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琉球語源辞典の構想

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(1)

琉球語源辞典の構想

著者 服部 四郎

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 6

ページ 1‑54

発行年 1979‑06‑30

URL http://doi.org/10.15002/00013100

(2)

琉球語源砕典の構想

月 良

rH v h

日本

一誌

はそ

の他

の 一 一 一 口 語 と

︑例えば特に朝鮮語と親族関係をもっていそうだとか︑ある

いは

︑さらに

アルタイ諸言語︑つまりトゥングlス語︑蒙古語︑トルコ訴などと親族関係をもっていそうだといわ

れていますω

私もそれは非常に可能性のあることだと思います

υ

けれ

ども

︑ 学的には−証明されていないのです︒その他にもいろいろな説が

ありまして︑例えば︑ まだその親族関係は

一 一川 話

日本

語は混

一伯尚

だというような説もありま

すけれども︑これもちっとも説明にはな

っていないのです︒実は︑ゐ −

も言語学的証明であるかの如く書かれておりますので︑非専門家は︑つい−証明されたのかとお思いに

なるかも知れませんが︑それは証明にはなっていないのです

ν

したがって︑日本語と他の言語との間 に似た単語がある場合でも︑それが同源語である||同一の相訴から分岐発達したいくつかの同系泌 が祖語の同一単

一 請 をそれぞれ伝承していると認められる場合に︑それらの単語を﹁同源説﹂といいま

(3)

しよう||と断定することは差怯えなければいけないのです︒

ところが︑例えば英語は︑ドイツ語︑あるいはさらにデンマーク語︑

lJ

ノル

ウェ

ー訴

山︑

アイスランド語︑あるいは古代のゴiト語と親族関係があるということは完全に証明されておりますu

ですから︑非常に事情が違うυさらに︑それからゲルマン組認というものを或る程度再構できるので

uそのゲルマン組

一 誌 と ︑

さらにギリシャ語︑ラテン語︑それからサンスクリット語などと比較しま

すと︑さらにそれより前の︑五千年程前の印欧祖語というものを再構することができる︒そ

うい

う学

間的には大変幸いな状態にあるuですから︑そういうところでは例えば︑英語の語源辞典という

もの

を編纂することは非常に科学的なやり方でできるわけでありますU

ところが先ほど申しましたように︑日本語の場合には︑日本

一 耐 と

の間に親族関係の

− 証

明された計品

がな

いの

で︑

日本語以外の

一 一一口語との比較によって同じように科学的な語源辞典をつくることはできな

いわけでありますυそういう状態でありますから︑日本一請の或る単語と同源であ

るこ

が 一 品明された

単語が見出されたように︑時々書かれることがありますけれども︑そういうことを断定的に書いては

いけない︑そうすることは学問的にはできないのでありますυこういうような事をしょっちゅう寸一口 つ

ておりますと︑どうして否定的なことばかり言うのだろう︑もう少し前向きなことをどうしてき口わな

いのだろう

とい

う向きがありますが︑これは証明になっていない︑あれは証明になっていない︑ばか

りで

おま

えは

どうしてもっと︑これとこれは同源語らしいというようなことを古わないのか︑とい

(4)

うようなことも言われているらしいω同源諮らしい︑ということは百えるのですね︒ですけれども︑

私はそういうことは

一 一 口ったことはありますけれども︑断定はいつも保留して居る︒断定していないu

そこのところが一部の人々とは違うわけですね︒断定するかしないかという違いなんです︒

それで私はそういった

一 一 ざ口わば安全第一主義のようなことばかりを

って

いて

︑それでは︑今いろん

な方々がやっておられることは全部無意味だと考えているかというと︑けっしてそうではないのであ

ります︒どんな

ふ 一 一

口語のどんな単語でも︑日本語の単語と似ているものがあれば︑どういうふうに似て

いるかが指摘されればされるほど良いという考えですから︑例えばある方が﹃国語語源辞典﹄という

のをお出しになるとき︑そういうのに広告文を一筆書いてくれと百われましでも︑書く

わけ です ね︒

書きますけれども︑よく熟読なさればおわかりになるように︑そういう研究は奨励しているんだけれ

ども︑それらの外国語と日本語の単語とが同源語だと断定してはいけないという事はちゃんと書いて

あるんです︒必ず︒そういうわけでありまして︑決して︑そういう研究をやるな︑と一

一一 一 口って水ばかり

かけているわけではありませんQ

そういうわけですから︑例えば具体的な例をあげて説明いたしますと︑朝鮮語と日本語とがどうも

親族関係を有しているらしい︒したがって︑両者の聞に似ている爪泌があれば︑例えば中期朝鮮語︑

といいまして一五世紀の朝鮮語ですが︑﹁火﹂のことをち乙といいますυそれに対して奈良時代の日

本語では︹主︺といいますね︒これはやはり似ている︒それから中期朝鮮語で﹁水﹂のことをBE

一と

琉球 ~ii源辞典の構想、

(5)

いう

ο奈良時代の日本語で

E

含といいますね︒これもやはり似ている︒けれども︑それらは︑同淑

語であるとは断定できない︒なぜなら日本語と朝鮮語との親族関係が証明されていないからです︒し

かし

同源一詰である可能性はあるわけですね︒断定はできないけれども︒ところが︑それらが111今

0 0 0 0 0 0 0 0 0  

度は︑こういうことを言えばよくおわかりになるかも知れないと思いますが||同源語ではないと断

︒︒

︒︒

0 0 0 0 0 0

定することもできないということ︑そこのところが︑なかなかおわかりにならないらしいのですねω

非専

門家

は︒

︵日

本語

と朝

鮮語

とが

親族

関係

を持

って

いな

いと

いう

一両

別も

でき

てい

ない

︒︶

従っ

て︑

それらの単

一訪問が同源であるとは断定できないと同時に︑同源でないという断定もできない︒同源でないと断定し

たら

またまちがいになるということです︒それで︑つまりネガティブな断定もポジティブな断定も

できないということがわからなければいけない︒

一方︑奈良時代日本語の﹁木﹂という意味の単語は︹r

よ︺

です

υそれに対して︑いわゆる﹁南

μ

語﹂の﹁木﹂という意味の単語は品各巳\ぷ与百だから︑これと今の奈良時代の︹

r S

とが同源であ

る︑と断定したら︑その瞬間にそれはもうニセ者だということになる︒しかし︑断定しないで︑似て

いるということを指摘するのは結構だと思います︒

ところが︑中期朝鮮語にそれに似たものはないかと言いますと︑実は二年程前に発見されたのです

が︑朝鮮の学生が私に知らせてくれたのですが︑中期朝鮮誌に

rE Hg r

という単語がある︒それは︑

﹁株﹂という意味です臼そうすると・

Er

というのは接尾砕かも知れませんから︑語根は

rE

?かも知

(6)

れない︒そうするとこの語根

rE

?は奈良時代日本語の

同源である可能性がある︒しかし︑そうだという断定はできないが︑また︑それらは無関係だという ﹇町一﹈に似ている︒だから︑それらはやはり

断定もできない︒ですから︑﹁木﹂の立味の単語に関する限り︑一朝鮮誌には似ているものはない︑

たがって︑南島祖語のぷ与

E〜 ぷ

mr

E

だけが同源語である可能性があるものだということをいったと

すれば︑それは︑もう︑誤りであるということであります︒

ところが︑例えば︑インド・ヨーロッパ諾言語はそれら互いの親族関係が証明されておりまずから︑

そういった断定のできる場合があるのですね︒例えば︑ドイツ語の﹁火﹂という意味の単語は司

2 2 口 々

ω円﹈で︑それに対してフランス誌は

F

ロロ色ですから︑互いに似ておりますねQ日本語の場合の

ようなやり方ですと︑これらは同源訟であると断定する人があるかも知れない︒比較言語学的研究方

法を知らない場合はですね︒同源訴かも知れないという人が出てきても不思議ではないですね

0

35

円と

p g

は似ていまずからね︒ところが︑これは︑同源語ではないと断定できるのです︒印欧諸

言語の研究は進歩していまずから︑そういう断定ができます︒ところが︑これに反して︑ドイツ誌の

﹁兄弟﹂という意味の

F E 2

守円

台号

ι

とフランス語の﹃

H r o

﹇﹃百円︺とはですね︒ちょっと似ており

ませんωところが︑これらは︑同源一泊であると断定できるのです︒こういう具合に︑似ていなくても

同源語だと︑言語学的研究の発注しているところでは︑断定することができるのです︒

とこ

ろが

日本語の場合にはそういうことはできない︑ということであります︒で︑これは訴は変

琉球語源辞典の構想

r.::  :J 

(7)

わりますが国語辞典にいろんな語源説が引用してございますね︒いろんな人の語源説が︒それらを見

ておりますと︑科学的な見地から研究したものはほとんどない︒よさそうだと思われるのもあるんで

すけれども︑非常にあぶないものが多い︒たいていは当て推量に過ぎない︒勝手放題にいろんなこと

言っ

ている︒そういう状能んであります︒ですから︑日本一泊の認一線辞典というのはまるで成立してな

い︑

と 一 一 一

口ってもいい状態であります︒

これは︑実は二つの方法によってかなり改善されうる望みがあると私は思うのであります︒

その

つは専門用語になりますけれども︑﹁内的再構﹂||一己

2E

2

0

F B I

−と

一一

一一

口う

んで

すが

︑他

の同

系証

聞と

の比

較に

よら

ない

で︑

これは︑ある一つの言語︑があ

って

︑例えば日本語のように他に比較すベキt一 一口話がないときでも︑その 一つの一一一口語の内部だけで古い形を再構する︑そういう方法でありまして︑

内部構造をいろいろ調べて屑りますと︑母音交替とか︑子点目交替というのがありまして︑そういうも

のから︑その過去の状態をかなりさかのぼって再構することができる場合があります︒その良い例を

一つあげますと︑金沢大学の教授で︑印欧語の専門家なんですけれども︑松本克己という人が昭和五

十年の三月に﹁古代日本語母背組織考﹂というのを﹃金沢大学法文学部論集文学編﹄に出された︒

これが一つの良い例で︑これによってかなりそういうことが可能であるということが示されたと思い

ます︒この方法は極めて有力な方法ではありますが︑しかし余程慎軍にやりませんと危険を苧むおそ

れがあるのでありまして︑松本訴の論文はそういう意味で完壁とは

一万えない︒かなり問題の点が合ま

(8)

1︶ れている︒それらについて︑私は︑二問ほど私見を公にしておきましたが︑そういう危険な点がある

からというので︑あれはだめだというふうに言う向きもあります︒全体として非常にいいものを持つ

ているのにそういう点はみないで︒実はあの方法をもっと精街にやっていけば随分のことができると

思うのであります︒

第二の方法と申しますのは一一口語学で比較方法と申しまして︑先ほど中しましたドイツ語と英誌とを

比較してゲルマン祖語を再構する

il

そういうような同系語が二つ以上あるときに適用できる方法で

D

それで︑先ほど申しましたように日本一請は比較すべきニ一一口話がないと中します︒朝鮮語はまだ比較す

ることができないと申しましたけれども︑実はあるのです︒それは琉球方

一 一

一 一円という︑それは非常に貴

市一な比較研究の対象があるのであります︒もっとも琉球方言以外の方

一 一 一 一川は興味がないかというと︑そ

うじゃないので︑八丈島方一一 一 一

日︑それはやはりそういう観点から非常に興味がある大切な方一一一口でありま

c

しか

し︑

八丈島方言というのはかなり︑やはり︑中央方言の影響を受けておりまして︑変形して

おりますυ例えば︑動詞活用の体系などというのは︑一一一口語体系の中では頑固な部分でありまして︑そ

ういうところは侵蝕されにくいのですけれどもね︒他の部分︑語葉などというのはやはり︑中央の影

加明日を大いに受けてかなり古い形を失っておるのです︒

ところが︑この琉球方言というのは︑これもやはり中央方一一一一口の影響をかなり受けてはおります︒そ

琉球語源辞典の構想

(9)

れについてはこれからお話しする機会もあるかと思いますが︒どこが中央方一一一口の影響によって変化し

て居り︑どこが日本祖語から受け継いだものか︑その見わけが非常に大切ですね︒実はこれはかなり

困難なことであります︒けっして界易じゃないのです︒が︑まあ︑そういう点はあるけれども︑しか

し︑琉球方一一一口は全体的に見ますと八丈島方言などよりずっと頑聞な方一

一 一 一 円 ︑

つまり︑概して体系の独自

性を保持する傾向が非常に著しかった方

一 一 一

円であります︒と申しましでもこれは誤解を招かないように

特に注意いたしたいのですが︑それでは古い形をそのまま持っているかというに︑そうじゃないので

す︒民俗学などでよく︑琉球は十日いものを持っていると︑何か︑古い形がそのまま保存されているか

のように一一日われたことがあるようですが︑ひとつの方言がその全体系を古い形のまま保持するという

ことはないのです︒琉球方言と木土方

一 一 一 一

けがーーと概略的な表現を用いましょう

ll

分岐してから︑お

そらく二千年もたつているでしょうが︑年月がたてばたつほど︑木土方一パも変わりますが︑琉球方一五

もそれだけ変わっているのです︒変わっているけれども︑両者の聞に断絶があって︑ちがった変わり

方をしている︑と︒したがって木土方一一一日が失った特徴を琉球方言が保存している場合がある︒体系全

休じゃありません︒特徴の一部分です︒そのかわり︑逆に琉球方言が失ったものを木土方言が保存し

ているという点もあるのです︒そういう見方で見ないといけない︒琉球はみな古いんだと︑すぐにそ

ういうようなこと

を言

う︒

言語学は幸いそういうことは言わなくてすむんですね︒普通もう少しやわ

らかい科学である文化人類学︑民俗学などだと︑そういうことをいう傾向があった︒この頃はこうい

(10)

う科学も発達してきましたからそういうことはあまり言わなくなったと思いますけれども︑以前には

よくそういうことがあって︑琉球の中に古代の姿を見るなどということが︑しばしば一一一円われたように

思いますο

しか

L

︑琉球方

法 一 口はそういう共合に独けの変化をとげた方言でありますから比較研究をする場合に

非叶

山に

沢市

一な

ので

あり

ます

︒実は︑同誌詐典中の語源説のところを見ておりますと︑琉球方一一一日はほと

んど引用してないので︑どうも同誌学者というのは琉球方言の存夜を忘れているのではないかと︑紘

一行ずればそういう印象を受けるのです︒そこでこういう機会に︑それは非常に残念なことだというこ

とを強調したいと思うのでありますοもちろん琉球方言の研究そのものは非常に応んになりまして︑

そういう専門家たちが琉球方言を忘れているはずはない︒むしろそれが対象

にな

っておりますからそ

ういうことはないわけですけれども︑今度はどうも琉球方言の専門家の研究を見てると︑本土方一一一川 と

比較する場合に比較の基点が︑||少々の例外はあります︒全部が全部そうだとは中しませんが

11

1

木土方言を基点としている︒琉球方すと木土方言を比較する場合︑木土方

一 一 一

けを来点にして︑これがこ

う託っているとか︑こう変わっているとか︑そういう傾向があることが私には惜しまれるのでありま

す︒これについては︑さらに述べたいことがありますが︑いまは省略いたします︒

それで

はど

うしたらいいかということを︑これから申しますが︑つまり︑それは琉球力

一 一円

と本

土方

一一

一川

︑あ

るい

は奈

良時

代の

中央

方一

一日

︑そ

うい

うの

と比

べま

す場

合︑

いずれも対等の資格においてやらな

琉球語源辞典の構想

(11)

けないuそれらを対等の資格において︑ くてはいけないu

本土

方一

一 一一

口を

基点

にし

てや

る︑

ある

いは

逆に

琉球

方一

一一 一

円を某一点にしてやる︑それではい

日本祖語というものを再構して︑それからそれを基点として

考えると非常によくわかる︑ということであります︒で︑私の講演の

H

標の一つは︑この種の︑今巾

しましたような考え方に対する根木的な考え方の転換をする必要がある︑頭の切り換えをする必要が

ある︑ということを強調することであります︒

日本机語というのはいったい何年くらい前のものだろうか︒これは︑私は︑この前の伊波先生の生

誕百年記念の講演会で申しましたように︑伊波先生がすでに約二千年くらい前ということを言ってお

られ主す︒ほぼ正鵠を得ているのではないかと思います︒いろんなことから一一一一口って︑それくらいのと

ころに相掃をおきますといろんなことが良くわかるように思われます︒ですから大分前ですね︑奈良

時代よりは︒これからよく研究してみればだんだんわかってくると思いますが︑奈良時代より少なく

とも五︑六百年以上前に持っていかなくてはならない︒少なくとも︒ですから伊波先生が二千年前と

おっしゃったのは︑それは︑ひとつの直観であり空すけれども︑私は講演でそのことを特にひいて賛

成する意味のことをお話ししたのであります︒

そこで︑例えば少し例を示しますと︑いちばん向うの﹁表I﹂であり主すが︑首里方言と京都方一一一 一川

の比較をしておりまして︑例えば︑首旦方言の﹁チン﹂︽着物︾が京都では﹁キヌ﹂︽絹︾︒﹁キヌ﹂は

意味がちょっと変わっております︒が︑奈良時代にさかのぼりますと︑﹁衣﹂︽着物︾という意味で︑

(12)

京 都 方 一

一 一 一 日

︸ 内 一 ロ

ロ ︽ 山 相

︾ E

E

EZ

︽ 霧

立与

一︽

月︾

︸ 内 一 一

︽ 木 ︾

F S H

︽ モ ︾

l i

SER

Z H

︽ 子 ︾

m

一 方 一 一 一 川

乙 一 ︵ 円

HZZ

戸 ﹁ 一 円 一

J

r f

 

r f

r  

一 寸 ロ 円

︵ 一

mZ

同源語であると考えられます︒それで﹁キヌ﹂の﹁キ﹂が首里では﹁チ﹂になっている︒

そ の 次 の

京都

方一

一一

一口

では

﹁キ

ク﹂

とい

うの

が︑

﹁キ﹂︑が﹁チ﹂になっているQそれから﹁霧﹂ですねQ ︽聞く︾という意味の動詞が︑首刑方一一パでは﹁チチュン﹂ですねο

これ が京 都方 一一 一日 では

﹁キ リ﹂ です が︑

If!.  方

一万では﹁チリ﹂︒やはり﹁キ﹂が﹁チ﹂になっているQ次に﹁月﹂が京都方一一パでは﹁ツキ﹂ですけれど

も首用方一一一日では﹁ツィチ﹂となっている︒やはり﹁キ﹂のところが﹁チ﹂になっている︒ですから京

都方 一一 一日 の﹁ キ﹂ は首 里方 一一 一日 の﹁ チ﹂ にな ると いう ふう に︑ ふつ う一 一日 いま すけ れど

︑そ うい う言 い方 が

いけないのですね︒そうじゃなくて︑先ほど申しましたような対等の資格において考えますと︑どう

0 0 0 0  

いうふうに一一一口うかと言いますと︑京都万言の﹁キ﹂は首里方一一一日の﹁チ﹂に対応する︑というのです︒

琉球語源辞典の構想 11 

(13)

以前は何であったか︑ということはそれをもとに考えるのです︒﹁キ﹂が﹁チ﹂

にな

ると

いう

日い

がもうすでにいけないのです︒

そこでさらに﹁表I﹂を見ていきますと︑樹木の﹁木﹂が京都方一一日の﹁キl

﹂が

汁旦

方一

一日

では

﹁キ

イ﹂ですね︒そうすると︑これは先ほどの対応の例外になりますね︒﹂ういう例外に対して︑一言語学

者は大いに警戒心を抱かなきゃならないのですがね︒そういうのを平気で少しくらい例外はあるだろ

うというのではいけないのです︒それから︑その次に﹁毛﹂ですが︑それが京都方一一一日で﹁ケi﹂です

けど

も︑

首里

方一

一 一

一 口では﹁キイ﹂ですね﹁ケ﹂が﹁キ﹂に対応する︒︒

﹁な る﹂

ので

はな

く︑

﹁対

応﹂

ているむ

それ

から

首里方言では﹁キプラン﹂︽煙らない︾ですけれども︑京都方

一 一 九

等で﹁ケプル﹂

とか﹁ケムル﹂とか言う︒その﹁ケ﹂のところがやっぱり﹁キ﹂に対応している︒だから﹁エ﹂が

﹁イ﹂に対応している︒それから﹁手﹂が京都では﹁テl﹂ですけども︑首昭一では﹁ティイ﹂で﹁エ﹂

が﹁

イ﹂

︒ですから︑対応はでたらめでないということがわかります︒発音はちがっているけれども︑

速い方がでたらめでない︒ただ︑どうも﹁キ﹂については不思議な例外がある︑と︒そういう状態で

ありますυこういうのを﹁音韻対応の通則﹂と言いまして︑いわゆる﹁音韻法則﹂などとも言うので

すが︑そういう音韻法則があるのに例外が少なくともこの中にすでに一つあるということです︒

こう

う例外はよくあるのであります︒現在でも例外は少しぐらいあるものだという態度の人もあ

りまして

ね ︒

言語学者でも︒﹁立け韻法則﹂などというのが︑﹁法則﹂というのがよくない︑とも

一一 一パ

われ

(14)

ます︒私はもちろん︑背韻法則は例外はありえないなどとは中しませんο実際はほとんどいつでもあ

ただ︑﹁例外は少しぐらいあるものだ﹂と当たり前のように考えるのと少し違う所るのですからねu

は︑私は︑例外があるとき︑どうしてこういう例外があるのだろうと考える︒そうするといつかそれ

が説明できる時が米るというのが︑今までの五十年の経験ですuさきほどの例外は︑実は説明できる︑

ということをお話し致したいと思います︒

それで︑京都方

一 一 一

口をさらに奈良時代の中央方言にもっていきますと︑やはり多少変わった様相を込

してまいります︒﹁去

H

﹂を見て下さい︒﹁キヌ﹂は﹁キヌ﹂で︑これはほとんど同じ︒﹁キク﹂も﹁キ

ク﹂ですねυところが﹁キリ﹂がちょっと変わってくるんですねu今の京都方言では﹁キ﹂ですけれ

ども︑﹇﹁よ﹈という発点目だったらしい︒いわゆる︑﹁乙類のキ﹂というやつですね︒それから︑その次

に﹁月﹂ですねUこれが︑﹁ツ﹂が﹁トゥ﹂︹E﹈だった︒奈良時代には﹁月﹂は︹片品己だったと考え

られますQそれから﹁木﹂もですね︒やはりこれも﹁乙類のキ﹂で日占ですね︒今の京都方一百とち

がっているということがわかります︒それから﹁毛﹂になりますと︑﹁乙類のケ﹂で︹rJ﹈ですむそ

ういうわけで︑奈良時代までいきますと大分様子が変わってくるのですね︒それにもかかわらず︑や

はり

奈良時

代の

中央

方一

一一口を基点にしたのでは先ほどの例外がよく説明できません︒

とこ

ろが

先ほど中しました内的再構という方法を使いますと︑﹁表E﹂に示したように日本相凶

の形が再構されるのですQだいぶ様子が変わってきてますねυ﹁小扮﹂がJEZになる︒それから﹁月﹂

流域Jav>~l

M '  

:!ll!の槌;tL[ lJ 

(15)

II 

現代 京都 方一 一一 口等

﹇ ど ロ ロ

﹇ 主 ︵

WC

︶ ﹈

﹇ 主 立 ﹈

﹇ 仲 田 口 主 ﹈

︹ 宮

r

rg

1

︹ ﹃

55

t︺

︹ 件

︒ 一

﹈ 今

会良時代中央方一一 一 同

︹ど コ

ロ ﹈

F

一 ︵

rロ ︶ ﹈

︹ 可 一 三

︹同ロr

r w

 

h r

r ω

品 川

E

・ ﹈

Z﹈  日本州ぷ

J

E

J F

E M

− − ︽ 謙 一 ︾ Jz rE

i J

JS

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J

J

巳 ︵

I J

m

JE ロ 円 r

IJm

現代

白里

方・

一一 一

﹇ 乙 石 ﹈

﹇乙

スミ

ロ巴

︶﹈

7J

Z

z −

H﹂︺﹈

﹇ と 一

rr ﹈

﹇ 主

σロ 吋 ・

んですね︒そうすると︑次の去Eの日本祖訴というものをもとにして考え

ます と︑

がゴロ

rE

︑﹁ 木﹂ が

Jg

︑﹁ 毛﹂ が

J

巳︑

﹁煙

﹂が

J

E Z

︑﹁ 子﹂

︑がJ巳︒こういうふうにな

って く

日本相一

品の

JF

奈良時代にも﹁キ﹂ですU

とこ ろが

日本祖語の

JE と ぷ 丘

がいっしょになって﹇主﹈︵L

類の キ

になる︒で︑その﹁キ﹂と﹇竺︺がいっしょになって現代京都方一

日の

﹁キ

になる︒そういう関係に

なっている

G J 3

は公良時代の

﹇ ︸ 九

m wを経て現代の﹁ケ﹂になるυ

とこ ろが 首閉 じ方 一 一 日

はどうなるか

といいますと︑そのまとめ方がちがっておりまして︑日本組語のよ一と

JE

がいっしょ

に な っ て

﹁チ﹂になる︒こんどは点包と点巳がいっしょになって﹁キ﹂になる

Uですから︑これはごらんに

なってすでにわかりますように︑京都方一

一 一 口を中心にして現代首恒方

一 一 日を見ますとこの関係がわからな

(16)

現代京都方言等

ー、 /ぇ;;]; 

~ F 良

〕 民

~ 」」

s

r@巾﹈

J

一−祖

i.iu 

現代首里方

一 一 一

‑‑v‑‑'

_....__

器 発4 ω ー−ー−

‑‑v‑‑‑‑'

~ L

A

︸ 州知 一

くなります︒それから奈良時代の中央方言をもとにしてみてもやはりわからないのです︒日本祖訴を

基点にしてはじめてどちらもわかるu首里方一一一口の方もわかれば奈良時代︑それから現代の京都方

一 一 一 一 口 も

わかる︑ということでありますUですから︑こういう考え方をいつもしなければならないということ

です︒比較研究をやります時にυですから︑私が頭の切り換えが必要だというのは︑本土方

一 一 日

を甘

抗点

にして琉球方言ではこれはこう変化する︑という考え方はいけないということです︒そうじゃなくて︑制

これとこれは対応する︑と考え︑その対応をもとにして︑日本相訟をいつも考えるというやり方でな恥

百 円 ︸

hTUV

ければならない︑ということを実例をもってお話ししたつもりであり主す︒

そこで︑琉球方

一 一 日 で

こういう音韻変化がおこったということは︑ここでは略しまし

たが

︑実は琉球

の諸方言の比較研究によってもそのことがわかるのですU私は昭和七年に琉球訴と国語とのか臼韻法則

いろんな

15 

という論文を書きましたが︑あの時代の頃に比べますと︑琉球諸方

一 二 日

の研

究は

ずい

分進

入︑

(17)

ことがわかってきておりますυ

例え

ば与

那国

島の

祖納

方一

一一

口︑

八重山の諸方言︑宮古の諸方一一百︑それか

ら沖縄島の諸方J一一両︑それから与論島︑沖之永良部島︑徳之品の諸万一一口︑加計呂麻品︑奄美大島の諸方

言︑喜界島の方

. 一 一

日︑これらはみな琉球諸方

一 一 一

口に属しますが︑それらを比較しますと︑先ほどの日本出

話の再構を支持するような対応関係が現れております︒これらの諸方言を比較することによってもあ

あいつた再構︑仮説が支持されます︒その証明は省略いたしますけれども︒

そこで私は︑そういったような専門的なことを実はここで詳しく話しするつもりではありませんが︑

今申したことは山専門家向けの話なんで︑専門家の頭を切り換えていただくために一一

一日ったのでありまし

て︑みなさんに関係のないことではあります︒しかし︑ここで中したいことは︑そういう音韻とか音

韻法則とかいうようなうるさいこと︑しかも音韻とは何だ︑点円韻法則とは何だ︑人間とどういう関係

があるんだ︑というような批評がありまして︒おまえたちのやっている言語学というのは人間と関係

のな

いこ

とだ

あんなものは人間とどういう関係があるのだとか︑人間から切り離してことやはだけを

取り扱って︑もてあそんでいるんじゃないかとか︑そういうような批評もあるようですね︒実は︑そ

れはそうじゃないのですu結局それはわれわれ頭の中にああいう背韻という形であるものを取り出し

ているのでして︑その時︑

いるのではないのですυしかし︑やはり全体としてみて︑ いつも︑それは人間にとってどういうふうにあるのかということを忘れて

いか

にも人間と関係のないものを取り扱う

ように見えます臼ところが︑私が今日お話ししたいことはそういう

よう

な︑

つまり人間の生活史︑あ

(18)

るいは文化史と関係のないことをやっているように見える

一 一 一

日話学というものが︑他の人文科学にはで

きないような貢献を文化史研究に対してできるのではないかと︑そういうことをひとつの例をもって

お話ししたいと思うのでありますυ

その証明は︑今︑詳しく申しておれませんが︑例えば日本組

一泊のよ−と

JE

の附

方が

︑琉

球制

一品

l l

そういうものをたてていいかどうか厳密にいうとちょっとむつかしいんですけれども||先ほど

0 0 0 0 0

0挙げましたいろんな琉球諸方

一 一 一 一

日がわかれる前の琉球祖誌というものを立てることが︑大まかに言って

できそうですuそこで︑﹁点W﹂に示したような音韻変化が起こったのであろうと推定します︒

IV 

現代首民方一日

i l t  

tc

 

−〆

之己

巳 九

h r

v

n

F Vω

r‑‑'

v

V T r o  

「一寸

er.'  L

h、、 4

V

祖語には︑もちろん︑この去に示したもの以外の音節があったと考えられますが︑それらについては︑

しばらく考察しないことにます︒

日 本 琉球請源辞典の構想

17 

(19)

実は︑この去に﹁琉球祖語﹂と書きましたのは︑本当の琉球祖語||そういうものがあったと仮り

にしましてーーよりはさらに首里方一員に近づいた時代かも知れませんが︑こういう時代がかなり続い

たのではないかと考えておりますω

この

JF

と普宮のあった時代を﹁A時代﹂と呼びますと︑

'‑

A時

代か

ら現

代の

首里

方一

一一

口へ

は︑

﹁夫

V﹂に示したような音韻変化が起こったと考えられますQ

A時代

r

v B

時代

A FF

F C時代︵現代を含む︶

C

r

ζ 

この﹁表V﹂のような音韻変化が起こったと︑どうして考えるか︑ということの証明は︑専門的に

なるので省略しますω

しか

し︑

A時代からB時代に移ったときに︑元の﹁キ﹂には変化がなかった

ーーー記号はぷ一と﹇点己のように変わっていますが︑前者は音韻記号のようなもの︑後者は精密音声

表記で︑ともに同じ﹁キ﹂のような音を表わしますーーが︑

J o

は干よ﹈に変わった︑と考えるわけで

す︒この﹇Jよ﹈は先ほど申しました奈良時代中央方言の﹁乙類のキ﹂と同じ発音でありまして︑︹%と﹈

の方は﹁甲類のキ﹂と同じ発音ですuしかし﹁表E﹂と﹁去V﹂とを較べてご覧になればわかります

ように︑奈良時代中央方

一一 一 口

と﹁

B時代﹂首里方言の日よ﹈の前身は互いに違っています︒このように︑

(20)

違った言語状態から同じ一

一 一 口語状態が生ずるということは︑大変興味がありますQ

ですから︑私はよくいうのですが︑

一 一 一 一

口語の変化というものは︑﹁行く川の流れは絶えずしてしかも

もとの水にあらずω流れに浮ぶうたかたは︑かつ消えかっ結びて久しくとどまることなし﹂︒

こ う い

ううたかたがですねυ奈良時代にできて︑その後平安時代になると消えてしまった︒首里方言でも同

じで︑別の原因で

B

時代に同じうたかたができて︑﹁

C

時代

になると消えてしまった︒

﹂れ

はこ

例ばかりでなくて︑一一川語変化の全体を見ているといつも同じようなことがあって︑大変おもしろいと

思います︒そういうことを苦いますと︑それは日本語独特の傾向じゃないかという反聞があるかも知

れませんが︑世界の廿一口話をよく見ておればみておるほど同じようなことがあるように思います︒

から

やはり日本語を研究する場合にも︑位界の諸言語の様子をみなければならない︒そういう知識

つまり言語学を勉強すればするほど良いということになるのでをもっていればいるほどいいという︑

す︒

で ︑

B時代というものがあったにちがいない︑ということを︑そういう仮説をずっと前に発表して

おります︒要するに︑﹁表

V

﹂に示したように︑C

時代

と︑

﹂う

う状態を経過しA

時代

B

時代

て今日に至ったと考えられるのでありますu

で︑

こう

いう

ヤフに考え・

るの

は︑

いわゆる比較方法によ

る︑歴史言語学的考察による結論でありますが︑これが非常におもしろい結果をもたらすのでありま

す︒

です

琉球J[J‑源辞典の構忽 19 

(21)

昭和三十八年でしたが︑国立国語研究所で︑昨年亡くなられました比嘉春潮さんだとか︑島袋盛敏

さん︑それから上村幸雄さんの三人で非常に立派な﹃沖縄語辞典﹄というものを作られましたQ

この

辞典は見ればみるほど立派だということがわかってくるのですがQこの辞書によって或ることを調べ

ておりましたら︑非常におもしろいことがわかってきたのですuこれは首里方言を記録した辞典です

が︑そこに一種の琉球漢字音とでもいうべきものがあるということがわかってきました︒日本にはご

存知のように漢字音というのがあります︒漢字音というのは元来シナからはいったものですから︑日

本語としては借用語と申しまして︑そういうのは横から入って来たもので︑親族関係とは関係がない

のです︒ところが琉球一誌にもそういう漢字音がはいっているυそうすると琉球は︑もう明とか清とか

と盛んに交通しているのですからね臼琉球の漢字音はどうせシナ訴がはいったんだろうというような

ことを今でも平気でいう人がいるω私もそういう疑いはあるから︑非常にくわしく調べてみたんです

がね︒すると︑査にはからんや︑それはまったくシナ語とは関係がなくて︑日本漢字音と密接に対応

していることがわかったんですQ

﹁ 表

WH﹂をご覧下さい︒

この表を見ればすぐわかりますように︑琉球漢字音と本士漢字音との間には︑整然とした対応関係

があるのに︑琉球漢字音とシナ語北京音との聞にはそれがありませんοこれは琉球漢字音とシナ前官

との聞には直接的な関係がなく︑琉球漢字音と本土漢字音との間には密接な歴史的関係のあることを

物語ります︒ところが︑これらの漢字音は日本祖語にまでさかのぼるものではあり得ませんから︑借

(22)

VI 

琉球漢字音

ロ コ ︺

﹇ 乙

F r c

ζ

日 ﹂

JH

︹仏包H

ω

ゲ 、 ゲ ギ ギ ケ ケ ケ キ キ オ : ン イ ン ン イ j奥

f.'l 

シナ語北京音

喜宮古︑寄与な︑析の

E M

菊 各 日

仮の

r E M

rg

︑h 系

Z 1

︑ 融 一

円 ︒ r

E m u ︑ 軽の ざロ m H

Z 5

1

見︒

﹃広

な︑

儀市

︑︷

札一

銀三見︑吟三ロ時

下回

百三

事 な

u

自国

︑玄

ZE

見︑ 厳ヨ ロ同

用要素に違いありません︒そして︑琉球方

一 一日から本土方言方へ借用された可能性はまずありませんか

ら︑本土方言から琉球方言ヘ借用された︑つまりはいったものに違いありません︒それでは︑いつご

ろはいったものだろうか︒それを明らかにする方法はあるだろうか︒これからお話ししようと思いま

とで

あり

ます

すのは︑言語学的研究方法によって︑その点をかなりの程度に明らかにすることができる︑というこ

さきほどの﹁表I﹂と﹁表E﹂に示した対応関係は︑﹁木﹂という怠味の単認が例外となる点を除

琉球語源辞典の構想 21 

(23)

けば︑大体次のようであります︒

京都方

r F

首 聞い 一

75 ご一 一日

ところが︑﹁表刊﹂の漢字音の場合には︑次のような対応関係が見られます︒

京都方言下

E

o a A  

h u h  

m o

首里方言75

ι包︺︵

ζ己︵チ︶

このうち︑例の方は先ほどの音韻対応通則と矛盾しませんが︑似の方はん上く特異なものであります︒

例の方を正規の対応の通則としますと︑川の方は例外ということになります︒このような例外はどう

して生じたのだろうか︒この点が一

一 一 なんせまりなばれけき川で明説に的学川河︒

Cという三つの時代について考えますと︑まず︑これらの漢字音は︑首用方

一 目

お先ほどのA︑B︑

(24)

よびそれに近い方言の祖先である琉球誌の﹁A時代﹂にはいったものではあり得ない︑ということが︑

はっきりいえます︒その根拠は次のようです︒﹁A時代﹂ですと︑﹁表V﹂に示したように︑琉球語に

もよ一︵およびばCとぷ巾︵および

J

巾︶との区別があったのですから︑本土方一百の﹁キ﹂と﹁ギ﹂を

それぞれ

J

↑とば一で受け入れ︑同じく本土方言の﹁ケ﹂と﹁ゲ﹂をそれぞれぷ巾とば巾で受け入

れるはずですοそして︑その後︑琉球話︵首里方言等︶では﹁表V﹂のような音韻変化が起こります

から

︑﹁ 去

wu L

に挙げました漢字の琉球漢字音は︑現在次のようになっているはずであります︒

︶﹁

﹇会

﹈︵

チ﹀

F7

2r

ロ﹈

︵チ

グ﹀

R F F

﹈ハ

キ﹀

制︷

︹在

日﹈

︵キ

イ︶

︷ ﹇

F

U

︵キ

ン﹀

︶﹁

﹇仏

包﹈

︵ジ

︵ ah 

戸﹇

仏包

U﹈ ︵

ジン

︷ ︹ 包 ﹈

︿ ギ ︶

例︵

︹∞

一一

﹈︵

ギイ

︷ ﹇ 包

U

︵ギ

ン︶

制グループは実際と合いますが︑

立川

︑寄

︑析

︑系

︑聖

一 一 戸

︑軽 肝料

︑見 荘︑ 儀︑ 宜

銀︑吟

元︑玄︑厳

川グループは実際と合いません︒従って︑琉球漢字音は︑﹁A時

琉球語源辞典の構想 23 

(25)

代﹂に本土から借用されたものではあり得ないのです︒

また﹁

C

時代﹂に借用されたものでもあり得ません︒なぜなら︑この時代に借用されたのですと︑

判グループまで︑ 木土方言の﹁キ﹂﹁ギ﹂を︑︵﹁A時代﹂の

門主

﹈︵

キ﹀

﹇r

Fg

︺︵

キグ

﹇ 由 一 ﹈

︵ ギ ︶

ES

﹈ハ

ギン

J P

Jぬ

から

来た

︶﹇

FF

﹈で受け入れるはずですから︑

﹇ 由 一 ︺

主川

︑寄

︑析

菜︑儀︑冗

銀︑吟

となるわけで︑これも事実と合わないからです︒

それでは︑﹁B時代﹂に借用されたとしたらどうなるでしょうか︒

﹂の

時代

です

と︑

本土

方一

一一

両の

﹁キ

﹂﹁

ギ﹂

は当

然﹇

主︺

﹇包

﹈で

受け

入れ

ます

そしてそれらは︑のちにそれぞれ︹壬﹈宮包﹈に変化

しますから︑例グループは現在のような音になります︒

受け入れられるでしょうか︒この﹁B時代﹂ですと︑﹁表

V

﹂に示しましたように︹主︺と︹﹁よ﹈との

背韻的対立がありますが︑この両者は︑大まかに言って︑母音が同じで︑子汗すなわちkの口蓋化の

あるなしが弁別特徴ですから︑人々︵すなわち琉球諸の話し手たち︶の耳はk

の口蓋化のあるなしに非

常に鋭敏になっているはずです︒そこで︑当時の本土方言の﹁ケ﹂﹁ゲ﹂が︑現在の一部の東京方言

の話し手たちのそれのように︑

k

︑があまり口蓋化していないような発音だったら別問題ですが︑西部

とこ

ろ︑

が︑

本土

方一

一一日﹁ケ﹂﹁ゲ﹂はどの音で

(26)

方 一 一

一 一日︑とくに九州方言などのようにいろいろの口蓋化のある発立目だったらどうでしょうか︒私自身の

福岡や鹿児島の人の﹁ケ﹂のkは私のより多

﹁ケ

﹂の

kは東京方

一 一 一 一

口のそれより口茶化していますが︑

少余計口蓋化しているのを観察したことがあります︒恐らく当時の本土西部方一

一 一 円 の

﹁ケ

﹂﹁

ゲ﹂

Zもその程度に口蓋化したものだったのでしょう︒現在の九州方一

一 一一川では﹁七﹂が己巴のように発音

されますが︑十六世紀末の日本荒川の﹁セ﹂がポルトガル人には己巴のように聞こえたことが︑

がこれを

2

と書かずに月と書いたことによってわかっています︒ですから﹁ケ﹂も恐らく

p o

﹈ の

ように発音されたものに違いありません︒この﹁B時代﹂ですと︑琉球活にはもう

r w m

めがありま

せん

から

︑本

土方

一一

一日

の﹁

ケ﹂

を門

ご﹈

﹇さ﹈のどちらかでまねするよりほか方法がありませんが︑

木土の﹁ケ﹂﹁ゲ﹂の

k

gには口蓋化があったのですから︑それらは琉球の人々の耳には﹇と﹈︹包﹈と

﹁ケ﹂﹁ケイ﹂﹁ゲ﹂﹁ゲイ﹂等は当然それぞれ

﹇と

﹈﹇

乞﹈

﹇色

E

己等で受け聞こえ︑本土の漢字音の

入れられるはずで︑それらは﹁C

時代﹂になるとそれぞれロ

272

︺包

ω 口 戸

ω己等に変化し︑現在

の琉球漢字音ができあがったのだ︑と考えられます︒これを要するに︑現代の琉球漢字音は︑琉球話

の﹁B

時代

﹂に

本﹃

いし

漢字音を借用し︑現在に到るまで伝承されて成立したものに違いありません︒

さて

ついでにぜひ申しておきたいことは

︑ ﹁

A時

代﹂

︑﹁

B時

代﹂

︑﹁

C時

代﹂

というものがあった

という説は︑比︐

h

方法による史的一一一一口古川学的考察によって導き出された仮説でありまして︑﹁B

時代

0 0

0

0 0  

という相対的な年代的順序ははっきりば﹁C時代﹂に先行し︑﹁A時代﹂は﹁B

時代

に先

行す

る︑

の k  彼

琉球語源辞典の構想

25 

(27)

確 一 一 一

一 口できるわけですが︑しかし︑その各々の時代が何世紀から何世紀まで続いたとか︑何世紀は﹁B

時代﹂だなどという絶対的年代については︑確=一一日できないのが普通です︒それでこの﹁B時代﹂は実

際何世紀似だったのだろうかと考

えて

おりました︒

そう﹇ておりますうちに︑﹁B時代﹂の絶対年代を確定するための一つの手懸りがあることに気手つ

きましたυそれは﹁語音翻訳﹂という文献です︒﹁語音翻訳﹂は中叔舟撰集するところの﹃海東諸国

一四七一年︶の原本にはなかったもので︑弘治十四年︵一五

O

一年︶に至って追補され

記﹄

︵成

京二

年 ︑

た﹁琉球凶﹂の地理国情に関する一記事の末尾に付けられた琉球語の会話︑話葉の記録で︑僅か八︒へl

ジほどのもの

であ

りますけれども︑﹁単音文字﹂である朝鮮文字ハングルで琉球語が書かれているた

め︑琉球語史にとって非常に貴京な文献であるばかりでなく︑朝鮮語音韻史の研究にも貢献するとこ

ろのあるものであります︒去る九月に韓国の学術院で開かれたシンポジウムでは︑この文献を通じて

見た朝鮮語の音韻史の方に前一点を抗いてお話ししましたが︑今日は琉球訴音韻史の方に章点を置いて

お話ししますοこれはいつもあることで︑甲一言語の文字を使って乙

一 一 一 同

誌を

表記した文献は︑乙言

語の

音韻史ばかりでなく︑甲一一一口話の音韻史の研究にも役立つのが普通であります︒

2︶ 伊波普猷先生が﹃李朝実録﹄﹁燕山対日記﹂を研究された所によりますと︑琉球の使臣は弘治十四

年︵

一五

O

一年︶の正月から約三か月間滞在して非常に歓待されたこと︑その時の接待係が成希顔であ

ることがわかっています︒ところが︑それに対応する琉球側の記録が未詳のようですが︑これはさら

(28)

に研究しなければなりません︒これは︑琉球側で言うと第二尚氏の尚真王︵一阿七七年|一五二六年に在

首里

方一

一一

Hの机先︵あるいはそれに近い方三﹀

と見てた川えないと考えられます︒伊波先生のご論文は︑私も以前に拝見したことがありますが︑そ 位︶の時代であります︒そこに記録されている琉球請は︑

の時には︑記録が非常に複雑な様相を呈している︒極端にいえば︑カオスであるような印象を受けま

したので︑これはもっと精密にやって見なければならないと長年思ってきましたが︑よく研究して見

ますと︑その中に構造が見えてくるといいますか︑一見非常に複雑︑乱雑であるかのように見えます

けれども︑その中にはっきりした構造のあることが︑わかってきたのであります︒その詳しい研究は

1︶ 

﹁月

刊一

一 一円話﹄︵大修館書店︶誌上に発表しつつあり︑また別に発表する予定であり

ますが︑結論を申し

ますと︑この﹁語音翻訳﹂の代表する琉球語は︑正にこの﹁

B

時代﹂のものである︑ということであ

りますuここでその点を詳しく論証しているわけには参りませんので︑その点がはっきりわかる数例

を示しましょうυ

日本州語

JE

Jc

rz

二月

♂長巳︽酒︾

m m せ ロ

﹁ 話 音翻 訳﹂

J S

寸︹とロロ﹈

︒ずオ︹﹂己主Jn

ZE

FC

斗 斗

E

r

− ﹈

斗訪 日芯 ニ・

·~·旨'?. ~三 1~

co 白 'ー.‑ ・.7プ 戸 ・ 円 一 回' ....  ‑. ., CL..J !:!  tu :;:; 

一一一

L..J −ー

ー−

Be

iA時代

A

A

﹂ 己

品 バ

r F

AH 山内凶︸内巾

は だ

u

140

ぬ 巾

琉球語源辞典の構想 27 

(29)

一五

OO

年前後は﹁B時代﹂であったことは確認されますが︑この﹁B時代﹂がい

つごろまで続いたか︑またいつごろから﹁B時代﹂にはいっていたかを︑できれば知りたい︒それに これによ

って

は多少の手がかりがなくはありません︒その一つは︑シナ人が漢字で琉球誌を書き

しる

した

文献

で︑

﹃来夷訳語﹄所収の﹁琉球館訳語﹂︑それに続いて﹃使琉球録﹄﹃音韻字海﹄﹃中山伝伝録﹄などがあり

ます︒﹁琉球館訳語﹂の編纂年代は未詳ですが︑論証は省略しますけれども︑﹁活音翻訳﹂とほぼ同時

代の琉球部を記したものと認められます︒﹃使琉球録﹄は年代がは

っき り しています︒

嘉消十三年

︵一

五三

四年

五月に開封正使として琉球に来て百五十日滞在して帰国した陳似が同年に序文を書き︑

恐らく同十四年︵一五三

五 年

に刊行したものであります︒﹃中山伝信録﹄も成立年代がはっきりして

いま

︒康問五十八年︵一七一九年︶六月に冊封副使として琉球に来て約八か月滞在し︑翌五十九年

一一月に帰国した徐椋光が著し︑同じ年の七月に天覧に供したものであります︒

これ

らの

書物は︑﹁琉球館訳詰﹂﹃使琉球録﹄﹃音韻字海﹄﹃中山伝信録﹄の順序でで

きた

と考えられ

ますが︑後のものが先のものに依っている傾向が非常に顕著ですから︑到底それぞれの時代の琉球語

を観察記録したものとは考えられません︒﹃使琉球録﹄の著者は百五十日も琉球に滞在しているので

もっと独自の観察があってもよさそうなのに︑それが意外に少ないようです︒﹃中山伝信録﹄

すか

ら︑

の著者はかなり後世に琉球に来ているのですから︑独自の観察・記録をしてくれたならば︑琉球語史

の研究にとって大変貴重な資料となったはずですのに︑先行の三書に忠実に依っているので︑そうす

参照

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