アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結︵こ
1政治市場モデルとの関連で一
今 村
浩
目 次はじめに
一 最近のアメリカ政党改革の経緯
1.改革以前の大統領候補者指名過程
2.改革の始動とその背景︵以上本号︶
3.改革の進展と軌道修正︵以下次号︶
二 政治市場モデルとアメリカ政党論
三 アメリカ政党の現状
おわりに
はじめに
早稲田社会科学研究 第41号(H2.10)
19アメリカ合衆国において一九六〇年代末にいわゆる﹁政党改革﹂が始まってから︑はや二〇年以上の歳月が流れ
た︒しかし︑この改革は︑政党理論上からも興味深い点があると思われるにもかかわらず︑これに対して全体的な評
価を下すことは︑これまで必ずしも容易ではなかった︒というのも︑この改革の内容は︑複雑かつ多岐に渡ってお
り︑しかも政治学界の側の議論も︑しぼしぼ錯綜していたように思われるからである︒しかしながら︑一九九二年大
統領選挙を展望し得るようになった現在︑ようやく最近におけるアメリカ政党改革に対して︑総体的な評価を下し得
るようになったのではないであろうか︒
その理由は︑大きくは二つある︒まず第一に︑とりわけ一九六八年以来︑四年毎に大きな改革が加えられ︑恰も永
遠の変動過程にあるかのように見えた大統領候補者指名過程も︑近年ようやく安定化する兆しが認められるというこ
とである︒尤も︑これは︑必ずしも最近の大統領候補者指名過程が︑少なくとも改革以前のそれよりは改善された︑
言わば二〇年以上にも渡る改革の帰結にふさわしいものであると一般に認められるようになったということを意味し
ない︒それどころか︑とりわけ一九七二年以降に盛んに提起されるようになった政党改革批判論は︑未だに消滅して
はいないのである︒しかし︑改革と反改革の揺れ戻しを経て︑大統領候補者指名過程には︑改革開始以前とは明らか
に異なるパターンが現われ︑しかもそれが︑近い将来抜本的な改変を被る現実的可能性に乏しいとみなされるように
なった︒現行の大統領候補者指名のあり方は︑個人的にそれをどう評価しようとも︑現実政治に携わる者にとっては︑
選り好みする余地のない﹁ゲームのルール﹂として︑また政治学者やジャーナリストにとっては︑分析対象の現実と
して︑受け入れざるを得ない︒最近の改革の先陣に立って︑党大会毎に次期大統領候補者指名の改革のための委員会
を設置するのを常としてきた民主党にあって︑一九八八年大会が︑六四年大会以来実に二四年目にして特別の改革委 ︵1︶員会を設置しなかったという事実は︑この意味で象徴的であろう︒九二年の大統領候補老指名過程が︑何ら変化しな
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
いというわけではもちろんないが︑その変化は過去に比べて微温的であるように思われる︒
第二の理由は︑政治学の側の改革への対応の深化発展である︒七〇年代初期に噴出した政党改革批判論は︑少数の
例外を除いて︑十分な実証性にやや欠けるうらみがあり︑また規範的議論に偏る傾向があった︒大会代議員へのイン
タヴュー調査などの実証データの蓄積が進み︑それを受けて︑政治学における改革論にも新たな進展が認められるの
である︒ そこで本稿においては︑一九六〇年代より始まったアメリカ政党改革と反政党改革の対立を︑政党政治におけるや
や単純素朴な政治市場論の信奉者と政党内デモクラシーを主張する修正主義老との対立として捉え︑その意義と帰結
とを考察しようと試みる︒その帰結とはまた︑組織形態から見た︑アメリカ政党政治の最近動向でもある︒そのため
にはまず︑必要最小限のアメリカ政党改革の経緯を︑述べておかなければなるまい︒
︵1︶ 党大会代議員選出過程を変更する作業には︑民主党全国委員会が当ることになった︒この現在審議中の変更案とその問題
点については︑以下を参照︒男70住①ωOooF..Uoヨ︒臼巴︒℃母曙三①ωO冨5σQΦω図窪島Φ畠h霞.㊤b︒○餌日日巴oqP︑︑層OOミ§瀞¢
沁魯ミさ竃巴︒げ目8H㊤㊤ρ︒︒艀下︒︒ら㊤.尚︑共和党においては︑一九七四年以降︑この種の改革のための全国的機関は︑設け
られていない︒
一 最近のアメリカ政党改革の経緯
1
改革以前の大統領候補者指名過程
21いったい︑政党改革の対象になったのは何であったのであろうか︒それは︑端的に言って︑従来の大統領候補老指
︵3︶名過程︑さらに特定すれば︑大統領候補者指名のための全国党大会代議員︵∪①一①﹂q自︒8ωε笹①Z舞5錘一℃母蔓Oo亭
く①ゆ江8︶の選出過程であった︒そこで︑改革の内容を知るには︑以前の大統領候補者指名過程を知っておく必要が
ある︒改革以前の党大会代議員選出の特徴を列挙すれぽ︑以下の通りである︒
︵一︶党大会代議員を選出する方法は︑すべて各州の党組織の裁量に委ねられ︑中央機関としての全国委員会 ︵3︶ ︵Z鋤江8巴Ooヨ邑簿①①︶の関与は︑各州・地域への代議員数の割り当てと大会開催地の選定に︑ほぼ限定さ
れていた︒
︵二︶党大会代議員の選出は︑公職選挙ではなく私的結社としての政党の一種の役員選挙であるにもかかわらず︑
多くの州では︑州選挙法の規制の対象になっていた︒
︵三︶その一方で︑多くの州では︑代議員選出手続きは︑従来の慣行に基礎を置いており︑政党内部の明確な成文
規定を欠く例が多く見られた︒また︑内部規定や州法が存在してはいても︑選出過程の枢要部分を︑党幹部の
裁量に委ねていることが多かった︒
︵四︶党大会代議員の多くは︑結果としてづ母qおひq巳鍵ωと称された︑地方の職業政治家や党役員で占められて
いた︒
︵五︶南部諸州においては︑党大会代議員選出過程から︑事実上黒人が排除されていた︒
顧みれば︑第二次世界大戦終了から一九五〇年代を通じては︑アメリカ政党政治にとっての安定期とも言うべき時
代であったと言えよう︒それはまた︑アメリカ合衆国自体にとってもひとつの絶頂期であり︑ ︵五︶にみられるよう
な人種差別の問題をはらみながらも︑アメリカ民主政治に対する深刻な懐疑の念は︑未だ顕在化していなかったので
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
ある︒この言わば﹁良き時代﹂における大統領候補者の指名︑すなわち民主︑共和両党内の候補者選出の過程は︑単 ︵4︶純化すれぽ︑大統領選挙年の夏に開かれる全国大会に︑各州・各地域から様々の方法で選出されてきた全国党大会代 ︵5︶議員の投票による間接選挙であった︒
アメリカの二大政党の大統領候補者選出は︑制度上は︑=月の本選挙を雛形としていた︒それは前記の︵一︶を
みれぽわかるであろう︒すなわち︑アメリカ合衆国憲法が︑大統領選出に関して定めているのは︑各州への大統領選
挙人の割り当て方法と選挙の日程であり︑選挙人の選出については︑各州政府に委ねられていることと相似的であ
る︒しかし︑本選挙が︑他ならぬ政党の発展によって︑ ﹁建国の父祖﹂達の本来意図した間接選挙が形骸化してしま
い︑事実上の直接選挙となっていることは周知に属しよう︒すなわち︑各州から選出される大統領選挙人は︑当該州
の一般投票の結果を伝達するだけの︑言わばメッセンジャーに過ぎない︒そのため本来は︑選挙民にとっての直接の
投票対象であるはずの大統領選挙人候補者の氏名は︑投票機や投票用紙に表示されないことが多いのである︒
ところが︑大統領本選挙の直接選挙化を促した政党自身の︑ある意味では党首の選出にも相当する大統領候補者指
名は︑最近の改革まで間接選挙の実質を保っていたのであった︒もちろん︑公式的な制度上は︑現在でも間接選挙に
は違いない︒すなわち︑連邦国家の構成単位たる州を代表する大統領選挙人団が︑大統領を選挙するように︑党大会
議員団がその過半数をもって︑党公認の大統領候補者を選出することは︑改革の前でも後でも︑変わりがない︒しか
しながら︑現行のそれと異なり︑改革以前の大統領候補者指名は︑制度的にも実質的にも︑間接選挙であったのであ
る︒ すなわち︑本選挙における大統領選挙人とは違って︑少なくとも一九六〇年代までは︑党大会代議員の大半は︑大
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統領候補老の選択について各州の党支持者から白紙委任を受けた︑文字通りの﹁選挙人﹂︵⑦一88円︶であったと言え
よう︒彼らの多くは︑党大会代議員に選出される過程において︑特定の大統領候補老の支持を宣明してはおらず︑党
大会の場で︑政治的な日和を見て最終的な態度を決定したのである︒また︑政治的な駆け引きの材料として︑真剣に
は大統領候補者指名を望んでいない政治家を支持すると称して党大会に参加し︑指名を競い合う有力候補者に票を売
りつけ︑より大きな政治的報酬を得ようとする者もいたであろうことは︑想像に難くない︒あるいは︑自らの意のま
まに動かせる一定数の代議員を引き連れて大会に乗り込んでくる︑地方の有力政治家も存在した︒党大会は︑こうし
た様々の代議員達の相互交渉と駆け引きの場でもあったのである︒
もちろん︑そうは言っても︑明確に特定の大統領候補者を支持し︑その候補老を大統領候補老にするために党大会
に臨む代議員が皆無であったわけではない︒しかし︑そうした特定候補者系代議員の比率が︑大会開催以前に総代議
員数の過半を占めてしまい︑大会開会を待たずに大統領候補者が事実上決まってしまうような事態は︑比較的稀であ
った︒具体的には︑現職大統領が再選を求めているような場合に限られたのである︒また︑白紙委任を受けた代議員
達がすべて︑単なる利権屋であったというわけでもなく︑彼らの大統領候補老選定の理由は︑多様であり︑また複合
的であったと言えよう︒すなわち︑大統領候補者指名を狙って白紙状態の代議員の支持を競う政治家達は︑種々の利
権︑政治的報酬のみならず︑理念や理想といった高尚なものをも提示しなけれぽならなかった︒ この時代の党大会
がもっていた︑実質的な大統領候補者選出機能が︑後に政党改革批判論者によって高く評価されるようになるのであ
る︒ 党大会が︑形式上も実質上も︑大統領候補者指名の舞台であった事実を反映して︑かつては︑アメリカ政党の全国
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
党大会と言えば︑恰もローマ教皇選出の如く延々と繰り返される投票と︑その間を縫って行なわれる︑多数の代議員
を傘下に収めた有力政治家間の交渉が︑一種付き物であるかのように考えられた時代もあった︒一九二四年民主党大
会の如きは︑大統領候補者指名が決着するまでに︑六月二四日から七月一〇日までの一七日の間︑実に一〇三回忌投 ︵6︶票を要したのである︒それ以後も︑一回目の投票で︑大統領候補者が決まらなかった例は四回あるが︑一九五二年民
主党大会において︑スティーヴンソンが︑三度目の投票で指名を受けた例を最後に︑途絶えたままになっている︒し
かし︑それでも政党改革開始までの党大会は︑名実共に︑大統領候補者指名の舞台であったと言えよう︒
では︑具体的には︑どのような方法で︑こうした党大会代議員達が︑選出されていたのであろうか︒それは︑以下
の如くに︑概ね四大別できよう︒
︵1︶州党大会における選出 州内の各地域からの州立大会代議員が参集して行なう方式である︒この場合︑そ
れでは州党大会代議員はどう選出されるのかが問題となる︒これは各州毎に異なり︑二つと同じものはない程 ︵7︶ であった︒一般的な例では︑党組織の最小単位地区における一般支持者集会から郡党大会代議員が選出され︑
さらに郡党大会で︑連邦下院議員選挙区大会代議員が︑連邦下院議員選挙区大会で︑州大会代議員が選出され
るといった積み上げ方式が採られていた︒そして︑当該州に割り当てられた全国党大会代議員定数を二つに分 ︵8︶ かち︑州党大会と連邦下院議員選挙区大会がそれぞれ一定数を選出する例が多かったという︒とはいえ︑もち
ろん細部において︑州毎に相違点があったことは︑言うまでもない︒
︵2︶州党委員会による選出 州党組織の執行機関たる岩登委員会が︑党大会代議員を指名する方式である︒州
党委員会委員長が︑党大会代議員を指名する方法は︑この変型とも言える︒
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︵9︶ ︵3︶予備選挙︵嘆ΦωごΦ巨一型b鼠ヨ鋤蔓︶による選出 選挙雨中の党支持者による全国党大会代議員の直接選挙
である︒全州一括の選挙区で行なわれる場合と連邦下院議員選挙区単位で行なわれる場合とがあった︒しか
し︑少なからぬ州では︑州党委員会の作成した党大会代議員候補者名簿への一括投票による︑事実上の信任投
票の色彩が濃かった︒また︑州によっても政党によっても︑あるいは時期によっても︑投票率に大きな差があ
つた︒たとえば︑第二次大戦後伝統的に予備選挙方式を採ってきた州の中でも︑カリフォルニア︑オレゴン
等では︑登録有権者の投票率が︑概ね六〇〜七〇パーセントに達しているのに︑マサチューセッツ︑ペンシル ︵10︶ ヴァニア︑ウェスト・ヴァージニアでは︑ 一〇〜三〇パーセントに過ぎない︒
︵4︶特定役職資格による︵Φ×6h陰〇一〇︶選出 一定の党役員等が︑その職務上自動的に党大会代議員となる場
合があった︒尤も︑こうした代議員は︑少数に止まっていた︒
さらに事情を複雑にしていたのは︑すべての州・地域が︑どれか一つの方式だけを採用していたわけではなく︑四
種の選出方式のいずれかを組み合わせて用いている例があったことである︒おまけに︑同じ州の同じ時期に︑民主党
と共和党が︑それぞれ別の党大会代議員選出方式を採ることもあり得た︒こうして︑ 一括することのはなはだ難し
い︑複雑な過程を経て選出される党大会代議員達が︑ともかくも実質的な選挙人として大統領候補者を選出する舞台
として︑かつての党大会は存在していたのであった︒
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改革の始動とその背景
一九六〇年代から七〇年代の初期にかけて︑アメリカ合衆国は︑体制批判的抗議運動の嵐に見舞われた︒それは︑
アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
個々にはヴィエトナム戦争反対運動︑人種差別撤廃運動︑都市暴動︑大学紛争︑女権拡張運動家の形態を取りながら ︵11︶も︑既成の権威︑権力への挑戦として要約することができよう︒このような潮流の中で︑いわゆる﹁体制﹂の一翼を ︵12︶担っていたアメリカ政党も︑ ﹁この国の歴史の中でも最大級の政党改革の大波﹂に洗われたのであった︒
この大改革の︑いわば予兆が現われたのは︑一九六四年民主党大会である︒これは大統領候補老指名そのものは︑四
年後とは違って︑現職候補リンドン・B・ジョンソンに︑大きな異議なく落着した大会ではあった︒しかし︑漸く勢い
を増しつつあった公民権運動の矛先が︑南部民主党に向けられる︒すなわち︑すべてが白人より成る︑︑・シシッピ州代
議員の適格について︑異議が申し立てられたのである︒これを受けて︑翌六五年︑ニュー・ジャージー州知事リチャー
ド・J・ヒューイ︵菊一〇げP﹃侮 ︸︒ 国偉σQ7Φω︶を委員長とする﹁特別平等権委員会﹂︵ωOΦ9自国ρo巴菊お巨ωOoヨ日葺①①︶ ︵13︶が設立され︑当時尚人種差別的諸慣行を維持していた南部民主党を主たる対象とした六項目の党里宮基準を設定した︒
この基準は︑党大会代議員の選出に限らず︑党役員の選出一般について︑人種差別的な慣行の排除を目的としていた
ように読める︒しかし︑民主党全国委員会が発した一九六八年民主党大会招集通知に書き込まれることにより︑主と ︵14︶して党大会代議員の選出方法に関する全国的な統一規則となったのである︒この特別平等権委員会は︑実に﹁⁝⁝民 ︵15︶主党の歴史で初めての独立した改革機関﹂であり︑各州への党大会代議員数の割り当て以外に︑代議員選出に関して
の全国的な統制が︑初めて組織的に試みられたという点で︑画期的な意義をもつと言えよう︒これはまた︑各州政党
の自治の伝統に対する挑戦でもあった︒そして︑六八年大会において︑この基準に違反したとして︑︑−・シシッピ州代
議員の全員とジョージア州代議員の半数が失格させられることになる︒この事実は︑以後の改革委員の有する強制力
の重要な前例となるのである︒しかし︑この特別平等権委員会の影響力は︑未だに民主党内部に止まっていた︒真に
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全国的な政党改革が始動するには︑一九六八年民主党大会を待たなけれぽならなかったのである︒
ケネディ政権の﹁負の遺産﹂とも言うべきヴィエトナム戦争は︑ジョンソン政権の下で激化の一途を辿り︑民主党
内部にも︑亀裂を生じさせた︒いわゆる反戦派の民主党支持者は︑ユージン・マッカーシーやロバート・ケネディに
支持を寄せ始め︑こうした内外の圧力の下で︑六八年三月ジョンソン大統領は︑民主党大統領候補者に再指名される
ことを求めない旨声明するに至る︒そして︑六月のロバート・ケネディ暗殺の後は︑多くの民主党指導者は︑当時の
副大統領ヒューバート・H・ハンフリーに支持を寄せることになった︒彼は︑元来公民権運動に献身してきたリベラ
ル派に属し︑ジ︒ンソンとはいささか肌合いの異なる人物であったが︑いわぽジョンソンの正統の後継者として︑ジ
ョンソン大統領以下の民主党主流から︑強力に支援されていた︒この支援を背景に︑一度も予備選挙に臨むことなく
多数派工作を完了したハンフリーは︑シカゴ党大会では︑一回目の投票で︑マッカーシー以下に大差をつけて指名を
受けるのである︒しかし︑本選挙においては︑比較的僅差ではあったものの︑共和党のニクソンに敗れ去ったのであ
る︒シカゴ民主党大会は︑反戦デモの標的となり︑シカゴ市警との衝突で大きな混乱を生じた︒
そうした︑後々に大きな傷跡を残した党大会において︑一般支持者︵H⑳口閃 餌昌α h一一Φ bρ①日σΦ﹃ω︶に党大会代議員選
出過程を開放するための改革委員会が設置されることになったのである︒この大会決議の通過に与って力があったの
は︑党大会代議員資格審査委員会︵9&9甑巴ωOo日ヨ一#Φ①︶であった︒すなわち︑殺到した党大会代議員資格への
異議申し立てを審査した同委員会は︑前記の特別平等権委員会の定めた人種差励撤廃規則以外に︑党大会代議員選出
手続きの適正を審査する何らの基準もないという現実に直面しなけれぽならなかった︒そこで︑資格審査委員会は︑
その大部分がマッカーシー派及びケネディ派︵その一部は︑ケネディ暗殺後︑サウス・ダコタ選出上院議員ジョー
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
表1 党大会代議員選出に関する改革委員会一覧
四
通
称
名
匡 正
McGovem−Fraser ComInis−
sion
Mikulski Commisson Winograd Commission Hunt Commission
DO Committee Special Equal Rights Com面ttee
Commission on Party Structure and Delega1£SelectiQ!1
Commissio亘。且Delegate Selection and Party Structure
Commission on Presidential Nominatio且and Party Structure Commission on Presidential Nominatio且
Faimess Commissio且 Delegates aロd Organizat三〇ロ
Committee Rule 29 Committee 設置大会
民主党
1964 1968 1972 1976 1980
1984
共和党
1968 1972
ジ・マクガヴァンを擁立していた︶から出された異議を却下す
ると共に︑七二年大会に向けて︑党大会代議員選出過程をあら
ゆる側面から調査する︑新たな委員会の設置を勧告したのであ
︵16︶ ︵17︶
る︒この勧告は︑八月二六日に党大会の承認するところとなり︑本格的な改革が︑いよいよ公式に始動することになったのであ
る︒ この決議を受けて設置された︑最初の本格的改革委員会が︑
通常は二代の委員長の名称を冠してマクガヴァンーフレイザー
委員会︵寓600<①讐−聞量︒︒200ヨ∋一ωωざ口︶と称される﹁党構造
と代議員選出に関する委員会﹂︵Ooヨ巳ωω一自︒づ℃震蔓ωけ目¢?
一霞︒きα∪Φ一①晦雲①のΦ一①〇一一〇コ︶ に他ならない︒民主党におい
ては︑以後一九八四年大会に至るまで︑大会毎に改革委員会が
設置され︑党大会代議員選出過程に関する改革委員会だけでも︑
特別平等権委員会から数えて︑六つの委員会が活動したことに
なる︒しかし︑わけてもマクガヴァソーフレイザー委員会の及
ぼした影響の大きさについては︑広範な合意がみられると言っ
てよいであろう︒同委員会の改革は︑民主党のみならず共和党
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にまでその影響を及ぼした︒というのは︑前節︵二︶の事情から︑党大会代議員選出過程の改変には︑州選挙法の改
正を要することが多く︑このため各州民主党が︑マクガヴァンtフレイザー委員会の改革案に沿って︑州法を改正す
るように要請されたからである︒しかし︑すべての州議会で︑民主党が多数派であったわけではなく︑また民主党と
共和党にそれぞれ異なる党大会代議員選出の方法を認めた州法の例もあって︑この間の経緯は︑なかなか複雑である︒
しかし︑共和党内にも従来の党大会代議員選出に対する改革の気運が高まっていたこともあり︑七二年大会以降の傾
向は︑両党にほぼ共通であるとみてよかろう︒
この改革運動の直接の担い手となったのは︑六八年の大統領候補指名をハンフリーと争った︑マッカーシー及びケ
ネディ派の人々︵その中には︑多くの非職業的ヴォランティア活動家が含まれていた︶である︒彼らは︑選挙運動に
従事する中で︑党大会代議員の選出過程が事実上地全党幹部の掌中にある場合が多いことを思い知らされた︒このよ
うな彼らの苦い経験が︑改革の基調を定めたと言える︒すなわち︑ 一般支持者の間では︑多数派であったのに︑そ
れを反映しない党大会代議員選出方法のためにハンフリーに敗れたという無念の思い︵それが真実であったかどうか
はともかくとして︶が︑代議員選出過程への一般支持者の参加拡大の主張となって結実したことは争えない︒以下
に︑ マクガヴァンーフレイザー委員会が︑審議の末に決定した有名な党大会代議員選出についての 二八の指針L ︵18︶︵Φ置ゴ8Φづσq三傷①財昌Φω︶の主要な項目を要約し︑その背景を探ってみよう︒指針の要点は︑以下の通りである︒
a.代議員選出に関する公開された明文規定を作らなければならない︒
b.党大会代議員選出過程での各種党集会の開催日時︑場所を公開しなければならない︒
c.党大会代議員選出のために各種党集会を開催する場合には︑それが党大会代議員選出のための集会であること
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
を公示しなけれぽならない︒
d.各選出段階における代理投票の禁止︒
e.一体投票規則︵巷詳同巳①︶の原則的禁止︒
f.党大会代議員選出は︑党大会の暦年に入ってから︑すなわち大統領選挙年の一月一日以降に開始さるべきこ
と︒9.州党委員会が選出できる党大会代議員は︑当該州に割り当てられた代議員総数の一〇パーセント以下とする︒
h.特定公職資格による代議員選出の禁止︒
i.党大会代議員には︑黒人等の少数人種集団︑女性︑若年層が︑当該州の人口に占める比率と合理的な関係︵ぢ
ρ同8ωoづρ巨①冨ξ寓︒づωゴ首︶で含まれること︒
一.州党大会方式で全国党大会代議員を選ぶ場合には︑当該州に割り当てられた代議員総数の七五パーセントは︑
連邦下院議員選挙区以下のレヴェルで選ぶこと︒
k.党大会代議員候補者の支持する大統領候補者名︵胃Φω己窪二巴嘆①︷①お口︒Φ︶が︑選出毅階で明らかにされるこ
と︒それを望まない代議員候補者は︑すべての選出段階を通して﹁支持候補者なし﹂ ︵巷oo露里8住︶でいるも
のとする︒
1.公正な代議員候補者名簿の作成︒たとえば党幹部が︑予備選挙において︑特定の代議員候補者を推薦するよう
な文言を印刷したような投票用紙を用いてはならない︒
m.すべての民主党州議会議員は︑この改革の趣旨に沿って︑州選挙法を改正するよう努力する︒
31
以上を要点とする改革の指針は︑その内容から二大別することができよう︒すなわち︑代議員選出方式の如何を問
わず︑一般的な公正を確保するための前提となる条件と︑いま一つは︑個々の選出方式の細部についての技術的な規
制である︒a.b.c.は前者のカテゴリーに入るであろう︒指針は︑結果としてはともかく︑その当初の意図とし
ては︑ある特定の党大会代議員選出方式を推進しようとするものではなかった︒とはいえ︑前節の︵1︶〜︵4︶の
方式の中の︵4︶を明確に禁じ︑ ︵2︶にも否定的であった︒そして︵1︶と︵3︶について︑その実施に様々の条
件を付そうとしたものと考えられる︒
では︑こうした改革の背景にあった﹁経験﹂とは︑どのようなものであろうか︒まずたとえば︑a.に関連して︑
六八年党大会代議員選出についての明文規定が一切存在しない州が一〇を数え︑そこでは︑事実上マッカーシー派や
ケネディ派の入り込む余地がなかった︒そもそも選出方法に異議を唱える根拠を欠いたからである︒また甚だ不十分 ︵19︶でおまけに非公開の規定をもつのみの州が︑他に一〇州あったという︒そうした州では︑規定の存在すら忘れられて
いることがあった︒たとえぽ︑ロード・アイランド州の選出規定を調査しようとしたマクガヴァンーフレイザー委員
会のスタッフは︑ニケ月をかけて︑ようやく既に引退した同州党委員会委員長の個人的ファイルの中からタイプ印刷 ︵20︶された規則を発見できたという︒一般的にそうした当事者にすら知られていない規則は︑党大会代議員選出過程の重
要部分を︑地方︑州の党幹部の裁量に委ねていたであろうことは想像に難くない︒そこで︑党大会代議員選出規定 ︵21︶は︑ ﹁十分に明確かつ詳細﹂でなければならないとされた︒ ︵盟︶ またb.c.に関連しては︑次の様な事例が報告されている︒ヴァージニア州においては︑ ﹁大衆支持者集会﹂
︵口器ωヨ①倶ぎαq︶が︑党大会代議員選出過程の第一段階であることに︑規定上はなっていた︒すなわち︑一九六八
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
年四月に行なわれた大衆支持者集会で選ばれた代表から成る市党大会と郡党大会とにおいて︑さらに州党大会への代
議員が選出され︑さらに六八年七月の州党大会において全国党大会代議員が選出されるはずであった︒この大衆支持
者集会は︑党の公式規則では四月に開催されると決まっているだけで︑具体的な日時︑場所は市党委員会︑郡党委員
会が決定し︑地方新聞に公示されることになっていたのである︒ところが︑この公示は︑通常新聞のごく片隅に載る
だけであった︒しかも現実には︑この大衆支持老集会なるものは︑州党大会会場へ向けて党組織が仕立てたバスの中
で行なわれることもしぼしぼであったという︒さらにミズーリ州においては︑党大会代議員選出を律する何らの成文 ︵23︶規則もなかった︒慣例により︑四︑五月の﹁地区集会﹂︵毛凶a8①①江轟︶または﹁町集会﹂︵8≦口ωぼ℃巳①卑冨ひq︶に
おいて選ばれた代議員から成る州党大会が︑全国党大会代議員の九割を選出し︑残る一割は︑州党委員会が指名して
いたのである︒しかし︑この第一段階である集会を︑いつどこで開くかは︑郡党委員長の裁量に委ねられていた︒そ
して州党大会招集通知によれば︑五月三日時点で代議員選出の第一段階が終了していなけれぽならなかったのであ
る︒ところが︑セント・ルイス郡の一八の8≦昌ω三bのうち七つもが︑四月三〇日になっても︑この集会について何
の準備もしておらず︑従って︑いつどこで開かれるのかまったくわからなかった︒驚くべきことは︑期限ぎりぎりの
五月三日の朝になってすら︑四つのけ︒≦霧ぼつの党委員会は︑その日のうちに開催されなけれぽならないはずの集会
の時間と場所を明らかにしていなかった︒それらのうちの一つであったOo二〇〇a8甫窃げ首においては︑ マッカー
シー派の運動員達が︑集会の時間と場所を︑開会四〇分前になってようやく知ることができたけれども︑彼らがそこ
に駆けつけたときには︑すべての議事は終わってしまっていたという︒ ︵短︶ d︒に関連しても︑不明朗な事例が報告されている︒前述のセント・ルイス郡のある集会で︑開会直前には︑マッ
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カーシー派の参加者が過半数を占めているものと思われた︒ところが︑投票の際に突然議長が四九二枚もの委任状を
持ち出して︑自派の候補者名簿にまとめて投票し︑勝利を収めたのである︒因にこの集会の実際の参加者は︑二百名
にも達しなかったという︒また︑ ハワイ州党大会の代理投票委任状を調査したところ︑そこに記載されていた住所
は︑ホノルル市の都市再開発地域で︑ほとんどが空き地であった︒
f.に関連した最も極端な例は︑カンザス州に見られる︒同州の党大会代議員選出過程の第一段階である郡党大会 ︵25︶代議員の直接予備選挙は︑実に一九六六年八月に行なわれていた︒すなわち︑マッカーシーやケネディが︑大統領選
挙への立候補を真剣に考慮する遥か以前であったことになる︒
e.9.k.の規制には︑六八年において︑各地の大統領候補者選好投票に強みを発揮しながら︑それが必ずしも
党大会代議員の獲得に結び付かなかったマッカーシーの経験が投影されていることは︑理解し易い︒彼はたとえぽ︑
党大会代議員一三〇名を送り出す大州であるペンシルヴァニアの大統領候補者選好投票で︑七八・五パーセントもの ︵%︶票を得たが︑獲得した代議員は二四名に止まった︒五二名の代議員は︑州党委員会の指名で選ばれ︑大統領候補老選
好投票と同時に行なわれた党大会代議員予備選挙においては︑代議員候補者は︑投票用紙に支持する大統領候補者を
明示することが許されなかったという事情があったためである︒
このようにみてくると︑確かにマッカーシー派やケネディ派の経験は︑痛切なものであったと言えよう︒それだけ
が︑改革の推進力であったわけではもちろんないにしても︑彼らの怒りなくしては︑改革がかくも急激な進展をみせ
ることはあり得なかったということが理解できるのである︒しかし︑この改革は︑ある意味で改革の当事者の予想を
越える展開を見せることになる︒
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アメリカ合衆国における政党改革の意義とその帰結(一)
︵2︶全国党大会の他に︑州レヴェルの党大会︵q∩訂800穿く①艮δ昌︶もある︒本稿では︑﹁党大会﹂を全国党大会の意味で用い︑
州の党大会は︑必ず州党大会と明記することにする︒
︵3︶ 実際には︑このことすら︑各州の党組織によって遵守されたとは言えなかった︒割り当て数を上回る代議員を党大会に送
り︑結果として○・五票とか○・三票を投じる代議員が出現した例は︑民主党の方により多くみられる︒
︵4︶ 地域とは︑言うまでもなく︑コロムビア区︑プエルト・リコ︑パナマ運河地帯︵当時︶等を指す︒以下の叙述においては︑
煩わしさを避けるために︑コロムビア区は︑ ﹁州﹂として扱いたい︒したがって︑たとえば﹁各州﹂といった場合には︑五
〇州とコロムビア区を意味するものとする︒
︵5︶ 改革以前の全国党大会については以下を参照︒ ℃餌三目.∪麟託P図9︒ぢげ竃.Oo匡ヨき碧α空︒冨aO●切巴昌鴇§恥
ぎミ馬aミき職§ミ︑ミ電Ooミ§欺︒蕊︵O一〇一﹂O①ω件O﹃噛 H㊤①駆︶︒
︵6︶ 乏ミ網子ミ︑ミ嘗O§§ミ智蕊N︒︒蘭N−遷Nq︵毛霧匡ロoq8戸U・ρ旧お刈O︶・及びO§出馬︒・鴇§ミO§註ミ彦︑防Oミ§智9角
肉§職§鉾筆画︒体・︵<﹃餌ωげ一口oqけO口■ HU・ O匿嫡 一⑩Goα︶.なお︑以下特記なき限り︑党大会についての数字は︑これから採ってい
る︒︵7︶ これは︑いわゆる︵茜爵き侮辱︒︶忠二団B①ヨび2ωである︒党費納入登録党員制度を欠いているアメリカ政党の場合︑
この語を﹁党員﹂とすることはここでは避けておきたい︒
︵8︶ 国⊆oq7>・bd8ρ≧ミミ§ぎ︑ミ霧§亀帖ミ寄︑電9無§会ず︒F︵Zoミ尾︒蒔曽お謹︶・o﹄8・
︵9︶ 質一三喫囑とは︑一般に各種公職の党公認候補者を決定するための︑選挙民中の党支持者による直接選挙を意味する︒大統
領予備選挙という場合︑党大会代議員の直接選挙と大統領候補者の直接選挙︵母材置︒三一主筆臥︒話昌︒⑦層︒一一︶の双方を意味
し得るし︑また両方の意味で使われることが多い︒本稿では︑予備選挙という用語は︑党大会代議員の選挙の意味でのみ用
い︑大統領候補者直接選挙は︑大統領候補者選好投票と明示することにする︒
︵10︶匹︒冨aピ.国雪意..津①ω乙①軽震源ぎ銭︒ωO︒暮暮三①ρヴ巨︒ロω︸︒ロω︒剛O冨口︒qρきOぎ三一︒巴ぎ忌8ぎ霧︑︑ぎ
≦一=冨ヨ99ξoF矯↓ぎ︑ミ選句ミ9執知ミミミ題§㌔o︑ミ8︑注︑欺a︵ω9ρ口 司同層昌O一ωOO輸 同㊤cQO︶りHも︒9
︵11︶ この時代を︑いわば凝縮したような年が︸九六八年であったと言えるかもしれない︒以下は︑この激動期のアメリカを知
るのに役つ︒犀く言ζロOq霞ρロ匹︼︶o豆q昌Oq①♪↓ミミ蕊鴫㌧ミミ%N旨︒︒︵7﹃Oを 嶋O︻W℃ 一〇〇cQQ︶・
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︵12︶ ﹀口ω一一ロ閃帥昌口OざOミ︑§隣き軸ミ馬8ミ魯ミ︑貸ら款O嵩㌧︑貸︑電幽き︑ミ匙︾ミ馬︑驚貸︵bdΦ﹃吋O一①ざHO刈㎝︶・℃μ・
︵13︶ 基準の正文は︑以下に再録されている︒担げΦOo塁塞出陣80ロ弼霞蔓ω畔βoεおきqU9①oq異Φωo冨︒江oP﹂§ミミ馬誉︑
@肉さ︑ミ︑﹄一差O適ミき馬OOミミ馬占考O蕊O蕊㌧亀︑電⑦㌣謹6ミミ黛辞職bミ馬恥ミ鳴 ⑦ミミ欺Oミ 言 貼勾馬 b馬ミOq︑ミ聴 ﹂<ミ帖O重織曽 OOミ︑
ミ隷牒翁恥 ︵♂く跡ωゲ一口oq80口り︼︶.Oご ド㊤刈O︶・弓.ω㊤・
︵14︶ 切団3ロ国・ωげP︷050ミミ沁ミミミ㍉o嵩﹂ 臼ミ ⑦ミ礎題﹄馬誉︑ 咄ぎ b馬ミ︒ミ亀識偽 ℃斜︑嘗 黛嵩職 導馬 ⑦︾貸驚蕊陽気︑o詮−肉さ︑ミ
︑O高牒馬q偽 ︵ワぢ≦ 嶋O円胃噛 一㊤OQgQ︶い℃●g◎一.
︵51︶ き馬織ご ℃・ド目㊤●
︵16︶ この間の事情の詳細は︑ω冨h①び愚.ミ≦崔冨目口・90#ざb馬9鴇︒嵩誉︑一室馬b鴨ミ︒ミミ恥︑勘§︑ミ§頭導恥㌧ミ電⑦蔓§︐
@ミ遷︵bd巴二目ミρ一㊤Qo︶●℃拶ロ一目●∪餌く一P..蜀器ω︷匹①昌江旦−累O日一口①oooo一①oユO昌勺ユヨ恥胤Oω噛O生口︒偉給︒りu助目侮 Z鋤瓢︒昌巴 Oo昌−
くO昌臨O昌ω︑︑一口≦凶=一ロ旨匂・O円O#団①ら■℃︑亀隔評鳳O℃Oミ職らON肉§︑ミ︵H︑Φ×一目σq梓O昌w 日①OQO︶.
︵71︶ さ蕊職自蛛恥さ︑ 知さ︑℃ミ.︐や℃・㎝bつ1切ω.
︵81︶ 奪馬職こ O口GQoQ一心QQ・
︵19︶ 国Φp三雲プb・切︒匹Φ四昌住O母︒一周.O霧①ざ ..頃舘q噛閃①hO目ヨ図Φ忌ω一〇昌一ωヨ 図①︿一ω津Φ侮︑.冒 男︒げΦ二 ﹀・Oo匡≦冒 Φ匹ご
︑O驚蔑ら黛h︑亀︑靴恥吻馬嵩帖魯恥肉馬窓欺巴 ︵≦ゆωゲ一昌oqけO口り︼︶.Oご H㊤QoO︶曽①.
︵20︶ ︑O馬織・
︵12︶ さ蕊職貸鴨恥さ︑沁薯︑ミこ 口幽心bつ●
︵22︶ bづOαO鋤口匹O潜ωO団耀号●亀怖噛﹁①・
︵32︶ 層O㍉織ご 刈・
︵42︶ 桐守画貸こ 刈100.
︵%︶ さ旨§肺恥誉︑沁き︑ミ野℃や.αGQ.
︵26︶ 切︒α〇四ロらOpωΦざ9.ミ.鴇⑩山9 しかし︑全国党大会の投票記録では︑同州でマッカーシーが得たのは一=.五票であ
つた︒
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