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雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要

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アレオパゴス演説(使17: 22b‑31)の修辞学的分析

著者 原口 尚彰

雑誌名 東北学院大学キリスト教文化研究所紀要

号 22

ページ 59‑81

発行年 2004‑07‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024329/

(2)

「アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の 修辞学的分析」*

原口尚彰

<私 訳>

17:22bアテネの人々よ,あなた方はあらゆることにつけ信心深いように見 える。 23それというのも,町を通って来る途中で,あなた方の聖所の数々を眺め ているうちに, 「知られざる神へ」と記された祭壇を見付けたからである。私が 宣く伝えるのは,あ強た方が知らずに拝んでいるものに他ならない。24世界とそ の中に存在するすべてを創造した神は,天と地の主であり,人間の手で造った 神殿に住まうことはない。 25何か不足することがあるかのように人間の手に よって仕えられることはなく,神はすべての者にいのちと息と万物を与える。鯵6 神は一人の人からすべての民族を創り,地上の全面に住まわせ,指定された季 節と,彼らの住む地域の境界を定めた。 27それは,神を感じ,神を見出そうとし て,神を求めさせるためである。神は,私達の一人一人から遠く離れて存在す るのではないからである。2脚私達は神のうちに生き,動き,存在しているのであ り, それは,あなた方の詩人の一人が, 「私達は神の子孫である。」 と言ってい る通りである。 29私達は神の子孫であるから,神的なものを職人が彫り,人間の 意匠によって作られた金や銀や石と等視する必要はない。

30無知の時代を神は見過ごしていたが,今は,あらゆるところにいる人に対し て悔い改めるように命じているのである。 3!そこで,神は枇界を義に従い,定

*本稿は,平成15 17年度科学研究費袖助金基盤研究((J) (2)による援助を受けた

研究の一部である。

(3)

「7'レオパゴス淡説(使17:22b31)の修辞学的分析」

まった一・人の方によって裁く日を設定したのであった。すべての者達に対する 証拠として,神はその方を死人のうちから甦らせたのである。

1. 問題の所在

第一に, この演説は,ヘレニズム文化の中心地であるアテネのアレオパゴス の評議所で, ギリシアの哲学者達を相手に行われた演説という設定になってい る。 これは使徒言行録中の他の演説や説教には見られない特殊な点である。 こ の知的な聴衆に対して,演説者のパウロがどのような修辞的手法を駆使するの かが注目される!。

第二に, この演説は,聴衆の否定的な反応によって中断されているが, その ことは修辞学的視点からはどう評価出来るのであろうか?また,使徒言行録に は他にも中断に終わった演説が存在するが(使2: 1436; 3: 1226; 10:3443;

22: 1‑21 ; 23: l ; 26:223), この演説の中断は他の中断例とどのような関連が あるのであろうか鯉。固有の修辞的特色が存在することが予想される3.

2. 修辞学的状況

パウロとバルナバは,使徒会議後,第一次宣教旅行に出発したが.第一次宣

M. I)ibel ius, ' 'PaullIsaufdemAreopag,'' inidem" :4I(A"にf星!〃A""/('""(・/"( ル/(,

(Giittingen:Vandel1hDEck&Ruprecht, 1953) 5455;H.Homme1 , &&NeueF()r.

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R・PEsch,"/(J 4力Us/fIgf虻/"""f (2voIs; 2̲ rev. ed;NeLIkirchell‑Vluyn:Neu.

kirchencTVerlag1985 1995)230

他の概説の中断例についての詳しい議論は,拙稿|ぺ│、ロの神殿税教(使3: 1226) の修辞学的分析」 Iぺディラヴィウム」第46号(1997年)) 1‑13頁;同「修辞学の視 点から見たペトロのペンテコステ説教("2: 1440) l 「新約学研究」第26号(1998 年)3 15頁;同「使徒言.行録の修辞学的研究ペトロの伝道税教」 l東北学院大学キ リスト教文化研究所紀要」第20号(2002年)61 1II()頁;同「ステブアノ減税(使7:

2‑53)の修辞的分析| 「東北学院大学論集教會と神學」第37号(2()03年)77‑102頁 を参照。

1

り﹄

(4)

「アレオパゴス演説(使17:22b31)の修辞学的分析」

教旅行のときに途中で帰ってしまったマルコを一緒に連れて行くかどうかで意 見が合わずに,別々に宣教を行うことになる (使15:3641)。バルナバがマル コを伴ってキプロスへ向かう一方で,パウロはシラスと共に旅立ち(使15:39 40), シリアとキリキア経由で(使15:41), ピシディアヘ向かった(使16: 1 5)。彼らは霊の示しを受けて, アジア州では宣教活動を行わず, フリギア.ガ

ラテヤ地方を経由してトロアスに下り, そこからギリシア本土のマケドニアヘ と向かうことになった(使16:910)。パウロらの一行はネアポリスの港に着い た後,エグナシア街道を西進する形で, フィリピ (使16: 11 40), テサロニケ (17: 1‑9),ベレア(17: 10‑14)を訪れて宣教活動を行った。その後, シラスと テモテは引き続きベレアに残って活動を続けたが,パウロらは先にアテネに行 き,そこで二人の到着を待った(17: 15‑16)。

パウロはシラスとテモテを待つ間,ユダヤ人の会堂でユダヤ人や神を畏れる 異邦人たちと論じ合い,広場ではそこに居合わせた異邦人の人々と対話した。広 場で対話した人々の中にエピキュロス派やストア派の哲学者達が居り,彼らの 一部はパウロの話に興味を持ち,彼をアレオパゴスの会議所を連れて行って,話 をするように頼んだ(使17: 1621)。 この要請を受けて,パウロが立って語っ た伝道説教が, この演説である(使13: 1641)』。但し,起立した姿勢で語るこ とは,ユダヤ教の習慣ではなく,ギリシャ.ローマ世界の演説者の習慣に従っ ている5・ユダヤ教指導者が教える際には,着席するのが通例である(Bill4.153;

A.Weiser"D"Ap"/f""(・ノ"〔・内/f (2voIS;GUtersloh:MOhn、 1985 1989)2455, Witherington, 517;Weisel・, 2.466iG.Schneider,DifJA/>[Js〃鯉 /"〔、"/E (2vols;

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(5)

「アレオパゴス斌説(使17;22b31)の修辞学的分析」

マタ5: 1 2;ルカ4:30を参照)6。

この説教は,使徒言行録に記録されているパウロの演説の3番目に位置して いる (使13: 16‑41 ; 14 : 15‑17; 17:2231 ; 2() : 1835; 22: 1‑21 ; 23: 1‑6 ; 24: 10‑21 ; 26:223,25‑27; 27:21‑26; 28: 1720,2628を参照)。この演説で は,聴衆が当初はパウロの語るところに一定の関心を示している点が目立つ(使 17: 18‑20)。異邦人向けの伝道説教という点では, リストラでの説教に(使14:

15‑17)並行している。しかし, リストラの聴衆が,パウロらが行った奇跡に目 を奪われて集まって来た群衆であるのに対して(14 :8‑14), この演説の聴衆は,

エピキュロス派やストア派の哲学者達といった知識人達であったという点が異 なっている(使17: 18‑20)7。ところで,二つの学派の世界観は対照的であり,エ ピキュロス派が神的存在の存在を認めず無神論的であるの対して(ディオケネ ス・ラエルティオス I哲学者列伝」 10.5983), ストア派は万物に神的な存在が 行き渡っていると考えており,汎神論的であった(ディオゲネス・ラエルティ オス「哲学者列伝」 7.132 147)8.しかし, この哲学的聴衆がパウロの話しに示 す関心は, 「何か目新しいことを聞きたい」という知的好奇心のレベルに留まっ ており,宗教的救いを求めるものではなかった (使17:16‑21を参照)9。

6 CI)11zelnlallll83i JJeTvell,"/f' .4"s/FIE"[・ji/(・/I/f' (KEK5; 17!hed. ;GOttingen:

Vandenhoeck&RLll)recht, 1988) 353; Barrett, 2.629‑

7 M. I)Dhlenz, $PalllllsL1nddieStca.''ZAIW42 (1949) 83;K.PlOtz, "'DieAreDpag.

1℃dedesAposteIsI'aulus,'' IKZ/C()""""ノ"fノ 17 (1988) lll;K.O.Sandnes,"#Paul andSDcrates:TheAimofPaUl'SAre()pagUSSI)eeCh'"JSノVT50 (1993) 19 I9;

F.F. Bruce7ソI('A( 八イノ/‑"JEApOs""(G『孔11dRftI)ids: Eerdmans; LEicesteI' : APollDs, 199()) 379;NC.CToy, ,:HellenistiC l>hilos()phiesandthePreaching()1 theResurrecti()'1 (Aclsl7: 18,32),"A/WノT39 (1997) 2226; J.A.Fitzmycr,77ノ〔j J1(・IN (l/‑ /ルヒノ1'"""(AB31 ;NEwYGrk:D(DLII)leday, 1997) 6046()H

8 IJDhienz,83;G.W.IIfll'sen,"&ThePreachingall(II)efellcEDfPaul,''il]eds,1.II Marshall/l). Peterso11,Wi/"ござSm/ルFG(ノSI)('/ r 7ソI(J 7ソノ"/fjgl' qfA('/s (Gra]1[1 Rapids: Eerdmans, 1998) 312313.

9 Dubarle,576iPIOtz! ll2*Croy,22‑26.

(6)

「アレオパゴス渡説(使17;22b‑31)の修辞学的分析」

3. 配列構成'0

17:22b‑23序言:聴衆への呼び掛け, アテネ人の敬度さ,演説の目的 17:24‑29論証苫万物の創造主なる神の業と宗教批判

17:24万物の創造主と神殿の不要性 17:25 いのちの与え主と祭儀の不要性 17:26民族と季節と居住地の設置 17:2729神を探し求めることと神の近さ 17:3031結語

17:30無知の時代の終焉と,悔い改めの命令 17:31 終末の裁きと審判者,死者のうちからの復活

序言は(使17:22b),他の聴衆への呼び掛けだけから構成される使徒言行録 中の他の演説とは異なり (使2: 14; 3: 12; 7:2b; 13: 164 15:7, 13他),呼び 掛けの言葉に加えて, アテネ人の敬度さや知られざる神への書かれた祭壇への 言及や,演説の目的を告げる言葉がある。

この演説の論証には,論証の前提として叙述的な要素を含んでいる (使17:

2429)」'。しかし, この部分は,ユダヤ人聴衆相手の演説のように救済史の回顧 をするのでなく (使7:2c‑50; 13: 1725を参照), その代わりに,天地の創造 主である神の性質とその業の描写と人間の創造の目的を述べている'2.これは,

異邦人聴衆には, イスラエルの救済史についての知識が期待出来ないし,演説 を理解して貰うためには,異邦人聴衆の持っている多神教的な神観とは根本的

10 この配列描成は,Kennedy, 130;HDmmel, Areop魂Ⅱ畠Speech:Acts17.22, 23, ''NTS ll DllpDnt, 53954() ;WeiSef2.457は,使17 12Ke]1nCdV" 130もこの事実に注口する。

158; l)、Zweck, #&TheEx()rdium()fthe 35 (1989) 97に一致する。

24‑25を叙述("""裡"。) と評価する。

(7)

│アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の修辞学的分析」

に異なった万物の創造主という神観を明確にする必要があったからである13o

│同l様な現象は, リストラの民衆へのパウロの説教にも見られる(使14: 1517)。

アレオパゴス演説の核心であるキリストの死と復活, その来臨と世界の裁きを 論じるためには(使17:30‑31), 自然世界と歴史世界の創造主の本質をその創 造の業を描写することによって述べることが不可欠と理解されたのである。

「世界とその中に存在するすべてを創造した神は,天と地の主であり,人間の 手で造った神殿に住まうことはない25.何か不足することがあるかのように人 間の手によって仕えられることはなく,神はすべての者にいのちと息と万物を 与えるのである。」と述べる24‑25節は,聴衆が暗黙の前提としている多神教的 宗教が,神殿に安置した神像を拝み,犠牲を捧げる祭儀を行うことの無意味さ を論証しているM・

結語部分は(使17:3031),人々が真の神を知らず人間の手で作った像を拝 む無知の時代が過ぎ去り,今は,神は偶像礼拝から倉ll造主を信じる信仰へと回 心するよう命じていることを述べる。そのことの証拠として,パウロはキリス

トの死者の中からの復活の事実を援用している (使17:31)。

パウロがキリストの復活に言及すると,聴衆の哲学者達はそれを潮笑って,そ れ以上話を聴こうとしなかったために,この演説は中途で終わってしまった(使 17:32)。そのため,この演説の結語部分が唐突に中断されている」5.減説が中断 したために完結しないケースは,使徒言行録中の他の演説にも見られる(使10:

3443; 22: 1 21 ; 23: 1 ; 26:223)。

13 Bruce, 379i U.Wilckens, D/f""/Iws/℃JL'〃故?' A/jiハ伽噌 rAj( /J/(J (3r。 ed Neukirchen‑Vluyll : NeukircheneI‑Verlag, 1974) 190 191

1」1 PGsCh" 2.132; .IDGDunll,"zEAc/月 〃/〃肥A/ノ"//"(Val leyF()Tge, l'A:

TrinityI1'ternational, 1996) 230.

15 これに対して, Hzlenchen, 506; Ba'Tett, 2、854は, この減税が完締しているのであ り, ' i '断しているのではないと主張する。

(8)

「アレオパゴス演説(使17 : 22b‑31)の修辞学的分析」

4.修辞的種別

この演説が, アレオパゴスの評議所で行われたというセッティングを重視し て,法廷演説,特に,弁明演説であるとする論者がある'6.アレオパゴスは,ア テネの最高の裁判機関として機能したし,かつて哲学者のソクラテスが,外国 の神を導入しようとし,人心を惑わしているという嫌疑を掛けられて訴えられ,

弁明演説を行った場所でもある (プラトン『弁明」 24bc; クセノフォン「ソク ラテスの想い出」 1.1を参照)。 しかし, この演説は全体として聴衆に回心を勧 める伝道説教であると評価され,修辞学的に言えば,助言(審議)演説である と言えるⅢ7。 この演説には通常の伝道説教の結語部分に出てくる回心の勧めの 言葉が(使2:39‑40; 3: 19; さらに, マコl : 14‑15も参照)明示的には出てこ ないが,結語部分は(使17:3031),神が偶像礼拝から創造主を信じる信仰へ と人々に回心するよう命じていることを述べているのである18.古典修辞学に よれば,助言演説(審議演説とも訳せる)は,聴衆の未来の行動に関係し, 「あ ることするように,或いは,あることをしないように説得する」機能を持つ(ア リストテレスI弁論術」1358b;キケロI発想法」l 7; 『弁論術の分析」 10; 『弁 論家についてj2.10;偽キケロI、ヘレンニウスに与える修辞学書」3.2.2; クウィ

ンティリアヌス「弁論家の教育」 3.3.15)」9。

16 G.AKe]111edy,MM!↑ 侭'.g/fJ"』fw/ /"")か"α"G" """"g/I Rルヒ〃""/ Cノソ" "z (ChapellHill,NC:Universit,『 ()fNorthCarolinaPress, 1984) 129 130; Soard9"

96を参照。

17 SandnEs.L1 15;DZweck,"TheExordiumoftheAreopagusSpeech:Actsl7.

22" 23,''N"1,S35 (1989) 95;

18 FMuBner, "AnkniipfiingundKerygma inderAre()pagrede (Ap917,22b311'' 7、TR67 (1958) 351 352;W Nauck, "#DieTraditiDn undKompositi()n der Are()pagrede''Z7K53 (1956) 31 ;Weiser2.456, 460;Zweck, 100もこの点を垂 視する。他方, K、0.Sandnes, ! ,PaulandSocrates:TheAimofPaul 'sAreopagus Speech,''ノSNT50 (1993) 13, 19は,回心への要求の間接性を強調する。

19 R.Volkmann,DIER/zEr()"ルfノ"G""/rEw〃"dR""z"・ (Leipzig:Teubner、 18851 Nachdruck:Hildesheim;GEDrgOims, 1987) 262271 ;H.Lausberg, I力"〔坊"りん

(9)

「アレオパコ'ス演説(使17:22b31)の修辞学的分析」

5. 修辞的手法 (17:22b) 序言

パウロは'Av6pEsAO'1vqI()L (アテネの人々よ) という呼び掛けの言葉に よって.聴衆の注意を喚起している,呼び掛けの言葉は,使徒言行録において 演説を始める時の恒常的要素となっている (使2: 14b; 3: 12b; 5:35; 7:2$

13: 16; 15:7; 15: 13b; 19:35; 22: 1 ; 23: 1b; 26:2)。聴衆を居住する町の 住人として同定する呼び掛けの言葉を使う例は,エフェソの町の書記が野外劇 場において町の民衆に対して行った演説にも見られる(使19:35)。プラトンに よるとアレオパゴスの評議所でかつて哲学者のソクラテスが行った弁明演説 も,同様に'Av6pE9AO'w")L (アテネの人々よ)という呼び掛けの言葉で始 まっている (「ソクラテスの弁明.i l7a)20。

修辞法において序言は,聴衆に対して本論の中で展開される議論に対する準 備を与える機能を果たす(アリストテレスI、弁論術」 1414b;偽キケロ「ヘレン ニウスに与える修辞学害」 1 .3.4; 1.4.68; クウィンティリアヌス『弁論家の教 育j4.1.5)2」・パウロはこの演説を,聴衆が宗教心に富むことを賞賛することに よって,聴衆の心を引きつけることから始めている22。当時のアテネは,多くの 神々の神殿を擁することで知られていた(ソフォクレスIオイディプス王」260;

パウサニアスIギリシア案内記』 1.17.1 ;スi、ラポンI地理書』 9.1.16; ヨセフ

q/L//g地ハ'R/"""cJARJ"" "(]"/i)rL"f?証n'S/"fJI! (Eds.D.E.Orton/RD A]'(lerscn LEiden: Brill,1998) i431‑442 (pp204 208)

Barrett, 2834もこの点に注目する。

J.MartinA""ルヒハルEかJ渋.蝿〔か"ル〃"<ノ〃('//J""(] (Mimchel] :CH.Beck, 1974) 6174 ;Vclkmann, 127‑148;Lallsberg, 121 135 (§§263‑288)、

W.ElteSter" ! #GottunddieNatur inderAPostelgesChiChte," inW.Eltestered. # /V(w/"/《""E""j(・/肥S/"difw""' RMJひヴB"","(""ノ (Berlin:Tiipelmalm、 1957) 203jCDnzeimann、 1061 Schneider, 2.2371Weiser# 2 456, 466467i l.RoloffD"

.4/'"/E(g"ソJ/(・jj/r (NTD5;Gijttingen:Vandenhoeck&Ruprecht, 1988) 259;

Zweck, 10O; Sandness" 15 17; PEsEh, 2.136; I)un11, 234 ;Witheringt(m, 520;

Fitzmyer, 606607.

リリ

ーー

(10)

Iアレオバゴス城 税(使17:22b31)の修辞学的分析」

スIアピオン」2.130)23.使17:22の「あなた方はあらゆることにつけ信心深い ように見える」 という言葉は, アテネでシラスとテモテの到着を待っている間 に沢ll1の偶像があるのを目にしてパウロが怒りを抱いたという記事とは対照的 である(使17: 16を参照)21・パウロは,個人的な感梢を押し殺して,話を聴い て此う前提として聴衆の好意を得るために,アテネ人達の多神教的宗教心を賞 賛することによって演説を始めたが, このような間接的表現法の使用も一つの 修辞技術に属するのである(キケロI発想法jll5;偽キケロ「ヘレンニウスに 与える修辞学書」1.6.91() ; クウィンティリアヌス「弁論家の教育」4.1.4250)25。

パウロはアテネ人達の宗教心とこれから語ろうとするキリスト教の使信との 接点を作るために, アテネ市中で目にした「知られざる神へ」 と記された祭墹 に言及する(17:23)。 「知られざる神へ」という単数の神へ捧げられた銘文を持 つ祭墹の存在は確認されないが, 「知られざる神々へ」という複数の神々へ捧げ られた神殿については,古代の証言がある(パウサニアス「ギリシア案内記.1 1.

1 4; 5.14.8; フィロストラトス「アポロニウス伝1 6.3.5リデイオケネス・ラエル ティオス「哲学者列伝j 1.11())26・それは,多神教的な信仰を前提に,知らずに

23 (̲J()11zeimann,106: .lervell,443; Fitzmeyer,6()7; Barrett,2.836;DupQnt,511;

I)liitz, 113*HKul ling, ]、Zul・BedeutungzLIA,y"イハ/"s7恥"ざ, 、'TZ36 (1980) 67 68;NHSt()''eh()Use" ノヤ"I/此〃"YⅧ /ル[' JIJF(j/)qg"H 〃"〃f"血,γ 」VI'"' 7l'部内""〔,"/

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2.I HMoxnes" 、&IICSawthat theCitywasFull of I(I()1s (ACts l7: 16) 、 ' ' S7、 49 (1995) 120もこの点を唾視する。他方, JcTvell,445は,使17: 16の記述を根拠に,

22節の「私はあなた方があらゆることにつけ信心深いと見受けた」という発言も,街 定的な内容であると解釈するが, こオLは22節の持つ修辞的な性格を十分に考えに入 れていない。

25 Sandness, 15‑17.

26 1)ibeliL1s, 394(l ; E. N()Tdcn" 刈遅〃 〃N 7ソI"sJ (!『〃イ〔ノバ"〔。/"〃理(wごI〃丹","ノ津ハ Jf(、/i"/"ど ノ誼/樺侭"' /f(ノイノ(' (Leil)zig:Teubncr, 1913) 5556;C(mzelman]1, 106 1(17;Kiilli]1g, 69 i RDIo[f、 259i Schneider" 2,888;Wciscr, 2.467468; Schill母.

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(11)

「アレオパゴス演説(使17:22b31)の修辞学的分析」

未知の神々の怒りを招くことのないようにという配慮から出たものであっ た27○ これに対して,使徒言行録が描くパウロは,複数の「知られざる神々」へ 捧げられた銘文を単数の「知られざる神」に置き換えた上で, アテネ人達が知 らずに拝んでいる方こそ,天地を創った万物の倉ll造主なる真の神であるという かたちで, キリスト教の中心的な信仰箇条への導入を与えようとする28。 しか

も, 「知られざる神」 という無知の主題は,後に真の神に対する無知を論難し,

回心を求めることの伏線となっている (使17:30)29。

(17:2429)論証:万物の創造主なる神の業

演説の論証部分は(使17:2429),天地の創造主である神の性質とその業の 描写した上で,人間の創造の目的を論じる。パウロは聴衆の持っている多神教 的な神観とは根本的に異なった万物の創造主という神観を真正面から採り上げ て説明しようとする30・同様な現象は, リストラの民衆へのパウロの説教にも見 られるが,聴衆の宗教意識の延長では, キリスト教の使信を正しく理解するこ とは出来ないという認識があるからである (使14 : 15 17)。 「知られざる神へ」

捧げられたアテネ市中の祭壇の存在を接点に始めた話は,直ちに,聴衆と演説 者の間に存在する根本的な神観の相違の問題に突き当たる。神が世界の創造主 であるということは,旧約聖書の基本的な主張であり (創1 : 1 2:4ai出20:

11 ;詩24: 1‑2; 95:35; 121 :2; 136:59; 146E6; イザ40:21‑22 ; 42:5 ; 44 :24 ; 45: 12; 51 : 13他),ユダヤ教とキリスト教信仰の大前提である(ソロ 知恵13:9; I1マカ7:23; 1Vマカ5:25; ヨハ1 : 1‑5;使14: 15; 17:24; o

27 Dibeliu9, 3941.

28 Dibelius,41,53;N()rden,I20122;Weiser"2468‑469;RF.0'ToO1e,"Paulat AthensandLuke'sNotionofWorship'''RB89 (1982) 188‑190.

29 Dielius、 53;Dupont, 541, 586587; Stonehouse, 1823;MLIBner" 351 ;Kiilling#

6970FTalbert, 161

30 Schille" 356357; PEsch, 2.136‑137;Witheringtcn525.

(12)

「アレオパゴス演説(使17:22b 31)の修辞学的分析」

マl :20; Iクレ19:2)3」・旧約的創造論からすると,神は唯一であり,天地を創 られた方以外に神は存在しない(Iコリ8:46を参照)。ギリシア・ローマ世界 に存在する神々は,人間の手で作った偶像に他ならない(出20:4; イザ40: 18 20; 44:920; ソロ知恵12:23‑27; 13: 10‑19; 14:811 ; 15:719; Iコリ8:

46を参照) 。従って,異教の神々の像を手で作った神殿の祭壇に安置して拝む ことは,偶像礼拝であるということに帰着する。「世界とその中に存在するすべ てを創造した神は,天と地の主であり,人間の手で造った神殿に住まうことは ない」 という発言や(使17:24; ヨセフス『ユダヤ古代誌」 8.227), 「私たちは 神の子孫であるから,神的なものを職人が彫り,人間の意匠によって作られた 金や銀や石と等視する必要はない」という発言は(使17:29), 多神教的宗教観 への根本的批判を内包していると言えるであろう33。

尤も,創造神の観念は,ギリシアの哲学的思考の伝統の中にも存在し,ヘレ ニズム世界にとって初耳ではない。例えば,プラトンの後期著作においては,世 界の創造者であり,根本原因であるデミウルゴス(6叩Ⅸ) γ69)の存在が前提 にされている(『テイマイオス」27cd; 28C; 29de; 40c; 『国家』530a)。同様に,

ストア派哲学者エピクテトスも,神による世界と万物の創造に言及している (「講話」4.7.6)34。さらに,神殿祭儀を中心とする宗教性への根本的批判も,ヘ レニズム世界には存在していた。ヘレニズム哲学者達も,人間の手で作った神 殿に神が住まうことはないと主張して,神殿祭儀による御利益を当てにする俗 信を退けていたのであるから,哲学的聴衆にとってパウロの神殿批判的発言は 格別に驚くべくことでもなかったであろう(プルタルコス『道徳論集」1034b)35。

天地の創造者なる神は人間の手で作った神殿に住まうことは無いという神殿

StOnehouse, 25‑26; Brllce, 382;Dulm, 235;Fitzmyer, 608 Talbert, 158‑159、

Kennedy, 130; Jervell, 446.

Barrett, 2.84() IFitzmyer, 61)8‑

N()rden,31‑32iKennedy! 1301Fitzmyef608,

(13)

「アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の修辞学的分析」

批判は,既に│日約聖書においてソロモンの神殿の意義をめく÷る考察として展開 されている。列王記上によると,神殿の奉献式においてイスラエルを代表して 奉献の祈りを捧げるソロモンは,神が人間の手で造った神殿に住むことはない と述べる (王上8:27)。神が住まう場所でなければ,神殿という建物の意義は 何であろうか? それは,神がその名を置くところであり,神が目を注ぐ・ところ である(王上8:29,43)。それは, イスラエルの人々がやって来て神に祈りを捧 げる場所である (王上8:28‑53)。第三イザヤは, こうした考えをさらに進め,

「主はこう言われる。天は私の玉座,地は私の足台である。あなた方はどこに私 のために家を建てるのか,私の安息の場所はどこにあるのか?」と述べる(イザ 66: 1 ;マタ5:34)。神殿は神が住まう場所ではなく, 「祈りの家」に他ならない (イザ56:7)。これらの神殿批判的見解は,ルカ文書においては,宮清めの時に イエスが援用し(ルカ19:46),ヘレニスト・グループに属する宣教者であるス テファノが,サンヘドリン (最高法院) における演説の中で引用している (使 7:48‑50)犯。アレオパゴス演説においてパウロは,旧約聖書の神殿批判の適用対 象を拡張して,神殿祭儀を中心とする多神教的宗教性一般の批判として展開す るのである37。こうした宗教批判に対して,聴衆のヘレニズム哲学者達は蹟くこ となく,この時点ではパウロの話を中断しようとはせずに耳を傾け続けている。

イスラエルの伝統的信仰によれば,天地を創造した神は生ける神であり (申 5:26 ; 32:40; ヨシユ3: 10;士8: 19;ルツ3: 13;サム上14:39, 45 ; 19:

6 ; 20:3; 25:26;詩18:47),人間の手で制作された異教の神像のように,神 殿において受動的に人間によって仕えられる必要はない(使17:25ab「何か不 足することがあるかのように人間の手によって仕えられることはなく」;Ⅱマ 7t7 14:35; 111マカ2:9; ヨセフス「ユダヤ古代誌」4.111を参照)。神は行動し,

人間を含む被造物に命を与えて養う(使17:25c「神はすべての者にいのちと息

36 RoIDff, 261 ; SDards, 97 37 IIaenchel1, 4594611

(14)

「アレオパゴス演説(使17:22b31)の修辞学的分析」

と万物を与えるのである」 ;創I :2030; 2:7; イザ57: 15‑16を参照)。同様な 神の自足性に基づく祭儀批判は,ヘレニズム世界の宗教批判にも存在するので,

批判的聴衆が受け入れることができないような見解ではない(クセノフォン「ソ クラテスの想い出」 1.4.10;セネカ 「書簡集」 95.47, 48,50)38。

次に,パウロは被造物である人間の本質について言及する。使徒言行録の描 くパウロによれば,神は「一人の人からすべての民族を創り,地上の全面に住 まわせ,指定された季節と,彼らの住む地域の境界を定めた」 (使17:26)。神 が人間の始祖アダムを創造し,人類の歩みはアダムに始まることは,創世記が 述べることであり (創2:425), このことは旧約聖書のあちこちに見られる系 図の前提になっており(創5: 1−32;代上l : 1 8:40),ルカ福音書が引用するイ エスの系図もアダムにまで遡っている (ルカ3:38)。 また,人間を様々な民族 に分け,それぞれが住む境界を神が定めたことは,申命記に収録されているモー セの歌が言及している (申32:8; さらに, 「戦いの書(1QM)」 10.12 15を参 照)39。 これに対して, この「境界」の創造を自然哲学的発言と解釈して,人間 が居住可能な陸地と居住不能な海との境界の設定を意味すると理解する見解も ある (詩74: 17; 136:6; ヨブ38:4‑11 ;エレ20: 1 21 : l ; 『感謝の詩編 (1QH)l9.1314 (=Sukenik,co1. 1.1314) ;プラトンリ国家j886aを参照)40。

他方,神が天体を創造し, 日や季節を測るしるしとしたことは,既に創世記

38 N()rden、 131M. Dibeli'1s, 44 ;P・hlenz! 83;M''611er, 345;C()nzelman]1, 1l)7;

I)ubarle, 588:HDnnme1, 16() ; IIansell, 309‑310.

39 B.GHrtner 刀IEAJ"JJ"'術動(J"//""f/Mr//"掴/R(JJE/""《"ノ (Uppsala;Almqvist ; Lund:G1eerup、 1955) 80‑82; Soards, 98; Bruce, 383; l)unn, 235;Witherin gtoll, 527528

40 DibeliuH32‑33,35‑38;NDrden,15‑I8;Eltester! 218‑220; Soards,9798;F ML16I]er, *Eilligel>amllele'1ausdcllQumrantextenzurAreopagrede (ApglZ 22‑31),' 'BZl (1957) 125130; H1川建三「アレオパゴス説教と使徒行伝の著者」 I新 約学研究 第20号(1992年) 20頁を参照。尚, 「感謝の詩編(1QH)19.13 14とい う欄と行の番号は, F.GMa'・tinez/EJ.C.Tigchelaar, Ty'どDf'"㎡S[、,℃/Js (2v()Is i Leiden: Bri l l, 1997) 2の番号付けに従っており, これは,ELSuke'1ik、刀IE"""

S"5t・ノYj"ヨ ィリー〃肥H酌(w『 (ノ"Z"八"]' (Jerusalem:MagneSs, 1955)による欄と行 の番号付けでは, 1.13 14に相当する。

(15)

「アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の修辞学的分析」

に述べられているが(創1 : 14‑18;詩74: 17),パウロは特に,神がすべての民 族のために季節を定めたことを強調している(使17:26; さらに,使14: 17; I クレ20:4,9リ 「戦いの書(1QM)j 10.12‑13を参照)"。 こうした発言は,人間 が現在は様々な民族に分かれ,異なった場所に住んでいても,同一の祖先に由 来する者として一体であることを強調することと癒る。それはヘレニズム期以 降,地中海世界の人々は大帝国の支配下に様々な民族が共存する世界の現実を,

アテネの聴衆に対して神学的視点から説明する効果を持つ。

アレオパゴス演説は,神が人間を一人の人から創造した目的を, 「それは,神 に触れ,神を見出そうとして,神を求めさせるためである。神は,私たちの一 人一人から遠く離れて存在するのではないからである」 と述べる (使17:27)。

この発言は,神が人間に近い存在であり,神を求める者は神を見出す可能性を 与えられていることを強調する旧約聖吾やユダヤ教の考え方を出発点にしてい る (申4:7, 29;詩14:2; 24:6; 145: 18; イザ51 : l i 55:6iエレ23:23;

29: 13; フイロン『十戒各論」1.36)42. この演説は,創造論を基軸に,神を求め ることを人間の基本的な希求と捉え, そこに人間が神を見出し,回心する可能 性を見るのである4ヨ。他方,ギリシア・ローマ世界にも,世界の根源を哲学的な 思索を通して究め,世界の創造者であり,第一原因である神を認識することが 出来るとする見解があり,使17:27におけるパウロの発言に並行している(プ ラトン「弁明」 19b; 23b; 「ティマイオス」 28c;クセノフォンIソクラテスの 想い出」1.1.15;セネカ『書簡集」95.47; I神々の本質j2.153を参照)。しかし,

旧約的な神認識が,主を知り,主に知られる人格的関係を内包し,主を信じ,主 の言葉に従うという,知情意のすべてに関わる全人的行為であるのに対して,ギ リシア哲学は知的認識による真理探究ということに重きを置いており,両者の

Eltester、 2062091 Snards,9798;Sc]1ille, 357 Norden, 14;Gtirtner, 80‑82 ; Barrett,2844, Dibelius, 3"i 38;Eltester205IMu6nCr! 349.

J川里且︲川ユ且.畑山且

(16)

│アレオパゴス油i悦(使17:221) 31)の修辞学的分析」

問には大きな隔たりがある郷。

パウロはこの│日約的な神の近さの観念を,ヘレニズム世界の詩人の言葉を引 用することによって聴衆に身近なものとしようとする。彼は, 「私たちは神のう ちに生き,勅き,存在しているのであり,それは,あなた方の詩人の一人が, 「私 たちは神の子孫である。」と言っている通りである。」と述べる(使17:28)。 「私 たちは神のうちに生き,動き,存在している」 というこの句の前半部分の発言 は,万物の根本原因として神の存在を論じるギリシア哲学の考え方に近い(プ ラトン「饗宴」 206; 「ソクラテスの弁明」 23b; l.ゴルギアス」 457d; 1.ティマ イオス」37c; IIZl家』2.369dさらに,プルタルコスI道徳論集」417cdを参照)45。

この句の後半部分に引用されているのは,詩人アラトスの「フェノメナj5節 であるが,人間が神の子孫であるという観念は,旧約聖書の創造信仰を踏み越 え,神的なものが万物を満たし,人間にも分有されているというストア的な観 念に近づいている (クレアンテス1.ゼウス讃歌! 3;セネカI書簡集」 41.1 ; gr.

ピクテトスi講話」8.24を参照)'6。従って,演説者であるパウロが立っている 旧約的な創造信仰と, ここで引川されているヘレニズム世界に流布する詩文の 言葉の内容との間には,緊張関係が存在する17.旧約聖耆は,神が人間をその似 姿に創造したと述べるが,人間は被造物であり,創造主である神と被造物であ る人間の本質的な相違は維持しているのである (iill l :2627)'感。

使徒言行録のパウロは,人間が神の同族であることを根拠に,金属や木や石

MLIBner, 351) * PIntz, 114‑I I5I I)ubarle, 597; Fitzmyer, 511‑512i Barrett, 2.846.

Norde]1, 21 2」1 ; I)()hlCnz, 90;MuBner, 345‑346; Barrett, 284f

Dibelius, IH51) ; PDhlenz,89‑9() ; St()11ehousC,2728; I)ubarle,599i l.(̲>.Lebram,

$、DerA1'fbauderAreopagrede,''ZjVW55 (196.1) 222‑223iC()11zelmrlllll, 109i Roloff,263;Weisfr, 2.474.

Dil)elius, 5I) ; I)ubarle" 601) i 1'()hlenz" 96‑97;Nauck, 2223; SChillc, 358;Char‑

leS, 59;WilheringtOn. 529.

Dibelius, 15,50;Mu6ner,3 17348,352354iNfluck,22 ;Haenche]11 462; Bruce, 385; Jerve1 1 , :i49;Weiser"2473; 11.P.0we]', 1、h(JSCoPeofNaturalRGvelation il1R()ma]Is l andActsxvii,'.NrS5 (195859) 142 143;Charles, 57; Schille, 358‑339.

(17)

「アレオパゴス減説(使17:22b31)の修辞学的分析I

を素材に人間が作った神像を礼拝するヘレニズム的宗教性を批判し,「私たちは 神の子孫であるから,神的なものが職人が彫り,人間の意匠によって作られた 金や銀や石と等しいと考える必要はない」と結論する(使17:29)。職人がその 意匠に従って制作した神像を神々として拝むことへの批判は,第二イザヤや知 恵の書が説いていることであり,旧約的創造論に立脚し, ギリシア・ローマ世 界の宗教批判を展開する演説に援用されることは良く理解出来る(イザ40: 18 20; 41 :57, 29; ソロ知恵13: 10 19)。しかし,人間が神の子孫であることを 述べるこの発言の前半部分から,人間の手で作った神像を神的なものと考える 必要がないという後半部分が,結論として出てくるのは何故だろうか?両者 の間の関係は分明ではない1,. ここでは,両者を繋ぐ論理を推測するしかない が,恐らくは,神は人間に近くいまし,人間は神に直接近づく道を与えられて いるのであるから,神的なものを表す象徴物を人工的に制作して間接的に神に 近づく道を設ける必要はないという意味であろう50.神像や神殿祭儀の不要性 を説く宗教批判は,ヘレニズム世界の中にもあり (プルタルコス「道徳論柴.1 167d), アレオパゴスの聴衆もパウロのこうした宗教批判には異を唱えていな い5'。

(17:30‑31) 結語

この演説は,創造主としての神の業を回顧した後,主題を大きく転換して神 がこの世界に審判を与えることを告げる5Z。先にピシディア・アンティオキアの 会堂説教は, イエスを裁判に掛けて断罪し,十字架に架けるに到ったユダヤ人 指導者達の行勅は, イエスがメシアであることと旧約預言の声への無知から来 ていると述べた(使13:27を参照)。これに対して,アレオパゴス演説は,異教

IIaellche]1, 462; RDIDif, 264 iWeiser、 2.473 1)ibeliLI5, 52;Dunn, 236,

HacIIChe'1, 463*Dullll1 235236.

IIaellchell, 、150,

(18)

「アレオパゴス澗説(使17:22b‑31)の峰辞学的分析I

世界の人々が天地を創った真の神を知らず, 多神教の信仰に従って様々な神像 を拝んで来たのは,彼らの無知によるとしている(使17:30)。創造主を認めず,

異教の多神教の信仰に生きる人々の態度を無知と捉えることは, ソロモンの知 恵(知恵の吾)にも見られる態度である (ソロ知恵13: 1 10)53.無知であるこ

とは それに基づいてなされた行動について,行為者を免責することにはなら ないが, ]ピしい知識を与えられれば,認識と行動を変える可能性があることを 意'床する54.神は無知の時代を見過ごしにしていたが,キリストの福音を異邦人 の間で宣教することを通して,其の神を啓示し,回心の機会を与えたのであっ た(使14: 15; 17:30)55.アレオパゴス演説の聴衆の中核を形造るエピキュロス 派やストア派の哲学者達は,知者を任じる人々であり.パウロの言葉は彼らの 自己理解に挑戦する効果を持っている56・

パウロはさらに, 「そこで,神は世界を義に従い,定まった一人の方によって 裁く日を設定したのであった。すべての者たちに対する証拠として,神はその 方を死人のうちから甦らせたのである。」と述べる(使17:31)。 「定まった一人 の方」 とは,復活したキリストであり, ここでは終末の審判者として描かれて いる。ストア派は,一定期間を経た後世界が火によって燃やし尽くされて更新 されるという循環的終末論を持っており,世の終わりと新しい世の到来という 観念自体は彼らにとってそれ程奇異ではなかったであろう57.

ここで注目されるのは, この演説においてキリストの復活が,終末の裁きが 確実であることを示す証拠(汀"TLs)として挙げられていることである58.キリ

53 1)ubilrlc, 57Z

54 N()rden、 10iMLILine1・, 351 ;Charles、 56; Jervel1、 .151) ;Zwcck, 100 li}1

55 1)up()nt、 542;Conzeima1lll" 1 1 1 ;RoloH, 265;Weiser, 2.ゞ161 ; Schneider, 2̲213;

Jcrvel1, 450; Soards,99; I)unn,236237;Witheringt(}11.5335351 Barrett.2 85()

852.

56 Charles、 51は, ここに7'イロニーを見ている。

57 Kenncdy, 131,

58 1,ill拠」 という意味での兀[(TTL3の刑法については(ヨセフス l.ユダヤ古代誌」 4.337, 418: 18156: 19.16), BauerAland, 1333;GBarth "IIW73 219220; I). R.

(19)

「アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の修辞学的分析I

ストの復活というような超自然的な出来事は, |日約聖書の伝統では神の超越的 な力の発現として理解され,神から遣わされた者達の活動に伴う 「しるし」 と されている (申4:34; 7: 19; 11 :3; 13: l ; 26:8; 29:3; 34: 11)。 こうした 伝統を踏まえて,使徒言行録中のユダヤ人向けの演説において,ユダヤ人指導 者達が十字架に架けて殺したイエスを,神が三日目に甦らせたことは, イエス のメシア性とユダヤ人達の罪責を立証する出来事として語られている (使2 : 31 36; 3: 13 15; 4: 10 12; 5:3032; 13:2630)。この立証法はユダヤ人民衆 には上手く機能し,彼らの多くは悔い改めるに到った(使2:37‑42; 4:4)。死 者の復活の観念自体は,当時のユダヤ教宗派の中で,神殿祭司を中心とするサ ドカイ派は否定していたが, ファリサイ派は肯定していた(マタ22:2333;マ コ12: 18‑27;ルカ2() :2738;使23:69; ヨセフスIユダヤ古代誌1 13.171 ; 18.11 ; l.ユダヤ戦記」2119を参照)。使徒言行録においても,復活について否定 的な反応を示すユダヤ人聴衆はサドカイ派に属する人々だけである(使4: 1 3;

23:6‑9)。

しかし,知性を重んじるヘレニズム哲学者達から構成される聴衆達に対して,

復活という超自然的な出来事を証拠として援用することは,踊きを与え,聴衆 は咽笑して,パウロの言葉をそれ以上聞こうとしなかった(使17:32)。結果と して,パウロは演説を中途で切り上げて,議場を去ることを余儀なくされたの であった(使17:33)59.人間は神々とは異なり死すべき者であり,死者が復活 することはないというのが,古くからのギリシア人の死生観の出発点であった からである(ホメロス「イリアス」24 551 ;アイスキュロス「エウメニデス.1647‑

648; I・アガメムノーンl1360 1361 ; ソフォクレスIエレクトラjl37 139)60。但

Linsay,ルノiff/>/"ィ淵α"(/脚"/J J TTL( iTL9""J正L(冗己'tLU"卜""ル71'""/"(J/「"! /〃〃ノ《

W"""錨(ゾ戯/ル"I/Mfノ"AMJ/Jノ"鮒α"㎡班〃肥Ⅳ") 71's尚""(J"/ (Leiden: Bri11, 1993) 56, 8082を参照。

Kelllledy,131illaenchen; 464iSchneider,2.243; Jervell,451 11allsel1, 317.

59 6()

(20)

「アレオパゴス油 魂(使17:22b31)の修辞学的分析」

し,人間の死後, その肉体は朽ち果てるが,魂がどのような運命を辿るかとい うことについて, ギリシア人達の見解は分かれていた。人の死後,魂が肉体か ら離れて永続することを認めるプラトンのような寵魂不滅の考えがある一方で (「パイドロス」 245c246d; 247bc), そのような可能性を否定する唯物論的な エピキュロス派の考えもあった(ディオケネス・ラエルティオス「哲学者列伝」

1().124126)61.この問題についてのストア派は中間的な立場を採っており,魂が 人の死後一定期間存続することを認めていた(ディオケネス・ラエルティオス l哲学者列伝」 7.156‑1257)。

死者の復活の観念がヘレニズム世界の知識人達には理解しがたいものである ことは,ユダヤ人歴史家のフラビウス・ヨセフスも認識しており,彼はユダヤ 教宗派のサドカイ派とファリサイ派の重要な違いの一つに,死者の復活を認め るかどうかを挙げている(ヨセフス1.ユダヤ古代誌.1 13.171 ; 18.11 ; 1.ユダヤ戦 記! 2.119)。その際にヨセフスは,読者の理解を得るために,死者の復活の観念 を霊魂の不滅の概念に置き換えて説明している。霊魂の不滅の観念は,プラト ンの思想の中に存在し(「パイドロス.1 245c‑246d; 247bc),ヘレニズム世界の 知識人達にも馴染みの深いものであったからである。アレオパゴス演説におい てパウロはこのような蹟きを回避するための便法を採らず, キリストの復活と いうキリスト教信仰の核心を説得の手段として援用したのであった。そのこと は,第一に,旧約・ユダヤ教に由来する死者の復活の観念は(イザ26: 19;ダ

=12: 1‑3; 11マカ7:9, 14, 2223),霊魂の不滅に置き換えることの出来ない 概念であると認識されていることを意味する ・第二に,この説得法がヘレニズ ム哲学者からなる聴衆の噸笑を招いて失敗したことは,説得の手段である修辞 法が上手く機能するためには聴衆の持つ価値観や考え方が重要な役割を果たし

61 CroV, 3236.

62 Charles, 52; Fitzmyen61126{)3

(21)

「アレオパゴス減説(使17:22b31)の修辞学的分析

ていることを物語っている偶3.

使徒言行録には他にも途中で終わった演説が存在するが, そうした中断の意 味するところはそれぞれ異なっている(使2: 1436; 3: 1226; 10:3443; 22:

1 21; 23: 1 ; 26:2‑23)。ペンテコステ演説は聴衆の, 「私達は何をすれば良い のですか,兄弟達よ」 という言葉によって一時中断されている (使2:37)。 こ れは語られたイエスの死と復活の事実に聴衆が心を動かされたことを意味して おり,彼らはペトロの言葉に従って洗礼に導かれている(2:3841)。他方,ペ トロの神殿演説は,祭司や神殿長やサドカイ派の人々が遣わした者達によって 中断されているが, これは彼が神殿に集まった民衆を教え, イエスの死者の中 から復活したことを語ったことに彼らの不興を買ったからであるとされている (使4: 1‑3)。この出来事は,初代教会の福音宣教に対して,神殿の権力者達が 敵対的な姿勢を示す一連の行肋の最初に位置している (使4 :5‑22; 5: 17‑42;

6: 12‑8: 1を参照)。後にパウロがエルサレムでユダヤ人民衆を前にして行った 弁明は, ユダヤ人として生まれ育った自分が復活のキリストと出会ってキリス ト教宣教者となった次第を物語る自伝的な内容を持っているが(使22: 1 21), 激昂した聴衆は彼の言葉を聞こうとせず,律法と聖なる神殿を汚した者として,

死刑にせよと叫ぶばかりであった(使22:22,24)。 この中断の出来事は,民衆 の怒りと騒ぎの凄まじさを浮き彫りにしている。冷静な説得の言葉が機能する 前提が存在していないところでは,真華な弁明の言葉も聞かれることがないの である。エルサレムのサンヘドリン(最高法院)の審問において,パウロが. 「兄 弟達よ,私は今日に至るまで良心に従って神のために生きて来ました」 という 聴衆への語り掛けの言葉を語った途端に,大祭司がパウロの口を打つように命

じたために,弁明演説は中断する (使23: 1‑2)。 これはキリスト教の宣教活動 に対して,大祭司らサンヘドリンの指導者達が取る敵対的な行動の一つに位置

63 Fitzml'er. 6(12603

(22)

「アレオパゴス波説(使17:22b‑31)の修辞学的分析」

付けられ, このような聴衆に対して言葉によって説得することが困難であるこ とを意味する。他方,パウロがカイサリアにやって来たアグリッパ王の前で行っ た弁明は, 自伝的な内容を持っており,厳格なファリサイ派に属し,教会の迫 害者であった自分が(使26:2‑11),復活のキリストの顕現の出来事に接してキ

リスト教宣教者となった経緯を語る(26: 12‑18)。彼がキリストの死者の中から の復活に説き及ぶと,傍で聞いていたローマ総督のフェストゥスが大声で, 「気 が狂っている,パウ口よ・学問をし過ぎたためにお前は気が狂ったのだ」 と叫 んでパウロの話を中断させる(26:24)。死者の復活という超自然的出来事をキ

リストのメシア性の証明に用いようとするパウロの論法を,ギリシア・ローマ 世界の知識人は理解出来ず,パウロの狂気に帰したのであった。この反応は,ア レオパゴス演説を聞いた哲学者達が, キリストの復活を証拠として援用するパ ウロの論理を噸笑したことと内容的に並行している。キリストの復活をキリス トのメシア性の証拠とするキリスト教の論理が機能するためには,超越的な神 の力が自然世界と歴史世界に介入する余地を聴衆が認めていることが前提なの である。

6.結

△問

ニーロ

第一に,序言においてパウロはアテネ人達の宗教心とこれから語ろうとする キリスト教の使信との接点を作るために, アテネ市中で目にした「知られざる 神へ」 と記された祭壇に言及し,知られざる神としてアテネ人達が拝んでいる 方こそ,天地を創った万物の創造主なる真の神であるというかたちで, キリス ト教の中心的な信仰箇条への導入を与えようとしている(17:23)。 これは,聴 衆であるアテネ人達の宗教心とこれから語ろうとするキリスト教の使信との接 点を巧みな形で作り出す修辞的手法である。 しかし,聴衆の持つ多神教的神観 とキリスト教が立脚する唯一の神への信仰の間には,埋めがたい溝があり,パ ウロが叙述部分で述べる万物に命を与える創造主の業の描写は,同時に,人間

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「アレオパゴス演説(使17:22b‑31)の修辞学的分析」

の手で作った神像を神殿に納めて拝む多神教的宗教性の根本的批判となり,対 決的な調子を帯びている (使17:24‑29)。

第二に, アレオパゴス演説は,神が人間に近い存在であり,神を求める者は 神を見出す可能性を与えられていることを強調する申命記の考え方を継承して いる(使7$27申4:7,29;詩145: 18;エレ23:23)。 ところが, この演説は旧 約的な神の近さの観念を聴衆に橋渡しをするために,詩人アラトスのI私たち は神の子孫である。.! という発言を引用する(使7:28)。人間が神の子孫である という観念は,旧約聖書の創造信仰を踏み越え,聴衆が抱いている観念世界に 歩み寄っている。 これに対して,旧約聖書は,神が人間をその似姿に創造した と述べるが,人間は被造物であり,創造主である神と被造物である人間の本質 的な相違は維持している (創l :2627)。

第三に, この演説は,創造主としての神の業を回顧した後,主題を大きく転 換して神がこの世界に審判を与えることを告げ,聴衆に真の神に立ち返るよう に勧めている。 このため, この演説は助言演説に分類出来る。アレオパゴス演 説は,異教世界の人々が天地を創った真の神を知らず,多神教の信仰に従って 様々な神像を拝んで来たのは,彼らの無知によるとしている(使17:30)。アレ オパゴス演説の聴衆の中核を形造るエピキュロス派やストア派の哲学者達は,

知者を任じる人々であり,パウロの言葉は彼らの自己理解に挑戦する効果を 持っている。

第四に,パウロはキリストの復活を終末の裁きが確実であることを示す証拠 (減。て崎)として提示する。キリストの復活をメシア性を示す証拠として強調す ることは,ユダヤ人聴衆相手の説教においては上手く機能している。しかし,知 性を重んじるヘレニズム哲学者達から,構成される聴衆達に対して,復活とい う超自然的な出来事を証拠として援用することは,蹟きを与え,聴衆は噸笑し て,パウロの言葉をそれ以上聞こうとしなかった(使17:32)。 この説得法がヘ レニズム哲学者からなる聴衆の潮笑を招いて失敗したことは,説得の手段であ

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「アレオパゴス演説(使17:22b31)の修辞学的分析」

る修辞法が上手く機能するためには聴衆の持つ価値観や考え方が重要な役割を 果たしていることを物語っている。死者の復活を強調するユダヤ教的な説得法 は,文化的な背景が違う聴衆には機能しなかったのであるが, このことは, キ リスi、教の使信の中核的内容であるキリストの復活については,ヘレニズム的 な観念に置き換えることが不能であることを意味する。両者の接点を見出すた めの修辞的な努力にも拘わらず,福音と周辺世界の文化が正面衝突してしまっ た。アレオパゴス演説が中断されたことは,福音宣教とギリシア・ローマ世界 の知的世界の間に架橋しがたい裂け目が存在していることを示している6』。

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