問題の所在 現代宗教の動向をどのように捉えるべきなのだろうか︒宗教社会学者たちは︑この問いに対して明確な回答を用意できないでいるというのが正直なところだろう︒ただ︑近年よく目にする﹁ポスト世俗化﹂という言葉に示され
るように︑﹁近代社会における宗教の社会的意義の喪失﹂︵B・ウィルソン︶という古典的世俗化論のテーゼの失効に
ついては多くの研究者の共通認識になりつつあるように思われる︒少なくとも︑この理論が説いていた︑近代化に 論文要旨﹀ 本稿は︑現代社会に大きな影響を与えている消費という問題に注目して︑マーケット論的視点から消費社会における現代宗教の変容を理論的に論ずることを目的としている︒まず︑宗教社会学理論において著名なR・スタークの経済的マーケットモデルを批判的に検討する︒その上で︑彼のモデルに代えて︑ベビー・ブーマーたちの宗教意識とアメリカの宗教状況を明らかにしたW・ルーフの﹁スピリチュアル・マーケットプレイス﹂という概念と﹁探求﹂という心理的な志向性に注目する︒次いで︑現代社会の消費をめぐる議論を紹介しながら︑﹁セラピー的な自己﹂とそれをターゲットとした聖地巡礼ツーリズムを検討する︒最後に︑宗教的マーケットと世俗的なそれとの融合という状況において出現している﹁軽い宗教﹂の存在が示すように︑世俗化か再聖化か︑という二項対立的な理論的議論は消費社会における宗教の変容の理解には有益でないことを示唆したい︒キーワード﹀ 消費︑経済的マーケットモデル︑スピリチュアル・マーケット︑聖地ツーリズム︑軽い宗教
『宗教研究』91巻2輯(2017年)
消 費 社 会 に お け る 現 代 宗 教 の 変 容
山 中 弘
伴って宗教の周辺化が不可逆的に生じるという見解を支持する研究者が少なくなってきたことは間違いないだろ
う︒それでは世俗化論を激しく批判してきたR・スタークやP・バーガーが述べたような︑宗教の復興や社会の再聖化こそが現代宗教をマクロ的に捉える際の基本的な認識となったのだろうか︒筆者は︑そうではないと思ってい
る︒世俗化論の失墜は︑その論敵たちが主張してきた社会の再聖化の理論的妥当性を示しているというわけでな
い︒むしろ︑それは世俗化か再聖化かという二者択一的な問いの立て方自体の限界を示しているとみるべきだろう︒つまり︑聖と俗という二項対立を前提にして宗教の量的な増減から世俗化か再聖化かと問う︑問いの立て方自
体の有効期限が切れたとみるべきなのである︒
しかし︑ここでこうした問いの立て方の限界を強調するのは︑単に宗教社会学理論における大きなストーリーの
復活を望んでいるためでも︑現代宗教の動向が複雑でとても一つの視点からだけでは捉えられないと主張したいためでもない︒むしろ︑二者択一的判断の対象である肝心の宗教そのものの特質やあり方が大きく変化しており︑も
はや宗教という一つの不変の実体を想定して︑その量的な増減から宗教の衰退や復興を語ることができないのでは
ないかと考えているためである︒つまり︑現代宗教の多様なあり方の背後には宗教自体の質的な変化が存在しており︑それがかつての量的な問いの立て方を意味のないものにしているように思われるのである︒
筆者は︑こうした質的な変化をもたらしている様々な社会・文化的諸要因の中で消費文化︵主義︶の問題こそが
最も重要な論点であり︑現代宗教論は消費社会という論点をもっと前景化した理論的文脈の中で論じる必要があるのではないかと考えている︒もちろん︑こうした見解は筆者だけのものではなく︑一九九〇年代あたりから︑消費
文化と情報技術の急速な進展が現代宗教のあり方に大きな変化を与えているという指摘がなされている︒例えば︑
消費社会における現代宗教の変容
D・リオンは︑今日の宗教の特質がそれ以前のものと異なる社会的要因として︑﹁コミュニケーションと情報技術の普及﹂︑﹁消費的資本主義﹂︑さらには﹁消費者的ライフスタイルへの決定的な移行﹂を指摘し︑ポストモダンの
宗教を記述するメタファーとして﹁ディズニーランドのイエス﹂という言葉を使っている 1︒B・ターナーもまた︑
ポスト世俗化における宗教の問題を論じる中で﹁商業主義と民主化の二重の過程によって﹂︑宗教が質的に変容したことを指摘し︑﹁宗教は︑モダニティによって消費社会のライフスタイルや実践と両立するようになっている﹂
としている 2︒ このように現代社会の宗教の質的な変化の一つの大きな要因として消費文化やメディアの存在が指摘される一方
で︑社会学や宗教研究においてこの問題を学問的に焦点化することへのある種の躊躇や反感が表明されている︒J・カレットとR・キングは︑消費主義と密接に関係するスピリチュアリティの流行によって︑宗教は知らぬ間に
乗っ取られてしまうのではないかという強い危機感を述べている 3︒こうした反感の背後に︑I・リーダーは聖と俗 との明確な区別を維持し︑﹁物質的で商業主義的なものの表現は︑宗教の真実かつ真正な本質に反すると考える宗教研究の傾向﹂が存在しているとしている 4︒筆者はリーダーと同様に︑消費とそこから生じた文化現象を皮相的だ
と決めてかかるのではなく︑逆に現代宗教の質的な変化を分析するためには︑消費文化の影響を焦点化することは
非常に重要だと考えている 5︒本稿はこうした問題意識に基づいて現代宗教の質的な変化を検討するが︑その際︑マーケット論的視点を活用したいと考えている︒というのも︑この視点は﹁需要﹂と﹁供給﹂という二つのアクター
のマーケットにおける相互作用から︑その変化を捉えようとするものであり︑宗教という単一の対象だけを取り出
した議論よりも︑消費文化を焦点化する場合には有効であると考えられるからである︒
一
﹁
経済的マーケットモデル﹂
とメガ・
チャーチ さて︑マーケット論的視点から現代宗教の変化を論じる場合に︑この視点に関わる宗教社会学の研究業績について少し振り返ってみなければならないだろう︒この種の議論としては︑一九六〇年代に刊行されたバーガーの業績
がまず思い起こされる 6︒バーガーによれば︑近代社会では社会を統合する一元的で包括的な世界観︑宇宙観︵﹁聖なる天蓋﹂︶が失われることで︑宗教教団は自らのメッセージを競って人々に提供することを余儀なくされ︑その
結果︑人々は自分自身の気に入ったものを自由に選択するという状況が出現するとされる︒彼は多元主義的状況下
での世界観の競合と選択というあり方を︑マーケットと消費者という経済学的アナロジーを使って見事に表現した
が︑需要と供給という経済学的概念を理論の中核に据えて論じたわけではない︒
一九八〇年代頃から登場する﹁経済的マーケットモデル﹂は︑むしろ積極的にこの概念を焦点化して宗教の動向
を論じようとした︒それは︑スターク︑R・フィンク︑L・アイアナコン︑W・ベインブリッジなど複数のアメリ
カの社会学者たちによって﹁新しいパラダイム﹂として提唱されたが︑大筋では古典派経済学の人間観を基礎にして宗教活動の動態を宗教的商品の需要と供給との関係で捉えようとしたもので︑特に供給側の活動を左右する国家
の規制の程度に注目することから﹁供給サイド・モデル﹂︵A Supply-Side Model︶とも呼ばれている 7︒この理論につ いては︑既に日本でも二〇〇〇年代初頭に住家正芳︑沼尻正之︑小池靖などによって十分に紹介︑批判されており︑ここで改めて詳細に解説する必要はないように思われる 8︒ただ︑批判的に議論されることの多いマーケット論
的視点をここで再び持ち出したのは︑一九九〇年代以降の先進産業社会における社会変動と消費文化の顕著な進展
消費社会における現代宗教の変容
によってマーケットという概念が新たな意味をもち始めているのではないかと考えたからである︒人口移動やライフスタイルの変化は︑これまで地域共同体に組み込まれてきた伝統的な宗教に大きなダメージを与える一方で︑か
つて宗教が独占的に管理していた﹁瞑想﹂や﹁巡礼﹂などの観念︑実践︑シンボルが︑文化産業などによって情報
技術やマーケティングの積極的活用を通じて商品化され︑人々は消費者としてそれらを選択︑購入するというマーケット化が急速に進展してきているようにみえるのである︒文化産業を巻き込んだ宗教的マーケットの変容は︑一
九五〜六〇年代のバーガーが記述した﹁マーケットと消費者﹂というアナロジーをはるかに超えたものになってい
る︒こうした状況において︑マクロなレベルからこの変化の動態を捉えるためには︑宗教を需給という二者関係の
ダイナミズムの中で捉えようとする視点は一定程度の有効性があると考えられる︒そこで︑概念的には類似してい
るスタークたちのモデルを批判的に検討することから︑まずは議論を進めていきたいと思う︒
さて︑これまでも︑このモデルが理論的にも実証的にも︑かなり大きな問題をかかえていることについて数多く の指摘がなされている 9︒住家は理論内在的な問題として﹁﹁市場﹂そのものの問題﹂を論じているが A︑筆者の視点からの批判は次の二点を指摘しておきたい︒第一は︑このモデルの理論的前提となっている功利主義的な人間像
と︑それと連動する宗教の定義である︒第二は︑先のものと表裏の関係にある需要側の需要内容の固定化という点
である︒これら二点は筆者独自の批判点とはいえないが︑これらが相互に関係しあって供給側のあり方やその商品の内容を理論的に限定してしまっていると思われる︒ごく簡単に説明してみよう︒まず︑このモデルでは報酬︵re-
wards︶一般のあり方に対して︑︵1︶報酬の有限性と配分の不平等性︑︵2︶不死のような入手不能な報酬への強い 期待の存在︑という二つの事態を想定している B︒こうした報酬の在り方に対する人間の行動として﹁報酬の最大化
と損失の回避﹂という功利主義的な行動モデルが採用されている︒いかにしたら報酬を最大化できるのかを絶えず
合理的に計算して行動する経済学的人間モデルである︒︵そのため︑このモデルは﹁合理的選択理論﹂とも呼ばれる︒︶この報酬の最大化という行動原理を宗教という商品の購入の動機にするのが彼らの宗教の定義である︒その
定義は︑﹁超自然的な存在を想定する究極的な意味に関わる信念と実践のシステム﹂というものである C︒この実体
主義的な定義は統計的数値を駆使する彼らの方法論からすれば当然ともいえるが︑これによって︑宗教行動は先の功利主義的な系の中に組み込まれ︑この功利系の中で扱われることになる︒つまり︑現状で不死を含めて報酬が欠
乏していると感じている人々が取り得る合理的な行動としては︑﹁超自然的な存在﹂を介して︑現実には獲得でき
ない報酬を﹁遠い未来または直接的には検証できない他の文脈﹂において最大化するというものである D︒そして︑
これが行為者にとって損失を最小化する最も合理的な行動だとすれば︑当然のことながら︑報酬を最大化できる
﹁超自然的存在﹂への需要は絶えず存在することになるのである︒このように宗教的需要の恒常性とその内容が理
論的に担保されているため︑マーケットにおける需要の内実や変化は問題とされず︑供給側のあり方も非常に限定
的なものに留まるのである︒
消費社会という観点から現代宗教の質的な変化を論じようとする本稿にとっては︑これらの問題点は看過できな
いものを含んでいる︒というのも︑今日の宗教的マーケットにおける供給側のあり方は︑消費者の意識や消費の仕
方に大きく左右されており︑需要の内実を理論的に固定している彼らのモデルでは︑供給側のあり方の変化を柔軟に捉えることが難しいからである︒しかも︑﹁超自然的な存在﹂を実体的には想定しないものの︑ライフスタイル
の根底に深く関与して機能的な意味で宗教と呼びうる世界観や実践を供給する組織などは︑定義上︑宗教的マーケ
消費社会における現代宗教の変容
ットを構成する供給者とはならないのである︒しかも︑この理論では︑商品の購買︵消費︶の動機が功利系の行動モデルであるために︑今日の消費がもっている文化的・象徴的次元に対する視点を欠いており︑後述するような消
費社会をめぐって需給双方に生じている現代的な変化を十分に扱うことが難しいと考えられるのである︒
もちろん︑メガ・チャーチと呼ばれる福音派のキリスト教会のあり方は︑供給側の今日的な変化としてスタークたちの理論の射程内部で捉えることのできる事例といえるだろう︒そこで︑この教会について一瞥しておこうと思
う︒
一九九〇年代あたりから急速に勢力を伸ばしているこれら単立の教会は︑マーケティングという販売戦略を積極
的に採用することで︑非教会層に属す消費者に強力にアピールしている︒メガ・チャーチは主にアメリカのキリスト教の伝統に特有な現象といえるが︑近年ではシンガポールなどにも出現しており︑消費文化が浸透している先進
産業社会におけるプロテスタント福音派のグローバルな新しい適応形態とも考えられる E︒こうしたメガ・チャーチ の成功の秘密はどこにあるのだろうか︒メガ・チャーチに関する研究は︑G・A・プリチャード︑C・オストワルト︑K・ラコーなど数多く存在するが F︑多くの研究者たちは︑これらの教会が採用している一般企業顔負けの﹁神
を売り込む﹂ための洗練された販売戦略にあるとしている︒オストワルドによれば︑牧師たちは﹁罪や悔い改め﹂
という伝統的なキリスト教の言葉ではなく︑﹁顧客のニーズ﹂︑﹁製品に対するロイヤリティ﹂といったマーケティング用語を多用するという G︒レークウッド・チャーチの主任牧師のオースティンの説教を分析したラコーによれ
ば︑彼のメッセージは︑すべての人々は夢を実現する力があり︑すべての問題の解決の手段は自分の中にあるとい
う考え方に貫かれているという H︒オースティンの多用する﹁あなたは選択できる﹂という言葉遣いには︑﹁個人を
中心に据え︑個人が自分の人生を管理し改善する責任を負う﹂という﹁責任の個人主義的な概念﹂が反映されてい る I︒もちろん︑神の力には言及されるが︑﹁罪︑受難︑贖罪﹂は後景化し︑﹁自分が人生を変えようと選択﹂した時︑神は超自然的な力で個人の夢の実現を手助けしてくれるという J︒ラコーは︑オースティンのメッセージが﹁自
己の概念とそれに関連する自律︑アイデンティティ︑個人性︑自由︑選択︑実現といった概念﹂と連続しており︑
さらに︑自己実現や自己改善などを追求するセラピー的文化の言説とも重なると指摘している K︒これらの分析から明らかなように︑メガ・チャーチが商品を供給しているマーケットは世俗的なマーケットと地続きであり︑この教
会に惹かれる人々は︑この教会が提供するセラピー的なメッセージと︑従来の宗教色を限りなく脱色したエンター
テイメントを享受しながら︑宗教的世界と世俗的世界を行き来する消費者とみることができるのである︒その意味
で︑伝統的なキリスト教のメッセージを世俗的に希釈したこの種の教会の存在は︑消費文化によって変容した伝統的宗教マーケットの今日的状況を示す興味深い事例であると解釈することができるだろう︒
二 スピリチュアル
・
マーケットと消費文化 さて︑メガ・チャーチの動向は︑一方で︑キリスト教が消費社会に適応しながら世俗的な装いで宗教的需要を喚起しているものと解釈できるが︑他方で︑この状況は宗教的マーケットにおいて宗教︑世俗という明確な区別が流
動的になり︑両領域が相互に浸透しあう状況が進展していることを意味している︒こうした流動化とボーダレス化の進展を象徴するのが︑C・ルーフのいう﹁スピリチュアル・マーケット・プレイス﹂︵以下︑スピリチュアル・マー
ケットと略す︶という概念である︒彼によれば︑現代のアメリカにおいて宗教的諸制度の境界は非常に流動的で︑宗
消費社会における現代宗教の変容
教的意味やアイデンティティが︑世代︑ジェンダー︑道徳︑ライフスタイルをめぐって競合︑交渉しているという︒キリスト教という単一の宗教伝統や教団が聖なるものの象徴化を独占しておらず︑人々の移動によってもたらされ
る多様な宗教伝統や︑文化産業などによって供給される宗教的商品が競合︑共存しており︑宗教的消費者はこの多
様な宗教的マーケットから自分の好みの商品を選択し︑それらを﹁ブレンド﹂しながら︑一貫した個人的なアイデンティティを編み上げていくというのである L︒彼は︑こうした宗教状況の拡散を宗教の純粋性の汚染という含意の あるシンクレティズムという言葉を使うべきではなく︑むしろ心理学的には﹁探求の志向性﹂︵quest o Mrientation︶︑
あるいは社会学的には﹁多元主義︑個人主義︑モダニティに直面することで生じた共同体への新しい探求や宗教的
探求﹂といった言葉がふさわしいとしている︒全体として︑ルーフは﹁今日のアメリカの宗教状況の特徴は︑信仰 の喪失ではなく︑疑いのない信仰から︑よりオープンで探求的な様式への質的な変化﹂であるとして N︑こうした探 求への志向性を﹁再帰的スピリチュアリティ﹂と呼んでいる O︒もちろん︑これは︑探求の先に必ずスピリチュアリ
ティという新しい宗教意識や実践があるという意味ではなく︑﹁探求﹂の果てに伝統的な宗派を選択することもあり︑再帰的スピリチュアリティは︑あくまでも︑ベビー・ブーマーたちに共通して認められる基本的な宗教的志向
性を指している P︒ さて︑﹁探求﹂という心理的志向性は︑ルーフが主にブーマー世代に属するアメリカ人たちの質的な調査から引き出したものであるが︑消費文化︑個人主義︑多元主義などが後期近代に共通する特徴であるとすれば︑この志向
性はアメリカだけに限定されたものではなく︑こうした社会に生きる人々が共通に感じるものといえるだろう︒ブ
ーマーたちの意識にある﹁自己理解や自己内省性﹂の強い希求の背景として︑ルーフは﹁多元主義︑相対主義︑存
在論的な不確かさ﹂を指摘しているが Q︑これらはいずれも後期近代を特徴づけるものであり︑A・ギデンズの議論
を援用すれば︑﹁探求﹂は﹁脱埋め込み﹂の深化によって引き起されるアイデンティティの再秩序化のプロセスと深く関わっているとみることができるだろう︒つまり︑﹁脱埋め込みメカニズムは自己アイデンティティの中核に
侵入﹂し︑個々人に﹁存在論的不確かさ﹂を感じさせるのである R︒伝統や地域などの外的準拠枠の流動化に伴っ
て︑個々人は﹁内的な準拠性﹂に基づいたアイデンティティの再帰的な組織化に向かうことになるが︑このプロセスこそ︑ルーフが﹁探求﹂︑﹁再帰的スピリチュアリティ﹂と呼んだ志向性と捉えることができるのである︒したが
って︑こうした志向性は単に特定の地域の宗教伝統だけに固有なものではなく︑モダニティが必然的に我々に課し
てくるものといえるだろう︒とするならば︑スピリチュアル・マーケットという概念を手掛かりにして現代宗教の
動態を捉える場合に︑どのような論点がここから浮かび上がってくるだろうか︒筆者は二つの論点を焦点化できるのではないかと考えている︒第一は︑既に論じている﹁宗教の商品化﹂という論点であり︑第二に︑それと表裏の
関係のある﹁消費者としての個人のあり方﹂という論点である︒そして︑これら二つに共通しているのが﹁消費﹂
という問題であることは多言を要さないであろう︒そこで︑これらの問題を検討するために︑現代の消費論に少し目を転じてみようと思う︒
現代社会の消費をめぐる研究業績は経済学分野を除いても膨大に存在するが︑筆者の問題意識にとっては︑M・
フェザーストーンの消費社会に関する優れた整理が最も役に立つように思われる︒フェザーストーンは︑﹁我々が消費社会という概念を使う場合︑商品の世界とそれを支える構造的な諸原理が現代社会の理解にとって中心的な役
割を果たしている﹂という認識が重要だとしている S︒彼によれば︑この認識は二重の焦点を含んでいるという︒第
消費社会における現代宗教の変容
一に︑経済の有する文化的次元に注目するということである︒つまり︑消費は単なる効用ではなく︑コミュニケーターとしての物質的商品の象徴化という次元をもっているということである︒J・ボードリヤールが消費を﹁モノ
の機能的な使用や所有﹂ではなく︑﹁コミュニケーションと交換のシステム﹂であり︑﹁絶えず発せられ受け取られ
再生産される記号のコード﹂だと定義したように T︑フェザーストーンも︑ボードリヤールにならって消費を使用価値︑物質的効用としてではなく︑記号の消費から考えるべきだとしている︒記号の消費とは︑ごく簡単にいえば︑
具体的なモノ︵記号内容︶とその呼び名︵記号表現︶との結びつきが社会的であるという認識を前提に︑後者に社
会的に与えられた価値や意味を獲得するために︑モノを購入するということである︒ボードリヤールは︑﹁電気洗
濯機が生活用具ではなくて快適な生活や威信の要素となるやいなや消費の対象となる﹂と書いているが U︑日本の高
度経済成長期に家電製品の所有がもった特定の意味を想起すれば︑この事態はよりわかりやすいかもしれない︒
﹁何を食べ︑何を着て︑どこに住むのか﹂といった消費行動がそのままライフスタイルを構成するのは︑それらの
記号がもっている意味や価値に由来しているのである︒まさに︑ゴーティアも指摘するように︑消費は﹁経済的な事実﹂であるとともに﹁社会的事実﹂なのであり︑﹁その本質的機能は意味︑価値︑コミュニケーションに関係し
ている﹂のである V︒ フェザーストーンのいう第二の焦点は︑文化的商品の経済的価値への注目である︒つまり︑﹁需要と供給︑競争︑独占といったマーケットの原理がライフスタイルの領域や文化的商品の内部で働いている﹂ことに注意を払うとい
うことである W︒この見解は︑一見︑消費という問題が特定の社会階層︱可処分所得の額が大きく︑文化的︑象徴的
な商品に敏感に反応する生活様式︵ハビトゥス︶を有する社会階層︱だけに関わっていると主張しているように解
釈できるかもしれない︒確かに︑そうした側面を全く捨象して消費論を語ることはできないが︑ここでの焦点は︑
資本主義の再生産過程において宗教を含めた文化が経済的マーケットの重要な要素として認識されるようになっていると理解していいように思われる︒それではなぜ︑文化がマーケットにとって重要な要素になったのだろうか︒
V・ミラーは︑消費文化の進展によって︑﹁商品の脱物質化﹂が進み︑モノよりもそれに付加された審美的価値が
大きな意味をもつようになったことを指摘している X︒この脱物質化は︑商品の耐久性の向上によるマーケットの飽和と関係しているが︑その結果︑﹁情報と体験のコンテンツ﹂が新たな商品として注目されるようになり Y︑そのコ
ンテンツとして文化が活用されるようになったとしているのである︒
三 宗教の商品化とセラピー的自己 さて︑これらの議論を踏まえて︑先の宗教の商品化という問題を考えてみよう︒既に明らかなように︑ここでの
議論の焦点になるのは︑スタークたちの理論とは違い︑スピリチュアル・マーケットに供給される文化的コンテン
ツとして流通している宗教である︒ミラーによれば︑宗教の商品化は︑宗教的文脈の中に組み込まれていた様々な要素が﹁意味や機能を規定していたその他のシンボル︑信念︑実践との相互作用から切り離され︑それ自体価値の
ある対象として提示される﹂ということである Z︒こうした商品化の状況は︑日本でもレアな御朱印の価格の高騰や
東寺公認の仏像フィギュアの販売など︑今日いたるところで目にすることができ︑もはや日常的な風景になっているといっても良いだろう︒ミラーは︑スペインのサント・ドミンゴのベネディクト派の修道士たちが歌うグレゴリ
ウス聖歌を収録したアルバム﹃聖歌﹄が発売一年で七〇〇〇万ドル以上を売り上げたことを例にあげながら︑K・
消費社会における現代宗教の変容
バージェロンの議論を参照して︑典礼的な文脈から切り離されてノスタルジックに使われる宗教音楽は︑聴衆に何も要求しないバーチャルな儀礼に変貌を遂げているとしている a︒物質的なアイテムだけでなく︑宗教的情緒や雰囲
気も商品化にとって貴重なコンテンツとなる︒この事例として︑二〇一四年に岩波ホールで公開されたP・グレー
ニング監督の﹃大いなる沈黙││グランド・シャルトルーズ修道院﹄を少し紹介してみよう︒舞台となった修道院は︑厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道会で︑グレーニング監督は︑ただひとり修道士たちと暮らしな
がら︑礼拝の聖歌以外の音楽︑ナレーション︑照明などを全く使わずに映画を制作したという︒その内容は︑祈り
と沈黙のうちに自給自足の日々を過ごす修道士たちの生活を丁寧かつ執拗に追いかけたもので︑会話は﹁削ぎ落と
され﹂︑画面は﹁大いなる沈黙﹂に満たされている b︒通常の映画からすれば掟破りの﹁沈黙﹂と﹁静寂﹂に満ちた
映画が著名な映画祭でいくつもの賞を受賞したことは︑修道院という極めて特殊な宗教生活を描いたドキュメンタ
リーが世俗的なマーケットで評価されたことを意味している︒修道会を含めてキリスト教の地盤沈下が著しいとさ
れるヨーロッパにおいて︑この種の映画が静かな共感を呼んでいるのは︑モノが溢れ飽くことのない消費が繰り広げられる先進産業社会において︑﹁沈黙﹂︑﹁禁欲﹂︑﹁瞑想﹂などのイメージ︵記号︶が反消費社会を表象するコン
テンツとして経済的価値をもっていることを示している︒しかも︑キリスト教とは縁が薄い日本においても︑小規
模とはいえ商業劇場で公開され︑共感的な映画評が発表されたことを考えると︑宗教伝統の違いを超えて︑商品化のコンテンツとしての宗教的情緒やライフスタイルが受容されたことは明らかであろう︒
しかし︑商品化の最も重要な局面は︑マーケットに流通させるために宗教が扱いやすいように作り直されるとい
うことであろう︒常に消費者の選択が優位なマーケットにおいて︑競争に勝ち抜くためには︑供給される商品は消
費者の好みに合うように調整される必要があるからである︒日本の文脈でいえば︑商品としての﹁プチ修行﹂の生
産も︑そのわかり易い事例であろう︒それを勧めるあるサイトにはこんな言葉が書かれている︒﹁リラックスしたい︑すべてを忘れて一つのことに没頭したい︑自分に喝を入れたい⁝⁝そんなときにおすすめしたいのが﹁修行体
験﹂︒滝行︑座禅︑写経︑阿字観など︑関東圏のお寺で体験できるさまざまな修行をまとめました c︒﹂
とすれば︑商品化の問題は︑そのままそれらを選ぶ消費者の検討へと繋がることになるのである︒ミラーは自らの探求のための素材を常に求めて消費を繰り返す﹁消費者的自己﹂︵consumer self︶を︑﹁セラピー的自己﹂︵therapeu-tic self︶と捉えている d︒後期近代社会において︑内的な準拠性に基づいた絶えざる再帰的なアイデンティティ再編
の作業は︑その背後に自己に対する不安や焦燥を生み出す心理的メカニズムをもっており︑ルーフのいう﹁探求
者﹂のメンタリティは健康︑自己の成長︑心理的安心感を約束するセラピー的エートスと親和性をもっていることは確かだろう︒人々は︑心理学や医療の専門家たちによって説かれる﹁健全な自己﹂といった理想像を受け入れ︑
その理想を獲得すべく自らを陶冶しようとするのである e︒C・テーラーは︑﹁﹁自分自身を見つけ︑実現し︑解放す ることなどを手助けします﹂と約束する類の精神治療の言葉が激増した﹂としながら︑この営みそれ自体︑自己理解をめぐって消費中心主義がもたらした﹁ほんもの﹂の文化の絶え間ない拡大であるとしている f︒つまり︑﹁ほん
ものの自分の実現﹂︑﹁自己の成長﹂という﹁探求﹂の営みが消費主義によって増幅されたことを指摘しているので
ある︒
こうした消費主義とセラピー的自己との関係をもう少しみてみよう︒既に述べたように︑モダニティが人間に課
してくる再帰的なアイデンティティの再編成は自らのあり方を絶えず顧み模索する自己という心理的志向性を生み
消費社会における現代宗教の変容
出すが︑これは︑消費主義を介してD・スレーターの指摘する﹁自己に対する崇拝︵カルト︶﹂を帰結する可能性を強く含んでいる g︒というのも︑伝統や宗教的権威など外部に位置する準拠性を頼りにできない後期近代の自己
は︑常に自らのアイデンティティを支える拠りどころを内部に求める︑いわば﹁探求の途上﹂に位置しており︑こ
の心理的不安定さは︑それ自体︑自らの成長や自分探しを手助けするためのプログラムを提供するセラピー的組織や産業にとって格好のターゲットになるのである︒とりわけ︑こうしたセクターの提供する宣伝やイメージは︑
﹁自己への強いこだわりを強迫観念﹂のように懐く消費者にとって︑その欲求を充足させてくれるものとして受け
取られることになる︒つまり︑﹁セラピー的自己のエートスの出現︑拡散︑活力の重要な要素﹂として︑﹁宣伝﹂が
大きな意味をもっているといえるのである h︒ なぜ︑これほどまでに宣伝が重要な役割を果たすのだろうか︒そこには︑マーケティング技術と一体となった今
日の消費のあり方が存在している︒というのも︑現代の宣伝は商品の詳細な情報を人々に伝えることよりも︑視覚
的なイメージを巧みに使いながらそれが象徴するライフスタイルを焦点化し︑人々をその消費へと誘うからである i︒こうした状況は︑ある大手の会員制アスレチックジムが放映するCMを想起すれば明らかであろう︒ここでは︑
身体のあり方がセラピー的な問題と直結してイメージ化されており︑弛んだ肥満の身体は不摂生で怠惰な自己︑ス
リムで若々しい身体は前向きで健全な自己というメッセージが反復されており︑消費者を﹁自己の成長﹂に没頭する﹁自己に対する崇拝﹂へと追い込んでいくのである︒ミラーは︑こうした広告のプログラムは﹁現代人が被って
いる居場所のなさを搾取し︑消費を治療として体系的に提案している﹂と述べている j︒先のCMに即していえば︑
それは単に﹁痩せたいためにはジムで地道な努力を﹂ではなく︑そのメッセージが﹁怠惰な自己﹂から﹁前向きな
自己﹂へという自己の﹁成長物語﹂の中に埋め込まれ︑それに基づいて努力のための﹁意味づけ﹂が与えられてい
る︒そして︑最後に︑それを選択するのは﹁あなただ﹂というわけである︒その意味において︑アインシュタインが指摘するように︑セラピー的自己を宣伝するマーケティングは︑機能的には︑﹁意味の供給﹂という点において
伝統的宗教と類似したものになっているのである k︒つまり︑﹁商品化﹂は︑マルクスの﹁物象化﹂とは異なった意
味で﹁宗教化﹂へと繋がることになるのである︒宗教の商品化は単に宗教的グッズが売買されるといった次元の問題ではなく︑さらに大きな文脈では︑﹁商品の宗教化﹂と表裏一体となって進行していることになるのである︒
このように︑スピリチュアル・マーケットにおいて︑モダニティが課してくる﹁探求﹂という欲求の充足は︑マ
ーケティングと一体となった消費文化によって方向づけられ掬い取られてしまう可能性を強くもっている︒そし
て︑先の宗教の商品化の問題に戻れば︑こうした形で探求の心理的志向性が消費によって常に充足されるようになると︑﹁結果的に消費の領域の性向や習慣を︑宗教を含めた意味の伝統的な資源にも持ち込む﹂ことになってくる
のである︒つまり︑﹁ほんものの自分﹂を求めて消費を続ける﹁セラピー的自己﹂は︑こうした消費のあり方に一
致する限りにおいて︑宗教に意義を見出すのである︒その点で︑ミラーが指摘するように︑商品化され﹁実践から切り離された抽象的感情という宗教の形態﹂こそが︑消費文化に適合的といえるのである l︒
四 聖地ツーリズムのもつ意味 さて︑以上のような議論を踏まえながら︑この﹁セラピー的自己﹂の需要に応え︑それ故に︑一九九〇年代以
降︑急速に流行している宗教的商品として︑聖地ツーリズムに注目してみたいと思う︒聖地ツーリズムは︑近年ア
消費社会における現代宗教の変容
ニメの舞台を訪れるツアーの登場など急速に多様化しているが︑ここでは動機はともかくも︑実際に宗教的聖地を訪れるツーリズムを考えてみたい︒この種のツーリズムは︑徒歩で聖地を訪れるなど身体を使ったものが一般的で
あり︑体験の消費という性格も備えている︒その代表格としてスペインのカトリック巡礼地サンティアゴ・デ・コ
ンポステーラへの巡礼が挙げられるであろう︒一九九三年に世界遺産に指定されたこの巡礼路を訪れる人々の数は一九九〇年代以降︑爆発的に増加し︑二〇一〇年には二七万人という数字が報告されている︒これは︑一九八〇年
代末の約三〇〇〇人と比較すると︑約一〇〇倍の増加となっているという m︒ サンティアゴ巡礼路の巨大な需要は︑日本の聖地ツーリズムにも非常に大きな影響を与えている︒これをモデル にした巡礼商品が日本のマーケットにも登場している︒長崎の教会群を対象にした巡礼 nと熊野古道のウォーキング
がそれである︒ここでは紙数の関係もあるので︑簡単に後者に限って言及してみよう︒二〇〇四年に﹁紀伊山地の
霊場と参詣道﹂の一部として世界遺産指定された熊野古道は︑さらにサンティアゴ巡礼路とコラボした取り組みを
行っている︒熊野古道の終点である熊野本宮大社の位置する和歌山県田辺市が運営している﹁熊野ツーリズム・ビューロー﹂のHPには﹁二つの道の巡礼者﹂という興味深い文言が載せられている o︒これは︑熊野古道とサンティ アゴ巡礼を達成した人を指し︑それがビューローの設定した条件をクリアしていれば︑両巡礼のシンボルである八 や
咫 た烏 がらすとホタテ貝をあしらった﹁二つの道の巡礼者﹂限定ピンバッジが贈呈されることを謳っている︒熊野古道をサンティアゴ巡礼路と巧みに接続することで︑後者のブランドイメージをうまく活用した企画であり︑﹁巡礼路﹂と
いう﹁道﹂のもつ記号性をフルに使った巡礼商品といえるだろう︒
なぜ︑スペインから遙か彼方に位置する熊野でサンティアゴ・ブランドが活用されるのだろうか︒昔日の熊野信
仰が消滅してしまった今日︑かつての参詣道を蘇らせるためには﹁歴史的な熊野詣﹂に加えて︑サンティアゴ・ブ
ランドが与えてくれる意味づけを利用するのが好都合だったからであろう︒四国遍路や西国三十三観音巡りなどの仏教の巡拝の場合には︑霊場を巡る意味づけとして弘法大師信仰︑先祖供養など伝統仏教の宗教的観念と接続させ
ることができるが︑少なくとも神仏分離以降の熊野古道を歩かせる動機として︑仏教を持ち出してくることはなか
なか難しい︒それでは宗教抜きの単なるウォーキングで良いかといえば︑熊野古道は参詣道として売り出している以上︑道に付与される宗教的意味づけは不可欠なのだが︑古の﹁熊野詣﹂だけでは物足りないのである︒聖地ツー
リズムブランドの一級品であるサンティアゴ巡礼のイメージを活用することで︑この難問は解決できるのである︒
もちろん︑サンティアゴ巡礼も本来はカトリックの伝統的な巡礼であり︑いわば異なった宗教伝統に属している巡
礼路を熊野古道に接続させているわけだが︑観光協会はもとより宗教団体である本宮大社もまた︑そこに違和感を覚えているようにはみえない︒まさに︑この違和感の欠如こそ︑サンティアゴ巡礼が特定の宗教的文脈に埋め込ま
れた宗教的内実を全く欠いている﹁巡礼ブランド﹂に他ならないことを示しているのである︒
とすれば︑この宗教的内実を欠いた﹁巡礼ブランド﹂は︑どのようなライフスタイルを指示しているのであろうか︒A・ノーマンは︑サンティアゴ巡礼を﹁スピリチュアル・ツーリズム﹂という分類で考えており︑参加者の体
験に共通に認められる﹁自己改善﹂︑﹁自己実現﹂︑﹁自己発見﹂という特徴から︑それを﹁ツーリズムの文脈の内部
で意識的に行われた自己のプロジェクト﹂だとしている p︒本稿の視点からすれば︑まさにそのブランドは︑﹁本物の自己﹂の﹁探求﹂というセラピー的自己のニーズを表現し︑それに応える商品なのであり︑そのブランドから供
給される意味が︑多くの巡礼ツーリストたちをして八〇〇キロにも及ぶ巡礼路を歩き続けさせるのである︒ここに
消費社会における現代宗教の変容
は︑宗教実践であったサンティアゴ巡礼が﹁商品化﹂し︑その商品がセラピー的自己の需要を介して﹁宗教化﹂するという注目すべき現象が起こっているように思うのである︒この巡礼をこよなく愛す人々が集う﹁サンティアゴ
友の会﹂を紹介したHPの次のような一節から︑この巡礼がどのような人々の需要を満たしているかがわかるので
ある︒もちろん︑ポジティブな体験だけでなく︑自分の心の中のネガティブな部分に直面することもあるでしょう︒
しかしそれらは自分自身を様々な視点から捉えられる機会となり︑心の成長の面から見ても大切な体験になる
と考えます q︒ 何も知らない人がこの一節に目をとめれば︑これは︑恐らく心理学的なアドバイスか何かだろうと思うかもしれないが︑サンティアゴ巡礼について説明している一節なのである︒彼らにとって︑サンティアゴ巡礼は﹁心の成
長﹂の糧として受け取られているのである︒
五
﹁
軽い宗教﹂
の出現││ 結びに代えて ││ さて︑最後にこれまで述べてきたことを踏まえながら︑冒頭で言及した現代宗教の質的な変化について少し述べ
て本稿を閉じたいと思う︒本稿の基本的な議論の枠組みであったマーケット論的視点は︑バーガー︑スターク︑ルーフなど︑アメリカの宗教社会学者たちが好んで使うものであり︑モビリティの高さ︑消費社会の成熟︑大量の移
民たちの存在︑そして宗教伝統の歴史の浅さなど︑どれをとってもアメリカ固有の諸特質を基盤にしたアメリカ的
な理論であることは多言を要さないだろう︒筆者の参照した事例も主にアメリカを中心としたものに留まっている
ことも事実である︒しかし︑ここでマーケット論的な視点を積極的に利用したのは︑アメリカの特殊な状況を一般
化するためではなく︑一九八〇年代以降の先進産業社会全般における消費文化の顕著な進展を背景としたマーケット的状況の出現という共通性に注目したからである︒伝統的宗教制度の弱体化︑人口移動やライフスタイルの変
化︑情報技術の急速な進歩やマーケティングの積極的活用など︑マーケット論的な視点が有効な社会的状況は︑ア
メリカばかりでなく︑日本やヨーロッパの産業社会︑さらにはインドネシア︑マレーシアなどのイスラーム圏においても生じている r︒こうした状況において消費文化が生み出すセラピー的自己という消費主体は︑再帰的アイデン
ティティの再編成のために︑宗教に代表される精神的な領域に位置する思想︑実践︑シンボルなどへの関心を高め
ている︒つまり︑これらの思想や実践が﹁ほんものの自己の発見﹂といった﹁探求﹂の営みに資するものとみなさ
れており︑グレゴリウス聖歌や修道院の映画のようなスピリチュアルな商品の静かなブームは︑この種のマーケットが拡大している証左とみることができるのである︒
これらの需要に対応して︑文化産業などの非宗教的領域に属する供給側も︑伝統的な宗教マーケットに参入して
いるわけである︒聖地巡礼ツーリズムの商品化とその流行も︑この文脈の中で理解されるべきだろう︒﹁心の旅﹂として四国遍路を位置づけて︑参加者を募るある大手の旅行会社は︑当然のことながら︑新しい四国遍路を作り出
そうしているわけではない︒むしろ︑伝統的な寺院の僧侶や遍路の作法を熟知した先達たちを同行させて︑このツ
アーを企画している︒その点では︑伝統的な遍路の活性化に一役買う脇役の位置に徹しているに過ぎない︒しかし︑旅行会社は顧客の満足度を高めるために様々なサービスを付加していくのであり︑その介在は︑参加者が満足して
遍路を体験できるように遍路の在り方を作り変えていくのである︒逆にいえば︑そうした旅行会社との連携がない
消費社会における現代宗教の変容
巡礼路は︑リーダーが言及している小豆島の写し霊場のように s︑寂れていくことになるのである︒つまり︑供給側の旅行会社などの文化産業は︑需要側の不定形な欲求を遍路という具体的な行動に結実するための様々な﹁テンプ
レート﹂を提供し︑それによって﹁宗教的実践﹂を引き出しているのである︒
これらの事態は︑見方を変えれば︑文化産業を介して伝統宗教が文化的マーケットへと参入しているとみることができる︒つまり︑宗教が文化産業によって一方的に世俗化され商品化されているわけではなく︑伝統宗教の側
も︑文化産業を利用することで人々の﹁スピリチュアルな﹂欲求を取り込もうとしているわけである︒そして︑そ
の過程で︑一般の人々の好みに合うように︑自らの宗教を扱いやすく加工することになるのである︒ここには︑長
い宗教伝統に守られた寺院と信徒の安定した関係から流動的で匿名的な消費者に対する差異化されたサービスの提
供へ︑という急速なマーケット化への動きを見て取ることができるだろう︒そして︑その背景には伝統的宗教を取
り囲む深刻な危機が存在している︒欧米社会を含めて伝統的な制度宗教は確実にメンバーを減らしており︑人口減
少社会を迎えて﹁寺院消滅﹂は現実のものになっている︒つまり︑伝統的な宗教的マーケットは明らかに縮小しているのである︒その点で︑伝統宗教側が文化的マーケットへと参入するのは︑消費社会への適応戦略ともいえるの
である︒とすれば︑需要側︑供給側双方によってやり取り 0000される宗教は︑特定の宗教制度に組み込まれ︑特定の宗
教的権威の管理下にあるものではなく︑流動的で変化しやすい性格を備えたものになるように思われる︒そうした宗教を仮に﹁軽い宗教﹂と呼ぶとすれば︑スピリチュアル・マーケットの拡大は︑一面では︑この軽い宗教の隆盛
とみることもできるのである t︒ ﹁軽い宗教﹂の出現は︑宗教のあり方そのものの変化を意味している︒こうした状況に対して︑﹁消費﹂を﹁俗﹂
とし﹁宗教﹂をその対極の﹁聖﹂におくという伝統的な聖俗の二項対立図式は﹁宗教の世俗化﹂というお決まりの
回答しか引き出せず︑いわば聖俗が入れ子状になりながら相互に浸透するという今日の状況をうまく捉えることはできないのである︒今日︑明らかに︑宗教をその他のものと区別する明瞭な境界線は曖昧になってきている︒先に
紹介した写経︑滝行などの﹁プチ修行﹂は︑伝統的寺院で実修されるという意味では紛うことのなき宗教実践だ
が︑その実践に人々を誘うのは情報誌企業ぴあ︵株︶であり︑その謳い文句は﹁日帰りもOK﹂の﹁スマホ女子旅﹂なのである︒スピリチュアル・マーケットにおいて盛んに消費されるこうした﹁軽い宗教﹂の流行こそ︑宗教の質
的変化の一つの表れとみることができるのである︒この観点からすれば︑社会の再聖化とみえる状況は宗教的領域
の拡張や拡散ではなく︑消費文化を動力とした宗教的領域とその他の領域との相互浸透の深化を意味しており︑あ
えて再聖化を論ずるとすれば︑﹁商品の宗教化﹂という論点を含めての検討が必要だと思われるのである︒
註︵
︵ David Lyon, (Cambridge: Polity Press, 2000), p. 7.1︶
︵ University Press, 2012), p. 142. J. VanAnthwerpen, (New York & London: New York Bryan Turner, Post-Secular Society: Consumerism and the Democratization of Religion, in D. K. Kim, J. Torpey, and 2“”︶
︵ ledge, 2005), p. 2. Jeremy Carrette and Richard King, (London & New York: Rout-3︶
︵ Ian Reader, (London: Routledge, 2015), p. 12.4︶ (Farnham: Ashgate, 2013), p. xv. François Gauthier and Tuomas Martikainen, 5︶同様な議論は以下の著作においても展開されている︒
消費社会における現代宗教の変容
︵
︵ ││神聖世界の社会学﹄新曜社︑二〇〇五年︑二一二頁︒ Peter L. Berger, (Harmondsworth: Penguin Books, 1967), p. 142.6︶薗田稔訳﹃聖なる天蓋
︵ , 33(3), 1994, pp. 230‑252. Rodney Stark and Laurence Iannaccone, “Supply-Side Reinterpretation of the “Secularization” of Europe,” 7︶
︵ と新・世俗化論争﹂︵﹃宗教研究﹄七五巻四輯︑二〇〇二年︶︑六一︱六二頁︒ 論の射程││世俗化論争の新たな一局面﹂︵﹃社会学評論﹄五三︵二︶︑二〇〇二年︶︑八五︱一〇〇頁︑小池靖﹁合理的選択理論 8︶住家正芳﹁宗教社会学理論における﹁市場﹂﹂︵﹃宗教研究﹄七九巻三輯︑二〇〇五年︶︑四九︱七一頁︑沼尻正之﹁宗教市場理 Roger Finke and Rodney Stark, ‑ る︒ 9︶スタークたちの議論は単に理論的なものだけではなく︑アメリカの宗教史の数値的データを使って歴史的な議論も行ってい (New Brunswick & New Jersey: Rutgers University Press, 1992). E. Brooks Holifield, “Why Are American So Religious? The Limitations of Market Explanations,” in Jan Stievermann, Philip Goff, and Detlef Junker (eds.), Anthony Santoro and Daniel Silliman (as. eds.), (Oxford & New York: Oxford Press, 2015), pp. 33‑59.︵
︵ 10 ︶住家︑前掲論文︑五一頁︒
︵ Press, 1985), p. 5. 11 Rodney Stark and William Sims Bainbridge, (Berkeley & Los Angeles: University of California ︶
︵ 12 Stark and Iannaccone, op. cit., p. 232.︶
︵ 13 Stark and Bainbridge, op. cit., p. 5.︶
︵ Pattana Kitiarsa (ed.), (London & New York: Routledge, 2008). 14 Joy Tong Kool Chin, McDonaldization and the Megachurches: A Case Study of City Harvest Church, Singapore, in “”︶
︵ Message of Hope, in Stievermann et al. (eds.), op. cit.‘’” Press International, 2003). Katja Rakow, Religious Branding and the Quest to Meet Consumer Needs: Joel Osteens “’ Conrad Ostwalt, (Harrisburg/London/New York: Trinity 15 G. A. Pritchard, (Michigan: Baker Books, 1996). ︶ 16 Ostwalt, op. cit., p. 62.︶
︵
︵ 17 Rakow, op. cit., p. 224.︶
︵ 18 Ibid., pp. 226‑227.︶
︵ 19 Ibid., p. 229.︶
︵ 20 Ibid., p. 230.︶
︵ Princeton University Press, 1999), p. 78. 21 Clark Wade Roof, (Princeton & Oxford: ︶
︵ 22 Ibid., p. 45.︶
︵ 23 Ibid., p. 9.︶
︵ 24 Ibid., p. 12.︶
︵ 25 Ibid., p. 90.︶
︵ 26 Ibid., p. 9.︶
︵ 四八︱一四九頁︒ Press, 1991), p. 168.秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳﹃モダニティと自己アイデンティティ﹄ハーベスト社︑二〇〇五年︑一 27 Anthony Giddens, (Stanford & California: Stanford University ︶
︵ 28 Mike Featherstone, , 2nd edition (London: Sage Publications, 2007), p. 82.︶
︵ 29 ︶J・ボードリヤール︵今村仁司・塚原史訳︶﹃消費社会の神話と構造﹄紀伊國屋書店︑一九七九年︑一二一頁︒
︵ 30 ︶同上書︑一四九頁︒
︵ 31 Gauthier and Martikainen, op. cit., p. 11.︶
︵ 32 Featherstone, op. cit., p. 82.︶
︵ Bloomsbury, 2003), p. 69. 33 Vincent J. Miller, (New York & London: ︶
︵ 34 Ibid., p. 69.︶
︵ 35 Ibid., p. 72.︶
︵ 36 Ibid., p. 76.︶ 37 ︶﹁解説﹂四︱五頁︑野本道江﹁削ぎ落とされた暮らしの音と古来の素材が見せる無限の表情﹂一三頁︵﹃大いなる沈黙へ││グ