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美容によるがん患者のウエルネスに関する実践的研 究

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美容によるがん患者のウエルネスに関する実践的研

著者 三田 果菜

学位名 博士(ソーシャル・イノベーション)

学位授与機関 同志社大学

学位授与年月日 2015‑03‑21 学位授与番号 34310甲第706号

URL http://doi.org/10.14988/di.2017.0000016223

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美容によるがん患者のウエルネスに関する実践的研究

同志社大学大学院総合政策科学研究科 総合政策科学専攻 博士課程(後期課程)

2009 年度 1010 番 三田 果菜

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目次

第1章 研究の枠組み ... 1

第1節 研究の発端 ... 1

第2節 研究の目的 ... 2

第3節 研究の方法 ... 3

第4節 本論文の構成 ... 4

第2章 ウエルネス概念 ... 6

第3章 現代社会における理容・美容 ... 12

第1節 美容とは ... 12

第2節 美容の歴史 ... 12

第3節 「装い」と「美」のあらまし ... 18

第1項 「装い」のあらまし ... 18

第2項 「美」のあらまし ... 20

第4節 美容と理容の違い ... 22

第1項 業界における制度の違い ... 22

第2項 理容所・美容所の現状 ... 25

第4章 理容・美容における「公共」 ... 28

第1節 癒しやエンパワーメントとしての美容 ... 28

第2節 地域内交流拠点としての理容・美容所 ... 33

第5章 社会実験−美容術によるがん患者のサポート− ... 36

第1節 がん患者専門個室美容室 Ccure-クキュア-開設以前の経緯 ... 36

第2節 がん患者専門個室美容室 Ccure-クキュア-の開設 ... 41

第3節 Ccure-クキュア-の運営 ... 45

第4節 CanBe(キャンビー)設立とイベントの開催 ... 63

第1項 CanBe が出来るまで ... 63

第2項 CanBe Fun!Jazz Live @ 妙心寺退蔵院 ... 66

第3項 CanBe Fun!大人の遠足〜冬の京都を歩こう〜 ... 69

第5節 理美容師の育成プログラム ... 71

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第6節 wing wig(ウイング ウイッグ)の発売 ... 79

第7節 実験からの考察 ... 83

第6章 結論および今後の課題と展望 ... 88

第1節 知見の整理と総括 ... 88

第2節 今後の課題と展望 ... 89

第3節 これからのキャリアデザイン ... 90

【注】 ... 91

【図】 ... 96

【表】 ... 152

【参考文献目録】 ... 1

【参考ウェブサイト】 ... 4

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第1章 研究の枠組み

第1節 研究の発端

「がん1が見つかりました」と病院で医師に言われたらどうするだろう。「これからどう しよう」「私は、家族は、どうなってしまうのだろう」「いつまで生きていることができる のだろう」と突然訪れた死への可能性に恐怖を感じ、不安でいっぱいになるのではないだ ろうか。

現在の日本では、日本人が生涯がんになる可能性は 2 人に 1 人、3 人に 1 人ががんで亡 くなる時代と言われている2。年間の罹患者数はおよそ 80 万人いるとされ、2030 年にはそ の数字は 1.5倍になると国連世界保健機関(World Health Organization,WHO)により発 表された3。日本の高度な医療技術により、がんを罹患しても生存率は上がってきている。

昔のように「がんは不治の病」ではなく、「がん≠死」の病気になってきた。

がんになると患者には不安な気持ちや困りごとがたくさん出来る。例えば、女性が最も 罹患する確立が高いがんは乳がんで、14 人に 1 人の割合である。年代別では 40 代に罹患 する割合が一番高い。40 代と言えばまだ子どもが独立していないし、親のこともサポート しなければならない年代である。また、自身の病への不安はもちろんだが、治療以外のほ とんど全てを自らの力で情報にたどり着き、解決しなければならない。しかも、手術が終 わったら全て終わり!ではない。服薬を続けたり、乳房を切除してしまった場合は今まで 持っていた物が持てなくなったり、今まで使っていた斜め掛けのバッグが使いにくくなっ たりと当事者になってから初めて気付く様々な身体の変化と向き合わなければならないの だ。乳がんの生存率はおよそ 90%と非常に高いが、10 年間で再発する可能性はおよそ 30%

あることから、乳がんに限らずともがん患者は再発の恐怖とも闘わなければならない。現 在がんは「がん=死」というイメージでなくなったが、人生 80 年と言われている現代で、

40 代でがんになるということは、残りのすべてを「がんになった」という事実と向き合っ て過ごさなければいけない可能性もあるということ。だからこそ「病気になっても笑顔で 過ごせる」ように「より良い人生」になるようにしなければならないのだ。

筆者のがんとの出会いは、筆者が16歳の時に身近な人ががんになったことであった。筆 者の両親が理美容を業としていたこともあり、サロン閉店後に、抗がん剤投与により脱毛 したその人のウイッグ(かつら)の調整を行い、ウイッグの下から伸びてきた自毛をカッ

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トする姿を見た。その時、様子を見ながらふと「友達や家族に理美容師がいないがん患者 たちは一体どうしているのだろう?」と疑問に感じた。その後、筆者自身も理美容師の勉 強をして、美容師の国家資格を取得した。そして2009年に「美容術で女性とまちを元気に する!」をコンセプトとした、Happy Beauty Projectを立ち上げ、美容の良さを社会に伝 え、美容が社会に対して出来ることを伝えること目的に個人事業主として起業した。

美容は本人も周囲の人の心をも元気にする。家族、親戚、友人たちの慶事には身だしな みを整えるのはもちろん、地域の年中行事や祭礼の日には着飾った人でまち全体が賑わう。

また、たとえ高齢で寝たきりの状態となっても、身だしなみを整えてあげることでご本人 の表情が明るくなる。それと同時に、その嬉しそうな様子を見ている家族も嬉しくなる。

人類は有史以来、髪を切ったり、身だしなみを整えたり、自らの身なりを綺麗にすること をしてきた。そしてこれからも、その営みが廃れることは決してないだろう。理美容業は 人にとって欠かせないツールなのである。

がんを罹患すると、抗がん剤投与による副作用で頭髪、眉毛やまつ毛が脱毛したり、皮 膚が色素沈着を起こしたり、手術痕が残り外見が損なわれることがある。そうなれば、仕 事に行きにくかったり、冠婚葬祭に参加出来にくかったりと日常の生活に支障を来す。精 神面においても、今までなら行うことが今は出来ないという現実を目の当たりにして気分 が落ち込む。筆者は事業を行う中で、「美容は無くても困らないもの」「プラスαとして の美容」としてではなく「美容を本当に必要としている人にこそ美容を届けなければ意味 が無い」と考え、本当に美容の力を必要としている人に届けることで、「美容」という技 術と手法を通してがん患者の心の健康を生み出すことが出来るのではないかと思うに至っ たのである。16歳の時にがん患者を目の当たりして疑問に思い、ずっと頭にあったがん患 者の「現状をなんとかしたい」という思いと、Happy Beauty Projectとしての使命が繋が った瞬間でもあった。

第2節 研究の目的

本研究の目的は、抗がん剤による副作用が原因で外見が変化してしまったがん患者に美 容施術を用いたサポートを行う実践を通して、美容施術が「対人的効用」や「心の健康」

を生み出すに留まらず、がんになっても今まで通りの生活を営み、よりよく生きる (Well-being)を実現することができるのではないかという問いを、実践研究を用いて明ら

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かにすることである。

さらに、理容所、美容所がこれまで地域において果たしてきた地域内交流拠点としての 社会的役割について見直し、美容・理容施術者や理容所、美容所がソーシャル・イノベー ションの拠点として機能していく可能性について論じるものである。

本研究では、筆者が美容が社会に対して出来ることを提案することを目的として実際に 行ったがん患者への取り組みやその一連の取り組みを、社会実験と呼ぶ。その社会実験に おいて筆者は「ウエルネス」という視座を導入し、がん患者がよりよく生きることで、毎 日の生活を支え、治療の苦しみのなかに置かれても生きるということを支える仕組みの構 築が可能かを追求せんとした。そして、すでにがんで身体の健康を損なってしまったがん 患者を、美容施術を通してその足りない部分を補うことで、従来のウエルネスの概念にお ける「健康」の状態に近付けることに力を置いた。

そこで、本研究では Happy Beauty Project の起業とその一連の実践活動を通じて、美容 術を使ったがん患者へのサポートを行い、その実践プロセスと成果を示した上で、その有 効性について明らかにすることを目的に設定した。

なお本研究におけるソーシャル・イノベーションについては、これまでにはなかったよ うな革新的な手法や発想を伴って、社会的価値を創造すること4」(西村,2008年,60ページ) と理解し、ここに定義しておく。

また、本論文では「癌」はひらがなの「がん」と統一して表記する。ならびに、通常美 容室で美容施術をうける「お客さま」のことを、今回の実践とその表記に関して本論文で

「患者」と表記する。

第3節 研究の方法

本研究の方法は、以下の通りである。

まず、理美容の歴史や概念を整理し、研究の構想や考察に必要な諸理論については文献 の渉猟を行った。その際、筆者自らが「フィールド経験と理論的世界との統合を手がける 実践的研究者」(小泉,2007年,2ページ)として、個性的でクリエイティブな研究を進める べく努めた。次いで行ったのは、筆者自らが立ち上げたHappy Beauty Projectの活動を通 して、美容術を使ったがん患者へのサポートを行う実践的研究である。具体的には社会実 験的手法を用いた。社会実験とは、現代社会に生起する問題の発見・解決に向けて実践活

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動を通じてアプローチを行うことである。本研究における一連の社会実験はアクション・

リサーチの手法で行い、その経過や成果についてインタビュー、会話録音、写真撮影、記 述式アンケート・関係者へのヒアリングによってデータ収集を行い、エスノグラフィーと して記述した。

本研究の方法として採用したアクション・リサーチは、社会の現況を理解することを通 してそれを改善することを目的にする点で、一般に行われている科学研究とは異なる(ハー ト,2000年,90ページ)。また、社会実践から出発し、社会実践のなかで研究され、即座に社 会実践に適用される点がその特徴だ。さらに、筆者が、当事者であるがん患者とそれをサ ポートする理美容師らを巻き込みながら互いの知見を活かし合い、実践を通してよりよい 社会への発展を追求するという活動であり、いわば、「知識共有と実践連動型の社会進化 アプローチである。(草郷,2007年,255ページ)。とりわけ、従来型の実証研究アプローチ には見られない特徴として、実践活動の改善を通じて、社会変容や社会進化を視野にいれ、

独創的で継続的な取り組みを行っている点でもユニークであると言える。

第4節 本論文の構成

本論文は 6 章で構成されている。なお、各章の関連性は図 1 に示した通りである。

第 1 章では、研究の枠組みを示し、筆者が研究に至までの背景と問題意識、本研究の目 的、実践研究へのアプローチに触れ、方法と構成を述べた。第 2 章は本論文の実践の基と なっているウエルネス概念について詳述した、さらにがん患者が置かれている現状につい ても整理した。続いて第 3 章では現代社会における理容・美容に関する整理を行ったうえ で、美容のもつ社会的役割について、第 5 章の実践に関わるポイントを中心にまとめた。

第 4 章では、理容・美容における「公共」について、癒し・エンパワーメント機能とパブ リック・スペース機能の 2 つの観点から整理を試みた。第 5 章は、筆者自ら立ち上げた Happy Beauty Project が、がん患者への美容施術の提供を行うために設置し、現在も運営してい るがん患者専門個室美容室 Ccure において行った実践と、それに派生して始まった CanBe と wing wig の取り組みのフィールドワークの記録である。また、社会実験で行った 4 つの 活動を整理し、「がん患者へ美容サポートを提供する意義」「関わる人の変化」「がん患者を 後押しする美容」という 3 つの観点から考察を加えた。

最終章の第 6 章においては、美容術がどのようにがん患者に有効かを示すとともに、本

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研究での課題と展望、筆者自身のキャリアデザインについて述べている。

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第2章 ウエルネス概念

がんでもそうでなくても、人はみな「健康で楽しく暮らしたい」と願っているだろう。

かつて、病気になることは自身の責任であった。しかし、世界一の高齢化社会日本となっ たことや、生活習慣病(糖尿病、脳卒中、心臓病、脂質異常症、高血圧、肥満)が死因の 3 分の 2 を占めていることなどから、社会全体の問題として捉えられるようになった。国 民の医療費はおよそ 38 兆 5850 億円にも上り、5 年連続上昇しているうえに国内総生産(GDP)

の 8.5%を占めるなど、負担になっている5 (厚生労働省,2011 年)。つまり、個人の健康 は社会にも大切なことであるという認識に変わりつつある。さらに、高齢化社会になり医 療技術も発達し、人生の最期を迎える時の「やりすぎの医療の中での死6」とも言われる終 末期医療などについても考えなければならない。どんなに医療が発達しても、日本人全員 が「よりよく生き、よりよく死ぬ」ことにはまだ課題があるのだ。

近年、ウエルネス概念が注目されつつある。その基本的な考え方は「自分の人生には自 分で責任を持つことを自覚し、より幸福でより充実した人生を送るために、自分の生活習 慣(ライフスタイル)を点検し、自分で変えなければならないことに気づき、これを変革 していく課程」(野崎,2006 年,12 ページ)である。このウエルネスの概念は、1961 年に アメリカの公衆衛生医で医学博士の Halbert L.Dunn(1896-1975)が出版した“High-Level Wellness”によって提唱したものである。従来、健康を意味する言葉であった Health から

「より総合的で新しい意味をもつ健康概念」(野崎,2006 年,10 ページ)として論じられた ものである。

Dunn は内科医として臨床を経験したのち、医療統計の仕事に転じた。国立人口統計局、ま た国立保健局において公衆衛生医として勤務し、統計分析や政策立案などにも関わってき た。先進国に共通する、国民の主な死因が最近やウイルスによる感染症から、食生活や運 動など生活習慣に起因する疾患、いわゆる「生活習慣病」へと変化していった時代であっ た。Dunn はまさに、従事していた 1930 年代から 60 年代にかけてのその世界的兆候をいち 早く捉えて、この対策のための理論の構築を試みたと考えられる。(野崎,2006 年,10 ペー ジ)Dunn は国連世界保健機構(World Health Organization,WHO)がその憲章において健 康について定義した“Health is a state of complete physical, mental, and social well-being and not merely the absence of disease and infirmity”(健康とは、身体 的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や虚弱でないだけではない)の

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“complete well-being”すなわち「完全に良好な状態」について積極的(positive)な解 釈を行って、よりよい人生を送るための新しい「健康」の姿を提唱したのが「ウエルネス」

である。

Dunn がこの概念を発案した社会的背景として、1960 年代当時の社会のあり方、すなわち 産業革命と科学技術の進歩による生活の劇的な変化が人々の日常生活のあらゆる部分に緊 張と社会問題をもたらすようになったことを挙げ、社会のありようとひとりひとりの健康 とが密接な関係にあることを指摘している。西村は、「高度に文明化が進み続ける社会」

と「<いのち>ある存在としての人間」との関係は決してよい発展をみせないことを予言 したとも言えるだろう。そして「ウエルネス」な個人の健康にとどめることなく、「ウエ ルネスな社会」への道を着実に歩む社会的な取り組みが求められることも述べている。(西 村,2014 年,36 ページ)

図 2 は、ライフスタイルを見つめ、病気になりにくい生活習慣を身に付けるところにと どまらず、より楽しく、より充実した人生を送るために日常的に「気づき、学習、行動、

評価」を繰り返し、「ハイレベルウエルネス」)(より高いレベル)を目指して自己変革 していくプロセスである(図 3,4)。なかでも、「前向きな積極性=プラス思考」を大切に するということが特徴的である。

また、野崎はウエルネスなライフスタイルを考える際の「情緒」、「環境」、「身体」、

「精神」、「価値」という 5 つの領域を示している(表 1)。「価値」領域は他の 4 つの 領域と中心となり(図 5)、それぞれに影響を及ぼしていると考えられる。ライフスタイ ルを変えていくためには「価値」の置き方、変え方についても気付き、学び、よりウエル ネスな生き方にむけて行動を変容していくことが重要であることを示している。

野崎の示す「ウエルネスの 5 つの領域」に医療の現状を当てはめると、医療技術が発達・

短期間入院・治療成果の上昇、そして高いスキルや専門性を持つ医師や看護師らの存在に 支えられて治療が可能になってきたことで、「身体」のウエルネスは安定してきている。

その「身体」がウエルネスな状態であることで、趣味や娯楽などを見つけて「生きがい」

生きることもできる。そうすることで、ストレスマネジメントができ、「精神」と「情緒」

も安定する。その様子を見る家族らも、社会も安心して患者本人を受け入れることができ ることでより良い「環境」が整う。このようにして、現在の医療現場における治療に対す る「価値」の評価は高いと言える。この医療における現状はがん患者においても同様だ。

がんと聞くと「死」を連想させていた時代と比べると、全国どこでも質の高いがん医療を

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受けることができるように診療機能など一定の条件を満たした病院を厚生労働大臣が指定 した「がん診療連携拠点病院」が各地域に設置され、平等で安心ながん医療を受けること ができる体制作りが進み、具体的な治療においてもセカンドオピニオン7やインフォームド コンセント8の存在から、納得のいく治療を受けることができるようになった。がん患者た ちの考える治療に対する「価値」、実際に治療を受けることが出来ること自体の「価値」

も上がっている。

しかしながら、がん患者の場合、社会生活においての「情緒」、「環境」、「身体」、

「精神」の「価値」が上がっているとは言えない。長い月日をかけ、山あり谷ありの治療 のステップを踏まなければならない中で、治療の苦しさと通常の生活を取り戻す難しさを 感じる。今まで当たり前のように社会に接していた自身の存在に戸惑い、がんにさえなら なければ…と、健康が欠けている自身の「身体」にウエルネスの「価値」を見出すことが 出来ない。今後のがん闘病生活を不安に感じ、これから先を見据えることが出来ないこと で心のバランスが取れなくなる。社会ががんに持つイメージや、がん患者が社会から向け られるイメージは、必ずしもウエルネスではない。

現在、日本人の2人に1人が生涯のうちにがんになる可能性があり、3人に1人ががんで亡 くなる時代といわれている。年間罹患者数80万人とされているが、数年前まではおよそ60 万人、70万人とされていたことを考えるとどんどん増えている。その影には高齢化社会と、

医療技術の進歩により小さながんでも発見されるようになったことと考えられている。女 性でいえば、乳がんの患者の割合が高い(図6)。そして、最も罹患しやすい年代は40代で ある。40代といえばまだ子育てをしていたり、仕事をしていたり、そろそろ親の介護をし なければならない年代である。また、自身の身体においても、乳房を摘出せざるを得なく なりボディバランスが崩れたり、手術の後遺症により今まで通りの生活が送りにくくなっ たりと、罹患してみて初めて気付く困りごとに遭遇する。人生80年と言われる現代で、が ん患者は再発の恐怖と闘いながら、残りの人生の約半分を「がん患者」として過ごさなけ ればならないのだ。

早期発見することで治療の成果をあげてがんで死亡する人数を減らすため、早期発見・

早期治療の重要性が唱われている。セルフチェック・検診率を上げるための活発なキャン ペーンも行われている。2007年6月に策定された「がん対策推進基本計画」では、個別目標 の1つとしてがん検診の受診率を50%以上とすることが掲げられた。5年後の見直しを経て

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2012年6月に策定された「がん対策推進基本計画」では、「5年以内に受診率50%(胃、肺、

大腸は当面40%)」が掲げられ、受診率の算定には40~69歳(子宮頸がんは20~69歳)ま でを対象とすることになった9。しかし検診率の伸びは実際には思わしくなく、目標の50%

に届いていない結果である(図7)。健康な国民を増やすためにも、これ以上がん患者を増 やさないためにも、がんを予防することも大切である。だが、実際におよそ80万人が罹患 をしてしまう現状を考えると、がんを罹患してからのサポートが非常に重要になってくる のだ。

がんになった場合の大きな治療法は以下の 3 つだ。「手術(外科治療)」「薬物療法(抗 がん剤治療。以下、抗がん剤と表記)」「放射線治療」である10。がんを罹患したと知っ た時点で、これからの治療生活や日常生活に不安な気持ちになるだけでなく、「治療のす べてに副作用がある」(上野,2006 年,41 ページ)ため、多かれ少なかれ今まで送ってきた生 活とは違う生活を送る必要になる。副作用には内面的・外面的なものなど様々なものがあ るが、特に抗がん剤の副作用からくる脱毛は、自他共に見える症状であるため、がん患者 にとって精神的ダメージが大きい(表 2)。喜多川は、「脱毛は有害事象のなかで軽視さ れがちであるが、患者の精神面に与える影響は大きい。脱毛の起こる可能性・時期・頻度 についてあらかじめよく説明する。脱毛を極力避けたいと希望する患者には、可能であれ ばそのようなレジメンを検討する。特に女性患者での配慮が重要である(喜多川,2010 年,13 ページ)。」と述べている。

脱毛のメカニズムを説明すると、「抗がん剤による脱毛は成長期脱毛と休止期脱毛から なる。毛母細胞に対する傷害が強い場合は、毛母細胞の細胞分裂が抑制されて毛球が変成 壊死を起こす(成長期脱毛)。毛母細胞に対する傷害が軽い場合は、毛器官は急速に休止 期に移行する(休止脱毛期)。頭髪は細胞の 90%が分裂の活発な成長期にあるため、最も 脱毛が発現しやすい。眉毛・睫毛・陰毛・腋毛などにも脱毛が生じる。毛母細胞が完全に 傷害されて消失することはないため、抗がん剤による脱毛は一過性、可逆性である。冷却 により頭皮への血流を減少させる方法や薬剤(育毛剤、ステロイド外用薬、ビタミン E な ど)投与などの予防法が試行されてきたが、臨床において広く利用されるような有効な予 防法は確立されていない(玉木,2010 年,181 ページ)。」

また、玉木は、「脱毛は命に関わる症状ではないが、患者がボディーイメージの変化を 受容できなければ治療継続が難しくなる場合もある(玉木,2010 年,181-183 ページ)」と している。このように、副作用による脱毛が受け入れがたく、治療をやめてしまう患者も

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いるのだ。年間およそ 80 万人の罹患者のうち、全体のがん罹患者数の何割が抗がん剤投与 をするのか明らかにはされていないが、毎年相当多数のがん患者が抗がん剤を使用してい ると考えられている11。そして、薬の種類にもよるが、医師に脱毛の可能性を告げられた がん患者のほとんどが頭髪の脱毛を余儀なくされる。髪の毛が抜けてしまうだけでなく、

前述にもあったように睫毛や眉毛まで抜けてしまうのだ。抜けてしまうと容姿ががらりと 変わる。外見の変化が仕事や日常生活に支障をもたらす。実際に、がん患者の就労問題に 取り組む桜井なおみ12は、外見の変化だけが理由ではないが「がんを罹患した 2 人に 1 人、

もしくは 3 人に 1 人が離職、4 割の患者の収入が減少、1 割の患者の治療変更(桜井,2014 年,6 ページ)」が余儀なくされてしまっている現状を伝えている。

がん患者は、自身が罹患した瞬間からさまざまな問題や不安の壁にぶつかる。自身の身 体への不安はもとより、家族のこと、仕事のこと、家事・育児や介護のことなど多岐にわ たる。それは本人だけの不安ではなく、家族もまた同様に同じ不安に陥るのだ(図 8)。

このような不安に対して、日本の医療現場での患者サポートの現状は十分ではない。ア メリカでは、「チーム医療」でがん患者の治療に医療従事者たちは取り組んでいる。がん を治療する時、1つの特効薬、1回の手術でパッと治ってしまうような単純な病気でなく たいていのがん、手術、抗がん剤、放射線治療などを組み合わせて治療することになる13。 こういう治療法を「集合的治療」と呼ぶ。さまざまな知恵を寄せ集める、という意味だ。

当然、1 人の医師がすべての治療法に詳しいというわけにいかないので、手術の専門家、

抗がん剤治療の専門家、放射線治療の専門家が集まって、どの治療をどの順番で、どのぐ らいの割合で行うのがいいのかを話し合い合意を作っておく必要がある。このようにして 行われる医療を、「チーム医療」と呼ぶと上野は述べている。さらに、これに看護師、薬 剤師、栄養士、緩和ケア(痛みを和らげたり病状を抑えたりする)の専門家が加わり、1 人の症例について十数人が集まって侃々諤々議論する。そこでは、医師も看護師も薬剤師 もみんな平等で、それぞれが専門家として意見を述べ合う。これこそが集学的治療の効果 を最大限に引き出すことができる医療のあり方(上野,2006 年,24-25 ページ)だとしてい る(図 9)。日本の医療現場ではまだまだ分業されており、自らそれぞれの機関に手を伸 ばさなければ必要なサポートにたどり着けないことが多いのが現実である。

そこで、「身体」の欠けを何らかのツールを使うことで補うことが出来れば、もしくは

「精神」、「情緒」や「環境」において過不足なく補うことが出来れば、がん患者の闘病 中におけるウエルネスの「価値」を上げることが可能である。

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人は自身の「価値」を自身のウエルネスで評価する。どのようなウエルネスの「価値」

で自分自身を評価するにもよるが、医療面の充実だけではウエルネスの「価値」が満たさ れず、「ウエルネスに生きる」ことができているとは言えない。社会生活からもがん患者 を支えるために、自他共に欠けている身体と心のバランスを整えてくれる一片を美容は持 っていると言える。

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第3章 現代社会における理容・美容

第1節 美容とは

美容という言葉を聞いて何が頭に浮かび、想像するだろう。美容師・美容所・美容学校 な どという言葉ではないだろうか。これらの言葉は日常生活の中で頻繁に使われている。 さ らにそれらの意味する美容とは何を意味するのかと人に聞かれると、まずヘアスタイル (髪型)やメイクアップ(化粧)が挙げられるのではないだろうか。

広辞苑には、「美しい容貌。容貌・容姿・髪型を美しくすること・美粧。」となってい るが、日本理容美容教育センターの発行する『美容文化論 114』には美容という言葉はほ かに、「美容体操・全身美容」といった用語もまた美容を表す言葉として記載されている。

からだ全体にかかわる体調を整えるための運動、あるいは体型を美しくするためのシェイ プ・ アップのことである。これらの言葉はダイエット本などのタイトルに使用されていた りするが、美容と聞いてあまりイメージしにくい用語なのではないか。美容という漢字を 分解 して見てみると、美容の容には「かたち、すがた」のことで、容姿、容貌といった言 葉があり、これに美がついている。合わせて、美容とは髪・顔・体型などの美しさ、また は美しくするということになる。

美容に相当する英語はビューティであり、美しさや良いの意味がある。美容所はビュー ティ・パーラーまたはビューティ・サロン、米語ではビューティ・ショップと呼ばれてい る。

第2節 美容の歴史

美容の歴史は非常に古い。1970年に発刊された『美容現代史15』には、「人間が自分自 身 のありのままよりも、もっとよく見せたいという願望を持ち始めたときに始まった」と 記 述されている。日本においては、紀元前7500年前後から弥生時代の人々がどのような髪 型をし、どのような化粧をしていたかという資料は非常に少なく、わずかな考古学上発掘 物である土偶などから知るだけだ。一般人が土偶と同じような髪型をしていたと断定しづ らいが、耳飾、貝輪(貝製の腕輪)、髪針、櫛などがある。髪針の存在は、すでに、髪が結 われ、崩れるのを防ぐために使用したと考えられる。弥生時代になり、青銅器文化が大陸

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からはいってくると、装身具にも青銅器が使用されるようになった。古墳時代になると、

墳墓として多くの古墳を作った。この時代の装身具についてはおもに古墳に埋められた埴 輪によって知ることかができ、一般庶民たちにまで結われていたのかは定かではないが、

この時すでに女性は結髪していたことも埴輪からわかる。飛鳥、奈良、平安前期は日本に おいて、外来文化の影響が非常に強かった時代の1つとして大陸文化の影響が髪型や服装、

化粧においても例外ではなかった。当時の画像や仏像に見られる髪型はほとんどが中国か らの模倣である。平安時代から室町時代までは小野妹子が遣隋使として中国に派遣されて 以来、あらゆる面において中国ナイズされていた。しかし、894年の遣唐使が廃止されると 日本独自の文化が生み出されてきた。この時代の女性は、髪を結い上げることもほとんど なくなり、垂れ髪の美人が大いに認められて長い髪を誇りとした。『美容現代史』のなか では、縮れ毛であったと伝えられる清少納言が『枕草子16』の中で、「うらやましきもの 髪ながくうるはしうさがりばなどめでたき人」と、髪の長く美しい人を羨んでいる様子を 紹介している。安土・桃山時代は、戦乱の時代で女性は子どもを産むための道具という扱 いをされ、「女の腹は借り物」という言葉がこの時代の女性の地位を象徴していた。この 動乱の時期、女性の髪型には大きな変化が見られるようになってくる。働きやすいように、

何らかの方法で垂髪を工夫し始めた。室町時代末期より束ね髪になり、頭上に髷が作られ るようになったのは桃山時代に入ってからである。しかし、髷を頭に乗せていたのは遊女 らであり、 庶民ではなかった。したがって、髷が一般的に広まったのは江戸時代に入って からであった。江戸時代になり、1639年に鎖国が完成された。諸外国との交流を絶った国 内は300年の間平和のもとで江戸時代独特の文化を育てていくこととなったのである。儒教 思想に基づき男尊女卑が一般化した。そんな中で、遊郭の発達は著しかった。「遊里遊び も出来ないようでは、一人前の男として扱われない」というような風潮が出来た。遊女た ちもまた、競って男性に媚びを売った。あの日本髪の美しさは、遊里の女性たちによって 生み出されたのだった。江戸時代に100種余りの髪型が世に生まれたが、年齢や身分、結婚 などによって結うべき髪型が決められていた。『美容現代史』によると、女髪結という職 業が江戸時代に生まれた。女性は毎日自分で髪を結うことがたしなみとされており、他人 の手を煩わせることは恥とされていた。身分を問わず女性たちは髪を自分で結っていたの で、髪を結えるようになったということは女性にとって一人前になった資格でもあった。

女髪結が職業として一般化した後も武家の女性は必ず自分で結髪し、その習慣は明治に至 るまで守られ、保守的な女性は自分で髪を結うのを当然のこととしていた。髪型が複雑に

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なるにつれて髪結という職業が独立してきた。 1727年(享保12年)から40年経った1764年 (明和初年)にはすでに、女髪結が出現しており、大阪に住む歌舞伎俳優の妻が商売女たち の髪を結ったのが起源であったとしている。 江戸では、1790、91年(寛政2、3)頃が女髪結 の始まりと言われている。次第に価格も安価なものが登場するなどして、髪結いは非常に 忙しくなり、櫛箱を抱えて東奔西走した。このようにして生まれてきた髪結は、時代を経 るにつれ、その数を増していき、1804〜1817年(文化)の頃になると江戸市中その日暮らし のものに至まで、自分の髪を結うものがいなくなった。女性が他の人に髪を結ってもらう ようになったことで、現在の美容師という職業が成立したのである。ところが、江戸中期 になり幕府の財政危機の徴候が見え始めた。武士や町人たちは贅沢を禁ずる法令が再三出 されるようになった。それは華美な髪型にも通じることであったので、1795年(寛政7年)10 月には、女髪結に対して転職が申し渡された。町の路地口には「女かみゆい入るべからず」

の札が立てられるようになった。更に1841 年(天保12年)12月には法律により女髪結業が停 止された。違反者には厳しい罰則が科せ られた。言い換えると、厳しい罰則が出来てしま うほど人々は女髪結の仕事は無くならなかったのである。このような時に最初に困ったの は、髪結に自分の髪を任せていたものたちだった。時間を重ねる毎に技術が難しくなって しまっていた、当時の日本髪は、専門の手を借りないと結うことができなくなったのであ る。そこで女髪結たちは「看板さえあげなければ店を張った商売にはならない」、また「髪 を結うことの巧い知り合いに頼んで結って貰うぶんには、お上のおとがめもないはず」と いうわけで、女性たちは自宅に必要な物を揃えておき、手ぶらで出向いた女髪結に髪を結 ってもらい続けていたということである。よって、「女髪結所閉鎖令」は髪結所の閉鎖を 行っただけで、女性の髪の奢侈化を妨げるには何の効果もなかったのだ。

1867年(慶応3年)10月、15代将軍慶喜の大政奉還を期に265年間続いた江戸幕府は幕を閉 じた。社会風俗は明治維新を契機として大きな変化を示し出した。日本は外国からの文物 を積極的に取り入れることに熱心だったため、日本古来の風習はすたれたものが多かった。

これを文明開化といった。文明開化の波は、人々の生活様式を大きく変えた。明治4年頃か らは洋服の着用が採用された。同年8月9日には「散髪、略服、脱力とも勝手たるべし」と 大政官布告が発布された。これにより、男性の散髪風俗が定着していった。断髪令が布告 される3ヶ月前には、このような俗謡が『新聞雑誌17』に掲載された。

半髪頭をたたいてみれば 因循姑息の音がする

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惣髪頭をたたいてみれば 王権復古の音がする ジャンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする

髪を切ることが文明開化の最初の一歩であると国民に訴えているこの俗謡は、髪という 身体の一部がいかに社会との関わりを示しているのかが伺える。しかしながら、後に断髪 を拒否してまでちょん髷を必死に守ろうとした人が多くいた。それは、髪に誇りを持ち、

自らの心の有りどころをしっかりと髪にまで意味を込めていたということではないだろう か。

女性もまた、果敢に断髪した者もいたが、文明開化時にはあまり多くの変化は江戸時代 同様起こらなかった。女性の地位が相変わらずだった為に、日本髪の歴史は大きな変革を 経た後でもすたれはしなかったのである。ところが、前述にもある新聞雑誌に掲載された 俗謡を目にした女性が次の日に散髪してしまい、女性の断髪を想定していなかった世の中 からは非難の目をあびたというようなこともおこった。明治時代の半ば頃まで、女性の髪 型に変化はほとんどなかった。束髪を結う女性が増加し、手間のかかる技巧的な日本髪を 結う女性が減少したのは大正時代以降になってからのことであった。

いつの時代にも人は髪を切り、整えてきた。が、しかし、必ずしも順風満帆とはいかな かったはずである。度合いは違えども、物事には必ず良いときもあれば悪いときもある。

筆者はそれを物が無く、日本国民が飢えた時代と捉えた。ところが、髪の歴史や、装いの 歴 史、理美容の歴史の資料はたくさんあったが、青木が「第二次世界大戦が終わってから、

昭和25、26年の間は、いわば美容業界にとって空白時代」(青木、1971年、85ページ)とい うように戦時中も含め、その後しばらくの記録というものがほとんどなかった。そんな中、

社団法人日本理美容教育センターが発行する『美容現代史』にはしっかりと記録されてい た。

1906年(明治39年)にドイツ人チャールズ・ネッスルによりロンドンで発明されたパーマ ネント・ウェーブは大正末になってアメリカから日本に入ってきた。一般に普及を見せた のは、国産パーマネント機が作られるようになった昭和10年前後であった。

昭和12年には日中戦争が勃発した際、国家の非常時に対応して政治経済面におとらず風 俗面も様々な抑圧を受けることになった。昭和15年には国民生活のどの分野もすべて軍国 主義でぬりつぶされ、軍需産業が生活必需品の生産に優先した。「欲しがりません勝つま では」というスローガンが掲げられ、同年7月の7・7禁令により指輪、ネックレス、ネクタ

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イピン、銀製品、絹、レース、象牙製品などの製造販売が禁止された。国民服が奨励され、

東京の街をいく女性の色から、「パッとした五月の花園のような派手な色がうせて、たそ がれ時の墓場のような、光沢になった」といわれるように、国民生活から明るい色彩が消 えていった。そして「翼賛美人は骨盤の広い女性」というような、生めよふやせよ式の実 質主義が広がった。女学生も防空訓練にかり出され始め、その髪型も従来のお下げに代わ ってやや短い三つ編みやオカッパが多くなった。年配者も次第に無造作なヘアスタイルに なり、ただ髪を束ねて、丸めたままにしておいたり、止めておくぐらいになってしまった。

世の中がそのような有様なので、パーマネント・ウェーブなどは大いに排斥された。昭和 12年10月には、「国民精神総動員運動18」が始まった。その運動の標語には、「パーマネ ントはやめましょう」というものが入っていた。このような情勢に対し大阪方面では美容 師の間になるべくパーマを生かしながらも目立たない髪風を考案することが盛んになった。

しかし、昭和14年にはパーマネント・ウェーブに対する非難は非常に強くなった。「追い 払え米英を…電髪女性の頭から」の印刷物の配布、「戦時生活破壊者パーマ」というビラ の掲示、「あなたは何国人か」という皮肉な質問、それに子どもが言えば大方は恥じらう 気持ちが起きるだろうという理由から始まった「パーマネント・ウェーブはやめましょう」

という歌のような連呼がされた。同年9月頃、大阪で結成された淑髪美容協会は、感じの悪 い異国風のパーマネント・ウェーブや電髪といった名前はさらりと捨てた。また、精動委 員会の審査を受けて、いずれも地味なおとなしい感じのウェーブを生かした関係者の苦心 の程がしのばれるような新しい髪型11種類の淑髪を発表した。そのような中でも、パーマ ネント・ウェーブの営業は続いていた。昭和18年になると、電力制限により、従来第四種 電力19として使用が認められていた電気湯沸器、タオル蒸器、ドライヤー、電気アイロン などを使用することができなくなった。電力使用は禁止され、国粋主義者からは、白眼視 されたにもかかわらず、女性の間にはパーマネント・ウェーブを望む声は絶えず、前述の ように戦時中は、種々の代用品が考案され、それによりほそぼそと営業が続けられた。昭 和17年7月には、一流美容師が考案した「翼賛髪二種20」を世に送り出し、統一を図ること になった。美容師が翼賛的な髪型を発表するということは、時局に身を委ねたことであっ た。同時にそのことは、少なくとも美容師の側にまだ髪型を考案する余裕があったことを 裏付けている。しかし、昭和18年、19年と次第に敗戦の色が濃くなり、生活必需品を含め たあらゆる物資が欠乏するようになった。それから、人々はただ生きることのみに煩わさ れ、空襲が激化するにつれ、生命を保つことが精一杯で、ヘアスタイルのことなど気にし

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ている余裕はなくなってしまった。このような太平洋戦争の末期は、大正・昭和と続いた 近代美容の歴史が完全に中絶した時期であった。この空白期を中にして、やがて一足とび に戦後の豊潤な美容史が綴られることとなるのである。敗戦直後の食べるにこと欠く生活 の中では、国民は自分の服装や髪型に気を配っている余裕は無かった。昭和24年頃までは 戦時中から変わらない格好であった。ポーラ・ブラックが言った「美は人の心の奥深くに 根差す願望に訴えかけるものなので、美の探求は人生においていつまでも力を持ち続ける」

(ポーラ・ブラック、2008年、156ページ)という言葉の通り、一応食料事情が落ち着いた昭 和22、23年頃から一般女性の髪にパーマネント・ウェーブが女性たちの間に復活してきた。

その後、美容師が海外渡航したことや、新しい技術が輸入されるなどして、美容業界には 新しい風が吹き込んできた。この様にして戦後も美容は再び女性たちのもとに戻ってきた のである。

社会の変動とともに美容業の発達は、明治から大正・昭和にかけて新たな展開をしてい った。都市の発達により、同時に都市生活者が増加し、いままでになかった新しい仕事が 出現した。新しい知識と新しい技術が要求された新しい仕事をもった、いわいる職業婦人 が登場し始めた。女髪結は女性の職業がほとんどなかった江戸時代から、明治、大正にか けてほとんど唯一と言ってもいい、特殊な女性の職業だった。もちろん売娼、女中や芸事 の師匠などの女性の職業はあったが、女髪結は技術を売ってかなりの賃金を得ていたとい う点で、もっとも近代的な職業であったと言える。しかし、女髪結の経済力が強かった割 には女髪結の社会的地位は低かった。その理由は積極的に賃金を稼ぐことが出来る女性に 対して蔑視感があったことであった。経済力の無い亭主は反対に代名詞として「髪結の亭 主」と言われた。女性に学問は不要とか、男性に保護されるべき女性という世間一般の認 識に一石を投じたことになる。そのような時代に、女髪結は、家庭と職業を両立させるこ とができるという意味から、女性の職業として将来性があると考えられるようになった。

1924年(大正13年)当時の東京市の調査報告書によると、美容術師、髪結いは技術能力が要 求される職業に分類され、収入として上(経済的に独立ができてゆとりがある)と評価され ていた。このことからも、村澤は、「職業婦人として美容術師、髪結いの、当時の社会的 評価の高さを理解することができる」としている(村澤、2005年、19-20ページ)。

この様に髪は長い歴史の中で少しずつ変化を遂げ、社会の影響を受けたり与えたりして きたのである。そして、どの時代にも言えたことは、美容は社会の流れと女性には切って も切り離せない関係であったことが読み取れる。

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第3節 「装い」と「美」のあらまし

第1項 「装い」のあらまし

人はなぜ装うのかについて、装いと日本人の著者である樋口は、装身行為は「他の動物 にみられない人間だけの行動である」としている。人間は、大脳以外、全身ほとんどが退 化器官から成る哺乳動物で、しかも、全世界あらゆる環境の地に分布・居住しているので、

生きていくために、本能をこえた暮らしに必要な技術をあみ出し、継承・発展させていく のだ。これは、他の動物には見られない人間だけの行為である。それを、広い意味で文化 とよぶことができる。その文化の中で、人間は、身体の全体あるいは一部を、後天的に加 工したり塗彩したりする装いの技術をもっている。そして、それを「飾る」というように、

美しく表現するために行うのだと結果においては理解しているが、その動機や目的には、

むしろ美しくみせるというようなものはすくなく、複雑ないろいろの目的や意義が重視し ている場合が多い。人間以外の動物の世界では、自然に備わった肉体の一部で自分の姿形 を変えたり、あるいは誇張したりうることはある。しかし、肉体そのものを変えたり、肌 を化粧したり、装飾的な衣装やアクセサリーを身につけるような装いの行為は、人間だけ がもつ技術である。

また、装いの起源は、生活的であり、総合的であるとしておもな要素を4点にわけ分析し ている。第1は本能による装い、本能的要素である。これは人間にかぎらず、すべての 生 物が先天的にもっている衝動である。本能の第1は、生命欲求本能で、生命体の単位である 自分自身の生命を守ろうとするものと、同時に人類という系統的生命を持続させようとす るものとがある。関連して、強すぎる刺激や寒さから身を守るため、表面的、感覚的には、

快楽を求めるという形で発現する。人間は、色彩や形や音についても、快、不快を感じる。

そして、快く感じる音や色彩や形の整ったものに美しさや安らぎを感じ、芸術の域にまで 高めている。これも、快感を求める本能に基づいたものといえる。こうした色や形から受 ける快感を求める本能が、肉体を対象に考えたれたときに、広い意味での装身法、化粧法、

衣服、アクセサリーなどが生まれたと考えられる。性欲は、系統的生命要求の本能から生 まれたものである。したがって、本能的欲求から起こった装身行為には、性欲や性習俗と 関係するものがきわめて多い。異性への刺激、本人の性感の増大、性器の保護などが、結

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果として、装身行為の一部になっていることがある。第2要因は、社会的識別や、年齢的識 別の事実を表現しようとする意志。第3要因は、信仰的目的である。赤色を悪霊の入り口で ある口、鼻、耳などに塗れば、病気や災害から身を護れると考えた。口紅を塗ることもそ こから始まった。身体に赤い色を塗ると、呪力が働いて魔除けになるとする風習はあちこ ちにあり、顔や胴、手足に紋様を描くものもある(樋口、1980年、10-15ページ)としている。

さらに、西洋化粧文化史の著者、青木は化粧の1つとして社会的地位と宗教的なものによっ て行われた入れ墨についても述べている。入れ墨は肉体損傷の風習、記念記号や部族階層・

所属集団の表示、勇気と資力の誇示や男尊女卑など、色色の目的の重複によって用いられ ている場合が多い。これは今日においても未開発国においてなおかつ行われているし、入 れ墨においてはアメリカなどの諸国においても行われている。そのことについては論理的 に解釈できない面も多々あるとしている。そして第4の要因は、暑さや寒さを防ぐ手段とし て装い、とくに衣服が生まれる。ほかに、敵から襲われるのを防ぐために衣服で身を護っ たりする実用的装い(青木、1979年、17ページ)と述べている。

では、このような装身行為はいつごろから始まったのか。現在わかっている最古の人類 はタンザニアで発見された約百万年前の化石、アフリカ原人(ジンジャントロプス)といわ れているが、装身行為の痕跡は発見されていない。装身行為は旧石器時代後期のヨーロッ パではっきりみられる。おそらく、旧石器時代の終わり頃、つまり、4、5万年前頃から、

人類は化粧をしたり装身具のようなものを身につけはじめた(樋口、1980年、1016ページ)。

樋口の述べるように、生活的・総合的な面で4点の要因から考えることが出来る。しかしな がら、女性の社会への関わり方や男尊女卑などの要素が大きく装いへの影響を与えていた ことも事実である。

10世紀頃より中国では、「文化」として1915年までのおよそ10世紀近くの長い間女性に 対してのみ纏足21が行われてきた。纏足とは、足を縛り骨を変形させることで成長を止め て小さな足をつくることが目的とされていた。足の大きさが小さければ小さいほど良いと され、良い縁談が結べた。美人の欠くべからざる条件であった。子どもの頃から始める纏 足は3年がかりで完成した。足の大きさには名前が付けられ、三寸金蓮、新月、弓足、春筍 の順に美しいとされた。膿瘍や壊死などが原因で死亡などの報告もあり、女性にとっては 生存をかけた制度だった。(鳥越、2008年、73ページ)津田はロココ時代22に、外交上問題 視されるのをさけて、政府は宮廷に住む女性に紅をつけることを強要したこともあったと いう。装いの文化ガ高く評価されはじめた時期で、軽快優美、繊細なロココ様式のモード

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は、生活のなかの芸術として認知された。その背景には、女性が社交界での役割を自覚し、

その役割を果たす手段として、装いに配慮するようになったことがある。(津田、2003年、

6ページ)その同時期でもある13世紀半ば頃から18、19世紀にかけて女性の身体に様々な変 化を起こさせたコルセットの文化もその1つといえる。女性たちは貞節のしるしとしてコル セットを身に付けていた。コルセットは強姦からの防御のためとされて、着用しない女性 はみだらだとみられた。ところがコルセットはウエストを強く締め上げることにより、骨 の変形、内臓、呼吸器、循環器系、生殖器疾患などを患い失神しやすくしていた(吉岡、1994 年、35ページ)。女性にとって、病気であることが美や貞節のために必要だった。

また、現代でも行われているものにアフリカ大陸などで女性が受けている女子割礼、女 性外性器切除、陰部封鎖23などがある。割礼の理由はやはり切除によって清純な女性の身 体になることが目的とされている。女性割礼が原因で、出血や感染症での死亡も多い。纏 足とは性感昴進のため、女性器切除は性感末梢のためである。どれも清純で清純さを見せ るために、そして男性のために行われた。変工は健康な女性の身体を制度により障害にし、

それを美、貞節、結婚の条件としてきた。美の制度もまさに暴力だ。しかしながら、いず れも貞節と美のためとされて美しい言葉で飾られており、女性は弱く、守られるべき性(鳥 越、2008年、76ページ)とされた。「美ははかないもの」という言葉があるが、まさにこれ らの文化を象徴している。このようにして、装うという行為は、様々な時代、様々な考え 方が理由で発展していった。

第2項 「美」のあらまし

前項では「装い」について述べた。本項では「美」についての論考を取り上げ、その違 いについて述べることにする。

春山は美容の語源について、「1922年(大正11年)に資生堂がわが国はじめて新しい美と モードを創造するため、美容科、美髪科、洋装科をつくった時から一般化した言葉だった。

資生堂の意匠部長だった三須裕は、美容科はドイツ語のKosmetikに準じたもだとして、美 顔術といっしょに美容皮膚科を併設した(春山、1987年、36ページ)。」と述べている。

きれいとは何か。美しさとは何か。景色を見ても、洋服を見ても、きれいという言葉が 頻繁に使用される。特に女性たちが多く使用するのではないか。そして、数多くの文献で きれいとは何かの議論がなされてはいるが、明確な答えは書かれていない。人においてア

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レックス・クチンスキーは「美しい女性とは一般的に、若くて健康な女性」という認識が なされているのではないか(クチンスキー、2008年、162ページ)としている。しかし、多数 の文献には、鳥越のように「一般的に対象が何であれ、すべての人が「きれい」と評価す ることは珍しい。好みの髪型やメイクなどが人によってそれぞれ違うのも、個人個人の美 意識は異なっているということであり、きれいの基準も同じではないはずである。主に女 性を対象とすると、美しい女性かどうかをめぐっては、国により時代により、違った基準 が存在する。」としているのである。そしてまた、「常に同じということはない。「きれ い」 や「美」を決めるには、自分であれ、他人であれ、評価する人の心のありようも重要 な要素となる。美とは、人間的なものである(鳥越,2008年,ii-v)。」とも述べている。美 は主体とそれを取り巻くものと大きく関わっているものなのではないか。

また、千村は、「美」とはそれを見る人の感性が受けとめて感動するところに成立する としている。そしてやはり、その対象を美しいと感じるその人の価値観はあくまで感覚的 なものとして、食べ物の好き嫌いにも通じているという。例えば、好きなものは美味しい し、嫌いなものはまずい。ただそれだけの単純明快な味覚というその人の感覚的価値観に 基づいている。しかし、感覚は皆同じではないし、押しつけることも出来ない。そこで「美 の原理」ないし「美学」が登場するのだ。ただし大切なことは「美の原理」によって美し さを生み出すことはできないということである。「美の原理」とはあくまで感性に訴える 美しさを、なぜこれが美しいのかと説明・解説していく手がかり・手段なのであり、相手 が納得すべく相手を説得するということなのだ。こうして感覚的価値観が相手に受けいれ られたとき、相手はその美しさに感動する(千村,2005年,2ページ)。

このとき、忘れてはいけないのは、今道の述べる、美とは「存在の恵み」であり、「人 間を人間たらしめるもの」であるということである。真・善・美は、人間の文化活動を保 証し、かつ、刺戟してやまない価値理念である。幸福や健康や才能や富や快楽や権勢や名 誉や便益などの一切がそなわった人物がいても、もしその人が真・善・美の追究を捨て去 るならば、その時点から獣に堕ちてしまう。それはなぜか。それは、幸福や健康と並べて 列挙した一切のものは、その具体的な状態は千差万別であるにしても、多くの高等動物の 生態の中で充分見出される現象であるからにほかならないからである。これに反して、動 物の中には、本能的に備わった自然的真(たとえば正確で誤りのない信号的伝達)、自然的 善(母親が仔に対して示す情愛や養育のための犠牲的行動など)、自然的美(走行する姿勢の 見事さや羽毛の色彩)は認められても、それらの価値を自然的な水準を超えてさら に磨き

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上げ創り出していくような営みもない。また、発見されることや、創り出されたものを前 にしての内的な喜びもない。さらに、そのような営みや喜びを刺戟する真・善・美という 理念の自覚は認められない。そういったことはすべて人間の特色で、これらがあるために、

人間には、文化活動が維持され、世代の交替しかない動物と異なって、歴史が成立してい るのである。今道は、「美は、天賦の能力がなくても、そういう能力に恵まれている人の 仕事を通じて享受できる価値としてあり、しかもこれを体験したとき、人は幸福な輝きの 中に立つ。」そして確かに、「挫折し苦しむことの多いわれわれに差し出された存在の光 のようにも思われる(今道,1973年,12-15ページ)」。このように、美は人間の希望である。

第4節 美容と理容の違い

第1項 業界における制度の違い

本節では、美容と理容の違いについてまとめる。そもそも、仕事としての美容業界と理 容業界は、制度の上で大きな違いを有している。

美容師法が制定されたのは、1957 年(昭和32年)6月3日のことである。それまでは美容業だ けを規制する単独の法律はなく、理容師美容師法という法律で、理容業と一緒に規制され ていたのである。この理容師美容師法は、理容業に関することをあわせて規定していたと いう点を除けば、その内容は現在の美容師法とほとんど異なるところがない。この意味で 美容師法の歴史は、理容師美容師法(最初は理容師法といった)の制定された時期(1947年・

昭和22年)に始まったといえる。

1947年(昭和22年)に理容師法が制定されるまでは、美容業は法律によってではなく、それ ぞれの都道府県の実情に応じた取り締まりが行われていた。その取り締まりの歴史は、た とえば東京都の場合、1901年(明治34年)の理髪営業取締規則の制定にまでさかのぼること ができる(この規則では、現在の理容のことを剪髪〔せんぱつ:髪を切ること〕、美容のこ とを結髪〔けっぱつ:髪を結うこと〕といい、両方あわせて理髪〔りはつ:髪を整えること〕

といった)。当時の取締規則の内容は、都道府県によって違いはみられたが、かなり似たも のであった。ただ、これらの規則はいずれも、国の官吏〔かんり:旧制度下での役人〕であ る都道府県の長官や知事が、その独自の判断によって制定されたものでなければ、なんら かの法律で都道府県の長官や知事がそのような規則を制定してよいとされたものでもなか

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った。一般的な行政権の行使として規則の制定が行われ、現在のように保健所が美容業の 指導を行うのではなく、警察当局が指導を担当していた。したがって、当時の美容業に対 する指導も取り締まりの色彩が強く、現在とは違ったものであったといわれている。

数度の改正を経て、1951年(昭和26年)に理容師法から理容師美容師法に改めた。これは、

美容師に関する制度の理容からの独立を主張してきた美容業界の要望を反映したものであ った。この改正では、このほか、養成施設卒業者に対する無試験免許制度の廃止や、美容 所以外の場所での業務の制限の制度の導入なども行われた。

これまで述べたとおり、1947年(昭和22年)に理容師法が制定されてから、理容業と美容業 は1つの法律によって規制されてきた。その理由は、江戸時代以来、髪結いという共通のル ーツをもち、ともに頭髪や顔面に対する施術を行うこと、衛生面からの規制の手段・方法 も共通点が多いことなどであった。しかし、客のニーズの変化や利用できる技術の進歩な どにより、理容と美容の業務内容はそれぞれ専門性・独自性を高めていき、特に、パーマ ネント・ウェーブや美顔術の導入によって施術内容を大きく変化させた美容業界から、制 度を理容から分離させて、美容だけの独立した法律を制定してほしいという要望が、かね てから強く出されていた。この要望にこたえて、この年、新たに美容師法が制定された。

同時に、それまでの理容師美容師法も改正され、名称が理容師法となり、美容に関する規 定が削られて、理容だけを規制する法律となった。

1960年代後半に入ってから、美容所の数は著しく増加した。しかも、次第にその規模が大 型化してきた。このことは、大型化した施設の維持管理や従業者の作業についての衛生的 な管理などの必要性を増大させた。そのため、常時2人以上の美容師のいる美容所では、特 に衛生的管理を徹底するため、管理美容師をおくことが義務づけられた。以上が、昭和40 年までの改正経過である。理容からの美容の独立、美容の専門化・衛生管理の向上の必要 性からの改正が行われたといえる。

美容師法
(目的)


第一条 この法律は、美容師の資格を定めるとともに、美容の業務が適正に行われるように 規律し、もつて公衆衛生の向上に資することを目的とする。

第二条 この法律で「美容」とは、パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により、容 姿を美しくすることをいう。


(28)

2 この法律で「美容師」とは、厚生労働大臣の免許を受けて美容を業とする者をい う。3 この法律で「美容所」とは、美容の業を行うために設けられた施設をいう。

理容師法
〔目的〕


第一条 この法律は、理容師の資格を定めるとともに、理容の業務が適正に行われるように 規律し、もつて公衆衛生の向上に資することを目的とする。

第一条の二 〔定義〕この法律で理容とは、頭髪の刈込、顔そり等の方法により、容姿を整 えることをいう。

②この法律で理容師とは、理容を業とする者をいう。

③この法律で、理容所とは、理容の業を行うために設けられた施設をいう。

この理容師美容師法が制定された51年後の1998年4月より、理容師・美容師免許が国家試 験化された。国家資格化された大きな要因の1つに、理美容師法にもある、刃物を扱い、薬 品を使用する職業の1つとして、公衆衛生面を危惧されたことだった。そして、理美容師の 社会的地位の向上を目指したことである。理容師美容師国家試験を受験するためには、厚 生労働省が指定する理容師美容師養成施設で、必要な学科と技術を身に付ける必要がある。

昼・夜間課程を2年間、もしくは、通信課程に3年間通わなければならない。インターンと 呼ばれていた1年間におよぶ実地訓練生制度は、1998年に廃止された。理美容師養成施設の 入学資格も、原則として高校卒業以上とされた。

理美容師国家試験は、厚生労働省指定の試験機関、財団法人理容師美容師試験研修セン ターが実施している。試験には実技と筆記試験がある。それらは財団法人理容師美容師試 験研修センターが指定した理美容師養成施設などで行われる。学科試験は3月と9月の2回あ り、実技試験は1月と8月の2回において行われる。理容師と美容師には理容師美容師法があ ることはこれまでにも述べた。しかし、美容術は理美容師が行うものだけではなく、エス テサロンやネイルサロンでの施術も美容術に含まれる。エステサロンやネイルサロンで働 く従業員たちは、美容師理容師免許を持っている場合もあるが、民間資格というものを取 得し、従事している。民間資格とは、民間団体や企業(美容の場合、化粧品会社など)が、

独自の審査基準を設けて任意で認定する資格である。企業によっては国家資格や公的資格 と同様に知識や技能があるものとして広く認知されているものもあるが、業界では、エス

図   23    毎日新聞 夕刊( 2010 年 10 月 19 日)
図   25    この人と話そう(京都新聞   2011 年 11 月 6 日)
図   28    花柳ビル外観(筆者撮影)
図   31    Ccure の扉の様子(筆者撮影)
+7

参照

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