28 FIELDPLUS 2015 07 no.14
フロンティア
南極の湖に広がる神秘の生態系をさぐる
田邊優貴子 たなべ ゆきこ / 国立極地研究所生物圏研究グループ
あまり知られていないことだが、
南極にはたくさんの湖が点在している。
生物はいるのか? 一年中水はあるのか?
そんな、知られざる南極の湖で行われている 生態系の研究とフィールドワークに 迫ってみよう。
写真1 雪と氷に閉ざされた白い大地にたたずむ アデリーペンギンたち。
南極大陸は氷と雪に閉ざされた「生命砂漠」?
南極と言えば、雪と氷に覆われ、人間を寄せ つけない荒涼とした白い大陸、と想像するだろう
(写真1)。南極大陸上の縁辺には、露岩域と呼ば れる大陸氷床に覆われていない大陸岩盤が露出し た地帯が存在しており、その面積は南極大陸の2
〜3%と言われている。この露岩域は、南極大陸 上で生物が棲息できる限られた場所であるが、極 低温かつ極端な乾燥という、生物が生命活動を行 うには極めて過酷な環境だ。そのため、南極大陸 の陸上生態系は極めて乏しく、まるで火星のよう な岩石砂漠の風景が広がっている。
小宇宙としての南極の湖
そんな「生命砂漠」のような南極の露岩域には 数多くの湖沼群があって、そのサイズや水質もさ まざま。日本の南極基地である昭和基地周辺だけ で100個以上もの湖が点在している(写真2)。普 段の生活の中で「南極の湖」という言葉を使うと、
“南極に湖? どうせ、真っ白な雪と氷に覆われた 湖でしょ?” と言われる。確かに昭和基地周辺の 湖は、1年のほとんどが氷と雪で覆われているが、
天候がよければ2週間〜1ヶ月ほどその氷が解け て、湖水面が顔を覗かせる。真冬になると気温は 最低マイナス40℃まで低下し、湖にも分厚い氷
が張る。と言っても、湖の氷は最大で2メートル 程度にしか発達しない。つまり、湖の表面にしか 氷が張らないのだ。外気温がマイナス40℃の中、
厚さ2メートルの氷の下には0℃よりも温かい液 体の状態で水が存在する。外気温との差は40℃。
想像してみると、気温5℃くらいの東京の冬に、
40℃の露天風呂に入るよりも温度差があるとい うわけだ。そして、南極の湖の中には、岩石と氷 の砂漠のような陸上とは全く違った世界が広がっ ている。湖底一面を覆うほどの豊かな植物群落か ら成る生態系が広がっているのだ。森か草原のよ うなその光景は、はるか昔に朽ち果てた遺跡が苔 むしたかのような不思議な雰囲気を漂わせている
(写真3)。
南極の湖は数万年前に、最終氷期の終わりとと もに氷河が後退して誕生した。南極大陸は人為的 活動の影響が地球上で最も少ない地域であり、さ らに植物の生長にとって重要な栄養が周囲からほ とんど入ってこない。極端にシンプルな生態系が 成り立っている。その中で南極の湖に広がる生態 系は、氷期—間氷期サイクルといった地球規模の 大規模な環境変動の影響を受けながら今日まで保 持され、湖底には生態系の環境変遷情報が保存さ れている。近接した湖沼は、同一の時間をかけ、
同一の気候条件のもとで現在に至っている。とこ ろが、水中を覗き見ると、湖ごとにそれぞれ独立 した生態系が成り立っている。近接しているにも かかわらず、その多くは河川や集水域(雨や雪 が流れ込む範囲)によって繋がっておらず、それ ぞれ全く違った湖底生態系構造となっている。こ れはまるで、湖一つ一つが小宇宙のようなもので あり、生物学や生態学の視点からすれば地球規 模の実験場であると捉えることができる。環境変 写真2 南極大陸の露岩域上に点在する湖沼群。
写真3 昭和基地周辺の湖底一面に広がる 植物群落はまるで古代遺跡のよう。
29 FIELDPLUS 2015 07 no.14 動が生態系に与える影響や、生物にとって必須の
生元素(炭素、窒素、リンなど)の動態と循環プ ロセスを理解する上で、南極の湖は理想的かつ重 要なモデルなのだ。また、南極の湖は最終氷期が 終わって氷河で削られた当初、無生物環境だった ところに生物が侵入し、徐々に増え、現在の豊か で多様な生物から成る生態系へと発達してきた。
「生物の進化」というと、ガラパゴス諸島のダー ウィンフィンチが有名だろう。外から侵入してき たフィンチが、各島々の生態系に適応し、進化し たことによって、それぞれ島特有のクチバシの形 態になっている。南極の湖は無生物環境から始ま り、極限環境ゆえの強い淘汰圧を受けながら生物 が定着、時に進化し、湖それぞれに特有の生態系 に変遷してきた。そんなわけで私は、小宇宙とし ての南極の湖をフィールドに、南極湖沼生態系の 変遷、生物の進化、貧栄養環境下での生物多様性 を維持する物質循環機構に迫るべく、さらには地 球規模の環境変動に対して南極大陸の生態系がど のように応答していくのか、といったテーマを掲 げて研究をしている。
歩く、漕ぐ、潜る
湖の調査をする場合、普通はボート上もしくは 湖氷上からの調査をする(写真4)。こういった調 査はその時の研究内容によって異なるが、主に水 深ごとに環境データ(水温、pH、塩分濃度、酸 素濃度、植物プランクトン濃度、酸化還元電位な ど)を測定したり、特定の水深から水を採取した
り、湖底の生物試料を採集したりという作業をす る。特にボートを利用できる場合は、水面を自由 自在に動き回り、決まった項目の調査ができるの で、水中の調査にとって非常に効率的な方法だ。
しかし、こうした水面からの調査だけではでき ないこともあるため、時に私は南極の湖で潜水調 査を行ってきた。水中において自分の目で観察し ながら試料採集や各種測定をし、さらには水中 の様子を映像・写真として記録するためだ。この
「自分の目で観察しながら」という点が潜水調査 の重要な意義である。湖底の植物はボート上から でも採集できるが、「狙ったもの」を「形を崩さず」
に採取するには潜水しなければかなり難しい。ま た、自然条件下のままで植物の光合成を測定する ためには、潜水して直接作業をしなければ不可能 だ。もちろん、潜水しなければ、自らの研究対象 である生物が棲息している場の様子を視覚として 捉えることができない。そんなわけで、南極で湖 の調査をするには、20kg以上にもなるボートや 調査機材を担いで高低差のある露岩域や雪原や氷 河上を数時間にわたって歩き回り、ボートで湖面 を縦横無尽に漕いで回り、ドライスーツを身につ けてエアタンクを担いで水中に潜り、3次元的に 泳ぎ回る。それが終われば、持ってきた荷物に加 えて10〜20kgもの採集試料が増え、これらを担 いでキャンプ地に歩いて帰る。こんなにも全く違 う動きをするフィールドワークというのは、湖の 調査だけなのではないだろうか。陸地に囲まれた 水の世界だからこそ、なのだ。
写真4 ボートによる調査
(上)と湖氷に穴を開けて の調査(下)。
写真5 アンターセー湖の底に広がるシアノバクテリア群集の神秘的な世界。
図1 昭和基地とアンターセー湖 とサウスシェトランド諸島の位置。
濃い青色部は定着氷を示す。
30億年前の原始地球の生態系から現在へ これまで3度、昭和基地周辺で湖の調査をして きたが、2014〜2015年にかけて昭和基地周辺 以外のエリアにある湖の調査に2度赴く機会を得 た。南極大陸の内陸山岳地帯に位置するアンター セー湖の調査と、南極半島エリアのサウスシェ トランド諸島リビングストン島の湖沼群の調査 だ(図1)。内陸という過酷な環境下にあるアン ターセー湖は、昭和基地周辺の湖に広がる緑の森 のような世界とは全く異なり、シアノバクテリア だけのピンク色の湖底の世界が広がっていた(写 真5)。まるで、約30億年前に地球上で初めて光 合成をする生物であるシアノバクテリアが誕生し た原始地球の世界を垣間見ているようだった。そ れに比べ、南極の中で最も温暖湿潤なエリアに あるリビングストン島の湖の中は、ホウネンエビ やユスリカといった小さな動物が棲息している 世界だった。エリアによって全くと言っていいほ ど、生態系の発達度合いが違っていた。まるで、
約30億年前の原始の地球から現在へとタイムト リップをしたような調査となった。同じ南極にあ るとは言え、南極大陸は広大である。南極のさま ざまなエリアのフィールドを見たことで、まだま だ未知の世界が存在しているに違いないことを実 感した。それによって、生命の起源や進化を追求 していく上でより一層広い研究概念を持って、一 つ高い階層の視点から考え、今後の研究を進めて いくことができると確信している。
南 極 大 陸
昭和基地 南極半島
アンターセー湖 サウスシェトランド諸島