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『尾蠅歐行漫録』の諸本と漢語の層

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(1)

『尾蠅歐行漫録』の諸本と漢語の層

著者 浅野 敏彦

雑誌名 同志社日本語研究

号 20

ページ 54‑66

発行年 2016‑03‑31

権利 同志社大学大学院日本語学研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014531

(2)

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『尾蠅歐行漫録

(1)

』の諸本と漢語の層

浅野あ さ の 敏彦としひこ

キーワード

尾蠅歐行漫録,西洋見聞記,諸本の分類,漢語

要旨

文 久 二 年 遣 欧 使 節 団 の 一 員で あ っ た 市 川 清 流 ( 渡 ) が書 い た ヨ ー ロ ッ パ 歴 訪 記 録

『 尾 蠅 欧 行 漫 録 』 の 残 存 諸本 は 、 大 き く 二 系 統 に 分 類で き る こ と 、 諸 本 を 通 し て市 川 の 推 敲 過 程 が う か が え るこ と を 述 べ た 。 ま た 、 そ の推 敲 過 程 に 見 え る 漢 語 の 異同 を と お し て 、 漢 語 の 層 に つい て の 考 察 を 行 っ た 。

1.『尾蠅歐行漫録』について

文久二年、幕府は開港と開市の延期を交渉する目的で、竹内下野守を正使とするヨーロ ッパ諸国訪問の使節団を派遣した。『尾蠅歐行漫録』(以下本書とする)は、副使である 外国奉行兼神奈川奉行松平石見守の従者市川皞(2)が文久 3(1863)年に「其聞見スル所ノ一 班ヲ記」(序文)したものである。7月 15 日の記事のみが欠けているだけで、漢字片仮名 交じり文で全行程を記した六巻からなる書物である。

2.作者市川皞について

作者は、羽田文庫本序文に「文久第三歳次癸亥闌春日 市川皞誌」と記されている。な お、羽田文庫本は「市」を朱書して補っている。板澤(1929)が引用紹介している大英博 物館本奥書には「源清流」とある。

後藤(1976)は市川の経歴の概要を以下のように記している。なお、後藤(1981)にお いても、「清流の最期はいまだに知りえない」と記している。

市川清流、名は皞、また渡といゝ、のちに清流と称した。文政七年(1824)の生れ である。出生地も不明であり、生い立ち、学歴も知りえない。たゞ、国学をまなび、

和流草体字にたくみであり、特に漢字については深い知識を持っていたようである。

後 藤 ( 1976) は 市 川 に つい て 、 明 治 9 年 9 月 に 文部 省 内 に 設 置 さ れ た 編 輯 寮に 出 仕 、 箕 作 麟 祥 の も と で 翻 訳の 補 佐 を す る 仕 事 に 従 事 し、 「 先 任 者 に は 辻 士 革 が あり 」 と 指 摘 し て い る 。内 題 に「 明 治 四 年 刊 行 、大 学 南 校 版 」と あ る『 輿 地 誌 略 』( 架 蔵 本 ) 巻 一 の 最 終 丁 72 丁 裏 に 、 そ の 辻 と 名 を 並 べ て 、

(3)

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川 上 寛 模 画

辻 士 革

同 校 市 川 清 流

と あ る の が 、 そ の 証 と な る(3)

3.『国書総目録 補訂版』所載の諸本

『国書総目録 補訂版』(岩波書店、1990 年)によると以下のとおりである。本稿での 略称を()内に示した。

国会図書館(国会本)、内閣文庫(内閣本)、香川大学神原文庫(神原本)、東京大学 史料編纂所(編纂所a本)、名古屋大学岡谷文庫(岡谷本)、東京都中央図書館近藤 海事記念財団文庫(近藤本)、豊橋市図書館羽田文庫(羽田本)、名古屋市蓬左文庫 資治雜笈

4

輯(蓬左本)、岡山大学池田文庫(池田本)

なお、同書は活字に翻刻されたものに、日本史籍協会叢書 97『遣外使節日記纂輯二』(日 本史籍協会、1929 年)のあることを示しているが、底本の「維新史料編纂会所蔵ノ轉冩本」

は、維新史料編纂会が、1949 年に東京大学史料編纂所に吸収されたので、以下、活字の底 本となったものを編纂所a本、活字となったものを協会本と呼称することにする。なお史 料編纂所のサイトに画像が公開されている巻一のみの零本(4)は編纂所b本とした。後藤

(1981)には論文作成当時の資料として拠られた『国書総目録』にあげられている諸本「全 部に目を通すことができた」とある(5)

さらに、国文学研究資料館電子資料館「日本古典籍総合目録 DB」によると上記以外に以 下の諸本の記載がある。

盛岡市公民南部、栃木県立図書館黒崎文庫(黒崎本)、横浜市大鮎澤文庫、盛岡公民

[盛岡中央公民館](盛岡本)

上記以外にも、『大英博物館所蔵和書目録・補遺篇』に「市川 ICHIKAWA Kō.尾蠅歐行漫 録」とあり、「写本、6 巻、1863 年の成立」などの情報が付されている。大英博物館蔵本 は、市川がアーネスト・サトウの勧めで寄贈した旨が奥書に記されている(板澤 1929)。

また、楠家(1992)の注2(同書 188 頁)には、サトウの縁者である武田家所蔵のサトウ 旧蔵本があることを記している。さらに、国文学研究資料館電子資料館『コーニッキー・

欧州所在日本古書総合目録データベース』にはケンブリッジ大学図書館の所蔵を記載して いる。

以下の記述は、国会本・蓬左本は全冊複写、黒崎本は一部複写、編纂所b本・羽田本・

盛岡本はネット上に公開されている画像ファイル、内閣本は実見と全冊複写、池田本、岡 谷本、神原本、近藤本、編纂所a本は、各所蔵機関のお世話になり実見した。盛岡市公民 南部本、横浜市大鮎澤文庫本の二本は未見である。

(4)

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4.諸本の分類

未見を二本残しているが、概要を把握できると判断して、巻三までの本文で、諸本分類 の着眼点を次のように定めて、これらを指標に用いて諸本を分類した。

①本来序文とすべきところを巻一とする。

②序文と正しく記す。

③凡例に「一文字ハ亞西亜州中ニテハ」(羽田本)以下の記載の有無。

④「異邦數目呼聲表」、「航海氣候大概表」、「驗温器三家異製辨」記載の有無。

⑤使節団の名簿を記載した余白に、乗船した應典(オーディン)号の概略図記載の有無。

⑥巻三、三月二十五日の条に記載する気球についての『博物新編』引用の有無。

⑦巻三、四月二十四日の条に「太平天国告文」を記載。

⑫巻三、四月二十四日の条に「太平天国ノ告文一枚アリ出末」として、「太平天国告文」

を巻三末尾に記載。

上記の結果を一覧させたものが次の【 表 】で あ る 。内 閣本 、編 纂 所 b 本 は 序 と 巻 一の み の 零 本 で あ る の で ⑥ 以 下は 該 当 せ ず 「 欠 」 と し た 。ま た 、 * は 未 調 査 を 表 す 。

【 表 】 諸 本 は 五 十 音 順 で 配列 し た 。 池

田 本

岡 谷 本

神 原 本

黒 崎 本

国 会 本

近 藤 本

内 閣 本

羽 田 本

編 纂 所 a 本

編 纂 所 b 本

蓬 左 本

盛 岡 本

③ 有

⑥ 有

なお、アーネスト・サトウが英訳の際に底本とした本、大英博物館本、ケンブリッジ大 学図書館本については後述する。

上記の【表】をもとにすると、『尾蠅欧行漫録』の諸本は、次の【図】に示した二系統 に大きく分けることができる。ただし、下位分類については、語句などの比較を行う必要

(5)

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があるが、全体にわたっての作業はまだできていない。本稿では正月七日の記事を取り上 げて、各諸本間の関係について現調査段階での考えを述べたが、諸本の親子関係、原本に 近い本などについて言及するに至っていない。それ故、諸本の順序は関係を示したもので はなく五十音順に記載したものである。

【 図 】

A国会本・内閣本・羽田本

B池田本・岡谷本・神原本・黒崎本・近藤本・編纂所a本・編纂所b本・蓬左本・盛 岡本

以下、ネットの利用により画像の閲覧が可能である点で、Aを羽田本(6)、Bを盛岡本(7) でそれぞれ代表させることがある。

5.羽田本について

現在豊橋市図書館羽田文庫蔵になっている本には、最終巻である巻六の末尾に、他の本 には見られない隷書で書かれた七言絶句があり、最終丁には本書の寄贈者などの記載があ る。漢詩は以下のとおりであるが、私に訓読したものを( )内に示した。

題歐行漫録後(歐行漫録の後に題す)

欲抛劍書偏学共(剣と書を抛ちて偏に学を共にせんと欲すれども)

還懐世事触蠻争(世事を懐きて触蠻の争ひに還る)

夢魂不假垂天翼(夢魂は垂天の翼を仮らずして)

超海再遊龍動城(海を超えて再び龍動城に遊ぶ)

ただし、原文の字体を通行字体に直した。「龍」は『康煕字典』の「補遺」「巾」の部に

「字彙補與龍同」とある「龍」の異体字、「動」は『康煕字典』「辶」部に「 玉偏古文動字」

とある字が用いられている。「龍動城」は、市川と同じ文久元年遣欧使節団の一員であった 杉徳輔『環海詩誌』(近代デジタルライブラリーによる)にも見える。

後藤(1981)にもあるが、最終丁は次のようにある。

歐行漫録全部六巻

慶應元乙丑年十一月奉納之 寄附主 作者 江戸 市川渡皞

紹癶

滝川源五左エ門道武 文預 羽田埜常陸敬雄

4

行目「紹」の次の字「癶」は近似の文字を用いた。最終画の五画目がない字であるが、

「紹介」であろうと解しておくが、後藤(1981)も「介」とする。

この最終丁にある「寄付主」をそのまま受け取ると、市川皞その人が奉納、寄贈したも のであり、最後の漢詩なども市川自身の感慨を付け加えたものと考えられ、羽田本が「原 本」ということになる。しかし、この点については、更に考察を加えるべきことがあり、

(6)

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これだけをもって「原本」、あるいは原形態に近いとすることは保留しておきたい。

羽田八幡宮の神主であった羽田埜常陸敬雄は、愛知県図書館蔵(貴重和本デジタルライ ブラリーによる)の「万延元年庚申冬朔/きゝんのこゝろえ/三河羽田文庫蔵板」とある本の 序文に、「万延元年庚申神嘗月/三河国羽田文庫之文預羽田埜敬雄」とあるところから、羽 田文庫の文庫長に類する役職をも兼ねていたと思われる。豊橋市図書館HPにある「羽田 文庫デジタル版」には、「羽田野敬雄が国学者平田篤胤の門下だった」とする。羽田本各冊 見返しに、「敬雄云」あるいは「タカシ按」「タカシ云」として「◯文久元辛酉十二月廿二 日 江戸 発船 同十二月廿九日 長崎港 泊船」など、内容を目次代わりに朱書して いる。

なお、羽田本について、後藤(1981)は以下の点を指摘している。

・転写本のなかで注目すべきもの

・立派な字であるが清流の自筆ではあるまい

・末尾に朱筆で加えられた本文は、大英図書館(大英博物館)本とほとんど完全に一 致する

・大英図書館本となった写本によって校合されたことは明らかである

・校合は羽田埜敬雄の筆と認められる

羽田埜敬雄が加除、訂正を「大英図書館本となった写本によって」行ったとするには、

羽田本と大英博物館本とでは後述するように異同があって疑問である。羽田本巻一と巻六 とでは筆が異なることもあり、明らかにすべきことは多くあるが、本稿は、以下の

8、10

で現存諸本の中では、羽田文庫本を『尾蠅欧行漫録』を考察する対象として問題がないこ とを述べるにとどまる。

6.国会本

「帝国図書館蔵」「晩翠楼図書部」の蔵書印がある。「晩翠楼図書部」は、大阪運上所の 蔵書印のようであるが(8)、大阪運上所は、1867(慶応 3)年 8 月に川口に出来た川口運上 所が、翌年 1868(明治元)年 7 月に大阪港の開港と同時に大坂運上所と改称され、明治 6 年(1873)1 月 4 日に大阪税関と改められた経緯をもっている(9)

国会本は、他の指標では羽田本と同系統と思われる本文を持つものであるが、諸本分類 の指標としてあげた⑤がこの本のみにあって、羽田本も含めて他本にないところである。

「應典号」の図は、本文の「本船諸量度ノ大概ヲ左ニ掲ク」とあるのによって図を描いた ものである。他本にない点を重視すれば、国会本が本書の完本とすべきものとも考え得る。

7.内閣文庫本

「大日本帝国圖書印」と「日本政府圖書」の蔵書印があり、内務省の罫紙に写されてい る。羽田本及び⑤を除いた国会本と同系統と思われるが巻一のみである。

(7)

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8.羽田本と国会本について

同系統としたが、以下に記す点でこの二本は大きく異なっている。羽田本の巻六末尾は、

下記のようになっている。

實ニ縦横一萬里上下三千年宇宙間ノ一大壮遊ト謂ベシハ ン モ可也特憾ム余海外ノ言語文 字ヲ学ハズ諮詢由ナク僅ニ其目撃セシ所ヲ億度スルヲ記スルノミ幸ニ望ム他日後航 ノ人アリテ早ク余ガ謬妄ノ説ヲ正サレン事ヲ尾蝿歐行漫録巻之六大尾

「謂ベシ」の「ベシ」に削除の印を入れて「ハンモ」とした以降は朱筆であり、「謂ベシ」

の行と前述した漢詩の題に挟まれた行間に書き入れられている。国会本には漢詩はない。

加えて下記のようにあり、下線部が羽田本と文言、表記に異同が見られる。国会本の「尾 蝿歐行漫録巻之六大尾」は料紙の左端に記されている。後藤(1981)が大英博物館のガー ドナー博士から送られてきた巻六末尾の複写に拠って翻刻した本文によると、大英博物館 本は「探討由無ク」とあり、国会本の本文と同じであるが、「諮詢由ナク」と書き入れてい る羽田本とは異なっている。「幸ニ」とあるのは、国会本とは異なり、羽田本の書き入れと 同じである。

實ニ縦横三萬里上下三千年宇宙間ノ一大壮遊ト謂ハンモ可也特憾ム余海外ノ言語 文字ヲ学ハズ探討由無ク僅ニ其耳目ノ触ルヽ所ヲ億度スルヲ記スルノミ幸ヒニ望ム 他日後航ノ人アリテ早ク余ガ謬妄ノ説ヲ正サレン事ヲ

尾蝿歐行漫録巻之六大尾

羽田本、国会本と異なる本文をもつB系統の盛岡本、蓬左本は以下のようにあり、羽田 本にある書き入れ部分は無い。なお、蓬左本は漢字片仮名交じりの巻と漢字平仮名交じり の巻とが混在している。

實ニ縦横一萬里上下三千年宇宙間ノ一大壮遊ト謂ヘシ(盛岡本)

實に縦横一萬里上下三千年宇宙間の一大壮遊なりと云へし(蓬左本)

末尾の異同においても、先に大きく二系統に分けたことには矛盾せず、二系統に分ける 考えは認められるかと思う。

9.アーネスト・サトウ英訳本の底本および在欧本について

楠家(1992)は「昭和六十年に横浜開港資料館で開催された「アーネスト・サトウ展―

幕末のイギリス外交官」で武田家所蔵のサトウ旧蔵本『尾蠅歐行漫録』が出展されたこと があった」とする。サトウ英訳本の雑誌、新聞の掲載号については楠家(1992)に精しい。

本稿は、雄松堂から復刻された” The Chinese and Japanese Repository of Facts and Events in Science, History and Art, Relating to Eastern Asia”によった。

『尾蠅歐行漫録』の「凡例」にあたるところは、サトウ英訳本では 6 項目で、羽田本、

国会本、内閣本にある「一文字ハ亞西亜州中ニテハ」以下の記述が無いこと、「異邦數目呼 聲表」、「航海氣候大概表」、「驗温器三家異製辨」の記載が無いこと、三月二十五日の条に

(8)

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記載する気球に関して『博物新編』の引用が無いことからすると、英訳本はB系統本の本 文によったと推測できる。「太平天国の告文」の記載もないのであるが、英訳本が巻三の五 月三日の記事の後”To be continued”とあり、巻三の途中で終わっていて巻三の末尾に「太 平天国の告文」の有無が確かめられないが、四月二四日の条には告文の記載はない。

大英博物館本は、本稿の記述は、板澤(1929)に紹介されている引用本文によっており、

あくまでも推測の域を出ないものである。板澤(1929)にある書き抜きは、序文、3 月 12 日、5 月 17 日、20 日、27 日、6 月 1 日、2 日であるが、今、序文をとりあげて、羽田本、

盛岡本、大英博物館本の異同を示す。

羽田本 盛岡本 大英博物館本

巻之一 序 序

重修セラレン 修セラレン 重修セラレン

正副監 正副觀 正・副・監

火輪軍艦 火輪車艦 火輪軍艦

遠西 泰西 泰西

附驥傔従スル 附驥スル 附驥スル

風壌 民風物情 風壌

市川皞誌(市は朱書) 川皞誌 市川皞誌

なお、羽田本は「巻之一」、大英博物館本は「序」となっているところ、また、羽田本の

「傔従」は補入であるが、この部分が羽田本と大英博物館本とが異なるところである。三 月一二日の条も、B系統本が「又聊羈情ヲ慰メタリ」で終わっているのに対して、羽田本 は朱書で書き入れていて(今下線で示す)、「即チ彼ガ贈ル所ノ短簡ヲ左ニ掲グ曰大日本御 上使和蘭國ニ參ル時ホフマンハ日本友ダチニ和蘭贈物ヲ上マシヨト望ミマス」(振り仮名 は省略した)と続く。大英博物館本は「又此人余ニ短簡ヲ贈ル、其文ニ曰、大日本御上使 和蘭國ニ参ル時「ホフマン」ハ日本友ダチニ和蘭ノ贈リ物ヲ上マシヨト望ミマス」と下線 部の本文間に異同がある。大英博物館本は、A系統本の本文と思われるが羽田本とは異同 がある。また、国会本は「即チ彼ガ贈ル所ノ短翰ニ曰大日本御上使(以下略)」とある。

国文学研究資料館電子資料館『コーニッキー・欧州所在日本古書総合目録データベース』

の詳細画面には、アーネスト・サトウの蔵書印「英国薩道蔵書」が押されていること、「『遣 外使節日記纂集』(日本史籍協会)第2巻所収本と小異あり。朱筆校訂書入(朱校字は同纂 集本と異同が多い)

」という記載がある。史籍協会本と小異があるのは、英訳本から類推 した、サトウの拠った本文が史籍協会本であろうとする類推を助けてくれる。また、「朱校 字は同纂集本と異同が多い」というのは、サトウ(あるいはそれ以外の人物)が、羽田本 系統の本文と対校する機会があったことを想像させるが、サトウが勧めて市川に納めさせ た大英博物館本の元になった本との校合であったかもしれない。

本節は、原本を実見しないままの記述となっている点、後日に課題を残している。

10.『尾蠅欧行漫録』の成立過程

今、羽田本に書き入れ、削除が施されている一月七日の記事を例に取り上げて、本書の

(9)

61

成立過程について考えてみたい。[羽田原本]は現豊橋市図書館羽田文庫本から、朱筆の書 き入れを除き、削除された本文を元に戻して作成した復元本文である。[羽田校合本]とし た太字部は、現羽田文庫本の書き入れである。なお、羽田本以外のA系統の本文にあって、

羽田原本、羽田校合本にも無いのが二重下線部である。また、B系統の諸本にあって、A 系統のいずれの本にも無い部分に波線を施した。B系統本の中からは、公開された画像、

複写などによって手元での確認が可能なものを取り上げた。新旧字体の区別は原本に従っ たが、「塲」を「場」とするなど字体は通行字体によった。

【資料1】

〈A系統本〉

[羽田原本]余同僚ト出寓市外東ノ方四丁許ニ行ハ幅凡二丁許ノ芝生ノ生タ廣場アリ 是便遊息ノ所又練武塲トス

[羽田校合本]余同僚ト出寓市外東ノ方四五丁許ニ行ハ幅凡方二丁許リノ敷クカ如ニ 細艸ノ生ヒタル廣塲アリ是便士民遊息所又ハ練武ノ場トス

[国会本]余同僚ト出寓市外ノ方四五丁許ニ行ハ幅凡方二丁許ノ處敷クカ如クニ細艸 ノ生ヒタル廣塲アリ是便遊息ノ所又練武ノ場トス

[内閣本]余同僚ト出寓市外ノ方四五丁許ニ行ハ幅凡方二丁許ノ處敷クカ如クニ細艸 ノ生ヒタル廣場アリ是便遊息ノ所又練武ノ場トス

〈B系統本〉

[黒崎本]余同僚ト出寓シ布外東ノ方四丁許ニ行ハ幅几二丁廣四丁許ノ芝生ノ廣場ア リ是使遊息ノ所又練武場トス 注:「布外」「幅几」「是使」は黒崎本のママ

[編纂所b本]余同僚ト出寓シ市外東ノ方四丁許ニ行ハ幅凡二丁廣四丁許ノ芝生ノ廣 場アリ是便遊息ノ所又練武場トス

[蓬左本]余同僚ニ出寓シ市外東ノ方四丁許ニ行ハ幅凡二丁廣四丁許ノ芝生ノ廣場ア リ是便チ遊息ノ所又練武塲トス

[盛岡本]余同僚ト出寓シ市外東ノ方四丁許ニ行ハ幅凡二丁廣四丁許ノ芝生ノ廣場ア リ是便遊息ノ所又練武場トス

上記の異同から、【資料2】に示した四段階の成立を考えたが、第一段階ア、イについて は、いずれが先行していたかを明らかにする資料は無い。原『尾蠅欧行漫録』を第一段階 イとすれば、「出寓シ」を「出寓」と簡潔な表現に訂正したのが第一段階アの[羽田原本]

となる。ただ、子細に見ていくと、B系統の三本にも「便」と「便チ」などの異同があり、

第一段階イを原『尾蠅欧行漫録』としても、各諸本間の親子関係を明らかにできていない 今、いずれが原『尾蠅欧行漫録』であったのかを現残存資料の範囲で明らかにすることは 難しい。

【資料2】

第一段階ア:[羽田原本]出寓市外東ノ方四丁許ニ行ハ幅凡二丁許ノ芝生ノ廣塲アリ 是便遊息ノ所又練武塲トス

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第一段階イ:[黒崎本]・[編纂所b本]・[蓬左本]・[盛岡本]

注記:羽田本「出寓」が「出寓シ」、羽田本に無い「廣四丁」となっている本文。

第二段階:[国会本]・[内閣本]出寓市外ノ方四五丁許ニ行ハ幅凡方二丁許ノ處敷ク カ如クニ細艸ノ生ヒタル廣塲アリ是便遊息ノ所又ハ練武ノ塲トス

第三段階:[羽田校合本]出寓市外東ノ方四五丁許ニ行ハ幅凡方二丁許リノ敷クカ如 ニ細艸ノ生ヒタル廣塲アリ是便士民遊息所又ハ練武ノ塲トス

【資料3】

第一段階ア:[羽田原本]二銃卒アリテ此ヲ守ル

第二段階イ:[黒崎本]・[蓬左本]・[編纂所b本]・[盛岡本]二銃卒アリテ此ヲ守ル 第二段階:[国会本]・[内閣本]二銃卒アリテ之ヲ衛ル

第三段階:[羽田校合本]二銃卒アリテ之ヲ衛ル

第一段階イが、凡例に「文字ハ亜西亜洲中ニテハ」以下の文字の種類、外国語の数字の 呼び方などのない「原本」に近いものであろうと思われ、これが流布本とも言うべきB系 統の諸本であり、下に述べるように早くに流布したものと思われる。その後、B系統本に はない上記の記述や『博物新編』の気球のことを追加し、巻三の巻末においてあった「太 平天国告文」を本文の該当箇所に入れるなどして、増補、整理したのが[羽田校合本]と した現羽田文庫本から書き入れなどを除いた本である。この段階で、羽田八幡宮に奉納さ れたのであろう。奉納後、学者でもあった羽田埜敬雄が見たのが、現羽田文庫本にある書 き入れ本文を持つ写本であった。

市川が羽田八幡宮に奉納したのは、羽田文庫本の巻末記載によると慶応元年である。編 纂所b本は、「甲子年晩秋写」とあり、史料編纂所「所蔵史料目録データベース」は元治元 年とする。また、神原文庫の巻六末尾に「元治二乙丑四月上浣於東都得之」とあり、元治 二年四月上旬に取得したことが判明する。元治二年四月七日に慶応に改元されたので、「元 治二年四月上浣」は四月一日から六日の間となるが、厳密に考える必要もなく、西暦 1865 年四月上旬に求めたと捉えておく。序文に文久三年で西暦 1863 年とあるので、次の年

1864

年に編纂所b本が書写され、1865 年に神原文庫の前の持ち主(10)が江戸で一本を取得して いるので、本書は成立後長く時間をおかずに広がっていたものと思われる。

11.諸本間に見られる漢語の異同について

以上、『尾蠅歐行漫録』の成立過程を考えてみた。さらに、市川が納本した大英博物館本 の本文をA系統本とB系統本と並べて置くと、全て作者市川皞(渡、清流)が関与してい たと考え得る。言い換えれば、市川の推敲過程が諸本として残っていると考えるのである。

なお、後藤(1981)は大英博物館本を市川の自筆本であるとする。

推敲過程に現れた漢語の異同を通して、今後、市川渡の使用語彙における漢語の層を考 えていきたいが、本稿では、恣意的に三対の漢語を取り上げて、今後の見通しをつけてみ たい。

(11)

63

「遠西」と「泰西」

序文における異同である。羽田本などA系統本が「徧ク遠西ニ光華ヲ迨ス」とするとこ ろを盛岡本などのB系統本は「徧ク泰西ニ光華ヲ迨ホス」とする。簡便な方法をとって、

『日本国語大辞典第二版(11)』を見るに、盛岡本に見える「泰西」は、見出し項目が立てら れて、「(「泰」は極の意。西の果ての意から)西洋諸国の称。」と語釈があり、例文は、『水 流雲在楼集』(1854 年〕、『小説神髄』(1885~86 年)、『風俗画報』を示し、「漢文」の例に は、清末の学者呉汝論の例文をあげている。『漢語大詞典』(CD-ROM 版 Ver3.0)は「猶極西。

旧泛指西方国家,一般指欧美各国」として清時代の例をあげる。また、「中央研究院漢籍電 子資料庫(12)」の検索結果でも清代の例しかあがってこない。これらからすれば、「泰西」は 近世中国語として使われていた語であろうと考えられる。

一方の「遠西」は、『日本国語大辞典第二版』は見出し語としてあげず、「遠西」が冠せ られている書物名があがっている。『洋学史事典(13)』には、「遠西」を書名に冠した文献名 が

12

あがっている。その中の『遠西奇器圖説(14)』は、イエズス会士テレンツ(鄧玉函)

が口述し、王徴が訳して、天啓 7 年(1627)に出版されたものであり、この書は「日本で は禁書令のリストに入っていなかったためか、輸入されて蘭学者や一部の知識人が接して いた」(『洋学史事典』)とある。「遠西」は、『漢語大詞典』には掲出されず、「中央研究院 漢籍電子資料庫」の検索でも用例が得られないが、17 世紀はじめには「遠西」という語は あったと考えられ、この語も「泰西」と同様、中国近世語であると考えてよいと思われる。

「泰西」を冠した書名もイエズス会士、ウルシスの撰述になる『泰西水法(15)』が 1612 年 に出版されている(序文に「万暦壬子」が見える)。この書は、幕府が「禁書に指定したが、

密かに輸入されたり、『農政全書』(1639)に転載された形で輸入されて相応の影響を与え たと思われる」(洋学史事典)とある。

「遠西」、「泰西」ともに、中国洋学書に出自を求められそうであり、その点においては 相違がないと見ることができるが、日本における受容に違いがあったと考えられる。『洋学 史事典』の見出し語に掲出されているのに限って言えば、「遠西」は宇田川玄随、玄真、榕 庵が好んで用いており、「泰西」は箕作阮甫が用いたと言えそうである。ただ、箕作阮甫に は『大西春秋』があり、「表紙と序は「泰西大事策」、本文には「大西大事策」と書かれ」

(『洋学史事典』)た翻訳書があって、箕作の用語は「泰西」にかぎられていたのではない。

また、「遠西」は医学、理学系統の翻訳書に、「泰西」は地理、歴史学系統の翻訳書に用い られている傾向があり、「泰西」は明治以降の出版物の書名にも見えるが、「遠西」は江戸 末までに出版物に限られているようである(16)

市川が「泰西」を「遠西」とした理由については後考を俟つことにしたい。

「風壌」と「民風」「物情」

「風壌」(羽田本、国会本、内閣本同じ)は『日本国語大辞典第二版』、『漢語大詞典』の 見出し語にはあげられていない。また「中央研究院漢籍電子資料庫」「開放文学(17)」を検索 してもヒットしない。「壌」は『説文解字』に「柔土也」とあり、「天地」と同義の語に「天

(12)

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壤」があり、どのような経路での理解であったかは分からないが、市川は「風土」と同義 語として「風壤」を用いたものと考えられる。そのように考えるならば、「風壤」は「民風」

「物情」と同義であると理解できるのではないか。なお、盛岡本の「民風」は『日本国語 大辞典第二版』には「物情人民の風俗。民間のならわし。」とあり、『本朝文粋』『史記抄』

『礼記』の例をあげる。また、「物情」は、『日本国語大辞典第二版』が(2)のブランチ で「世間の有様。世人の心情。人心。」として、延長七年(929)の日付を持つ古梓堂所蔵 文書、『玉葉』、『後漢書』をあげている。また、玉虫左太夫『航米日録』には「何以テ其政 事・物情深ク探ルヲ得ンヤ。遺憾ト云フベシ」(序文)と見える。「民風」は、六月二三日 の条に、羽田本、盛岡本ともに「民風ノ浮薄ニ流ルヽヲ禁ス」とある。

B系統の盛岡本に見える「民風」「物情」は中国出自の漢語であり、「風壤」は、「風土」

に倣って造られた語である。

諮詢と探討

巻六末尾、羽田本に「余海外ノ言語文字ヲ学ハズ諮詢由ナク」と補筆されている本文は、

国会本には補筆ではなく本文に「余海外ノ言語文字ヲ学バス探討由無ク」とある。辞書の 語義記述を見るに、両語の語義の違いは、「諮詢」が誰かにたずねることでものごとを明ら かにしようとする語義であるのに対して、「探討」は自らの力で明らかにしようとする語義 である。序文には「余蟹行ノ書ヲ学ハス鴃舌ノ語ニ習ハス何ヲ以乎諮-詢探-討彼之風壌ヲ 詳悉スルヲ得ン」とあり、両語共に市川の使用語であることは明らかである。また、「中央 計算院漢籍電子文庫」「開放文学」を検索した結果では、両語ともに古代にも近世にも用い られている。外国のことばと文字を学んでいないので、自分自身では明らかにできるすべ がない、という文意であるので、語義のうえでは「探討」が適切と思われる。既述したよ うに、後藤氏が自筆本と考える大英博物館本にも「探討」とあるようであり、国会本は自 筆本系統の本文を写したことになり、羽田本よりも後の写本ということになるが、博物館 本、ケンブリッジ大学図書館本は未見でもあり、写本の先後、親子関係については、繰り 返すが本稿では保留しておきたい。

以上、羽田本とB系統本の序文および羽田本と国会本の巻六末に用いられた漢語に異同 があるものを取り上げたが、その語性に大きな違いを見ることができないまでも、市川の 語彙の一端を見ることはできたと考える。

次に異同のない箇所に見える二字「漢語」(和製、漢字語も含む)を取り上げて『漢語 大詞典』の見出し語との比較を行ったのが以下の表である。「火輪軍艦」、「附驥傔従」は二 語に分けた。*を付した漢語は、『漢語大詞典』の用例が白話小説や清代の資料にのみ見え る漢語で、近世中国語と考えられるものである。下線を施した「漢語」は、『日本国語大 辞典第二版』に『尾蠅欧行漫録』以前の例が引かれている語である。

『漢語大詞典』の見出し語にある 『漢語大詞典』の見出し語にない 序

今茲、元年、台命、政府、盟約、重修、属官、

醫師、通事、譯官、従者、庖人、火輪、軍艦、

英国(現代中国語)、米行、前蹤、遠西、

一大、英人(現代中国語は英国人)、散歩 注記:「遠西」は上述したように、書物名

(13)

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同年、進発、政府、今次、海外、経歴、光華、

盛事、濫吹、僥倖、使君、附驥、傔従、人員、

減少、従者、日々、役事、羈絏、留滯、陪従、

蟹行、鴃舌、諮詢、探討、風壌、詳悉、聞見、

一班、管見、憶度、全豹

にあり、単独では例が無い。「前蹤」は、

『日本国語大辞典第二版』には『晋書』の 例を引いている。

凡 例

凡例(現代中国語)、寒暖、度數、西人、気 候、正午、方向、大低、須叟、変遷、陰晴、所 在、経度、方今、航海、量算、里程、経歴、他 日、馬車、混然、風俗、飲食、音楽、觀場、大 同小異、錯雜、機械、名状、詳悉、丹青、増添

毎日、各所、規管、戸内、英国、航学、里 法、英語、改算、蒸車、憶算、家作、戯技、

一所、詳記、畧言、紛然、指語

簡単な調査から、市川は漢字の造語力を用いて造語を行ったり、白話語をも用いて見聞 記を記述したと言えるのであるが、このことは、当代知識層にとって、珍しいことでは無 く、玉虫左太夫の『航米日録』でも指摘できることである(浅野 2013)。

12.まとめ

諸本の調査を通して、親子関係を定められないにしても、大きく二系統に諸本を分類で きること、その異同は、作者市川皞の推敲過程を表しているのではないかと述べた。その ことは、語彙資料として『尾蠅欧行漫録』を用いるとき、市川の推敲過程とも言うべき諸 本を対校して用いることで、当代の漢語のありよう=層を明らかに出来るのではないかと いう見通しをもって、三対の漢語を例に挙げて若干の考察を行った。

【注】URL は 2016 年 3 月 30 日現在のものである。

(1) 書名は羽田文庫本の内題に見える「尾蝿歐行漫録」によった。外題は「歐行漫録」とある。

(2) 序文に記している市川皞を用いた。

(3) 市川については、自身が編んだ『対訳名物図編』に挿絵の補足、変更を行い『英国単語図解』と して出版したことについて、桜井豪人氏の論考「『対訳名物図編』の訳語について―『増訂華英通 語』『英語箋』と一致する訳語を中心に―」(茨城大学人文学部紀要 人文コミュニケーション学科 論集 15、2013 年 9 月)があることを丸山健一郎氏から教示を得た。

(4) 区分「写本」、請求記号「414593」で、「甲子年晩秋写す」とある。

(5) ただし、論文掲載後の出版である『国書総目録補遺』(1976 年 12 月)であげられた池田本はあげ ていない。

(6) https://www1.library.toyohashi.aichi.jp/toyohashi_library/catalog/02rekishi/

re_0046/top.html

(7) http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281 -066611 (8) 「函館市中央図書館デジタル資料」にある「約書和文案」の説明に、「大阪運上所が持っていた本

である」とある

(9) 「大阪税関の沿革」http://www.customs.go.jp/osaka/about/index01-2.html

(10) 神原文庫本に押されている蔵書印から、神原文庫に入る前は、幕末から明治にかけての本草学 者丹羽修治の所蔵であったことがわかる。丹羽は文政 11(1828 年)の生まれであるので、丹羽が

(14)

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江戸で取得したものであろう。丹羽修治については松島博「本草学者丹羽修治の研究」(三重県立 大学紀要、1971 年 3 月)がある。なお、神原文庫の蔵書印が丹羽修治のものであることについて は、中村隆嗣氏に教示を得た。

(11) ジャパンナレッジのサイトにある Web 版を利用 (12) http://hanji.sinica.edu.tw/

(13) 日蘭学会編『洋学史事典』雄松堂出版、1984 年

(14) 「京都大学電子図書館」(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html)の画像による。

(15) 早稲田大学古典籍データベース(http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/)の画像による。

(16) 新村出が京大図書館蔵のザベリオ聖人肖像を詠んだ「遠西の大きひじりの絵すがたに老い人さ びて心かしこむ」(「南ばんの名残」『アサヒグラフ』1948 年 5 月 19 日号.『新村出全集第 5 巻』

筑摩書房、1971 年所収)を遇見したが、新村出の歌の中という位相上でのことと考えられる。

「現代日本語書き言葉均衡コーパス」では、「泰西」の例は見えるが、「遠西」は例が無い。

(17) http://open-lit.com/list.php

【参考文献】

板澤武雄(1929)「和蘭に存する維新史料、特に文久二年日本使節の和蘭訪問について」(「明治文化研 究 5 巻 6 号」、『日蘭交渉史の研究』吉川弘文館、1959 年所収)

後藤純郎(1976)「市川清流の生涯―「尾蠅欧行漫録」と書籍館の創立―」(「日本大学人文科学研究所 研究紀要」18 号)

(1981)「市川清流の著作について(Ⅰ)」(「図書館学会年報」27 巻 2 号)

楠家重敏(1992)『幕末欧州見聞録―尾蠅歐行漫録―』新人物往来社

浅野敏彦(2013)「『航米日録』の漢語語彙―巻一を中心にして―」(『国語語彙史の研究三二』和泉書 院)

【付記】

本稿は 2015 年度に同志社大学石井久雄研究室、立命館大学文学部日文共同研究室での『尾蠅欧行 漫録』輪読の成果による。巻三の気球についての『博物新編』引用の有無は輪読会での彦坂佳宣氏の 教示によった他、羽田文庫本末尾の漢詩については石井久雄氏、書体の解読については浅野の元の勤 務先の卒業生小林順子氏の教示を得た。また、『大英博物館和書蔵書目録・補遺篇』の『尾蠅欧行漫 録』の記載については新井菜穂子氏の教示を得た。江戸写本の体裁等については中村隆嗣氏の教示を 得た。

『尾蠅欧行漫録』諸本の閲覧、複写については各図書館のお世話になった。また、立命館大学図書 館リサーチセンターには東京大学史料編纂所本の閲覧に必要なお世話をいただいた。記して感謝の意 を表する。

参照

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