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2017 年度秋季人権週間プログラム講演会
日時:2017年11月15日(水) 18:30~20:30 会場:立教大学 池袋キャンパス 8号館 8304教室
『池袋の多文化共生を考える -魅力ある街づくりを
共に実践する取り組み-』
登壇者 小林 俊史 氏(NPO 法人ゼファー池袋まちづくり理事長、
「とっぴぃ・豊島の選択」編集長)
石森 宏 氏(NPO 法人ゼファー池袋まちづくり常任相談役、
アイポイント活動リーダー)
上西 恵美 氏(有志者スポーツクラブ代表)
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○小林 皆様、こんばんは。NPO ゼファーの理事長をしております、小林俊史と申します。
今ご紹介いただきましたこの NPO ゼファーですが、池袋の西口で商店街とか町会の皆さん が中心になってつくったまちづくりのグループです。商店街ではできないこと、それから町 会ではできないことを、代わりにというわけではありませんが、NPO という形で豊島区と協 働しながらいろいろなイベントの準備や協賛、
仕掛けなどをお手伝いしているボランティア グループです。この NPO ゼファーでは、年に1 回、大きなイベントを開催しています。「新池袋 モンパルナス西口まちかど回遊美術館」という 美術イベントで、5月の後半の2週間開催して います。池袋でオレンジ色のフラッグなどでご 承知の方もいらっしゃるかと思います。それか ら、後で前理事長の石森さんからお話ししてい
ただきますが、通年では「アイポイント活動」という、地域通貨のようなものでコミュニケ ーションと公益活動をつなげるような活動をしています。今年、私が理事長になったばかり なものですから、全体像をお話しするのにもしかしたら石森さんの補足が必要かもしれま せんが、まず最初にお話をさせていただきます。
今日の「池袋の多文化共生を考える」というテーマですが、これがどのように NPO ゼファ ーと関係しているかというと、私どもは町場でいろいろな活動を、要するに、体を動かす活 動をしています。特にアイポイント活動でいうと、駅前に「えんちゃん」という植物ででき た大きなフクロウの彫像があるのですが、それを毎週火曜日のお昼に集まって、石森さんが 中心になってきれいに整備したり、駅前の花壇のお花を植え替えたりしています。そこにも 中国の方々が一緒にまちづくりという形で参加していただいています。これは数年前から ずっと継続していまして、池袋のまちが好きな「池袋ファン」の皆さんに集まっていただい て、まちをよりよくしていくために一緒に活動しているという経緯があります。今日はこう いった運動に至るまでのことも少し含めながら話を進めていきたいと思います。
【高い外国人在住率 -今まさに、豊島区の課題『共生』を考える時-】
まず最初に、豊島区はかなり外国 の方の在住率が高くなっています。
こちらの表を見ていただくと分か りますように、一番左が平成 15 年 で、一番右が平成 29 年です。平成 29 年の豊島区における外国人人口 というのは、2万 7,060 人です。豊 島区の住民が 28 万人ですから、約 1割が外国人の方ということにな ります。これは、都内でもかなり高 い率になります。
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次にこちらを見ていただきたいのですが、外国人全体の割合でいいますと、23 区の中で 1位の新宿区に次いで豊島区は2位です。特に中国国籍の方でいいますと、豊島区が1位に なっています。皆さんも、池袋は中国の方が多いというのを何となくいろいろなニュースで お聞きになっているかも
しれませんが、実際、率で いっても1位なわけです。
韓国または朝鮮の方はど うかと言いますと、ここに は書いてありませんが、こ れは7位になります。
やはりそうなりますと、まちで過ごす外国人の方と一緒に共生するというか、ともに楽し く住むという方法についてどういうふうに考えたらいいのかなということは、今まさに豊 島区の課題になっていると思いますし、私ども町場で動いている者にとっても大事な問題 ですが、なかなかはっきりと、これをやればいいんだということが分からないというのが難 しいところでもあります。
【急増した中国人事業者や留学生たち -彼らが池袋を選ぶ理由-】
少し時代は戻りますが、池袋の中華街構想というものを皆さんもご承知ではないかと思 います。山下清海先生の『池袋チャイナタウン』というご本を読みますとその経緯がよく書 かれていますので、ぜひ読んでいただければと思います。数年前、2007 年から 2008 年ぐら いに東京中華街構想というのがありました。池袋は中国の方のお店がすごく多いので、これ は中華街としてもいいのではないか、横浜中華街に対抗して東京中華街として売り出そう、
と概略でいうとそういう発想なのですが、少し振り返ってみますと、池袋は戦後、例えば闇 市とか、復興の時代に中国とか台湾からいらっしゃった方が事業を始めたりしています。駅 前にもたくさんいらっしゃいますし、現在もまちの中にご活躍の方が多いです。これが最初 のころの華僑ということになるのでしょうか。しばらくそういう形でまちと一体となって 外国の方も一緒にお店をやったり、それから商店街をやったり、町会をやったりという時代 があったのですが、1980 年代になって急激に中国から学生が多くやって来ることになりま す。これは、日本でいいますと「留学生 10 万人計画」というのが 1983 年に始まりまして、
そこからグッと伸びたということがありますのと、88 年には中国で自費の渡航が解禁され たということも相まって、80 年代後半から非常に多くの中国人の方が日本を訪れるように なりました。特に就学ビザでいらっしゃる留学生ですね。就学ビザを得て学生として勉強し ながらアルバイトで稼いでいくというようなことがあったわけです。このころが新華僑の 第一世代といわれています。
4 / 26 1990 年代になりますと、これはもうグッ
と加速度的に増えていくわけです。このこ ろから池袋に中国のお店が目に見えて増 えてきました。例えば、こちらですね。駅 前に「知恩食堂」というのがあったのをご 存じでしょうか。今はなくなってしまいま したが、この右上の辛い唐辛子がいっぱい 入った、日本のお店では出てこないような 食べ物が出てきて、これがとても人気にな って、池袋に行くと本場中国の味が味わえ るということで、いらっしゃる方も多かっ
たです。それから、「陽光城」さんでは、日本ではなかなか手に入らないような食材が多く 手に入ります。こういったお店ができた背景には、もちろん中国の方が広くたくさんいらっ しゃって、お客様になってくださるということもあるのでしょうが、こういうお店の存在は、
中国の方々が住みやすいまちとして池袋を選ぶという傾向を加速度的に増やしたというこ とだったのだと思います。
【『東京中華街構想』-池袋の活性化に貢献したいという中国人店主たちの思惑-】
そうした 1990 年代から中国人の方が池袋に大変多くなったということを背景にしながら、
2007 年に東京中華街構想というものが着手されるわけです。後ほど企画書のようなものを ご覧いただきますが、今日講演するはずでした胡逸飛さんが最初に考えられたものです。池 袋にはたくさんのお店がありますが、横浜の中華街とは違って、門をつくって通りを全部中 国のお店にするということではなくて、1軒1軒は雑居ビルの2階とか3階とかの目立た ないところにたくさんあって、その人たちがネットワークを組んで横でつながることで、自 分たちの特徴というものを出しながらまちに貢献していこうとお考えになったわけです。
折しもこの 2007 年というのは、翌年に北京オリンピックを控えていたということもありま して、その機会にぜひ自分たちのこの十数年の池袋での活動を日本でもしっかり根づかせ たいという思いがあったのだろうと思います。しかし、これはなかなかうまくいかないんで す。そのお話もさせていただきます。
当時、「東京中華街促進会」準備委員会という形で、彼らは企画書をつくっていました。
全部読むと大変なのですが、2007 年末現在で、この池袋駅周辺には中華料理店をはじめ美 容室、不動産仲介、各種学校、自動車学校、日本語学校、中国語学校、保育園、貿易企業、
IT 企業等々が既に約 300 社も存在していると書いてあります。それらは池袋駅から半径 500 メートルの間にあるということを強調し、日本で既存の3つの中華街、横浜、神戸、長崎の 中華街と比べ、中華関連商業施設の数では横浜中華街に次ぐ2番目に多いまちになりつつ あるということも謳っています。その 300 社の皆さんと手を組みながらまちをよくしてい く方法があるのではないかと純粋に考えたのだと思います。彼らと何回も会ったり、その後 反対運動もあったのですが、そんな中でも一生懸命そのことを主張しておられました。彼ら はまさに多文化共生を目指していたと言っても過言ではないと思います。
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さらに、趣旨、目的ということですが、促進会自身は営利目的ではなく、東京中華街の発 展に努めたいということを書いておられます。しかし、マスコミのとらえ方というのは、や はりこういう細かい点を伝えるというよりは、「横浜に負けない東京中華街が池袋にできる、
恐らく横浜にも匹敵するであろう、そのパワーで池袋をよくするであろう」というものでし た。こんなふうに書かれてしまいましたので、どうやら中国の方のパワーが大きくて池袋を 席巻するんじゃないかという印象で捉えられてしまったわけです。
彼らは、横浜との違いというものも出して います。横浜中華街のほうは完全に観光の場 所ですから、顧客構成の9割が日本人とあり ます。でも、池袋の東京中華街のほうは、9割 が中国人のお客さんです。よく行かれている 方はご存じだと思いますが、中に入ってみま すと、ほとんどが中国人のお客様です。それ だけ中国の方が池袋にいて、そのマーケット としてお客さんがいるからお店もできるとい うことも言えるのですが、彼らからしてみる
と、それは単なるパイの取り合いといいますか、中国人のお客さんを取り合うだけの話なの で、日本の方にも来てもらいたいし、さらにお互いにどんどんお客さんを増やしていきたい という思いもあるのだと思います。さらに、料理の値段でいうと、ピータン豆腐が横浜では 780 円。ところが、東京中華街で食べると 210 円。こんなことまで言って特徴づけをしてい ます。非常に熱くこの東京中華街というものを成功させようという気持ちがあったのです。
【地元商店街との温度差が露呈 -まずはコミュニケーションから-】
ところが、新聞の取り上げ方を見ると「池袋『中華街』構想 中国系 200 店 手結ぶ 商 店街渋い顔『まず交流から』」というふうになるわけです。やはり地元の商店街からすると、
今のようなパワフルなお話をどうとらえていくかという中で、例えば、商店会と個々の中国 の方のお店の関係とか、それから、お隣同士のお店の関係からいうと、まだまだコミュニケ ーションが取れていなかったというのが現実で、この中華街の話も降ってわいたような話 に聞こえたんですね。実際にそうだと思います。商店会長に、こういうことをやりたいんだ けれどもと相談する時、どういう企画書をつくったらいいかとか、誰から話を持ち掛けたら いいかといったことが日本の商店にいる人だったら思いつくわけですが、なかなかそのき っかけがつかめなかったというのは致し方ないところもあると思います。同時に、商店会か らすると、ごみの出し方とか、お店の入口への荷物の積み方とか、なかなか今までにない雰 囲気でお店をつくられているということがストレスになったりして、もう少しまわりの店 と調和するような店づくりをしてくれないかというようなことは何となく思っていたのだ と思います。それがいきなり、中華街にします、中華街構想ですということなので、面食ら ってしまったわけです。
一方で、池袋の西口は、東口に比べて開発があまり多くなかったということもあります。
例えば東口はサンシャインがあったり、最近では「乙女ロード」などができたりしています
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が、西口のほうは集客拠点がドカンとあって、そこにお客さんがワーッと集まるという環境 ではなかったので、主にイベント中心の商店街づくりをしてきました。今でもそうですが、
「ふくろ祭り」とか、秋にはおみこしの出る大きいお祭りがあります。それから、フラダン スを踊る「フラフェスタ」とか、「東京よさこい」とか、「ジャズフェスタ」、「フォーク・ア ンド・カントリー」等々、1年中何らかのイベントをやっています。そのイベントで集客を 図るということをやってきたわけです。
そうすると、商店街の主要なメンバーたちは、毎月、実行委員会に加わって顔を合わせて、
その準備に当たるわけです。そういうメンバーシップができているんです。そこには、もち ろん新規のお店の方々にも協力していただいて、メンバーに入ってくださいというお願い もしているわけですが、そういうことは中国人店主側には多分あまり伝わっていなかった と思います。ややもすると、言葉の悪い人は、「新宿、渋谷にちょっと負けている」、「あま り特徴が見えない池袋」、「それだったら中華街でいいじゃないか」という言われ方をしてし まうわけです。これはやはりカチンときますよね。「あなたのところはあまり特徴がないか ら、せっかくそんないい話があるんだったら中華街にしちゃえばいいじゃないか」と、こん なことを言われたら商店会長達は怒ってしまいます。そのようなことで、やはり興奮した時 期もあったと思います。この話は結局、胡さんたちと、中華街構想をやるにはまずコミュニ ケーションから始めよう、そういう付き合いができてから中華街というのがあるべきじゃ ないかというようなことで、いったん保留となったわけです。
でも、今の話は商店街の会長さんのお話ですから、結構スマートです。もう少し言うと、
地元では結構激しい言葉が出てきます。それは、背景には、これまでやってきた池袋という ところの環境浄化というものも関係しています。例えば、2007 年、2008 年というのは平成 20 年の頃ですが、その頃の池袋のまちの様子を地元の方はご承知というか、何となくイメ ージできるかもしれません。しかし、それよりもさらに 15 年ぐらい前ですと、池袋の平和 通りとか駅前の商店街から少し離れたところでは街娼の女性が立っていたり、それが外国 人の方だったりして、白人の方もいたりアジアの方もいたりというなかで、それを目当てに サラリーマン男性が池袋に来る。池袋はそのようなまちだと言われていた時代もあって、そ れを PTA とか商店街、町会というのが、一丸となって毎日パトロールして回って、何とかや めてもらったということもあるんです。そういうことがあった上でのこういうお話ですの で、よりコミュニケーション、それから一緒に活動してからやるべきだろうという話が出て くるのは、地元にいる者としては仕方がないかなと思うわけです。
【池袋西口をより魅力あるまちへ -人と地域とをつなぐ NPO ゼファーの取り組み-】
さて、それではなかなか中華街はできないけれども、先ほどの企画書にもあったように、
営利目的ではなく、まちをよくするためにどうすればいいのかということで、例えばですが、
「国際交流のおみこしを担ぐ会」というものがあります。これはふくろ祭りのときに、外国 人の方と一緒におみこしを担ごうという、もともとは JC という東京青年会議所のメンバー が始めた運動ですが、今年でもう 24 回目ぐらいになります。その活動に自ら参加して、仲 間を募って一緒におみこしを担ぐ。それから、その準備に当たるというようなことにも一生 懸命、参加していただきました。
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それから、これは NPO ゼファーが企画した話なのですが、豊島区政施行 80 周年のころで すから 2012 年頃、東京芸術劇場の前の西口公園を劇場前広場のような形にして、その劇場 に来たお客さんが公園で楽しんだりくつろいでいただけるようなスペースにしていこうと いう企画をしました。豊島区政施行 80 周年記念と、それからちょうど東京芸術劇場がリニ ューアルした年があったものですから、それに合わせて劇場広場をつくろうということに なりました。ご承知のように西口公園というのは、以前、石田衣良さんの小説で池袋ウエス トゲートパークなんて言われまして、カラーギャングが来るとか、若い人がたむろして悪い ことをするとか、そんなイメージのときもありました。実際はそれほど広い公園ではなかっ たのですが、そういうイメージがあって近づきにくいということも言われているわけです。
以前、立教大学の学生さんに、西口公園で遊びますかと聞いたら、「遊びません。あそこは 行っちゃいけないと言われている」というようなことを言われまして愕然としたことがあ りましたが、それがまさに東京芸術劇場のお庭なわけですから、がっかり度合いがひどいわ けですね。そこで私たちは、「西池袋みどりのアートカフェ」という社会実験を始めまして、
いろいろな緑を植えてみたり、プランターで植えてみたり、それからテーブルといすを出し てみたり、イベントをやってみたりということで、よりきれいな公園を目指そうという活動 をしたわけです。それが放置自転車の警告や撤去といった「アイポイント活動」とも連携し てきたのです。
そのときのアイポイント活動の内容は後で石森さんから話していただきますが、サポー ターの方には地域で緑化活動などのプロジェクトに参加していただきまして、その活動の 成果として、主に石森さんが中心となって
この商店街のメンバーが東武東上線の森林 公園の駅のところの農園で作ったジャガイ モやダイコンなどの野菜と交換してもらっ ています。採れた野菜はこちらに持ってき て、駅前での活動のあとにお渡しするアイ ポイントというチケットで野菜と交換でき るというシステムです。そのジャガイモは 駅前のメンバーが農園で作った成果物です から、それを還元しましょうということで、
農園に行ってもよし、駅前で活動してもよし、どちらにしてもまちのいいことにつながりま す。こういった活動を始めました。他にも放置自転車警告とか、駅前の花壇整備、あとこれ はもうもともと町会や商店街の方もやっていたものですが、パトロールですね。これは、さ きほど言った、その時代のころからずっとつながっている、かなり熱心にやっていただいて いるパトロールです。それから、農園でのジャガイモ作りという感じです。
今日、皆様のお手元に郭均成さんという方の新聞の記事をお配りしましたが、消防署の隣 に「蘭蘭」という中華料理のお店があるのをご存じですか。黒酢の酢豚がすごくおいしいお 店なのですが、「蘭蘭」は今、池袋に3店舗あって、郭均成さんはそこの社長さんです。最 初、中華料理屋さんで働き出してから、頑張って店を出して、黒酢酢豚が当たった時期があ って、その後、新聞社もやってというとても短い記事ですけれども、よく分かる記事になっ
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ています。後で読んでいただければと思いますが、この「蘭蘭」のかたも 90 年代の初めに 日本に来て、第一世代の華僑といいますか、成功した人で、今、新聞社などもやったりして います。そして、その甥っ子さんも、公園に来て一生懸命「僕、新聞記者ですけど手伝いま す」ということで仲間を連れて、仲よくやっていただいたりしています。毎週火曜日に来て もらって、プランターへの水やりとかごみ拾いとか、一生懸命やってくれています。
それから、2013 年になりますと、「池袋国際交流新年会」というものも企画されて、中国 人の方だけではない、いろいろな国の方々と一緒に新年会を祝おうという企画もされてい ます。このように、地元のまちで自分たちができることというものを、中国の方たちも一生 懸命取り組んできたということです。
これがどんどん続いていきますと、昨年ですが、こんなことまでできることになったんで す。豊島区役所の1階のセンタースクエア、まさに区役所の中ですが、そこを1日借りまし て、日中友好協会が主催の熊本震災のチャリティーコンサートが開催されました。これは大 変多くの方々、私たちが分からないネットワークを駆使して、多くの登壇者、多くのお客さ んを招いて、楽しく踊ったり歌ったり、それからオークションをやったり、これについては 後で上西さんからもお話しいただきますが、そういう楽しいイベントと同時に、日本の熊本 に対する寄附を、これは 200 万円以上だったと思いますが集めて、豊島区に寄附をして、豊 島区から熊本に寄附をさせていただいたということがあります。
ですから、最初は中華街構想ということで、地元の皆様となかなか接点を持たずに、でも、
何かいいことをしたいということで企画したものだったのですが、接点を持とうというと ころから少しずつ着実に地元の人とお付き合いを始めているところだと思います。このチ ャリティーコンサートをやったからすごくよかったということではないと思いますが、し かし、そういう努力と、このイベントをやるに当たっての準備の過程で、地元の方と一緒に 取り組むという姿勢があるということは大変大きなことだと思います。今ちょうど豊島区 でも国際アートカルチャーがいわれていますが、国際アートカルチャーをやるのは何も日 本人だけではなくて、外国の方も交えて一緒に豊島区で国際アートカルチャーとは何かと いうことについて取り組んでいかなければいけない、そういう気運も高まっていると思い ます。ここまで、私の周辺の、池袋にいらっしゃる中国の方々の活動についてご紹介をさせ ていただきました。一つ一つは、その過程の中で相談の場があったりしますが、まだまだ広 がりきれていないというのも事実です。ですから、この後、お話しいただく上西さんの活動 が、中国の方を対象としたり、日本の方も含めたりということで、この後さらに広がってい るというところをお聞きいただければと思います。
【2019 年『東アジア文化都市』の国内候補都市に「豊島区」が決定】
続きまして、豊島区の今の取り組みと今後のことについて少しお話ししたいと思います。
この6月に、2019 年の「東アジア文化都市」の国内候補都市に豊島区が決定したというニ ュースが入りました。これはすごいことなんですね。「東アジア文化都市」自体があまりネ ームバリューがないというか知られていないのですが、これは国家事業です。国で1つだけ の都市が選ばれて、中国と韓国から選ばれた都市と一緒に文化イベントを継続して1年間 やるというもので、その中で交流ということで中国に行ったり、韓国に行ったり、中国、韓
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国のお客さんが日本の候補都市に来たりということを繰り返すわけです。そして、そこから 始まる交流の後、その3カ国で何をやるか、何をし続けて仲よくなっていくかということが 大事なわけです。今までに選ばれた国内の都市は 2014 年の横浜市から始まって、新潟、奈 良、京都、金沢、いずれも政令指定都市や県庁所在地の大きなところです。その次に、2019 年に豊島区が候補都市に決定しました。これは「東京都」となってもおかしくないようなと ころに「豊島区」が来たというのは非常に大きな変化があるのと、国からの期待もあるわけ です。そのことについては、私が発行しています『とっぴぃ』という、月間の情報誌をご覧 ください。これが私の本業なのですが、こちらの特集の最初の2ページに、この豊島区でや る意義について、副区長さんにコメントをしてもらっていますので、後でご覧いただければ と思います。いずれにしましても、日本でたった一つの 2019 年の候補都市に豊島区がなっ たということで、中国、韓国とともに一大イベントを行うというのがもう再来年に来ている わけです。
【『池袋モンパルナス』-激動の時代を生きた熱き芸術家たち-】
そこで、1つ提案を含めて、私たちゼファーで取り組んでいることと、私個人としてはこ んなこともあるんじゃないかということをお話ししたいと思います。ちょっと名前が長い のですが、「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」というものをやっています。か つて「池袋モンパルナス」と呼ばれた時代がありました。これは椎名町とか、池袋西口、立 教大学周辺と、雑司ヶ谷も含めまして、明治後半から、大正、昭和にかけての戦前、戦中ぐ らいまでの間ですね。当時は戦争をやっていましたので、日本だけでなく、中国も韓国も台 湾も国内というときがありました。だから、海外からというよりは、東京に行くということ で来る方もいたのですが、留学生も来て絵を習ったり、彫刻を習ったり、美術を習ったり、
それから作家になったりという芸術活動が池袋で行われます。詳しくは「池袋モンパルナス」
で調べていただければと思いますが、戦前の一番最盛期のころは、約 1,000 人の芸術家の卵 がこの池袋に集まったといわれています。多くの方は、その中から戦争に行かれて「戦没画 家」などということになる方もいらっしゃるわけです。「無言館」という長野県の美術館に 行かれますと、椎名町の学生の絵がたくさんあります。全国から椎名町に来て絵を描いたと いう方の作品が残っています。皆さん、お亡くなりになっています。
ただ、この時代は池袋が大変面白かった時代でもあります。闇市よりももっと前の話です から、闇市のイメージとは全然違うんです。池袋の駅前には「ロンドンタイムズ」を吊って 売るような粋な書店がありました。そこで画集を買い求めたり、ヨーロッパの情勢を知りた いというような勉強をされる方がたくさん池袋に集っていたんですね。詩人の小熊秀雄が こんな詩を書いています。
池袋モンパルナスに夜が来た 学生、無賴漢、芸術家が街に出る 彼女のために、神経をつかへ あまり太くもなく、細くもない ありあわせの神経を
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戦争に入っていく前の時代から、その足音が聞こえてきて、自由が謳歌される時代から少 しずつ制限がかかって、これは困った、どうなるんだろうというような小熊秀雄の不安を書 いた詩ですが、池袋の特徴をよく表している詩でもあります。小熊秀雄というのは、最初に 申し上げました「池袋モンパルナス」の名付け親でもある当時の詩人です。
その当時、アトリエ村にいた野見山曉治さんはこんな言葉を残しています。自分が安いア トリエ付き住居に入って、隣でコンコン、コンコンと金さんという彫刻家の熱心なのみの音 が聞こえる。その音を聞くと、自分は隣の金さんに負けているような気がして眠れない。眠 れないからキャンバスに向かうけれども、それでも描けない。描けないから金さんの音を聞 きながら、自分の作品に没頭するように祈っていたと。その金さんとは、ライバルですから、
「おまえいい仕事をしたな」と言うと、「そうでもないよ」と。そのうちに、「いや、おまえ はいい仕事をしているよ」「していないよ」「おまえのほうがすごいよ」と言い出したらけん かになって殴り合いになって、最後は一緒に銭湯に入って「ごめんね」ということになった。
「歯ぎしりのユートピア」という言葉を野見山暁治さんは残しています。ライバルであるか らこそ、ストレスというか、歯ぎしりするような情熱の中で、自分の青春時代を作品に没頭 したというすばらしい場所だったということが、この『アトリエ村の思い出』として語られ ています。野見山暁治さんは今年 97 歳ですが、まだお元気に作品を作っていらっしゃいま す。回遊美術館にも昨年いらっしゃいました。
さて、もう一人、アーサー・ビナードさんをご紹介させていただきます。彼は私と同い年 の 50 歳です。彼はアメリカの大学にいて、何をやろうか放浪していたときに、日本に降り 立って、日本の成田で友達から聞いたという、池袋にある安いドミトリーに向かって、バス で池袋に初めて降り立ちます。そこでドミトリーに入って、日本語学校に通って、その日本 語学校の先生から小熊秀雄がつくった「焼かれた魚」という詩を教科書として教わります。
それに感動して、この小熊秀雄の「焼かれた魚」というのを英訳で出版させたいということ で詩人になっていくわけです。今、アーサー・ビナードさんはテレビにも引っ張りだこです し、講演会等々でも大活躍ですが、「原点は池袋である。池袋で出会った詩人から自分は人 生を教わった」というようなことを言っています。こういう表現がいいのかどうか分かりま せんが、現代のボブ・ディランのような方がアーサー・ビナードさんではないかなと思いま す。彼の原点は池袋にあるということで、池袋大好き人間なわけです。このような人もいま す。
【革命家 宮崎滔天が遺したもの -孫文とのかけがえのない友情を通して-】
それから、もう少し歴史を戻ってみますと、明治時代の大陸浪人に宮崎滔天という方がい ます。これは孫文の独立運動を支援した方です。孫文は、辛亥革命で中国を独立させる前に 東京でいろいろな作戦会議をやっていますが、そのときの一番の親友が宮崎滔天なんです。
なぜ宮崎滔天かといいますと、西池袋に今も旧宅があるんです。皆さんご承知の方はご承知 だと思いますが、宮崎滔天というよりは、むしろこちらの方のほうが有名かもしれません。
柳原白蓮ですね。明治の三大美人の一人といわれまして、九州炭鉱での話は NHK 朝の連続テ レビ小説の「花子とアン」で放映されました。あの柳原白蓮が宮崎滔天の長男、宮崎龍介と 恋に落ち、結婚するというような話になる訳です。柳原白蓮のほうが有名ですが、実は、そ
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ういう国際交流とか日本の政治ということでいいますと、宮崎 滔天の貢献は非常に大きいですね。
宮崎滔天のことは、豊島区でもまだあまり取り上げていませ ん。大陸浪人というのはある意味で山師的なところがあって、
アジアに出かけていって稼いで帰るという人も中にはいます。
だから、いい大陸浪人と悪い大陸浪人という感じがあるのです が、孫文を助けてくれたのは滔天だということでこの宮崎滔天 は中国では非常に尊敬されています。これが宮崎滔天と孫文の 写真です。
それから、左下の写真はアジアの友情の碑で、これは池袋に あるわけではありませんが、滔天が生まれた熊本にこの碑があ ります。日本だけかと思うとそうでもなくて、右下の写真は南 京にある銅像です。孫文と宮崎滔天が並んで歩く銅像です。こ の「赤誠友誼」というのは、かけがえのない、偽りのない友情 ということだと聞いています。
【池袋ゆかりの先人たちの想いを糧に -まちづくりの成功に向けて-】
ということで、何が言いたいかというと、かつてこの池袋で孫文を助けて、または一緒に アジア独立の夢を持って活動した若い大陸浪人は、この場所でそういう友情を謳歌したわ けですし、それから、アーサー・ビナードさんのように、外国から来てこの日本のよさを伝 えようというような仕事に就く方もいらっしゃいます。ですから、私たちの NPO ゼファーの 活動もそういうものを少し念頭に置いて、一生懸命頑張らなくてはいけないと思います。や はり池袋ファンである外国人の方々とつながって、そしてお互いに切磋琢磨してまちをよ くしたり、自分の人生を切り拓いたりというような土壌のようなものを根づかせることが できたら、このまちづくりは成功するなというような気持ちでおります。アーサー・ビナー ドさんや宮崎滔天のような人がどんどんこの池袋から現れるようなことを目標にしたいな と思っているところです。
少し長くなりましたが、私のほうからお話をさせていただきました。この後、NPO ゼファ ーのアイポイント活動ということで、私たちが具体的にまちの中でやっていること、それか ら石森さんは地元の方ですので、商店街とか地元の雰囲気みたいなこともお話しいただき たいと思っています。それから、その後登壇される上西さんは、ご主人様が中国の方で、上
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西さん自身は日本人の方ですが、中国でお育ちになった方です。池袋に住む中国人のお友達 とか、それからその周辺の方々と一緒にボーリング大会とか卓球大会とか、そういうスポー ツ大会を通じて仲間になったり、不安を聞いてあげたりというようなコミュニケーション を図って、誰もが池袋で楽しく過ごせるようにということを考えていらっしゃる活動家の 方です。このお二方の話も聞いていただければと思います。
私からは以上でございます。ご清聴ありがとうございました。
○石森 皆様、こんばんは。小林さんの前に NPO ゼファー池袋まちづくりの理事長をやって おりました石森でございます。今、小林さんの話を聞いていて、小林さんって本当すごい人 だなと思いました。私と多分アプローチの方向が全然違うんですね。私は何をやっていたか というと、体を動かしていたということで、
今日はこの話をすればいいんだと小林さんに 聞いていたので、この話をしていきたいと思 います。
それと、私は生まれたのは、疎開していた から埼玉の田舎なのですが、これまでのほと んどを池袋で過ごしまして、池袋の昔からの ことは全部体験をしております。そして、こ の多文化共生というすごいお題目なのです
が、例えば中国の方ということで考えると、昔は台湾の方で尊敬されている方が本当に多く て、すごく親しくしていた方もたくさんいらっしゃいます。そのうち、大陸のほうから大勢 来られて、先ほど小林さんがお話ししたような、地元となかなかうまくいかなかった部分も あります。とはいっても、簡単に言いますと、今、結構仲よくやられていて、我々のほうも 相当意識が変わってきたなというのもございます。時間をかけたということもありますし、
我々のやっている活動にも、もう本当に中国の方がいろいろ参加してくださっています。最 初は「えっ、中国の方ってボランティアするの?」と思いました。当番制でやっているんだ よというようなお話も伺うのですが、やり始めるとものすごく一生懸命です。ということで、
私の立場としては、そういう場というかフィールドを自分たちがずっとつくってきたとい う経緯がございます。まずは、そのアイポイントというのがどういうふうにつくられたか、
どういう目的でやっているのかということをお話しすると、いろいろなことが、これから 先々も進んでいくのかなというような気がしております。それでは、前置きはこのくらいに して、アイポイントの活動についてお話ししたいと思います。
【NPO ゼファーの重点事業の一つ「アイポイント活動」の誕生】
まず、アイポイントというのはどういうものかということですが、先ほど小林さんから少 しお話がありました。実を言うと、アイポイントという名前は、立教大学の阿部治ゼミの学 生と 11 年ぐらい前につくったものです。その前に小林さんと地域通貨というのはどういう ものか、地域通貨でまちおこしできないかなというようなことを一生懸命議論していたの ですが、地域通貨というのはものすごく難しいのと、これは下手にやり始めたら失敗するぞ
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という思いがありました。現在でも地域通貨が成功しているところはほとんどないのでは ないでしょうか。議論した結果、我々は地域通貨を目指すということになるのですが、今年 で 19 年目になりますが、私は熊谷の郊外にあります大久保農園での活動を始めていました。
ですので、池袋でボランティア、あるいは社会貢献をしている方々に、アイポイントという ものを渡して、農園で採れた野菜との交換券という形にすれば多分うまくいくだろうと。そ れが将来的には地域通貨になったらいいよねというようなことで始めた活動です。今現在 は、地域通貨にしないほうがいいんじゃないかというふうにも思っているのですが、自分た ちでできることを頑張ってみようという思いで、今やっているところです。
アイポイントというのは、池袋の「I」と私の「I」と愛情の「アイ」をくっつけて、そ れで「アイポイント」という形にしましょうということでつけました。今お話ししたとおり、
緑化活動などに参加したサポーターにアイポイントの券をお渡しして、春から初夏にはジ ャガイモ、秋にはダイコンと交換ができるというシステムです。また、一部の飲食店では金 券として、1回につき5枚までということで、500 円の割引が利用できます。それで、渡す ほうも「ありがとうございました」、もらうほうも「ありがとう」というような関係性が今 できているということです。
【「アイポイント活動」の中心的フィールド -池袋駅西口での緑化活動-】
今、アイポイントのフィールドとして中心になっているのは、池袋西口の駅前からルミネ さんの前にかけての花壇です。プランターがあちこちにあるのですが、花を植えたり水やり をしたり掃除をしたり剪定をしたり、そういう作業をしております。毎週火曜日の立教大学 の学生のお昼休みの時間、12 時 20 分から1時の間ということでやっています。それから、
「モザイカルチャー」というのですが、駅前にあるフクロウの像の手入れもしています。こ の像は、アイデア出しから企画まで、全部アイポイントのサポーターの人たちがやりました。
立教の学生にもいろいろ絵を描いてもらって、こういうものがいいんじゃないかというこ とを提案していただいて、区に提出して、区が受けてくれたのです。年間 52 週ありますけ れども、駅前は延べ約 1,000 人の人がお手伝いをしてくれています。
そして、大久保農園は毎週土日ではなくてまだ週1回の活動です。時々、土曜日とかウィ ークデーにも行きますが、そこでは無農薬の野菜を作っています。今どんどん、どんどん増 えて 1.5 ヘクタールぐらいあります。資料には本格的農業と書いてしまいましたが、そこま ではいっていませんが、機械も5、6台ありますし、本格的に近い農業ができております。
これも年間 700 名ぐらいの方が来ております。
これが駅前の活動の写真です。この、
植物でできたフクロウが「えんちゃん」
の像です。
駅前のところにはチョウチョやハチが いっぱい来ます。
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左の写真は、ガムがすごく道路にいっぱい落ち ていまして、これを取っているところです。これ は月に2回、1回は町会でやって、もう1回はこ のアイポイント活動でやるということになって います。
これはルミネさんの芝生の花壇です が、今、ここが池袋でたぶん一番きれ いではないでしょうか。ルミネさんが 社会貢献というものにとても熱心な企 業でして、ルミネさん、そして学生さ ん、そして我々のほうもそうですが、
この場所の手入れを毎週火曜日にやっ ております。左下は、菜の花を畑から 持ってきて植えたところの写真です。
また、写真はありませんが、駅前のプランターの整備では、中国人の方も手入れをしてく ださいました。今日は海外出張で来られなかった胡逸飛さんもいらっしゃいます。
これは、やはり駅前の花壇を皆さん で植えているところです。きのうも花 壇に花を植えました。プランターを置 いている花壇もあって、水やりをしな いといけないのですが、水道があるわ けではないのでこの公園の池の水を みんなでくんで運ぶのですが、これが 真夏だとものすごく大変です。でも、
皆さん汗びっしょりかきながら、こう いうことをしていただいています。
これはヒマワリですね。私もヒマワ リが大好きなので、駅前にヒマワリが あるのはいいよねということで、毎年 植えています。子どもたち、ものすご く喜んでいます。皆さん写真を撮って 喜んでいます。ただ、ことしは雹が降 りましてほぼ全滅状態にされてしまっ たということで、幾つか生き残ってい ましたが、ちょっと今年は残念な思い をしました。
15 / 26 この「えんちゃん」の像は鉄筋で形を作って、
網を張って、土を入れて、その中に植物を植えて いきます。真夏にこの伸びたところを刈らないと いけないのですが、とても大変な作業です。毎日 のように手入れをしないと枯れるし、伸びてくる しということで、これに関しては、本当に皆さん 一生懸命やっています。モザイカルチャーという のは1年しかもたないよ、もってもせいぜい3年 だろうなと言われていたのが、今、皆さんのおか
げで6年間もっています。時には専門家の方に来ていただいて、剪定の仕方や形の作り方な どを学ぶ講習会もやっています。皆さん写真をいっぱい撮ってくれて、駅前ですから、「い いですね、いいですね」と声をかけられて、皆さんすごく喜んでいます。
これは、先ほど小林さんが触れた「みどりのア ートカフェ」で、西口公園をきれいにしようとい うことでやったときの、一番きれいだったときの 写真です。今は残念ながら、我々と協定がなくな ってしまったので、我々から見たら非常にみじめ な姿になって、プランターがほとんどありませ ん。あるプランターもほとんど花が咲いていない という状態で、やはり手入れをずっと続けていか ないといけないのかなという感じがいたします。
手入れをしていたときは、カルガモが飛んできた んですよ。今は全く来ないですね。だから、手を 入れるということがどのくらい大事かということ です。ちょうど真ん中の奥のほうにあるのが、花 でハートの形を作って、我々が「ラブトピアリー」
と呼んでいたもので、ここで写真を撮っていく方
もとても多くいらっしゃいました。きれいにすると、自然環境も本当によくなるんだなと実 感しております。こんな都会の真ん中で、カモが飛べるんですね。目白のほうから来るらし いですが、ちゃんと飛んで来て飛んで帰りますね。こういうときもありました。
これはもともと立教の阿部ゼミとやった原点 がここなんですね。立教のツタを西口公園に植 えよういうことで、これを 11 年前に植えました。
これはどのくらいたったときでしょうか、これ だけツタが増えましたが、協定がなくなったら、
豊島区がほとんど切ってしまいました。ちょっ と残念なのですが、立教の象徴として、立教大学 の職員の方がわざわざ苗を育ててくれて植えた ものです。
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行政というのは、まつりごと好きですから、お金を何百万円もかけるような派手なイベン トをやるのですが、継続性がないんです。それを我々はどうしても継続させるということで アイポイント活動の人たちが本当に一生懸命やってくれています。
【「アイポイント活動」もう一つの柱 -人と自然をつなぐ農園での野菜の栽培-】
これは大久保農園でジャガイモの収穫をしているところの写真です。無農薬で約 4,000 キ ロぐらいとれます。これが契約している農場の中で一番広い畑です。このときは 7、80 人ぐ らいいたと思います。やっぱり機械でやらないとしようがないということで、機械で掘って、
それを皆さんに拾ってもらっているところです。
これは赤ダイコンです。ダイコンに見えないでし ょうけれども、こういうものも皆さんで植えて収穫 をしています。
植物のいいところは、子どもたちが多少いいかげ んに植えても何とかなってしまうというところかな と思っています。ちゃんときれいに育っていきます。
実を言うと駄目になってしまうものもあるのです が、できるだけ皆さんにやっていただいています。
自然の中ですから、野ウサギもいます。野ウサギを 捕まえたと若い子が言っています。その右側は、何て 言うことはない、ただのカマキリなのですが、手を振 っている姿を見たらかわいくて、写真を撮りました。
これは何という小鳥か分からないのですが、以前 はこういう小鳥が手を差し伸べるとピョコピョコと 寄ってきて、私の手に乗ってきました。さすがに今 は、みんなでどんどん開拓してしまったのであまり 来なくなってしまいました。
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【人と人とをつなぐ触媒 -「植物」が持つ力で心豊かになるフィールドを目指して-】
ということで、我々の活動について見ていただきましたが、自分たちが何を中心に考えて いたかというと、植物というのは人と人をつなぐ触媒なのだということをものすごく実感 しているわけです。ただ人と人とが面と向かっていろいろな話をしたり何かやっても、なか なかうまくいかないことが多いですが、間に植物を入れることによって、何かとても気持ち よくいろいろなことができる。植物というのは、種を植えさえすれば、ある意味では勝手に 生えてきます。ダイコンはゴマ粒みたいな小さな種ですが、それを植えることによって1キ ロも2キロもあるようなダイコンができます。だから、我々は子どもたちが来るときは必ず、
種植えからしてくださいと伝えています。収穫だけをするというのは絶対に受けつけない ということで、植えて、間引きして、雑草を取って収穫してというふうにやっていただいて います。その生命力ということを、子どもたちはどういうふうに考えているか分かりません が、だんだんと分かってきているような気がいたします。
自然と都会、そして地域と行政、まちと学生、子どもと大人、人と人、そして心と心をつ なぐ自然のフィールドを我々はつくっているということです。そして、そこから幸せが芽を 育んでいきますというのが、我々の考えているところです。
そして、上のほうに「アフォーダンス」
という言葉をあえて入れてあります。本 来の意味はここに書かれているのとや や違うのですが、人の行動は環境が決め るという一言で言っていいと思います。
例えば、真夏に、原っぱに大きな木が1 本しかなかったとしたら、人は必ず木陰 に集まります。それが時間とともに人も
ずっと動いていくというようなことです。真夏だったら街路樹のあるところを皆さん歩い ていく。日向のところは歩かない。だから、もっと大げさに言うのであれば、環境で人をデ ザインできるということを言う人もいます。元々のアフォーダンスの意味はまたちょっと 違いますが、そのようなことを考えて、我々はできるだけいろいろな人が集まって心が豊か になるようなフィールドを作っていけたらと考えております。少しでも皆さんと、外国人の 方との心がほぐれてくればいいなということで、いつでも我々は受けて立つという思いで います。いろいろな人に来ていただいて、おいしい野菜を食べていただければうれしいなと 考えております。
小林さんのお話とはちょっと違うかもしれませんが、私はこのような活動をずっと続け ていて、これもゼファーの1つの大きな柱になっているということで、ご紹介させていただ きましました。以上です。
※石森様は、このほかにも「アイポイント活動」の様子を写した写真を多数お持ちになり ましたが、個人が特定できるものについては、ここでは割愛させていただきます。
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○上西 皆様、こんばんは。本日は胡会長が来られなくなりまして、申し訳ございません。
私は今、中華街促進会の理事としていろいろ活動しています。私は鹿児島県の生まれで、6 歳から父母の仕事の関係で中国に行きました。13 歳までずっと中国で過ごしましたので、
自分では中国人と同じだと思っています。その 後、あちこちの国で育ちました。ですので、ど この国の人とも人種差別の環境無くすごして います。
先ほど小林さんが少しおっしゃったのです が、私自身はスポーツが大好きです。14 歳か らバドミントンやテニスなどいろいろやって きました。私は池袋に住んで 20 年ぐらいにな ります。池袋のファンです。池袋から引っ越す
つもりはありません。だから、自分の会社も池袋です。会社の社員は、日本人も中国人も韓 国人もいます。皆さんの考え方はそれぞれですが、みんな平和に仕事をして、楽しく生活し ています。
【熊本震災の支援で見えた、在日中国人たちの熱い想いを受けて】
私はスポーツで皆さんとつながっています。そのきっかけは、去年の4月、日本の熊本震 災のときのことです。私はちょうど箱根に旅行に行く途中でした。中国人の人からたくさん、
私にメッセージが届きました。「今、熊本は大震災が起きて、大変なことになっている。私 たちは何か助けてあげたい」というたくさんのメッセージが入って、私はそのときすごく感 動しました。中国人が日本の震災に対して助けてあげたいという熱心な気持ちになってい ることにすごく感動して、すぐに池袋に戻りまして、チームをつくりました。そして、50 人 ぐらいで現地に支援に行きました。私もすぐ中国人のネットワークで募金活動をしました。
1週間で 60 万円の募金が集まりまして、熊本に寄附をしました。買い物もたくさんして、
トラックで熊本に運びました。その後、帰ってきてからも、多くの人の、まだまだ助けてあ げたいという気持ちがあって、それでさきほど少し触れましたが、6月5日に豊島区役所で コンサートを開催しまして、多くの中国人や日本人に参加していただきました。実はそのと き、熊本のお弁当をオークションとして出しました。最初は 500 円から、最後は 60 万円で、
落札した人は私です。60 万円で、私がそのお弁当を買いました。そのお金はもちろん寄附 しました。なぜでしょうか。私は日本人として、こんなにたくさんの中国人が熊本を助けて あげたいという気持ちをもっていることに感動したからです。だから、私の主人も中国人で すけれども、私ももっともっと応援してあげたいという気持ちでいっぱいになりました。
【得意のスポーツで交流の場を創出】
それがきっかけで、たくさんの中国人と出会って友達になりました。皆さんの悩み事もい ろいろ聞きました。私は友達は少ないです。日本に 10 年、20 年いてもそうなのです。日本 人の社会に入れないのです。実は、日本人でも中国人とお付き合いしたくない人も大勢いま す。それを知ったとき、私はどうしようかと胡さんと話をして、やっぱり私はスポーツが得
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意ですから、スポーツチームをつくることにしました。それからボーリングクラブ、卓球ク ラブ、マラソンチームとかいろいろつくりまして、中国人だけではなくて、日本人も参加で きるようにして、日本人でボーリングができる人を4名ボランティアに誘って、コーチにな ってもらって中国人に教えてもらっています。卓球は、中国人は基本的に上手ですので、日 本人に教えます。
去年の7月に国際ボーリング大会を開催しました。そのときは小林さんも参加しました が、日本人はみんな上手です。中国人はそのときすごく大変でしたが、大会自体は成功しま した。日本人のチームは8チーム、中国人は思ったよりも多い 42 チームで、全部で 50 チー ムが参加しまして、選手は 300 人ぐらいでした。中国人は初めての人も多かったので、点数 は低かったです。日本人はこんなにうまいのかと、中国人はみんなびっくりしました。それ から、だいたい毎週水曜日と日曜日、みんなでボーリングの練習をしています。大会も、こ としの 12 月3日で4回目です。今、皆さんの平均スコアは 180 ぐらいです。初心者の私も 一生懸命頑張って 250 ぐらいになって、コーチになれるくらいになりました。
卓球ですが、ことしの 10 月7日、日中友好 45 周年の日中卓球大会で、中国人 37 チーム、
200 人の選手を連れていきました。実は、私は卓球はやったことがなかったのですが、皆さ んのために、私も一から、その人たちと一緒に一生懸命頑張って練習して、やっと試合がで きるようになりました。そのときも中国の大使館と日本の政府とで開催しまして、あまり上 手ではなかったですが、すごくよかったです。他にもマラソンとか、いろいろ参加しました。
【日中友好の懸け橋へ -お互いを受け入れることの大切さを学びながら-】
私の主人もそうですが、日本語はあまりできません。日本に友達も少ないです。たまたま 私は中国語もできますので何とかやっていますが、国際結婚の家庭はけんかやストレスが 多くて、うつ病の人もいます。犯罪も増えています。池袋というのは、外国人犯罪率が高い イメージがあります。そんな中で、私は何ができるのかというと、実は何もできません。た だ、それぞれの人の生活が安定すれば、犯罪も減らせると思います。
ここは日本ですから、中国人は日本人の生活、日本人のルールを知る必要があります。例 えば、電車に乗るときは必ず並ぶとか、ごみは持って帰るとか、スポーツをしながら皆さん に教えます。最初は、実は日本人は中国人のチームの中にあまり参加したがりませんでした。
私の会社は日本人が多いので、みんなを連れてチームの中に参加して、中国人と交流しなが ら、友達の友達とか、中国人の女性に日本人の旦那さんを呼んでくださいと言っています。
そうすれば夫婦のチーム、親のチーム、家族のチームをつくって一緒に参加できます。それ で離婚話が出ていても仲よくなった人が何人もいます。うつ病の人も、運動して睡眠もよく なって改善して、今は治って仕事ができるようになった人も何人もいます。
だから、私は日本人として中国人として、やっぱり仲よく生活をしたいと思っています。
特に池袋に貢献をしたい。池袋で仕事をして納税してほしいと思います。それも1つの方法 です。池袋はほかの区と比べると、実はあまり収入が多くないです。それを聞いて、知り合 いの中国人の会社の人に、本社を池袋に移転しましょうよと誘っています。池袋に納税して ほしいですので。自分はあまり力はありませんが、できることはこれからももっともっと頑 張りたいです。よろしくお願いします。
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※上西様は、卓球大会、ボーリング大会、豊島区の熊本地震チャリティイベントなどの様 子を写した多数の写真をお持ちになりました。ここではそれらの写真は割愛させてい ただきます。
質疑
○小林 今日はどうもありがとうございました。今の上西さんのお話ですが、私も上西さん のことを知った時、すごいな、すごい人だなと思いました。彼女は、中国の方で池袋に来て いる方、東京に来て過ごしている方たちの生活が少しでも安定するように、精神的にも安定 するようなことに貢献したいということで、主にスポーツを通じてやっていただいていま す。仲間がどうしてこんなに
集まるのかと不思議に思うの ですが、WeChat なんですよね。
WeChat で、ちょっと情報を得 ただけで、ワーッと集まるん です。日本の SNS のレベルと は全く違う、例えば 1,000 人 集まっちゃうとか、今も彼女
のチームは 6,000 人だということですが、大会をやろうと思ったら 300 人から連絡が来た というような話なんですね。私らからすると、3人かな、4人かなとか、もう1人ずつ呼ん でくださいとかそんな感じになりそうですが、もうそれは本当に中国の方の WeChat の世界 というのは本当にすごいなという気がしますし、そこでまたコミュニケーションがとれて、
募金、寄附まで募ってしまうというのはすごいということと、そういうスポーツをすると仲 よくなるということですね。さきほどよく眠れるという話をしていましたが、一緒にやって 疲れて、体がヘトヘトになるのでよく眠れて翌朝すっきりというようなことで、うつの病気 も治ってしまうということらしいですが、本当にそういうことをされている方がいて、その 人たちと連携しながら、まちのファンにもなっていただきたいなと思っているところです。
石森さんの話、それから上西さんの話も聞いていただきまして、ありがとうございました。
何かご質問等がございましたら受け付けて、お答えできるところはお答えいたしますので、
よろしくお願いいたします。
○質問者1 小林さんにちょっとお伺いしたいのですが、2007 年に中華街構想が始まって、
今はどうなっているのですか。
○小林 今は、中華街構想自体はもう止まっています。特に何かをやるというところまでは 至っていないです。中華街構想も当初のネットワークをつくるということと、もう少し現実 的なやり方にして、まずは仲間づくりからやっていこう、それから、地元の人とコミュニケ ーションをとっていこうということで、それからまた考えようという原点に戻っている感 じです。ほとんど全く進んではいないです。
○質問者1 それともう1ついいですか。何年か前に、韓国人の地域でこういう活動をやっ ている人の話と新宿区長の話を聞いたことがあるのですが、今は大久保のイメージが全然
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違ってしまっていて、韓国の店がほとんどなくなったというので、新宿区長も失敗だったと いう言い方をしたのですが、その原因が、日本での滞留年数だというのです。というのは、
平均3年しかいない。3年経つとほとんどの店が変わってしまうと。そうすると、3年間で 地元と仲よくしようという雰囲気はとても出てこない。もう自分たちは、早く言えば、日本 に出稼ぎに来ているという感覚ですね。そういう話をしていまして、地元の商店街の責任者 の方も、失敗だったというような言い方をされていましたが、そういった考え方、池袋で中 華街というような考え方があるとすると、将来どうなるのだろうということを思うのです が、小林さんはどう思われますか。
○小林 滞留年数に関しては、上西さんのほうがお答えしやすいかもしれません。私の印象 で言いますと、中国のビジネスマンの方と付き合ってみて、ああここが違うなと思うのは、
1つの業種にこだわっていないということです。中華料理店を始めて、当たって、少しもう かり、それでお店を増やした。でも、そのことにこだわってずっと続けるということではな くて、次に新聞を発行してみるとか、貿易をやってみるとか、つまりビジネスマンとしてい ろいろなことにチャレンジしたいんですね。でもそれは日本人に言わせると、あなた中華料 理屋の店主じゃなかったのかとなるわけです。同じことを継続していくのが大事だろうと 私もちょっと思うのですが、そういう考えはあまり持っていないんです。だから、中華料理 屋で成功したら、次は新聞をやって、新聞で成功したら、貿易やって、3つ一緒にやったっ ていいじゃないかと。そのような感じで、すごく意欲的ではあります。そのことが、もしか したら商店街の中でも、あなた中華料理屋の店主として来ているのか、それとも不動産屋と かなにか違う新しい事業の話で来ているのかということに疑念を持つ方が、日本人の方の 中にはいらっしゃる。彼らのビジネスやその文化の中では、あまりそういうことにこだわっ ていないんです。それが、ちょっとギャップを感じるところです。あと、滞留年数で言うと、
どうでしょう、滞在する、1つのところでやる年数が短いということですね。
○上西 そうですね。実は、たくさんの外国人が日本に長く滞在できないのは一つ理由があ ります。ビザの関係です。例えば、留学生の場合は、卒業してもうまく就職できない人もい ます。会社を設立しても経営のビザの問題があります。最初は1年間のビザを取得して、そ の後1年、また1年と更新していく人も多いです。でもそのあとのビザはなかなか取れない んですよ。それで、審査も非常に厳しいです。納税の履歴だけではなくて、納税額がどのく らいあるのかも関係してきます。だから、会社の運営ができなくて中国に撤退した人も結構 多いです。やっぱり日本人と平等にはなれないのです。例えば、私は自分の会社をやってい ます。日本人ですから。ちゃんと給料が支払えれば、赤字でもしようがないと思ってやって います。でも、外国人は違います。結構厳しくなります。だから、たくさんの店舗が3年経 ったときに、次回またビザを取れるかどうかの話になりますので、そこでもうやめてしまう。
それも結構多いです。それが現実です。
○質問者2 すてきなお話をありがとうございました。ただの大学生がこのようなことを 聞くのは失礼かと思うのですが、中華街といったら、皆さん結構横浜をイメージされること が多いと思います。池袋は 2007 年から東京の中華街構想としてやっていると思いますが、
横浜とは違う池袋の中華街を、多分今後つくっていくと思います。池袋の中華街の魅力とい