百済および日本の垂木先瓦に関する二、三の考祭
千 田 剛 道
1.は
じめ に一研 究のあゆみ と本稿 のね らい 一
2.百
済 の垂 木先瓦3.百
済 と 日本 の垂木先瓦 に関す るい くつ かの問題 4. 柔,才9り に要
旨
垂木先瓦は、宮殿や寺院建築などの屋根の垂木先端にとりつける瓦である。軒丸瓦や軒平瓦 とならんで、軒先を飾る瓦 として日に触れやすい建築部材のひとつでもある。垂木先瓦に関しては、
1938年の石田茂作の研究が先駆的なものであろう。石田は、日本の垂木先瓦の源流が百済にあることを
軍守里寺址の実例をあげて指摘 している。その後、日本でのまとまった研究はほとん ど見 られないが、
小田富士雄による北九州での垂木先瓦の紹介、花谷浩による飛鳥地域の垂木先瓦の検討などが、垂木先 瓦を論 じた数少ない研究であろう。一方、百済の故地では、定林寺址、弥勒寺址をは じめ、近年の陵山 里寺址などの寺院の発掘調査の進展により、垂木先瓦の出土も報 じられ、石田の段階 と比較 して、遺跡 の出土状態との関連で考察できる資料が増加 している。本稿では、以上のような調査・研究の成果に学 びながら、日本古代の垂木先瓦の直接の源流である百済の遺跡から出土した垂木先瓦の観察からはじめ て、百済における垂木先瓦を概観 し、古代 日本への影響についても若干触れた。
キーワー ド
垂木先瓦
花弁
中房
釘穴
奈 良文化財研 究所
企 画調整部
139
1.は じめ に 一研究 のあ ゆみ と本稿 のね らい 一
垂 木先瓦 は、瓦葺 き建築 の屋根 の垂 木先 端 に と りつ ける瓦 であ る。軒 丸瓦 や軒平 瓦 とな らんで、軒先 を飾 る瓦 として 日に触 れやす い建築部材 の ひ とつで もある。
日本古代 の垂 木先瓦 に関す る先駆 的 な研 究 に石 田茂作 の論文が あ る1。 石 田は、 当時 知 ら れ ていた古代朝鮮 と日本 の資料 に もとづ き、垂 木先瓦の形態分布、年代 な どを論 じてい る。
そ の後 、垂 木先 瓦 に関す るま とまった研 究 はほ とん ど見 られ ないが、北九州 での垂 木 先 瓦 を論 じた小 田富士雄2、 近年 で は、下 野薬 師寺 の垂 木先瓦 に関連 して垂木先瓦 の資料 を概 観 した河野一也3の記述 、飛 鳥寺 を中心 に飛 鳥地域 の垂木先瓦 を総覧 した花谷浩資の論文 な どを あげることがで きる。
一方、百済 の垂木先瓦 に関 して は、石 田 とほぼ同 じ頃、村 田治郎 も古代 朝鮮 の垂木先 瓦 をあつか うなかで、建築学 的な考察 を加 えてい る5。 第二次大 戦後 になって、井 内功 は、 百 済 の垂 木先瓦 の総括 的 な分類 をお こなった6。 百済 の故地 で は、その後、定林寺址 、弥勒 寺 址 、 陵 山里寺址 な どの発掘調査 の進展 に よ り、垂 木先瓦 の 出土が報 じられ、石 田の段 階 と 比較 して、遺跡 の出土状態 との関連 で考察 で きる資料が増加 している。
本稿 で は、 以 上 の ような状況 を うけて、
日本古代 の垂 木先瓦 の直接 の源流 であ る百 済 の 遺 跡 か ら出土 した垂 木先瓦 の観 察 か らは じめ て、百済 にお ける垂木先瓦 を概観す る。 そ し て、百済垂木先瓦の分類、飛鳥寺 の垂木先瓦 と百済 との関係 な どに触 れる。
2.百 済 の垂 木先瓦
実見 で きた資料、お よび発掘報告書等 に よ り知 りえた資料 を掲 げる。
(1)定
林 寺址 (第1図 1〜5)定林 寺 は、扶 余郡扶 余 邑東南里 に所 在 す る。定林寺 の発掘 調査 は、1942年に着手 され 、 数年 にわた って、小 規模 な調査 がお こなわれ たが、未報告 であ る。 その後 、忠南大 学校 に
よる、1979年 お よび1980年 の調査分が、1981年 に報告 された。垂木先瓦 は、4種 (素弁 人 弁
2種
、素弁十二弁 が2種 )力斗R告 され て い る7。 1〜5は、 いずれ も中房 の縁 が太 い圏線 で 表 現 され た もので ある。1は
、復原直径12.8cm、 厚 さ2 0cm。 中房 内 に蓮子4個を配す る。 中央 に一辺0.6cmの 方 形 の釘 穴が あ る。裏面 はヘ ラ削 りで調整す る。砂粒移動痕が 円弧状 に残 ってお り、 あ るい は、ヘ ラ削 りには回転 (左回転
)を
利用 した可 能性 もあろ う。2は
、復原直径が16cm、 厚 さ2.4cm。 中房内の蓮子 は2個 残 る。裏面は、ヘ ラ削 りのあ と、ナデで調整する。
3は
、中房内に蓮子がみ られない。復原直径16cm、 厚 さ2 7cm。 ただ し摩滅の著 しい破 片◇ ︶
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141
なので、蓮子 の有無 は確 実 で はない。
4は
復 原直径18cmの
大型 品。厚 さ2.6cm。 裏面 はヘ ラ削 りで調 整 し、やや くぼむ。蓮子 は2個
が残 る。十二弁か。5は 、4と 同様 の大型 品、直径 18cm。 厚 さ3cm。 4と の違 いは、 中房 の内部 に蓮子 を配置 しない点である。十二弁 に復原 される。
(2)亭
岩里 窯 (第1図6)亭 岩里窯 は、扶余郡場 岩面亭 岩里 に所在 す る。垂木先瓦 は、1991年 の発掘調査 で、 第9号 窯か ら出土 したS。 出土 した2点の うち 1点 が図示 された。 中房 の縁が太 い圏線 による表現 で ある。 中房内に蓮子 を配す る。61よ、復原直径13.5cm、 厚 さ17cm。
(3)陵
山里寺址 (第1図 7〜10)陵 山里 寺llLは、扶余郡扶余 邑陵 山里 に所在 す る。1995年度 (第4次
)と
1996〜 1997年度(第5次
)の
調査 で垂 木先瓦 が 出土 した。。報告書 に よる と、垂 木先瓦 は総計31点 認 め られて い る。主 と して中門、 お よび中門周辺地域 か ら出土 してい る。垂木先瓦 の文様 は、すべ て 素弁 で、 中房 の形状 に よ り、第1〜
3の 3類型 に分類 されている。7は、 中房が円盤状 をな し、何 らの装飾 を加 えない。直径 は16cm、 厚 さ1.8cm。
8は、 中房 に蓮子が二重 に配置 される。直径12,7cm、 厚 さ2.lcm。
9,10は
中房縁 が太 い圏線 に よ り表現 され る。91よ、直径13.7cm、 厚 さ1.9cm。 10は、直径 14 3cm、 厚 さ1.2cm。(4)弥
勒 寺址 (第2図11'12)弥勒 寺l■は、全 羅北道益 山市金馬面箕 陽里 に所在 す る。1989年刊 行 の報 告 書 に よる と、
垂 木先瓦が
2種
(A型 ・B型)出
土 してい る。。A型
が圧倒 的 に多数 を占め る。 いずれ も7弁の 蓮弁 に忍冬文 を飾 る もので、 中房縁 に蕊状 を表現す る。忍冬文 は、A型
(11)が五葉であ る の に対 して、B型
(12)は三葉 である。11の 瓦 当側面 には、珠文 と鋸歯文 を表現 し、 この垂 木先瓦 の成形 に用 い られた分割式 の初Ⅱ型 の痕跡が残 る (矢印部分)。 緑釉 を施す。12に は、一 辺1,7cmの 方形の釘穴がある。(5)王
宮里遺跡 (第2図13)王宮里遺跡 は、益 山市王宮面 王宮里 に所在 す る。垂木先瓦 は、2001年度 の調査 で西 北 部 の工房廃棄址周辺の焼土 を含 む層か ら出土 したH。 131よ、 弥勒寺
A型
と同範 であ る。弥勒寺 例 と同様、瓦 当側面 に分割式 の枷型 の痕跡 を残す (矢印部分)。 この個体 には現状 では緑釉 は 認 め られ ない。裏面 は凹面 をな し、ヘ ラ削 り調整す る。復 原直径16 2cm、 厚 さ2.7cm。(6)金
剛寺址 (第2図14〜17)金 岡J寺址 は、扶余郡恩 山面琴公里 に所在す る。1963年 (第1次
)及
び1966(第
2次)年
に調 査 され、1969年 に報告 された鬱。垂木先瓦 は6種
(I〜 Ⅵ式)、 総計51点 が 出土 し、 うち5種が百済お よび 日本の垂木先瓦に関する二、三の考察
14Э
百済時代 に属 す る。 うちわ けは、 Ⅲ式 (第2図
16)が
19点 で最 も多 く、次いでI式
(第2図14)11点、 Ⅱ式 (第2図
15)の
8点、 Ⅵ式が7点、 Ⅳ式が5点、V式
が L点 の順 となる。金岡J寺の 垂木先瓦 は、中房が、円盤状 をな しその周縁 に珠文 を一重 (14・ 17)または二重 (15。 16)に め ぐらす点が特色 であ る。直径 は、I式
が18.4cm、 Ⅱ式が17 7cm、 Ⅲ式が13.2cm、 Ⅳ式が 14cm、V式
が9.5cmで あ る。(7)軍
守里寺l■ (第2図18'19)軍守里寺址 は、扶 余郡扶 余 邑軍守里 に所 在す る。 1935年 (第1次)、 1936年 (第2次
)に
調査 され、 1937年 に報告 された硝。垂木先瓦 は2種 出土 してい る。 中房 の縁 が太 い圏線 に よる表 現 で、 中房 内 に蓮子4個を配す る。釘穴 は方形で、釘 を残す例がある。 中央基壇 か らは、軒 丸瓦 ととともに多数 出土 してい る。なお、石 田茂作 によれば、「金堂 の軒 の くづ れ落 ちた と思 はれ る線 に沿 って、鐙瓦 と交 じ り此 の種 の瓦 が 断続 して発 見 され、其 の 中 には中央孔 に鉄釘 の腐 蝕付 着 した儘 掘 出 され た ものあ り、最早I・
h先
瓦 と して≧ も疑 ふべ か らぎる もの ゝ様 に感 じた」 と述べ てお り'、 垂 木 先瓦 の用途 の確 定 を もた らした学 史的 に も重要 な調査 とい え よう。以上が百済 にお ける垂木先瓦 の主要 な出土例 である。
この ほか、 図録類 に よる と、扶余地域 で は、佳増里、王興寺址 、 旧衛里 、扶蘇 山、佳塔 里、 臨江寺JI 、龍井里、誤北里h、 錦 城 山ンな どで も垂木先瓦の出土が知 られ る。ただ し、
これ らは、採集 品が主 であ り、遺跡 との関連が 明確 で はないので、今 回の検討 か らは除い てい るこ とを付記 してお く。
3.百 済と日本の垂木先瓦に関するいくつかの問題
まず、百済 の垂 木先瓦 の分類 に触 れ る。 そ して、 これ を もとに、飛 鳥寺 の垂 木先瓦 と百 済 との関係 を と りあげてみたい。
(1)百
済垂木先瓦 の分類百済 の垂 木先瓦 の分類 に関 して、 これ まで、 ま とまった もの には井 内功 の研 究 が あ るB。
井 内 は基本 的 に弁 と中房 の形状 に よって、第
I〜
Ⅲ形式 の3種に大別 した (第Ⅱ形式は、さら にA〜Dに 細分)。 近年、河野一也 も百済 の垂木先瓦 を5種
に分類 してい るがや、資料、 内容 ともに丼 内の分類 とほぼ同 じであ る。
以上 の分類 を参考 に しなが ら、 ここで は、 これ らで扱 われ なか った資料 を くわえて、改 め て百済垂 木先瓦 の分類 を こころみ る。分類 の視 点 は、弁 と中房 の形状 にあ る点 は これ ま での先学 と変 わ らない。
まず、弁 の分類 は、大部分 の花弁 の形状 が人弁 の素弁 であ り、他 に十二弁 も知 られてい る。七弁 で忍冬 文 を装飾す る ものが少数 あ る。人弁 の素弁 の もの は、 中房 の形状が、 円盤
百済および日本の垂木先瓦に関する二、三の考察
状 をなす もの
(A)と
、太 い圏線で表現 された もの(B)の 2種
が あ る。次 に、 中房 の細 分であ る。
a:何
らの装飾 を くわ えない もの、b:蓮
子 を配す る もの、c:連珠文 を配す るもの、
di蕊
を配す る もの、の4種 が認 め られ る。以上 に よ り、花弁 と中房の組み合 わせ に よって、百済 の垂木先瓦 を第 1〜 3類 に大別す る。
以下 に、分類名称 と図版の対応 を示す。
第1類
:素
弁八 弁 の うち、 中房 が 円盤状 をなすA類
は、 さ らにAa類
(第1図7)、Ab類
(第 1図8)、Ac類
(第2図14〜17)、 なお、Ad類
は実例 としてはみあた らない。第
2類 :大
多 数 は素弁八 弁 で あ るが、十 二弁 もあ る。 中房 を太 い圏線 で表現 した もの (B 類)で
、 中房 は、Ba類
(第1図3・5)と
、Bb類
(第1図1・ 2・ 4・ 6・ 9・ 10、 第2図18'19)とが あ る。
第
3類 :花
弁 が七 弁 で 、 弁 中 に忍冬 文 を飾 る もの。 忍 冬 文 が 五葉 をなすA種
(第2図11・13)と、三業の
B種
(第2図12)とが あ る。 中房 はAd類
のみである。(2)飛
鳥寺の垂 木先瓦 と百済飛 鳥寺 の垂 木先瓦 の祖型 と、使用年代 をめ ぐって検討す る。
飛 鳥寺 (奈良県明日香村所在、588年創建
)か
らは1958年 の発掘調査 に よ り、4種
の垂木先瓦 が 出土 した。 この うち、主体 を占め る2種
は、素弁 九弁 (I型式 ―第2図20)と素弁 六弁 (Ⅱ型式―第2図
21)で
あ る。創建軒丸瓦の文様 とは対応せ ず、直接瓦当文様 の比較か らその使用 年代 を推 定 す る とい う方法 は とれ ない。発掘 報告書 は、垂木先瓦 の なか には、 山田寺式 の 内区 を採用 した もの もあ るので、垂 木先瓦 の使用 は創 建 時 には さか のぼ らず、後 に補 なわ れ た もの、 との見解 を述べ る20。 しか し、飛鳥寺 で この4種
が 同時 に使用 された とす る確 証 はない。そ こで、筆者 は、素弁 の文様 を百済 と比較 して、
6世
紀 後半代創建 の寺院 (軍守里寺址ほか) に類例 があ ること、 また八弁で弁 中央 に隆線 をお く型式 (Ⅳ型式―第2図22)は
金岡〕寺址 、聖 住 寺 な ど6世
紀後 半 〜7世紀 代創建 の百 済寺 院の軒 丸瓦 の文様 に近 い ことを述べ 、素弁 の2 種 (I型式およびⅡ型式)に
つ いては、創建 時 に使用 され た可能性 に言及 した五。飛鳥寺 の垂 木先 瓦 (Ⅳ型式)の
文様 の出来 に関 しては、これ よ り先、亀 田修― も指摘 をお こなっている22。花 谷 浩 は、最 近、飛 鳥寺 の垂木先瓦 (I型式
)に
彩 色 の痕 跡 をみ とめ、飛鳥寺 では、創建 時 に垂木先瓦 の使用 があった と主張 している23① 軒 丸 瓦 と同一 の意匠 を採用 し、 出土状態 か ら も創建 時の使用が裏付 け られ る山田寺 (奈良県桜井市所在、634年発願)の
彩色垂木先瓦 とは異なり、飛鳥寺の場合、彩色垂木先瓦の存在と創建時の使用とは直接には結びつかないよう
に思 わ れ る。
以上のような見解を参照 しつつ、筆者は、飛鳥寺垂木先瓦のうち、
I、Ⅱ型式の中房 と 類似 した中房をもつ垂木先瓦が百済
(陵山里寺址ほか )に ある
(先の分類では
Aa類)こ とにも
145
注 目したい。す なわち、
Aa類
の出上 した百済遺跡の うち、陵山里寺l■は、塔心礎か ら出土 した石製舎利亀の刻銘 によ り、塔の造営の発願が567年であって、陵山里寺址 の伽藍創建年 代の有力な手がか りになっている。すなわち、飛鳥寺の造営 に先立つ 6世 紀後半代 に、百済 にこの タイプの中房 をもつ垂木先瓦の存在が明 らかであって、 この点か らも、飛鳥寺では、この2種が、創建時に製作、使用 されたとみる私見が補強 されると考 える。
4。
おわりに
百済 の垂 木先 瓦 を実 見 して考 えた一部 を報告 した。垂 木先 瓦 の分類 につ いて は、従来 よ りは一歩すす めた とお もわれるが、 なお同範垂木先瓦 の確認が今後 の課題 になる。
また、飛鳥寺の垂木先瓦の祖型 と、年代 をめ ぐって私見 を述べ た。垂木先瓦 には建築学 的な面で も興味ある課題が港んでいる。 こうした点 について、今後の調査・研究の進展 に 期待 してお きたい。
謝
辞
百済垂木先瓦の実見 に際 して、国立文化財研究所お よび国立扶余博物館の皆様の 御高配 を頂いた。謝意 を表する。
言主
1
石田茂作「種先瓦考」『銅鐸J7号
、1938年。2
小田富士雄「九州 における山田寺系極先瓦の発見」『歴史考古』6号 、1961年。3
河野一也 「水 道 山瓦窯跡群採集極 先瓦」『古代東 国の考古学 』大金宣亮氏追悼 論文集、慶友社、20054F。
4
花谷浩「軒裏 の華 一飛鳥寺 院の垂木先装飾 ―」『飛鳥文化財論孜 ―納谷守幸氏追悼論文集 ―』納 谷守幸氏追悼論文集刊行会、2005年。
5
村 田治郎「朝鮮の垂木瓦 に就いて」『綜合古瓦研究第三分冊』(『夢殿 』第19冊特輯号
)鶴
故郷舎、19394F。
6
井内功「百済の垂木瓦 についての観察」F井内古文化研究室報』17、 井内古文化研究室、1976年。
7
忠南大学校博物館・忠清南道庁 『定林寺址発掘調査報告書』1981年。8
国立扶余博物館・忠清南道庁『早呵 狙せ司 ア十口十日(Ⅱ)』 1992年。9
国立扶余博物館 『陵寺 ―扶余陵山里寺址発掘調査進展報告』2000年。10
文化財管理局・文化財研究所 『弥勁寺遺跡発掘調査報告I』 1989年。国立扶余文化財研究所 『弥勁 寺遺跡発掘調査報告 Ⅱ』1996年。工
国立扶余文化財研究所 『益 山王宮里発掘中間報告Ⅳ』、2002年。
12
回立博物館 『金剛寺』1969年。13
石 田茂作「扶餘軍守里廃寺址発掘調査 (概要)」『昭和十一年度古蹟調査報告』朝鮮古蹟研究會、
1937年。
14
石田茂作「極先瓦考」(前掲註 1文 献)。15
忠南大学校百済研究所 『百済瓦辱図譜』1972年。百済お よび 日本の垂木先瓦 に関す る二、三の考察
16
井内古文化研究室『朝鮮瓦導図譜』 Ⅲ、1978年。17
百済文化開発研究院『百済瓦導図録』1983年。18
井内功「百済の垂木瓦 についての観察」(前掲註 6文 献)。
19
河野一也「水道山瓦窯跡群採集種先瓦」(前掲註 3文 献)。20
奈良目立文化財研究所『飛鳥寺発掘調査報告』奈良目立文化財研究所学報第5冊 、1958年。なお、型式名は、花谷浩「飛鳥寺同籠瓦二題」(『奈良回立文化財研究所年報1997‑I』 1997年
)の
整理に よる。21
千田剛道「法隆寺若草伽藍 出土の鬼瓦 と百済」『奈良文化財研究所紀要2005』 2005年 。22
亀 田修一際鷺津・涸洸時代 の瓦」「 日韓古代瓦の研究』吉川弘支館、2006年、p88。23
花谷浩「軒裏の華 ―飛鳥寺院の垂木先装飾 ―」(前掲註 4文 献)。
挿図出典
第 1図
1:断
面図・裏面図、2,3:断
面図、4:瓦
当面図・断面図、筆者作成、1〜 3拓 本・5:註
7文 献、6:註
8文 献、7〜10:註9文 献第 2図 11・ 12:拓本 は註10文献・実測図は筆者作成、13:拓本は註11文献・断面図は筆 者作成、14〜
17:註12文献、18・ 19:註13文献、20〜
22:註
20文献/■
引利 撰 磐塁引 d号 辞611避 避 ユ君 千田剛道 伽 辞 辞刑
Hl剰)ユ
利
d号
針と 予遭 呵Ll料
起 旭■ 号引 刑号d号
音 刺 早升辞と アi斗 呵EI.午
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叶刺 針 寸刻 珂「I音
告 干 口iと ア]辞 三引 朴千 と司 XHl封と 運寺早刻 引封4。iアi
三 せ身
d号
辞Ollせ 司引と 1938理 引 石 田茂作 (61 tt IEl 二料ユ)剣
引せ 電子 外 起 千 呵 。I El 石 田と 建塁d号
辞引 起予 オ 叫利 劇 蚊4と
次告 こ午 司科剰詈 樫 司三 舌Ol凋
齊辞 録辞
.ユ
早 赳畢・ll河引 瑠司望d干
と 翡引 ユ 。i凋 讐 鉄と 刺,小
日富士雄・ ll引 せ 耳ヒ 九州 起号辞 仝ノ‖,花
谷浩Oll刺 せ 飛 鳥凋 聟引 起号 針 瑠三 号 。i起
号Ol号 と せ 磐辞 ヨ 州営豊
d予
。i辞.せ
翌 叫利朝引と お 瑠朴州 ,口i号朴剰吾 習i異 司 到暑引 子社司朴凋 号 料 起 刺 Elせ 寸舌二朴 舟d4ヨ
理引 電号辞引 き三ニ ユユFl呵,石
田引 せ剃針 日'ユ 司 二 ♀ 呵引 吾三せ司辞
せ 理司引
ユせせ キ 奴と こ号 幹 朴三 詈
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升辞 鍼辞とユ 剣 引と・ l辞 をと 二料 電子 州斗暑 牟÷辞理凋 磐畢 ユ
t4起
号幹刺 呵XH4剰赳 起旱 赳 引河千 召 司引 看 三望 電号 針引 せを三早 司 引 升辞ユ
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利Oll引引 起号 辞暑 フRせ辞ヱ,ユ
司 磐 暑ユニ 引 蝦球・ll E4司引二 守を 電子Ol鍼■.刻¶二
:
笙号 斜,華
舞,子
房,畏
干 電百済お よび 日本の垂木先瓦 に関す る二、三の考祭
A Study of Raner‐ End Tiles in Baette and Japall Chida Takenaidhi
Absttact: A rafte卜end tile is a roof tile attached to an end of rafter in a roof of palace and temple bullding.A rafteFend tile is a decorative roofile as、 vel as dat and round eave tiles,and an impressive bulding component.An early study on a rafterend dle is Mosaku lshida(石 田 茂作)(1930,who argued ttat he rafte卜 end dle in Japan wtt onginatedとom Baekie,shOWing an example of he Gunsu‐ 俺mple site(軍守里寺址 ).AFter the lshida's study,a few studies have ttrgeted ratter‐ end tiles in Japan,except the studies in the northern Kyusyu region by
Fuiio Oda(小
田富士 雄)and in he Asuka region by Hiroshi Hanatani(花谷 浩)。 In Kbrea, many exalnples of rafter― end tiles in archacological contexts have been obtained frO■ l he excavations of he Jeongrim,Mireuk,孤 d Neungsan― temple sitts(定 林寺l■;弥
勒 寺址 ;陵 山里寺址).This paper analyzes the rafte卜end dles obtained lrom he excavations of he sites in BaCkie and discusses heir influence to he counttrparts inJapan,Keywords:ra■
e卜end dle,lotus petals,lotus halamus,nttling perforation149