである。分別性どは地界中の土 であり、虚妄の相である。これが阿陀那識をはじめとする前七識の妄識である。金は地界の土の中に埋蔵されてい て、真実相である。巷摩羅識がここに顕現する。 これは真諦三臓の立場であり、天台智顎においても一応この立場がとられ、これによって三因仏性が説かれてい 三 種 一 、 一 染 汚 ハ 刀 、 二 清 海 分 、 天 台 智 顕 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 J¥

(10)

}\ る ﹃止観輔行停弘決﹄によれば荊渓湛然は智顕の三仏性を識と関連事つけて次のように釈している。 ﹁ 異 諦 三 蔵 云 。 阿 陀 那 七 識 。 此 一 否 執 我 識 一 。 此 卸 惑 性 。 鰹 固 定 縁 因 。 阿 頼 耶 八 識 。 此 名 一 一 戴 識 九 以 下 能 盛 一 一 持 智 種 一 ⑫ 不幸失。鰻是無波無明。無明之性。性是了因。巷摩羅九識。名一一清海識九郎是正因﹂ 三因ど三識とをこのように対応して説き、次いで法相宗、地論宗との立場の違いに言及している。 ﹁ 唐 三 蔵 不 レ 許 一 一 此 理 一 云 。 第 九 乃 是 第 八 異 名 。 故 新 誇 撮 論 。 不 レ 容 − 一 第 九 一 。 地 論 文 中 。 亦 無 − 一 第 九 九 但 以 ニ 第 八 一 @ 封 − 一 於 正 因 一 。 第 七 封 一 一 於 了 因 一 。 第 六 以 封 一 一 縁 因 一 。 今 依 − 一 同 県 諦 一 。 ﹂ 特に注目すべきは、これに続く次の言である。 ﹁ の 合 一 一 六 七 一 共 億 一 一 縁 因 一 。 以 一 一 第 六 中 是 事 善 悪 。 亦 是 惑 性 一 。 委 事 一 識 義 一 。 非 日 一 今 所 論 一 。 但 以 一 一 時 識 櫨 性 一 。 封 − 一 於 三 徳 三 因 一 。 於 レ 理 卸 足 。 論 家 雄 レ エ ナ 一 誠 一 b識箆 v 智 。 而 不 下 部 照 申 三 識 一 心 。 郎 − 一 此 一 心 一 。 三 智 具 足 上 。 ﹂ 第七阿陀那識のみならず前七識を一括して縁因とするという。この立場は識体相互が一心において相即することを 主張し、地論宗と摂論宗との対立を克服しようとするもののようである。 智顕にどっては識とはあくまでも一心の顕現にすぎず、その意味か、りすれば仮である。三因といい、三識という のは方便仮設の法用を示したものに他ならない。ゆえに一心の向かうところを指示しなければならない。それが三 軌である。三識という現状の分析だけでは解脱はありえないとするところに天台智顎の立場がある。 智 顕 自 身 、 @ ﹁類遁三蔵者。巷摩羅識。卸異性軌。阿禁耶識印観照軌。阿陀那識却資成軌。﹂ 三識をこのように三軌に配したのは、第九は理心中の本理であり、真性に向かうものであるこどを示し、第八は無

(11)

俊一無明がその智性によって観照し、般若に向かうことを示し、第七は執持のゆえに、解脱に向かうための資成とし たのである。第六以下は諸法を分別するために、資成に含まれるはずであり、第七をもって前七識の代表たらしめ た も の で あ ろ う 。 唯識論においては、余りに一心の分類分別に重点が置かれすぎているど言っても過言ではないのであろう。それ は果位に対する執著ど言えないであろうか。智顕のこの配分は、一心の業用をかく分けることによって、それが向 か う べ き 方 向 、 たど石べき軌範を明確にするところに、 その本意があったと見るべきである。 唯識論がその所論とする八識転依の四智をもって、この三軌に対応すれば、智頭があくまで一心の働きを因位に おいてとらえた識の意義に対する立場が明白となるであろうむ図示すれば上の如くである。 ︵ 三 果 ︶ ︵ 三 因 ︶ 軌 )L 識 八 識 ︶ 自 弗 Jじ 、 樫 般 法 脱 若 身 f u 2 ’ ノ a 円 . ‘ ’ 目 . 正 因 a . ︵ 大 図 岬 配 智 ︶ # ヘ 〆 八 Aj : 了 因 j −;:観照軌;!:阿繋耶識ノ阿頼耶識 ︵ 平 等 性 智 ︶ 7 1 ノ 七 4 :・:縁因;:・資成軌:::::阿陀那識ノ末那識 A 妙 観 察 知 日 ︶ d n , F , , h 、 〆 ﹄ 、 − ノ 〆 戸 ノ 意 識 r 意 識 ︵ 成 所 作 智 ︶ ず , , a F , 前 五 識 天 台 智 顕 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 法相宗ど摂論宗とが論評点とする八識と 九識とのずれについては識を因位として捉 えるこの立場によって統合されるであろう。 '.!> また、摂論宗と地論宗との論評の焦点で ある第八識の真妄の問題については、智顎 は一心の向かう基本的な在り方から屯次の よ う に 説 い て い る 。 ﹁若地人明。阿懇耶是異常湾識。撮大乗 人云是無記無明随眠之識

V

亦名−一委事 九 識 乃 名 一 一 浮 識 一 。 互 諦 云 云 。 ﹂ /¥

(12)

J¥ 四 と地摂二師の論誇の拠点を一不し、その共通の地盤たるべき一心における視点が次のように示されているむ ﹁ 今 例 レ 近 況 レ 遠 。 如 二 人 心 一 復 何 定 。 億 レ 善 則 善 識 。 矯 レ 悪 郎 悪 識 。 不 レ 矯 − 一 善 悪 一 郎 無 記 識 。 此 三 識 何 容 三 頓 同 日 一 水 ⑮ 火 一 。 祇 背 レ 善 矯 レ 悪 。 背 レ 悪 食 レ 善 。 背 一 一 善 悪 九 震 − 一 無 記 一 。 祇 是 一 人 三 心 耳 c ﹂ 一人の心に定性というものはありえない。善といい、悪というが、ただこれ相対評価にすぎない。一心が三心に分 かれて働くのではなく。一心の向かうところによって三性に分ち三識が設定されたにすぎない。もともと一体のも のである。かく、三識の基盤におかれねばならない基本的な観点が示されている。地摂二師の論点は、実は法執の 所産であることを、その論拠の原点である一心にさぐるところに智顕の主張がある。 ﹁ 三 識 亦 謄 レ 如 レ 是 。 若 阿 寒 耶 中 有 一 一 生 死 種 子 一 。 票 習 増 長 卸 成 − 一 分 別 識 一 。 若 阿 禁 耶 中 有 一 一 智 慧 種 子 一 。 開 票 習 増 長 卸 轄 レ 依 成 一 一 道 後 真 如 一 名 矯 − 一 湾 識 一 。 若 異 − 一 此 雨 識 一 祇 是 阿 禁 耶 識 。 此 亦 一 法 論 レ 三 。 三 中 論 レ 一 耳 oU 一 阿懇耶識の中に染揮の種あり、染種は第七識となり、浄種は第九識となる。これが摂論の立場である。ところが、 第八阿家耶識を真如と同視し、無垢純浄の識とするのが地論の立場である。 生死種子といい、智慧種子といい、阿懇耶識を離れてはありえない。それぞれ分別識、浄識を見分とすれば、そ の相分である。摂末帰本として、その本である阿禁耶識の一法があるだけである。こうして阿察耶識はこの見分を 生じ、その自証分と合してここにコ一識が成立する。 一法の縁起は染ど浄とを分ける。無明が法性を覆うとき、無明の側をとらえて染を強調するのが摂論の立場、法 性の側をとらえて浄を強調するのが地論の立場である口摂論の指摘するものを裏返せば地論の立場となり、地論が 指摘するものを裏返せば摂論の立場となる。 真妄和合とする摂論の主張はあくまで果位を捉えてのことであって、因位においてはあくまでただ、迷妄の働き

(13)

を立てているがゆえに地論と矛盾する。智頭はこれをとらえて、その矛盾こそ否定的媒介性の拠点であると指摘す る。つまり、三識を用いて一心をこのように開き、その趣くところを三軌によって示したのである。 一は真性軌、すなわち蕎摩羅識の方向であり、 ニは資成軌、すなわち阿陀那識の方向であり、 三ほ、いまだ無明随眠の無記の識、岡家耶識、すなわち観照軌の方向である。 ところで、これ等は一心の内の因の規定であって、そこに三因の基盤があり、 さらに智韻は﹃法華経第四 を 示 し て い る 。 一心のどらえ方の基本姿勢がある。 五百弟子受記品﹄の繋珠聡によって、次のように三識のそれぞれの立場とその相即 ﹁ 下 文 警 如 下 有 レ 人 。 至 − 一 親 友 家 一 。 酔 レ 酒 而 臥 主 白 血 旦 非 − 一 阿 察 耶 識 ↓ 世 間 狂 惑 分 別 之 識 起 己 遊 行 錯 − 一 衣 食 一 。 宣 非 一 一 阿 陀 那 識 一 。 開 票 種 子 補 起 増 長 。 曾 ニ 遇 親 友 一 一 示 以 一 一 衣 珠 一 山 一 旦 非 − 一 巷 摩 羅 識 一 。 巷 摩 羅 識 名 − 一 無 分 別 智 光 二 ﹂ これは第七識阿陀那識に起点が置かれている。汚れた内衣を顧みるのは遊行の果てにはたらいた世間狂惑の分別智 である。これが衣内の珠に至るには、醇い臥した、親友の家にまで回想が至らねばならない。すなわち阿禁耶識の 拠点である。資成軌はかくして観照の根元をゆさぶる。縁因といわれるのはこのためである。そこに至って観照軌 はいよいよ聞窯習の種子を生ぜしめ、次第に増長せしめる。こうして真性軌の軌道にのせるのである。 三識の成立ど増長とは単独に固定していない。相互に依存し、相互に能動する。それが一心のはたらきであり、 因をもってとらえる理由である。 世間狂惑なければ、珠の発見も、その価値の認識もありえない。酔臥なければ、遊行もなく、親友との濯遁もあ りえない。また、もともと衣内に珠を繋ぐ親友のはからいなければ、この現実そのものもありえない。これが三識 天 台 智 頭 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 /¥ 五

(14)

t k ﹄ \ r r 一 / の働きであり、三因の関係である。これを図示すれば上掲の如くである。

ω

酒に酔い、無知となるがゆえに無価の宝を知らず、世間狂惑分別の識をはたら かせて遊行し、最小限の衣食の中に生き、貧に窮する。そのゆえに、

ω

親友の助言あり、内衣の裏をさぐる。

ω

汚れた衣によって珠宝を得るに至ったのである。 ところが一旦、無価の宝を見出した上は、今まで一見無駄とも見えた遍歴の価値 は 一 変 す る 。

ω

珠は衣によってあり、

ω

衣は酒に始まる遊行の果てにあり、

ω

酒は珠を隠すことによって無上の宝の発見の端初たりえたのである。 珠はそのままでは無価の宝たりえない。大いなる歓喜をもって見出されることはない。酒によって隠されることに よって衣内の蔵となり、蔵されることによって遊行を呼ぴ、貧を招き、やがては無価の珠宝として姿を顕わすこと に な る 。 真如は、無明により、分別智により、無分別智の開眼によって、まことに真性としての価値を付与されるに至る。 ﹁無償﹂という表現はこれを示している。 これが三蔵の相関性であり、三困の相望性であり、 一心開展の相であり、仏性開顕のすがたであり、因果相即の 実相である。しかもこれを因位においてとらえてゆくところに三軌がある。

(15)

三因仏性の現代的課題

アメりカ精神分析学の泰斗ヒ目されるエ!リッヒ ⑮ 回 ロ ︽ E F 2 5 m D ι 司 ω M B F o m w ロ m w q 巴 ω ︶ に 号 一 口 っ て い る 。 フ ロ ム 開 同 日 の 目 同 司

5

5

5

は、その著﹃禅と精神分析﹄︵

N

g

﹁今日ではほとんどすべての人々が、ほんとうに見たり、聞いたり、感じたり、味わったりできる自分の内なる力 をもってするよりも、むしろ自分の思考で見たり、聞いたり、感じたり、味わったりしているのである。 一人の禅の師匠の話である。彼はいう﹃自分が悟りを開く前には川は川であり、山は山であった。自分の倍りが 開け始めると川は川でなくなり、山は山でなくなった。さて悟りを開いてしまった今は、川は再び川になり、山は 再 ぴ 山 で あ る 。 ﹄ 一 般 の 人 は プ ラ ト

1

の洞窟における人間のご 再度、ここでわれわれは実在への新しい道を見る。 とく、影のみを見てそれを実体だと思いちがいしている。 一度この誤りを悟ると彼の影は実体ではないことを知る 一度悟りを開いてしまえば、彼は洞窟を去りその暗聞から光明の中へ出る。そこで彼は影ではなく実 体を見る。彼は目覚めている。彼が闇の中にある限り光を解することは出来ない︵聖書にあるごどくグ光は闇の中を照 ら す 。 し か し 閣 は そ れ を 知 ら な い d と︶。一度、彼が閣を脱すると、彼はいかに影としての世界をみていたか、いかに @ その世界を今実在として見るかの相違を初めて解するのである。﹂ ﹃ 止 観 輔 行 停 弘 決 ﹄ に 、 。 @ ﹁今三千印空性了図也。三千郎候性縁因也。三千邸中性正因也。﹂ と?っ。一二図仏性とは実相の三つの柱であり、﹁自分の思考﹂による現実把握の傾向であるとフロムがいみじくも 指摘した現代人の病根を、克服するための方式に、これは符合しているように思われる。 の み で あ る 。 天 台 智 頭 の 三 因 仏 性 の 構 造 ど そ の 現 代 的 課 題 J¥ 七

(16)

/¥ J¥ 、 ‘ , , , t i ︵ 、 ‘ . , J n y “ , ,

E

E

、 、 、 , , , n 点 り ︵ 影でなく実体を見る、その目覚めは空性了図、 洞窟の暗闇から光明の中へ出る、そのはたらきは仮性縁困、 今実在として見る光明の世界、それは中性正図、 ど 一 言 う こ と が で き る で あ ろ う 。 @ ﹁ H 世紀の病気 H に悩む人々に対して、精神分析の提供し得る助けはなんであろうか D ﹂ その病侯をとりのぞくという H 治療 H ではもはやこれは追いつかない、それは病気がないと いうことではなくて、最良の状態︵話。=

E

Z

Z

m

︶が現存するということであるという観点を示す。ところがこの定 義づけには、フロイトの体系を越えねばならない。この回答のためには、たとえ不完全であっても、ヒューマニズ ム的精神分析の根底にある人間容在の基本概念の検討が必要であることに気づく。ここに彼が東洋の精神文化の峰 @ である仏教に近づく動機があった。 と自問するフロムは、 ﹂うして彼はこの書において、 ﹁最良の状態の性質﹂という一章を設けて、その定義への第一の試みを述べてい る 最良の状態とは人閣の本性と一致していることである。人間存在の条件と一致するところのものとは何か、その 条 件 と は 何 か 。 それは分離性の克服であり、統一性の発見である。自己の内部において、人々と、そしてまた自然との関係にお いて、そこに生じつづけた分離の経験が作りだす悩みを克服し、そして合一性を見出さねばならない。どこにそれ は あ る の か 。 答 は 二 つ あ る 。 一つは、自覚以前に、すなわち人間として生まれる前の状態に帰ること、退行である。

(17)

今一つは、充分に生まれることである。自己中心的な不完全な生を越えて調和と合一に到達するまで、生まれて ゆ く こ と で あ る 。 出生によって生まれることは完了しない。それは一つの過程でしかない。生の目標は、充分に生まれることであ る。生きるとは刻々に生まれることである。自身として充分に発展することである。 第一の退行の誌みは、必ず失敗し、悩みに陥ることは必定である。人聞が人間以前の自然との統一からひきさか れてしまった後では、もはや回帰は不可能である D それは死と狂気においてのみ可能である。この退行的統一性は、 子宮にかえり、大地にかえり、死にかえる情熱をかきたてる。その結果は自殺か発狂である。 当然、第二の回答の中にしか道はない。それは一言にして言えば、世界に対して自己自身を生産的に関係づける こ と で あ る 。 ウ エ ル ・ ピ I イ Y グ フロムは最良の状態に達するためには、三つの要素が必要であると主張する。 第一は、最良の状態とは、理性が充分発達することによって、到達する状態である。その理性とは単なる知的判 断ではない c それは H 物をありのまま H にしておくことによって真理を把握する力である。その状態は人間と自然 どが情意的に結びつき、分離と疎外とを克服し、一切のものと一つになる経験に到達し、しかも、自己自身を同時 に分離した存在、私として分割されないものをしっかりともっている状態である。 こ ヲ つ し て 、 それは通常の人間が生きている半睡半眠の状態から目覚めて、はっきりと覚醒している状態である。 第二は、創造的な状態である。私自身が他の人々、 一切の宇在に対して反応し、答え、全人としてあるがままの 現実に対して反応する状態である。その反応は世界を如実に見、それを私の世界として体験することである。その 世界は私の創造的な把握によって、彼方にある無縁の世界が変容して私の世界になったものである。 天 台 智 顎 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 J¥ 九

(18)

第三は、自分の我を捨てた状態である。貧りによって我を主張し、拡大しようととすることをやめた状態である。 それは自分の自我というものをただ保存すること、むやみにほしがること、用いるこどによってではなく、はたら きによって経験する、そうして達せられる状態である。 ウ エ ル ・ ピ I イ Y グ 以上がフロムの主張する﹁最良の状態﹂の極く大ざっぱな素描である。 その主張からこうして要約した三つの要素は、そのまま三図仏性の示すところと不思議に符合している。 第一にいう、充分に発達し、単なる知的判断ではない理性、ありのままの真理を把握する力、一切のものと一つ になる経験を得させる理性、同時に自己自身の主体性を確立する理性どは、わが般若の観照智をもって当てればぴ ったりするであろう。それはまさに了図仏性のめざすものである。 第二の創造的反応というのは、解脱をめざして積む善根功徳の行であり、主体的な行動によって真の自己自身を 見出そうとする努力は、すななわち縁因仏性そのものに他ならない。 第三の自我を捨てることによって、まことの自我に目覚めるどいうのは、法身の果徳をめざし、大我に生きんと する正因仏性に相応するこどは言をまつまでもないであろう。 フロムは主張を繰り返す。人聞は彼の存在の事実そのものによって問いかけられている。その問いとは、彼の内 部における矛盾

l

l

自然の中にありながら、同時に、彼が自分自身であるという事実によって自然を超越せねばな らぬという矛盾

ll

それをどうして克服するかという課題である。この聞いにに耳をかさない人の好個の見本は、 二十世紀に生きる我々自身だと、 フロムは言うのである。 我々は、財産、威信、力、生産、慰みなどに関心を向けることによって、究極的には我々ーーーその自我ーーが容 在するということを忘れようとすることによって、この間いを回避しようとしている。

(19)

どんなに彼が神のことを思うども、或は教会に行こうとも、いかに多く宗教的な観念を信じようとも、この間い に耳をかさないならば、これに対してなんらの答えをもたないならば、彼はただ時を刻んでいるにすぎない由彼は 自分が生産する無数の物の一つのように生き、死ぬるにすぎない。彼ほ神の存在を体験する代りに神を考える。 これにはただ二つの対立する答えがあるばかりである。 一つの答えは、人間以前の前意識的な存在に戻ることであり、理性を捨てることであり、動物になることである。 そのようにして再ぴ自然ど一つになることである。今まで多くの宗教はこれに応じてきた。 今一つの答えは、人間以前の寄在から抜けでることによって、人間の中に今も残っている進化の残浮を拭い去る ことによって、理性と愛と、そうした人間的な能力を発展させるこどによって、人聞と自然どの間に、さらに人間 と人聞との聞に新しい−調和を見出すことによって、人間の脊在を明らめることである。これは、意識以前の楽園の 調和に戻ることによって見出される退行的な合一ではない。それは、彼が分離を経験し、世界から、彼自身さえか らも疎外を味わった後、完全に生きようとして切実に求められる合一である。それは直観的に現実世界を把握する 新しい理性への要求である。 このような、前物に脊在して、過去には存在しない新たな目標の象徴がある。その一つは仏教である。そう、フ ロ ム は 一 言 う の で あ る 。 天台智額が﹁因﹂としてどらえた仏性は、フロムのいう第二の回答に相応するものではなかろうか。いや、第一 も含めた統一的な回答ど見るのがより妥当であろう。 ﹁ 正 因 悌 性 非 レ 閤 非 レ 果 。 而 言 是 因 非 レ 果 名 − 一 悌 性 一 。 是 果 非 レ 因 名 − 一 大 浬 繋 一 。 @ ﹂ と智頭はいう。仏性とは常に前方にあるものである。そのゆえに、修するための因として、二因に関かれ、三因に 天 台 智 顕 の 三 因 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 九

(20)

九 聞かれたのである。だが、開かれた後、気づくことは、それは本来的な自己であった、久遠の昔に設けられた自己 本然の姿であったということである。﹁非因非果﹂とはそれを言ったのである。それを求めることは、単なる過去 への復帰ではなく、退行ではなく、あくまで前方に求められねばならない c ﹁因非果﹂どはこのことである D フロムはこの章の終りにこう言っている。 ﹁禅のいい方は H 自分自身を空にする H としばしばいわれる。キリスト教のいい方では、しばしば H 自分自身を 殺して神の意志をうけ入れる H どいわれる。これらの違った表現の背後にあるキリスト教的経験と、仏教的な経験 の間にほ大きな違いがないように思われる。しかしながら、道俗的な解釈や経験に関する限りこのいい方ほ自分自 身で決定をなす代りに、決定を、自分を見守ってくれ、自分にとって何が善であるかを知っている全知全能の父に まかせるというこどを意味する。この経験においては、人は聞かれ反応的にならないで、服従的になるということ ⑩ は明白である。﹂ ここまでに関する限り、 フロムのこの言は、真理の一面を語っているにすぎないことになる。 これは、智顛のいう﹁是果非レ因名ニ大浬繋この一面を語ったにすぎない。ここにはまだ、 当来の仏は予想され てはいない。単なる本来の仏への復帰が予想されているばかりである。 と こ ろ が 、 フ ロ ム は さ ら に 一 = 口 う 。 ﹁自我主義︵エゴイズム︶の真の降伏の意味において神の意志に従うということは、むしろ神の概念がないならば、 @ 最もよくなされる。逆説的ないい方をすれば、私が神を忘れるならば、私は真に神の意士山に従うことになる。﹂ ﹁神の概念﹂の有無は形式論理では律せられない。彼の言のごとく思考の対象ではないロ分別の も は や こ こ で は 、 外にある c

(21)

仏教的な立場からいうならば、 ﹁ 神 ﹂ は 自 己 の 代 名 詞 で あ る 。 H 自己自身を空にする H H 自己自身を殺す H こ と によって、本来の自己を開放するという、矛盾的自己同一の否定的媒介である。 智顎は言う D 当 で あ る 。 ﹁ 悌 性 非 レ 嘗 非 レ 本 。 而 一 一 一 口 一 一 本 自 有 v 之 。 一 切 衆 生 部 浬 繋 相 。 不 レ 可 − 一 復 滅 一 。 又 言 。 一 切 衆 生 悉 有 エ 併 性 一 。 市 賓 未 レ 有 − 一 ⑫ も 三 十 二 相 一 。 未 来 首 レ 得 一 一 金 剛 之 身 一 。 以 一 一 其 非 γ 国 是 故 言 レ 本 。 以 − 一 其 非 γ 本 是 故 言 レ 嘗 。 ﹂ ﹁浬繋相﹂とは本でなければならない。滅すべからざる悉有の仏性でなければならない。だが、﹁三十二相﹂どは ﹁金剛之身﹂とは当である。しかも、本は非当によって言われ、当は非本によって言われる。本と当と ﹁非嘗非本﹂、そこに仏性はあるというのである D は否定の媒介によって相即する。 ﹁神を忘れるならば、私は真に神の意志に従うことになる﹂、そこにエゴイズムの真の克服があると、 フ ロ ム は 一 言 う の で あ る D ﹁仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするといふ ⑮ は、万法に証せらるるなり。﹂ と道元は言う。自己を否定することによって自己を開放する道、それが仏道だというのである。仏性とは、煩悩と 浬葉、仏と衆生との媒介でなければならない。 さ ら に 智 顎 は 言 う 。 ﹁下文云。汝賞我子。我貫汝父。卸正因性。又云。我昔数−一汝無上道一故一切智願猶在レ不レ失。智郎了因性。願即 縁因性 J 又 云 。 我 不 吉 一 敢 軽 − 一 於 汝 等 一 。 汝 等 皆 嘗 一 一 作 梯 ↓ 郎 正 因 性 。 是 時 四 衆 以 讃 日 一 諦 衆 経 一 卸 了 因 性 。 修 − 一 諸 功 徳 一 郎

MO 縁 因 性 。 ﹂ 天 台 智 顎 の 三 国 仏 性 の 構 造 と そ の 現 代 的 課 題 九 一 一

(22)

九 四 これは仏性を三因に開くことによってその空性をーーー因而果、嘗而本、非因非果、非嘗非本といわれるものの本質 を l l l明らかにしたのである。 ﹁汝賓我子。我賓汝父。﹂という句は、父子の関係が本来的なものとして設定されていることを示し、また、無 上道が久遠の昔にありたことを教えている。その血縁にすがり、その道を照らし、それを願求する智ど願どが失わ れていないという確信は、当来への展望であり、また因の自覚である。 ところが、﹁我不王敢軽−一於汝等一。汝等皆蛍一一作悌二﹂という句は、当来仏すなわち因の自覚を教えたのである。 すかさずなされた四衆の読請と修徳は、 その自覚が本来的な存在に向かって決断されたことを示してい そ の 時 、 ザh v o このように、正図、了因、縁因の三因は一体どなって、しかもそれぞれのはたらきのうちに、仏性は、否定性、 非因非果性、非当非本性を発顕して、はたらくのである。しかもその地盤には、仏果への因としての、修に対する 性としての立場がすえられている。 ウ 品 ル ・ ピ I イ Y グ フロムが、最良の状態ヘ到達するために示した二つの道に、さらに新たな先を投げかけ、第三の道を照らし出す ものは、この三因仏性の構造のうちにあるように思われる。 同 註 記 M ①悪心僧都全集第二、一九一ページ ② 同 ③理仏性、行仏性の説は慧遠の提唱であろうと言われる︵望月仏設大辞典五、四四五六ペ!?申立その著、大股浬梁経義 記 に ﹁ 理 性 一 味 上 下 義 画 。 行 性 差 殊 前 後 不 レ 等 。 ﹂ ︵ 巻 第 九 、 大 正 識 経 第 三 十 七 巻 、 八 六 九 ペ ー ジ 上 ︶ と あ る に 拠 っ た も の で あ る 。

(23)

法賓はその著、大般浬繋経疏に仏性を論じて、﹁有二義一理性非内外等二如詑空模中聾性非内外等凡夫身中嘗来悌果非 内外等修因卸得﹂︵巻第十、大正十三年朝鮮線督府刊本、三五丁左︶ど述べ、三世不摂の理仏性と未来当見の行仏性とに 分け︵北本浬繋経巻第三十三、迦葉菩薩品第十二之一による︶、この行仏性を笠筏中声の警聡によって、仏性の超越性と 内在性どをこのように説き、理性ど行性の関係を象徴的に明かしている。善方便なければ声はなく、また声のないところ に 善 方 便 の あ り ょ う は な い と 言 う の で あ る 。 天台大師全集、法華玄義五、二九一ページ 同 同 同、ニ九一!こペ ly 問、二九二ページ 金光明経玄義上、大正購経、第三十九巻、二ページ上 法華玄義第九下、天台大師全集、法華玄義五、二四一

l

二 ペ ー ジ 仏性における時の構造、その具体的現実の構造については、中山延二博士の著、仏教に於ける時の研究︵昭和十八年刊︶、 就中、﹁後篇第三併性論誇の腸趨に就て﹂より多くの教示を受けた。 金光明経玄義上、大正購経第三十九巻、四ペ i 汐 上 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六五九ぺ l ヲ 金光明経玄義拾遺記巻第二、大正競経三十九巻、二二ページ上 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六 O 三 ペ l 汐 輔行第三、天台大師全集、摩詞止観二、一四九ぺ!? 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六二六ページ 問、六二七ページ 同 ⑪ ⑬ ① @ ⑦ ① ⑤ ④ ⑫ ⑮ ⑮ ⑪ ⑬ ⑬ ⑭ ⑬ ⑫ 問 、 六 二 八 ペ l 汐 天台智顕の三因仏性の構造とその現代的課題 九 五

(24)

九 六 ⑫ ⑫ ⑮ @ @ ⑧ @ @ 同 同 宇井伯寄校訂、撮大乗論、臆知勝相品第二、五

Ol

一 ペ i 汐 天台大師全集、摩詞止観二、一四九ページ 同 同 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六三 0 ペ ー ジ 宇井伯害博士は、﹁無没識﹂どは真諦三戴の訳語であろうと推定し、ァ l ラヤヒ無没との関係を推論されている。﹁錐在 生死不失没故﹂という理由だけではないというのである。︵阿繋耶識と無没識、日本併設皐協曾年報、第四年、二 O 三

l

七 ペ l ヲ ︶ 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六三七ぺ l 汐 問、六三九ページ 問、六四 0 ペ ー ジ 問、六五三ページ 鈴 木 大 拙 、 E ・ フ ロ ム 、 R ・ デ マ ル テ ィ l ノ共著 佐藤幸治・他訳、二 O 九 l

一 二

0 ペ ー ジ 輔行第五、天台大師全集、摩詞止観三、二七二ページ 禅と精神分析、一五六ページ 岡、一五六 l 七ページ、文中の傍点は訳文のまま。 問、二ハ七

l

一 七 0 ページ、文中の傍点は訳文のまま。 本論、註⑩参照 禅 ど 精 神 分 析 、 一 七 一 ー l 二 ペ ー ジ 岡、一七二ページ ⑮ @ @ ⑮ @ @ @ ⑫ @ @ @ @ @

(25)

⑭ ⑬ ⑫ 本論、註⑩参照 正法眼頼、第一現成公案、大久保道舟編、道元種師全集上巻、七ぺ l 汐 法華玄義第五下、天台大師全集、法華玄義三、六五九!六 0 ペ ー ジ 天台智頭の三因仏性の構ど造その現代的課題 九 七

(26)

参照

関連したドキュメント

自ら将来の課題を探究し,その課題に対して 幅広い視野から柔軟かつ総合的に判断を下す 能力 (課題探究能力)

②教育研究の質の向上③大学の自律性・主体 性の確保④組織運営体制の整備⑤第三者評価

「男性家庭科教員の現状と課題」の,「女性イ

 第二節 運動速度ノ温度ニコル影響  第三節 名菌松ノ平均逃度

2)医用画像診断及び臨床事例担当 松井 修 大学院医学系研究科教授 利波 紀久 大学院医学系研究科教授 分校 久志 医学部附属病院助教授 小島 一彦 医学部教授.

 21世紀に推進すべき重要な研究教育を行う横断的組織「フ

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

 哺乳類のヘモグロビンはアロステリック蛋白質の典