ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼
J
(試訳)
その
1
中 川 法 城
は じ め に
ジャック・ロンドン(Jack London)
は1
9
1
6
年1
1
月2
2
日に4
0
歳の若さで急 逝した。その頃の彼は健康を害してはいたが,前日まで日課の原稿書きもして いた。ところが,2
2
日の朝には昏睡状態に陥っていたのを発見され,すぐに医 者が呼ばれて治療に当たったものの,同日の夕刻に息を引き取ってしまった。 死因は,医者の診断書では尿毒症による病死とされた。だが,このような突然 の死であったことも手伝って,診断書の所見とは別に,原毒症の激しい癌痛を 抑えるためにモルヒネを大量服用したためではないかという事故死説から,モ ルヒネの致死量を計算したメモが残されていたことを根拠に自殺説まで,いろ いろ取り沙汰され,死因はいまだ謎に包まれたままである。 この謎めいた死の後には未完成の原稿が残されていた。幼児の頃にハワイに 漂着した後,チェリー(
C
h
e
r
r
y
)
という愛称で育てられた日本女性の物語で, 「東洋の眼J“(Eyes o
f
A
s
i
a
"
)
と題されるものであった。 この未完成の原稿は,後に妻のチャーミアン(
C
h
a
r
m
i
a
n
)
が残りの部分を 書き足して物語を完成させ,死の8
年後にあたる1
9
2
4
年に『コスモポリタンJ 誌 (Cosmoρolitan)の9
月号と1
0
月号に掲載された。9
月号にはジャック・ ロンドン自身が書いた部分が載せられ,1
0
月号にはチャーミアンが書き足した 部分を「ジャック・ロンドンは『東洋の眼』をこのように終えたことだろう」(How Jack London Would Have Ended
“Eyes o
f
A
s
i
a
"
)
と題して掲載さ れている。 なぜチャーミアンが作家に代わって結末部を書くことができたのかという疑 問が当然出るわげだが 9月号では,ロンドンの原稿を掲載したすぐ後に,チ ャーミアンが書いた結末部の掲載に関する次号予告をしながら,その理由が語 られている。それによると,ロンドンはチャーミアンとプロットや登場人物に 龍谷大学論集 223ついてよく話をしていたこと。主人公チェリーを描く際の女性のものの考え方 やその恋人たちのことについて彼女が絶えず助言を与えていたこと。また,こ の物語に関するメモやノートが大量に残されていたこと,などが掲げられてい る。 ジャック・ロンドンの作品は日本でも翻訳を通して数多く紹介されているが, この遺作は研究者の聞でもほとんど知られていないのが現状である。したがっ て,ロンドンのこの作品を訳出して紹介することは大いに意味があるだろう。 ただ,紙面の都合で一度にすべてを紹介することができないので,ここでは 9月号に掲載された遺作のおおよそ三分の二を訳出している。 9月号の残りの 三分のーと, 10月号に掲載されているチャーミヤンが書いた結末部については, 次の機会に譲らざるを得ないことをお断りしておく。
「東洋の眼
J(試訳)
世界をよく知る旅行者が,訳のわからぬままこの部屋に連れてこられたのち 突然目を開けてみて,ここが地球のどの地域なのか分かるのはむずかしいこと だ、ったろう。大きく開け放たれた古風なフランス風の窓の外を眺め,遠くに高 くそびえる山に彼は見入ったことだろう。その山の長い斜面にはいくつもの雲 が影を落とし,雪をいただいた峰は太陽にきらきらと光っている。やがて男は 榔子や熱帯の木々や潅木の向こうを見やり,さらには芝生の庭園に萌え出るよ うに咲き誇るベゴニアの生け垣の向こうに目を凝らしたことだろう。 軽やかなそよ風がその男の頬をほの暖かく撫でる。屋根も遮るものもないベ ランダで,彼は遠くの峰に見える寒さの脅威には何の関心も示さず,柔らかな 熱帯のシダや,つり下げられた花かごや,繊細な蘭の色鮮やかなさまに見入っ たことだろうo部屋をちょっと見ただけでは,彼には特別なことは何もわから ない。白と金色をした居間のピアノ,小さな大理石の置物,本と一緒に置いて ある下絵や絵画は,巨大なソファーベットと関連づけて考えてみてもただ頭を 悩ますだけだったろう。幅7フィートと長さ12フィートのそのソファーベット には,大変柔らかな珍しい敷物が敷いてあり,その上には波立つ海のようにた くさんのクッションが置いてあるのだった。 外を見てもむしろ困惑するだけだったろう。というのは,自に広がる道路で は,カーボーイにしかできない乗り方で馬を全速力で走らせていくソンブレロ をかぶった20人ばかりの男たちを,一台のリムジンが追い抜いていくのが見え -224ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)その1(中)I[)たからである。雪とベゴニア,蘭と寒気,カーボーイとリムジン,ピアノと粗 雑に敷物を敷いたソファーベット! 部屋にいる乙女の姿や彼女の振る舞いを見ても,当惑はただ増すだけでしか なかったろう。彼女には,雪をいただいた峰やベゴニアと同じぐらい異国情緒 が漂っていた。着ているもので言うと,彼女は象牙色と金色をまとった優美な 綿毛のようであった。象牙色のちりめんに金色のパラの刺繍をほどこした,足 元まである彼女の部屋着は,流れるようなハワイのホロクのアメリカ仕様に違 いなかった。黄金のパラのところにたぐり寄せたちりめんの布が居間用の帽子 になっていて,それが耳元で巻き毛のようにカールした,青みを帯びた豊かな 黒髪を半ば隠していた。その額は低めで広く,しかめっ面の敏も汚れがなかっ た。眉毛は細くヲ│かれていて,紛れもなく斜めに切れ込んだ東洋の眼をしてい た。顔は卵形,面長な卵形で,頬骨がほんの少し高くなっていた。 彼女は高貴な家柄で純血の日本人だった。そのわずかな鷲鼻は,はっきりと 鼻筋が通っていて日本の上流階級の基準に見合う長さを暗示していたが,同時 にそれは白人の審美的基準からも大きくはずれるものではなかった。彼女のま つげは黒くて長く,唇はパラ色でその両隅には小さくて表情豊かなえくぽがあ った。 彼女は乙女でいて,成熟した女性でもあり,大変小柄で頭の先からサンダル を履いた足元まで
5
フィート足らずの背丈だった。大胆にもストッキングをは かないその足は小さくて,つま先にしても指先の爪にしても非の打ちどころが なく,肌も血液も透き通るようなピンク色をしていた。天使のように丸く愛ら しいその手は,小さな指先に行くほど細くなっていて,同じようにピンク色な いしはパラ色をしていた。身体にゆったりとまとったホロク越しに見ると,ま ろやかでふっくらとした体つきだと言うのが,公正であるばかりか避けられな い表現であった。同時に彼女の身体のあらゆる様子から,繊細さや優しさ,そ れにか弱さがにじみ出ていた。彼女は何百年もの末にようやく完成された創造 物で,女らしさの点では生物学的ならびに審美学的に言って究極の表現であり, 肉体と人間性を申し分ない精巧さと柔らかな色合いで刻み込んだ宝石であった。 その色合いは彼女の際だつた特徴と言えるだろう。爪先とその指先はパラ色 の宝石だった。その身体は薄いちりめん地の下で,萌え出る暖かさで輝いてい た。顔は磁器の上でパラ色の輝きを放っているようであった。パラ色の磁器と いうのが,彼女を色で表した場合の最上の表現であろう。幼くして彼女に与え られ,唯一正式に認められた名をプリシラというが,みんなにはチェリーとい 龍谷大学論集 -225一う名で知られていた。 沢山のクッションが置いてある巨大なソファーベットを離れて,彼女は分厚 い敷物を敷いた床の別のクッションの聞で体を休めていた。彼女の真前の, 10 フィート余り離れたところには,平らな扉風に描かれた日本の婦人が彼女を見 下ろしていた。この扉風の婦人は明らかに高貴な人物であった。女性は自分の 身分を表す紋入りの衣装を身につげていて,その立ち振る舞いは普通の人聞に は見られない規律正しさを物語っていた。 この扉風の婦人を一心に見つめて,チェリーは大きな声で言った。「出てき ておくれ,私と同じ人種のあなた。絵に描かれているなんてことは忘れて,出 てきておくれ。歩いてきて私と話をしておくれ。私はあなたに出てきてほしい の。私はあなたとおなじ国の人間なの。私は今困っているの。私の魂とひとつ になっておくれ。」 チェリーは完壁な発音で,非常に抑揚をきかせた英語で話しか砂た。 「私にはあなたがしゃべる言葉は話せないわ。」と再び始めた。「私が話すよ うになる前に,あなたのしゃべる言葉は失なってしまっているのよ。でも,あ なたは賢明な方だわ。あなたの唇には,苦しみを知った赤い花の笑みが漂って いるわ。あなたの目は恋人を夢中にさせ,母であることを知った蓮の花だわ。 あなたの目には,私が生まれた東洋の神秘と知恵が宿っているわ。ああ,長ら く失われてしまった東洋の心。私に話しか砂てちょうだい。命を得て,絵の扉 風から離れ,私のところにやって来て。」 チェリーは扉風の婦人に向かつて一心に心を集中させていた。彼女があまり にも深い思いに我を忘れていたため,中国人の女性が自国の白い服に身を包ん で静かに,ほとんど幽霊のように,部屋に入ってくるのに気づかなかった。彼 女は物思いにふけるこの女主人の中に割り込むことを嫌がって,動かずにじっ と待っていた。その姿はほっそりとした白い百合のようで,その顔には,扉風 の婦人の顔にあるような,東洋人特有の静けさと忍耐が漂っていたが,それは 彼女の女主人には見られないものであった。 「何なの,ユー・チン」チェリーはついに彼女のいることに気づいて,英語 で尋ねた。 「あのハワイ人の男の人,あなたがグリーン・タートルと呼んでる人,あの 人来てます。」発音は上手だが,下手な英語で答えた。 「ああ,ホヌさんね。」チェリーは笑った。 「ホヌさんです。」ユー・チンは認めた。「何かあなたに持ってきてます。素 -226ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の限J(試訳)その1(中]11)
敵なもの。わかってるの。わかるわ。レイよ。素敵なレイだわ。」 「どんなの?J女主人はたずねた。 「わからない。でもやっぱりすごく素敵なのよ,全部バナナの皮にくるんで て,キャンディのように結わえであるの。珊瑚のビーズを中に入れてらっしゃ る宝石箱みたいな具合に。」 「それじゃあ,お通しして。二人で確かめましょう。」チェリーは命じた。 そしてユー・チンが出ていった時,チェリーは扉風の婦人をもう一度チラッ と見て,ため息をついたが,それはうれしいとか,うれしすぎるとかからでは なかった。 ユー・チンが戻ってきて,彼女のあとには年老いた大男のハワイ人がノッシ ノツシとついてきていた。あまり上等でないブーツの腫には大きな拍車が着い ていてガシャガシャ,カチャカチャ音を立てていた。褐色に日焼けし,頬はく ぼみ,年の割にはほとんど敏もなく,その目は横にひろく離れていて,歳で細 るどころか大きく見開かれていた。 目は特に魅力的であった。それは子供思いで,情けや愛情に満ち,真剣で生 き生きとしていて,おそらく色恋は忘れただろうが,いまだ消えることのない 若い噴のきらめきで輝いていた。同時にそこには謙遜と誇りが宿っていた。謙 遜は鍛錬と心情から生まれたものだが,誇りはポリネシア系の血を受け継いだ ものだ、った。彼の目には忍耐も宿っていたが,それはこれまでの自然と関わる 人生の中で培ってきたものだった。決してじっとしていることも,急がされる こともない潮を待つ忍耐。静まる前に吹く最後の強風にうまく応じる忍耐。貿 易風にうまく対応したり,山道が通行可能な聞に,あるいは野生の牛を馬で追 いつめてロープを掛げる前に,一面を洗い流す山脈の雨に対応する忍耐。 彼は恥ずかしそうでいて,同時に真剣な面もちであった。この日本の乙女の うれしそうな「ああ,ホヌ!J という喜びの声に彼の顔は輝いた。そして前に 出された小さな手を握り,彼女の前で頭をたれた時,バナナの皮一杯に結わえ たレイを床に置いて,ハワイの人たちが皆知っている r炎」を意味する「ケ クニ」という彼女の名前をおどおどとつぶやいた。 彼の老いた目は零れることはなかったが,涙で潤み,老いと感動で声を震わ せて,ハワイ語の祈りのような声を上げた。 「ケクニよ!海から救い出した私の愛しの子!荒れ狂う白波とムクポーの鮫 の歯形をした岩礁から,私がこの子を救い出したのだ!愛しの炎の花なのだ! 女の園では並ぶ者のない私の花!マナの果樹園から生まれた私の桜の花!J 龍谷大学論集 -227一
彼が前で身をかがめて語り終える前に,お姫様のように慈悲深く立っていた チェリーは,老人に立ち上がって自分の正面に座るように命じた。それからこ の男が持ってきた花輪の宝石箱を聞けてみた。 「ピカケだわ!Jチェリーは沢山な真珠を思わせる真っ白なジャスミンの花 芽を見て,喜びの声を上げた。それは優しく素敵に見えるように,曲がった裸 の枝の部分を手で丸めて,オロナの樹皮で結わえ,芳香の漂うアリキシアの葉 にしまわれていた。チェリーは引き裂いて出し,居間用の帽子をほおり投げて, 花芽のついた枝を髪に差し込むと,ユー・チンの素早く手際の良い指がその手 助けをしていた。 「何かお飲みになれば,ホヌ。何にしましょう。」 チェリーは返事を待った。その間彼はうれしくはあるが当惑でもじもじし,思 いもよらぬことに期待で胸を膨らませながら舌で唇をぬらしていた。 「分かつてるわ!ジンね!ユー・チン,ホヌにジンを持ってきて。」 中国人メイドは素早くしたがって,盆にのつけて一杯のジンとミネラル・ウ ォーターを持ってきた。 「歳がいったら,私もジンを飲むわ,ホヌ。」彼がその酒をゆっくりと飲ん でいる時,チェリーは落ち着いた様子でそう断言した。 「いいもんです。歳の取った人聞にはとてもいいもんです。」と彼は答えた。 「かつて若かった時にやっていたように,食べたり,寝たり,恋をしたり,戦 ったり出来なくなったことをしぱしの間忘れさせてくれる。」 彼は一息ついて,伝統的なハワイ流儀の長いため息をつき rアウウエ」と 言葉を発したが,それは「ああ,悲しい」といった意味であった。 「大変うれしいです。」ため息とは矛盾するように言った。「モーテイマーお 父さんとモーティマーお母さんがお客様方と一緒に大きな車に乗って,みんな で教会に行かれるのを見ました。それで冷たい手で心臓が押しつぶされるよう な思いになりまして,私の愛する花姫が病気ではないかと思って。それでやっ て来たのですが,ジャスミンのレイを求めるために止まっただけで駆げつけた ため,馬はまだ息を切らせています。馬のことは忘れてしまって,あなたのこ としか考えていませんでしたから。それであなたが病気でなくって,大変うれ しいです。」 「それであなたの方はどうなの,ホヌ?J彼女は尋ねた。 「ああ,なんと言うこと!J ホヌは言った。「馬をまっすぐ走らせてやって 来て,私の心配事であなたをうんざりさせただけですね。あなたに会いに来た 228 ジャツク・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)そのl(中)11)
のは,病気ではないかと思ったからです。でもあなたは元気でいっそう美しく なっておられる。幸せという点では,あなたがどんな風だか分かつておくべき でした。だ、って幸せはあなたには生まれつきのものですから。」 「みんな,みんな幸せってことよ。ホヌさん。」と彼女は言った。 「それに恋人も?お相手は今までいつも大勢おいでだったんではじ 「アウウェ!J彼女は返礼に喜びの笑みを浮かべた。 「大勢おられますが,どなたも迷惑なの。私はいつでもあなたと話をするの がすごくうれしいの。馬鹿な人たちの馬鹿なおしゃべりを聞くよりわね。あん な人たちはジョン・モーティマー農園やジョン・モーティマー砂糖会社やジョ ン・モーテイマ)・インターアイランド株の方が気になっていて,グリーン・ タートルに海から救い出された小さな日本人のチェリーになんか多分それほど 関心はないわ。あなたの話を聞いて価値のあることは少ないかも知れないげど, 気高い心があるってことはチェリーには分かるの。」 「いつか結婚なさるでしょう」彼は物静かな確信を抱いて彼女に断言した。 「偉い将軍とか,最後尾に控える司令長官とか,ヨットで旅する立派なイギリ ス貴族とか。」 チェリーは悲しげに頭を振った。その後グリーン・タートルがたばこに火を つけて,老いた肺一杯に煙を吸い込んでいる間,彼女の視線は扉風の婦人に戻 っていた。突然彼女はハッと思いついて彼の方を向いた。 「もう一度例のあの話をしてちょうだい,ホヌ。私決して飽きないのよ。こ れまで私に話してくれたことは全部覚えているわ。でもまた聞きたいわ,これ まで聞かなかった何か新しいことをあなたが思い出すかと,思って。そんなこと を思うのよ!地球上に今生きている人の中で,あなたが母の着ていた着物を見 て知っているただ一人の人なのよ。それでいてあなたでさえ,母をしっかり見 てはいないし。さあ,始めて。麦芽酒ばかり飲んで頼りにならないホキが,そ れまで誰も見たことのないような船だって言ってきた時……」 ホヌは肺のたばこを吹き出したが,乾いた煙のせいで咳き込み,ただ首を振 ってそれを認めた。まったく意識することもなく,彼女の後に続けていつもの 最初の言葉を繰り返しながら,ホヌは話を始めた。 「麦芽酒ばかり飲んで頼りにならないホキが,それまで誰も見たことのない ような船だって言ってきた時,私は子馬を馴らすのに忙しくしておりました。 それで私の家に行って少し寝てこい,そうすれば気分も良くなるだろうと言っ てやったんです。だが,あいつはいやだと言った。あいつは,それは大きな船 龍谷大学論集 -229一
で,島に入ってきて難破しかかっているって言うんです。それは捕鯨船なのか つて聞いたんだが,違うって言うんです。スクーナー船なのか,プリグ船なの か,外洋船なのかつて聞いても,違う違うとばかり言う。それで家に行って寝 てこいとまた言ってやったんです。だがあいつはいやだと言う。それであいつ は,私に出かけていって,人を助け出すか,船に乗ってる値打ちのある品を何 なりと取って来いって,それで自分にも分け前を忘れるなって,ムクポーがそ の船を飲み込んでしまうまでに私に急いで行くようにって言ったんです。」 「澄み切った快晴の日で,風もなかった。私はその日は,ニイホノの漁師仲 間とアク漁に出かける予定だった。だが,北から大きなうねりがやって来てい た。風なんかちっとも感じなかったが,たぶん千マイル彼方の大風がハワイに 大きなうねりを運んできていたんでしょう。状況が悪すぎて,私どもの大きな ダブル・カヌーでも出かけることができなかった。砂糖船はハマクア波止場か ら積み出しができなかったし,ヒロの大型帆船は錨の鎖がパラパラになったり, 風もないのに浅瀬に乗り上げたりしないように沖に引かれていった。」 「それでホキと一緒にニイホノの浜に行って,漁師仲間を呼び集めた。みん なはホキが夢に見ていたのがどんな船なのか同じように話を聞いて,同じよう に彼にどこかで横になって寝た方がいいと言ったんです。」 「結局,半信半疑で,彼を浜に残したまま,私どもはダブル・カヌーを出し てきて,ムクポーに漕いでいった。その場所がはっきりすると,ホキが正しい ことが分かつた。そいつは私どもの誰も見たことのないような船だった。日本 人の漁師はそれまでハワイでまだサンパンを建造したことがなく,サンパンっ てどんな船なのかも分からなかった。そいつはおそらく
5
0
フィートはありそう な大きなサンパンで,船尾の方に屋形があった。それで男がその屋形の上に座 って,舵を取っていたのだと思った。」 「だが,その男は舵を取っていたのではなかった。大きなオールは途中で折 れてしまっていて,その男はオールの手のところにしっかりと結わえつけられ ていた。それでサンパンが揺れて折れたオールもゆらゆら動くと,その男もま たゆらゆらと動いていたんです。そして揺れるごとに船腹が見え,そこから海 草の緑色の水が滴っていて,船が長らくずっと海上にいたことを示していまし た。マストはありませんでした。サンパンが揺れながら私どもの方に流されて くると,ぬれた甲板の上では男どもの身体が潮の流れで揺れて丸太ん棒のよう に転がるのが見えました。サンパンは波の泡立ったムクポーの鮫の歯形をした 岩礁近くに来ていて,大波に持ち上げられながら勢いよく岸壁に向かつて来て -230ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の限J(試訳)その1(中}l1)おりました。おまけに,そのサンパンは半分まで浸水してると片目の男は判断 していました。」 「だが,舵を取っていたあの死人ときたら!その男はかつては大きくて,太 っていたんでしょう。彼の骨の大きさや,ちょうど研癖にかかった皮膚のよう だ、ったが,骨から垂れ下がった皮膚の雛の様子や,腰の上から引きちぎられた か,海に持って行かれたかした着物の様子からそんな風な判断ができたんです。 彼の顔を見て,みんな恐ろしくてぞ、っとしましたよ。その顔は骸骨になってい たんです。まだしっかりと皮膚で覆われてはいたが,忘れ去られた戦場で掘り 当てたような様子でした。」 「私は,私の次に年長のウイリィ・キピニを呼んで,舵取りの交替をして, そいつに舵を取って船に近づけるように言ったんです。その見慣れないサンパ ンとダブル・カヌーが互いの方向に揺れた折りに,私はその船に飛び移ったん です。すると,甲板にいた男たちは肉のそけ落ちた死人であることが分かりま した。皮膚はただ骨を覆うだけで,間違いなく長らくの間食べ物がなかったこ とを告げていました。彼らは夜露を飲むために木造の船を舌でなめ,渇きを除 こうとするネズミが水樽の側板をかじるように,歯で船をかじっていたのだろ うと思いました。彼らの上を跨がねばならなかったんだが,すると連中は転が ってきて私の足にぶつかってきました。自分たちと同じにならすために,私を 投げ倒そうとしているようでした。まさしくそれは死人の船で,あちこち木を かじった甲板から見渡しでも,ほとんど価値のない代物だったんです。」 「それは漁船のサンパンだと分かりました。というのは,魚を入れる隔室の 上のハッチを開げてみると,底の羽根板の隙聞から海が見えていました。その 隙聞からは海の底まで見えておりました。サンパンが海底に沈みかかった時, ムクボーの歯形の岩がせり上がって来るのが見え,サンパンに食いつくわずか 半尋のところで止まったかと思うと,次の岸向きの潮で浮き上がったんです。」 「そいつらは貧乏な身分もない人たちだってことは,まだ身体にまとってい た安っぽい木綿の服を見て分かりました。船室には凄い宝石や想像もできない ような宝物があったかも知れないが,船は貧弱なものでした。目前に,網で覆 った荷物で目も舷むほど高価そうなものが目に飛び込んできました。それで私 は船室の方に足を進めたんですが,カヌーにいた漁仲間たちは,船がムクポー の塵となる前に,戻ってくるようにと叫んでいました。」 「その時ですよ,あなたを見たのは。」 「私なんかはニイホノの二束三文の漁師で,アナハウの野蛮なカーボーイで 龍谷大学論集 -231
しかない。私なんか宝石や宝物を見ても分かる訳がないが,そいつは絹で覆っ た荷物でも,目も肱むほど高価なものでもなくてただただがっかりしました。」 「それであなたはというと,赤ん坊で,波で揺れても怪我しないように,布 で編んだバスケットに入れられて,しっかりと固定されてありました。ピンク 色の赤ん坊で,ちょうど暁のように紅をさし,ハイビスカスの花とかマナの果 樹園に咲く桜の花のようだった。そして,ふっくらとした赤ん坊だった。食事 を与えられ元気でまるまるとしておられた。一瞬のうちに思いましたよ,鰹が トビウオを狙うほどアッという聞にね。木綿の服を着ていたり,舵のオールに 身体を結わえたり,甲板の排水口でゴロゴロ転がっていた男どもは,骨と皮の 骸骨になって,食べ物もなく死んでいったが,あなたは死にもせずに,まるま る太っていたということは,ただ一つのことを意味していました。それはあな たが高貴なアリイで,高貴で高い家柄の人だということです。身分のない人聞 は食物がなくて死んでいくような場合でも,あなたには十分に食べ物が与えら れていました。」 「それで私がアリイだ、って思うのですか?J彼女は挑むように言った。「た しかに,頑強な種族の男たちが死んでも,ごく普通の赤ん坊が生き残るかもし れないし。」 「あなたはアリイだったのです。」ホヌは静かに確信を持って言った。「あな たには渇きの徴候も飢えの徴候もなかったが,はかなくも男たちは一滴の水を 求めて堅い木で歯をすり減らしておりました。あなたはパーカーじいさんがよ く作っていたバター・ロールほどふっくらしておられた。あのじいさんはイギ リスから大型帆船で運んできたスレートで屋根を葺いたマナの牛乳加工所でそ いつをよく作っていたもんですよ。あなたは食べ物を与えられていたんです。 船の仲間たちは食べ物がなくて死んだが,ピンク色をした赤ん坊のアリイには 太るほど一杯食べ物を与えて,最後まで心穏やかでいるようにしていた。甲板 で死んだ男どものような並の服はあなたは着ていなかった。そんな連中が転が っていることさえもできない片隅では,二人の女性が死んでいた。死んでそれ ほど時聞が経っておらず,まだ身体が柔らかかった。彼女らの服の布地は甲板 の男どものよりはるかに立派なものだったが,あなたのはその倍ほども立派な ものだった。」 「その二人のうちのどちらかが私の母の可能性はあったでしょうか?Jチェ リーは暗にもちかけた。 ホヌはきっぱりと頭を振った。 -232 ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)そのl(中JlI)
「別の女性にそのような徴候がありました。その女性は船室の高くなった場 所の床の上で,あなたの横に倒れていました。敷物という敷物が,それに最上 の敷物が,彼女の横たわっていた場所にありました。敷物の上には扇子があり ましたが,服装から判断して,死んだこ人のものにしては立派すぎるものでし た。手に取ってみた着物にも同じような特徴が見られました。それに,宝石の ついたとてもすばらしい腕輪がありまして,それを私がちょうど拾い上げたと ころで・・…・」 「あなたはそれを持ち出せなかったんですよね。」チェリーはとがめた。 ホヌは肩をすくめた。 「何をお望みでしょう?船はムクポーを一気に進んでいました。私が腕輪を 拾い上げた瞬間,漁師仲間が舷但JIから私に出てくるよう大戸で叫びました。と いうのは,船が岩礁の聞に入り込んでしまったからです。ちょうどそれと同時 に,歳取った二本万の男が目を覚ましたのです。二本万の男が目を覚ましたも んで,私は腕輪を落としてしまいました。」 「私はそれまでに大変多くの死人を見てきていましたが,この男のことは過 去のこととして留めておくことはできません。彼は後ろの二本の仕切り柱の聞 に身体を入れるようにして,あぐらをかいて座っておりました。ちょうど日本 の苦力が農園に働きにやってきて自分たちの寺を建てた時から,ずっと見てき た仏のような座り方だった。彼は歳老いて,まるで何も食べたことがないかの ように衰弱しておりました。最初見た時には,頭が胸に乗っかつて,船の揺れ にあわせてゆらゆら揺れておりました。彼も死んでいるようでした。でも目を 覚ましたのです。彼の目は狂った男のようで,夢を見ていたかのような恐ろし い顔をして,腰の万をまさぐって私に斬りかかりました。そして,衰弱しきっ た中で,あなたの目を覚まさせるように,あなたに寄りかかって倒れ込んだあ と,その脇へ転がりました。それで私があなたの小さな黒い瞳を見て,笑みが こぼれるほどになりました。というのは,その瞳は幸せそうに私を見つめ,ま るまるとしたピンクの顔はにっこりしてIi"お早う,初めまして,お元気?Jl って言ってるようでした。まさにそんな風だったんです!そしてあなたは笑い を誘うような声を出されました。ちょうど赤ん坊が十分に眠って,小さなお腹 が空いているでもなく,痛むのでもなしただ目を覚ました時に出すような声 でした。」 「この話をしますと長い時聞がかかりますが,すべては瞬く聞のことで,始 めから終わりまで数分の聞に起こったのです。そして私はあなたを見ていて思 龍谷大学論集 233一
いました。この子は露のように清らかだと。ピンク色をした露のような幼子, 炎の露が滴っているような幼子だと思いました。そしてその瞬間に,マナの果 樹園に咲く新しい花だと思いました。」 「歳老いた二本万の男は私のことは考えなくなっていました。すでに彼の心 には死の陰が宿っていて,私を見つめていた気の狂ったような目は,私をもう 見なくなっていました。彼はあなたの母君の寝床になっていた敷物から転がる ように這い出し,布に包んだ二本の万を取り出しました。そしてその万に向か つて,私には分からない日本語で何かを睦きました。彼はその万に深い思いを 持っていました。というのは,万にお辞儀をして,その刃の平らな面に額をつ けたのです。」 「次に,彼は座る時に袖を身体の下に挟み込みましたーその袖は日本女性の 着物のように長かったのです一。そして短い方の万の刃先を腹に突き刺しまし た。すると何と,刺した刃で腹を中ほどまでかき切り,その途中で彼は息絶え ました。身体の下に挟んだ、袖が,腰を曲げさせ,額と顔を床に着けさせるよう にして,早く死ねるようにしていたのです。彼は偉大な人でした。彼が死んで いくのを見た時,私はそのことを知ったのです。というのは,私も年寄りなの で,アリイの名誉が家臣一人ひとりの名誉であった時代の昔のハワイのしきた りを知っておりまして……」 「二本万の人は私の父だってことはなかったのでしょうか?Jチェリーは, サムライには二本の万が深い意味を持つことを読んで知っていたので,思い切 って言った。 「いいえ。二本万の男はあなたの家来でした。あの男の家来だった身分のな い男たちにとっては,アリイだったでしょうが,あなたにとっては家来でした。 あなたはあの男にとってはアリイ・ヌイ(非常に高貴な主人)とか,アリイ・ カプ(神聖なまでに高貴な主人)だったのです。というのは,いいですか!甲 板で死んでいた男たちの安っぽい綿の着物には紋が見えました。たっぷり半ヤ ードほどある,途中で切れた円のような形でした。みなが付砂ていた紋は全部 同じものでした。」 「それはこれまであなたが話したことのない新しいことだわ。」チェリーは 大きな声で言った。 「覚えてはいましたが,これまで話さなかったと思います。」ホヌは少し謝 った。「私が間違っておりました。でもそれは意味のある紋でした。ちょうど 牛に焼き印を押して,パーカーの牛をアナハウの牛と見分けたり,パーカーと -234ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J (試訳)その1(中JI[)
アナハウの牛をプーワーワーの牛と見分けたりできるのと同じようなものです。 それには意味があって,汽船の船長の帽子についてる金色の紋で,どの船の船 長なのかを表しているようなものです。それは家紋で,その国の身分の高い一 族の印でした。」 「そしてあの男たちには綿の着物に紋がついたように,歳老いた二本万の男 のしっかりとした着物にも紋がありました。だが,この紋には私に分かる以上 のことがあるのでしょうが,私が言葉で表現するのはむずかしいと思います。 私には感じたことがありました。いいですか,考えたことではなく,感じたこ とです。私の感じたことは,もちろんよく考え納得の上で分ったということで はないのですが,私の感じたことは,歳老いた二本万の男があなたの家来だと いうことでした。彼は身分のない男たちの上に立つ,高貴な人物ではありまし たが,無力なピンクの赤ん坊のあなたにとっては,一人の家来だったのです。」 「私の感じでは,あなたは高貴なアリイ,神聖なアリイで,二本万を持って 死んでいったアリイは,死ぬまであなたの家来であるべき人だったのです。彼 はあなたの家来として死んでいった。彼は,あなたが生まれてくる前からあな たの家の家来で,一生涯あなたの家来として生きてきたにちがいありません。」 「アウウェ!Jチェリーはため息をついた。 「アウウェ
!
J
グリーン・タートルもため息をつき,考えに集中するために 忘れていたたばこを見つめた。彼は元気よくまた話を始めた。 「だ砂ど私の漁師仲間は舷側から呼んでおりました。海底に沈みかけたサン パンは,初めてムクポーの歯に食いつかれました。サンパンは壊れて,大きく 揺れ,傾いて沈み込み,噛み刺した歯に引っかかったのです。すると海水が半 分ほど船室に流れ込んで,船室のあらゆるものが動き出し,二人の死んだ女性 も,二本万の男も,高価な着物も腕輪も,それに編みかごにいたあなたも,み んな勢いよく上下して,私の身体にかぶさってきて,もうお仕舞いとばかりに 私を引きずり落とすかのようでした。」 「私も頑丈でしたが,5
0
歳近くになってました。それでムクポーの歯の餌食 になることなんて気に掛砂ていませんでした。その瞬間,いやしくも命をかけ て手を伸ばしたら,手にできるものは三つありました。高価な着物と腕輪とあ なたです。どれをお望みになるでしょう?あなたは生きておられ,マナの果樹 園に咲く花を思い出させるようなお姿でした。それであなたに手を差し伸べた のです。私は間違っていたでしょうか?高価な着物は虫に食われますし,湿度 の高い気候では湿気にやられてしまいます。腕輪なら質に入れて,月1
0
パーセ 龍谷大学論集 -235一ントでお金は借りられます。私は正しかったのです。あなたは宝石であり宝物 だったのです。私があなたをしっかり捕まえ,死人の足かせを振りほどき,空 気の吸える揺れ動く甲板に上がり,まだ忠実に待ってくれていたカヌーに飛び 移った時には,あなたはもうかごの中ではありませんでした。」 「カヌーはムクポ」の二つの歯のちょうど聞にいました。ウイリィ・キピニ は,船首を外に向けてその辺をうまく操っておりましたが,二本の牙が私ども の周囲のあちこちに突き上がってきていました。海に立つ白波は,私どもを飲 み込もうとして牙から出るよだれのようでした。だが私どもは背中も折れんば かりに擢を漕いで,沖に出た。そして,ニイホノの浜では,待っていたホキが 宝物を要求したんです。それで,冗談に荒っぽいハワイ流儀で,私はあなたを 彼の腕に抱えさそうとしました。」 「だが彼は後ずさりしましたので,私があなたを最初に抱かせたのはカナカ オレの腕でした。そして,あなたを次に抱いたのがモーティマーお母さんの腕 だったのです。あの方はそれまで赤ん坊のことは何もご存知でなかった。そし て今日まで,あの方の腕がずっとあなたに添えられてきたのです。私はよく覚 えていますが,それは
2
1
年前のことです。というのは,たまたまその年に,ス クナー船のハナ号がモロカイの海で転覆して,私の親父が溺死しました。その 時あなたは1
歳か,おそらくその前後だったでしょう。」 しばらくして,チェリーは黙って合図して,ホヌがにたばこのことを忘れて いるのを知らせてやった。ホヌは礼を言って,もう一度たばこに火をつけた。 「それは北太平洋偏流だったんだわ。」彼女は思いにふけりながら言った。 「私はそのことを船長さんたちと話したことがあります。サンパンは,日本沖 で風に流されると,簡単に漂流してしまう。漂流してしまって,生存者を乗せ たままハワイに漂着した話を以前聞いたことがあるわ。」 外のベランダで静かに進むサンタやルの歩みが,ホヌに回想、を続ける妨げにな ってしまった。彼は小首を傾げて,一人の日本人が,裸足で帽子も着ずに,洗 い立ての木綿の着物姿で,あたりを点検しながら,かごにつるしたシダと蘭の 方に歩いていく姿を見ていた。ゆっくりとしたサンダルの足が歩みを止めたと ころで,ホヌは話し出した。 「いつから,J彼は尋ねた。「モーティマーお父さんは庭師を日曜日に働かせ るようになったのですかじ 「あの人は新入りなの。」チェリーは説明した。「第4
庭の庭師なの。ほんの7
ヶ月前にアナハウにやって来たばかり。自分の仕事が気に入っているような 236ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)その1(中}l1)の。」 「彼はきっと,J とホヌはありのままの意見を述べた。「今日気づいたんです が,あなたのラナイにある蘭やシグがアナハウでは一番見事です。彼は苦力な のではありません,あの使用人は。私は彼の顔を見ておりました。」 「こちらの島へは苦力のパスポートで来ています。」チェリーは首を振った。 「彼はコハラ農園のサトウキビ畑で3年間働いていました。仕事はよくするの ですが,気性の激しい人です。最初働きにやってきた時,モーティマー父さん が彼の話をしたのを覚えていますわ。」 「彼の顔は苦力の顔ではありません。」ホヌは意見を述べた。「彼の目には力 があります。顔も目も二本万の男のようです。」 「そんな風に思うの?Jチェりーは興味をそそられて尋ねた。「どういうわ けか,ほかの庭師とは違う感じはしたわ。」 「彼は相撲取りかも知れないが,ただそんな風に大きくもないし,太っても いない。それに髪も長くない。」ホヌが言い足した。 「あの人は自分の国の音楽にも通じてるのよ。」チェリーは教えてやった。 「あの人横笛を自分で作って吹いているのよ。夜,彼の部屋のところを馬で 通ったら,笛を吹いているのを聞いたわ。それでユー・チンに調べるように言 うと,新しい庭師だって報告してきたの。あの人の吹く音楽は大変もの悲しい ものだわ。でも時々戦争みたいに狂わんばかりになるの。ちょうど『アカギツ ネ』のようだわ。」彼女は立ち上がって,ピアノのところへ行った。「これが 『アカギツネ』よ。昔のアイルランド人の古い戦いの行進曲なの。死んだ男に しか聞こえないんだけど,その人はよみがえって戦うことはできなかったの。 この曲はそれほど戦いに追い立てるのよ。では,聞いてね,ホヌ……」彼女の 手がキーから,戦いのとどろきのような音をたたき出した。「あなたは何をし ようとしたって,冷静でいてね。生きてきた日々を思い起こして,昔の憎しみ や不当な扱いも忘れるのよ。聞いて。亡くなった人たちはよみがえって,この 曲に合わせて戦いたいと思うでしょうよ……」 アナハウの広々とした家は,モーティマ一家が代々三世代積み重ねてきた建 物で,この日の長い日曜日には誰もいなかったが,チェリーが夕食のための着 替えをすませた頃には生気に溢れかえっていた。彼女はくすんだベルベットの ドレスを着て,金色の上靴を履いていた。手には金色の扇子を持ち,首にはし なやかな金色の蛇が巻かれていて,その頭の部分には黄色いサファイアがほど 龍谷大学論集 237
こされてあった。 モーティマーお母さんの住まいの方と客室の方からは,若い娘や女性たちの 声と,召使いたちが動き回る音がチェリーのところに聞こえてきた。彼女は通 り過ぎる際に,ビリヤード室をのぞき込んで,プレーをしている二人の若い男 性に手を振って,挨拶をし軽い冗談を言って笑い声を上げた。東側のベラン夕、 に腰を落ち着けて,スコッチのハイボールを飲みながら,たばこと会話を楽し んでいる中年と年輩の男性たちのところも,彼女は同じようにして通り過ぎて いった。テニスコートからは二組の年輩な男女の声が聞こえてきた。庭にでて, 自分の馬を念入りに最終点検するために,亜熱帯の柔らかな夕焼けの中を厩に 向かう途中,車庫を通り過ぎたが,そこはお抱え運転手たちで活気づいていたo 彼らは日本人,中国人,フィリピン人,朝鮮人といった極東のあらゆる種族の 人たちだった。厩ではアナハウのハワイ人馬丁たちが,少し前に連れた来られ た数匹の乗り物用のめずらしい動物の世話を忙しくしていた。スー夕、ングラス を深々と敷き詰めた大きな四角い厩にいる自分の馬の状態に満足して,チェリ ーがちょうど戸口から出てきた時,顔を輝かせ,目をキラキラさせた二十三四 歳の金髪の若者に呼び止められた。明らかにその男は彼女に会いたくて,待ち 伏せをして後をつけてきたのだった。彼は帽子を脱いで rああ,チェリー」 と言った。 「まあ,ケニス・アーガイルじゃないの!J気さくな西洋流儀で手を差し出 しながら,彼女はとがめるように言った。「こんなところで何をなさっている
の?
J 「ああ,チェリー。どうしようもなかったんだ。」彼は熱心に訴えた。「仕方 がなかったんだ。来なりればならなかったんだよ。あなたに会つてないんだも の,考えてみて,四日間もだよ。」 「でも,自分の務めから逃げてきてらっしゃるじゃない,あなた。」彼女が そうたしなめ続けた時,彼は軽やかなステップで彼女の横について小道を歩き 出した。その小道は庭を通って家に通じていた。 ケニス・アーガイルは端ぎながら,自分のうんざりした気持ちを告げようと 努めたが,取り乱して息を詰まらせた。 「若い人たちはみんなあなたのお家でパーティでしょ」彼女は続けた。「そ れであなたはみんなを放っておいて あなたは,もちろん,お父さんの跡を継 いだアリイカラニの若いご主人ですよ。」 「みんなマリヒニ(新参者)ですよ」彼は鼻を鳴らした。 -238 ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)そのl(中}lJ)「カマアイナ(現地の人)のあなただからこそ,何か新しく面白い方法で気 楽にみんなの行くところを案内してやる理由がいっそうあるでしょう。」 「でもみんなまだ子供ですよ!J彼は反発した。「赤ん坊たちですよ!ウェル ズリーから来た幼い少女たちですよ!妹たちはいつも夏休みになると幼稚園の 一個団体を一緒に連れて帰ってくるでしょうよ !J 「ノ、リソンさんがいるわよ」チェリーは挑発的ににっこりと笑った。「彼女 に会ったことがありますわ。あなたのお母様が,彼女のお父様のことを,熟練 の会計士のするように細かなことまで気を使って紹介してくださったわ。 あ の人のお父様は,アセチレンだったと思うけれど,ガスだったかしら,いや多 分油田だったわね,
6
,0
0
0
万ドルの価値のニューへプン・ハリソン社をやって られるのでしょ。」 「彼女は馬鹿ですよ!Jケニスはにべなく確信を持って公言した。 「あら,ケニスったら!女性への礼儀はどうなすったの?彼女は,乙女よ, 女性よ,若い女性よ。」 「彼女は馬鹿です!J彼はさらに語気を強めて繰り返した。 「あなたは……あなたは彼女が怖いの?J彼女は尋ねた。「あなたは……あ なたはあの人と二人きりになるのがこわいの?それにあの人の……あの人の目 が怖いの?J 「彼女は馬鹿です!J彼は繰り返した。「彼女はですねえ……わかんないけ ど,リリスみたいな,そのう……男を食いものにする女です。家の人たちは考 える必要なんかないのに,彼女をハワイに送って結婚なんかを……」 「アーガイノレとかいう人とでしょ」彼女は言葉の後を補ってやった。 「まあ,アーガイルとかいう人と結婚しようとするなら,そうすればいいさ。 私たちアーガイル家は6
,0
0
0
万ドルはないかも知れないが,少なくとも審美眼 と健康はある。だから私は,あなたが言うように,アリイカラニにはおらずに, 今晩はこのアナハウにいるんですよ。私は馬をとばして来ずにはおれなかった。 家においでだとは分かつていました。でも電話を入れた時,あなたは馬で出か けてると召使いが申しました。」 ベゴニアの花を通り抜けたところで,彼は突然立ち止まって,彼女の腕をと らえ情熱的な声で,彼女を引き留めた。 「ああ,チェリー!J彼は息をついだ。「いいだろう?いいだろう?いいっ て言ってよ。」 「馬鹿な人ね!J彼女は答えた。「あなたが分かつてることを何度言わねば 龍谷大学論集 -239一ならないの?不可能だわ。」 「でも,ああ,チェリー,恋しくってーあなたのことが恋しくって。あなた は僕のものなんだ,さもないと僕は死んでしまう。男が恋に命をかけることが できるって,今になって分かつたんだ。僕はあなたのためにだったら死ぬこと だってできる。僕はそれほどあなたを愛してるんだ……」 彼の情熱的な言葉を聞いている間,彼女の顔は優しさで和らいでいた。だが, 自分の腕にすがらせて気持ちをはき出させながら,彼女は彼の背後を見つめて いたが,自分の見ているものを,毅然として彼にも見せたかった。彼女が見て いたのは,第4庭の庭師がベゴニアの花を隔ててゆっくりと歩いていく姿だっ た。庭師は彼女と目を合わせなかったが,その目はケニスの無礼に対する怒り で満ちあふれでいた。庭師がゆっくりと通り過ぎていく間,じっと見つめ続け ていたことが彼女には分かつていた。庭師がいなくなってしまった時も,彼女 は,まだ彼が身を隠したまま,そこにいて見続けているような感覚にとらわれ ていた。 「あなたのお母さんは,あなたがハリソンさんと結婚すればとても喜ばれる でしょう」彼女は,話が初めてとぎれると,ぶっきらぽうに言った。 ケニスは渋々うなずいた。 「そして私との結婚など,喜ばれないでしょうより 「チェリー!J彼は抗議した。 「あなたのお母さんは,あなたを私と結婚させて喜ばれるでしょうかじ彼 女は残酷に言い張った。 「私の母が私のことや私の恋に関係がないのは,生まれてくる前,私が母の 恋に関係なかったのと同じことですよ!J彼は大声で言った。 「でも,お母さんには関係あるわ,ケニス。それにお父さんもね。もしあな たが私と結婚すれば,お二人はあなたに財産の相続はされないでしょう。お分 かりでしょう。」 彼は話をやめさせようと,彼女の腕をぐいっと掴んだが,彼女は動揺するこ となく最後まで言葉を続けた。 「お分かりでしょう。ハリソンさんはアメリカ人です。古き良きアメリカの ニューイングランドの家系よ。そして私は日本人。」 「あなたは日本人などではない。」彼は叫んだ。「私たちの信念が私たちを作 るのですH ・H・私たちの美しい精神が作るのです。あなたはアメリカ人でもない。 イギリス人でもない。あなたは世界人です。全世界に普遍の人です。あなたは -240ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)そのl(中}l1)
時や場所や民族から生まれたのではありません。あなたは不滅の美であり,永 遠の女性であり,そして一」 「し つ」彼女は穏やかに諭した。「私は時と場所と運命の奴隷です。ホヌ がよく言うのですが,私は車輪につながれていて,そしてその車輪はいつもの その定まった道筋を転がっていかなければならないの。私は私なんです。あな たのすばらしいお母さんはあらゆる点で愛してくださってますが,ただ一つ, あの方の義理の娘になるという点だけは別なのです。あなたはそのことはお分 かりですわ。あの方もお分かりですし,私も分かっています。それは不可能と いう言葉で見事に表現されています。」 若いアーガイ1レが彼女の腕をしっかり握って,話をやめさせようとしたが無 駄だった。 「私は私なの,ケニス。私はチェリーで,日本人だわ。私は難破船の迷い子 なの。私の父も母も分からないわ。私はカナカオレの胸で育てられたのよ。モ ーティマーお父さんとお母さんの養子になったのよ。私はチェリーで,日本人 ですのよ。」 彼女がず、っと以前に世俗の意見に学んだ厳しい教訓を,彼の胸深くに刻み込 んでいた時,彼女は,ベゴニアが咲く夕暮れ時の薄明かりを通して,あの庭師 が着ていたくすんだ色の苦力の着物がぼんやりと動くのを半信半疑で見ていた。 「そんなこと言ってはだめです。」若いアーガイルは声を出して咽び泣かん ばかりだ、った。「あなたは宝玉,宝石なのです。そして黄金の女性なのです。 あなたは一」 「詩人よ!見よ,詩人を!J彼女は笑い,からかつて彼を軽い気分にしよう とした。 今なお彼女の前腕を掴んで,彼女にアザや傷や動揺を与えていた手で,彼女 を突き放すようにしながら,彼は自由な方の手を前に突きだした。伸びた腕は, 話をする際,感情が高ぶるあまりに震えていた。 「私が詩人なのですよ,チェリー。あなたが私を詩人にしたのです。私の手 がその証明です。ご覧下さい。私の手が,かわいい黄金の上靴を履いた,握り しめたくなる,あなたの宝石のような足の形に窪んでいるのが分かるでしょう。 私は,あなたの黄金の足と握りしめた私の手についてソネットを書きました。 それで,もし明日ナヒキまで私と一緒に馬で出かけてくださって,シダの合間 の落ちくる滝のもやの中で,それを読むのを聞いてもらえれば光栄です……」 「それで,もし明日あなたと一緒に出かけるとしても,訳は今聞いてくださ 龍谷大学論集 -241
るでしょう?J彼女は半ば懇願し,半ば要求するように言った。 「ああ,もしそうしてくださるのなら」彼は息をついた。 「そうしますわ。でも今,ちょっと話は聞いてくださいね。アナハウにはあ なた以外に他の男性方がいらっしゃいます。今はカクテルの時間です。家には 喉の渇いた男性たち……それに女性たちも。私の役割ですが……」 彼は体を震わせ,たじろぐような様子で,彼女の腕を放したが,過ぎゆく太 陽の光が一日の仕事を終えて消えゆくように,彼から生気が消えていった。 「でもあなたの横に座りますよ!J期待を込めて彼は宣言した。 「私の正面に,できるだげ私が決める正面に近いところに座って下さい」彼 女は笑った。 「今夜,ミジュリ・マックスウェlレが来てるんだ!J彼は怒りで顔を赤らめ た。「彼にはあなたの横へは座らせないぞ
!
J
「そんな風な配置にはなってないわ,威勢のいいケニスったら」彼女は言い 返した。 「あなたに彼とはいちゃいちゃさせないぞ!J彼の顔はますます赤らんだ。 「私は一私は一」 「じゃあ私,必ず彼といちゃついてみるわ」彼女は告げた。「彼はそれほど 悪い人でもないし,間違いなく馬鹿なんかではないわ。」 「それが困る点なんだ」ケニスは不平を言った。「彼は頭がいい,非常に邪な 頭の良さなんだ。チェリー,私は何も言わない。でも注意しとくよ。あいつは H・H ・あいつは……そうだな,あなたがあいつにニコッとでもしたら,あるいは あなたがあいつに話をしたり,あいつが話しかけて優しく耳を傾けたりすると 私は傷ついてしまいますよ。あいつの口からこぼれる言葉に感じるのは,蛇や 這い回る虫とかなんだから。」 「行きましょう」チェリーは彼の話を遮った。「カクテルが待ってるわ。そ れにあなたはもう何杯も飲んでしまったような振る舞いだわ。」 「それはあなたのせいですよ,チェリー」従順に従いながら彼は言った。 「あなたが一番ひどく酔わせるお酒ですよ。しかも私はいつもあなたを飲みた くて,喉が渇いてるんです……」 「ソネットよね!J彼女は笑った。「もっとソネットができるわ!それでは いいですね,明日お電話下さい。それでもし何もなければ, 10時にナヒキに馬 で参りましょう。そして,不膿なことにならないよう,あなたの妹方とウェズ リーの幼稚園の一団方を,アナハウのお昼へお誘いするわ……」 -242ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の限J(試訳)そのl(中}l1)チェリーの背は高くはなかったが,広いラナイを移動して,でたらめに散らば った宴客たちに挨拶して廻っている時,小柄な印象は与えなかった。アリス・ プライスやウイールライト夫人やランズダウン夫人といった年輩の女性たちに は,実の子のような情愛のある態度でこたえていた。若い男性たちには,握手 と軽い冗談で挨拶を交わし,年輩の男性たちには,彼らの古風な礼儀正しい敬 意に釣り合う,まじめで若々しい尊敬の念を込めた挨拶をしていた。ほんの一 言,簡潔な言葉,そして,少し笑いを誘うが決して軽くはない敬意ある言葉, これが,ロパート・ウィールライトやトンプソン・プライスが彼女の手に与え る上品なキスに対する彼女の受け方であった。そして,少女たちゃ,幼い頃か らの旧友のみんなに対しては,彼女自身少女になっていた。 二人の中国人メイドがカクテルを配っていて,もう二人の中国人メイドがキ ャビアのオードフツレを持って後についていた。四人とも白い網のズボンとヴェ ー・ションのブラウスに身を包み,ゆったりと編んだ濃い藍色の髪は,服装の まっすぐな線と同じように背中にまっすぐに垂れていた。戸口から,開け放た れた食堂に向かつて,年輩の中国人召使い頭が実に円滑にアナハウの評判料理 の指示を出していた。 ついに食事が出された。長いテープルの両端には,モーティマーお父さんと お母さんが席に着いたが,これまで三世代にわたって非常に風変わりで注目す べき人々が席に着いてきていて,これが食卓における家父長制の礼儀作法であ った。館の梁は手で切り出されたもので,その梁は,若い頃に自分たちが使っ た石の手斧や斧のことを覚えている原住民の労働者が,大昔のコアの森から切 り出したものだった。そんな匡根の下で,ハワイの花が飾られ,ハワイへの旅 人たちはみな,パンを割いてハワイの持て成しを経験してきたのである。モー ティマーお父さんとお母さんは三代田の消えゆく世代で,ふたりの唯一の問題 で心配事は,浜で難破して養子にしたチェリーのことであった。 チェリーは,長いテーブルの片側の中央にいて,真向かいにケニス・アーガ イルと顔をつきあわせていた。彼女の両側にはロパート・ウイールライトの客 人たちがいた。その一人は,ハーバードの地震学客員研究員のブライアント教 授で,彼はキラウエアの火山活動を研究していた。もう一人は,植物学を専門 にしているハワイ大学のジョーンズ教授で,趣味でハイビスカスの栽培にも熱 を入れていた。 キラウエアの次の噴火に関するブライアント教授の理論に対して,チェリー は敬意と理解を示しながら耳を傾けた。また,そのむこうにいたアリス・プラ 龍谷大学論集 243
イスが,ウェJレズリーの小娘たちによってアリイカラニに持ち込まれた最新の ダンスに手厳しい批判を加えた時も,チェリーはその夫人の言葉に同じように 耳を傾けた。もう一方の側のジョーンズ教授とは,ハイビスカスの生育に関連 してメンデルの法則を話題にした。ロパート・ウイー1レライトも熱心にハイビ スカスを栽培していたが,彼に対してチェリーは,花びらの端が瑚瑚色をして いて,一重か二重かで真っ白に咲く花の夢を持ち出していた。 ミジュリ・マックスウェルが,テーブルの中程のむこうから彼女の目を捉え, ウイスキーソーダーを持ち上げて静かに彼女に乾杯をした時,彼女は領いて感 謝のほほえみを返したが,その目の隅で,ケニス・アーガイルが嫉妬の怒りに 狂い,若々しい顔から血の気が引き,苛立つて青くなっているのを彼女は見逃 さなかった。ロシアがレンバルクに初めて進軍した際に負傷して,アメリカで 健康の回復をはかりながら,ロシア皇帝の騎兵隊の馬を買い入れていたクース ミン大尉に対して,彼女は,流暢な彼のフランス語にそれ以上のフランス語で 応え,彼に抗しがたい喜びを与えた。 食後には,日曜日の夜にもかかわらず,またモーティマ一家が,初代のサイ モン・モーティマーと結婚したプリシラ・ピーボディにまで遡る伝道者の家系 であるにもかかわらず,年輩者たちには
1
点1
セントのブリッジが用意された し,若者たちは,アナハウの6人のボーイの歌と演奏に合わせて,広いベラン ダでダンスを楽しんだ。 チェリーは,客一番の若者に劣らず若々しく,誰に劣らず楽しんでもいた。 また,最年長の人と同じほど大人ぽくもあった。彼女は第2
5
分団のキテル中尉 とふざけ合い,ミジュリ・マックスウェルとダンスをしたが,その間ケニス・ アーガイルの嫉妬ぶりを思慮深く見ていた。そして時聞を見つ砂ては,ジョー ンズ教授に最近自分が育てたハイビスカスを見せたり rハワイ島のファース トレディ」で,それに相応しい好奇心をそそる大邸宅に住んでいるランズダウ ン夫人を取り囲んだりした。 ランズダウン夫人は高貴なアリイーすなわち高貴な首長なのだがーの子孫で, スコットランド人とアイルランド人の血が四分の三,ハワイ人の血が四分のー 混じっていた。女王のように堂々とした6
0
歳の女性で,沢山の孫がいて,教養 ある大学出の息子たちゃ娘たちの一族の母であった。チェリーはランズダウン 夫人のことをよく理解していたが,それは,どのような人種であろうと,ハワ イに住んでいる他の人々のことをよく理解しているのと同じことであった。お そらくこれは彼女自身が異邦人であったことによるのだろうが,その理由がど -244ー ジャック・ロンドンの遺作「東洋の眼J(試訳)その1(中}l1)のようであったにしろ,彼女は物事をよく考え,ハワイ人が他のすべての人た ちとは違う無数の微妙な違いを,ハワイ人以上に意識していたのである。 人種の違いという問題に対して,チェリーは,自分の中には
3
0
世紀におよぶ 文明と文化の産物が潜んでいるという,繊細かつ微妙な考えを抱いていた。彼 女は,自分が接触している人種のほとんどは千年前に遡ると野蛮人たちである のに対して,自分の人種は芸術や科学,洗練した親交や礼節を発展させてきた という考えを持っていたが,彼女はいつもそのような考えをおし隠していた。 花のような少女であったにしろ,2
2
歳の花も盛りの女性であったにしろ,彼 女の心には強く息づいた若さへの止めどない衝動があり,チェリーは自分自身 の大昔の知識にはしばしば唖然とするのだった。若くはあった砂れど,自分の 知識があまりに多いことに危険と寂しさをずいぶん以前に感じたことがあった。 彼女の最初の父親代理だったホヌに対しても,最近の恋人だったケニス・アー ガイルに対しても,剣を操るアメリカ陸軍士官学校生だったキテル中尉に対し でも,邪な知恵にたけた危険で罰当たり者だが教養の権化であるミジュリ・マ ックスウェルに対しても,彼女は彼らの言葉や知識の観点に立って話をし,身 を輝かせ,割り込み,そして受付流すことができた。 幼児期の旅の災難がなくとも,奇妙なサンパンがなくとも,難破もせず見知 らぬ浜で助けられることなどなくとも,チェリーは非凡な才能に恵まれていた ことだろう。だが実際のところ彼女は,チェリーという愛称のプリシラ・モー ティマーであり,ジョンとサラ・モーティマー夫妻の養女であり,生粋の日本 人ではあるが,教育と文化は現代のハワイ英語とハワイ系アメリカ人に属する ものであった。 「お願いです。」ダンスが二度アンコールされた後,ロノTート・ウイー1レラ イトがラナイを後にして散歩をしようと申し出た時,彼女は懇願した。「ベゴ ニアの小道は私たちが行くところではありませんわ。若いカップルが三組,す でにそこへ消えていきましたわ。」 「恋人同士には相応しい小道なのです」ウイールライトは意味ありげにほほ えんだ。 「あなたと私がそこから幸せな思いで戻って来ることは,いつだって決して ありませんわ。」彼女は警告した。「どうか,どうかお顧いです。ロパート -・・」 「行きましょう」彼はつづく言葉を封じ込めて,彼女の手を強く掴んで導き 飽谷大学論集 -245一だした。 チェリーは負けて,上品で落ち着いたその男性と広い階段を下りていった。 彼は非の打ち所のない