――目次―― 1,奈良朝の写経と仏教の社会的影響,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.1-26. 2,仏教史上より見たる日鮮の関係,手島文倉,Humikura TEJIMA,pp.27-63. 3,仏陀と悪魔,渡辺楳雄,Baiyu WATANABE,pp.64-91. 4,平安朝以前の密教と民間信仰,宮城信雅,Shinga MIYAGI,pp.92-111. 5,学会彙報,pp.112-127. 6,常盤博士著『支那仏蹟踏査古賢の跡へ』に対する諸氏の所感と批評,村上専精/池田澄達/長井真琴/
前田慧雲/宇井伯寿/島地大等/高桑駒吉/高楠順次郎,Sensei MURAKAMI/Chōtatsu IKEDA/Makoto
NAGAI/Eun MAEDA/Hakuzyu UI/Taitō SIMAJI/Komakichi TAKAKUWA/Zyunjirō TAKAKUSU,pp.128-142.
7,新刊紹介,pp.142-148.
啓影的合計の敦彿と窪寒色l初良奈
敬 武
津 田
四 彿典苦寓の動機目的及び方法
凡首の敵曾的運動はそれ′1特殊の動機と目的を持って居るが、共助磯し′昌的は、慣令其敢 骨の文化を向上せしむるに適はしいものであつても、英子段方法に於て渦ちがあれば、其結果 は却て異文化を害し、或は退歩せしむることがあるであらう。 さて怖典守護詣し、或は研究することを離れて、川叫に経典を寄寓せんとする采数的行為に於 て、如何なる動横と、目的と、方法がぁつたであらうか。吾人はこゝに彿典書罵の動機と目的 に注意をh仏しつゝ寄寓の裾秀其ものに封する彿者の信念を研究せんとするのである。奈良朝の寓経と儒教の敢行的影響
∴「= j −戟五十節 年四夢 死軒数崇
葛経の種類を昇って勅寛経、頗経及び智識経の三穐に区別することが出家る。肋駕経といふ
のは、勅命によつて書寓し克もの、願経といふは臨文を附託したもの、智誠経といふは数人若
しくは多数の人々の資財を集めて富男したものである。為経の動横、目的等について強も切か
に言ひ現はして居るものは、経巻に奥暮されて居る願文であるが、正倉院文書中にも亦此黙を
明かにすべき記録がある。
天平十七年十二月附葛樫所の解文には、大宮御願の大股若粒一部六百巷の馬路費用云々と
ある。天平十八年十二月十一日附の克疏所の解文には、市原宮御願法華経及び裏師経書布に要
する材料支給に開して記載する所があるり天平勝貿四年の経紙出納帳に﹁右奔馬 大豊太后御騎
十部花厳鮭料﹂、天平紳護元年正月十三日の造東大寺司の移文に﹁以前、倍大臣大碓︵道鏡︶宣、自 去八月十六日、迄十一月廿一日、令泰果 樹福大般若経﹂云々 ︵大日本古文書五朱、五一三︶天 平十八年二月八日の経琉料紙受納帳に﹁御殿奉寛仁王経﹂︵大日本H文吉九巷、六二︶、天平十 九年十二月二日の冨樫疏同紙充装潰帳に今帝御隔離紀﹂︵六[∼本古文書第九巷五二四︶、天平勝 賢二年十月二十二日の文書に﹁陀羅尼基経之節十一怨紫倣中基御願一切粒ノ内﹂とある。︵大日 本古文書節十一巻四一九︶。又﹁今帝御願准経、﹁今帝御願法華経﹂、﹁中宮御願十野花腿紅﹂﹁御 ー ゴ ー響影的合祀の放伐と経需の朝良奈
願千部金剛般若経﹂、﹁御殿金剛般若経﹂等や串我がある。此外、天草賛字八年には、先帝の御
名めに三部経を富豪し、天平十七餐及び同十八年には、般若経及び埋趣経を書焉し、又天皇及
皇后の和栗めに多心経を写し奉り、天平十人年には、良拙僧正の褒めに花巌経八十巻を菩焉
し、天平跡撃二年及び四年には、書光尼忌日の薦めに、或は又政信肪尼の褒めに法聾経を寄寓
して屠ることが、同じく正倉院文書によつて知ることが出来る。其他、﹁良弁大穂所願之経﹂、
或は﹁河内先生併願経﹂などの記載もある。
斯の如く克経事業は凱二項に述べたやうに、国家が英国家的事克として雄んに書蔦せしめた
のみではなく、天宅皇后が私人としての御願の薦めに、叉親王、高将其他の人々が自己の願の
食めに、或は天皇、皇后 基他食族親の供養の革めに私に書寒されたものも、少からすあつた
事が知られる。而して其方放としては、資財を投じて他人に書籍せしむるのみならす、白から
書呆のことに後事したのである。射ち正倉院文書中に﹁新王御嵩、親王榊書、太上天皇御究、
内親王御究、或は事宮御芋、或は又伶正︵玄妨︶奉葛減勒経等の記戟もJのるが故に白から経を書寓することを以て最大なる功徳と考へられたのであらうし
巳上は正倉院文書によつて葛経の動磯及び方法等について研究したのでぁるが、更に之を現
ー・・−・・− β −戟五十第 年四夢 死軒数:;・三 存せる寄樫山奥書の重なるものについて研究を進める。 奈良嘲罵樫の一院文に含まれて屠る所福の碓璃、原文の形式、喘主の人格、経文書需の功徳L 関する信仰、願文に使用されて罵る字句の意義等について考存する写らば普時の人心を動かし つゝあつた宗教思想の一端を見ることが出凍やうと思ふ。 願文の目的を大別するし﹂、園家の痙礁、萬民の福祉、姥潜の冥福、延命、消失穫編及び一切 衆生の成悌得耽等となすことが出凍る。 国家の隆盛、寓民の車撃で噺わ′花る煩文の最代表的のものは、天平六年及び同十三年に於け る豊武天皇の赦戯である。射ち伯爵田中光穎氏減税些青書薩受託拉に左の奥書がある。 朕以烏城之暇、政党典烹.全身延命婁民存発着、経史之中澤数長上、油且仰撃二賓、鼻良一兼、敬嚢一切経、巷紬巳託、 韻之者以至誠心、上篤園家下及比類、乞東宮年、所轄萬扁、開之者無蓋劫聞、不暖琴趣、遠離此柵、保管彼岸、 天平大卒歳奄甲戌始究
此願文は、豊武天皇が、竃経司門部モに命じて富寄せしやられた一切経の各巻に奥書せしめ
られた赦畷文で、此と同一煩文のある粟粒が往々獲見されるのでム∵ろ。天皇は此願文に於て先
誓経 司清市明 鑓西 成 土 門 部 ‡ } .・1−尊影的食紅の数彿と経焉の朝良奈
つ係数に封する天皇の態度を明かに詔ひて萱草を得、民を安んするは、短音史語のうちで傲敷
か最も勝れて居るから、仰いで三軍し琴Qと仰せられ、次いで一切経を敬寄せしめられた事を仰せられ、最後に経に封する心得と係数の功徳に及び、﹁之を謹む者は至誠の心を以てし、上は
国家の褒め、下は度数の食めに其長吉と萬編を斬れ、彿法を放いて無蓋劫あ間、悪趣に墜落せ
す、煩幡ぉ腹れて倶に彼岸に登らんしし仰せられて居るのである。
次に此と大牒同一の所願をだすものであるが、臣民の側に於て一切経を書零した場合の駄文
がある。其願文は伯爵由中光顕氏蕨の大唐内典線審十に奥書されて居るC 虎夫一死張軌馳庶雅之撒言、六宗分錐振龍甘之渥肪、出足摩取入珪藻其源l罪什遮音研基奥、日生以降鐘仰定繁、可訓刷 畳迷之逸軌.払瀦之葱筏者也、弟子園昏師従八倣上六人部茶人、率連繋代、預恭微で∵蒜之鯨、非及平射、−是以整弘誓願、春先凹恩車軸誠等、敬焉一切綾緒論葦、代隣籍斯重要批願、閉家浄化出於三五之先∴諾超於叫寓億之外∵次新苛性豊讐
井恰紳浮城.書面香姦、末駁、合門春風及知識等、龍天柘護萬菩毘集、既望晶、同書比既、供出九居、早成彿果・天平膵賓七法衣乙未七月廿三日
ムーベ とある。即ち彿弟子国留師六人部克人打でる者、弘く誓晩を敬し、四恩に報すべく智識の同人
と共に一切脛律諭を書葛して三の大隈を立て、先つ天皇と国家の薦めに祈って日く、﹁国家淳化
ー 5 −戟五十弟 年四第 ダニ研敦ニュニ 出於三五之允、聖書超於高儀之外㌧と。次に祖先の璧芸名警㌧.願背世食震、葬恰紳浮城▼
草庵香茎﹂と斬り、更に一門の巻属及び同人のために、合門巻尾及智識等、龍天衛護、萬善塵
集と斬り、最後に一般衆生のために﹁虞度合識同語此願、供出九居、早成偶発﹂と付け加へて
居るのであるものがある。
死者の冥福を斬ったものには、上は天皇の冥福、下っては庶人の父母親属等の冥福を斬って
居る。
慶婁四年六月十五日文武天皇の崩御された時、天皇の叔父に雷らせられらる∼長屋王殿下は、天皇の冥福を斬る褒めに般若経を寄寓せしめて次の騎文を奥書せしめられた。
麗庶官御寵天皇、以良質四年六月十雷管退J完惨然、四海過密−長屋殿→地建天倫・惜深偏報・及爪賃皇−敬冒 大般若経六首巻.用益酸割之誠焉和銅五年歳次壬子十一月十五‖庚辰尭
此願文は全く漢文膣で、偶語と思はるゝものは、一句もないが、要するに天皇の冥福を斬れ
るものなるべきは一萄して明かである。此慣文のある大股若控は、滋賀煤太平寺に百四十二雀
ぁる。折本に改装されて居るが、現に国賓になつて居るJ各巻の末尾には悉く此願文がある。 ∵ 〃 −−−−智影的分配の敵側と経寛の胡瓜奈 奈良の導師寺にも一巻、男爵野村素介氏も亦一巻を滅して居る。 養老二年には道慈法桶が先帝の冥福を斬る清めに、同じく大般若経を書寓して次の惰文を奥書 して屠る。 緋先老二年歳養成牛六月十王‖.弟子謹寿篤発生数岩大般若経一首輿敦仇二抽戯雄炎、伏m凪略速向漣場、泣暮省焉 此騒文ほ、前のとは基丈調が集って、除桜桃数的で明かに発情の冥頑な斬ったものである。 餌ち伏願風格蓮向道場の句は、速かに極楽浄土へ往生ましませといふ意である。此騎文は大般 若経巻堅二百六十三にある。而して評土宗の僧侶、士川善徴師の所戴である。蒜出丈六ノ四、妻木 直良民文参照︶ 稀徳天皇も亦先帝の冥福を斬る虜めに、一切経を書寄せしめて願文を奥寄せしめられた。北ハ 願文は現に東京帝宅博物館減の、説一切有部順正理論第八の末尾に次の如く記載されて竣って 居る。同文の・奥書は正倉院其他諸寺の寓経にも屡々撥見されるのである。 雑印謹告掌二年歳鹿夜毎五月十三口尿中、弟子謹奉先 発繋、敬宏一Ⅵ纏一部、エ犬之荘厳鯉兵、法輔之樽篭轟焉、伏 願、精出之風格向連場所鳴星、扮水之配膳法春海而留影、迭故不測之了戎、永訂摘高之法身、遠軽存亡、傍印加姉、同嘉 畢捕.共終押流、或攣架m、敢作頃日、非有能仁、誰明正法、鵬舵仰山、給碓悪業、椛門利題号、絨小甘知力川蝉サ、登持 敢封不居之歳月、或垂伺趣之項輪 − 7 −
批五−I第 年四窮 死邪教琵
縁者の冥福や其現世に於ける幸福を祈ると同時に、上は天皇、国家、下は高氏の福祉を斬れ
るものも少くない。天平十二年三月十五日正三位藤原夫人が亡者贈左大臣府君︵塩原房前︶と内親王のために一切経を書寓せしめて左の願文を奥書せしめられた。
絆大卒十二年歳次挺辰三月十五日正三佐藤原夫人寮監 亡考贈左大臣酔君及鬼社 内剋警護願敬空間紆律箭竺部
荘厳巳託、設鮒敬語、む此勝級伏推 尊膵君遺済速達紳遊挿図見在 郡主心紳助準帖監房伏郡、聖禦明言園※拍車、百辟
盛小心、地人安楽及租主藤原夫人骨組審放必成肪果倶出慶労同登彼岸
此願文は東京帝室博物館叔の文化端王経の巻尾にあるが、此外に同一願文のJ芸らのでは羞山彦一氏就彿詮阿難四事経及び武州線山古経堂の頻婆沙羅王語俳供養紅等世に知られて居る。
さて此願文の要旨は房前公の告宣の無事に浄土へ昇わ給はんこと、叉現在内親王∽心榊別冊謡
蔽無壇を斬ると北ハに﹁翌朝蘭書、国土清中宮辟轟忠﹂を斬り、最後に呼王でぁる藤野天人の常に
薄縁に遇ひ、必ず併発を得て倶に塵螢を出で∼彼岸に挙らんことを以て願意を詰んで居るC天牛十二年五月言光明皇后は、両親に普らせられる不比等及び桔夫人のために一切経を寄
寓せしめ左の願文を奥書せしめられた。
皇后藤原光明子木魚
豊考膚正−健元政大臣府芸批貯従︼倣橘氏大夫人敬竺切経論及秤、茄琵TG伏圃脛斯勝田、本黎冥助、永庇草薮 0響影肋骨敢の数俳と..空焉の勒良寮 之払、M長珪般若之津.叉厭、上春 雪朝、帰室臓霊、下及寮釆、共志忠節.久光明子自費誓言、弘済況拾、勤除煩障、妙窮諸 法、早突菩提、カ壷博燈無窮、流布天下、別名拝啓、撃臓消失、一Ⅵ迷方、令錯覚路、 天平十二年五J−一‖記 此光明皇后の御願文も、−切経書焉荘厳の功徳によつて両親の冥福を斬り給ふのが主願で、 此と同時に天皇の扇書恒延及び下百官の忠節を所わ、最後に皇后白かち誓顕して﹁弘臍沈倫、 勤除煩障、妙窮諸法、早奥書提、乃至停燈無窮、流布天下、聞名持巻、狂両消失一切迷方曾蹄党 路﹂と詔ひて御願を結ばれて居るのである。 韮に引用した此願文は東京帝国博物館瀬の併設資雨経巻九の奥書によつたのであるが、奈良 正倉院の聖語源には、此と同一騎文のある克経が数百巷ある。此外世上に散在して居るものも、 また少くない。 天卒二年二月十日に飛鳥寺滑質諾は七世父母、六観客屁及び一切有情の冥編と成彿を斬る食 めに稔伽師地諭七巻を書葛して左の願文を奥書して居る。 天平二年歳炎症牛二月十日、飛鳥寺何児音、蕗七泄父母、六親林囁、及鑓元退尤際三輿一切有怯、共成俳道、買敬掟伽盃 七巻。主知〓象︵塞?︶富於理者、仰麒.現在之身停於千秋之林、心抑東於謁春閥︵l貴り・︶両六鹿軽肪設於三骨之絆、四元 丑梶貫両八大人発露左右樅取∵八正道分盛水手、内法普輪大妙郁二杜菩薩鱒王、分段生死之梅虻、.両断喚群生、共速萱充 一 夕 ー
波五十節 年 究併政宗 上碇也 此願文は石山寺減の喩伽師地諭巷第廿一にある。其願意は長命と未来の成彿む滴ったもので あるが、七低い・父母−こいふは、曽時一般に重んせられて居った思想で、時々賓詑の奥音に現た れて居るだけではhサ\碑文、其他の銘文にもよくある。上州群馬郡金井澤に現存して尻る紳 笹二年の碑文にも、﹁七世父母現在父母云々の句がある。さて七世の父母といふは、七世の沌 を指すもので、七世の父母を殊に重きものとせるは、支部の暑憩で、七世廟へ㌍こといひて殊印ル に重んじ佗風の我に移れるもの行けるべしといふ説もあるが、此所にては罵に組先の震といふ繹 の意に解すべきものかと恩はる。次に此厨文は、非常に複疲克字句からなつて居ることには讃 しなければならぬ。即ち﹁身停∼■於千秋之林−心輌痕㌻於常春開こといふ如きは、確かに道教的 文句である。其他はすべて偶数の教理から出て罵る句である。 法隆寺の慣行信大法師の誓隔を果す食めに其弟子等が法華、般若及び玲伽の語経を書葛して 左の願文を奥書して摺る。 岩夫法侮淵暁誓彼折 汲、想〓高明‡斯宗躍、受持頂戴、描利充逗、講評硝幻、膵某鮎測.是以、大法帥許行信、不沈之‖、 至心猛願敬焉法花∵誹之宍、余談滅罪之文、般若眞空之敦、.翰伽五分之法.合式伊具伯巻紙諭.奔甥 聖朝、退部四囲心、堆救部 品、然恨慈如浮雲、革命似電光,末輩其革、含立役化、弟子孝七午、不膵風樹之傷、敬弁先取、社長 翌朝、企輪之牝、興乾坤尤 ー ニ〃 −・
響影的食紅の数彿と経駕の勒良案 動長途之藷、争劫石禰遠、追麒、篤蒙四思、枕捏典之山、坐菩捉之樹.位成濯頂、カ奮降魔床及法界﹂ハ遭有 難苦得衆、 奔萱俊道 神話景雪元年九月五日敬春寒克、 ︵大日本古文蕃筋五璧ハ八四︶ 此願文は大和法隆寺新城の妙法蓮華経巻夢二に奥書されて居るの右ある。 病束の平愉を所るためにも繹を書寓して居る。即ち京都而森菊太郎氏兼の法花鰹に左の奥書 がある。 天平膀賓四年歳次壬辰孟秋七月サニ日丙寛之夜、馬偉桑原忌寸比良人之病、館内諸人大草書跡、木馬望化控八巻 ︵大日本甘文寄第二.巷五八六︶ 単に自己の成彿得股極楽社亘のみを斬った願文もある。釦ち近江石山寺所叔の倶合諭の奥書 に次の如くある。 天平膵賛四年戌次壬辰五月一口、西京燕輔寺愴仙澤敬鴬鹿合論一部.井本領一笹、邸斯勝田、掛売明閤、得智慧限、故巷 間名、廻邪応正、超過三界、遊歴賓利 春篤老僧安洋本 ︵大〓本音文書第三啓五七三︶ 尊するに、奈良朝寓経の願文に草木されて居る所願の目的は、騎主い地位人格等によつて 白から異るものがあるけれども、現世の華両、剋尭及び自己の極楽往生を斬願することから _ JJ−
説五十餅 年四第 究軒数完:
除りに縁遠い性質のものはない。係数の悟を得て此目的を達成せんがために、﹁断克明闇、柑智
慧限﹂と所㌧−或は﹁遊牧琴之粋﹂といへるは一面に於て蕾持出桃致信仰が非常に研究的でJ山 っ平丁−﹂を諾するに足る。然るに又他の一面に於ては、経を受持頂戴す左だけでも、福利尤近である。謹話苦茶す、㌍笹∵革膵業難測と言ひ、又﹁二島営煎蒜㌣云々といへる句は〓宅の‡の
ことで虚重罪詰ることあるも一竃の若鳥窮わ無らんーといふ意味である。即ち於葦通俗的の方面
が現はれて居る。此等二方面の傾向は常時の我係数をよく表Ⅵして居るもゐであるが、此植向
は時代によつて生れたものといふよーりは、寧ろ彿数其物に説かれて甲︺数理盟友されたる結
果、願文に表現されたものと考へられる。
次に騎文の形式について考察すると、もとよtり一枝で・阜ないが、粟粒奥喜の多数の願文に典 迫な形式は準つ彿数の功琴ぜ欝堅ヱき句を以て始まリl㍑いで何人の食めに書焉せるかを耶、がにして、其吾克の善因功徳によつて基人々の冥福或は現世の華甲竺桝るか、又、・自己の究め
に書架したるものれ仏らば其によつて悟を閏、き、成休符脱筆ぜ得やニノと所願するの紬であるが、最
後に多くは一切の衆生と倶に板持に登わ共に臨聖徒塵せんことを斬って屠る。此最後の、おきま
り文句のうちに俳教の敵曾的生命がある・∴衆−こ北ハに成怖を断ふことによつて、始めて基底に、 一 丁」?_尊影的合計の敦悌と鯉笠の朝良奈 自己の眞の救も極楽も現はれて凍るのである。これ貨に俳故が宗教として必す宣俸すべきもの で、宗教的立場に於ける四海同胞主義の主張と見るべきものでム∵bう。 蔦経典菩の願文に記城されてある願主は、天皇、皇后、請王を始め慣侶俗人に及び、基範閏 はすべての階級に及んで居るが、特に注意すべきものは俗人が閥結して茸竃せしめた所謂智識 脛に於ける智識である。智識の意義については、既に一二草し化のであるが、更に和々詳細に研究 する必要がある。空識経といふJ仙多くの者の資財を集めて罵経せしめ花ものであるが、元凍智 識といふは人に知らるゝ義にて善智識といへば、人に知られ托大行で、人な彿道に導びく者を いふ。又後世天台宗では、教授書智識、同行善智識、外護苦竹誠一竺二智識といつて居るが、昆 に所謂智識は同行善智識に普るものである。卸ら同一の信仰の下に同志相基って一周と行7リて 葛粒事業に常ることである。此意味は智識経の願文について考察すると明かに了解されるので ある。さきに引用しだ天武天皇丙成年の焉経には、﹁川内閲志貴許内智識﹂−こJ直り、又天平勝賓 七年七月に苦寒した六人部束人の願文には、四思の巾“めに智誠軍で卒ひて云々といへる記故に ょるも凡そ此意味が判るのであるが、正に明かに此意義を現はして屠るものは、紀州日高郡新 村妙音堂減の大股若経巻第四百三十に奥書されて居る願文でJのる。 ー Jβ −
駿五十茹 年四窮 死軒数完:
又京都裏山朝恩院推挽伽帥地論巷第甘﹂ハ∽鼻音に
穴牢二隼故女医牛九jj利琉監大鳥部じ下部郷石津追大薫宙猛 火租宕蓋賃讐竿大前動サニ芳下苦誓紙笠七要人醐詣詳記 + とあるによつて智誠の意味は十分別瞭し誓.一しこ.ゝ恩ノ山︹・斯の如く国籍して宗教的わ為に蕾る︰とは、馬渡にのみ警ノれて居つ化のではなく、悌像を
造る場合にも同じく窄誠を恵んだのであるハ︶河内閻野中寺減、金銅禰勒像り基座にある天智時 代の銘文にも智箪苦の句がある。又←野園金井醍の紳亀三年の碑にも、1智識籍両天地審撃 云々とある。此によつて考ふるに斯の如く同信の㈲払が出水たといふ串は、昔時俵敢が可なb 机棉以、廿河東禁、嘉砧は廟也、行曇芸㌶略豊−其枯粘之・近啓於浩,崇孟蒐於芳、此焙大平十∴厄 迄如十∴年号卜心行完彗辿伽松巌、烏山改草蒜J化町霹臨四弘之禁鳥宗拾、亮≠蒜於般若もれ轟汎梅比丘、† 璧∵坪山リ女・蒜宰炭化心∵崇王荘敬舟最大撃右絡二鉄骨巷絹飾巳如・此第四十蒜井桁五十二玖也、仰望辱揮一 定之意.成亜由盟主註㍉什㌫人飢三左之左・家保古毎之抽、畔施ダ華J璧禦=先、執政自他茹豊ハ遊畳拾、 ホ什知識捕肯宅主喜 大卒勝家六牛丸‖廿九〓 ハ古経題故上︶ ー ノニ ーーー聾影的曾放り故俳と経焉の朝良奈 よく普及されつ∼あつたことが知られるのである。 願文の霹類は凡そ斯の如きものであるが、最も任意すべきは、沸教の経論律等あらルる彿典 の書焉、即ち一切経の書繋が、軍に官の事業として行はれだゞけではなく、民間にも、かゝる 大事業が屡々企てられたといふことで、我国に於ては前後其比を見さる所である。 此外特殊の焉経に於ては、般若経、法華経、維摩、蒲勒、稔伽諭等寧日すべきものでJのる が、造存して居るものによつて考察すると、就中、般若及び法花経は最も廉く吉富されたものと 察せられる。捕勘脛に奥書されて屠る願文には、滞動の浄土に往生せんことを新際して居る。 又常時の怖像にも滞勒像の多かった事を考へると、滞陀の挿土よりは、輔勒の浄土がより一般 に信仰されて居ったことと考へられる。 願文の字句に於て注意すべきことは、係数語以外に多くの儒教的文句のあること、又往々道 教的文字が挿入されて居ることである。 警9るに、偶典を吉富することば、それが大なる善行であるといふ信仰が動機−こ㍍つて起 ゎ、其善根をよすがとして現世の幸元乃至極楽往生を斬るものであるーU其方洗は資材を投じて 書寄せしめ、或は白から苦寒したのであるが、焉匪の複製は加ち係数普及のために敏くべから _・J5 −
戟五十節 年四第 究軒数宗
ぎる一の蚤要な手段で、此方法を姦して心行くぼかりに所る二と﹂ふ、道理ある信仰である。又
智識匪の如く、多数の人々が同一信仰の下に協力でるニーこりミ思想の純一を計る上に於ても有力
ハ仏方法である。某所願は観光の琴澗、樋欒往生或は箇家S宰恭、消炎増益などであるが、唯無意識に口尤や文字の七で斬るだけでなく、彿典の書克といふ大きな行翁が作って居るから其の信
仰は故序あり意義ある信仰と言ひ得る。
五 結 論
飛鳥奈良時代は、外囲文化に心酔して屠った時代である。而して共時代思潮として重きをな
したものは、疑もな′、解散思想であつに。此時代思潮は普代の政治を動かして居った思想であ
った。即ち儒教の普及によつて人心の蹄向を統一せしめんとしたのでぁる。聖武天皇が一切経
に奥書せしめられた御願に、﹁全身延命安民存業者、経史之中澤数最上、由是仰準二賢、蹄依
一乗﹂と仰せられて居るのは、如何に偶数思想が昔時の中心思想であつたかJで明かに示すものである。然らば彿数的ならざる思想は悉︿ニれむ排除して専ら俳致思想を偏重して居ったかと
いふに決してそうではない。聖武天皇の御世の詩人山上憶良の詩序に﹁稿以、澤慈之示教
_JC −彊影的骨敢の数併と鮭専の都度奈
銅璃民党、壁面僻鴻警戒網㌔鴫縄鮎諸相監晋漂こ法軍用孔之垂訓、前張二三綱瑠如舶父五
致禦踊糎報㌢以寮ク済緑園り。故知ル引導疲㌃二十三得遠健一也﹂云々垂藁雪空去る。
此思想、此態度は、憶良一人のみの議論ではなく、普代の政治家、思想家の一般的態度傾向を
代表せるものではなからうか。
既に説明した奈良朝寓経の騎文に於ても、此間の消息を明かにすることが出来る。餌ち東人
の研究しだ願文は別表に示す如く二十九稀あるが、其立願に如何なる所顕が多いかと言ふと
二彗七世父母、大親の冥福を斬るものが最多い。如ち二十九麺の願文のうちで此符の所願を有
するものが十九種もある。即ち金願文の三分二以上を占めて居る。此思想は革に奈良朝の克陛
政文に於て発見されるのみならす。此よら百鎗年以前墾り推古朝以凍の偶数願文の多くに於て
既に現はれて居る。而して其願文の多くは備像の光背壷座などに刻してあるのである。かくの
エコウ 如く舎族親の食めに其冥福を斬るといふことは要するに回向の思想である。而して我が上代の
カンナガラノ・−チ 係数願文に於て祖先に封する回向の思想が新著であつたことは自からそこに億神道と融合し て此信仰が盛になつたこと∼信する。尤も回向の思想と帥道の祖先崇拝との間には精々丑るも ののあることに注意しなければならぬ。回向は梵語の P弓i蔓■1什Pに相督する言葉で自己の功 ー・.・−J7・−戟五十第 年四夢 死研敬慕 徳を他に及ばすことを意味するものである。さて此思想は縦には祖先代々の霞も自己の霊もも とこれ同鰹であつて様には一切の衆生も同鰹であるといふ考へから出馨して居るのである。そ れであるから紳造の祭祀に於て単純に剋尭を祭るのとは少くとも其の外形に於て頗る異るもの があることに注意しなければならぬ。 抑々一国の文明を観察せんとするには、先づ其の文化を構成して居る異称の文明を分析する ことが必要であるが昔時我国民の精醐文化を支配しっ∼ありし思想は偶数を別にしては紳造、 儒教、及び道教などが重なものであつた。 そこへふ偶数が新たに入わ凍ら.世を風靡して時代思想をつくり、全く係数文化の根底を築い たのである。即ち在家の師道はもとより、儒教及び道教思想をも抱擁して、大なる俳散文化の 花を開かしめたのである。此偶数文化の花を開かしめた併以のものは、m単に政治家の力にのみ ょって出家たのではなく、人民の側に於ても之に饗場すべき素因を持って居ったからである。 要するに係数文化の普及の褒めには、常時朝野一敦して努力したのである。 立に於てか彿典を研究し、蔑詞し、又書寓することは、英文化を向上せしむべき重要∼、号努力で あると信せられたのであるから、寓終審業は大いに意義のある信仰的行為であつたのである。郎 ー Jβ −
啓影的骨組の数彿と鮭焉の朝比奈
ち吾人は此信仰的行虜が如何なる形式によつて表現されたかを研究したのであるが、最後に備
典其物の外形に封する態度と、其教理に封する態度とに約して批判して見たいと思ふ。
我閑へ輸入され花価典は、必すしも漢謬の備奥のみではなかった。月真に寄寓された梵文の
恥典も四玉砕遺存して居る・︶尤も大抵は残筒に過ぎないが、西暦四、五世紀乃至六、七世紀に 属するもので非常に貴重h仏ものである。然し鼓に問題とする所のものは、漠静の係奥のみである。故に彿典の外形は浅草と紙によつて成立して居るのである。そ二で凍藷の偶語と共用紙に
射する信仰的態度について研究したのである。偶語は即ち係数の数理を倖ふるもので、後世子
孫に俸へて末代に至らしめねばならぬ、又多くの者に読ましめねばh仏らぬ。又誤り掟く正文を俸へねばトナっぬ。然らば兜づ如何にして永久に保存せしめ得るか、叉如何にして原本を正しく
複製すべきかといふことが問題となるのであるl、経典の正文智千載に遺さん薦めに、其富男に佐用すべき永久性の材料を撰ぶことは、何れの
宗教に於ても最も苦心する所でかる。支部では有紀と耗するものがある。石経といふは慌致、
道教及び、俳致の経典を石に刻し花ものである倍数の経石は、漠代から申草り清朝に及び、俳
数の石匪は詣賓の一時から始まり、麓宋に至って居る。さて彿数の石経は深山幽谷にある岩石の
■− jβ −汝五十節 年四薪 究軒数宗
面を磨いて刻したもの、平面の切石の上に刻したもの又は四面、六面乃至八面の石柱に陛を刻し
たものもある。支部の石寧1文博松本文三郎∼宗教研究三ノ九。一〇支、世界最古の法典とし て著明であるバンムラビ 芦⋮⋮r賢 の法典の如きも石に刻んで後腱に俸へられて居る。斯 の如く石に刻するは、正文を後世に惇へる=とを目的とするものであるが、弘迫の虜めには不便である。故に携帯運搬及び讃諸に便利な材料としては闇皮、多準業露皮などが使用された。
獣皮に書零された髭典で著明なものは、基督致の聖書であるが三種現存して居る。皆、ギリシア
語で書いたもので、鮨二はコード、ゲ丁チカヌス ︵宣ぐれノ、已■1至=訟 と科し、躍馬のケアチカ ン国書館にある。次はコー・ド、シナイチクス ≡宗苧をへニ]功と縮、し㌻八四四年に、シナイ山で発掘したもので、ライブチッヒ大学間書館にある霜老ともに西暦四世紀頃のものと認めら
れて居る︺第三は最有名で、コード、アレキサンドヅヌス→⋮宗A㌻n︿ご・㌻ニSと科せられ、英 国皇室の御物でみる。五世紀の中葉に屈する・ものといふ。蒔い ノ、︹宴−ご と科する獣皮に寄寓したもので大文字で書いてある。賃に立派な富僅である。印度で多′、用ひた材料は貝菓即ち多
罪莞であるが、我飛鳥奈良時代に相督する時代のものは、殆んぎ今日は造って居ない。此時代
に祇を盛んに使用したの■は、支那と日本である。而して其時代のものが最多く追って居るのほ
一 望0 ■・−啓影的食紅の数併と経常の朝良奈
我国である。
キハダ さて我国の幕経用紙は、既に詳述せし併によつて明かであるやうに黄乗或は其他の薬品で染
め、轟書や腐蝕を防いだのであるが、これは昔時世に知られて居った最善の方法を寄経用紙に
應用したものである。即ち信仰的動撒からして最善の技術が宗教に應用されたものである。其
結果は千二百年を経た今日倍ほ少しの轟告も受けす、又腐蝕もせすに現存して居る畢賓は、紙
の永蹟性について得難き経験の結果を立見に知らしめたのである。これ吾人が宗教的信仰の至
誠に負ふ所の周の一といほねばならぬ。
経典の正文を複製することは、現在と未来に誤を俸へぎる用意として、もと、手り督然のこと
であるが、此黙についても我寄経は最善の努力を加へて居る。此の事は、既に十分理解された
こと与信する。
神聖観念は何れの宗致に於ても大いに重んする所であるが、我が奈良朝葛経の文字の形は、
最も厳粛な楷書でぁつて其立派な聾蹟はか∼る観念の誘導を助くべきものと恩ふ。更に又英文字を金色で書寓するのは係数の俸説から凍て居るのであるが、これ又印望観念と深い関係ある
ものと言はぬばならぬ。経典の金字は我国で始まつたのではなく、印度に起った思想である。
− 2j −眈五十多 年四夢 先祈教条 然し印度に於ける金字脛に就いては未だ其微音とすべき材料を持たないが、支部では早くから 金字を以て書寓したのである。陳大建九年六月に六十有四歳で死んだ南嶽の慧恩碑師は、道俗 の福施を以て金字般若経二十七巻及び金字法華経を造す、荘厳舷曜光る琉璃の貿函に納めたと いふことが繚高滑停に記載されて居る。故に金字を以て寄寓することも支那に学んだのであろ。 吹は外形の荘厳であるが、経軸、経絡、軽快、経管及び経机等の荘厳も既に詳しく述べた所 によつて明かであるやうに、昔時に於ける重荷の極致を鷹用して龍ふ限りの美観を酸挿せしめ たのである。更にこれを絢爛たらし昔時の係数垂術1㌣り見るも拘に然るべきことである。輪捗 の美を毒せる悌殿内、金色燦然たる偶像の前に於て数百乃至千金の僧侶が夫れく綺羅を身に 操ひて脛を嶺請する時に各自の前に居え置かれた経机、経営.さては軽快の類ほ皆其周囲の美観 に邁はしいものであつ托。かくて千滑が一定の音律によつて経を讃諦し、或は唱絶すれば誠に 此世ながらの極柴浄土を日の蕾ら見るの心地がしたであらう。されば経巻の荘厳は周囲の荘厳 と相侯って冒を通じて神聖観念を輿へ、経典讃請の琴昔は耳を通じて又軸聖観念を起さしめた であらう。即ち目から耳から入り凍る神聖観念は経典に射する信仰と合つして、更に国家の平安 隆昌を所わ、天皇の病気卒愉を斬り、或は死者の冥福を斬る等の所願が加って其虞に言ふペか ・,・・・− 2ゴ._一_
醤影的食紅の敦彿と経篭の勃良奈 らざる宗教的戚動卸Jり天来のインスビレーションに打にれざるを得h仏いであらう。
之を要するに普代に於ける葛経事業は国家的重大要務であつた。其が民間に於て企てられた
場合も多くは、多数のもの∼協力が必要であつ化から、其虞に同性が生れた。而して経典の吉富は最踪粛に考へられた。従って後世の寓経の如く草書又は乱筆悪筆を以て富焉されたものは皆
無である。壁掛賓は、やがて普時の寓経事業が協同動作を必要とし花園家的或は閣鰹的事業で
あつて個人的宗教としての方面が頗る敏弱であつたことを語るものではなからうか。即ちこれ
国家的政治的彿数の結果であると言はねばならぬ。
葛脛を封象として求めた各自の宗教的慰安と希望とは、其罵経に封する態度ぁうちに輿へら
れるものである。蓋し宗教は他力、自力の別を間はす其宗教に封する態度の形式と内容は、其
宗教から受ける力の性質と密爾離るべからざる関係あるものと思ふ。斯の如きは宗故に共滝な
原則と見得べきものではなからうか。経典の荘厳の如きも儒教に封する倶鰹的態度の一である。
目に見えつゝある形を通じて目に見えざる或物を求めつゝあるのである。目に見える物を通じ
て目に見えぎる或物を想像するのは、英断に或眞理を求めんとする光が暗々裏に輝かんとして
居るからである。
− 2β −眈五十第 年四第 究研改宗
さて宗教に於て最重んすへきことは、其票数に封する態度が眞理に追って居るか否かと言ふ
ことにあらうと思ふ。我奈良朝に於て其の寓経に射する宗教的態度が果して眞埋に適って居っ
たかどうか、賢明なる蔑者の批判を仰ぐ。
戟 年 丙戊︵天武十四︶五月 和銅三年五月十日 和銅五年十〓月十五日 養老二年六月十五日 紳飽五年五月十五日 天平二年 二月十日 天平二年 八月九日 大 牢 l一年 九 月奈良朝寓鰹蔚文年表
名 題 金剛堤陀羅厄経 倉利非阿毘皇論 ︵一切鮭︶ 大般若汲詳密多経 大般若政経密多鮭 同 上 東 伽 帥 地 諭 捕 勒成 燐 酸 敢 伽 帥 拙 論 主 願 河内国忠貴評の知 誠及教化盾垂林 明 不 長 屋 殿 下 造 慈 法 帥 王 長 飛鳥寺暦賛否 不 優姿架触信、目†首聴 呂及絶知識七首九人 新 駅 の B 的 七世の父母、一切衆生 極梨往生成正毘の二島め 翌朝の促進稲詰の 悠 め 文武天虫の冥稲を斬る篤め 先聖の粒敢往生を斬るため 二倍細部の種無産生、現在及 び開閉以衆代々の天皇のため 七世の父母六親非魔の成俳 追及び畳無上党在所るため 左大新石川脚の摘勒渾土へ往 生を斬ろ否め 所願の日的を明示 せ ■す 折 不 着 京都市 小川氏次郎 松本 正足 近江同大卒 大和婁帥寺 士川 蓉徹 伯侍 凹中 光顕 近江園 石 山 寺 薙 Ⅱ 宮 京都 智 恩 院 守 一 ごJ −−響影的含鼓の教朗と級窟の朝良家 天平膠安田年五月言併 合
諭骨 仙 籍 謂り慧警憲監苧
天 平 六 年雷雷雲麗言 武夫 曳
天芋年六月二十九日諾警腫上生兜重石 川年 足 天平十一年七月十日 大般若汲羅密多経 石 川 年 足 天平十二年三月十五日 文陀鴇玉津〓切経︶ 藤 原 夫 人 天平十二年五月一日 撃鱒推論︵一切痙︶ 光 明 皇 后天芋三年二月吉日雷般
整武 夫 章
夫芋五年五月十言超。明︼㌘赫鮎警衰光明皇后︶ 天平十九年十一月八日 大般若改定密多経 大庸弟子尊意 天平膵賓二年四月十五日 練 明 磨 経 不 天平膠安田年七月廿二日 法 経 館 天平膵璽ハ年九月廿九口 大般若汲露密多経 年 戟 遭 名 餌 主 節 瞑 の一目 的 天平三年八 八口 法 難 不 玄 明 父の冥稲を折るトトめ 他知 一識 相馬 内 の首 男宅 女主 長安 諸 幼英 人 園家の繋栗一般人民り延命和 姦及び成悌︺任所るたゆ 二親七世父母﹂ハ親の冥扁ね斬 る小㌧め 大輔故倍達玄妨のノ冥編]任所ろ 否め 穂粘鶏畠の冥稲九二析スこHめ 桑原忌寸比た人、の病気祥痘所 願のトトめ 花影膵帥蟻弘の・翫1伊成就すろ ・㍗め の及牽 冥び考 亡考贈完大 .▲.■ ●−● ●■1.1レ /ヽ■ 拓家及び生瀬り右トめ其の長詩 詫癌及び正覚み斬 る 父母の冥扁在所 ろ ∴ め 長詩聖断り併ぜて租兜の冥稲 と一切衆生の成傍在所る右トめ 現在 両耳圏内 左批正親 新婚− 分力 ろ従位主 ナニー大の 臣 尿前公の 薇大 位摘 め 串癌在 氏臣 太不所冥 夫比る翻 人啓残及 奈良 正 倉 奈良 東 大 京都 智 恩 津市 酉 衆 奈良 正 倉 近江 石 山 帝藁博物館 来賓 小川箆次部 京都紀伊関 取 晋
雨森菊太郎 京都 山城園 田中 光抑 伯岱 智 恩 京都 所 有 者 寺 院 寺 院 寺 院 堂 ー g5 −披五十終 年四夢 先軒数京 天芸事毒九月十七日大法燈陀羅尼箆鮒光罪廿㌻名蓮 天平安字六年二月︻へ日 金光明最膵王経 首 措 豊 止 天平賓字六年四月八日 喩 伽 用 地 諭 倍光党巫部刀美甘 天平紳琵元年四月廿二日 撃.−厳入管剛日華 東大寺僧興顛 大卒紳証±咋十月八日 大毘慮誹一脚鮎孟朝提出利 紳証景望元年九月五〓 大股君波羅密多綻 故 仁 紳護音質二午五月十三‖ 優婆塞戎経︵一切腔︶ 捕 徳 天 皇 同 岡 安亀四年二月十七〓 岡 安飽十年五月一日 天牢脾蟹九年三月廿五日 梵 鯛 大牢蕗賓七年七月廿三日 欠席内典銀︵一切経︶ 経 架 年 題 大般若経汲羅密多経 能動臣多能其他 掌 大方廣傍輩腰無 間 混一切布部暇正理論 同 珍 諭 倍 数
四 分 畳 決 同
名 主 願 固恩師六人瓢先人 及び知識辱 知談喪主慣室番外 五名 上 叡 上 析 取 り 目 的 弘く誓闘わ復し凹恩に.邪†ろ 圭め シ 願 文 矢巾ご戊び自≡眉の∴押上品 二親の冥縞Jセ斬ろため シ ナ 隈 文 定 見 成 郁 の 圭 め 天 劫 の 御 代 め 行信大法純の蟹憤ヰ岬成就すろ ため 先帝の衰痛戌備わ所ろ否め 同 文 同 文 此経J望韻む老り正懲戒鞘み所 ろため 文 同 赦免の矢幅み昔 ろため 二 言U 贋大 詔和 提 所 有 者 偵紆 閏申 光細 山成因 石 山 寺 拾烏∴正是 砕米正奈法大西大 ■−▲コ■●_.▲._ _▲● 一r■● ●′−_ 伯岱 E坤 先頃 武路用放山 音 経 堂 群山 城闘 和 四避 田 太 大和関 醐 別室京 良 利 和 て図惜 倉 匪 大 物 光 l【ホ 寺 寺 院 寺 佗 院 寺 こ1≠ ー・・−− L、(ニ ー係掬の鮮日ろアニ見リエ上史敦傍
第 三 百済偶数と日本との関係
後家の歴史に操ると牛島僻敦と我邦との交渉は、百済に端を撥すと云ふが、此に就ては符々 の異論がある。然し異説の有撫に拘らす百済と我国とは地域軸臨む閥係上、〃代から長も密描 な交渉の有った事は疑はれない。儒教関係に於ても亦然らで殊に貯尼往来文物輸入の彩き到 底、高句歴新羅の比でない。先づ彿法初凍の俸説から考へて見よう。 ︵一︶欽明帝の十三年︵西、五五二年︶ 十月十三日、百済の聖明王︵聖王︶ は、酉邦蝉氏連卒 怒嘲斯敦契等を我国に造はして、繹迦彿金銅俊一堪、略主著干、経論若干巻を献じ、別に流通傭敦史上より見たる日鮮の頗係
手 島
支 倉
.−ー_ 27 −教五十弟 年四茹 究訴改宗
碓井の功徳を課し、上表して日く、﹃是汝於語法中、最食殊膵、難解数人、周公孔子筒不能知、
此法能生無量無遽福徳果報、乃至成群無上菩提、知人焼堅息蟹、逐所須用・菰依倍、此妙法賓
亦復然、所願位牌無所乏、且夫遠自天竺笈泊三韓、依致奉持無不茸敬、由足首臍王臣明、諾意
陪臣怒鞘斯致、容体帝国、流通畿内、具備併記我法案流、蟄識不徒、天皇知之﹄と。欽明帝、
大に恰び古家兼官聞の妙法であるが、自ら奉彿の可否を決せす、之を群臣に諮問された。大臣
蘇我裕冒は奏封して日く、﹃振落諸国一骨踵奉、豊欲目本豊杭否乎、況百溶王世承皇化、若貢妖
所属名忠藩﹄と。大連物部尾輿や、中臣鎌子等は言す。﹃我国家之治天下也、恒以天地蔽捜一百
八十紳、⋮・方今改葬蕃紳、恐致既納之怒﹄とC帝、外港の貫法を合つるに忍びす、彿像等を布目に賜ふた。稽冒は、小墾田家に安置し、又、向原宅を治して寺とし、像を奉す。此年、冬
に疫有り。臣、妖紳の災と白す者あるに依て帝は有司に命じ、偶像を難波の堀江に乾せしめ
た。此の時、雲なくして雨降わ、天火、大殿を炎上したと云ふ。之が我国悌法停凍の初めだと
云ふ。︵﹃紀﹄十九。﹃樺書﹄二十。﹃扶桑﹄三。﹃三国彿紘旨。﹃頻繁名物考。﹄﹃紳皇正統記﹄﹃濫怯 抄﹄上。﹃東国文献備考﹄百六。︶我が国に、彿像経巻の俸入せる、勿論、此の時を似て囁矢とするが、但し難波の堀江に投じたと云ふ浮迦像に就いてほ考ふべき事がある。夫れは、信州喜光
ー ββ ■■−■−−係翻の排日るナこ見リエ上動致俳
寺の阿滞陀如凍と云ふが、此でないかと思ふ疑問である。一説に接ると、欽明帝の十三年十月
十三日に、聖王から、阿滞陀彿像、長一尺五寸、軌音、勢雫長一尺の三娃を献じたが、後、
推古帝の十年四月八日に、互勢大夫をして信乃園に請じ奉らしめたと停ふ。此の説に見るに、
前に渾迦金銅像とあト∴し者の外に侍ほ、滞陀三尊像をも加へて献じ凍つ佗と云ふのか又は、其
の時の彿像が即ち滞陀三舎であつたと云ふのか、明でないが、同年同月同日とは、大に考ふべ
き黙である。両耳ならす、善光寺縁起文に依ると、欽明帝の十三年壬申十月十三日に、百済か
ら阿滞陀三尊が浪に浮いて変わ、撮津の難波津に漂著したが、其の後、三十七年を経て、始め
て怖法有る告知㌔此の三撃ぜ偶像の最初汀アりとして本陣如凍と俗に稗ふるに至ら、推古帝の
十年壬成四月八日、俄の託宣に依て、忽ち給言下り、信乃国水内郡に移し奉ったとある。又、
此の彿像最初の重版と云ふを見るに、元、繹宜在世の時、印度批沙離の月蓋長者と云ふ者、彿
の致に随って、造に西方弼陀三尊を念拝趨拝した所、三食は、一棟手平に身を促現して長者の
門間に現じたので、面のあた上二宮を弄し、忽ち金銅を以て躊零し奉ったと云ふ。長者の苑
後備像は基を飛んで百済に到わ、一千鎗年を撃し居ったが、共役、本朝に洋魂したとの事であ
る。此の縁起文中、灘波の津から上空L信州に移したと云ふは、前の繹迦像の事らしく忍ば ー ヱク ー戟五十第 年四第 究折数采 ㍍一、本師加須と烹∵も浦陀ょり寧ろ本陣繹迦如来と栴するやうであるが、造に西方を膣辞して 三尊の化現を克しに杯とあるは回描陀三尊らしい。其の他、秤々秘説はあるが、要之、不明 、 で、皆時外致の告像に日新らしい我が朝の人々が色々な名を附した潜らしく恐らく二者同じ かも知れない。︵﹃扶桑﹄三。甲濫陽抄﹄上。﹃紳皇正統記㌔﹃善光寺如家縁起﹄。︶ 然るに、俳致の我閲に入ったのは、之より以前であると竺些設挿々あるが、約言すると三説 となる。第一は之より三十年前、彊鰹天皇の朝に支部から寒たとの訟で、琴一は十五年前、宣 化前の三年に家たとの詑及び、那三は欽明帝の六年に停入したとり詮であるじ第一は塩鰹帝の 十六年壬寅︵西、五二二年︶二月、大唐草八、塞部村立司馬連止行了る者、我訟に凍って大和の高 市郡坂田原に笹掌ぞ結び、本舎を安置して確罪踪仰して居たが、本朝の土俗、未だ之を知ら ず、蕃和として奉せなかったと云ふので.恐らく之は草賓であつたらうと思ふ。但し私かに民 間に彿像があつたと云ふ程度で、彿法停家と云ふ程堂々たる着ではない。昔時、染代彿法の盛 んなる、偶々一人の本朝い壷る者簸きを保せんやだ。況んや彼の子孫は綿々として結き、後家の 本邦係数に少なからぬ影響を輿へて居るを思へば、殆んど疑ふ事は出家まい。︵﹃扶桑﹄三。﹃塵 添瑳憂砂﹄十八。︶ − βび −
係捕の鮮日るアニ見り£上史数俳
次に第二詭に就ては、之に二稀有って、例之、疑然の如きは、﹃三国備法停通縁起﹄中悠の華
厳宗あ條に﹃古徳記述豆本俳法初停年代、紙有二詭、一昔新羅畢生大安寺審帝大徳記云、檜隅麓
入野宮御宇宣化天皇即位三年蔵次戊午年十二月十二日、社有済国彿法停殊、︰︰二束大音国選貯
都︰■云、磯城島金指宮御宇欽明天皇十三年、彿法始停臭。﹄と述べて居る如く、窒化帝の三年
商−五三八年︶に首臍から凍たと云ふのも叉、同じ年ではあるが、之が欽明帝の七年に頼督すると俸ふる者がある。﹃上官聖徳法王帝詮旨依ると、志掃島帝の時、戊午の年十月十二日、百
臍国主明王、初ゆて俳法、彿像、並に倍侶を渡凍し奉り、親して蘇我の霜目に此を授け、興隆
せしむと記し、又、﹃元興寺縁起蒲記帳﹄には、日本の彿法、志蹄島の時、天下を治めす、栓塞
秦春岐庶庭天皇の時、蘇我大臣滞日の宿願奉仕する時天下を治めす、七年歳次戊午十二月、渡
来すとの旨を記して居る。共に、欽明帝の七年戊午とあるが、従凍の歴史では、欽明の朝三十
二年間に戊午の歳なく、之は正しく宣化帝三年の歳に普る。何れにせ・よ、此甲第二詭は、西暦
五三人年を以て、我国悌法初停の時とするのである。
更に第三詭は、凝然が、﹃八宗綱要﹄上に記す所で、其に∵よると、﹃萱知日本国者、人王節三十
代﹁欽明天皇御宇聖ハ年乙丑、嘗染大同八年十一月、社有蹄国聖明王、献金銅滞迦俊一躯及晰
一 βJ −披五十節 年四夢 死軒数桑
主著干経論、天皇歎喜、師見崇之、子時臣下、錐不敬之、逐建寺字安置儒経、其後漸々三資興
建。﹄とあるっ欽明帝の六年︵西、五四五年︶は、染の大同十一年である。大同八年は壬戊で、乙丑ではない。猛然は何に撮って斯る年を常てたか、不明であるが、何か朗依があつたに違な
い。右三詮中、第一は百済に関係無い横だが、﹃水鏡﹄などにほ、之も、韓人としてあるし、
琴一、三に就いては何れも十月、十一月、十二月等の異説はあるが、宮路王から倖へた事は僅か
で、之に付ては牛島人の記鉄を信じて、欽明帝の十三年即ち聖王の三十年壬申と信する外なから
ぅ。其の後七十年推・可帝の三十一年に、入唐壁間滑の悪智慧先等が、塔家、惑日、両因等と倶に
新羅の位節に優って蹄朝する迄の我が儒教界は、寄ら牛島偽者、特に大部分、百済僧侶の布教弘
通に依つ花形である。爾来、入唐求法の造開かれたとは1更、朝鮮牛島の傭致を閑却する罫は決して出凍なかった。諸杵の虫片、滑倖に散見する憲雲壷妙義琴貴安姦隣養響慧師等の如
き畢膠は、皆、牛島に遊んで法を求め、側ら唐に入って致を受けた高密で、入唐と錐も牛島を通じ
て之を行ふ有様であつたから、初期彿敢の三韓影響が如何に大行了るかば想像するに難くわ仏い。
︵ニ︶彿法初俸の翌十四年︵西、五五三年︶五月朔日に、河内の茅淳の海中に、梵音の響き雷の如く、光彩晃々として月輸の如きものを見出したと奏する者あつたので、欽明帝、大に具し
ー β2 −係琵岩の鮮口るナ:見リエ上虹致俳 _ノー、一、一−ノ・−−−一・一−′−−−一一−−・∼、−一一・・・・−・−′◆ ̄、−、一、一一■一一▼■−−一−・・−−→−−−・、 み、溝遽直某をして海に入わ葦、ねしめたと云ふ。彼れ乃■り到り見るに、枯木薄に浮び、光色玲 瑞たるを得た。天皇之を得て悦び、百済の怖工に命じて彿俊二躯を造らしめた。今、上〓野寺の 択光橙像は即ちこれである。蝶に、本朝に於ける俳像刻成の棟興でみると俸ふ。但し、之にも 異説があつて、或は吉野郡世笠寺の本雉繹迦¢阿難。迦真空二像も欽明帝の十三年九月朔日、 海中の浮樟を得て、作る所と云ひ或はまた敏蓬瀞時代、海中の浮樟を得て傾直水田に命じ俳菩 薩の像三姫を造らしめ、豊浦堂に祭ったとも云ふ。果して百済の彿工に彫成せしめ花か否か、 明でないけれども韓人め作には相違なからう。︵﹃紀.也十九。﹃壇東砂﹄十三。﹃輝書﹄二〇。﹃扶 桑﹄二。﹃和漢三才閲曾﹄七十三。﹃日本霊異記﹄上。︶ ︵三︶翌、政明骨の十五年には、易。磨◎醤の三博士と倶に重苦⑳道探等十六人の沙門をも、豊 玉から貴人し凍った。書信尼が我が比丘尼の始めであると異に、最悪等は比丘有るの濫値とな った着でJ射る。慧、深、共に何宗の畢滑か詳かでないが、何れ三諭申成貸の徒でぁつたらう。 曇憲は蚤く大唐に入わ、大小痍を綜修し、遊化の志があつたが、此の方、彿法を音信するを聞 いて、此の年︰.月、探と倶に貢発したので、入国後、寺院を勅超して居らしめたと云ふも、何 分、除法初期の鳴で、民間の信仰杯云ふに足らなかつ佗と見へ、彼等の惇は終♭の消息を明に − gβ −
戟五十第 年四茹 究軒数宗 しない。﹃紀﹄にば、﹃伶曇蕊等九人代将遺探等七人と﹄ある所から、九人が来朝し、班に光来の 七人と交替した様に思はれんでもないが、之は誤りで、九人と七人、計十六人倶に来朝したと 牛島の記銀は停へて居る。階九人代滑七人を貢ぐと蔑むべきではなからうか。﹃繹書﹄十六、二 十。﹃高偲俸﹄一。﹃紀﹄十九。︶ ︵四︶越えて二十飴年、敏達帝の六年︵酉、五七七年︶五月には、我閻から迫百済位大別丁ナで 放し、花餅、十月蹄朝するに及び、百済王威徳は、之に附使して僻経論ヱ鱒帥・紐品∵比丘尼。 禁呪師合併工∂寺匠等数人を貢献し凍って。此等の人は、雛扱の大別王寺に任したが、胎教の 経論ほ聖徳太子が幼時愛護の的となつた。思之、本朝に於ても興僻事業の必要を戚じ、百溶よ り招致せんと試みた者らしく、寺匠、完工等は永く大阪土木家の俸放する朗だと記す者もJつ るっ之は高句麗の曇徴が変わ∵ナゥも十除年前である。我が国初期の寺院建築が宮路に負ふ新大 なるは想像さるる。︵﹃紀﹄二十。甲療軍≡十。﹃三国彿望中。﹃扶桑﹄三三・高紆停﹂六十九。︶ ︵五︶後数年、故連帝の十二年︵西、五人三年︶夏、.沙門日産密朝す。彼、宴に輌虫不測内外に博 通し、牽名我邦に響いて居たので、詔は舵押膵を遷して彼を招請せんとした。成徳‡、凝り才 英を愛し、徴請に准じ震いので、帯び、吉備羽島督責を癒して乞はし㌔百済王、蓬に怖れ槌 ・− βヰ ー
係踊の鮮日るアニ見リエ上史数俳
者に従って日本に家朝せしめた。聖徳太子少牡修畢の時、殿に在っては封関して居咋り曾て、
太子、徴服を若けて履の鮭館を訪はれた所、∵耗は以て糾人だ・りとなし、脆地再斉し、牛偶を説
いて身光を出したが、太子も眉間から光明を放ったと云ふ。擢後ち晦州鋤尾山を闘くド督り、
太子換言の如く果して新羅人の食めに刺穀された。太子、後にいはく・日産ほ聖人㍍り、我れ南
嶽に在りし頃、我が弟子たりしと 以て羅の撃徳を怒ふべきである。総じて暫時り韓貯は、有
名無名に論無く、荒山賊野を開拓して秘法の幼芽を扶耕するに孜々と阻めた着である。換言す
れば、彼等入靭倍俗に依て、牛島文砲の移紡が試みられつゝあつたのである 係数中心の日野
陥係、憩へば興味森々たる問題たるを失はぬ。︵﹃紀﹄二十 ﹃群書﹄二十じ雪高僧停﹄六十九。﹃聖 徳太子停暦﹄。﹃古今著聞集﹄二︶ ︵六壷抹臣や佐伯迩が、百臍勝家の郁像を持/ノて居り、馬子の請に依て寄典したのも、書信尼等三尼の出家したのも、此の翌年の事であつたが、翌々年には、排俳距繹わ馨大に操り、彿
像彿殿の炎上から延いて書信尼等も禁錮さるゝに軍りたが、用即天皇の二年︵西、五八七年︶に至上二尼は乞ふて百臍に留聾せんとし、帝、不縁に依て百折の沙門豊凶を内裏に入れ、病鮭
を斬る串があつた。
− β5 −沈五十節 牛四郎 究耶数:;ミ 豊閻は夙に風化を某ひ、日本に衣入して居たが未だ駆法周ねからす、橋州に慧使が潜んで居 ∴如く、披は豊後の民間に萬を構へてゐた。時に帝不縁あり三賛に探せん事を問豆るゝや、物部 守屋、中臣勝海、肋に反して彿者排斥を稀へ、蘇我馬子、帝の旨を承く。皇弟穴柚部皇子は、豊 国の名を聞いて下書招請し、内に入れて説法せしめた。帝、疾篤きに及び、法師は所念し、鞍 部多須郡は帝の須めに乞ふて坂田寺を建立し、百済の傭工こ命じて丈六の備後を作・り、以て中 食を斬ったが帝は四月初九日遂に崩す。其後、聖徳太子等の黎僻派は排揮家を滅ぼし、闇天† 寺を建て、豊周を請して落慶骨の供養噂師とし、後、信持たらしめにと云ふ。豊岡は豊後でな く猶ほ貿慣と云ふが如︿、韓国を指すとの読もあるが、何れにせよ本名を失した老らしい。芸. 紀二十一。﹃高将停﹄七十二童繹書.凸十六、二十。︶ ︵七︶豊年、即ち崇岐宿の元年︵西、五人入牢︶−一﹂は、百痺よーリ凍る者多く、又、我潤より渡 って末法する者も出で、社家漸次親密を加\た。百済昼二月、㍊率首信を我に遣はし、沙門慧 偲並に備舎利を献せしめ又、寺匠中大良?早天文。⋮艮市子い三人、完工、意帥の白如等イでも併せ 貴人し、上表して甲フ、﹃陛下賎酢、肇輿邪道、洗骨震流之夢、法王酉凍之猷於今信夫、伏箭陛 下、照僻目於若水之用.∵花慈雲於扶桑之邑r〒こ。又、綺照・令成¢恵衆長山宿−道産◎令闘等の  ̄ ̄ り ′′ .ノい 一 ̄
係餉の鮮日るナこ見りエ上史敦俳
沙門、及び寺工銀盤博士。克博士・重工をも献じたと云ふ。多くの碩徳、工巧の狩衣せるは、
之でも明かで此年十月.汝興寺の完成されたのも、此等に負ふ所少定くh仏からう︺︵﹃紀﹄二十 一。﹃梓書﹄二十。﹃故桑蟹モ﹃和漢三才置曾﹄。︶此よら発き、先年六月、百紡朝貢位の凍るや、書信尼は馬子に乞うて百終に留撃せんとし、
出家は戒を似て本となす者、本朝の戒撃は未だ傍らぎるにより、百済に赴いて戒法を受聾せん
希望を述べたが、政経に妨げられて遷延、愈々此の年四月、素願を達して、書信工嘩寂−悪書の三尼、百済に赴いた。彼等三人は、彼の地に留在、求法修戒三年に亘♭、十戒六法具戒三
重悉く成就して、菜峻帝の三年︵酉、五九〇年︶三月蹄朝した。蹄囲の後、楼井寺し任し、此より出家受戒の者頻出す。冬、鞍部多須奈、出家して徳勢と糾し、書取。善通⑳妙徳。法定。
照善・智聴・善智稟÷善光の八人、相次で出家受戒し顆︶中には、善徳。善妙㊦妙光等の尼恰も輩出した。
其の盛や想ふべしである。特に書信尼の︼家は、歴世異常に忠勤し、興法昌道の念に圧く、
食めに、推古帝の十四年五月には、銅繍彿像の成って元興寺に安んせらるゝに常り、功労者の
所以を似で鳥彿師に左の如き詔勅を賜はつたと云ふ。﹃牡爾鞍作鳥、先皇防備乗求舎利、汝剋司
′1 ( −■ ̄ ̄ JJ ■ ̄読五十雰 年四第 究研改宗 馬連等、便献舎利、用明帝不渡。汝父多須郵券出家碕福、叉汝城島、出家馬本朝之愛逆、人1快欲 躊僻像、不待善模、汝之所献以鳥篭模、 大男世蕃忠、一緒巧功、順不得而柄、無旭健徳、 畷圧徴希署大仁位、兼以近州坂田郡二百畝、益食邑。﹄と、其の優渥なる空軍ピ脱すや。二蒜巴 二十一。﹃渾審﹄十八、二十。﹃三園彿法﹄下。﹃扶率≡二っ﹃上菅聖徳法王帝詭.ヨ ︵入違口信等三尼掃朝より三年を経て、推古帝の即位と共に四月、聖浩太子頂改となり、敵芳 輿彿の計成わ、翌年、三貿昌隆の詔法を下し、翌三年︵西、五九五年︶ には、僻鷲の棟梁と云 はれし慧聴が、百済から凍入して居る。彼は、慧慈と倶﹁い伸也弘通に努め法典寺戊るに及んで、 此に任せし事、前述の如くである。此の慧聴は、七年前、崇峻帝の元年、多くの八と倶に、 彿舎利を貢献し凍り馬子に戒法を説ける人と同一八か、ま托は全くの別人か、十分には判らぬが、 或は別人かも知れない。慧慈は後、韓国したず、披はその記録無き一で見ると、本朝に終つ佗と 見ゆる。︵﹃紀﹄二十二。﹃澤書﹄十六、二十。﹃高将俸﹄六十七。六十九。﹃扶桑≡二。︶ 叉、此の年、春、南海の濱に浮査異材有りり夜は光Jぜ放ちて蜜雷の如/、、四月遂に淡州の南 濃に漂著したと云ふ。大さ一間、長さ八尺、浩揖の民収って薪とするに、煙造に華し。以て朝 廷に献じた所、太子奏しT日う、之れ南天竺南海の崖に慶する沈水香木、帝、彿像を造るに天 ーー ββ −
係開の鮮臼るナこ見リエ上史敦俳 紳の感じて標注寸イり冊ならんと。帝、悦んで百済の彿工に命じ、轡晋像を彫成しで.富野此好守 に安置した。此▲山條も時々光を放つ一三云ふが、如何にも放光祐像の話と異曲同構に思はるる。 へ﹃揮書﹄二十。﹃扶桑章一。︶ ︵九︶推古帝の十年︵西、六〇二年︶十月、三諭の大家、百済の軌勘が東胡したむ彼は三諭の みならす、内外諸般の葦術に長じて居たので、選を受けて入胡するや同陣に、謄本。天文。地 理の書、鞄に遁甲方締の寧ぜも節し、勅許に依て元興寺L任して居つ托。是の時、書生三四人 を選抜して、執し︿親劫に聾ばしめたので、陽胡史親玉陳は暦扶を習ひ、大友村主高槻は、天 文遁甲を学び、山背駐日並立は方術を修め、各々聾習完航したと云ふし此等に就ては、聖徳太 子許して日う。﹃吾れ衡山に在りし時、勘は我が弟子であつたが天文地理聾を嗜むを以て、吾屡 々異乗と垂術とを混紡するを呵した事があるが巳ます、宿縁に依て又、吾を追縦し凍つ㍍.1コ と。太子の高邁尊大の自信を見よ、日揮。観勒の碩徳に封して此の言あり、其の凡人に非るや ヽ 必せりだじ其の後、二十鎗年 推古帝の三十二年甲申︵西、六二四年︶四月に至って、比丘、 斧を執って其の親父を穀暮する者出づるに泊び、帝、特に群臣を召して詔を発し、﹃央沙門者、 蹄敬三貿、従事戎法、何無漸悌、作此悪逆、股甚塊之.恰尼犯罪者、悉捕刑之、し﹄とJ〃ハノに薦 _ ∴1ェ)−
戟五十第 年四第 究研数㌫
め、一時、多くの滑尼、稽疑を被る者移しき数に達したし観勒、乃ち上表して、﹃百済先手・・・
東上彿像経論、未浦河歳、是以悍尼不習穣鍵1︰伏願除大逆者、基飴悉赦勿準出と云ふや、
帝、重ねて詔はく、F夷道八街犯法、仰以缶俗人、故自今巳彼、位階正僧都、机鷹粉枚伶尼。.bと∪斯くて、観動、選ばれて階正となり⊥最魔の徳杭、恰都に任せられた。之が本邦、僧綱を
立つるの始めである。︵更に、阿曇連が法頭に任せられたとあるが同時である。︶貯網の定まつたのは、四月であるが、更に同じ推古帝の三十二年九月の訓査に放ると、皆腫、天下の寺及び
滑尼の数ほ、寺四十大所、滑八百十六人、尼五首六十九人、併に一千三富八十五人とある。之
を一寺に配督して考ふると凡そ三十鎗人となる。一寺に三十人山階尼ありとは賓に盛んであつ
た横が想ほれる。其の後、次第に、彿法興隆するにつれ悍尼の増加しだ標を見るに、之ヰり五
十三年後、天武帝の四年︵西、六七六年︶四月には、﹃請鰐尼l手四宵除而大設蘇蔦﹄と云ふ革 あ、り。叉十四年後、持統骨の四年苗、六九〇年︶七月には、﹃=兄=以経緯綿布、訴施七寺安居沙門三千三百六十三、別鶉皇太子、春施三寺安居沙門三百二十九。﹄とあり、同じく六年の査に
は、天下の誰寺五首甲丁五所とある。二千四百人を請じた際には、天下数千の恰ありしト与るペ
く、三千七百人の抄門を供養した甲には、廣くは其れ以上の貯尼が屠ったに拉ひない。此等の
−−− 」川 −−・係闘の鮮日るアニ見リエ上史.数悌