ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合
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(2) 214. いずれにしても、こうした本稿の試みはやがてイワーノフという個性を超えて、同時代の思想 全般への視野を開くことをも目標としてもつものである。つまり、共同性の体験ならびに感覚の 融合を通じての人間の変容といった、この時代に至るまで考え抜かれ、この時代以後も長くロシ ア文化の中心的主題であり続けた、独自の身体観/主体観が、ここにも見出されることになるだ ろう。. 2.ワーグナー 自身のディオニュソス論を展開した論文「苦悩する神のギリシャ宗教」 《3juiMHCKaa pejmrMa CTpa^aiomero6ora》 (1904)で文壇に登場したイワーノフが、 「ワーグナーとディオニュソス秘儀」 《Baraep m加OHMCOBO fle拐CTBO》を『天秤座』誌に発表したのは翌1905年のことである。それはむ ろん孤立した現象としてのものではなく、イワーノフ思想の全体と、彼が生きた時代の文化的コ ンテクストにおいて解釈すべき対象であり、ワーグナーとイワーノフをめぐる先行諸研究の優れ た成果はそれを前提にした上で、主にワーグナーの著作との影響関係について論じている(2) この頃のイワーノフのワーグナー‑の評価を要約するならば(その評価の多重性ゆえにそれは 難しい作業だが)、ワーグナーを「新たなディオニュソス的創造の、ベートーヴェンに次ぐ第二の 始祖であり、そして全世界的神話創造の第一の先駆者」 (3)と認めた上で、その試みの不徹底を指 摘する、ということになるだろう。理論家としてのワーグナーは、真の芸術は古代に倣って宗教 的本質を持つべきであると宣言し、またその唯一最高の表現手段として、芸術の揺藍期にそうで あったはずの、舞踊・音楽・詩歌といった諸芸術の融合を回復せんがため、楽劇の理念を提示し た.ギリシャ悲劇の復活を予見し、共同的/総合的劇‑ IleMCTBOを実現するための芸術家たち ‑ 「ディオニュソスの職人」 ‑の共同体を構想した。だがワーグナーは最終的には「神秘的 輪舞」 (口366)(4)に至ることはなかった。 「ワーグナー自身によって打ちたてられた公式である、楽劇による(総合的)芸術の実践が、か くも大きな欠陥を抱えていることを我われは確信する」 (11368)。なぜなら、 「ワーグナーは根源 的コロスの意義を明確に意識するべきであった」 (口366)のにそれが足りず、オーケストラに古 代のコロスの役割を与えたもののそれは、聴観衆が「観照する」のみならず「創造する」主体と して「オーケストラのオルギ‑的生の理想的分子となる」 11366. 段階へと導くものではない。. 「古のとき、 『音楽の精神からの悲劇の誕生』の時代のごとく、群衆は踊り、歌い、リズムに従っ て動き、言葉でもって神を讃えねばならぬ」 11367)のに、ワーグナーの楽劇において聴観衆は 依然、近代演劇の制度の枠組のなかで受動的立場にとどまり、オーケストラと一体となって古代 的な真のコロスを形成することがない。 「人の意識と集団的言葉を覚醒させる一条の光」 (11367) が射すことはない。 「新しい有機的時代と未来の演劇」という副題を持つ、 1906年発表の演劇論「予感と予兆」.
(3) ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合. 215. ・IIpeflqyBCTBMH班npe凡BecTMH. HoBaa opraHM^ecKa兄anoxa m TeaTp 6yォymaro》においても同様の評. 価は繰り返される。イワーノフが目指す芸術の総合の理想的形態において、コロスは二元的であ るべきとされる。すなわち、第一の小コロスは「直接に劇の進行に結びつく」もの、第二のコロ スは、劇空間の「仝共同体を象徴し、新たな参与者たちによっていかようにも増大し」 「最大の昂 揚の瞬間、ディオニュソス的エネルギーの完全な解放の瞬間にのみ劇進行に介入する」 113212‑ 213)、より大きなコロスである(5)。 しかしながら、 「ワーグナーにおいてコロスは[‑・]秘められた、声なきもの」であり、 「Festspiel祝祭劇)に集った者たち」、つまり演者のみならず聴観衆は「Ee蕗CTBO劇/秘儀に参与 Lはするものの、それは潜在的かつ象徴的な参与に過ぎない」 113210)。だとすれば、つまり ワーグナーの企図したコロス‑オーケストラゆえに、 Re滋CTBO劇/秘儀の場に集団的創造の原理 が君臨せず、 「共同のオルギ‑の意識」 113213. が現前化し得ないとすれば、聴観衆をも含めた. 変容の空間が、そこに実現するはずもない。「俳優としての演劇的身振りも、歌唱とオーケストラ を伴った真のコロスをも、その(芸術の輪舞)から排除し」 「ソリストの歌手を前面に出す一方で、 言葉と舞踏、合唱と多数性のシンボリズムを蔑ろにした」、 「ワーグナーの芸術の総合は調和を欠 き、不完全である」 (113210‑211)と結論されるのである。 イワーノフのワーグナー批判の正当性を論じることも、また彼のワーグナー受容の全容‑そ れは広大な思想的広がりを持っている‑を把握することも本稿の目的ではないので、ここでは 「芸術の総合」という問題意識に絞って補足を行うとともに、浮上した新たな論点、先行研究にお いて十分議論されていない論点に注意を向けよう。 バートレットも述べているとおり、イワーノフは、楽劇のみがロシア演劇、というよりも、 1905年の政治的挫折以後のロシア社会の危機に際して、有効な救済手段となると考えた(6)。なぜ なら、楽劇の理念によってこそ、近代的な演者と聴観衆の東経は克服されるはずだが、それは象 徴的に詩人‑知識人と群衆の兼離の克服へと読み替えられ、オルギ‑的一体化の空間と変容した 劇場は、個と全体の有機的合一を実現するサボールノスチ(集団性/共同性)的社会のモデルと なりうるからである。その際決定的な役割を果たすのはオーケストラとコロスである。オーケス トラのシンフォニーから「舞台上の劇進行は起こり」 「閉じ」、つまりシンフォニーは「劇進行の 動的な基盤」となることで「世界の意志」 (口3210‑211)として振舞い、一方コロスは、民衆の 根源的/集団的自己としてそこにあらわれる。 ワーグナーが提示した芸術の総合の問題、つまり、現代ではそれぞれ細分化された芸術の‑小 ジャンルへと堕した、舞踊(身振り) ・音楽・詩を始原的調和に復させるという課題もまた、こう した文脈で論じられていることは明白である。 「予感と予兆」では、芸術の総合を志向する者たち として、ニーチェ、イプセン、そしてワーグナーらの名が挙げられているが、その志向は、 「新た な有機的時代」という人類史の転回を信じるユートピア的期待のうちに、 「芸術は神話創造を目指.
(4) 216. しつつ、さらに大きな、仝民衆的芸術を目がける」と定義し直される。そして、この「神話創造」 インテグレ‑ション. の担い手となるべき芸術家たちの「芸術のエネルギーの統. 合が現実になるとしたら、それは. 固有の内的発展の論理に別して、仝民衆的秘儀とコロス的ドラマという、芸術の総合においてあ らわれ、集束することとなるであろう」 IT3196‑197)。つまり、芸術家たちの共同作業によって 生み出される総合芸術とは、秘儀/神秘劇の同義語である。 ここで是非強調しておきたいのは、イワーノフがこの芸術の総合を、劇空間の中で現実化する ことを考える際に依拠する(身体)性である。たとえば「予感と予兆」 12章には、ワーグナーの 頼痕を指摘するかたちで、総合芸術の要件が列挙されている。すなわち、楽劇にセリフを導入す ること。劇場の平土間席を舞踊と演技のために開放するとともに下方に沈め、その前面をいわゆ る舞台とし、残りの円周面に階段状の客席をつくること。オーケストラは、バイロイトに倣って ピットに沈めるか、あるいは他の場所に配置する。コロスの指揮者は、その成員とあわせた衣裳 をまとい、 「全能の魔術者にして祭司のものである幻惑的な第枚[タクト]とリズミックな身のこ なしで、我われの美的感覚を傷つけることがない。彼は共同体の仝成員から見える位置に立つ」 (113212)。聴覚と視覚の双方から来たる美の感覚は、劇場空間をめぐる周到か寅出によって可能 になる演者と聴観衆の一体感、さらに、舞踊や身振りがもたらす身体の連帯感に促進されて触覚 の領域にも浸透し、増大して、律動的な肉体の感覚となる。聴観衆と演者は、この陶酔を受けと める個々の身体でありつつ、やがて秘儀を通して、巨大なひとつの身体へと融合し、変貌を遂げ 0 ‑.. ギリシャの殿堂を通って、道はMncTepMォ神秘劇へと至る。そこで見世物に集ったはずの群 衆は月eMCTBO秘儀の真実の参与者となり、ひとつのディオニュソスの身体を生きる。 (11367 「ワーグナーとディオニュソス秘儀」). コロス的悲劇・喜劇・神秘劇の劇場は、民衆の自己決定権の創造、あるいは予言を育む懐 とならねばならぬ。そうして初めて、俳優と観客の融合の問題には最終的解決が与えられ、 ひとつのオルギ‑的身体が実現するのだ.生命あるコロスの創造的媒介によって、ドラマは もはや外部から差し出された見世物ではなく、民衆のoSniMHa共同体における内的な事件と なる[‑] (口3218 「予感と予兆」). サボールノスチ(集団性/共同性)の実現の場、すなわち、個から全へと至る場所は、比輪的 な意味でも現実の意味でも、身体である。身体芸術である舞台芸術‑の関心、とりわけワーグ ナーの楽劇への(批判をも含んだ)情熱は、 『未来の芸術作品』において舞踊芸術を論じるこの大 作曲家の、次の言葉をも目がけたものであったろう。 ‑ 「歌う人間および語る人間は必然に肉.
(5) ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合. 217. 体的人間であらねばならず、歌いまた語るところの内的人間は、その外的な形姿によって或はそ の五体の身坂によって、直観性に到達する」(7)。 身体というものへの注視は、主に新しい演劇の探求において、詩人のブローク、ソログープや ヴォローシン、チュルコフ、ゴロデッキィ、そして演出家メイエルホリトらはもちろんのこと、 イワーノフ周辺の同時代知識人によって、幾つかの不一致や論争の種をはらみつつ、共有されて いたものと言うことができる(8)。ただし、論者の見るところ、イワーノフ自身による身体性の追 求が、少なくともこの時点で具体的・現実的な局面に‑さらに明瞭なヴィジョンを示す成熟し た演劇論に‑至ったとは言い難い。むしろ、この時期に提示された、秘儀/神秘劇あるいはサ ボールノスチと身体性の問題は、 1910年代に達するまでに、彼独自の理論的展開をみせたのであ る。それは愛/エロスと、身体内感覚による人間の変容のテーマへと至った。 3.チュルリョニス 「チュルリョニスと芸術の総合の問題」 x^ypnaHMCmnpo6jieMaCMHTe3aMCKyccTB》 (1914)は、リ トアニア出身の作曲家・画家であるミカロエス・チュルリョニス(1875‑1911)の、主として画業 の側面から、芸術の総合について考察する。イワーノフによる画家論としては、他にレフ・バク ストの作品「古代の恐怖」に触発された同名の論考<JIpeBHM拐yascac. IIo noBOAy KapTMHbi JI. BaK‑ cTa《TERRORANTIQUUS》》 (1909)(9)がある(10)。本稿の問題設定にしたがって、あくまで「チュ ルリョニスと芸術の総合の問題」の地点から「古代の恐怖」を振り返ると、 5年のときを隔てて 発表された両論考に、ある明瞭な連続を見て取ることができる。その連続とは端的に言って、創 造の源である太古の記憶のモチーフである。 バクストの《TERRORANTIQUUS》に措かれた、雷嵐と地響きにのみこまれる古代の都市国家 の滅亡と、運命のごとく吃立する巨大な女神像を、イワーノフは、生成と破壊を司る永遠の女性 原理という理念に支えられて読み解く.彼はそこに、神罰によって一夜にして海底に没したとい う、アトランティス大陸滅亡の伝説をも見ている。それと並行して提示されるのが、記憶による 共同体の理念である。 「古代の恐怖」とは、始原の集合的記憶や古代の女性原理との乗離の結果と して人類が甘受するべき宿命、世界終末のヴィジョンに他ならぬ‑それが論考全体の出発点と なる。 ところでこの「記憶」とは、仝民衆的な記憶の集積であり、 「世界魂」としての女性原理が内包 しているものでもある。芸術家とはまさに、この個々の下意識に忘れられた「記憶」を共有可能 なかたちにする者であり、それこそが「神話創造としての芸術」というイワーノフの理念を保証 するのだ。 チュルリョニスを論じながら、イワーノフは、この画家の「宇宙論的観照の焦点」にある「古 代の洪水の大いなる幻‑記憶」を指摘する。そして、かつて自身がバクストの「古代の恐怖」に.
(6) 218. 見出したアトランティス大陸のレミニッセンスをも呼び出してくる(ll)。これは決して偶然ではあ り得ない。「こうして画家は、宇宙に全身を浸してそれを感じる」。「マクロコスモスのしるLを観 照するファウストのごとく」、チュルリョニスは「ゲーテがそうしたように、世界魂がはじめの創 造を行いながら交わした会話を隠れ聞いたのだ」 (EM326‑327)。つまりチュルリョニスの芸術創 造は、常に集合的記憶‑の沈潜から出発する。そうした内奥の古層への旅を、イワーノフは宇宙 的起源への遡行と重ね合わせる。チュルリョニスの芸術は、マクロコスモスと、それに照応する ミクロコスモスである人間の二つともを創造した根源的一着、それを創造行為へと赴かせた原理 ‑世界魂へと憧れる、その憧れから生まれ出るものなのだ。「この天才画家のなかのもっとも貴い もの、それは彼が神を呼吸していることである。彼は宇宙の生命に息づき、精霊の恵みを呼吸し ている[. ]彼に倣って、 EflMHoe唯一者を呼吸することを学ぼうではないか。そうすれば[‑]. 孜われの眼前にHeBecta花嫁が現れる」 (EM333‑334)(12)。 [論者: 「花嫁」とは世界魂としての女 性原理と見てよい] こうして「世界魂の夢想が芸術家の創造の夢に現れたかのよう」 (BM326. な、汎神論的な至. 福の瞬間を言語化しようと試みながら、イワーノフは画家チュルリヨニスの諸作品‑ 「蛇のソ ナタ」 「黄道十二宮」 「カオスのソナタ」 (いずれも連作)など‑を論じていき(13)、そのなかで 音楽と絵画の総合‑の展望を開こうとする。なぜなら、イワーノフの考えるところチュルリョニ スは、こうした創造的霊感と宇宙的観照をもたらす、太古の神秘‑の時空を超えた没入を、視覚 と聴覚の区分を越境する、ある特別な身体感覚で感受していたからである。このことは極めて重 要であり、強調しすぎてもしすぎることはない。 「音楽的手法はチュルリョニスにとって、世界の神秘に至る秘聖所を開く鍵である。現象の音楽 卓見旦[下線は論者による]ことで、彼はイシスのベールを持ち上げたのだ。彼には自分が、神 が種まいた太古の原フォルムから来たったあらゆるフォルムの、その生成の神秘に達し始めたと 思えたであろう。彼の絵は、世界を説明しようという試みとなったのだ」 (EM323)。音楽が必要 とされるのは、 「音楽の力によって世界が彼のなかに客体化される」 (BM335)からであり、そこ で彼の夢に現れる世界の夢‑カオスは、 「もはや最原初のものではなく、音楽的に和した」カオス であり、しかも「こうした世界調和のこだまは、チュルリョニスにとっては、フォルムと色彩を めぐる観照と分かち難く結びついていた」 (EM326)のである。連作「カオス」を論じながら、 イワーノフはそこに、「原型のフォルムの、生き生きとした発展に向けられた音楽的洞察」が、こ の傑作に措かれた「未来のすべての色彩、来たるべき世界のすべての原型を含んだ原初の水」へ と流れ入り、結果として、 「宇宙発生を語る神話‑と花開いた」 EM328)ことを賛美する。 いまや世界は、それを立ち上げた音楽的な調和が色彩とフォルムの海へと和するものとして感 受され、そこにこそ、音楽と絵画の総合というチュルリヨニスの手法が招請されてくる。それは、 象徴としてのイメージを音楽の(ワーグナー的な)ライトモチーフのように展開させるという点.
(7) ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合. 219. に発するが、この手法についてイワーノフは次のような分析を与えている。すなわち、画家とし てのチュルリョニスは、音楽の原則を借りて視覚印象を心理的に再構築し、そのことで、 areali‑ busadrealioraascendit 「実在から真実在‑」というイワーノフ自身の主張に限りなく近づく。 具体的には、 1)まず現実を映す絵画的フォルムの再現を繰り返していきながら徐々にそこから離 れて、イデアル/ファンタスティックなフォルムの領域へと近づく。 2)音楽的[に再現・反復さ れる]派生的フォルムは物質性を失い、結果として心理的要素としての性格を強める。 3)それら のフォルムは、観察から得られた当初の視覚印象を失うことはないが、普遍化することで抽象性 を帯び、その過程で、根源的で揺るぎない、そのフォルムの原型的イメージを開示する。 ‑」 ういった階梯が指摘される(EM319‑320)。つまり、. 視覚印象は彼[チュルリョニス]にとって音楽上の主題と等価であり、音楽と同様に発展す る。鑑賞者はフォルムの世界にとどまりつつ、音楽のごときその展開を目撃する。イメージ は反復され、増幅され、あまたの分身と変種を生みつつ、ついには、霊的イデアの非物質的 な鏡に映ずる、その根源的‑メロディックなと言ってもよい‑フォルムの純粋な投影に まで至る。そもそもの絵画的イメージに内在していたメロディは、音楽の法則に従って主題 的発展を遂げる。調和し、変奏し、最大の緊張を日がけて、そこにのみあらわれるエネルギー を最終的に開示し、ついには、それぞれの音楽の軌道にそって運動する、他の主題‑イメージ 群と絡み合う。 (EM321). 視覚イメージの音楽的発展、視覚と聴覚の融合の試みとは、すなわち「空間的次元と時間的次 元を結合する試み」 (BM335. でもある。通常の絵画は時間を含まないがためにスタティックで. あり、音楽のキネティツクな本質は時間のなかで明かされる。よって絵画と音楽の総合は、時間 と空間というカテゴリーを異化された関係におくこと、さらに言えば、 「不可分な統一体としての 時間と空間を観照」し「時間と運動を含んだ異種の空間を鑑賞者に体感」 (EM321‑322)させる ことに等しいのである。そうして体感される境地を、イワーノフは次のように描写する。. [‑]そこでは、空間と因果律によって分たれたものたちが、内なる親和力と照応の、神秘的 法則に従って再びひとつになる。他を求めるすべてのものが、その他との出会いを喜び、合 致、和合、共鳴を喜ぶ。 (EM326). ここで再び、歴史と宇宙、時間の始まりと無限空間との合一のあの歓喜が呼び起こされる。そ の共感覚的な境地が、なにものか‑の回帰・再結合、他との境界を越えて一体となることの侠惚 として語られることを、決して見逃すべきではない。それはイワーノフ思想にとっての最重要の.
(8) 220. テーマ、すなわち愛とェロス‑と通じているからである。 つまりそれは、官能的な陶酔なのである。すべて孤立してある者は、無限のなかにいったん自 分を消し、再び見出すことを望むというゲーテの言葉を引きながら、イワーノフは、自然という 生命の源との一体化への切望に触れるが、ここで言う自然とはもちろん、万物を生み、また滅ぼ すエネルギーとしてのエロス、かつてバクストをめぐる「古代の恐怖」で語られた、あの女性原 理でもある。先にも述べたとおり、この女性原理‑世界魂こそは、宇宙を創造した根源的一着を 創造行為へと赴かせた原理であり、エネルギーであった。別の場所ではそれが、イワーノフに よって「神的エネルギーを性によってひきつけること」 「性による宇宙的神政」 (BM329)と名ざ される。 同時期の講演録である「芸術の境界」ォOrpammax MCKyccTBa》 (1913)において「創造のエロ ス的本質」が指摘されるのも(BM210)、イワーノフの読者にとってはなんら唐突なことではな い。彼の思想においては、宇宙の神聖な本質との神秘的合一を目指すエロスが、すなわち変容の エネルギーであり、ひいては変容を来たさしめることを目指す芸術のエネルギーなのであるとい う指摘があるが(14)、これはたとえば、本稿で扱った批評や評論以外の、詩人としてのイワーノフ の仕事を‑《CorArdens》 (1911)をはじめとする‑知ることによっても必ず確認できよう。 また重ねて、愛とエロスがここに浮上するのは、対峠する二者(男女を含めて)の結合を示す メタファーとしてのみ、それが有効だからではないOそれのみならず、自我の境界を越えて他者 と、あるいは大いなるなにものかと一体化する欲望としてのエロス、いわば自己滅却と根源的な るものへの回帰願望として愛がとらえられるのみならず、その根源からなにかを生み出す動的エ ネルギーとしての愛、それが定義されているからである。 こうしたエロスの運動はむろん、あのサボールノスチ(集団性/共同性)の理念へと通じてい る。「愛がチュルリョニスに、おののきからのがれてカオスそのものを観照することを可能にして くれた」 (EM331)と論じつつ、 「宇宙はサボールノスチを渇望している」 EM338. と述べるの. は、エロスに発する変容のその先に、宇宙に戻るであろうさまざまなレベルでの仝‑性、その結 果としての、あらゆる有限を超える無限性についての期待からなのだ(15)。マクロコスモスとミク ロコスモス、時間と空間、我と汝の合一、そして、 5つの領域に細分化された‑歴史のなかで そのように整理区分されて硬直化した‑人間の諸感覚の融合のヴィジョンが、そこにはある。. [‑]我われはこれまで、 3つの次元と5つの感覚の世界に生きている。 [‑]互いに浸透す ることのない、時間と空間という、絶対に強制されたカテゴリーのうちで生きているのであ る[‑]孤独な芸術家たちは、その遠心的志向によっていずれ[‑]隣り合うミューズたち の場所へと導かれて行く。するとそこで、両義的でハイブリッドな創造のフォルムが形成さ れる[‑] (EM339‑340.
(9) ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合. 221. 「隣り合うミューズたちの場所」とはもちろん、詩歌・舞踊・演劇といった個々の芸術ジャンル が垣根を払って睦み合う場所である。芸術ジャンルの混交は、 3次元の世界を個別の5感覚で知 覚する、我われの認識の在りよう自体を変える。その結果、絶対のものと思われる時空間のカテ ゴリーにさえ転位や陥没、ねじれ、圧縮が起きるであろうことは、これまで検討してきたチュル リョニスの「宇宙論的観照」の叙述を想起すれば明らかである。外部の世界を五感で知覚・認識 するという通常の在りかたは消え、内的体験としての世界を、融合した感覚の鏡に映しながら、 それに応じて現れた新しい表現の形式‑芸術の総合‑に形象化することは、すなわち、人間 そのものの変容を前提とすることでもある。それがイワーノフのチュルリョニス論の最も枢要な 点でもあった。以下のくだりはそれを示している。. というわけで、我われは解きがたい矛盾、ある美学上のアポリアに直面しているのであるO 芸術家の内的体験が、彼の芸術の及ばぬところにあるにもかかわらず、その芸術の表現力が なければ内的体験を表現できないというアポリアに。生はこの矛盾を、ひとつの芸術を隣接 する芸術‑と転位させることによって解決しようとしており、そこから、シンクレティツク な創造‑と至る新たな造形法への道が開かれる[‑1 EM341‑342. あるひそやかな、大きな転位が[‑]精神生活のあらゆる価値と基本原則の転位というだけ ではなく、さらに深い、すなわち事物の知覚そのものにおける転位、こころの生活の基礎に かかわる転位が、つまり自我というものへのまったく別種の意識、あらゆる物質性に対する まったく別種の知覚[が芽生えつつある] (EM342) 4.おわ. り. に. 「チュルリョニスと芸術の総合の問題」の翌年、つまりスクリャービンの没年である1915年に書 かれたとされる講演録「スクリャービンの芸術観」 :<B3rjiafl Cxp兄6MHa Ha MCKyCCTBOサ(16)において は、ワーグナー論とチュルリョニス論で提示された論点が反復、確認されている。 すなわち、芸術の総合という課題は単に表現形式の問題にとどまらず、自我の狭い枠を超え出 てサボールノスチ‑と向かうことを、ひいては、孤立した近代的自我の消滅と「新しき人間の誕 生」をも目指すものであること、一芸術の境界内において人の精神の転位を期待することは不可 能であること。神話と象徴によって伝えられる集合的記憶、世界の生成ならびに人間の認識に関 わる芸術(特に音楽)の機能、世界を解放し、変容させる芸術の魔術的威力。そして芸術と宗教 が一体不可分であること、さらに、あらゆる創造行為の動因としてエロスが名指されること。‑ 「(芸術の総合)の問題は、スクリャービンにとって大切な問題であり、それはあらゆる芸術を唯.
(10) 222. ‑の目的に奉仕させることによって解決された。仝芸術の外部にあってそれらより高いもの、す なわち典礼と秘蹟に奉仕させることによって」(17)。 マザーエフは、その著『ロシア象徴主義の美学における芸術の総合の問題』に「(ミステリヤ) から(サボールノスチ)へ(イワーノフとスクリャービンの芸術の総合)」という章を置き、その なかで、ディオニュソス劇やサボールノスチ、魔術的芸術といったイワーノフの鍵概念を概観し ている。ことにスクリャービンに焦点を合わせる箇所では、この作曲家が、 「芸術の総合」を MMCTepM刃「ミステリヤ‑神秘劇」の理念へと展開させていったことが述べられている(18) イワーノフの場合そのふたつの理念は、はじめにも述べたとおり当初から一体であったか、あ るいはむしろ「ミステリヤ」が、 「芸術の総合」に先だつものであったとも言える。 「チュルリョ ニスと芸術の総合の問題」ではそれが次のように述べられている。 ‑ 「ヴェセロフスキイ[ロ シアの文芸学者]が、のちに分離することとなった諸芸術‑ドラマ、叙情詩、叙事詩、オーケ ストラ、そして音楽‑の揺藍とみなしたくシンクレティツクな秘儀)の太古から、祈りのなか で霊感を得て睦まじく、ミューズたちはコロスへと和していた。自然に、なんの束縛もなしに、 今の我われにとっては理性の決意をもって求むべき総合が実現されていたのだ。 /こうした総合 は宗教劇としてあらざるを得ないことを、『パルジフアル』という秘儀のつくり手も、そしてスク リャービンも理解していた」 (EM346)(19)。すぐに続けて、宗教儀式には必ずあらゆるジャンルの 芸術に加えて、芳香といった快をもたらす要素が見られると指摘するのは、間違いなくスク リャービンを意識したものといってよい。 チュルリョニスをめぐるイワーノフの結論は、芸術の総合の問題は「新たなサボールノスチ的 意識」に応え、 「芸術の唯一にして至高の目的であるMMCTepMaミステリヤ」を追求するものであ ること、それは未来の宗教的生の問題である、という判断を示す(EM347)。前述したとおり、 これには敗戦と革命の挫折を経た後の、 20世紀初めのロシア知識人としての切実な政治的主張も が含まれている(2.ワーグナーの項を参照)。 「予感と予兆」の最終段落は次のように結ばれて いた. ‑ 「付け加えておこう。政治的自由というものは、このような共同体のコロスの声が民 衆の真実の意思の真正なレファレンダムとしてはたらくとき、そのときにはじめて現実のものと なるのだ」 (口3219)。民衆の声と一体化する「コロスの声」が、イワーノフの演劇論、そして芸 術の総合の理念における核心的表象であることは、これまでに述べてきたとおりである。 最後に残るのは、そうした「新たなサボールノスチ的意識」あるいは「未来の宗教的生」 「共同 体のコロスの声」とは、いったいどのような具体的かたちをとるのか、という問題である。それ を考えるとき、同時代においても厳しく批判されたイワーノフの演劇観の過度の観念性、あるい はユートピア主義といったものが浮き彫りにならざるを得ないのだが、ただここでは以下のこと を指摘し、確認しておきたい。 イワーノフにとって芸術の総合の追求は、生のあらゆる局面における統合と融合、始原への回.
(11) ヴヤチェスラフ・イワーノフにおける芸術の総合. 223. 帰へと向かうものであった。芸術を宗教として再生させようとする意図は、非日常的な共同性の 体験を通じて芸術の魔術的力を復活させようとするものであるが、その媒体となったのは、人間 の意識や理性といわれるものではない。感じる主体、他を欲し連帯するものとしての身体である。 諸感覚の融合はもちろん、創造の原理としてのエロスという論点は、ここから引き出された。そ こには、身体性を通じた人間の変容のための戦略があったのであり、この観点においてイワーノ フはまったく孤立した思想家ではない。イワーノフと同時代他ジャンルの芸術家たちをつなぐ、 ともすると見えにくい糸は、そこにこそ見出されるべきであろう。一例を挙げれば、イワーノフ が舞踊に関心を示していることも、当時イサドラ・ダンカンに熱狂した文学者たちとの共有の思 想的土壌(20)を指摘しうることはもとより、 「芸術世界」グループとの連関という視点から考究す べきと考える。別項のテーマとして、あらためて取りくみたい。 注 ( 1 ) CxaxopcKMM, C.B. BsraecjiaB MBaHOB n pyccKa只TeaxpajibHaa KyjibTypa Hanajia XX BeKa. JIeK叩m. M.: Tocy‑. flapCTBeHHHM HHCTMTVT TeaTpajlbHOfO MCKVCCTBa, 1991. C.69.を参照。 2 ) Rosamund Bartlett, Wagner and Russia, Cambridge University Press, 1995. 太田丈太郎「ロシアにおけるワグネリズム‑ヴヤチェスラフ・イワーノフの場合」 // 『ロシア語ロシア文 学研究』 (日本ロシア文学会)第30号1998年. 63‑78頁. を参照。. ( 3 ) MBaHOB B.M. IIo 3Be3flaM. CI16.: Opbi,1909. C.65.. 本稿において今後この著作から訳出して引用する際には、本文中に略号I13とともにページ数を示す。 (4) 「輪舞」 (露XopOBOfl/強Reigen)という語は、ワーグナー白身が、主に諸芸術の融合を表現するものとして 使用した語であり‑たとえば主著のひとつ『未来の芸術作品』 《DasKunstwerkderZukunft≫ (1849)を参 照‑イワーノフもまた、その後の著作において長くにわたって好んで使用している。 なお、本稿はイワーノフのワーグナー受容というテーマに特化して取り組むものではなく、また紙数の関係 もあってワーグナーの著作からの引用は最小限に抑えたが、文献としては以下を参照しているO 『ワーグナー著作集』am且. 三光長治監修. グーグネル『未来の芸術作品』奥津彦重訳. 三光長治・高辻知義ほか訳. 第三文明社1990, 1993, 1998.. 楼井書店1949年. Gesammelte Schriften und Dichtungen/ von Richard Wagner. (Bd.1‑10). Leipzig: E.W.Fritzsch, 1897‑1898. (5)こうした大コロスの一例として名指されるのが、ベートーヴェン「第九」の合唱である. (6) Bartlett,p.135.. (7)グーグネル『未来の芸術作品』 54頁。なお、引用に際して翻訳の旧字体を改め、また独語原文を確認の上、 訳文にあった傍点を削除した。 Gesammelte Schriften und Dichtungen/ von Richard Wagner. Bd.3. S.71. ( 8 ) TeaTp. Krara o hobom TeaTpe. CBodhmk CTaTe滋. Cn6.: HIhitobhhk, 1908.. James West, Russian Symbolism. A study of Vyacheskv Ivanov and the Russian symbolist aesthetic, Methuen & Co Ltd, London, 1970, ppl41‑143.. craxopcKMfi, C.B. YKa3. con. C.42‑49, 52‑58.等を参照。 ( 9 ) MBaHOB B.M.ォJXpeBnuii yxac. IIo noBOfly KapTMHH JI. EaiccTaくくTERROR ANTIQUUSサ》 // IIo 3Be3flain. C.393‑424.. 10. イワーノフの画家論をメインに考察した研究は、シンポジウムの報告等を除けばこれまで極めて少ないが、 Aleksis Rannit, Vyacheslav Ivanov s Reflective Comprehension of Art! The Poet and Thinker as Critic of So‑ mov, Bakst, and Ciurlionis in Vyacheslav Ivanov: Poet,Critic and Philosopher, Edited by Robert Louis Jackson and.
(12) 224. Lowry Nelson, Jr., Yale Center for International and Area Studies, 1986, pp.253‑272.を参照のこと。ただしこ の論文は、紹介と要約の性格が強い。 (ll) MBaHOB B.M. 《MypjisffflC m npoSjieMa CHHTe3a MCKyccTBサ// Bopo3恥i n Meat山. M.: MycareT, 1916. C.330.. 本稿において今後この著作から訳出して引用する際には、本文中に略号EMとともにページ数を示す。 12. 「古代の恐怖」において展開されている男性原理と女性原理の「聖婚」のテーマが、ここにも見て取れる。 このテーマは、イワーノフを含む後期象徴派に圧倒的影響を与えた思想家ウラジーミル・ソロヴイヨフのソ フイヤ論にまで立ち返って考えるべき問題であり、ここでは詳しく立ち入らない。. (13)本論考が掲載された1914年『アポロン』詰第3号は、ヴァレリアン・チュドフスキイによる評論「チュル リョニス」 (抜粋)を同時掲載して特集を組み、あわせてチュルリョニスの絵画作品を21頁30枚にわたって図版 掲載している。 IIBaHOB B.M.ォtlypjiflHMC m npoBjieina CMHTe3a MCKyccTB》 // AnoJiJioH. 1914, N03. C.5‑21. yyflOBCKM抗B. (H.K.MypjiaHMC. (Otpi>ibkm)サ// TaM ace. C.22‑58.. (14) Pamela Davidson, The Poetic Imagination of Vyacheslav lvanov. A Russian Symbolist's Perception of Dante, Cam‑ bridge University Press, 1989. p.96, p.6. (15) 1914年に『アポロン』誌に初掲載された「チュルリョニスと芸術の総合の問題」を<Bopo3flHmMeacM》 (1916) に収録する際、イワーノフは新たに後書きを付しており、その末尾には次のようにある。 「[‑]チュルリョニ スの世界は果てしのない世界であり、そこには限度もなければ境界もない[‑]」 (EM351) (16) MBaHOB B.M.ォB3rjiafl CicpadHHa Ha MCKyccTBO》 // CoBpaHMe coHHemi最. T. 3. Ilofl peflaKi;Me炭fl.B.HBaHOBa m O. fleraapT. C BBeflem化m h npMMenam兄MM O. JJfiuap‑r. Bpioccejib, 1979. C.172‑189.. 17) TaMxe.C.188. なお、イワーノフとスクリャービンの関係については、ここで詳しく立ち入ることはしない(そのためには 別布が用意されなければならない)。従来両者の思想的・芸術的連関は、芸術のジンテーゼの主題という視点 から論じるよりもむしろ、神秘思想、あるいは政治的傾向の近接といった視点から論じるケースが多かったが、 むろんそこには共通の起源としてのワーグナーの影響が指摘されている。 Ralph E.Matlaw, "Scriabin and Russian Symbolism", Comparative Literature, 1979, vol. 31 , no.1 (Winter), pp.1‑23. Malcolm Brown, "Scriabin and Russian ̀Mystic'Symbolism", IT Century Music, 1979, vol. 3, no.1 (July), pp.42‑ 31 repBep JI.JI. My3bixa h My3HKajiもaaa miゆojior‑4兄B TBopMecTBe pyccKMX no3TOB (nepBbie flecsT‑ajieT‑aa XX BeKa). M.: Mh斗Pmk, 2001. C.7‑52. さらに、注18. のマザーエフの著作を参照。. (18) Ma3aeB A.E.口poSjieina cHHTe3a MCKyccTB b 3CTeTMKe pyccKoro CHMBOjiM3Ma. M.: HayKa, 1992.とくにC.83‑ 142.. (19)初出の「アポロン」誌(1914年3号)においては、 「音楽による秘儀『パルジフアル』のつくり手は理解し ていた」とのみあり、スクリャービンの名は挙げられていない。本稿では、引用の典拠としている《Bopo3恥1 1916 に従って訳出した。 20. 草野慶子「ロシアにおけるイサドラ・ダンカン受容‑バレエ・リュス成立まで‑」 // 『比較文学年誌』 (早稲田大学比較文学研究室)第41号 2005年 27‑47頁 を参照。. *本稿は平成17年度科学研究費補助金による研究「19‑20世紀転換期ロシア文化における身体と性」 (課題番号 15720066)の成果の一都である。.
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