2016年1月4日
博士学位論文審査報告書
大学名 早稲田大学
研究科名 スポーツ科学研究科 申請者氏名 袁 書營
学位の種類 博士(スポーツ科学)
論文題目 北京オリンピックの文化研究
The Cultural Analysis of Beijing Olympics
論文審査員 主査 早稲田大学教授 寒川 恒夫 学術博士(筑波大学)
副査 早稲田大学教授 志々田 文明 博士(人間科学)(早稲田大学)
副査 早稲田大学教授 友添 秀則 博士(人間科学)(早稲田大学)
本論文は、中華人民共和国(中国。1949年建国)の北京市において2008年に開催されたオ リンピック第29回大会(北京オリンピック)をとりあげ、これがもつ文化性について考察す ることを目的としている。
論文の全体は、序章と結章を含め、6章から成る。
序章では、研究目的とその背景、研究方法論、先行研究検討があつかわれる。北京オリン ピックを論じたこれまでの研究は、近代中国発展史上における位置を論じた歴史的研究、北 京オリンピックに中国政府の政策を読み取る社会学的研究などが主なもので、北京オリンピ ックをシンボルとみて、そこに表徴された文化を読み解く接近法はこれまで未着手であった。
ここに本論文の高いオリジナリティーを認めることが出来る。分析は、オリンピック開会式 パフォーマンスとオリンピック建築群に対しておこなわれた。
第 1 章では、シンボル分析の歴史的背景が考察される。前提とされたのは北京オリンピッ クを主管した中国政府の側の意図の解明であり、これが、北京オリンピック政府言説群の中 の「和諧」と「人文オリンピック」をキータームに分析される。「和諧」は当時の政府リー ダーであった胡錦濤が 2002 年に国是として提唱した概念で、これによって国民(56 民族か ら成る中華民族)に融和が訴えられた。その背景にあったのは、1970 年代後半からすすめ られた資本主義的改革開放政策がもたらした急激にして深刻な社会的・経済的・民族的格差 の状態をいかに解決するかの政治課題であり、その解決理念として、中国古代の儒教的「和 諧」概念が持ち出された。もちろん、政府の政策次元ばかりか民間においても、しかもより 古く、こうした認識は存在していた。すなわち、19 世紀中葉のアヘン戦争敗北後、中国は 西洋列強の干渉を受けて国運を傾け、清朝はその対策として早急な西洋化を導入するが、こ れが招来した大きい社会的混乱とひずみへの反発・反動として伝統回帰運動が沸き起こり、
それが、再び改革開放政策期に新儒学運動として蘇生し、これが、北京オリンピックの政治 文化に結実する。時代背景理解がこのように再構成され、そうした文脈を持つ北京オリンピ ック理念として(しかも、国内融和・中華民族融和にとどまらず、中国と世界の融和、更に 世界全体の融和を訴える、つまりオリンピズムが言う国際平和理念に適合する概念として)
「人文オリンピック」が提唱されたとの指摘は鋭い。
第 2 章では、北京オリンピックの開会式に披露されたパフォーマンスのシンボリカルな 分析が試みられる。開会式パフォーマンスの総監督を務め、自身も伝統文化運動にたずさわ る映画監督の張芸謀の創作理念を手がかりに、そこに演出された万里の長城、桃、缶(打楽 器のホトギ)、飛天、吉祥数字・吉祥色に焦点を当て、象徴論的分析がおこなわれ、これら 諸要素が巧みに中国伝統文化の「和」に収斂すべく表徴されていると結論を導く。
第 3 章では、北京オリンピックのために建造された建築群をとりあげ、その設計理念に 込められた文化が分析される。対象とする建築群は、北京旧市街(今日の北京市の全体では なく、20 世紀初頭まで歴代王朝の宮殿が置かれ、城壁に囲まれていたいわゆる北京旧市街。
毛沢東の遺体と国会議事堂に当たる人民大会堂を擁する共産党政治の象徴的センターでも あり、中国の過去と現在を統合する時空シンボルの意味を持つ)の真北に造成された北京オ リンピック公園であり、そこには、メインスタジアムの「鳥の巣」と水泳競技場の「ウォー ターキューブ」を含む全競技施設のほぼ半数が集中する。この北京オリンピック公園と北京 旧市街は、その間を 8km隔てるが、南北を垂直に走る一本の道路によって結ばれている。
北京旧市街は、これが初めて設計された元朝以来、皇帝が住む小宇宙たるべく東西南北に対 応する矩形空間を有し、中を東西に 2 等分する中央道路が儒教の重要概念である「中庸」を 表徴して走ったが、これが北京旧市街から真北に延び、北京オリンピック公園を貫通する。
この中軸線によって、建築表現上、北京オリンピックは中国の歴史的・文化的そして政治的 核心と接合させられるに至る。さらに公園内は、中国伝統の図形シンボリズムに則って、円 形の「鳥の巣」と方形の「ウォーターキューブ」がシンボリカルに対立させられる。「鳥の 巣」は円が天をあらわすために中軸道路の東、「ウォーターキューブ」は方が地をあらわす 故に中軸道路の西にと、向き合う形に、道教的に配置されたのである。そこには、円と方に よって、北京旧市街と同じ天地が現出する小宇宙が用意されるのである。更に、公園には竜 形をした長い水路が掘られて道教的世界が強調される。北京旧市街とオリンピック公園が中 軸線によって結合させられている点に注目し、そこに、「天円地方」「陰陽」「天人合一」
「道法自然」といった道教的古代宇宙論、また儒教の「中庸」概念を読み取る手腕は秀逸で ある。
第 4 章では、北京オリンピック文化の特異性が、中国の他のスポーツ建築や他のスポー ツ大会開会式パフォーマンスとの比較によって、論じられる。比較対象のスポーツ大会とし て、①民族を問わず、つまり人口の 9 割強を占める中心民族である漢族と 55 の少数民族が 参加し、国際オリンピック委員会系統の国際スポーツ種目で競う中国国内最大規模の「中国 全国運動会」と、②55 少数民族がそれぞれ伝統の民族スポーツを披露し、また競い合う「中 国全国少数民族伝統体育運動会」が選ばれ、2008 年までのそれぞれの開会式パフォーマン スが比較考察された。「中国全国運動会」の考察からは、発足当初の生産と国防のための演 出(中国に限らず社会主義諸国がおこなうスポーツ大会では定番の演出)から胡錦濤時代に
「和諧」演出が求められたこと、また「中国全国少数民族伝統体育運動会」については、こ の運動会が少数民族重視と共に、漢族による少数民族統治の成功を内外にアピールする機能 を担うべく開始された経緯に基づいて第 1 回から掲げられていた「民族団結」スローガンが 胡錦濤時代に「和諧」と表現を改め、民族融和を含み込んだ社会格差解消という更に広い意 味を期待され、演出されたこと、が導かれる。また、スポーツ建築については、中華人民共 和国建国後の主要な建築物がとりあげられ、設計文化が 4 期に分けて考察され、21 世紀の 段階で初めて、北京オリンピック建築群の理念を導く“建築と都市の自然的文化的歴史的環 境の融合観念”、すなわち「和諧」文化が萌すものの、北京オリンピック建築群にみられた
徹底した中国伝統文化の導入はまだ現れないことが導かれる。つまり、「和諧」は胡錦濤時 代の強い政治理念であり、北京オリンピックはその表現のピークに位置付けられていると解 された。
結章では、これまでの議論が要約され、北京オリンピックが有した文化は、当時の中国政 府が提唱した「和諧」というすぐれて政治的な文化を核に、これを、開会式パフォーマンス とオリンピック建築群によって可視化し、国内には中国人のナショナル・アイデンティティ 構築を期待しての、また世界にはオリンピズムの平和理念を訴えるための、独自なる道教・
儒教的伝統に基づく中国文化発信装置として機能したと言えようと結ぶ。
論文作成者による本論文と関わる学術論文は以下のものである。
Yuan Shuying 2013 A New Miraculous Revitalization of Japan ? : A comparative analysis of the 1964 Tokyo Olympic Games, the failed 2016 bid, and the bidding for 2020, in:
Asia Pacific Journal of Sport and Social Sciences, 2-3: 198-213.
本論文は、問題設定の独自性と論証の実証性、結論の妥当性をもって、博士(スポーツ科 学)の学位を授与するに十分値するものと認める。
以上