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沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団 の退船過程

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(1)

の退船過程

著者 吉村 健司

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 40

ページ 275‑307

発行年 2014‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00009989

(2)

沖縄県におけるカツオ漁に関する研究は多岐にわたるが、同県のカツオ漁研究の特徴の一つとし

(1)て、餌料に関わる研究が挙げられる。川島(一一○○五)は本州と奄美・沖縄のカツオ船の餌料獲得について、自ら餌料を獲得するか否かの違いを挙げている。奄美・沖縄では餌料を自ら獲得してカツオ漁に向かうが、本州はカツオ漁とイワシ漁に分かれたという。伊良部島や石垣島のように追込網漁師との契約のもとで餌料を獲得する地域もあるものの、餌料を白船団内で獲得する方式は、沖縄におけるカツオ漁の特徴の一つといえる。そのような特徴を踏まえて、伊藤(一九九九・二○○四)は、伊良部島におけるカツオの餌料採捕を規定する要因を自然的側面と社会経済的側面から分析し、さら I.はじめに

沖縄本島北部地域における近海カツオ|本釣漁船団の退船過程

村健司

275沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

(3)

に、カツオ漁における餌料の位置づけについて考察を行っている。吉村三○○八)は本部町のカシオ漁船団を事例に、餌料採捕に用いられている四艘張網漁の詳細な工程を提示し、同漁法の存在が本部町のカツオ漁船団存続に寄与してきたことを指摘した。カツオ漁研究における餌料の確保に関わる視点は、餌料の確保からカツオ節の加工までの一貫経営を行う方式が残った、沖縄におけるカツオ漁の特徴的な研究であるといえる。

ところで、沖縄県におけるカシオ一本釣漁は一九○|年に座間味島で開始された、比較的新しい漁(2)業種である。新しい漁業種ではあるものの、県内各地に伝播し、地域経済にとって重要な位置を占めた。また、沖縄県としてもカツオ漁を保護する様々な政策を打ち出してきた。例えば、一九四八年八月に公布された新漁業条令では、カシオ漁以外の目的での沿岸におけるキビナゴ類の採捕が禁止されている。また、新聞紙上でも、カツオの餌料の必要性を訴える地域の声が取り上げられてきた。これ

らの点において、カツオ漁が沖縄漁業史において重要な位置づけにあったことが示唆される。かつては一種の「カツオ漁ブーム」とも呼べる現象が県内において巻き起こったが、現在ではほとんどの地域でカツオ一本釣漁は消え、本部町、宮古島市において、その存在が確認できるほどである。カツオ漁が衰退した要因は、沖縄の経済的脆弱性によるものが多い。ところが、先に述べたような沖縄におけるカツオ一本釣漁の特徴と歴史的展開からすると、餌料の問題も看過することはできない。たとえば、沖縄におけるカツオ|本釣漁の先駆けとなった座間味島では、’九七四年にカシオ漁が終焉を迎

276

(4)

えているが、この要因には経営悪化のほかに、餌料の問題が指摘されている(座間味村史編集委員会一九八九、川島二○○五)。慶良間諸島では不足する後継者を補充するために伊平屋島から若者を雇

い入れたものの、餌料の不足により衰退したとされている(兼島一九九五)。また、伊平屋島では大

正末期にカシオ漁の全盛期を迎えたが、餌の関係や、カツオ業者の技術不足により経営悪化に陥り船雛 団は解散していった(諸見一九八二。伊是名島では大正末期にカツオ漁が操業されていたものの、柵

餌の不足を一要因とする漁の不振続きで消失している(伊是名村史編集委員会編一九八八)。そのほ鮒 か、大宜味村でも大正末期から昭和初期にかけてカツオ漁が盛んになったものの、餌の不足や資本不鍬 足、流通面といった諸問題からカシオ漁業を含む漁業は衰退していった(大宜味村史編集委員会編イ

’九七九)。また、古谷野(一一○一一)も、波照間島のカツオ漁を事例に餌料採捕の点についても触翔 れている。このように、沖縄県内各地で操業されたカツオ漁であったが、地域ごとの特殊な要因はあ砿

るものの、経営不振や餌料確保の問題から衰退・消失していくケースが多く確認される。こうした県鮒

一』

内のカツオ漁の歴史について、沖縄県編(一九七四)では、県内におけるカツオ漁の不安定性とその蜘

要因を「餌料の脆弱性とその不足」にあると指摘している。すなわち、餌料を安定的に獲得できなく脚

なった地域は、カシオ漁を継続していく}」とができず、一方で餌料の獲得が可能であった地域は近年縞 まで、もしくは現在もカツオ漁が継続されてきた。以上の点から、沖縄におけるカツオ漁の衰退要因蝿 の一つに「餌料の不足」が挙げられ、さらに餌料確保はカツオ漁における操業の決定要因とも換一一一一口で師

(5)

きるほど重要な問題であったことは、既存の史資料からは自明であろう。ところが、これだけ餌料の重要性が示唆されてきたのにも関わらず、餌料種や餌料採捕の漁場などの具体的な動向に焦点が当てられてきたとは一一一一口い難く、この点は沖縄漁業(史)研究において克服すべき課題の一つと一一一一口えよう。そこで、本稿では、その課題を克服すべく、沖縄島北部に位置する本部町を事例として、カツオ漁の衰退プロセスを餌料確保の視点から明らかにしていく。そして、沖縄におけるカツオ漁にとっての餌料確保の重要性を、漁業日誌のデータを用いることで定量的および定性的なデータとともに再定位を試みる。本部町のカツオ漁についてはⅡ章で詳しく述べるが、本部町では近海カツオ|本釣漁船団第

十一徳用九(以下徳用九)が沖縄島における最後の近海カツオ一本釣漁船団として操業していたも(3)のの、一一○一○年に解散した。これまで本部町のカツオ漁についての研究は多くなく、なかでも餌料の問題についての研究については、沖縄県水産試験場二九七九)が、一九七○年代後半の餌料採捕(4)漁場と魚種について報生口した程度である。本研究を進めるにあたり二○○○年~二○一○年の徳用丸の漁業日誌を用いた。徳用丸の漁業日誌には大学ノートが用いられ、漁期の全日についてカツオ釣獲の漁場、漁場の様子、群れの喰い付き、漁獲量、風向・風量、天候、水温、餌料魚の漁場、餌料の魚種・採捕数量、欠員(者)、特記事項、また休漁日には休漁要因が書き込まれている。調査は、まず、これら記載内容を項目別に全て起こし、一○年間の変化を分析した。分析結果をもとに、二○一一一年十月から十一一月にかけて、徳用丸の

278

(6)

関係者からヒアリングを実施した。また、餌料環境をめぐる情報に関して漁業日誌の記載事項以前と

比較するために、前述の沖縄県水産試験場(一九七九)を用いた。本資料は、かつて本部町で操業し

ていたカツオ|本釣漁船団「第三光徳丸」の餌料採捕報告であるが、徳用丸の船長G氏に確認したところ、同資料は徳用九にも適用できることを確認した。なお、本報告で用いる漁業日誌のデータは二○○七年のものは除外して分析した。これは、船長が病気療養のために、シーズンを通して操業が行われておらず他年との比較ができないためである。

漁業日誌はこれまでo二回(○呉SDの門口三両弓耳》単位当たり漁獲努力量)などの漁獲データの

変化の把握に用いられる傾向がある。実際に、前述の沖縄県水産試験場二九七九)も漁獲および漁

場データを求めた生物学的な資料として位置づけられる。また漁業日誌を利用した研究では、民俗学

や文化人類学・生態人類学の分野で漁場認識に関わる研究がある(篠原一九九五、三田一一○○四など)。さらに、本稿のように過去の操業実態の再構成という点では林(二○二)が挙げられる。そ

の他、漁業日誌と類似の資料として船員手帳があるが、船員手帳を利用した研究は、主に地理学や民俗学の分野で船員(漁業者)の移動や展開、ライフヒストリーに着目した研究が行われてきた(若林

二○○○、河原一一○○一、増崎一一○一二など)。漁業日誌の研究上の利点は、人間の行動分析をするにあたり極めて困難な長期間の記録が残されて

いることである(篠原一九九五)。また、漁業者の経験的・感覚的な記憶を定量的、定性的な記録と

279沖縄本島北部地域における近海カツオ-本釣漁船団の退船過程

(7)

(1)調査地概要本稿で対象とする「第十一徳用九」は沖縄県本部町で二○’○年まで操業していた近海カツオ|本釣漁船団である。本部町は沖縄島北西部の本部半島に位置している。人口は、二○|二年十一月現在で一万三千八百十六人である。主な産業は農業、水産業、観光業である。農業では、アセロラ栽培や花卉栽培が盛んに行われている。本部町は十五の行政区に分かれており、渡久地区、谷茶辺名地区、大浜区には市場やスーパーマーケット、漁協、農協などの商業施設が集中している。また豊川区には沖縄有数の観光施設である「美ら海水族館」を有する「海洋博公園」があり、多くの観光客がやって(5)/、フCO して視覚化することが可能な点にある。本稿では徳用丸の過去の操業実態を漁業日誌の分析を通して再構成することで、餌料環境の変化を中心とした解散に至るまでのプロセスを明らかにする。なお、本稿で用いる図表については、別記がない限り、すべて漁業日誌を元に作成している。

本部町は亜熱帯気候に属しており、年間を通して温暖な地域である。年間の平均気温は一一一一一・三度で、平均降水量は二二六五ミリである。気温は山岳部と低地とでは差が激しく最高で四度低くなる Ⅱ.調査対象と方法

280

(8)

(2)本部町のカツオ漁と徳用丸本部町におけるカツオ漁業は、一九○四年に有志が出資し-隻の漁船を購入したことで開始された。しかし、稚拙な漁携技術のため、挫折をする時期もあったが、’九○七年には多量の水場を記録している。カツオ漁業は、当時、多くの収入をもたらした糖業に比肩するほどの職業として活況を呈

した。一九二七年までに船団数を四○まで増やすものの、これをピークに漸減していくことになる。多くの漁船団は赤字経営や後継者不足といった問題を抱え、解散に迫られていった。それはその後も (本部町一一○○三)。夏の降水量は南風による雨が連山に遮られるため、雨量が少なく、蒸し暑くなるのが特徴である。また、本部町と今帰仁村の間の連山は、立秋の頃より吹き始める「ミーニシ」とよばれる北風の本部以南への侵入を防いでいる。後に触れるが、このミーニシと本部町のカツオ船団の操業との間には漁業戦略上、密接な関係がある。二○一一年度の本部漁協に所属する組合員は一六七名である。うち正組合員は六六名、准組合員は一○|名である。漁業種はカツオ漁業、|本釣漁業、ソデイカ漁業、海ブドウ養殖漁業、モズク養殖漁業がある。二○一○年時の本部漁協における業態別水揚高ではカツオ漁業が四五一○万円、モズク養殖漁業が二一一一九一万円、一本釣漁業が一八一一一四万円、ソデイカ漁業が七七一一一万円、海ブドウ養殖漁業が五三五万円となっている。

281沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

(9)

%叩卯印加印釦如釦、旧Oに船長の高齢・体調不良、後継者育成の未達成、活餌確保の不安定性、検査・整備費の工面の困難さの四点を理由に解散し、船体は海外へ無償譲渡された。徳用丸の一船団体制となって以降、これらの諸問題は常に解決が急がれていた問題であった(本部かつお

振興対策協議会二○○五)。 続いていった。そういった状況にも関わらず、今日に至るま年成

o5N作で、本部町においてカツオ漁は町の重要な基幹産業であ、ソ続の○○Nhソ

詔工”螂朧けてきた。図1は本部町漁業の漁獲量および生産額に占める 蝋繍いり㈹鮒一脳螺川圷Ⅶ川》いⅦ、簔鰯》糊Ⅷ鮒化Ⅱ 囚の①|燗ント、徳用丸の一船団体制となった一九九七年以降も一一一○ 冊叫醐パーセント前後を占めており、経済的に重要な漁業種であっ 柵叫鯛た・ 鍋皿耽本稿で事例として取り上げる徳用九は、最後の船長となっ 、肪一柵たG氏(一九一一八年生)の祖父が一九一一六年に本部町の山川

寸トの←

印肪一町地区の一一五トンの中古船を買い取り、操業が開始された。そ

の①①←れ以前は帆船での操業が行われていた。徳用九は二○’○年

282

(10)

G氏は一一○○○年以降、体調を崩すことも多くなったという。二○○七年にG氏は体調不良により

(6)漁期のほとんどを療養に充てており、この間、徳用九はほとんど操業していない。また、徳用丸では四九トンの漁船を使用していたために、徳用丸を扱える免許取得者がG氏のほかにいなかった。したがって、G氏の引退はすなわち船団の解散を余儀なくされるもので、後継者の育成が急務であった。活餌の確保は徳用丸のように一本釣を行う船団にとっては最重要課題であり、活餌が確保できなくなることは徳用九にとって死活問題であった。活餌が安定的に確保できないということは、すなわち出漁が減少し、結果的に船団の経営を逼迫することにつながる。また、徳用丸の解散の年となった二○一○年は徳用丸の定期検査の年にあたる。その費用は莫大なものとなり、当時の徳用丸の経営状態では工面することができなかったという。徳用丸をめぐる、こうした種々の環境が解散へと追い込

んだものといえる。

徳用丸の漁期は通常、四月から十月である。三月から四月上旬にかけて船団員全員で操業準備に取り掛かる。九月までは餌料が安定的に確保できたこと、天候が安定的に晴天となったことから連続し

て出漁することができた。しかし、十月に入ると天候が不安定となること、本部町と今帰仁村の間の

連山の北部に位置する運天港における餌料採捕がミーニシによって困難になることから出漁が難しくなるため、休漁日が多くなる。そのため、半農半漁を主体とした生業形態をとる多くの船員は漁業を

離れ、農業に専従するようになる。このため、カツオ漁の操業期間は通常四月から十月までと慣例化

283沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

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徳用丸の最後の船長となったG氏は二○歳代の頃、那覇のマグロ延縄漁船での従事経験を持つ。その頃の操業経験から、本部近海のソネより遠方の黒潮境界付近にカツオが多く回遊していることを認識していたという。G氏はマグロ漁船退船後、本部に戻り、カツオ漁に従事するようになった。G氏が活動していた徳用丸では一九七○年頃にソネを超え、黒潮近傍まで出漁し、カツオ漁を成功させた。それを知った他のカツオ漁船団も、黒潮近傍まで漁場を拡大させた。こうして、本部のカツオ漁 た。 (7)され、解散に至る士よで、本部のカツオ漁の特徴となった。シーズンの終了となるのは、十月以降に海況が著しく不安定になり、休漁頻度がそれ、までより高くなったり、餌料の採捕量がそれまでより著しく減ったりしたときに、船長がシーズンの終了を判断する。シーズン終了後は、アゲユエー(揚祝)と呼ばれる儀礼を行い、神様に対して漁の感謝と報告を行う。

本部町のカツオ漁業において、カツオ釣獲の漁場はパャオが中心であった。パヤオとは海上に敷設された浮魚礁のことで、魚の謂集効果を有する。パヤオが敷設される以前のカツオ漁の漁場は沖縄島

近海に存在するソネ(海底岩礁)を限界とする漁場群が構成されていた。ソネもパヤオと同様、カツオのような回遊魚が婿集する。G氏によれば、かっての本部のカツオ漁業者はソネより先にカツオが

回遊していることを認識していなかったという。また、ソネ域より遠方で操業することに対して不漁のリスクを感じていた。ところが、G氏が徳用九に従事し始めた一九七○年頃に漁場拡大が行われ

284

(12)

船団はソネを限界とする漁場から黒潮近傍まで漁場を拡大させていった。徳用九をはじめ、本部のカツオ漁船団は同一船団内においてカツオ釣獲と餌採捕が完全な分業制が図られていた。I章で述べたように、このような分業体制は沖縄におけるカツオ漁業の特徴の一つで

ある。徳用丸ではカツオ釣獲班と餌料採捕班に分かれ、船員は自らの意思のもと、どちらの班に属するかを決め、原則として、|シーズン通して所属する。餌料採捕班は午後五時頃に本部町から漁場となる運天港へと約三○分かけて乗用車で向かう。午後

六時頃から運天港において操業準備に取り掛かる。徳用丸では餌料採捕に「四艘張網」という漁法を用いている。この漁法は、集魚灯で餌料となる魚を集め、網へ誘導するものである。四艘張網の操業過程については後述する。一方、カシオ釣獲班は午後四時頃に渡久地港を出港し、約一時間かけて餌料の主漁場である運天港へ移動する。運天港で餌料を積載し、午後十時頃に漁場へと出発する。漁場には翌午前四時頃に到着し、操業開始となる。積載した餌がなくなるまで操業が続く。渡久地港へは正午前後を目途に帰港する。帰港後、漁獲物は渡久地港に併設されているセリ場でセリにかけられ

本部町でのカツオのセリは値段の競争は行われない。価格は町内の鮮魚店組合によって定められ、|年を通して一定の価格で買い取られており、また販売対象によって価格や買い取り優先順位も異なる。販売対象は主に町内の鮮魚店、県内のスーパーマーケット、漁協の三つであり、優先順位も同様 る。

285沖縄本島北部地域における近海カツオ-本釣漁船団の退船過程

(13)

表12000年・2010年の操業比較

(1)徳用丸の出漁状況表1は、二○○○年と二○一○年における徳用丸の操業実態をまとめたものである。船団員の平均年齢は二○○○年が六五・八歳であるのに対し、二○一○年には六五・四歳となり、一見、若返りが

図られているように見える。しかし、これを班別に見てみると、カツオ採捕班は高齢化が進んでいる Ⅲ徳用丸の出漁状況と餌料採捕

2000年 2010年 船団員平均年齢65.8歳65.4歳 カツオ採捕/餌採補62.3歳/69.2歳66.4歳/64.4歳 初出漁日4月25日4月26日 終漁日11月2日10月8日 出漁日数80日52日 休漁日数81日115日 水揚げ222,002kg68,069kg 水揚げ/操業日2336kg1,309kg 使用漁場数(カツオ)31箇所20箇所 使用漁場数(餌)11箇所8箇所 配当回数8回3回

の順番である。町内の鮮魚店へは四○○~五○○円/蛇、県内のスーパーマーケットへは、二○○~三○○円/蛇、漁協へは一○○~

一五○円/蛇で、それぞれ買い取られる。徳用丸では漁獲が三○トンに達すると配当(給与)が行われる。た

だし、これは原則論である。前回の配当から次回の配当までに漁獲量が三○トンに達せば、そこで配当が行われるが、不漁などの影響もあ

り、漁獲が儘ならない場合は三○日をめどに配当が行われていた。

286

(14)

表2年別出漁・休漁日数 初出漁百1 ̄羅蘓1コ~rIIWWin=「可、]~「床爾E「薮T75] ̄

年一m『、》m・躯Ⅲ狸疵扣鉦・鉦尹麺口汕

漁期日数[%]

l61UOO]

l93UOO]

197[100]

189[100]

237[100]

231[100]

210[100]

210[100]

178[100]

167[100]

4月25日 4月20日 4月20日 4月9日 4月10日 4月8日 4月20日 4月13日 4月17日 4月26日

11月2日 10月27日 11月20日 10月15日 12月11日 11月22日 11月13日 10月30日 10月12日 10月8日

80[50]

92[48]

96[49]

83[44]

107[45]

75[32]

73[35]

66[31]

56[31]

52[31]

81[50]

101[52]

101[51]

106[56]

130[55]

156[68]

137[65]

144[69]

122[69]

115[69]

一方で、餌採捕班は若返りが図られている。これは、二○○六年の漁期終了とともに、高齢船員が複数名退船したことにより、若年船員の補充を行ったことに起因するもので、それ以前の班員の年齢構成は、餌料採捕班に高齢の船員、カツオ釣獲班に若年の船員が属するのが基本的な傾向としてあった。水揚げ量は一一○○○年が二一一一一トンに対し、二○’○年は九八トンであり、これをシーズン|操業あたりに換算すると、’’一一一一一一六キログラムから一三○九キログラムと減少しており、カツオ資源の減少が示唆される。カツオ漁を操業するにあたり、使用した漁場数は三一箇所から一一○箇所と減少している。これは燃油

価格の上昇により、渡久地港からより近い漁場を選択するようになったことによる。また、カツオの餌採捕に使用された漁場数は十一箇所から八箇所と減少している。これらの点から、徳用九をめぐる操業環境は年々、厳しい状況に追い込まれていく様子が推察される。表2は年別の初出漁日から終漁日までにおける、出漁日数と休漁日数を一覧にしたものである。初出漁日は四月九日から四月二六日まで

に間となっている。四月中旬から下旬にかけて初出漁日が設定されて

287沖縄本島北部地域における近海カツオ-本釣漁船団の退船過程

(15)

いることがわかる。一方、終漁日は年によって大きな差がある。早い年で十月八日(二○一○年)に終漁日を迎えるのに対し、遅い年で一二月一一日(二○○四年)となっている。これは、先述のように「海況」と「餌料」という出漁条件に左右されるためである。なお、|シーズンの平均日数は一九七日であった。次に注目したい点は、一シーズンにおける出漁日および休漁日の割合である。二○○○年から二○一○年にかけて、その割合を見ていくと、出漁日の割合が減少し、休漁日の割合が増加していくことがわかる。一シーズンにおける出漁日数は二○○○年時で五○パーセントを占めていたが、以降は減少を続け二○一○年には一一一一%となった。よって、一シーズンにおける休漁の割合は五○%から

六一%と増加したことになり、出漁に対する休漁の割合は約二倍の増加を見せている。このように、徳用丸では二○○○年から船団の解散を迎えた二○一○年にかけて、出漁する環境が厳しい状況に変化していったことが窺える。では、休漁日が増加傾向にあった要因はどこにあったのだろうか。表3は徳用丸の休漁要因の割合を示したものである。漁業日誌において徳用丸の休漁要因として示されていたのは、「台風」、「荒天」、「餌料不足」、「行事」、「月夜」、「故障(メンテナンスと、「その他気象条件」、「不漁」、「休養」、「船員不足」の十点に分類でき、その他に未記載の日もあった。また、これらの要因が複合的になっている日もあった。二○○○年から二○一○年にかけて休漁要因項目の合計数を見てみると、台風によるものが多く、それに荒天と餌料不足と続く。二○○○年当初は、台風や荒

288

(16)

(2)四艘張網漁の操業過程具体的に餌料採捕をめぐる環境がいかに変化

したのかを論ずる前に、徳用九における餌料採

捕がどのようなものかを見ておく必要がある。

その特徴を踏まえたうえで、餌料採捕をめぐる環境の変化について見ていく。徳用丸では、餌料採捕において「四艘張網」

とよばれる漁法を用いている。四艘張網漁は、その名の通り四艘の船に網を張る漁法であり、 天といった気象条件による休漁が八割を占めており、餌料不足の割合は決して多くはなかった。ところが、二○’○年には餌料不足による休漁がもっとも大きな要因となっており、徳用丸の解散には餌料採捕をめぐる問題が大きく関係していることが推察される。

表3休漁要因別回数

要因、年 2000200120022003200420052006200820092010合計 台風

荒天 餌料不足 餌料不足・荒天 行事 月夜

故障・メンテナンス 台風・月夜 月夜・荒天 その他 その他気象条件 月夜・故障・台風 月夜・餌料不足 台風・餌料不足 不漁 休養 船員不足 合計(除・未記救)

未記載

O電3Ⅱ4133W1

56 15

2Ⅱ554Ⅱ43Ⅱ2 1》5Ⅱ1-3『1-4「94い111』 而佗釦」9〉25斗2 ⑰{皿一羽←6 8(2)543‐5603Ⅲ21Ⅱ11

15 12 34 11 13 12

4出50,03》63241嘔1呼

8390 25259 30155 1451 245 1336 135 23 22 15 11 10 931073 22168

1 11

10

9引6

2小2972

96129152125127102 1015121720 53

27 89 12

合計 801011011061301571371441221151241 289沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

(17)

辮爾翔鋼嶺純灘鍛鍛繩騨報蝋翻蕊飛蕊槻螂鍛報辮辮鏑榔鋼趨蕊弧繩鋪心〉:冊繩鴇蕊辮辮蟻一『溌僖彌刊l刊翻翻制潔翔蕊蕊鐵騨

。i、 ノ1

6,゜

八V

……β

集魚灯に移動

②は集魚灯の電源は切り、

移動

.①、②、⑥が集魚 .①、②は⑥から電気

ケーブルが延びており、

最長300m以内の航路

.③、④、⑤、⑥は外で染魚 集魚時は常に同じ陣形

.。

F00Pl‐几,‐し’,こげⅥ‐率由ヤ北坤Ⅲ魂。、甜凶ロ咀似沖.$,;ゴロrlf5⑪Fd幅⑭ペロ■ず心193.1$I弧#’弘押.』鰯へ》琴汲叫‐》〈・P・冊h△‐4.F:?‐!i・‐‐トーー・‐‐リユム鰐。【△沌征‐即刊・…も

八』U

⑥に固定 .①が中央に入ったところで、

網を張り、⑥の集魚灯を点灯

・点灯後、①は集魚灯を切り 網の外へ出て、網内の魚を 生賛へ移す

①の集魚灯にて再集魚し 移動

・移動後、②、③、⑤、⑥を 四方に網を張る

蕊;!

図2四艘張網漁の操業過程

290

(18)

集魚はまず日没前に各船配置に就き、日没と同時に集魚灯を灯す。その後は集魚灯に魚が蛸集するまで待機する。操業は集魚灯の効果が得られる夜間となる。四艘張網漁では、集魚灯で集めた魚を網

に誘導するタイミングは潮止まりの時である。潮止まりとは、満潮から干潮、もしくは干潮から満潮

に移行する際に一時的に潮流が止まる、もしくは弱まった状態のことを指す。したがって、潮位の周期から一日の操業で二回ほど網へ誘導するタイミングが訪れることになる。潮止まりを狙って網へ誘導するのは、誘導する魚種が小型であるため、潮流が強いと思うように網へ誘導できないためであ

る。このため、船員の判断で潮流が弱いと判断された場合は、潮止まりとは関係なく集魚した魚を網へ誘導することもある。網への誘導が可能と判断された場合には、各船に合図が出され、網への誘導

へと移行する。まず、八○○ワットの集魚灯を後方から右舷に誘導する。その後、母船より三○○ この漁法は沖縄県内では本部町でしか行われていない(沖縄県水産試験場一九八六)。図2は四艘張網漁の操業過程を示したものである。四艘張網漁では、一五人前後の船員が五艘の船に分乗する。五艘の船のうち、一艘は発電機などを積んだ母船で、八○○ワットの集魚灯を用いて集魚を行う。この時の集魚位置は船体後方となる。二艘は母船から電源が供給され、それぞれ五○○ワットの集魚灯による集魚を行うが、こちらは二艘が離れていることが重要で、特に集魚位置は決められていないが、電源ケーブルの長さの関係で、母船後方より三○○メートル以内で集魚を行う。残りの一一艘は待機となる。

沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程 291

(19)

ワットの集魚灯に切り替え、魚を移動させる。その後、五○○ワットの集魚灯の二艘も母船の集魚灯

に一時的に魚を移動させる。|艘の船は一時的にその場から離れる。次に、五○○ワットの集魚灯に再度、魚を移動させ、母船より約一○○メートル後方へ移動する。その間に、残りの四艘の船は四方に広がり、網を張る。最後に四方に張った網の中心へ五○○ワットの集魚灯に蛸集した魚を誘導し、集魚灯の電源を切った後、船は網の外へ退避して、|回の操業が終了する。なお、採捕した魚は海上に設置された生寶に移動、保管し、次の操業が始まる。生寶は一一間半(約一一一・三メートル)四方の大きさで、一つの生寶に約一三○キログラム分の餌料が入る。

この漁法のメリットはカツオ釣獲と比較して労働負担が軽い点にある(吉村二○○九)。集魚灯を点灯させ、あとは待機するだけの漁法で、大きな労働負担は網を張る作業だが、一五人ほどで行うために、一人当たりに感じる体力的な負担は軽い。同様の漁法が奄美大島では三人で行われていた(吉村二○○八)。餌料採捕班の年齢構成が比較的高齢者で占められていたのは、体力的負担が軽く、高齢の船員でも従事可能な操業形式に起因する。|方で、デメリットは気象条件にきわめて左右されやすいという脆弱性を抱えている点にある。四艘張網漁は、前述のように集魚灯を用いる漁法であるために、集魚灯の効果を最大限に得られなければならない。そのため、月夜や、雨天後の土砂流入などによって海が濁ってしまうと、操業が規制されてしまう。

292

(20)

(1)漁場の縮小図3は漁業日誌中に示されていた漁場名を地図上にプロットしたものである。二○○○年以用丸では餌料採捕に二七箇所の漁場を利用してきた。二七箇所の漁場のうち、八一パーセント

魁鰹毫

l圏

園謝也恩トノ

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Ⅳ、徳用丸をめぐる餌料採捕環境の変化

P 量

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11?

である。一一○○○年以降、徳離 うち、八一パーセントにあた酬

列る二一箇所の漁場が細

離運天・羽地内海一帯鍬 場鬮を漁場群とする本部誠

漁半

辨諦計鴻“郡窪川7昨蘂》

の天リァが中、心的な漁場別 鰄舸であることがわか駒

一一

3駆る。本部半島北部エ郷

図辨リアの他には、徳用鵡

隣丸の母港である渡久燗

く地港周辺海域が四箇麺

(21)

所(本部半島西部エリア)、それと名護湾(本部半島南部エリア)が利用されているものの、これら二つの漁場群はほとんど利用されていない。名護湾は前述のように、ミーニシによって、本部半島北部エリアでの操業が困難になった際に利用する漁場である。そのため、必ずしも毎年利用されるわけではない。本部半島西部エリアも近年では似たような意味合いを持っている。本部半島北部エリアでは、下運天とシー小前の二箇所の漁場が二○○○年~一一○’○年平均で最も多く利用されてきた漁場である。地理的にこれらの漁場は分散していることからも、下運天とシー小前を中心として、その他の漁場が利用されている。二○○○年から二○’○年にかけての個別の漁場

蝋||鰯

/I

2008年以降における徳用丸の餌料採捕 漁場可能エリアおよび規制エリア 図4

いる。二○○○年から二○’○年にかけての個別の漁場

(8)利用率の傾向を見ても、利用率が増加する傾向にあった

のは、下運天、愛楽園地先、湧川地先、屋我地地先の四箇所であり、他は減少傾向にあった。このような減少傾向となったのは、周辺漁業者からの

反発による漁場規制が挙げられる。徳用丸の船員によれば、二○○八年頃より餌料採捕用の船に危害が加えられ

たり、網が破かれたりする被害が起きるようになったと

いう。徳用丸の餌料採捕で利用される本部半島北部エリアでは、養殖業や沿岸漁業が活発に行われている。その

294

(22)

ため、同エリアの小魚を大量に採捕する徳用九に対して、同エリアを管轄する羽地漁協、今帰仁漁協所属の組合員より資源保護を目的として操業の規制を求める動きが出てきた。そこで、徳用丸、本部漁協、今帰仁漁協、羽地漁協の協議の結果、本部半島北部エリアでの操業エリアが規制された。図4は、本部半島北部エリアにおける徳用丸の操業可能エリアと規制エリアを示したものである。この結

場場

偏湯果、自由に操業ができる漁場は源河地先、愛楽園地先、

漁漁

氏島ロf」

用丸の操業可能エリアと規制エリアを示したものである。この結雛 編場果、自由に操業ができる漁場は源河地先、愛楽園地先、剛

微繍シー小前、一別垣地先となった。図中に特に印が付いてい細 川鰍ない漁場は操業が可能であるが、利用については連絡す鍬 馴噸るなどの手続きがある。また、原則として、これらの漁諏 醐細場が利用できるのは四月から十月までと定められてい”

水漁

鵬オる。このように、徳用丸をめぐっては、それまで自由に砿

中ツ

、7力操業できた本部半島北部エリア漁場群において、周辺漁鮒

つ」

鮒業者からの反発という社会問題の発生により漁場が規制剛

眈され、操業の不{日由ざが顕在化していった。また、時系榔 榔列的に逆になるが、’九七○年代の本部町のカツオ漁船鳩 5団の餌料採捕漁場の利用について見てみる・図5は、糀 図一九七○年代に沖縄県水産試験場が当時、本部漁協に在鉦

(23)

(2)餌料の減少

徳用九を始め、カツオ一本釣漁では生餌を用いることは既述の通りである。一般的にイワシ類が主要な餌料として用いられることが多く、徳用九も例外ではなく、イワシ類が用いられる。カツオ漁に 籍していたカツオ|本釣漁船団「第三光徳丸」の餌料採捕漁場と徳用丸の餌料採捕漁場を地図上に表したものである。一九七○年代前半、本部町には五船団が在籍しており、各船団はここに示された漁場を分散して利用していた。一九七○年当時は二○○○年以降と同様に本部半島北部エリアが主力漁場であった点は変わらないが、本部半島西部エリアにも広範な漁場が設定されていたことがわかる。すなわち一九七○年代から二○○○年代にかけての漁場利用の最大の変化は本部半島西部エリアの利用の有無にあるといえる。この変化をもたらした要因は、環境の変化に起因するものと考えられる。この間、本部町の西方に位置する瀬底島には瀬底大橋が建設された。それに伴い、潮流の変化が起き、餌料となる魚が採捕できなくなったという。また、渡久地港の地先にはマグロ養殖場が敷設されている。この点も漁場縮小に対して影響を与えたと考えられている。その他には、本部町沿岸部の埋め立ても大きな影響を与えたとされている。次節で触れるが、徳用九が用いるカツオの餌料魚種はサンゴ礁域で生息するものも少なくなく、埋め立てなどによる海洋環境の変化により、漁場そのものは存在しつつも、餌料そのものが減少し、徐々に漁場として成立しなくなったと考えられる。

296

(24)

おいて生餌の獲得はカツオ釣獲の決定要因であり、漁獲量に大きな影響をもたらす。図6は月別の餌 料採捕数とカツオの漁獲数の変化を示したものであるが、餌料魚の漁獲数量の減少とともに、カツオ の漁獲数量も減少していることがわかる。以下では、具体的に餌料魚種や餌料数がどのような状況に

あったのかを漁業日誌の記載をもとに再構成する。

オ叩叩叩叩叩O漁業日誌ではカツオ釣獲で用いた餌料を「杯」という単位で記ツ050500力8221150瞳二昌3,9。.―し土、印斗彦・一二f心,、唇ノー韓・;グドと,》うざ一

#000000000O餌864208642ノシロ、ドロクイ)、タイクッァー(ミズスルル)が使用式」れて

‐餌料一カツオ

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年2002年2003年2004年2005年2006年2008正2009正2010

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載している。これは、餌料を生贄からバケツで移し替えるためだ

が、一杯は約三キログラム換算である。本節では、カツオ採捕班 他が利用した餌料数をもとに、二○○○年以降に使用餌料がどのよ 鱸うに変化したのかを明らかにする。なお、餌料採捕班によって採 鵬捕された餌料魚は生贄に保管されることは既述の通りだが、生寶 鞠に保管した餌料は生命力が強い魚ではないため、多くが死んでし

年まうことがある。そのため、漁業日誌中に記載された杯数と餌料 剛採捕班が採捕した餌料数とは一致しないことをお断りしておく。

徳用丸では一一○○○年以降、ミジュン(標準和名ミズン)、タレクチ(カタクチイワシ)、スルル(キビナゴ)アシチン(.

297沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

(25)

六・三パーセント)と続く。ミジュン、タレクチで全体の約七八パーセントを占めており、一一○○○年以降におけるカツオの餌料は、この二魚種を中心に採捕、使用されていたことがわかる(表4)。また年別の使用餌料を見てみると、二○○○年時ではタレクチが優占しており、ミジュンとアシチンはそれらを補完する位置づけにあった(表5)。アシチンはカツオの喰い付きが悪く、餌料としては適当ではないという。スルルやその他の魚種、また複合的な魚種利用は見られる年と見られない年があり、安定的な餌料としては存在していないことがわかる。二○一○年になると、使用餌料はミ いた。カツオ漁のシーズン序盤や終盤においては、冷凍スルルや冷凍タレクチを用いる時もある。また、二○○六年~二○○八年にかけて、餌料不足対策のため量に、試験的にサバヒーが使われたこともあった。数料二○○○年~二○一○年にかけて、冷凍餌料およびサ餌

バヒーを除いた使用餌料総数は八八五七二キログラムで使 あった。このうち、四六・八パーセントにあたる割

四一四一一一キログラムがミジュンで占められていた。次に、タレクチ(二一九七五キログラム、一一四・八パーセント)、ミジュン・タレクチ混合(五六二一一キログラム、

魚種 数愚(k9 割合(%

ミジュン 41,421

21,975 5.622

8》8Ⅱ3Ⅱ96W40四742‐11●jS●‐●●L●●‐●●‐●‐●●6’46143Ⅱ11刮000斗0O4P2ⅢⅢ.

夕レクチ ミジュン・タレクチ アシチン アシチン・タレクチ スルル・ミジュン スルル スルル・タレクチ タレクチ・スルル・ミジュン タレクチ・シラス アシチン・スルル タレクチ・シラス・タイクツァー 魚種不明

4,308 3,201 1215 921 630 315 180 69 60

80655 98

合計 88,572100

298

(26)

表5年別餌料使用数 単位:k9 魚種、年2000200120022003200420052006200820092010

2800100Ⅱ0作050Ⅱ006934‐6曰Ⅲ113092Ⅱいい3Ⅱ 9、し41 566←0-80》0》0000『0-5915『5’6『-254Ⅱ7-7{1Ⅱ『-5

0.●‐..‐‐。’5-11に 3-79Ⅱ3’000-00Ⅱ0油0(0←8》Ⅱ0肌⑪皿Ⅱ肥

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0021》 7900900-00刮0Ⅲ㈹{0艶5Ⅱト弱(妬拓岼162Ⅱ症

ミジュン タレクチ ミジュン・タレクチ アシチン アシチン・タレクチ スルル・ミジュン スルル スルル・タレクチ タレクチ・スルル・ミジュン タレクチ・シラス アシチン・スルル タレクチ・シラス・タイクツァー 魚種不明

1非58‐0Ⅲ50’0(00010仁07汀55‐43斗派445‐270p‐34Ⅱ

870

6.6545.9731204986,9819,2107,1708,3946,777

合計 10.3297.074

ジュンとタレクチ

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る。

次に漁場の変化鍬

ジ+ルさンレネニフ計ミⅡスアタサシウ合と同様に一九七○一

年代と一一○○○年代の使用餌料の変化を見る。沖縄県水却 産試験場二九七九)の報告によれば、一九七○年代に砿

おける使用餌料種は一一○○○年代に使用されていた魚種洲

一)

に加えてサネラー(タカサゴの稚魚)、ウフミー(テン剛

ジクダイ)、シーラー(ミナミキビナゴ)が使用されて脚

いた(表6)。一」れらの魚種は、現在でも先島方面では鵡 追込網漁によって採捕されている・同資料は、既述の通蠅 り、本部町所属のカシオ漁船より餌料採捕報告を受けた瓢

(27)

における一シーズン平均の餌料採捕量は九一二○キログラムと算出された。このうち、魚種ごとの採捕量の割合を見てみると、ミジュン(三○パーセント)、スルル(一一五パーセント)、

アシチンニ八パーセント)、タレクチ(一一パーセント)、サネラー(九パーセント)、シーラー(五パーセント)、ウフミー(三パーセント)となっている。このことからも、本部ではミジュン、スルル、タレクチ、アシチンが主要な餌料種であったことがわかる。ただし、注目すべきは漁場と魚種の関係で、サ

ネラー、ウフミー、シーラーは外海に面した沿岸に棲息する魚種であることから、中の瀬や瀬底島周辺が利用されなくなったこととの関係性は検討の余地がある。少なくとも、図5に見られる漁場の多くは埋め立てや橋の建設、マグロ養殖場などの設 ものをまとめたものであるが、漁法については言及されていない。ところで、本部町では昼間の迫込網漁が行われていた時期もあったが、少なくとも二○○○年代には行われることはなかった。したがって、使用餌料から見る一九七○年代から二○○○年代の変化は使用魚種の差異は見られるものの、それは漁法の変化に起因するもので、魚種そのものの変化ではないと考えられる。一九七○年代

4000 2000

0000

△▽

8000 6000 4000 2000

2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2008年2009年2010年

図7総使用餌料数の推移(k9

300

(28)

本稿では、徳用九をめぐる環境を、漁業日誌を通して再構成するとともに、変化の様子を見てきた。特に、餌料不足による休漁が多くなってきたという背景を踏まえ、餌料採捕の漁場と餌料そのものの変化の推移についてまとめた。また、それぞれを、本部町のデータとして唯一残る沖縄県水産試験場(一九七九)のデータと比較することで、餌料採捕をめぐる変化の質が異なることが明らかに

なった。すなわち、’九七○年代から二○○○年代というのは、本部半島一帯における環境改変が起きた時期にあたる。それは瀬底大橋の建設やマグロ養殖場の設置、さらには本部町沿岸の埋め立てな 置といった変化による環境変化との関係が強いと考えられる。

一九七○年代のシーズンの平均餌料採捕量は九二一○キログラムであった。これをさらに一一○○○

年代における変化との比較を行う。二○○○年には一○一一一一一九キログラムであったのに対し、

二○一○年には六七七七キログラムまで減少している(図7)。このように、個別の魚種の増減も見られるものの、全体的に餌料資源そのものが減少している傾向が窺える。二○○○年代に入り、東シナ海におけるイワシ類のレジームシフトが起きているという報告も見られる(水産総合研究センター

三ロヘヘミミミ・坤伊臼坤○m。.]ロへ丙の①房巴・己目百へのご・]・日【)。

V,まとめ

沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程 301

(29)

どが挙げられる。これらの諸点によって、本部半島西部エリアの漁場群における海洋環境の変化が起きたものと推察される。したがって、この時期における餌料採捕環境をめぐる変化とは、自然環境に由来するものであったと指摘することができる。一方、二○○○年代における変化とは、自然環境も(9)含めた、社会環境の変化に由来する点が大きい。一一○○○年以前の環境変化を踏まえて、限定された漁場での操業、特に本部半島北部エリアに集中して、操業することが求められているなかで、同エリアを漁場とする沿岸漁業者からの反発により漁場をめぐるコンフリクトが顕在化し、その結果、さらに漁場が規制された。

カツオ漁において餌料の獲得は操業の決定要因ともいえる重要事項であるため、餌料を獲得できる環境が重要となる。それには、漁場が固定化されることは避けられるべきであろう。すなわち、餌料採捕漁場や魚種の多様性が必要となる。一九七○年代のシーズンにおける平均採捕量は九○○○キログラム台であり、二○○○年と比較すると若干少ないように思えるが、決定的に違うのは操業していた船団数である。当時は徳用九を含め五船団が操業していた。本部半島および瀬底島という広範な漁場と餌料は本部町のカツオ漁船団に漁場選択の余地を与えていた。それらを各船団は戦略的に使い分け、カツオ漁を展開させていた。存続船団が徳用丸のみとなった際には、操業を支えた本部半島北部エリアは操業可能エリアとして存続したものの、社会環境の変化により、その漁場の利用はさらに限定されていくこととなった。

302

(30)

また、餌料そのものも、一九七○年代には、採捕可能な餌料魚種が七種あったものが、二○○○年には一一一種、そして一一○’○年にはミジュンとタレクチの一一種となった。さらに、この二種も傾向とし

てタレクチが減少し、ミジュンの比率が高まった。

このように、徳用九をめぐる餌料採捕環境は、漁場の縮小と餌料の減少により、餌料採捕の選択性は消失しつつあった。この変化が徳用丸の解散に大きな影響を与えている。沖縄県のカツオ漁では常に餌料不足が声高に言われており、その対策が求められてきた歴史があ

る。それは現代においても、状況は変わっていない。G氏をはじめ、本部町のカシオ漁師は口を揃えて「餌がない」と訴えてきた。それは漁師の感覚として少なくなってきていることを表現しているに

すぎなかった。本稿において、彼らの実際の記録を数値化していくことで、実際に餌料をめぐる環境がきわめて厳しい状況が浮き彫りとなった。

303沖縄本島北部地域における近海カツオ-本釣漁船団の退船過程

(31)

(1)カツオ漁研究についての分類については吉村(’’○一三)を参照されたい。

(2)沖縄におけるカシオ漁は琉球王朝時代から行われていたが、ここでいうカツオ漁とは一九○|年に沖縄県

座間味島で始まったカツオ|本釣漁のことを指す。

(3)本部町では、水産振興協議会を発足ざせ二○二年より徳用丸の後継船団を発足させた。

(4)本部町におけるカツオ漁の研究には以下のようなものがある。廣吉(一九九三)は沖縄県の浮漁礁の利用

状況について、本部はカツオ漁での利用がもっとも多いことを指摘している。宮内(二○○四)は本部町

出身のカツオ漁師の戦争体験記を南洋群島への出漁と関連ざせ記している。その他、カツオ漁の操業方法

に関する研究(吉村二○○八)やカツオ釣獲と餌料採捕の労働量の差異と金銭分配の平等性に関する研究

(吉村二○○九)などがある。

(5)二○一一年の沖縄県の入域観光客数は五百四十一万五千五百人、海洋博記念公園の入園者数は

三百三十九万千二百二十一一一である(沖縄県企画部統計課一一○一二)。

(6)八月に今帰仁村に住み、かって本部町でカツオ漁に従事していた者を一時的に雇入し、操業を行っている。

(7)個人操業を行うカツオ漁業従事者は、冬季にも操業する場合もある。

(8)ここでは、個別の漁場について年ごとの利用率から回帰分析によって対数近似の近似曲線を求めた。デー

タの性質上、統計学上、信頼性は高いものではないが、ここではあくまで傾向を見るためだけに、この分

グーへグーへ-

、--、=〆■■■■21註

304

(32)

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(9)これらの自然環境変化を引き起こしたと推察される要因も、大きな意味では社会変化に由来する自然環境

の変化として捉えることも可能である。

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307沖縄本島北部地域における近海カツオ一本釣漁船団の退船過程

参照

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