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琉球言語史構想(その1)

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琉球言語史構想(その1)

The Shape of Ryukyuan Languages  : Structure and History (1)

高 橋 俊 三

            TAKAHASHI Toshizo −

 これから私が琉球語言語史を研究するおおざっぱな構想を述べて、自分に義務を課 することにしよう。その方針として、琉球史の時代変遷と琉球語の現在の分布とを関 連させて論ずるということにする。

Ⅰ 日本祖語

 「日本祖語」とは、日本古代語と琉球語とが分岐する以前の言語、すなわち、日本 古代語と琉球語とが基本的に同じであった言語とする。

 日本祖語以前の言語については、アイヌ語系説(注1)、アルタイ系(朝鮮語系)

説、オーストロネシア系説、これらの混合説などがあるが、定説を見るにいたってい ない。北九州でこれらの言語が混交してできた言語が日本祖語で、この日本祖語が各 地に広がり、古代国家がつくられた奈良で変化してできたのが「奈良朝古代語」であ る。他方、大和王朝が熊襲・隼人を攻めた時などに、南西諸島に移住した時に持って 行った言語は「日本祖語」で、もと使われていた言語になにがしかの影響を受けつつ 覆いかぶさって出来た言語が「琉球祖語」である。

 (注1)上村幸雄は「危機言語としてのアイヌ語と琉球語(前編)」(『国文学 解釈 と鑑賞』2010年1月号)に次のような新しい考えを述べている。「日本語は、

弥生時代が始まる今から二千数百年前、長い縄文時代以来日本列島のほぼ全体 に拡がっていたアイヌ・エミシ系言語に属する諸言語のうちの、おそらく北九 州で話されてきた言語と、朝鮮半島から渡来した倭人と呼ばれた人々の話して いた言語との混淆語であると見倣す。」

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 高宮広衞氏は、7〜12世紀ころを、「うるま時代」とも「弥生〜平安並行期」とも 呼んでいて、次のように述べている。

 「遺跡は海岸の砂丘地に形成されている。何故、この時代に臨海砂丘地に進出した のか、漁労にウェイトをおいたからとか、稲作と関係があるのではなど、いくつかの 考えがありますが、まだ結論は出ておりません。(中略)この時代になると、土器の 無文化が進行し、文様のない土器が流行します。九州の弥生の専門家にこの土器を見 てもらったところ、九州の弥生前期の土器によく似ているということでした。(中略)

弥生関係の資料は徐々に増加していますが、今のところ未だ、稲作農耕と結びつくよ うな資料は沖縄では発見されていません。稲作農耕は弥生文化のもっとも重要な要素 です。稲作農耕が認められないと弥生文化と呼べません。」 (「琉球王国以前の沖縄」41 頁)。

 上村幸雄はそのあたりを、「日本の古代国家が統一新羅との外交関係の悪化によっ て、遣唐使船の航路として朝鮮半島沿岸を通らずに、東シナ海を西に直行する航路と、

それを補完するための琉球列島沿いに南下して江南に至る航路とを開拓する必要のた めに南島への探索が行われたこと、そして、第二に、南島のうち、すでに早くに弥生 文化圏内に入っていた種子島、屋久島まではこの時期に律令国家の支配下にはっきり と繰り込まれたけれども、若干の弥生文化の影響が認められるものの、弥生文化圏に 入ることのなかった奄美とそれ以南の島々については、唐の衰退と遭難の相次ぐ東シ ナ海の航海の困難ゆえに、遣唐使の制度そのものが廃止されると、いったんは明らか に支配の意欲を示した古代国家の朝廷が関心を失ってしまったということである。と 述べている(上村幸雄「日本史・世界史の中の奄美」 現代のエスプリ別冊『奄美 復帰50年 』10頁)。

【日本祖語の特徴】

 日本祖語の言語資料はないので、再構成されたものである。日本祖語については、

もっぱら服部四郎が述べている。「琉球方言と本土方言との親族関係は、基礎的な方 言の活用、基礎的な名詞などが、単に類似しているというだけでなく、<音韻法則>

という比較方法の作業仮設に準拠して<対応>することが明かであることによって証

明される。さらに、音韻法則の例外の生じた原因も、ますます合理的にされていく状

態にある。(『沖縄大百科事典』)と述べている。

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 以下に服部四郎が「琉球方言と本土方言」(『沖縄学の黎明』7〜55頁 1976年)や

「日本祖語について」 (『言語』Vol. 17 1978〜1979年)などで述べている要点を抽出 する。

(1)音韻

①ハ行子音について

 琉球では、先島諸方言は言うに及ばず、沖縄島およびその以北の諸方言にも、日本 祖語の 

*

p- を保持しているものがあるから、この点では奈良朝中央方言よりも古い特 徴を持っているということになる。(中略)これには、先島諸方言の b- や、与那国島 方言の d- が日本祖語の音を保持するものであるとすれば(それらはその根拠となるで あろう)」という条件付きである。

②エ段の音韻について

 「「落ちる」 「起きる」 「木」は、奈良朝中央方言から首里方言に発達したとすると お のおの /?uci-/ /?uci-/ /cii/ となっていなければならない。しかし、実際は /?uti-/ 

/?uki-/ /kii/ となっている。それは日本祖語から次のように変化したと考えられる。

  八丈島、奈良東国   祖語              奈良中央   琉球、九州

 

*

i       

*

ui     

*

i  (乙)   

   

 i(乙)〔長短未詳〕

 

*

e       

i       

*

e  (乙)     

     

*

ai     

(乙)           e(乙)〔長短未詳〕

(2)文法

①指示代名詞について  首里方言では、

  /kuri/《これ》、  /    uri/《それ》、  /    ari/《あれ》

であるが、奈良朝中央方言では、

  /k  re/     /sore/  /kare/《あれ》

であり、現代京都方言では、

  /kore/  /sore/  /    are/《あれ》

であり、八丈島方言では、

←  →

←  →

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  /kore/  /sore/  /   ore/《あれ》

であるから、日本祖語としては、次のような体系を立てることができる。

  *ke#  *s #   *e# 

  *ka  *sa  *

このうち、/a/ を含む形式より /  / を含む形式の方が、より近いものを指したものと 考えられる。奈良朝中央方言には / / に対応する形式がないから、同方言は琉球諸 方言の祖語ではあり得ない。(「琉球先島方言には /karai/ がある」と注記されてい る。)

②未然形について

 日本祖語では、「未然形」は、そのままでも用いられたが、-mu が接尾した形式 としても用いられ、奄美方言等を除く琉球諸方言は前者を保持し、奈良朝中央方言 は後者のみを保持したということになる(「琉球方言と本土方言」35頁)。

③首里方言の /    aN/《有る》、/  uN/《居る》は [   am] [um]にさかのぼり、それに 対応する「あむ」「をむ」という形式が奈良朝中央方言にはないから、この事実を

「琉球諸方言が奈良朝以前の日本祖語から発達して来たものと考える一つの根拠と することができる。すなわち、 日本祖語ではa-《有る》、  wo-《居る》という語幹 に、-mu(恐らく推量の意味を有していた)が用いられたとするのである。

④禁止形について

 「立つな」は、奈良朝中央方言から首里方言に発達したとすると /tacina/ となっ ていなければならない。しかし、実際は /tatuna/ となっている。したがって、首 里方言は、奈良朝中央方言からではなく、日本祖語から発達したと考えなければな らない。奈良朝東国方言を参考にして、その日本祖語では、動詞終止形は *tatu で、

連体形は tato と推定する。

Ⅱ 琉球祖語

 「琉球祖語」(琉球諸方言の祖形)とは、日本祖語からが琉球列島の諸言語が分離し た言語であり、奈良朝中央語(古代日本語)とは相違する言語である。それは日本祖 語が琉球列島の言語と混淆したり、覆い被さったりしてできた言語であり、北琉球語 と南琉球語とが基本的に同じであった言語である。時代的には大和王朝成立(8世紀)

から英祖の即位の頃(13世紀)までの言語がそれにあたるであろう。

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 薩隅方言祖語と琉球祖語について、福田良輔は次のように述べている。

 「この二つ(もしくは三つ)《隼人・熊襲のこと。引用者注》の南方系種族が、弥生 文化の荷い手であり日本語の荷い手である北九州の弥生時代人の進出を拒んだ事は容 易に推察される。すでに述べた如く、弥生文化がこの地域に及んだのは、弥生文化の 末期のA・D 四・五世紀頃で、その頃より、大和の原始国家の政治力が及び始めたと 思われる。そして、これらの南方系種族の庶民が母語の南方語を捨てて日本語を常用 語とするに至ったのは、七・八世紀以後の事ではあるまいか。ここに、基層の南方語 の影響を受けた薩隅方言の祖語が成立する。(中略)少なくとも、祖語薩隅方言が成立 した時代を余り下らない時代の頃までに祖語琉球語も成立していたと思われる。」 (「九 州方言概説」『方言学講座』第四巻昭和36年)。大隅風土記に「海中之洲者隼人俗語云 必至」とあるヒシは、現在の首里方言の「フィシ」(干瀬)と同源で、基層の南方語 の影響を受けた薩隅方言の例にあたる。

 また、服部四郎は、次のように述べている。

 「現在の琉球諸方言の体系・構造を性格づける「くまそ連合国家」からの大移住と して、二つ考えている。一つは、「くまそ」が邪馬台国を滅ぼした最盛期で、三世紀 の末で、この場合には領土拡張のための征服的侵入である。いま一つは、大和連合国 家あるいは大和朝廷による「くまそ」の征服時で、四世紀の初めで、この場合には亡 命的移住である。また、この両移住が重なったことも十分ありえるが、ともかく、こ のころ移住した、日本祖語の子孫にあたる言語を話す新しい移住民によって、それ以 前に住んでいた人々が使っていた言語の多くは消されて、言語の取り換えが起こっ た。」(「邪馬台国はどこか」『学士院紀要』第42巻第2号所収)。

 考古学専門の高宮広衞は「八重山地方で最古(約3500年前)の下田原土器は、縄 文・弥生土器の影響を受けていない。その後、土器文化は姿を消し、磨製石器を中心 とする石器文化が現われている。その頃しゃこ貝で斧を作る文化が、フィリピンのあ たりから、入って来ている。およそ12世紀頃に九州の滑石製石鍋の影響を受けた外耳 土器ができている」と述べている。また、グスク土器・グスク時代のことについて、

「滑石製石鍋の影響を受けて、沖縄ではいわゆるグスク土器が生まれ、八重山では外

耳式土器が誕生します。このようにして起源の異なる先史文化でスタートした沖縄諸

島と先島諸島が、ここにきて同一系統の土器文化をもつようになり、両地方がまず文

化的に統合されます。統合の時期が現在の資料からしますと、12世紀頃であろうと関

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係者は考えています」と述べている(「琉球王国以前の沖縄」44頁)。おそらくこの滑 石製石鍋を伝来すると同時に日本祖語が八重山に相当伝来したのであろう。

[琉球祖語の特徴]

 この時代に書かれた言語資料がないので、奈良朝中央語と次項で述べる古代琉球語 をもとに、比較言語学的な方法により明らかにするわけであるが、今までの研究で具 体的に述べられたものは多くない。日本祖語をせいぜい次のようなことである。

①服部四郎によると、イ段乙類に相当する語は「i  」に、エ段乙類に相当するは「e    」   になっていた(「琉球方言と本土方言」)。

②服部四郎が「「一つ」を意味する形式についても、奈良朝中央方言の /pit  tu/ に対応   する日本祖語形

*

pit  tu を八丈方言の /teecu/、および琉球諸方言の /tiic    / の祖形と   することができないのは明かだから、日本祖語におけるもう一つの交替形

*

pit      tu か   ら来たものとせざるを得ないであろう。」(「琉球方言と本土方言」32頁)と述べて いるところの /tiici#/ が琉球祖語にあたる。

③動詞の未然形は単独で、推量・意志をあらわしていた。

Ⅲ 古代琉球語(13世紀〜16世紀)

 「古代琉球語」とは、奄美諸方言と沖縄諸方言がほぼ同質で、宮古諸方言と八重山 諸方言がほぼ同質であった頃の言語をいう。時代的には英祖即位(1260年)から薩摩 侵入(1609年)の頃までであろう。

 比嘉春潮は「一二六四(英祖五)年に久米、慶良間、伊平屋島が入貢したと「球陽」

に記されている。これらの近い島々とは私的の交通交易は、もちろんその前からあっ たであろうが、英祖がその頃、支配下の各港に対し交易を統制するようにしたことと みられる。それから三年後の一二六七年に大島など東北の諸島もまた入貢した。(中 略)東北諸島の入貢後、公館(役所)を泊村に建て、官吏を置いて諸島の異を納めさ せた。それが後の 泊御殿 である」と述べている(『新稿沖縄の歴史』67頁)。また「佐

とまりおどん

敷按司巴志は一四〇六年に武寧を倒して中山を乗っ取り、父尚思紹を中山王にした。

尚思紹は翌年、使いを中国に遣わし、武寧の死を報じた。すると成祖は礼部に命じて 香奠を賜い、思紹に詔して王の位を継がしめ、 皮  弁  冠  服 を賜うた」と述べている(『新

ひ  べん かん ふく

稿沖縄の歴史』93頁)。

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Ⅳ 古代北琉球語

 古代北琉球語は、奄美地方が沖縄の支配権に入ってから宮古・八重山(先島)地方 が沖縄の支配権に入るまでの期間のこの地方の言語をいう。これに対して、宮古・八 重山地方の言語を「古代南琉球語」という。このように分かれる遠因は、考古学で次 のように指摘されていることにある。

 「縄文・弥生文化の影響は沖縄諸島でとまり、以南の先島地方に及んでいません。他 方、宮古八重山両諸島では沖縄諸島以北と違う、南方起源の先史文化が展開していま した」(高宮広衞「琉球王国以前の沖縄」41頁)。

1.古代三山時代・英祖王統・察度王統時代の言語

 1260年英祖即位と伝わる。この頃禅鑑が極楽寺を創建したと伝わる。1264年久米・

慶良間・伊平屋が英祖に入貢し、1267年に大島その他が入貢し、泊御殿を建てたと伝 わる。1350年察度即位した。

(1)沖縄北部・中部・南部方言

 比嘉春潮は「三山時代におけるそれぞれの勢力範囲を概観すると、石川と仲泊を結 ぶ地域を境に、北はいわゆる北山、これから南、首里(浦添、西原、南風原、真和志 の各一部)を中心とする上方(ウィカタ、現在の中頭地方)と東方(アガリカタの一 部、大里、佐敷、知念、玉城)は中山で、いわゆる下方(シムカタ)が南山であった。

/離島の方はどうだったか。集落時代には本島に近接の島々は、その近接地域に付 き、伊江、与論、永良部に伊平屋は北山地域に、東方海上の島々は中山地域に、慶良 間、久米島は南山地域に連絡し、粟国、渡名喜は久米島へと密接な連携があり、北の 大島、徳之島、喜界島の一団と南の宮古及び八重山はそれぞれ一団をなしつつ、大島 の方は北山地域と、宮古と八重山は久米島と連絡があった。本島に三つの小国家が成 立する時代となっては、伊平屋、久米島、、大島と宮古、八重山の如き海をへだてた 島々は、本島の最も勢力あり交易上便利な中山と連絡をつけるようになった。」と述べ ている(『新稿沖縄の歴史』85頁)。

 これが遠因となって、今帰仁を中心とした沖縄北部方言、首里・那覇を中心とした 沖縄中部方言、糸満市大里を中心とした南部方言が成立したと考えられる。ただし、

この時代に書かれた言語資料がないので、具体的な言語特徴は今日の方言の比較に

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よって推察する必要がある。

2.第一尚氏時代・第二尚氏前期の

 1406年に第一尚氏王統が始まり、1416年に北山を併合し、1429年に南山を併合して 三山を統一した。これにより、沖縄地方の言語がまとまり始めた。

 1537年に大島に遠征し凱旋し、1466年喜界島に遠征し凱旋した。これにより、奄美 地方の言語が沖縄地方の言語の影響を受け、薩南地方の言語と差異が生じて、沖縄・

奄美地方の言語がまとまり始めた。

 琉球史専攻の仲地は、この頃のことを「十五、六世紀は、琉球王国にとって不羈独 立の時代でした。他の掣肘を受けることなく、王国を維持経営していましたので、独 立自尊の気概がありました。王都としての首里の建設、十指に余る寺の建立、浮島で あった那覇と首里を結ぶ長虹堤の建設など、大規模な土木工事が相次いで行なわれま した。(中略)中継貿易によって財政が豊かになり、琉球王国の権力もそれなりに強く なって、琉球列島の各地から人夫を動員して大規模な工事を行なうことが可能になっ たと考えることができます」とのべている(「琉球の歴史と民衆」57頁)。また、比嘉 春潮は「十六世紀の二十年代尚真が按司たちを首里に集居せしめた時、沖縄本島とそ の属島のこれら支配階級は悉く首里に移居し、間切・島には被支配階級の百姓のみが 残った(中略)。また、尚真は信仰方面からも全島を統一し統治を強化する政策をとっ た。また、根神・のろ・きみ・大あもしられなどの宗教を司る神女にも階層を設けた」

と述べている(『新稿沖縄の歴史』249頁)。

 これらが遠因となり、北琉球方言ができた。

 1522年与那国の鬼虎の乱を平定する。八重山の内でもっとも遅い。これが、与那国 方言が首里方言などともっとも相違している遠因であろう。

 このごろは北琉球語と南琉球語とに大きな差異が生じたであろう。なお、宮古の人

が貢ぎ物をもって1500年頃沖縄に来たとき、言葉が通じなかった。それで、首里語の

習得のため5年滞在したという。南琉球のこの時代の記録はないので、その実体は不

明であるが、おそらく南琉球語は前代とあまり変化がなく、北琉球方言が大いに変

わったために差が生じたものと考えられる。

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(1)古代琉球語の資料

 古代琉球語の資料は、古代北琉球語の資料のみで、古代南琉球語の資料はない。

①「語音翻訳」(1501年、成希願著)……『海東諸国紀』(1471年申叔舟著)の末尾に 付録として付け加えられたもので、会話数例と単語約150例が記載されている。

よって、古代琉球語の口語の資料ということになる。特徴は表音文字のハングル

(諺文)で書かれているので、音価の推定が容易である点と、資料が非常に古い点 とで貴重な資料である。服部四郎氏は「その音素文字ハングルによる琉球語表記を 見ると、所々に見掛けられる明らかな誤記と、次に述べる一点を除いては、おおむ ね正確かつ精密である。従ってこの文献は、琉球首里方言の歴史、とくに音韻史の 研究にとってきわめて貴重なものである…」と述べておられる(「『語音翻訳』を通 して見た一五世紀末の朝鮮語の発音」)。

②金石碑文……16世紀の碑文は平仮名と若干の漢字で書かれている。現存するもので はタマウドゥン(玉陵)の敷地内にある石碑「たまおどんの碑」 (1501年)から「本 覚山碑文」(1624年)などがある。しかし、多くは第二次大戦のおり破壊され消失 している。

③『琉球国碑文記』……琉球国内の各地にある金石文を数回にわたり編集したもので、

第1回は、18世紀初期首里王府が編集したと思われるが、はっきりしたことは不明 である。これにより、第二次大戦で破壊され消失した金石文の内容を知ることがで きる。その内、おおよそ1530年までの碑文は仮名と若干の漢字で書かれたものが多 い。

④『おもろさうし』(1531〜1623年)……沖縄で最も古い祭式歌謡集で、22巻、1554 首よりなっている。ほとんど平仮名で書かれいる。1709年11月に原本は焼失して、

翌年7月再編された。そのさい、「尚家本」と「安仁屋本」の2本が作成され、後

者には注とくぎり点が付された。なお、前者には若干の錯簡と欠落がある。また後

者は第二次大戦の時、焼失したが、その前に筆写されたものや、校合されたものが

ある。採録されたオモロは沖縄地方のものが大部分で、奄美地方のものも少しあ

る。先島地方のことも謡われているが、現地で謡われたオモロはない。『おもろさ

うし』に書かれた言語の地域差は非常に少ないようで、具体的には疑問の残る数例

しか指摘されていない。また、巻により編集年代も違うのであるが、その言語の質

的な差もみあたらないようである。なお、ここに書かれた言語が、その当時の口頭

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言語と同じとすることは出来ないであろう。「祭式歌謡共通語」といったものがあっ たのかも知れない。ともかく、その性格からして、記録された時よりも以前の言語 を反映していると考えられる。

⑤『使琉球録』(1534年)……中国の陳侃が尚清王の冊封正使として琉球に渡来した 時の復命書。末尾に「夷語」という項目を設け、琉球語約384語を、意味分類によ り、漢字で琉球語を記録している。その他『琉球館訳語』(年代不詳)などの中国 語資料もある。

⑥辞令書……上江洲敏夫は「辞令書の古文書学的考察」(『 沖縄文化財調査報告書第 十八集  辞令書等古文書調査報告書』)で、「辞令書は嘉靖年間から同治年間に至 るまで発給されており、確認されるだけで沖縄諸島七十三通、奄美諸島十一通が現 存しており、三十二点の逸存辞令書も確認される。時代によりその内容形式に変化 が見られる。文体的には嘉靖・隆慶・万暦年間(1523〜1612年引用者注)が仮名文 体、天啓・崇禎・順治年間(1625〜1660引用者注)が仮名交じり文体、康煕年間か ら同治年間(1671〜1874年)に至るまでは漢文体という三度の変遷をたどる。」と 述べている。

(2)文章・文体

 琉球の文体は、次のおおよそ次のように分類できる。①仮名がきの琉文。「やらさ もりくすくの碑 おもての文」のように、ほとんど仮名で方言(まれに候文もまじる)

をうつした文。②仮名漢字まじりの琉文。組踊の台詞のように、仮名と漢字をまじ え、平安時代の仮名遣いで方言を書いた文。読むときには方言音で読む。③候文(尺 牘体)。④擬古文・和漢混淆文。⑤漢文。

 仮名がき琉文の最初のものは「崇元寺下馬碑」(1527年)で、最後のものは「本覚 山碑文」(1624年)であり、この期の特徴的な文体である。

 1624年頃までの辞令書は①の文体が主である。また、1624年頃までの碑文は、仮名 がきの琉文と漢文が併用されている。碑の表が仮名がきの琉文で、裏が漢文というも のもある。

 辞令書を集めた「田名文書」は、①慶長の役以前の平仮名を主とした和文(まれに

方言まじり)のもの、②漢字を主とした和文のもの、③尚貞王以降の漢文で書かれた

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ものに分けられる。地名は万葉仮名に近い表記をしている。

 東恩納寛惇は「碑文の文の特徴」で次のように述べている。

 おもろ体の仮字文は、今日残つてゐる所では尚真尚清頃から、新しい所では、

尚豊代の山川玉御殿に建てられた本覚山碑あたりまでである。尤もこの本覚山碑 は、内容から云ふと、浦添城碑や金城の玉陵碑に倣つたものであるから、厳格な 意味から云ふと、尚寧あたりが終りであるとも云へる。短詩形のおもろが、三十 文字詩形に改作されたのも尚寧頃であるとすると、おもろの通用期もまづこの辺 が終りで、従つておもろ体は真清二代を中心とした沖縄文化全盛期に行はれたも ので、この時期をおもろ時代と唱へてもよささうである。この文体は、いまとな つては、おもろの面影を伝へた珍しいものとなつてゐるが、その当時としては、

誰にもわかる常用文体であること、後世の尺牘体同様のものであつたとすると、

今更ながらその時代の独自の文化の匂に襟を正さざるを得ない。(中略)以上の事 情から考へて、仮字文は、前のおもろ体も、後の尺牘体も共に、汎く告知する意 味から、書かれたものであるに反し、漢文は碑文としての体裁上から記されたも ので、従つて文章に重点を置き、撰文者の名を必ずいれてあり、又撰文者が(中 略)特命を受けて撰文した意味も表示されてゐる事が注意される。(中略)即ち 芸文の中心は第一期は五山系統の学僧、第二期は久米村官生、第三期は首里学士 であつたと云へる。(『東恩納寛惇全集』5-180頁)

(3)文字

 生産活動に余裕ができ、グスクが各地に作られ、上層部においては仮名や漢字を必

要とする程度に文化が発展した。13世紀の中頃、僧禅鑑が渡来して浦添に極楽寺を建

てたのが仏教渡来の初めである。14世紀の中頃、日本から頼重法印が来て波之上に護

国寺を開き、1450年に京都南禅寺の僧芥隠が渡来した。尚泰久は芥隠の教えを受け

て、広厳寺など多くの寺や巨鐘を鋳造した。仮名や漢字が上層部に定着したのはこの

頃である。庶民は、明治の教育制度が敷かれるまで、仮名や漢字文字の使用は禁止さ

れていた。ただ、地域によってことなる、簡単な数字や物をあらわす、絵文字や後に

スーチューマ・カイーダ字などと言われる特殊な文字はこの頃でも用いたかと考えら

れる。(ただし、現在残されているものは、中国の福建あたりの庶民の文字をまねたも

のらしく、時代的には近世琉球語の時代のものと考えられる。)

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 『球陽』によると、13世紀後期に渡来した禅鑑が、最初の仏僧である。沖縄に仏教 を中心とした高度の文字文化が伝来したのは、これよりそう遠く離れていないであろ う。「たまおどんの碑」などの16世紀初期の碑文、「田名家辞令文書」(最も古い物は 1523年)、『おもろさうし』などは、主として平仮名で音写的に書いている。それ以後

は、漢字仮名混じりの和文や漢文が主流となった。

 『おもろさうし』は、基本的には、平仮名で表音的仮名遣いをして、音声を忠実に うつそうとしている。本土でない音は工夫して表記している。例えば、「ちへ・ちゑ」

で c  をうつしている。ただし、「を」と「お」などは正確に表記していない。オモロ 歌 謡 の 部 分 で の 漢 字 は、中・御・物・天・下・月・時・大・世・白・二・三・四・

五・六・七・八・十・拾・百・内・花・玉・城・事・小・入・首 里・国・浦・地・

人・君・年・此・道などである。

(4)音韻

①母音の変化

 オ段の仮名とウ段の仮名は、 「内」を「うち」とも「おち」とも表記したり、 「肝」

を「きも」とも「きむ」とも表記したりしている。このように混用した例が約150 語ある。したがって、多くの語において、oはuに変わっていた。しかし、区別さ れている例も多いので、完全には変化していなかったと考えられる。

 エ段の仮名とイ段の仮名の内、ア行・ハ行・ワ行は、「声」を「こゑ」・「こへ」・

「こい」などと表記したりして、混用している。また、「たとゑちへ(譬えて)」の ように、「ゑ」のあとの「て」が「ちへ」と口蓋化しているので、eはiになって いたと考えられる(口蓋化の項参照)。その他の行では、まれに混用した例もある が、基本的に正しく書き分けているので、eはiになる途中の のような音であっ たと考えられる。

 ス・ツ・ズ・ヅにあたる仮名は、「濯ぎ」を「よせぎ」とも「よすぎ」とも表記 したりしている。したがって、これらの母音も であったと考えられる。こういっ た母音の状況は今日の奄美方言に近い。

 連母音、特に au,ai は、「かちや」(蚊帳)のように、後の母音が脱落する傾向

がある。連母音 au や ao が o  に、  ai や ae が e     にまだ変化していない。  

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−13−

②子音の口蓋化

 「みきや」(三日)、「あしぢや」(足駄)、「やりぢよ」(遣り戸)などのように、子 音の前のi母音の影響で口蓋化する現象はある。しかし、キ・ギがチ・ジになる現 象は見あたらない。

(5)文法

①動詞の終止形

 動詞の終止形はすべて連体形と同じ形になっている。ただし、ラ行変格動詞の終 止形は、「あり」と「ある」の両方がある。終止形に「−む」が付いて、婉曲な推量 をあらわしている例が若干みられる。

  〇のちかほう するむ(《来年になったら》命の果報をするだろう)<521番オ モロ>

 首里方言の終止形は、すべてにこの「む」が変化した「−

N

」が付いていて、『お もろさうし』の時代の終止形は消滅している。

②動詞のラ行四段活用化

 上一段動詞・下一段動詞はラ行四段活用化している。ただし、連用形が一段動詞 の形(語末に「−り」が付いていない形)を残している例もある。下二段動詞は、未 然形に古い形を残している例もあり、連用形は「−り」が付いていないので、ラ行四 段活用化が完成する直前である。上二段動詞に対応する語としては「おれる」(降 りる)、「みちへる」(満ちる)などがある。しかし、これらは、語幹末が「れ」「ち へ」 「で」などエ段の仮名で書かれていて、下二段に活用していたと考えられる。こ れらと類似の現象が九州の一部の方言にみられる。

③係り結び

 強意の係助詞には「ど(る)」と「す(しゆ)」があり、「ど(ろ)」は文末を連体 形で結び、「す(しゆ)」は已然形で結ぶ。

  〇きみ みちへす なよれ(神女を見てこそ踊る)<964番オモロ>

この「す(しゆ)」は、首里方言などではすたれている。疑問の係助詞には「が(ぎ や)」がある。この助詞「が」が文末にきて、終助詞になっている例もある。

 また、強意の係助詞とも、語勢を整える副助詞とも、格助詞ともいわれる「い」

がある。

(14)

−14−

〇おとたるい きもからど しひ つく(オトダルは心から霊力がつく)<992 番オモロ>

これは、『万葉集』や訓点資料にみられ、大分県の一部などに残っている。

④アスペクト

 「動詞連用形+居る」で継続相(進行態)をあらわしている。「をる」は「よる」

に変化し、ラ行四段動詞、ラ行変格動詞、および「おわる」に接続するばあい、連 用形の語尾の「−り」や「−ひ」が脱落することが多い。

  〇あまへ ほこよる きよらや(喜び誇っているさまが美しい)

<539番オモロ> 

継続相の尊敬表現は、多くは「連用形+て+ちよわる」で、まれに「連用形+やり

+ちよわる」であらわしている。

⑤動詞の接続形

 動詞の接続形の特徴は、本土と同様の音便を経て形づくられている。

 「連用形+て」(接続形・中止形)を例にして述べる。(「−ちへ」と「−ちゑ」は同 音なので、「−ちゑ」に統一する)。下二段動詞は「−て」が口蓋化していない。それ に対して、上一段動詞とカ変動詞は「−ちゑ」と口蓋化している(サ変動詞は「し て」の口蓋化していない古い形と併存している)。後者は、 「−て」の前にiがあるの で口蓋化したのである。

 ハ行・バ行・マ行・ラ行の四段動詞(「入る」、「言う」を除く)とラ行変格動詞 は、口蓋化していない。カ行・ガ行・サ行の四段動詞は口蓋化している。前者はウ 音便、撥音便、促音便などが生じてiがなくなったので口蓋化していないのに対し、

後者はイ音便が生じてもiが残るので、その影響で口蓋化したと考えられる。

 音便によって生じたイ・ウ・撥音・促音は、2音節のハ行四段動詞の「会うて」、

「酔うて」を除いて、脱落している。「言う」のばあい特異で、ウ音便化した「い うて」の「う」が脱落して「いて」となり、「い」の影響で「−て」が口蓋化して

「いちゑ」となっている。

 タ行四段動詞「立つ」は、音便化していない「たちちゑ」と、音便化した「たち

ゑ」の2つが併存している。また、2音節のラ行四段動詞で語幹末がiである「入

る」は音便化していない。(なお、サ行四段動詞は、本土の中央部では中世にイ音

便が生じていたが、ある段階でもとの形にもどった。ただ、一部の大分方言などで

(15)

−15−

は、イ音便が残っている。)

⑥「動詞連用形+やり」

 「動詞連用形+やり」(第三中止形)で文を中止する用法が相当例ある。「−やり」

は、 「−有り」の変化したもので、ラ行変格活用したものであるが、 『おもろさうし』で は、連用形の例しかない。この意味・用法は、「動詞連用形+て」(第二中止形)と 似ている。成り立ちは、本土古語の完了の助動詞「り」や「つ」と共通する点が多 い。

⑦形容詞の活用

 ク活用、シク活用ともに語幹の独立性が強く、「なだかこしらい」(名高いコシラ イ)などのように、直接体言を修飾した例がある。連用形の「−く」はよく使われて いるが、他の活用形はほとんど使われていない。それに対して、「形容詞語幹+さ」

の形がよく発達している。シク活用のばあいは、「めづらしや」(珍しさ)などのよ うに、語尾のシサがシャと音韻変化している。この形は、述語となって文を終止す る用法のほか、「有り」と一緒になって、助動詞に続いたり、係助詞に呼応して文 を終止したり、命令文を作ったりする用法がある。首里方言のように「形容詞語幹

+サ」と「有り」が融合した例はみあたらない。

⑧敬語法

 尊敬動詞には「おわる」(居る・来る・行くの敬語)、「ちよわる」(「来おわる」

の変化した形で、居る・来る・行くの敬語)、「めしよわる」(する・着る・乗る・

飲むなどの敬語)、「たぼる」(与えるの敬語)などがある。「おわる」の変化した

「よわる・わる」は、他の動詞の連用形に接続して多用されている。謙譲動詞に

「おやす」(奉る)、「みおやす」(奉る)、「たてまつる」(奉る)、「しられる」(申し 上げる)、「ぬきあげる」(捧げる)、「さしあげる」(差し上げる)、「ささげる」(捧 げる)、「たてまつる」(奉る)などがある。丁寧をあらわす接尾辞に「やべる」(…

です・ます)がある。

⑨代名詞・助動詞・助詞など

 『おもろさうし』では使われているが、今日の首里の日常会話では使われていな い、代名詞・助動詞・助詞には、①一人称代名詞の「あ」、②二人称代名詞の「お」、

③打ち消しをあらわす「ず」、④願望をあらわす「まし」、⑤意志推量をあらわす

「ん(む)」、⑥完了をあらわす「つ」、⑦過去をあらわす「き」、⑧打ち消し推量を

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あらわす「まじ」、⑨到達点をあらわす「がめ・ぎやめ」と「ぎやで」、⑩打ち消し の中止法の「未然形+だな・な」などがある。

(6)語彙

 資料が少なくはっきりしないが、この頃はすでに相当の数の漢語が用いられていた と考えられる。『おもろさうし』(詞書きの部分も含む)では「かくご」(格護)、「か ほう」(果報)、「ごんげん」(権現)など40語ぐらい使っている。

 造語法の特徴的なものは次のようなものである。

①擬声語に、接尾辞「めく」が付いて動詞を作る。

  〇さらめく(さらさらと風が吹く)

②形容詞の語幹に「がる」が付いて動詞を作る例があります。

  〇めづらがる(「愛する」の意)

③形容詞の語幹が名詞に付いて尊敬の意を表わす接尾敬称辞となる例がありまする。

  〇天がなし(天の尊称)

④動詞の連用形+「きよら」で、「〜して美しい」という意の複合語を作る。

  〇なりきよら(鳴って美しい。鼓の美称)

⑤  「思い」が「よもい」「もい」と音変化して、接尾敬称辞となっている。

  〇ひやりよもい(ヒヤリ様)

⑥尊敬の接尾敬称辞に「にしや」「にせ」「し」「しゆ」「はゑ」「まへ」「御まへ」があ ります。

  〇てたがまへ(太陽の御方、王のこと)  〇あめくし(天久の御方)

⑦名詞に接尾語「や」が付いて「…するもの」という意を表わしたり、親しみを表わ したりします。

  〇あらむぎや(新麦)  〇はぎや(接ぎや。船大工)

⑧指小の接尾辞「がま」が存在しています。

  〇やふそころかま(屋富祖《地名》の男) 〇はねうちかま(羽撃ち《船名》)

Ⅴ 古代南琉球語

 1500年までは、先島は各地に豪族がいて、言語もそれぞれに少しずつ相違していて、

宮古諸方言の特徴対八重山諸方言の特徴というように対峙する状態ではなかったであ

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ろう。この頃の先島の言語を古代南琉球語という。

 「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑」に「然而言語不通、由是留置泊村共計三年。已及 言語相通、自泊村至王城」とある。宮古の人は沖縄の人と言語が通じず、泊村に三年 滞在して、沖縄の言葉を修得したようである。

 昭和29(1954)年に波照間島の下田原貝塚(竹富町)の発掘調査を行った金関丈夫 は、形質人類学その他の研究成果から次のような推定をした(『民族学研究』第19巻 第2号)。先史時代メラネシア文化(漁労と組み立て式造船技術を伴う農耕文化)に 接触したインドネシア人が数回北上し、縄文式文化に接した。明初(14世紀の中頃)、

西表島から波照間島・石垣島・竹富島などへ分出した。その方言は、琉球語とは異なっ た系統の言語であったが、大和文化の南漸(大きな民族の移動はなく)により、日本 語圏に入った。

 金関説にたいして、宮良当壮や服部四郎らの言語学者の反論がだされ、琉球の文化 と人の起源をめぐっていわゆる「起源論争」が行われた。この論争のあと、高宮は「(先 島では)下田原式土器(約3500年前)のあと、土器文化は姿を消し、摩製石器を中心 とする石器文化が生まれます。また、この無土器文化の時代にシャコ貝で斧を作る文 化が先島地方に入ってきます。貝斧文化と呼んでいます」と述べ(高宮43頁)、さら に最近では、安里進が「現在の先島諸島の考古学は、基本的には金関説を裏づけるも のとなっている。先島先史時代前期には南方系の石器(局部磨製石斧)と 把  手  付 土器

とっ  て  つき

(下田原式土器)に特徴づけられる文化が展開し、後期(2500年前〜900年前)には 無土器・石蒸し調理・シャコガイ製貝斧に特徴づけられる文化が、先島諸島に展開し ていたことがあきらかにされている。」と述べている。<『沖縄県の歴史』29頁>

 1500年に首里王府の軍と宮古の軍が赤蜂の乱(八重山)を討伐した。この功により、

仲宗根豊見親は宮古の頭職に任ぜられ、従軍した長男の金盛豊見親は八重山の頭職と なった。1522年には仲宗根豊見親が与那国の鬼虎を討った。仲宗根豊見親の妻の宇津 免嘉もこのころ大阿母に任命された。この二つの戦いにより八重山は独立性を失い、

首里王府の影響を強く受けるようになった。1543年竹富にあった蔵元を石垣に移し

た。以後八重山は石垣四箇を中心に発展していく。これらのことが遠因になって、宮

古諸方言と八重山諸方言が別々の変化を始め、次第に分離していったと考えられる。

(18)

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古代南琉球語の特徴

 『おもろさうし』には八重山地方の地名は出てくるが、先島で造られたオモロは見あ たらない。このように先島の言語資料がないので、古代南琉球語の特徴は比較言語学 的方法で考えることにする。すなわち、今日の宮古・八重山・沖縄の方言を比較し、

八重山方言と宮古方言とが似た言語事象で、沖縄方言とは大いに相違している点が古 代南琉球語の特徴といえるであろう。それは次のようなものである。

 (注)  yは前舌母音をあらわす。

① i 母音が舌先の母音( i

   )に変化する傾向がある。なお、多良間・黒島・鳩間・竹 富・西表島祖納・星立・船浮・網取・与那国などでは i である。沖縄諸島では、全 地域で i である。

  石垣・宮古方言:チゥキゥ〔c i

   k i

  〕<月>。ミジゥ〔miz i

  〕<水>

  与那国方言:ッティ〔t   i〕<月>。ミン〔mi

N

〕<水>

  沖縄方言:チチ〔  i    i〕<月>。ミジ〔mid    i〕<水>  

②母音・半母音の前の声門破裂音     が音韻的でない。沖縄諸島では音韻的であり、そ の有無が意味の弁別に関係する。

  石垣・宮古方言:ウトゥ〔   utu〕・ヲゥトゥ〔utu〕<ともに音の意>

  沖縄方言:ウトゥ〔   utu〕<音>。   utu〔ヲゥトゥ〕<夫>。

③ワ行子音が b に対応する。沖縄諸島では w に対応する。

  八重山・宮古方言:バガムン〔bagamu

N

〕<若者>。

       ブトゥ〔butu〕<夫。「をひと」の転>

④クが fu、あるいは hu に対応する(与那国は例外がある)。沖縄諸島では k あるい は k  に対応する。

  石垣・宮古方言:フチゥ〔huc i

  〕<口>。

⑤ハ行子音が一般に p であるなかで、与那国は除く、フだけは fu 〜 u である。今帰   仁方言などはフも p  である。

  石垣・宮古方言:プニ〔puni〕<骨>、フニ〔  uni〕<船>。  

  与那国方言:プニ〔puni〕<骨>、ンニ〔

N

ni〕<船>。

⑥接続形(「〜して」の意を表す形)が「連用形+して」の変化した形である。沖縄 諸島では「連用形+て」(あるいはその音便化した形)である。

  石垣・宮古方言:ユミッティー〔jumitti  〕<読んで。「読みして」に対応>  

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  与那国方言:ドゥミティ〔dumiti〕

  沖縄方言:ユディ〔judi〕<読んで。「読みて」の音便形>

⑦動詞の連体形が本土の連体形に対応している。そのまま対応しているのか、音韻変 化の結果対応しているのかは説が別れる。沖縄諸島では「書き居る」に当たる新し い連体形も生じている。

⑧「継続」を表す形が「連用形+居り」に対応する形である。沖縄諸島では「連用形

+て(は)+居り」に対応する形である。

  沖縄方言:ユドーン〔judo 

N

  〕<読んでいる>。カチョーン〔ka  o   

N

  〕<書いて いる>。

  石垣方言:ユミン〔jumi

N

〕<読んでいる>。カキン〔kaki

N

〕<書いている>。

⑨形容詞の語幹を taka  taka <高い>のように重ねて、強調する表現方法がある。  

(その際、初めの語幹の末尾母音が変化する。)八重山では石垣と新城では確認され ているがその他の地点は未確認

⑩「いらっしゃる」の意味の語が、「おわる」単独、あるいはそれを含む構成である。

八重山諸島のオールン〔o  ru  

N

〕や 与那国のワルン〔waru

N

〕は「おわる」単独で あり、沖縄諸島のッモールン〔   mo  ru  

N

〕やッモールン〔   mo  i

N

  〕などは「いみ

+おわる」などの構成である。なお、『おもろさうし』には「おわる」が頻繁にで てくる。

⑪丁寧語「…ます。…です」にあたる語がない。沖縄諸島では、−アビーン〔-abi 

N

  〕 が活用語の連用形に融合して用いられる。例えば、首里方言ではカチャビーン  〔ka  abi   

N

  〕<書きます>。

⑫人代名詞「な」(あなたの意)系の語がない。沖縄諸島(伊平屋・伊是名は除く)

では使われている。

⑬主格助詞の ガ〔ga〕と、主題を表す助詞 ワ〔wa〕の併用や融合がない。沖縄諸島 では ガー〔ga  〕である。これは ガワ〔gawa〕の変化したものである。  

⑭動作・作用の対象を表す助詞(共通語の「を」)の バ〔ba〕や、ユ〔ju〕がある。

沖縄諸島(今帰仁は除く)では使われていない。

⑮「…するので」のような理由の意味を「動詞の仮定形+バ」で表し、沖縄では「準 連体形+ kutu・hutu・  tu」で表す。

  石垣方言:ユミバ〔jumiba〕<読めば>

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⑯「あそこ」が カマ系である。沖縄方言では アマ系である。

⑰「男」の語尾がドゥム系である。沖縄方言ではガ系である。

⑱「卵」がトゥヌカ系が主である。八重山の離島にはカイ系が分布している。沖縄諸 島ではクガ系である。

⑲「米」が マイ系である。沖縄方言では クミ系である。

⑳「美しい」が カーギ系である。沖縄諸島は チュラ系である。

Ⅵ 近世琉球語(沖縄諸方言)

 近世琉球語とは、1609年の島津侵攻から廃藩置県までの言語をいう。言いかえる と、北琉球語が奄美諸方言と沖縄諸方言に分岐し、南琉球語が宮古諸方言と八重山諸 方言に分岐したが、そのすべての言語をいう。

 琉球は島津氏の軍勢によって侵略され、与論以北が薩摩藩の直接支配下にはいっ た。それによって、鹿児島・江戸からの日本文化の移入が盛んになった。他方で、中 国皇帝とも臣従関係を結ぶとともに、異国的な形を保持して、冊封貿易を続けた。そ れによって中国思想の移入も盛んになった。

1.僧侶による漢文学の隆盛

 前代から、僧侶の勢力が相当にあった。この僧侶は京都の五山派で、特に南禅寺派 のものが多かつた。日本本土に対する往復文書は僧侶の手になつたものが多かった。

しかし、薩摩侵入後はしだいに、僧侶の政治への参加は衰えたが、如竹が琉球にきて 漢文が次第に盛んになり、訓読法として文之点が尊重されるようになった。比嘉春潮 は「如竹が尚豊に招かれた時、琉球には文之の友人天叟が円覚寺にまた文之の同統景 叔・春蘆らもあって、桂菴の学風がすでに行われていた。如竹は尚豊に師事し、世子 尚賢の侍読となり、三年にわたり滞在し、士の子弟に学を講じた。如竹は学の博きを 求めず、心を詩賦に用いず、四書に精通して実行を重じ、ために薩摩の学風一変した と称されたが、琉球においてもまた同様であった。(中略)後世で儒を学ぶ者、みな 如竹の影響を受けたというべきであろう」と述べている(『比嘉春潮全集』第二巻50頁)。

2.和文の隆盛と衰退

 識名親方盛命の「思出草」、平敷屋朝敏の「苔の下」、友寄惣慶一派の「浮縄雅文

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集」、「阿嘉直識遺言書」などは和文(擬古文)で書かれた。

 和文の隆盛について、比嘉春潮は次のように述べている。

 羽地按司が国直しの政治を行い敗戦後の人心作興を策し、新時代に対応するた めに、やまと学問やまと芸能を奨励し、王号をすら停止して国司と号し、慶長の 轍を踏むまいために、仮字文の歴史を作り、殷鑑不遠の意味から世鑑と命名した ほどで、その時から地名人名の唱えの上にも和様が目立って来た。

 琉球における最初の歴史編纂である『中山世鑑』(1650年)は候文で書かれて いる。

 平敷朝敏は『若草物語』・『苔の下』・『貧家記』などの平安朝文学を思わせるよ うな和文を書いた。幕府向の書式は先例通り和様でなかればならぬと云う事にな り、豊川惣慶等が薩摩の祐筆日高治左衛門為一に就いて曽我流の書式を稽古し、

「うるま」の雅名等もこの一派の人々によって、又々盛に使用され、口説などの 七五調今様も現れるようになった。和歌の上句を琉歌の下句で受ける仲風なども この前後から盛行し、従って地名人名の唱えにも、和様が又々多くなった。<『比 嘉春潮全集』第三巻 139〜146頁>。

 和文の衰退について真境名安興は次のように述べている。

 平敷屋事件の真相を解決するは文献の徴す可きものが少ない。(中略)日本思想 と支那思想の衝突にはあらざるやと思ふ。すなわち国学者と漢学者の反目嫉視が 政権争奪を賭して一大破裂を来したのではあるまいか。(中略)当時の為政の局に 当たりし蔡温一派の漢学者は万事支那思想を鼓吹して漢文学勃興を促し、羽地按 司向象賢が撰みし中山世鑑を漢訳して中山世譜となし、琉球旧記、球陽その他碑 文の類に至るまで皆漢文にて記すやうになった(蔡温以前は主に国文であったこ とは今日残れる古碑文を見ても知らるる)。(中略)平敷屋処刑後の我が国文学の 趨勢はにわかに一頓挫を来して下り坂となった現象である。(『真境名安興全集』

第四巻303頁)。

3.漢文の復興と和文(候文)の盛行

 漢文は一時衰えて、表・奏・咨の作成にも差し支えるようになっていた。それで、

正徳・享保の頃、漢文組立方の役職を新たに置いて、漢様の書式を奨励した。そして、

『蔡鐸本中山世譜』(1697〜1701年)、『蔡温鐸本中山世譜』(1697〜1701年)、『球陽』

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(1743〜1876年)は漢文で書かれている。また、『小学』『古文真宝』『四書』『四書集 註』などが琉球で刊行された。

 沖縄に学校ができて、学問が盛んになった。比嘉春潮は「沖縄に学校というものが できたのは十八世紀のことである。それまでは寺や久米村の学者に数人または一人で 通い、あるいは大名・富者の邸に集まって師を招き、また家庭で父兄または師の教え を受けが、一七一八年(尚敬六年)に久米村に「明倫堂」ができ、一七九八年(尚温 4年)に首里に「国学」ができた。いずれも最上級の学校がまずできたわけであった。

機運が熟していたと見えて、間もなく首里には 平  等 学校に村学校、那覇・泊の都市に

ヒ  ラ

村学校、また宮古・八重山にも学校ができ、それから間切り・島の農村にも地方役人 養成の筆算稽古所ができた。/学校の課目は一般的には読書・習字・算勘の三つで、

首里の平等学校、那覇・泊の村学校の上級には案文が加えられた。村学校の下級では、

読書は「三字経」・「二十四考」・「小学」の素読。この三字経は、他藩で時に使う「本 朝三字経」でなく、二十四考・小学とともに中国伝来のもの(ただし訓点本)であっ た。村学校の上級と平等学校では「四書」に進んだが、これは大体「四書集註」の訓 点本を使った。久米村には読書学校という下級学校があり、明倫堂では官話のため

「二字話」から「五字話」その他のテキストが併用された。要するに読書は経書訓読 により、同時に和文を学習するようになっていた。/案文はいわゆる作文のことで、

まず、「万書附」・「文言集」などの読解を教わり、これに倣って候文で論文や書翰文 を起草することで、これは 科 (文官登用試験)の準備であった。国学や明倫堂につい

こう

ては略するが、要するに官生や役人の養成所であった」と述べている(『比嘉春潮全集』

第二巻49頁)。

 組踊・琉歌などの球文で書かれたものや、『遺老説伝』などの漢文で書かれてもの などが出た。

4.琉球語の韻文(組踊・琉歌)の盛行

 琉歌の成立については、オモロを母体とする説と古くからあった歌謡を源流とする 説がある。成立時期は尚真王時代と推定されているが、はっきりしない。『屋嘉比工 工四』や『琉歌百控』などの琉歌集が書かれたのは18世紀である。

 組踊は、玉城朝薫が1719年の冊封使歓待の宴の芸能として創作した。朝薫は「二童

敵討」 「執心鐘入」 「銘苅子」 「女物狂」 「孝行の巻」などを、平敷屋朝敏が「手水の縁」

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を、田里朝直が「義臣物語」「万歳敵討」「大城崩」などを作成した。その後も次々と 作られて、現在は約50ばかりがある。

5.近世琉球語の資料 

①『仲里旧記』(1703年頃)……首里王府は旧記座(役所名)を設け、各間切(行政 区画名、現行の村にほぼあたる)、各島の番所に、その地方の城・嶽・祭式・物事 の由来などを報告させた。これは仲里間切から報告したものである。神女の名や クェーナ(祭式歌謡の一種)・オタカベ(祝詞の一種)・マジナイ(呪詞の一種)な どが片仮名漢字混り文で書かれている。これと同様のものに『具志川旧記』『渡嘉 敷間切由来記』などがある。

②『女官御双紙』(1709年頃)……王府の女官の名称、職掌、祭祀の次第などが記載 されている。その内、ウムイ(祭式歌謡の一種)・クェーナなどが平仮名で書かれ ている。これと同様のものに『君南風由来并位階且公事』『聞得大君加那志様御新 下日記』などがある。

③『混効験集』(1711年)……首里王府が編集した琉球語の辞書で、古老の言葉やオ モロの言葉を平仮名で表記し、意味によって配列してある。副題に「内裏言葉」と あるように、他の資料の言語に比して、「お」「む」「おむ」などの接頭辞がひじょ うに多く使われてい、また、「むしやもち」(「接頭辞み+さ文字」の変化形。肴の こと)のように本土の女房言葉の移入されたものもあり、特殊な階層の言語を反映 しているようである。

④『琉球国由来記』(1713年)……『仲里旧記』のごとき各間切の報告書をもとに、

琉球王府旧記寄奉行の向維屏(仲里按司朝英)、頴徳安(糸数親雲上恵秀)などが 整理編集したものである。その内、オタカベ、クェーナなどが平仮名で表記されて いる。

⑤組踊の脚本……玉城朝薫が1718年頃五組を創作した。その後いろいろ創作された。

脚本は多くは方言の韻文で書かれている。

⑥琉歌集など……『屋嘉比工工四』(1716〜1775年頃)や、『琉歌百控』(1795〜1802 年頃)などがある。基本的には八・八・八・六調の歌詞である。

⑦『中山伝信録』『琉球見聞録』『琉球訳』などの中国資料。見出しが中国語で沖縄語

の部分は音訳漢字で表記されている。

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⑧クリフォード著『琉球語彙』(1818年)、ベッテルハイム著『英琉辞書』(1849年)、

および『琉球語と日本語の文法の要綱』(1849年)、琉球語訳聖書など。

6.近世の琉球語(沖縄)の特徴

(1)文字・文体 

 組踊や琉歌などは、漢字仮名混じりで琉文を書いている。多くは語源意識に基づく 歴史的仮名遣いであるが、音写的表記もまれにある。地方においては、方言を写した まとまった古文献もなく、仮名で表記できない音も多く、語源不明語も多いなどのこ とから、表記法が一定していない。一般文書は、漢字仮名混じりで和文を書いている。

 嘉靖から万暦年間に至るまで仮名文であった辞令書の文体は、慶長14年の薩摩の琉 球侵入以後仮名や琉文(方言)に対する意識が変わって、仮名交じり文に変化するよ うになる。

 東恩納は「尺牘体の文は、康煕十六(1677)年の金城橋碑裏文の計開が古い所で、

その他はすべて近世に属するもので、この文体を用ひた碑文の性質は、その趣旨を一 般に告知する場合、恰度高札と云つた場合が多い。(中略)元来尺牘体は常用文である から、告知文即ち高札文としては、これ以外にはない。この尺牘体は向象賢以後の流 行で、その後豊川親方等が島津家の祐筆日高治左衛門に就いて曽我流書札の伝授を受 けてからは上下公私の用文すべてこれに統一されてゐる。」と述べている(「仮字名及 び漢文の碑記」『東恩納寛惇全集5』555頁)。

(2)音韻

 『おもろさうし』以後の主な変化として、音韻では次のようなことが挙げられる。

① 共通語のエ段に対応する母音がiになり、オ段に対応する母音がuになり、「す」

「ず」「つ」「づ」の母音uがiになっ。その結果、短い母音は三つになった。琉球 祖語以後、短い母音が少しづつ減少していることになる。

  〇 ami(雨。『英琉辞書』)    〇 duru(泥。『英琉辞書』)

  〇 matsi(松。『英琉辞書』)    

② 連続した母音は融合同化するようになりる。連母音auやaoがo  に、aiや aeがe  になった。

  〇わない(私は。ワネー《ワネ》を表記している。組踊「護佐丸敵討」)

(25)

−25−

  〇 m  (前。『英琉辞書』)  

③ 組踊の頃は、子音の後のi母音の影響により、軟口蓋破裂音が口蓋化(キ・ギが チ・ヂになる現象)するようになった。『英琉辞書』の頃には、さらに、一部のケ・

ゲがチ・ヂになることも生じた。

  〇ふじ(風儀。「護佐丸敵討」)       〇 dji 

^

nu  (芸能。『英琉辞書』)

④ 「り」子音が脱落してiになった。

  〇みすずひ(御硯。『混効験集』)      〇ちぢよゐ(千鳥。『混効験集』)

⑤ kwa や kwi の音が定着して、kur が kkw に、gur が ngw に音変化するように なった。

  〇おまつくわ(御枕。『混効験集』)  

  〇ゆまんぐい(夕間暮れ。[juma

N

gwi]を表記したもの。『混効験集』)

⑥ 促音ッが音素として確立した。

  〇をつと(夫。『混効験集』)         〇をつてい(一昨日。『混効験集』)

⑦ 『英琉辞書』の頃まで、「せ」の子音はまだsだったので、「し」の子音 (ロー マ字ではsh)とは、区別されていた。(ちなみに、「せ」と「す」の区別はなく なっている。)

  〇 assi (汗。『英琉辞書』)        〇 shi(四。『英琉辞書』)

⑧ 『英琉辞書』の頃まで、 「ね」の子音はまだ非口蓋化のnで、 「に」の子音 (ロー マ字ではny)とは、区別されていた。

  〇 ni   (根。『英琉辞書』)          〇 nyi   (荷。『英琉辞書』)

(3)文法では次のような変化が生じた。

① ハ行四段活用(特に二音節動詞において)がラ行四段活用するようになった。

  〇諷らはん(諷おうとも。『琉歌百控』215)

② 下二段活用がラ行四段活用になった。

  〇たえららぬ(絶えられない。「孝行之巻」)

③ 「連用形+居り」は継続の意味を失い、普通の終止形はすべて「居り+ん」が融合 した形になった。

  〇あゆん(有る。「孝行之巻」)

④ 持続態の「接続形+居り」が融合同化した。

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