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日本佛教學協會年報 第9号 004大久保道舟「中世の禪僧と國家意識」

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(1)

日 本 側 数 皐 協 舎 年 報 れ 第 九 年 ︶ 八 八 I

7

序 ド コE 我宗教文化史上に於ける仰教文化の位置は、之を他の神道、儒敬、基督教の諸文化に比較して最も大きな存在 を有ってゐるが、その仰教文化の中に於ても、特に天台、且言、浮土︵浄土教令一般ゆ得意味す︶、間の四つが最も著 しい功績を表してゐる。事者は鎌倉以前を帯して奮悌教といひ、鎌倉以後を名づけて新悌教と栴へてゐるが、所 調この奮悌軟に於ては、天台、,暴言の一雨宗と之に附随した浄土教とが最も文化的に活躍し、新悌教に於ては猫り 蹄宗がその中心勢力を震してゐると考へられる。之もとより悌救文化が一般文化の上に具惜的にあらはれた形態 の方面から斯く識別したのであって、若し宗一淑費展史の上からは、浄土教の如きはいふまでもなく新働救に数ふ べきが常然である。されど一般文化史上に於ては、寧ろ在日仰敢に於ける枕置の方が造に甚大であるといはねばな ら ぬ 。 中世に於ける悌救丈化が耀宗によって代表せられることは、元よりそれの教合史的教均史的韓民ぞ指すのでな く、輝がその時代文化の上に及惜しに影響の深度によったのであるの従って新仰教に於ても、決して天台、混一言、汗

(2)

土等の諸文化が影響してゐないといふのではなく、大 Y 時代文化の特殊性を把握するところ、そこに蹄宗文化が 著しく潜在的に活躍してゐるが錦である。この意味に於て締そ中世文化の中心勢力と見倣したわけである。 然らば聞は中世文化の如何なるみ面にその影響ぞ及惜してゐるのであらう。人ーその主要なる諸瓢を拳けるなら ば、常時の曲学問、信仰はいふまでもなく、道徳、教育、文阜、その他絹輩、建築、茶道、書道、庭閣、陶器、謡 曲等.少なくとも中世文化と目せらるるもの込全般に一丸って、その足跡が認められる。殊に室町時代に於ける糟 憎か、世時の外交、政治.経慣等に多大の貢献を錦してゐるが如きは、開文化が賢際に時代ぞ支配したものであ ると見ることが出来、中世の精神生活は、その殆んど綿てが蹄丈化の感化影響によるといふも過言ではない。 聞の影響が斯く中世文化の各方面に及んでゐることは、日本文化史上詑意すべき事柄であるが、さてその聞が 如何なる内容ゆ倍以って‘それぞれの文化面に関係してゐるのであらうか、同一淵源より費してゐるものであるな らば、その内容に於ても亦一貫した特性なり精紳がなければならぬ。故にこの精神さへ捉へたならば、中世文化 全韓の姿を知ることが出来る。然るに従来の研究はこの文化の一部面に就いて、箇別的に検討されてゐるのみで、 禾花綜合的研究は試みられてゐない。例へば丈島十を扱ふ者は、その間貼よりして、縄文化の特性そ論じ,叉茶遁 に精準する者は、その一黙のみから蹄文化の内容を探らんとしてゐる。その他給量、書道等に於て皆然りである。 併し乍ら、この綜合的研究といふことは容易に議行し得らる?ものではなく、それには多大の時間と努力とを 要する。予が以下に於て蓮べるところも、恐らくその範囲冶出でないものであって、中世に於ける糟京文化史の c

~ 一断面必照曾するに過ぎないことを諜め断って置く。 抑も我民族の圃家意識︵予は岡睦観念をも包含して之な岡家意識といふ︶の量生は、之を慨史的に論今るならば‘ 中 世 の 料 併 と 岡 山 本 意 識 八 九

(3)

日 本 仰 致 何 千 協 命 日 付 小 浪 ︵ 第 九 年 J 九

. ,

"

遠く一千数百年前印ち崇神事一仁雨朝の頃に徴設することが出来るのであるが、然し之が明確に園民の意識として 扱はれたのは、一千三百有餓年前、聖徳太子、か﹁国際ニ二君寸民無二一府主刊率土兆民。以 v 錦 v主。所 v任官司皆 目 疋 王 臣 一 五 々 L と岡患を明示せられたニとにあるといはねばならぬ。太子の此宣言は一而岱時の政治形態が我園家 本 来 の 理 想 と 合 致 せ ‘ ぎ P Q ’ と こ ろ あ ゐ を 察 し 、 之 v 笠鼎正せんが震に護布せられたものであって、言はゾ岡家意識に 卦する再認識と見ることが出来る。か

3

0

運動は同家意識の消長に作って幾度か繰返されてゐる。印ち奈良朝初 頭に於ける古事記の編纂及び日本書紀の撰修の如きは、何れも認識な新にしたものといふべきである。また嵯峨 叉皇の御代﹁新撰姓氏録の編纂によって各氏族の本源‘系統の明かにせられたるが如きは、何れも我岡家の性格な 歴史的に回顧したもので、同民自身の管限に基く努作であるといはねばならぬ。日記等は園民運動の著しい例であ るが、向俸教大師がえ子本命の道場として比叡山を開創しにのも、また弘法大師が宮中国呉言院に圃土安穏.的体橋 豊能の御修法そ修し,五位

ω

安誌を加持し奉ったのも、特是れ、岡山公椀護の精神活動と見ることが出来る。かミ る岡家愛の運動は中町期に入って更に深刻の度そ加へて来てゐる。大韓我中世期は、その民族の向畳といふ貼に 於 て a 買に前古 4 4 八 ザ H 有の限迩を滋けた時代であゐ η 政 治

ω

挫革、新仰教の興降、漢文曲学の護蓮,諸道議塾の成立等 と、所有方而に於て日限しき展開。ぞ矯してゐるハ子が述、べんとすら同家立論

ω

如きも、上位の蓮動が、軍に事閥 解了の瑚性にとピま h v . 一 此 九 回 目 い し 厨 の 限 ら れ た 人 々 の 聞 に の み 論 議 せ ら れ た の で あ っ た が 、 此 の 中 世 に 及 ん で は そ れが昔に単解瑚論の範囲にとゾまら示、一史にその旬、域ぞ控えて昆に民族の現・宜問題として放はれるにいたった。 換言すれば上町の国家観念体、枇合一部の自覚によって維持せられて来たもので、未花岡民全般の生命としての 意識にはなってゐなかったと思惟されゐ c そ れ が 震 に 時 と し て は 政 一 遁 に 楼 化 在 来 に し 、 一 牒 M M 氏の如 4 d 或特様者に

(4)

よって攻治が樫断せられ︵撞闘攻治︶え主現政の常遁が脇道にそれにニとさへあっに︽ 彼の白川法皇じょって開始 さ れ た る 院 攻 の 如 品 川 、 も , 一一同からいへば天主以上の宜椛持が存花したわけであって、政活としては常態と名ける こ と は 出 来 な い っ か く

ω

如 く 此 命 H A K 般 が 未 に 雌 た る 同 家 意 識 ぞ も っ て ゐ な か っ た ヲ ︶ と が 、 建 に 保 一 克 一 牛 治 の 凱 と な って一筒の武士階級たら平氏の事椛を招米すること?なり、 克に平氏に針する反動は同一武士階級たる源氏の撞 舗となって、濯にそれは我政治史上前十川未曾有の武家政治と態化していつ仁のである。かくの如ま礎想的な政治 が、天皇親政の本義に伴ってゐることはいふまでもないニとであるが、 か λ る結果に立ちいたったのも早立国民 全般の岡家意識が薄弱であったが矯であると思はれる。 我中世期は、もとより此武家政治下に置かれてゐたのであるけれども、民族自躍の園家意識は著しく進展し, 君臣の名分と皇上奉戴の観念とが護達してゐる。従来の岡家立識は、岡睦に封する軍なる理解であったけれども、 この時代には一種の民族意識が加はり、それが更に針外的意志表示となって現はれ、図家意識の門容は豊富且つ 強力なものとなって来てゐる。素朴なる国艦意識は、躍なる信念として保持されるもので、これは動もすれば一 身上の利害関係によって破壊される憂ひがあるが、民族意識の加はった園瞳意識にいたっては、岡家園民といふ 同胞感や綜韓観念が働いてゐるので、容易に覆へされるものではない。中世期の岡家意識が如何にしてか

J

Q

方 向に護蓮したかといふに、早脊はその主たる原因を一万冠の役に於ける国家的衝動によると主張するのが常である。 勿論その貼は認めなければならぬが、しかしそれよりも、同民が斯る衝動を受け乍らも、困難に麗して微動、たに せざりし所以守考慮する必要があヅ。。思ふに常時我園民には、既に一貫せる強い岡家観念が養成されてゐたので あって、それが偶々交永弘安の大役に常って、却って反楼カそ増大したものと考へる。然らばかミる強力なゐ困 ,1 中 世 の 蹄 併 と 凶 家 出 思 議 九

(5)

日 本 側 数 民 平 協 合 年 報 戸 第 九 年 ︶ 九 5 家意識は如何にして形成せられ而してまたそれは如何なる費蓮を港けて行ったのであるか、その底に流れてゐる 潜行的力そのも

ω

に詑立しなければならぬ。これ菩人がいふ中世に於ける輝壊の勃興に多大の影響ぞ蒙ってゐる と考へるのである。間しこ誌に滞壌の勃興と稽しでも、蹄謬それ白躍の興降ぞ意味するのではなく、調牌墜の勃興 に作って行はれた各種の事象そのも

ω

冶指すのである。例せば耀借の往来による宋阜の輪入護法の如き、まに五 山僧に依る所謂五山支壊の確立と漢籍の印行の如き、更に武人の参耀によって護法せる武士道精神の作興的知き、 その他締借の行持演法によって感化されたる枇舎人心の緊張の如き、或は一主?稗書その他の蹄籍によって高鵠さ れたる岡躍の本義の如品川、、叉蹄借によって経管せられたる教育事業の如き、これらは背耀壊の隆盛が粛らした事 象であって、置に中世に於ける岡家意識の護法に多大の貢献そなせしものといはねばならぬ。 予は最初、如上の諸貼に就て筆を起したのであるが、本年報の紙面に著しい制限がある

ω

で 、 中 塗 止 む ぞ 得 ‘ ? ﹁ 中 世 の 躍 借 と 国 家 意 識 ﹂ と 改 題 し . 蹄 崎 旧 の 有 し た る 岡 家 意 識 の 概 め て 著 名 な る 事 買 を 拾 ふ こ と に 改 め た 。

輔の王法主義

中世の蹄が困家意識の護蓮に貢献したことは、一面之ぞ考ふるに、滞京そのものが官時の一批舎的動向に順膝せ んが錦、印ち敬線描張上の便宜から行はれたのであらうと推察せられないこともない、然しそれは鵡宗の護法を 依りに功利的に観察し過ぎた議論であって、その根本は糟

ω

王法主義が主要なカぞなしてゐると見るべきである。 離 の 王 法 ・ 錦 本 は 支 那 以 来 の 俸 統 思 想 で あ 一 っ て 、 常 に 君 臣 の 名 分 を 明 か に し て ゐ る 。 制山良作品貯誌の資銃三昧歌には、一回奉ニ於君子順ニ於究己負担抑制︶と見へまち

Z

弟 子 宮 山 本 声 何 純 正

(6)

M 0 4 ︶ ゆ 五 位 君 位 旨 訣 に は 、 一 君 錦 ユ 正 位 4 匝 嬬 コ 偏 位 刊 匝 向 L 村 是 偏 中 正 。 件 付 税 品 目 是 正 中 偏 。 君 国 道 九 日 是 宋 州 市 語 。 準 一 京 。 如 何 日 必 殺 。 師 日 。 妙 徳 寧 日 一 中 東 自 主 宗 明 朗 一 一 大 虚 プ ア 山 。 如 何 赴 任 。 師 い 。 議 機 弘 司 一 事 一 遁 一 異 智 利 二 庄 市 町 生 二 ア 山 。 如何是回向 v c 師 け 。 不 v 階 一 二 諸 異 趣 一 凝 v 望 ニ 聖 容 4 一 五 。 如 何 日 疋 君 悦 ﹄ 目 、 リ 附 日 。 妙 容 雌 l不ー動。光燭本無 v 。 一 五 。 如 何 是 君 臣 遁 八 日 。 師 日 J 混 然 無 − 一 内 外 刊 和 融 上 下 手 。 師 又 日 。 以 一 汁 目 偏 正 一 一 一 一 日 弁 。 不 L t γ中。故臣稽 v 不 二 敢 斥 一 守 口 一 是 也 日 ﹂ ︵ 内 側 一 一 市 服 ︶ と論じて君臣の大義名分とその道合とを説いてゐる。また法眼文集︵同一一位相︶は宗門十規論第十に、﹁盗コ岡王之恩 威イ口議二解脱之国ごといって岡王の恩威そ強調し、臨漕義 h V 4 ︵ 川 川 町 山 池 山 ︶ は 、 そ の 問 料 棟 ︵ 同 一 即 時 間 同 ︶ の 段 に 、 併 の 問 ひ に 答 へ て 、 ﹁ 王 令 己 行 天 下 制 。 将 軍 港 外 絶 叫 一 煙 由 同 九 ﹂ と い ひ 、 叉 ﹁ ? 十 し 此 V . 二 ⋮ 賞 殿 イ 野 老 漏 請 。 一 と 述 べ て 、 天 子

ω

攻令行 はれて天下の人民蹄伏す

ω

服を説いてゐる。是等以最も此間的に知れ反ってゐる例謹であるが、こ

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種のも

ω

を 拾ふならば甚古多数に上ることであらう。捕が王化

ω

太 平 ゆ 倍 以 っ て 枇 九 百 ポ γ 和的岐本と錯してゐる貼を認めること が 出 来 る 口 此

ω

唐代に於ける躍の王法主義は、時代

ω

推移と共に議々門本な m m M 誌にし.北米の代、嬬蒋習合の風に助長せ られて著しく、その精髄そ護持することグなつに。常時の儒弘行といへは周敦願、程脳相草加問願、指酢、謝良佐、楊 時

ω

如きであるが、これ等が競って蹄に参じ、まに、郭純正、蘇轍、胡・安園、市致鹿、見居厚.髭汝謀、韓駒, 割 安 正 、 李 糊 の 如 品 川 、 居 士 階 級

ω

人 々 が ま た 潮 岬 門 に 投 じ . 而 し て 一 方 、 悌 日 契 品 ︵ 出 ∼ 4 伸 一 叫 一 ︶ や 閤 提 惟 照 ︵ 崎 献 一 一 一 41 八 ︶ の 如 き 蹄 抽 出 が 儒 遁 を 究 め る と い ふ 蹴 態 に て ︵ 酬 明 一 一 諸 問 川 ︶ こ

ω

儒悌調和

ω

思想が、蹄

ω

. 土 法 主 義 に 向 っ て 著 し く 世 間 的基礎を奥へることミなったのである。 G 中世の糠併と凶家意識 九

(7)

岡本仰数皐協 A 明 何 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 九 四 7

南宋踏の特色

南宋は徽宗帝の第九子康王印ち高宗帝から初まってゐる。宋室は徽宋帝以来屡々金人の・米冠を受りも京師また その馬蹄に膝醐せらるること誌なったので、康王は終にその塵迫に耐へかねて、南遣して都を南京に移し、靖康 二 年 冶 改 め て 建 炎 元 年 ︵ 西 紀 一 一 一 一 七 ︶ と 稽 し た 。 時間代の糟は前の北宋時代の傾向を承けて、蹄者にして儒遁二教を究めるものがあり、また儒者にして鵡に遁令る も の か あ っ て 、 儒 悌 二 遁 、 否 儒 , 悌 、 道 一 一 一 敬 一 致 め 風 が 盛 ん と な り 、 宋 末 、 径 山 の 無 準 師 範 の 如 き は 、 終 に 三 敬 一 致 を 唱 道 し た 程 で あ る ︵ 捕 鯨 尚 一 一 ︶ ‘ 故 に 摘 の 王 法 主 義 は こ れ 等 一 一 般 哲 串 の 影 響 を 受 け て 、 盆 々 賓 際 的 と な っ て 来 た 。 例せば寺院の入院開堂に常って、皇帝の聖書高歳ぞ覗一描祈念するが如き風習の現はれにのは、明かに王法主義

ω

賓際化と見ることか出来る。この風儀は未冗唐代に於ては見ぎるところで、宋代に入って初めて肴見するところ で あ る 。 無 著 遁 忠 は 首 山 省 念 ︵ 時 制 加 焼 却 4 ︶の徒葉鯨蹄省と神鼎洪謹からはじまってゐると述べてゐるが、汝州葉鯨度 数 省 糟 師 語 録 ︵ 鮎 翠 琵 叫 ︶ に は 、 師捻 v 示 v 云 ロ 此 一 一 期 存 。 不 ド 従 ニ 他 方 一 得 μ 郎 汝 川 水 − t c 然願皇帝高歳。重臣千秋。文武百僚。常居ニ蔽位刊 と 見 え 、 津 州 神 鼎 山 第 一 代 謹 縄 師 語 録 ︵ 帖 fJ 附 廷 闘 ︶ に は 、 閉 山 室 日 ︵ 中 略 ︶ 使 陛 度 。 拍 ν 。 此 一 一 位 存 。 奉 コ 錦 今 上 皇 帝 聖 寿 無 窮 刊 と録されてゐる o 大韓関堂とは、遁常覗困問堂と栴する如く、そ

ω

目的が自ら悟入した働組め正法眼蔵を開演し、 そ

ω

功 徳 に よ っ て 、 上 は 皇 帝 の 聖 書 一 向 歳 守 秘 鵡 し 、 下 は 広 民 一

ω

一 耐 利 必 増 進 す る こ と に 存 し て ゐ る d A 組庭事苑第八

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雑 志 、 禅 門 公 式

ω

法要としては、最も重要なも

ω

とせられ、今日て厳格に行はれてゐる。此外騨林に

ι

型節制型︵出 肋 抑 制 ド 一 誠 一 剛 一 町 一 部 ︶ 六 好 日 調 聖 ︵ 阪 町 一 一 川 一 世 H , ⋮ 畑 一 川 抑 制 一 一

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一 諮 問 一 判 M ︶ 長 命 刺 讃 ︵ 削 船 一 郡 山 J H ︶ 旬 日 制 治 品 川 山 一 屈 町 一 一 附 統 一 段 し 、 ︶ 等 が 行 は れ 、 良 風 永 く 扇 き 帝 選 出 一 に 日 日 な ら ん ニ と 組 縛 し て ゐ ゐ o これ等は何れも勅修行丈清規︵ ι訪 問 一 日 伝 一 一 一 削 減 凶 叩 叫 ん 剛 一 括 以 い で し 一 示 一 川 駅 ⋮ 説 明 叫 ん 町 一 総 山 市 山 此 川 一 ト 側 一 日 一 問 一 札 MM 吋 一 一 説 明 引 ︶ に 兄 ゆ る と こ ろ で あ っ て 、 内 容 ー と し て は 可 な り 後 此

ω

儀式も包 含されてゐると見らゐ三

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であるが、然し型筒、回忌等

ω

法 要 か 百 丈 の 古 規 に 肇 ま っ て ゐ る と ︵ 出 問 問 盟 問 一 ︶ い は れ る か ら は 、 調聖誕粧

ω

如 き が 、 早 く か ら 蹄 門 に 流 行 し 、 之が宋代に入って更に著しく盛大になったと考察すること が 出 来 る 。 要するにこれ等

ω

事例は、総て離に於ける王法主義の兵睦化と見なければならぬが、か込る思想の特に蹄門に 勃興した理由は買に官時め枇曾朕勢の然らしめた結果と忠はれる。郎ち宋はそ

ω

統 一 の 初 め よ り 絶 え 令 契 丹 、 遼 . 金、一万の如き異種族の侵略そ受けてゐたから,その時代の人々は、これ等の異民族に針する排撰の思想が強く、 それが進んでは同人種の保護観念となり、更に岡家愛の念となり、終には国家の中心たる元首を隼ぴ、之そ奉じ て忠を輩くす、所調,忠君愛圏、章王撰夷め思想となって来た。︵護協調糊代︶この時代思潮が印ち縄の王法主義に 拍車ぞかけ、葱に幾多の儀式典閣を生むにいたったものと見られる。 抑も品目回時の串間といへば、儒皐特に朱子壊が中心そなすのであって、その朱子事者の有すゐ思想は、置にこの 忠君愛園、章王撰夷の観念であった。市して蛍時の禅僧

ω

代表と白さる?もの,例へば北硝居簡、臨紹遁沖及び 前 蓮 の 無 準 師 範 の 如 品 川 、 、 そ の 他 自 得 恵 略 、 厳 堂 智 愚 等 一 か 朱 子 接 伝 修 め 、 そ の 結 果 著 し く こ の 圃 家 概 念 に 動 か さ れ 8 に と 見 ら れ る の で あ る 。 中 世 の 縛 倫 旧 共 ] 図 家 意 識 九 五

(9)

日ド仰攻防協合平潟、第九年 9 FMA

J ノ J ノ 南宋耀の特色を、おの如く王法主義的護揚したこと

ω

みにとピむろは、捕そのも

ω

ミ研究としては十分ではな いが、然し調の教理的研究はん I の所要ではないから省略に附して置く。

長両の興鵡護国論

我闘中世に於ける蹄

ω

俸来が岡家意識の護達に影響するに至ったのは、前述の如く.南宋揮そのもの λ 特色か ら来てゐると見なければならぬが、さてそ

ω

南宋捕が具韓的に護展したのは中世の何時頃からであらうか、それ に就て一先づ順序として焚西の蹄とその著、興蹄護国論と冶検討するの要がある。 楽西の騨はいふまでもなく市宋締そ受けてゐゐのであるが、彼

ω

入宋は前後二回に丘つてゐる。そ

ω

第一回は 仁安三年四月︵二十八歳︶であって、この時は在宋僅に四ク月にして師朝し、叉台

ω

経絡を鷲らした以外に特筆す べ き 功 積 は な か っ た 。 然 る に 第 一 一 凶 に 於 て は 文 泊 三 年 一 一 一 月 ︵ 同 十 七 歳 ︶ よ り 建 久 一 一 年 七 月 に 至 る 前 後 四 ヶ 年

ω

在米 であって、此間彼は天台山、天童山等に於て臨掛黄詑ほ

ω

蹄を風一・んにのであるから、蛍時の南宋騨に封しでも十 分なる理解を有してゐたといはねばならぬ。然し市宋捕の岡家思想は、之が宋壊との闘係上慨して道徳的意義そ もってゐたのであるが栄西のそれは全く宗教的立場を保持してゐる。この姑が南市本樺とは非常に相違するところ で、それは畢克縄本来の思想たる正法鍔本主義に困るものであって、ご一敬一致に基礎ぞ泣く南宋樺

ω

影響と見る ことは出来ない。彼は輿騨護国論谷上第一一鑓護国家門に於て仁王粧を引用し、 仁王経云。併以二般若 4 付コ噂現化未来附。諸小園巨等 4 月 潟 二 護 同 川 附 山 積 イ サ 内 舵 若 ι n m 岬 宗 也 o 初 制 境 門 、 若 有 ニ 持 戒 入 4 則 議 反 守 = 護 院 、 同 一 云 々 。

(10)

締山訴の閥家々鎮護すゐ所以は、時

ω

内容精仰は側

ω

般若そ

ω

も 叫 で 、 之 な 嫡 々 相 求 せ る が 崎 山 別 で あ る 、 而して悌 は こ

ω

般若守以って護国

ω

秘法とせられた。故に般若な保つ菩障が同五となみならば、議‘えは隙なくそ

ω

同家を 守 護 す る で あ ら 、 ヲ と い ふ

ω

である。彼は此

ω

般若

ω

功徳 ψ倍 、 一 史 に 各 種

ω

経典を引いて説明し、 而してそ

ω

北 日 持 質 大師が入唐求法的湖、蹄院を建立せんと瑳闘した

ω

も.専ら同家を護持し,群坐守利盆せんが錦に外ならぬと論 じて蹄

ω

護国思想ぞ明かにしてゐゐ。然し乍ら第一

ω

令法久作門に於て

ι

、﹁参蹄間近。戒律矯 v 。 既 非 二 離 レ 過 防 ν 。 何 以 成 併 作 組 。 ﹂ と 述 べ 、 糟には最滑なる戒律生活

ω

必要なることを力説してゐる。故

ι

ω

いふ興調護 闘 は 、 上下人心

ω

宗 教 的 自 且 官 邸 ち 般 若

ω

韓 得 ム 一 そ

ω

古践

ω

上に凶蛇

ω

安 躍 必 認 め て ゐ る 川 い で あ る 。 此

ω

事は、同 じく巻上第三世人決疑門に、 向日。或人難一五。何故蹄京猫鑓護国家之法。答日 υ 四 十 二 字 経 一 五 。 爾 時 世 章 J 既 成 道 己 口 作 コ 是 思 惟 4 離 欲 寂 静 。 日 疋 最 矯 v 。 住 ニ 大 糟 定 ﹁ 降 二 諸 厩 道 ↓ 令 ト 時 二 法 輪 一 度 中 衆 生 μ と説き、捕定力卸ち般若

ω

ω

最勝無上なることは、既に悌陀が謹明せられるところであると説いてゐる。従っ て彼に於ては王法と悌法︵蹄法︶とは分離すべからざるも

ω

でも悌法は総て園王に付喝し、そ

ω

施行によって天下 に流通するものであると述べてゐる。 問。何故強望二宣下一耶。答日。働法必慮 F 依 二 回 ド 一 施 行 一 合 ↓ 流 通 一 也 。 云 々 ︵ 畑 一 誠 ⋮ ⋮ 川 崎 ⋮ 河 川 ︶ 問 日 。 或 人 一 五 。 念 側 一 一 一 昧 雄 v v 。 流 ﹂ 一 行 天 下 4 滞 京 何 め 哲 一 v勅部。答日。悌法皆付二属国ドイ故必感コ依。勅流 通 一 也 口 ︵ 湖 一 畑 山 一 一 山 鮒 笠 申 ︶ 知新であるから、彼に於ては働法

ω

焼令せらる込ところに正法

ω

安 一 泰 が あ り 、 正 法

ω

存 す る ム 一 こ ろ に 働 法 の 隆 10 中世の郁併と凶家窓成 九 七

(11)

日 本 併 殺 本 協 令 年 報 ︵ 第 九 年 、 一 九 入 11 凸があるといふ

ω

である。従って栄西に於ては蹄と凶家と

ω

関係ぞ最も論理的に説明し、南宋糟の道徳的王法主 義より更に進んで之な宗教的に建設しにム一ニろに著しい特色、がある。中世耀阜の航胎期に蛍つての栄西のこの力 強い主張は、雨後

ω

我 同 調 仲 宗 に 多 大 い 同 家 的 九 日 山 義 な 輿 へ 山 ∼ も の と い は ね ば な ら ぬ 。 四 道 一 克 の 興 謹 一 一 謎 闘 説 柴西の騨法宜楊の態度が表面的なるに封し、之と反封に内宜的態度在持し仁ものに道一克の鵡がある σ 彼は天童 山 の 如 、 浮 に 就 い て 曹 洞 曙 を 俸 承 し 、 安 貞 一 万 年 八 月 邸 朝 し た の で あ る が 、 初 め 十 二 、 一 一 一 年 齢 は 山 城 深 草 に と Y ま り 、 最後は越前の山奥に入って早人的養成につとめ仁。楽西は楳勢に接近しにが、彼は綿て之ぞ名聞利養の妄事とし て排撃し、自己の立場ぞ厳格に保持した。従って栄両に於けるが如き積極的興騨護国論は見られないが、その思 想の奥底には同じく鑓護同家の精神的沈れてゐること奇観取することが出来る。彼の昔、正法眼賊軍雲堂式の奥 世 一 百 に 、 そ め 住 持 せ る 寺 ぞ ﹁ 興 聖 護 国 寺 L − Y 一 命 名 し に る が 如 き は 、 楽 西

ω

興 擁 護 同 ム 一 同 一 一 内 容 ぞ 有 す る も の と い は ね

ばならぬ。に Y 楽 四 か 潤 仰 と 去 は し た る と こ ろ を 彼 は 昭 一 と 名 け に に 過 ぎ な い 。 浩 一 冗 い 五 家

ω

一 隅 な 占 む る 蹄 を 排 し て . そ の 本 説 的 稗 俳 悼 の 王 法 や 事 鵠 す る や ︸ 珂 想 と し て ゐ た か ら 、 こ

ω

場合、殊に聖の字ぞ用ひてその陵昧ぞ避けた の で あ る σ 従ってその義理の正法眼蔵出禁妙心必意味することはいふまでもない。彼はこめ正法そ興隆し、人心 を 開 明 す る と こ ろ に 岡 家 の 安 泰 、 が 獲 ら れ る と し て 、 同 家 − 一 草 貰 ノ 働 法 弘 通 ス レ パ 、 諸 悌 諸 ・ 人 ヒ マ ナ ク 街 諜 ス ル ガ ユ ヱ ニ 干 一 化 太 一 小 ナ リ 、 型 化 太 卒 ナ レ パ 、 働 法 ソ ノ チ カ ラ ヲ ウ ル モ ノ ナ リ 。 ︵ 紙 一 制 服 ︶

(12)

L 一 記 い て ゐ る o そ

ω

硝法が同家必護持するといふ動に於ては来阿の主張と同一であるが、然し栄西は特に之を統 的 ’ 者

ω

自 費 に 射 せ し め て ゐ る に 蜘 し , 消 一 一 応 は 飽 く ま で

4

県 民 、

ω

心地開明に力結在泣いてゐゐ

ω

ふ り 耕 遊 詩 に は 、 ゾレ働法ヲ闘中一一弘油スルコト、五机ヲマツアントイヘトモ、フ h w タピ按山ノ境

M m

ヲ才モヘパ、イ γ 百 十 同 位 利 二現出セルド一公相勝、ミナトモニカタジナナク仰刺アウナテ、民生ニ働法フ護持スル素怯ツリスレズ、生来七 コノユヱニ一仰組ノ道ア流通セン、 ∼ J モノナリ、ソノ化フシクサカヒ、イヅレノトコロカ仰問土一一アラザラン、 カナラズシモトコロヲエラピ織ヲマツペキニアラズ。 と 見 え 、 1 1 符め化 υ い、常然仰闘土建設とならねばならぬも

ω

であって、それは夙生よりこいかに

ω

必然的援約で あると道破し、眼中立同家の安隠は町人

ω

得道如何にあるとしてゐ

ω

ω

である。従って彼に於ては枇法と仰訟とは 毛色相醍ゆるものでなく、互に園融して仰遺伝成就するも

ω

で あ る と 説 品 川 \ 耕 道 話 に は 、 世務ハ悌法ヲサユトオモへルモノハ、タゾ世中一一一怖法ナシトノ?ンリテ、悌中−一世法ナキコトヲイマダシラサ ルナリ、︵中略︶ 大宋国ニハ、イマノヨノ岡モ大陸士俗男女、トモニ心ヲ組道ニトドメズトイプコト斗ノシも武 門丈家、イグレモ参蹄早道ヲココロザセリ、ココロザスモノカナ一プズ心地開明スルコト才ホシ‘ コレ世扮ノ悌 法ヲサマタグずルオノヅカラシラレタリ。 と 見 え て ゐ る 。 斯くの如く道元の宗教には輿聖護固め岡家愛の精神が流れてゐるが、時には彼は往々にして我岡を﹁日本圃ハ 海外ノ遠方ナリ‘人ノココロ至思ナリ︵能川智といひ、まに、一ィマ日本閥﹁中略︶蓬地小関カナンムベ、ン︵諜⋮滞︶ 晴 子 と い 一 っ て , そ の 外 国 に 劣 れ る こ と を 痛 論 す る 場 合 が あ る 3 こ れ じ 一 見 不 合 理 の 一 一 一 一 川 葉 の や 、 ヲ に も 見 ら れ る が . 吻 恥 ﹂ ]2 中世の蝉併と岡家意識 九 九

(13)

日 本 帥 仰 弘 抗 感 協 九 M M 年 報 ︵ 第 九 年 J

l:l は岡家そのものに封する侮辱ぞ述べ仁一

ω

でなく、人心

ω

強 緩 み ︸ 悲 し ん 古 慌 慨

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一 コ ロ で あ る と い は ね ば な ら ぬ 。 さ れ ば 彼 は 他 の 慮 に 於 て ‘ 我 闘 を 神 州 ︵ 紙 一 一 融 制 ︶ ム 一 呼 ひ 、 ま ち ︸ れ に 偉 来 せ る 神 器 守 岡 賓 と 名 け て そ

ω

古 品 プ ゼ 栴 へ ︵ 前 制 限 抑 制 ︶ 更 に 神 代 よ り 一 一 語 一 め 鋭 的 創 璽 と 共 に 俸 来 せ る こ と そ 蓮 べ 、 そ 日 ル 傘 4dJ 付 紳 枕 に 比 較 し 、 殊 に 一 一 一 鋭 は 、 天 紳 よ わ 俸 来 せるものなれば、縦令制の所成なりとも、それは陰陽め化成しーにも的であると論じてゐる。︵抑制限騒︶是等の費例 は、彼が宗采を重んする

ω

儲り同家そ非難したといふ世の攻撃的常守矢してゐることの誼擦であると思ふ。 以 上 の 如 き 道 一 克 の 興 聖 護 国 の 思 想 は h 果して南宋耀の特色たる.一一敬一致の立場から来てゐるかといふに、彼は 正法眼蔵四曙比丘に於て痛くその邪詑なる∼匂論破排撃してゐるから、彼の設は南宋開

ω

影 響 で な く し て 、 調 脚 本 来 の正法主義に基いてゐゐことか知られる。ニ

ω

態度は彼

ω

師匠たる与え童如浮から機求した的であって、同じく問 蹄 比 丘 に 、 先師天童市仰ノ i 悌法ト孔老トヒトヅ一一アラズト暁セリ、書夜ニ施設セリ。 と い ひ 師 配 の 態 度 に 施 日 古 川 な 円 で し て ゐ

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ω

。これに就いて如汗蹄師語録な検するに、彼位浮慈山 J V 入院に際して、勅流 伝 体 け 、 . ぇ 尽 な 謝 し て 一 在 凶 応 大 難 L 干 L 一 い ひ 、 ま た 徴 山 川 県 帝 己 山 上 堂 . h q 筒上堂等必修して足感

ω

厚 き を 感 謝 し . 岡 家 一 的 建 展 を 祈 念 し て ゐ る 。 こ 行 山 岡 川 町 山 に 刑 判 す ゐ 彼 い 感 激 は 何 れ も 蹄 仏 七 一 法 主 義 そ

ω

ω

から流出してゐる

ω

で あ って、常時

ω

所 相 州 市 山 本 蹄

ω

影 響 か ら 来 て ゐ リ υ も い い で い い な い 。 : − 敬 一 致 説 的 機 ん な ゐ 時 代 に 於 て こ れ に 加 指 せ ぎ り し如浮の態度も立汲であるが、それな相体して僻子として純なゐ蹄風を唱道しに道一瓦の行動も亦漬歎すべきであ る む

(14)

国爾排固と南宋の殺皐

柴 山 門 の 卵 、 離 護 国 論 、 道 一 克 の 興 型 謹 岡 説 そ 検 討 す る に 、 それが所謂二一敬一致の山宋蹄の影響ではなく、締本来の 一 士 一 法 主 義 に 某 − い て ゐ ゐ こ と い 、 前 沈 一

ω

如 く で あ る が 、 占 、 J て 南 米 蹄 が 、 我中世

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締 界 に 、 そ

ω

本来の特色な護揮す る に 命 令 一 っ た い は 闘 爾 耕 凶 及 ひ そ れ 以 後

ω

こ と で あ ら う ど 考 へ ゐ 。 同 爾 は 者 頑 元 年 、 山 本 に 入 っ て 佳 山 の 無 準 削 範 に 見え J て 山 法 な 嗣 い で 仁 泊 二 年 に 部 制 し ー に

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山 川 町 ︶ そ

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十 川 小 木 紳

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正統守俸来してゐらことは、無糸が蹄湿の側熟 期 に 山 で て 一 一 一 敬 一 致 此 日 山 M m T 公 − 一 コ H し 、 ﹁ 二 一 致 型 人 。 同 一 舌 到 。 各 開 一 門 戸 刊 鞠 二 其 U H 創 刊 則 了 無 一 二 致 イ ﹂ ︵ 計 一 一 清 明 一 同 叫 ん 剖 附 M m M 一 消 却 ︶ と述べてゐる程であるから、これに就皐せる凶爾にこ

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思想

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椴承されることは蓋し常然である J 同 断 か 彼 地 点 ぜ 節 す る 時 、 無 準 は 場 岐

ω

法衣と大明録とそ付喝してゐるが、

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山 間 附 ︶ 就 中 大 明 録 は 南 小 木 容 一 堂

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著 に し て 、 儒 側 道 三 款 の一一平ぜ設けるもめである。彼は蹄朝の後、正示元年、執権北慌時制

ω

錆 に 之 な 講 述 し て ゐ る 。 ︵ 詰 問 問 防 ︶ こ れ を 以 っ て 見 て も 、 無 泊 中

ω

思想的影響的顕著なりしを知ゐことが出来ゐ。向寛一冗三年には宵中に宗鋭鋒を猷進し、まに 翌四年には藤原粂絡め錦に之守講じてゐるの︵

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阿 川 ︶ こ

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宗鏡録は永明延存

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著 に し て 組 悌 同 詮 、 開 敬 一 致 伝 説 品 川 、 、 法相、三論、事殿、天台等を折衷して繭に融合せしめ、にものであるから︵酬⋮即時︶之ぞ用ひにる国爾の教撃が騨教 一致の立場に在つにことはいふまでもないことである。故に彼はす八永五年、源基具が一一一教の大 U H を聞いた時も ﹁ 三 教 要 略 ﹂ を 書 い て 輿 へ 、 ま た 弘 安 二 一 年 六 月 六 日 に は 一 三 救 典 籍 日 銀 → 一 を 作 製 し て 普 門 院 の 書 店 尽 に 置 い 仁 科 で あ る 。 ︵ 明 ト 悶 防 ︶ そ の 南 宋 蹄 の 特 色 を 稚 承 し て ゐ る こ と は 多 言 伝 要 し な い 。 さ れ ど こ

ω

結果彼

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国家意識が那建にあっ 14 中 世 の 搬 船 山 L ﹂ 岡 山 水 意 識

(15)

日 本 側 品 抗 感 協 合 年 報 ︿ 第 九 年 ゾ

15 たかは、端的に知ることは出来ないが、空一同師詰鎌一 L . ヂ 一 藤 丞 相 五菜花開無根樹 c 一 陣 香 風 だ 地 寛 む 天 地 寛 今 春 高 園 。 家 門 威 令 民 物 安 。 の 一 句 が 見 え . 僅 に そ の 片 鱗 を 窺 ふ 、 ﹄ と が 出 来 る 。 五葉花開無根樹は騨定世界の展開を意味するものであって, 碍法の興隆か雑て天地の寛大と、岡家の太平と,家門の不安と冶もたらすといふのである c 調 仰 と 岡 家 と の 関 係 そ 特 に 倫 即 日 的 に 取 扱 っ て ゐ る 貼 は 、 彼の殺事が南米蹄の正系そ俸∼てゐる謹左であると見ることが出来る c 商品.. ,\

子元組元の凶家槻

中世に於ける蹄俗的同家立識を論今るに、これそ常時渡米した蹄伶に就いて翻察することは必かしも常な得た も の で は な い 。 我 岡 山 水 立 誠 は 我 同 蹄 俗

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匂怯せる同家立誠そ

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でなければならぬ。たゾ渡米の樺併はそれが 我同時借

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師匠であったといふ貼に於て、それ山干の人々の串問、思想等の感化、影響を究明する必要から論ぜら る べ き も の で あ る 。 故 に 迭 に 子 一 花 組 一 万

ω

岡 山 本 闘 を 漣 へ る

ω

も、北保時宗の師匠であるといふことに闘してである が 、 特 に 子 一 疋 に 去 っ て は 、 作 家 h E H 襲来といふ我凶未件有仙大事件に開係があるのと、また彼の e f 一 川 行 が 他 の 渡 来 併 に 比較して、我同胆胞をよく珂解してゐると品はれる

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で 殊 一 史 に 彼 を 主 題 と し た 一 挙 を 設 け た わ け で あ る 。 子 一 冗 と 時 宗 ム ﹂

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闘 係 は 、 い え 永 弘 ・ 安

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大役ぞ語るも

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込何人も熟知せるところである。而してこれに闘する研究 書も砂なから十存してゐる。併し乍らそ

ω

解 説 の 多 く は 、 文 、 水 弘 安 一 の 大 役 そ の も の λ 経過を叙するに忠買であっ

(16)

て 、 子 一 五

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事問、思想を検討したも

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は稀れである。足利師法氏の﹁鎌倉家町時代之儒救﹂は、恐らくこ

ω

ゲ 面 じ 一 纏 の 光 明 な 雨 明 、 へ ら れ に も の で あ ら う 。 子 一 河 が 渡 米 す る に い た っ た 動 機 は 、 我 弘 安 一 花 年 十 . 一 月 、 北 保 時 山 市 川 μ、名僧そ求めんが錆に徳設、京英の二購入 を支那天童山に遣したことに依る

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で あ る o 彼 は そ の 請 帖 に よ っ て 弘 安 二 年 ︵ 五 一 五 十 六 年 同 組 一 二 七 九 ︶ 八 月 来 朝 し 、 庇 ち に 鎌 食 に 入 つ を に ‘ か 、 時 山 市 ム 一

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閥係は、こ

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時 か ら 始 ま る の で あ る 。 ︵ 判 明 一 附 附 議 ト 判 例 政 ︶ 抑 も 子 一 五

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来 朝 し た 弘 小 K A 一 午 は 、 一 応 の 肘 組 常 印 ち 忽 必 州 山 が 同 宋 ケ 亡 一 ほ し 寅 匝 守 一 一 統 し た 主 一 冗 十 六 年 ︵ 阿 紀 一 一 一 七 九 ︶ に 古 っ て ゐ る 。 常 時 防 組 は 旭 日 日 升 え

ω

勢ひ々以て紀綱々傑理し、鵡柴を整へ、大に兵な養って、同成

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護鵠に 努 め ? に 。 我 文 水 十 一 年 ︵ 併 記 一 二 七 円 ﹀ 十 月 彼

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大 軍 が 品 川 岐 、 料 一 応 に 来 意 し . 更 に ま に 弘 安 同 年 ︵ 同 紀 二 一 入 一 ︶ 五 月 高 麗の兵船守交へて博多に来迭しに

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は、明かに彼的勢力の府大守示すも一

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で あ る 。 ざ れ ば 子 一 石

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来 胡 し に 時 は 、 第一回の蒙古襲来後

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こ と で 、 耐 同 国 交 一

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町 民 も 念 治 し て ゐ る 際 で あ つ に 。 出 目 同 時 、 南 宋

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蹄 庁 、 か 一 五

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慶 治 に よ っ て . 我 固 に 亡 命 し 七 も 川 り は 多 々 あ っ た で あ ら う 。 大 休 正 念 ︵ 文 永 六 年 来 朝 ︶ の 如 き は そ の 一 人 で あ る 。 子 一 石

ω

如きも、時宗の請帖に依って来たとはいへ、同むく亡命持の一人と見ることが出 来 る 。 幕府は日記等蹄払れぞ利用して、一冗の閥情を探ぺにであらうが、彼等にしても元は敵闘であるから、我固に封して は絹針的好意右寄せた主忠はれる。殊に彼等の有する中川君愛同の五十情は鎌倉武士に封して深刻なる岡家主義治植 ゑ つ け 、 我 国 帥 植 の 章 厳 を 費 知 せ し め る ト ﹂ に 役 立 つ に の で あ る 。 北傑時宗は、か込るが間気下にあって,早くから是等調俗

ω

薫 陶 必 受 け て ゐ に 。 彼 が 子 一 冗 ぞ 迎 へ に 時 の 講 帖 に は . 16 中 世 の 穂 併 と 凶 問 家 殺 説

(17)

日 本 併 殺 与 協 合 何 年 報 ︵ 第 九 年 ﹀ 0 E吐 17 ﹁ 時 宗 留 ご 京 宗 一 来 刊 積 有 ニ 年 序 4 1 一 とあるから、既に幾年か宗莱を研鎖してゐ仁ニとが窺はれる。彼

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建長寺

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蘭漢 遁降は子元が渡来する以前の師匠であつに。而して繭漢の糟風はその語録冶通じて見るに、市山木閥的正系を偉へ てゐると思はれるから、是等

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躍借を師匠 L 一せる時宗に園睦に針する信念の確立してゐることはいふまでもない。 そ れ で あ っ ー に れ ば こ そ も 同 家 危 急

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場 合 に 於 て 満 子 一 克

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如 品 川 、 師 匠 れ を 呉 国 に ま で 求 め て 修 養 に 努 力 し に

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で あ る 。 時 宗 の 二 一 年 忌 に 常 っ て

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子 一 万

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法 語 に 、 弘 安 四 年 虜 兵 百 一 雨 在 一 一 博 多 刊 略 不 二 終 意 4 但 毎 月 請 ニ 老 併 4 奥 ニ 諸 俗 一 下 語 。 は ニ 法 立 い 樟 悦 一 白 柴 。 後 果 悌 一 九 響 躍 。 家 同 附 然 。 奇 哉 有 ニ 此 力 回 究 此 亦 悌 法 中 再 来 人 也 。 ︵ 柳 誠 一 訓 話 語 一 て 一 ︶ 法 光 寺 殿 第 三 年 忌 。 ︵ 中 略 ︶ と あ る が 、 百高山大軍な眼前に控へ乍ら、 彼 は 一 一 鳴 も 動 中 る ム ー 三 ︶ ろ な く 、 子 一 瓦 必 読 し て 諸 伶 と 下 諾 し 、 法 立 い 樟 悦 を 以て自ら

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山梨しみとしてゐ六といふ山であるの時宗の時局に針する決断は、恐らく此的修養より生れにのである。 高 一 に も 大 一 冗

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武威に限れて t o d 牧 め る こ と が あ っ ↑ ん な ら ば 、 我岡山ゑは永遠に一大汚辱ぞ残しれであらう。彼は 戦 勝 、 信 一 前 る 錦 に 自 ら L U 血 液 、 ゼ 出 し も 金 剛 、 国 管 . 般若等

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諸 料 、 主 計 寝 し て ゐ る が 、 子 元 は 之 ケ 桃 山 、 歎 し て 、 そ

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寝 純 一 ド 一 何 一 例 一 宇 一 主 が 背 柳 時 世 不 川 州 議 の 兵 士 と な っ て 蒙 十 日

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軍勢々襲撃してゐると述べてゐる σ ︵市寸川州川怒 1 ︶ 此

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時 宗 の 一 全 誠 以 遂 に 仰 天 に 通 じ 、 さ し も の た 困 難 も 無 事 な る こ と ケ 得 、 に 。 こ れ に 封 す る 子 一 冗 l w . 刊 は 、 彼 r t 語 録 に 、 法光寺敗防不 v 二 問 ト 4 成 二 就 現 業 二 州 十 牝 二 七 十 両 人 之 上 刊 行 他 泊 ’ 同 小 ニ 定 天 下 ゴ 小 γ B 有 二

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諮 之 色 刊 不 v v 有 ニ 持 誇 桁 耀 気 象 イ 此 一 九 下 之 人 傑 也 。 ル 一 見 え . 年 齢 小 小 に 同 十 に 満 し に . ざ る も

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で あ る 、 か 、 七 十

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老翁すら成し難ぎ大休業在成就し仁、これ貨に、時京そ の 人

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忠商なる人特に基いてゐると讃歎し、 キト二川川K1 十 − ヨ ム ﹁ 品 、 、 ︽ Jdf ヲ ん A S 一b t

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ム メ 永

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役 に 闘 し て 、

(18)

一 止 可 ー 桁 ’ 邪 。 小 能 敵 L 大 。 h 反 無 1 印 功 師 コ 有 徳 刊 日 本 千 年 枇 棋 は 遠 邦 詩 型 弧 征 け 風 ↑ 富 一 日 抑 成 ル 祭 。 仰 天 震 怒 難 y 逝 ﹀ 不 s護ニ石川而

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’ 耐 用 息 。 一 小 l 血 − 一 一 刀 会 而 天 地 出 。 併 設 雄 猛 之 章 。 一号遣乾坤之蓮 4 ︵ 川 川 一 川 川 川 内 淀 川 ‘ ︶ L 一 説 去 、 我闘が一箭な殺せ 4 r 一けリケ血ぬらざがして、勝利冶博しに

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は 、 正 義 に 立 脚 し て ゐ ↑ い か ら で 、 一 日 U Y 我 が 正 一 が 作 家 十 円

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邪ル椛しに、レである。これ公午無私なる県天必然らしめた裁決であって、そ的大功 d f 時宗

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有徳 に師せしめ六

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は蓋しベ地叫公遁であると論じてゐる。.,

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批評は置に我皇荊精紳の良髄必穿つも

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で あ っ て 、

h u五十有俄午前、 県 六 同

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蹄併によって斯くも透徹した批判

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行はれてゐることは、 偏狭なるけ本精神主義弁

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一孝すべき黙ではないかと考へる。 以上々綜合するに一手冠

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大同難は時宗

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不惜身命

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修益努力に依って克服すること必得大一

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であるが、それに は 子 一 冗

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感化による同家立誠

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充足といふことが最も大ぎな力ケなしてゐる。印ち岡龍

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間 一 史 的 骨 尋 問 慨 に 卦 す る 認 識を誤らなかっにが震であると考へられる。 抑ミ子一冗が熱烈な愛固有であることは、彼の語録のふ 1 轄に V 町一って見られる’ところである。現今、贈者の組録の 俸 つ 一 て ゐ る も

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多々あるが、彼

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語録の如くに苔人の愛園心冶湧舎に?すちのは他にその例ぞ見ない。彼が北傑 氏

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請によって国費寺

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地離帯際像米安佐慶護しに時

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法 語 に 、 護 ↓ 一 地 蔵 菩 一 幅 一 旭 日 説 。 ︵ 中 略 ︶ 我 此 日 本 因 。 蒋 陣 織 最 熟 。 貴 賎 輿 4一 老 少 一 無 γ γ ニ 民 徳 刊 故 我 大 間 那 蒙 一 V 山 元 不 v 。 持 二 此 一 同 事 一 宜 的 山 一 菩 薩 力 イ い 制 作 v エ 危 難 中 4 救 護 如 一 一 響 答 叩 念 ニ 此 菩 搾 忠 一 述 v 入 二 国 劇 賞 4 果関 A 1 己成。奉 4一 安 苔 棒 像 一 ︵ 中 略 ︶ 唯 願 大 山 首

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祐 二 助 我 日 本 岡 寸 令 三 我 地 堅 固 縞 ユ 如 妙 高 山 寸 令 一 我 寧 前 月 健 猫 ニ 如 那 羅 延 イ 令 一 − 一 我 歳 県 稔 民 無 ニ 侠 母 符 ブ す 一 我 民 ・ 山 火 山 梨 疫 疾 背 消 滅 了 令 ↓ 我 同 長 久 百 劫 無 一 体 動 4 ︵ 誠 偲 ⋮ 一 1 山 活 内 ︶ rn 中 世 の 純 併 と 凶 氷 点 品 識

(19)

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(20)

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沿 川 町 一 法 悦 刊 ノ JMS1Ff − 1 ノ £ 、 と 見 え ‘ 忠 苧 ム 一 般 若 ︵ 悌 知 日 ﹂

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一 致 伝 説 い て ゐ る o 印ち忠与は凶民

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歩むべき公道であるが、それが庇に仰智の設 現であるといふ

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である。ざれば彼

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忠苧主義には宗教的立誌が作してゐて、こ

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貼に彼は世法 p f 一 仰 訟 の 融 印 そ 認めてゐたのである。従って皇帝

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型存を耐念することも、 ホ の 如 品 川 、 忠 孝 の 大 精 神 か ら 費 生 し て こ そ 初 め て 深 品 川 、 意義の存するものであることを信じてゐたに相違ない。 子一冗が上越の如く、我同障の本誌に遁漣してゐたといふことは、何れにか深い原因がなければならぬが、それ は彼が未だ渡来せずる以前、若くして佳山高存寺に無準師範に入室した時、我が入宋借の固爾、遺姉、性才、一 翁等と交り、それから、我闘情冶聞いてゐたが潟であらうと忠はれる。それに彼は儒教殊に朱子墜に精通してゐ た の で ︵ 繍 緊 細 川 代 ︶ そ の 岡 家 観 念

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立 場 よ り し て 、 一 回 膚 我 閥 臆 ψ管理解することが早かったものと想像される。 惟 ふ に 子 一 冗 は そ の 姐 凶 南 市 川 か 一 万

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塵泊や受けて、多一くの同胞が困な失ひ、袖に涙する悲境に陥つにの必見て、 盆々岡家存在の立長と央狭掠撰の必要とぞ認め、愛闘の熱情に燃えたことであら、フ。彼は儒壌に遁じ、まに梓の 且諸に徹してゐたが.如上

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苦難日比企?ての自信な深めにことよ祭せられる。時宗が困難に慮して動ぜぎりしも 偏 へ に 彼 の 苛 ︸

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功 一 情 ム 品 川 一 力

ω

賜といはねばならぬ。

東巌怠安の一国家主義 20 文 永 弘 安 の 一 平 廷 と 子 一 花 組 一 五

ω

精神的活躍とは密接不可分のものとして防人の詑意をひいてゐるが、向之 h h l 一 関 連 中吠の略併と凶家意識

O 七

(21)

日 本 仰 数 単 協 令 一 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 0 A 21 して見逃すこと

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出来ないのは、東巌慧安の隠れたる救闘運動と彼の有する国家主義とである。 菩 安 は 建 泊 三 年 十 一 月 一 一 一 日 、 五 十 三 歳 ψ倍以て鎌倉聖悔寺に入寂してゐるから︵附械融制︶元冠的役としては第一回 の襲来仁る友永の役に波地し仁わけである。常時彼は山城賀茂の正俸寺に化そ布いてゐにが、蒙古来襲

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風間あ るや、幾度か願文や草して之 J q 一 心 清 水 八 幡 山 V Hに祈願し、敵岡降伏と宅同

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安泰とや州問時しに。現存する正侍寺文 書 並 に 猪 熊 信 男 氏 所 蔵 文 書 智 子 に よ っ て 、 そ

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祈願の年月ぞ一瞥すらに、 文 永 六 年 十 一 一 月 二 十 七 日 、

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rfu 司 ﹄ 一 虫 、 君 一 / 壬 4 ノ E J 十 五 日 、 同年十月十四日、同年十二月十七日、 建治一五年十月十八日等が見えてゐるが,その他月日のみで年披不 明のも

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冶加へると極めて多数に上ってゐる。就中文、水六年十二月一.十七日

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祈 掃 は 、 六 十 一 一 一 日 間

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長期に瓦る も

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で あ っ て 、 是 日 行 清 水 八 幡 山 v h 一

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一 筑 前 に 敗 目 白 在 錯 し . 朝 一 A文永七年二一月一口正徳寺に於て結願的行業守修してゐ る。叉建治一五年十月八口関白

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祈踊は百幾十日間に瓦るも

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で 、 翌二年二月十−日に結願 rい 山 式 そ 単 け て ゐ ゐ 。 而 して是等

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一 腕 時 匁 に 讃 諦 し に 終 典 、 一 利 児 約 回 数 は 、 或 は 一 一 品 百 高 一 遍 . 五 百 一 尚 一 過 、 乃 至 一 十 六 億 二 一 向 五 千 七 百 十 九 一 遍 と 稽 せ ら れ 、 如何に丹誠守秘けたものであらかを察することが出来ゐ。文水七年五月二十六日石清水に奉納しに啓 白文によるに、蛍時朝廷では蒙古叫牒使に封して況一牒な臥之、 且つ和親そ締結される形勢であっにらしく, 彼 lま 之そ見て﹁愁歎無 v 極 、

ド マ

民 心

J 皆 − 一 L 一 主 く 、 1 J 4 0 細川ゴ f t I A m J l ﹂ミノ J 第一問、い牒伎に返牒のなかっに如く、今同も亦そ

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例に準じられん ことな私に希望してゐに。彼は我同

ω

外交は飽くまでも自主的なるべ品川、守認め宅も彼に服従する

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要なきも

ω

ム 一 年 へ て ゐ 大 。 何 と な れ ば 我 山 い 菩 に 立 脚 せ る も . 彼は食欲情慢

ω

悪昔話より出てゐるからである。故に作白丈そ

ω

他 にいん虻刈泣州釘人妄敵 4 対 此 柿 闘 牛 一 と い ひ 、 父 1 降 一 伏 怨 凶 − 賂 v 一 店 、 心 一 L 一 い ひ 、 一 史 に 一 i 安 古 川 問 者 情 性 情 悦 一 五 々 と , 加 民 し 工 ゐ い り J 如 斯 で あ る か ら い え 永 七 年 一 九 月 − 一 十 四 日 の 夜 、 無返牒の小説り決せられ、牒伎は却一︶て我闘に怖れ

(22)

な舟して和親を懇帥にすゐ

ω

以ゼ必じ兄

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時 、 山 れ は w ∼ − q 一 敵 同 降 伏

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先 端 ’ p − し て 歓 心 持 し 在 二 ゆ HrfHK 円

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由 ヱ 刈 こ な l I 1 J J J J i − − Ft 〆 h u e し 、 、 、 J 誕に神威

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山 部 隊 と 同 家 山 鑓 議 ム 一 必 好 一 つ 一 し ゐ ’ u 。 前 卜 川 米 合 有 山 大 困 難 に や 川 h川 、 かくも亀山巧を犠特にして岬悌 に耐誓せしその態度は、宜に彼

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純 潔 な み 同 日 本 愛

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精神より流銘せ, U ちりといはねばならぬ円 彼が能く我同館な理解し、 jk ・1己 決 コ ’ モ ソ 呂 il

2 円 、Y L U 、J J Q い 噌 ニ 三 r− 七 1 2 1 9 1 1 7 , Lqlli 〆 3 4 − f d l ︵ 上来

ω

敗 け E H h k に 陸 一 如 と し て 去 は れ て ゐるが、先づ我闘な以て抑凶’ Y一名づけてゐるニとは、日以ち刊なすべ主である。大鴨神岡

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詰 は 、 日本書紀第九な 初め三代貫録第十六、 小右記等そ

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他幾多

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文献に見ゆるところであって、 猫 h v 慧交の言葉といふことは出来な いが、然し彼に我闘は神闘であると

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強い優越感

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存正してゐにこと、たけは認めることが出来ゐ。彼小山神同聞は、 ぃ 父 、 水 八 午 九 月 十 五 日

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持 ’

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交に﹁今日本閥、 叉 前 地 紙 、 以 一 一 於 正 法 一 治 γ同以来、部類脊属、充三満此間﹁京木土地 山川護持水陸虚港、無 γ 三 重 跡 ・ し と 見 、 へ ま に 一 ー 常 守 護 法 制 諸 縁 起 ﹂

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中 に 以 、 ﹁ 本 朝 者 是 鍔 二 一 岬 同 一 故 一 切 神 祇 充 二 漏同界 J 一 と あ っ て 、 多 く

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岬 々

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刊し給ふ凶柄といふ品川昧である。これ u f 北山親房

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州国間に比較するならば、 或は徹底さ伝統いてゐるであら‘ 7 . か 、 然 し い 父 、 水 六 年 十 J 一 月 一 . 十 七 日 的 碍 白 に は 、 天皇も亦神徳を具有して一切の 功徳を汁拡散せられるの立味が述べられてゐるから‘ 必かしも混然にみ神岡翻とのみ考へることは出来ない。 共に彼は我同君臣上下

ω

名分に封して正催なゐ認識な持ち、判も之な軽んするものあれば断乎之な難詰してゐ る。文永八年九月十五日

ω

科 白 に は ﹁ 叉 有 二 俸 間 三 淀 川 人 一 石 。 け 本 弓 箭 兵 伏 武 具 。 超 一 一 勝 他 同 人 一 有 二 勢 力 ア 夜 叉 鬼 紳 無 ー 山 コ 敵 封 サ 雄 v然闘中下賎無道。 上 品 作 山 中 レ 下 。 下 者 一 品 象 。 高 民 飢 故 −

KE

国分無 γ 。 範 囲 何 一 小 γ v 。 ︵ 中 略 ︶ 正 俸 間 ﹄ 之 愁 歎 無 量 。 悲 微 一 骨 髄 ご と あ っ て ‘ 蒙 十 川 人

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我同情に闘すら認識

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不足 L L,そ

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一 概 俗 感 ム 一 に 大 な る 不 満 を 表 :l:l は し て ゐ る 。 斯く君臣

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分限に就て正しぎ見解そ有してゐたから. 元 主 に 封 す る 牢 山 市

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念 抹 に 一 厚 く 、 文永七年五 中 肢 の 略 的 と 凶 ハ 氷 点 ぷ ぷ

(23)

H ド ト 仰 教 阻 市 協 合 H 年 報 ︵ 第 九 年 ﹀

0・ ~·-' 月 二 十 六 日 の 啓 自 に は ﹁ 本 有 期 一 徳 。 自 然 高 田 耕 。 覆 コ 護 高 岡 4 乾 坤 猫 主 ﹂ と い ひ 、 ま に か ︿ 永 八 年 九 月 十 五 日 の 回 向 文 に は ↑ i 上 米 調 経 功 徳 、 回 二 向 今 上 皇 帝 刊 窯 ニ 入 玉 髄 4 内 控 ユ 聖 徳 寸 聖 遁 一 品 運 。 外 周 二 大 勢 4 獅子成狼。問海蹄 v徳。高 岡怖畏﹂と述べ、その聖徳聖遣の庚大なる在講歎し、併せて聖書

ω

高歳無窮ならんことぞ祝時してゐる。 以上の如き菩安の闘酷に封する考へは、彼に於てはそれが単なる理解ではなくして、買に牢固たる信念であっ 亡。故に彼は心から同恩の有難さそ感じ.前掲文永八年

ω

科白の中にも﹁某巾 A I 在 二 王 地 4 樹 下 一 れ 上 。 草 衣 木 食 , 滴 水 寸 土 。 無 ー 非 ニ 朝 恩 4 行 活 修 善 。 山 内 部 コ 岡 山 水 知 恩 報 恩

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と 記 し 、 そ

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県葱

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大 な る を 感 謝 し て ゐ る 。 一 冗 冠 に 際 し不惜身命の祈願を捧けたのも、事克この止むに止まれざる感恩

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精神より護露しにものといはねばならぬ。 然らば右の如ぎ彼の岡家愛の精神は之を何人から示けたのであ h ら 、 7 、 彼 の 行 賓 ︵ 附 一 一 時 J J q 案中るに、その嗣法

ω

師悟室敬念と、参皐の師たる克苓並 H 良 一 a か ら 相 俸 し て ゐ る も の と 忠 は れ る 。 彼 が 悟 ネ 一 に 師 事 し た の は 一 止 嘉 一 冗 年 ︵ 一 二 十三歳︶宋に渡らんとして筑前香椎廟に滞在してゐる時のことであり、瓦苓に相見したのは弘長二年九月︵一二十七 歳 ﹀ 鎌 倉 建 長 寺 に 於 て y あつに。抑も悟空は初め闘爾耕闘に就て授業し、後宋に渡って佐山の無市師範に参じ、法 を 無 準 の 資 建 一 桁 に 嗣 い で ゐ る o 師朝の後は博多承天寺の傍に庵在結び、濁り闘を掩ふて克坐しにといはれてゐる。 而して瓦蓄はいふまでもなく、無準の法嗣であって、交感元年来朝し、北傑時抑制一

ω

蹄依そ受けて鎌倉建長寺に入 つ に 。 菩 安 は 此 の 一 一 人 に 親 友 し に の で あ る か ら ‘ 役 に 流 れ て ゐ る 耐 仰 が 無 準 の 市 道 し に 一 二 救 一 致 の 南 米 締 で あ る こ と は 賢 一 一 一 H を要しない ο 従って彼の有する間家主義も亦、こ

ω

南市水調の王法主義に影響されてゐると見なければな ら ぬ っ 一 ん 蓄 の 教 撃 が 無 準 の 問 料 、 法 ぞ そ

ω

ま 為 抽 悩 示 し て ゐ た と い ふ こ と は 、 彼

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語録に於て認めらる込ところであっ て、﹁三歌聖人。互相出興。各立コ門底?? u 旧 引 責 相 寸 ︵ 中 略 ︶ 究 立 岡 部 二 四 ﹂ ! 一 品 抑 制 川 町 川 町 議 ︶ と い ふ が 如 さ は ‘ 明

(24)

かに無準

ω

引 遣 し に 一 一 J H 葉を肱用しにも

ω

ム 一 兄 る こ と が 出 来 む の 菩 安 は 山 本 に 渡 ら ん と し て 章 一 疾 に 椛 り 、 終にその日 的 在 来 さ な か っ 亡 が 、 七 千 に 此

ω

悟 本 一 井 一 一 ん 益 と に 師 事 す ん こ と ケ 得 て 市 宋 蹄 の 蕊 髄 守 合 得 す る こ と が 出 来 L い っ 後 年 ︵ 文 永 五 年 ﹂ 彼 は 聖 護 院 の 執 事 静 成 法 印 の 投 資 じ よ っ て J 以 部 一 保 の 北 今 出 川 の 港 に 宗 十 い 降 伏

ω

師続所を設け、之を 正体護園開寺と劣づけにが‘とも一に見落西郎 f 、 水 二 句 一

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際に於ける懸記に基いて命。 h しに丸

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で あ る ο 応酬制文 伽 制 抑 制 ︶ そ

ω

感化

ω

一 端 ぞ 窺 ひ 知 を ︶ μ が 出 来 る 。 然らば彼がいふ正体護国とは何そ泣味する

ω

で あ ら 、 ヲ か ‘ 彼

ω

ω

せ る つ 守 護 岡 田 介 時 白 T な ど よ り 案 十 る に 、 正 法を流俸せしめて岡家ぞ鎮護する山なそ有してゐゐ。此貼楽西

ω

興 擁 護 園 、 道 一 冗 の 興 聖 護 岡 の 誌 と 類 す る も の が ある。然し乍ら菩安のいふ正法

ω

流億者は日本岡

ω

天神地紙そ

ω

ものであって、それが正法そ以て岡ぞ治めると いふ意義であつに。故に柴両、道元

ω

立 場 ム 一 は そ

ω

内容に於て全然相違してゐる。如斯であるから彼には非常に 神祇崇敬の念が強かった。交永十年九月六日には正体守に神殿在建立し、賀茂,八幡、熊野、山王等の四枇ぞ勧 請 し 、 ま に 同 十 一 月 一 日 に は 、 更 に 一 大 服 、 春 日 、 稲 荷 、 厳 島 普 一 一 一 二 回

ω

五 枇 を 勅 請 し て 日 記 等 な 護 法 一 洲 E F ﹂ 錯 し 、 そ の 霊 瑞 を 仰 い で ゐ る 。 要するに彼の国家主義は、そ

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思想的器響そ市山本蹄より受けてはゐるが、その内容冶解剖するに、皆時的係数 者一般が有ってゐに圃鯉観に相似せるものであって、格別な特色や見出すことは、柳か悶難である。にゾ彼に於て は、それが明確に認識せられ、而してそれが文永の役といふ岡家的災厄に遭遇して最も力強く現はれたことに於 て、痛く吾人の世話をひくのである。殊に彼の同家ふ u m 片 山 そ

ω

熱情 L − 一 呉 創 さ に い に つ て は 、 拘 に 帰 夫 一 を し て 立 た しむるの惑がある。猪熊信男氏所戒の東巌芸安調抑制祈願丈断片には、彼が議諭した経典の綿教が記載せられ、而 24 中世の総併と凶家意識

(25)

日伝仰放政 a協 A M U 報 ︵ 第 九 年 ソ .,. 2o して各慮に怨岡降伏、型朝安様、天下泰平の話一か見えてゐゐが、そみ特に大采粧品県中、岡家的災厄守消除し王法 ぞ擁護する護同

ω

鮮 民 ハ 的 み 守 濯 ん 、 に こ と は 、 大 に 法 日 に 慢 す る 。 惟ふに彼の加斯護岡

ω

大精神は、偏へに我同家が他国に勝れてゐゐといふ伶ゆき慢越感から桶き出てゐるのであ る。文永八年九月十五日

ω

作 白 交 の 奥 に 、 すへのよのすへ

ω

未までわが園はよろっ

ω

くにミすぐれにる困 といふ一首

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和歌が記入されてゐるが、これが果して慧安

ω

作なりや否やは明白でないけれども、彼

ω

同家主義 が此の和歌によって充分道破せられてゐゐこと J d 認めなければならぬ。 }\ 虎閲師錬の闘憾槻 虎闘師錬は我闘併俸

ω

’ 川 口 と も い ふ べ き 一 一 ん 字 問 枠 合 同 一 一 卜 怨 守 大 成 し に ニ と に 於 て 著 名 で あ る ハ 、 彼

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岡韓概念は本 書の中に港憾なく遁破せられてゐゐ ρ ↑ 一 川 く 行 附

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. 斑 ル ︶ 案 令 ゐ に 、 彼 は 随 爾

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弟子収山桃服

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資 で あ っ て 、 初 め 南 稗 寺 に 規 信 組 闘 、 同 提 寺 に 桃 鴻 位 相 、 時 一 ト ヒ 咋 に 無 隙 凶 範 等 に 師 川 島 伊 し 、 大に蹄皐 e d必 修 す る と 共 に 、 菅原在輔に就 て 文 濯 そ 串 び ‘ 父掠有房と交遁し

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山 側 奥 守 党 め に ハ 正 安 一 苅 年 市 遜 必 志 し に が ほ 氏 ハ ロ 川 刊 誌

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よ っ て 県 ー に さ 示 、 徳 治 一 一 年

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春 、 相 模 に 行 き 、 住長守に山.率的合一﹁に投じて、 た い に 東 帥 仰 を 受 け に c − j 和 晶 一 年 二

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九歳遂に洛 両隣峨に隠寓し H H 轡 口 普 述 に 心 専 念 す げ り ; 一 誌 な つ に が 、 彼 川 h H て 、 つ 余 正 和 己 前 、 以 弘 同 質 十 心 . 正 利 己 後 、 以 v心質 γ で 一 ベ 山 被 安 川 J L 一 円 虫 記 一 し へ U P U −m J り こ て二 JEF 正 斗 鋭 、 , J J J ’ tdv , F そ

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除 寓 ド れ い 古 に 彼 的 生 慌

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. ト ヘ 樽 換 し 一 も い ふ べ ま も

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で あ つ に じ 此 時 栴 波 治 人 士 一 品 満が、白河

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北 町 じ . 府 げ が ふ 似 め て 師 生 生 削 ∼ ↑ い い 何 て と 生 湾 北 山 崎 と 枕 し ! 史 に 梓 浩 二 一 昧

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生 誕 に 入 ゐ ・

71

な っ た じ

(26)

後 尚 糟 寺 守 主 し 、 最 後 に 東 一 繭 寺 海 賊 院 に 住 し に が 、 ︵ 伽 誠 山 川 ︶ 性 来 多 州 に し て 、 健 康 な ら 、

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. る 蹴 態 で あ っ た か ら ︵ 耐 強 ∼ 附 批 ⋮ 鮮 側 一 一

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口 、 ︶ 蝉 脊 と し て

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鍔人的活動に終始することが出来なかっに。然し乍らその 著作たる一冗亨耀書三十巻ぞ初めとして漕北集二十谷及び側諸心論、十縄支録、泉分甜略.其他聞儲或問、騨儀外文、 正修論、糟戒規等は、何れも彼

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博覧法誠ケ語るものであって.ニミに彼をして恒久の存在たらしめてゐる。就 中、一苅亨糟舎に至つては、四十五歳の時の撰述であるが、これを後醍醐天泉に奉献し.大蔵経に入れて天下に流 布せしめられん、︶とを奏請してゐるが如き以、事聞に劃する彼

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自 信

ω

如何に強かりしかそ察することが出来る。 中岩国月は東海一極集第三醐時開に於て、そ

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功動の偉大なるぞ讃し共の如く述べてる。 苦 西 側 氏 之 教 。 流 二 子 日 域 一 幾 乎 八 百 歳 突 。 一 歳

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半数に充たゴ 其聞習蹄修定者有 v 諸 。 ﹄ 有 r 録 ニ 其 貰 4 以垂 ι 其 光 烈 於 永 岡 、 有 丙 。 年 深 日 系 則 諸 師 事 述 或 幾 二 子 地 一 実 。 於 v 親 撰 一 一 石 亨 稗 主 日 数 十 一 尚 一 ず 一 日 目 上 司 一 先 惟乃座下鴻斜緯照。允不 t 二 仲 謹 之 下 一 也 。 然 品 目 同 時 朝 起 。 微 二 険 曾 年 ぃ 奈 伯 之 徒 4 説 稽 一 一 借 中 有 二 此 郎 一 也

0

2

下 略 ︸ 細行粛儀者有 v諸。知静聴達者有 v 。 然 主 小 帝 叉 居 レ 間 細 護 ニ 一 万 亨 蒋 書 刊 多 有 v v 獲 。 於 此 4 先 取 ニ 其 俸 並 年 去 一 披 ニ 閲 之 4 然 主 レ 議 二 賛 論 志 等 之 丈 一 所 得 夏 多 σ 出 二 於 素 望 之 外 一 幸 甚 。 賢 是 同 胡 之 至 資 也 。 ︵ 上 下 略 ︶ 心 目 朗 然 析 慰 無 量 。 素 以 三 本 朝 諸 名 信 行 賓 及 其 所 由 符 未 − 一 営 H 見 開 イ 故 汁 伊 一 意 右の如くであるから彼の撃問は貰に和漢古今の壌に精通してゐに。その著大なることは同じく巾引がい米海一編集 第 三 一 同 時 開 に 、 伏 惟 座 下 。 徴 ニ 蓮 聖 域 ﹁ 度 ニ 越 古 人 4 強 記 精 知 且 善 二 著 述 4 凡 北 口 r 問万経籍五千儲帥 υ 英 b s 一 一 法 其 奥 ↓ 置 b 勿 v 3 26 中 世 の 栂 併 と 凶 山 本 意 識

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