天下統一と城
11181061 兒玉涼 0. はじめに 1. 城の歴史 1-1 古代から中世の城 1-2 戦国の城 1-3 江戸の城 2. 築城の過去・現在・未来 2-1 城を建てるまで 2-1-1 港 2-1-2 楽市楽座 2-1-3 既得権の奪取 2-1-4 年貢 2-2 城を建てる 2-2-1 城と城下町の設計、縄張り 2-2-2 2-3 城を建ててから 2-3-1 武器としての城 3. 三英傑の城 3-1 信長の城(那古屋城、清州城、小牧山城、岐阜城、安土城) 3-2 秀吉の城(長浜城、山崎城、大阪城) 3-3 家康の城(浜松城、江戸城、駿府城) 4. まとめ0. はじめに 立派な城があれば天下統一を成し遂げられるかというと、そうではない。しかし、天下統一を成し遂げた 偉人の城は、立派である。なぜなら、城を建てられる経済力があるためだ。また、戦国時代の戦争は、経済 戦争だと言われている。経済力は、その武将の生き残りに関わる重要なポイントだった。本論文では、経済 戦争に打ち勝ち、天下統一を成し遂げようとした偉人の経済政策を取り上げる。また、その天下統一事業の 中で、城がいかに建てられ、城の歴史を変えていったのかを述べる。 1. 城の歴史 現代人が慣れ親しんでいる城は、古代から続く戦争用の城と、居住空間としての館が融合したものである。 また、当時は権力の象徴であり、目下に城下町が広がっていた。本章では、城がどのような経緯で成り立っ たのか、城の役割を示しながら述べていく。 1-1 古代から中世の城 1-1-1 縄文期~弥生期の城 縄文時代、農耕生活を始めた人々はムラを形成した。他のムラからの略奪や攻撃から、ムラや人を守 るために、空堀や水堀を造っていたことが分かっている。その集落を「環濠集落」いい、代表的な吉野 ヶ里遺跡(佐賀県)は、防御的な性格が強く、日本の城郭の始まりとされている。時代が進むにつれ、 防御法が進化し、ただ防御するだけでなく反撃しやすい造りにするなど、堀や土塁、柵に工夫を凝らす ようになっていった。古墳時代になると、ムラを統合する首長が現れ、クニが誕生する。首長は深い堀 や土塁、物見櫓を造り、防御性能をさらに向上させた。また、広大な居館や古墳を造ることで権力の象 徴とした。 1-1-2 古墳期~奈良期の城 いくつかの有力氏族が連合して成立した「ヤマト王権」という政治組織が現れる。ヤマト王朝は、663 年、百済に味方し、唐・新羅連合と白村江にて闘い大敗した。それを機会に、百済からの亡命者に朝鮮 式山城を、吉備真備に中国式山城を九州地方に築城させることで、唐・新羅連合に上陸・攻撃されるこ とに備えた。これまでの土塁や堀も利用されたが、石塁を設けたところもあり、後の石垣につながる技 術が誕生している。 西日本だけでも多くの城が建てられたが、東北地方でも蝦夷征討のため、多くの柵が建てられている。 これらは防御的性能より、軍事拠点としての性格が強く、鎮圧後は東北開拓の中心として活用された。 ヤマト王朝の律令制度が確立されると、中央権力支配が始まり、全国に地域の政治を司る国府や郡衙 が設けられた。それらの政庁を中心に、倉庫群や住居群の形成が始まり、さらに外郭で囲むことで小都 市が出現した。 国家規模で設けられた城・柵のだけでなく、地方豪族により居館としての城が発達した時代でもある。 この時期、地方豪族が大規模な館を建設している。中世移行に見られる武士の館のルーツとなった。 このように、ヤマト王権成立後、城の重要な要素として、石垣・都市機能・館のはじまりを垣間見る ことが出来る。 1-1-3 平安末期~鎌倉期の城
平安末期から、戦闘を専門とする集団である武士が台頭してくる。元豪族であるその武士が勢力圏を 造り、石垣や築地塀と呼ばれる土塁に守られた居館を造った。彼らは荘園公領の地頭や領主としての性 格を持っていたため、独自の城郭をもっておらず、それらは住宅としての性格を原点としている。しか し、背後に崖や丘陵大地のある位置が選ばれている。防御を考え、軍事的に細心の注意を払っていた事 が知られている。また、街道や重要河川の近くに位置するなど、政治的・経済的な拠点となるような場 所に立地することが多いという指摘もされている。 この時代、中世の軍団組織や戦術をみると、太刀や弓矢による個人戦の傾向が著しい。城を介した戦 いというものが少なく、城郭建築の構築が古代に比べ少なかった。元寇の際に、石垣を設けるなど、細 かな技術の進化や蓄積はあったと考えられるが、城に大きな変革は起きなかった。館という城の原型が 全国的に普及した時代と言える。 1-1-4 南北朝期の城 十三世紀末から十四世紀の内乱時代になり、館ではなく本格的な城が登場するようになる。これまで、 太刀や弓、騎馬武者同士の野戦を中心としていた戦いの形が、城を最大限利用した籠城戦が見られるよ うになった。千早城を代表とする当時の城は、合戦時の臨時的要害であり、その城が勝敗を左右する大 事な要素となった。そのおかげで城は、飛躍的な発達を遂げている。城の設備として、塀・橋・柵・堀・ 木戸・役所・櫓、柵には逆茂木・乱杭・鹿垣など、戦国時代の城にもあった構築物があったことが知ら れている。その進化に一役かった人物に、楠木正成がいる。鎌倉幕府を滅亡に追い詰めたとされる楠木 正成は、二重釣塀や藁人形作戦といった奇策や、走り木という兵器を用いるなど、自然要害に築かれた 山城がいかに戦いに有効であるか示した。 1-1-5 南北朝末期~戦国初期の城 南北朝末から応仁の乱まで、南北朝時代に興隆をみた山城は、ほとんど使われなくなる。なぜなら、 室町幕府は安定期に入り山城を使う機会が無くなってしまったからだ。また、それらの山城は天嶮の要 害に建てられているため、政治・経済上の拠点として不向きだった。そのため、室町幕府が補任した守 護は、古代以来、国府や国衙が置かれていた位置に守護所を設けることになった。守護所の周りには、 守護所が形成され、それは戦国城下町へと発展することになる。 まだ南北朝の内乱が続いていた頃、1378 年、足利義満は京都に「花の御所」を建設した。それは、こ れまでの公家式宅の模倣ではなく、武家独自の様式を取り入れた居館であった。南北朝が統一され、武 家の権力が全国に示された後、花の御所を小型にした居館が地方各地で建てられた。地方の守護たちは、 その居館をもってして、室町幕府の権力を笠に着、地域における権力の象徴としたのだ。室町幕府の権 力構造は安定に向かうと思われたが、そうはいかず、各地で一揆が起こるようになり、幕府権力は衰退 していった。同時に守護の自立性が高まっていき、館に近い距離に山城を設け、長期的に維持するよう になるが、ここでの山城はまだ城主の日常的な居住空間ではない。守護館・山城・町が一組という性格 を持ち始めている。 1-1-6 1-1-7 1-2 戦国の城 騒乱の戦国時代に入り、城の需要は高まっていった。その城を守るため、攻めるために多くの知恵と
工夫が施され、戦国の城は大きく発達することになる。 戦国時代に入り、南北朝期にも少し見られた館・山城・町という組み合わせが一般的になる。武将は、 戦の指揮もするが、領国を経営しなくてはいけないため、平時は居館にて政治・経済を動かし、山城は、 戦時の詰の城として利用した。また、武将の家臣たちも自らの居館・城・町を抱えていた。戦国初期は まだ兵農分離が進んでいない国が多いため、館・山城・町のセットが無数に築かれた時代でもあった。 これらの家臣や国人が建てた城は、戦争にて支城や又支城として利用されるなど小さな城を使った戦争 が多く存在した。 戦後、文化庁の指導のもと、中世城館跡の調査がされた際、各県に数百~千、またはそれ以上の城館 が発見されている。その中で戦国期に建てられたものが80%あり、全国で約二万もの城が建てられてい たことが分かっている。これらの城館は、国人や土豪などの在地領主が建てたものだけでなく、地侍や 村人がいざという時に立て籠もるための城も含まれているとされている。戦国時代は、正に城の時代と 言ってしかるべきであろう。 十六世紀前半、城主たちは平地館から山上の城や本拠を移し、平山城という城を設けている。織田信 長の清洲城から小牧・岐阜城への移行がまさにそれだ。 1-3 江戸の城 1-3-1 2. 築城の過去・現在・未来 城の築城には、多くの資金を必要とする。一般的な戦国武将は、一つの城を建て、そこを拠点に領国を広 げていったが、織田信長は違っていた。五度も居城を変え、大阪に六つ目の城を建てる計画まであったとさ れている。信長の経済政策は、政策同士がうまく絡み合い、正の循環を生んでいた。信長はどのような経済 政策を実施していたのか、また、どのような城を、どのように活用したかについて言及する。 2-1 城を建てるまで 2-1-1 港 信長は、明智光秀の謀反で敗れるまで、多くの港を掌握してきた。例えば、将軍足利義昭を奉じて上 洛した際、褒美として福将軍か畿内五ヶ国の管理職の位を進められるが丁重に断っている。その代わり に、堺・大津・草津に代官を置く許可を願い出たのだ。信長が将軍に港への政治介入を要請する理由は、 経済的な狙いがあったのだ。港による税収は地域によっては年間の年貢収入より大きな額になるとも言 われている。信長のこの考えは、彼の育った環境が影響しているのだろう。 信長の父である織田信秀は、港を使い巨万の富を築いたと言われているのだ。尾張の特産品である常 滑焼が搬入出される熱田、津島の湊を押さえており、そこに税を課すことで相当な額の収入があったと されている。その証拠に、彼は伊勢外宮の修理費として現在で言う6 億円を寄付しており、奈良興福寺 多聞院の英俊は、「なんと奇特な人もいるものよ」と『多聞院日記』の中で驚いている。 琵琶湖は京都と東国を結ぶ輸送交通であり、堺は瀬戸内航路や南海航路の起点、海上交通の要衝であ った。これらの三港は、その後、信長の経済力を一層高める重要な拠点になった。 堺は、また、軍需生産都市や日明貿易の発着港という側面も持っていた。武器の調達や国内輸送以上 の収益を期待できる堺を、信長はどうしても手に入れたかったのであろう。その証拠に、矢銭の要求を 断った堺を一年間攻撃せずに我慢している。自治都市である堺は、三好三人衆に頼んで、信長を追い払
おうとしたのだが、信長はそれを撃退し、堺に言う事を聞かせたのである。一年間様子を見るというこ とは、今までの信長や寺内町での例から比べるとあり得ないことである。どうしても、堺をそのままの 形で手に入れたかったのであろう。 2-1-2 楽市楽座 革新的な経済政策として最も知られているのが、楽市楽座である。楽市令とも言われ、既存の特権階 級の持つ座や市を廃止し、自由に商売が出来るようにする制度のことを指している。 今まで商人は、独占を認められた寺社や公家に営業販売権を購入し、商売をしていた。また寺社や公 家に対し、交通手数料、固定資産税、売上税も払っていた。それでは商売人の数も増えず、商品の値段 も高くなってしまい、商売も繁盛しない。そこに、自由な環境を城下町に整備し、提供したのが信長だ った。 自由に商売が出来るようになったため、多くの商人が城下町に集住し、多くの消費者が立ち寄った。 信長は城下町が大きくなると、売上税は徴収していたとされるが、商人にとって、以前までと比べると 遥かに手元に残る資金は多くなっていた。楽市楽座の成功は、経済的な利点以外にも、戦の上で必要な 物資を比較的容易に、安価で調達できるようになったのだ。 これまでの大名は、関所をいくつも設けることによって、小さな手数料を小さく積み重ねていた。し かし、信長は、町に人を多く集めてから、売上税という形で大きく取る儲け方をした。これは、世の中 の金がどこに流ており、どのように手を加えれば自分の手元に入ってくるかを簡潔に考えたに過ぎない。 しかし、多くの武将はそれが出来ず、信長ほどの経済力は獲得できなかった。 2-1-3 交通網整備 道路網の整備が楽市楽座と同時期に行われている。信長公記には、「入江や河には舟橋を架け、急勾配 の道はゆるやかにし、岩石のために狭められているところは岩石を取りのけて道を広げた。道幅は三間 半とし、両側に松と柳を植えた。それぞれの地区ごとに老いも若きもが奉仕して、水をかけ、ゴミを片 付け、清掃をした。」(現代語訳 信長公記)とある。また、物流を滑らかにするために、橋の普請や海上 交通の整備も行っている。できるだけ多くの商人や商品が集まるように街道整備を整備したのだ。人々 はこれまでより、楽に牛車での輸送、物資の海上輸送が容易になった。 他の武将であれば、街道の整備を進めることは、敵が侵入しやすい環境を作ることに繋がるため、実 行しなかったであろう。しかし、信長には城下町を城の一つとした惣構え、そして経済力を基盤とした 兵農分離による先頭専門集団を城下町に住まわせることによって、これを可能にしている。 戦国時代は、治安が悪かったため、日本を渡り歩く商人は隊を作り、護衛兵を雇い移動していたとさ れていた。イエズス会のルイス・フロイスは『日本史』に、信長の時代になってから、人々は昼夜を問 わず安全に旅が出来るようになったと綴っている。信長は、物流を安定させるために治安を安定させる 政策も取り入れていたようである。 2-1-4 既得権の破壊 当時は、世の中の金持ちの大半が寺社仏閣の組織であった。その中でも比叡山と石山本願寺の二つの 勢力が日本の経済を牽引していた。その勢力を二つとも制圧し、取り込むことで、信長はさらなる経済 的飛躍を目指した。 比叡山は、戦国時代で最も経済力のある組織の一つだった。市を支配していた寺社たちは、やがて商
品流通そのものを支配するようになる。朝廷や幕府に働きかけて独占販売権(比叡山は酒の販売権)を 入手したり、座を作って他業者を閉めだしたりするようになった。荘園は日本全国に分布し、日本一栄 えた京都にも領地を持っていた。馬借を牛耳り、関所で高額な通行税を徴収するなど、不動産・金融・ 商業・運輸など、当時のあらゆる産業の利権を比叡山が保有していた。これらの資金力を背景に、武器 を多く所持していた比叡山は、朝廷や幕府、戦国武将の悩みの種であった。 世の中の金の流れを見抜く信長は、この比叡山の利権に目をつけた。那古屋から京都に向かって領土 を広げる信長は、最初から比叡山に対し強硬姿勢を崩さなかった。朝倉・浅井軍と戦っていた信長は、 比叡山に対し、「朝倉郡に加担しないように」と要請している。中立姿勢を保てば、これまでの比叡山の 領地を返還するとしていた。しかし、比叡山は朝倉軍に加担したのだ。怒った信長は、比叡山を焼き討 ちにした。 石山本願寺も、信長の殲滅対象になっていた。本願寺は、寺内町の収入を主として、既存の寺社とは 違う形で勢力を拡大していた。寺内町というのは、権力の介入を受けない自治都市のような特権を持っ ていた。特権とは、徳政適用除外、諸公事免除が主である。この特性適用除外とは、徳政令(借金帳消 し令)が出ても、この区域だけはその対象カラ除外されるということである。室町時代、この徳政令が たびたび発令された。商人たちは、債権がすべて返ってこなくなるので、商売が非常にやりにくい。そ のため、徳政免除というのは、商人保護であり、この地域には商人たちが集まってくるのである。また、 これまでの仏教勢力の干渉を嫌う商人が自由さを求めて集まった。この特権のおかげで、石山本願寺は 大いに栄えた。 信長は彼らの力を削ぐために、足利義昭上洛の際に矢銭を要求している。その後も度々矢銭を要求し、 応えない寺内町には、容赦なく攻撃を加えた。石山本願寺は信長の要求に応え、金を贈るなどしていた が、厳しい姿勢に耐えられなくなり、一五七〇年に決起している。 2-1-5 年貢
2-2 城を建てる 2-2-1 城と城下町の設計、縄張り 信長は、戦国時代の城と城下町の位置づけを大きく変え、豊臣秀吉以降の都市の原型を創りだした。 それまでの城と城下町の関係は、偶然隣り合っているものや、近くにあったため引き寄せ合ったもの、 市に城が築かれ出来たものなど、多種多様であった。しかし、信長のそれは違った。「城」と「町」と いう関係を、「町」を「城」の一部として、城下町を取り込んだのだ。 図1,2は小牧山城とその城下町の測量図である。小牧山城は、信長が初めて自由に縄張りを決め築 城した。この図から、少しだが信長の意向を読み取ることが出来る。西側は、それぞれの土地が小さく、 商人が暮らしていたとされる。大きな通りが多く通っている辺りから、交通整備の政策に似た、人や物 の流れを考えた心配りが伺える。反対に東側は、家臣が住むために土地が広めに取られている。とても 理にかなった造りになっていることがよく分かる。このように、城と城下町を一つにし、商人を集住さ せている点が、信長の作り上げた戦国城郭都市の特徴である。 2-3 城を建ててから 2-3-1 小牧山城 小牧城は、城と城下町を合わせ、武器の一つとして利用された城である。信長は、義父である美 濃の戦国大名の斎藤道三と盟約を結んでいた。道三は信長をとても気に入り、遺言で遺産を譲ると 書き記していた。しかし、その斎藤道三は息子の斎藤義龍と対立し、殺されてしまい、稲葉山城を 奪われてしまう。助けに行けなかったことに悔しんだ信長は、仇討ちを決意するが、失敗に終わる。 稲葉山城下は、自由商売の政策で商売繁盛しており、経済力で劣っていたため、軍事力に差がでた 図1:小牧山測量図(愛知県小牧市HP) 図2:小牧村絵図解読図(愛知県小牧市HP)
のだった。そこで信長は、稲葉山城に習い、小牧山城を築城し、楽市楽座を始めた。そこで、物流 と経済を掌握し、稲葉山城で商売していた領主を寝返らせたのだ。楽市楽座を展開する城下町を武 器とし、道三の遺産に信長は勝利したのだった。城下町を含めて城とするならば、ここまで敵を経 済的に追い詰めた城は他にないのではないだろうか。 3. 三英傑の城 3-1 信長の城(那古屋城、清州城、小牧山城、岐阜城、安土城) 3-2 秀吉の城(長浜城、山崎城、大阪城) 3-3 家康の城(浜松城、江戸城、駿府城) 4. まとめ 城は天下統一のための一つのツールに過ぎない。