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Vol.65 , No.1(2016)046村上 東俊「ティラウラコットにおける近年の考古学調査について」

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(1)

ティラウラコットにおける近年の

考古学調査について

村 上 東 俊

1.はじめに

19 世紀末から釈迦族の王城カピラ城址に比定され,釈尊出家踰城の候補地とし て最有力視されているネパールのティラウラコット(Tilaurakot)遺跡で,ユネス コ/JFIT 主導による考古学調査が 2014 年から 3 年計画で開始された.このプロジェ クトは “Strengthening Conservation and Management of Lumbini, the Birthplace of the Lord Buddha, Phase 2” と題し,プロジェクトの考古学調査部門を Durham University

(UK)の Robin Coningham 教授とネパール政府考古局前局長 Kosh Prasad Acharya 氏が中心となり,ネパール政府考古局(DOA)・ルンビニ開発トラスト(LDT)・ National Geographic,その他多くの研究機関が共同で調査を進めている.法華宗 陣門流はこのティラウラコット調査に対して,発掘を主導するダラム大学に経済 支援をおこなっている. 本プロジェクトは未だ進行中であり,包括的な研究報告書は発行されていない が,本稿ではこの新たなユネスコ発掘調査に関するこれまでの概要と最新の発掘 成果を交えながら,今後の展望について若干の考察を試みるものである.

2.ティラウラコット調査史

釈尊の故郷は何処か? 19 世紀中頃から四大仏跡が次々と再発見され,その所 在が明らかになるなか,釈尊が幼少より出家までを過ごしたカピラヴァストゥの 王城は依然として謎に包まれていた.1898 年,William Pepe によりピプラハワ (Piplahwa)が発掘され,ストゥーパから釈迦族に属すると考えられる舎利壺が発

見されると,カピラ城の有力候補地となった.しかし,Puruna Chandra Mukherji は 1899 年にティラウラコットの調査をおこなって1),『大唐西域記』などの記録 からルンビニ・サガラハワ・ニグリハワ等の仏跡地の位置関係及び経典の伝える 行は禅定と密接に関わっていることが分かる.さらに,行の滅を説く場合,心を 静め,禅定が深まるに連れて形成作用が滅していき,覚りの境地とも言える想受 滅に至るとその形成作用は完全に滅するものであることを示した.また,行は志 向(cetanā)と同義であることも初期経典中に説かれており5),行が心の作用や働 きを指していると言える.十二支縁起説の成立に関する問題点は,なぜ還滅分を 説く場合にのみ無明と行の二支分を付したのかという点である.既に,行の滅が 形成作用という心の働きを静めることであり,禅定と大いに関連することを指摘 してきた.すなわち,行の滅は実践的な性格を有していると言えよう.それに加 えて,無明の滅は明,すなわち智慧を表している.したがって,無明の滅と行の 滅は智慧と禅定という実践的な位置づけとして,還滅分を説く場合にのみ縁起説 に付されたのではないだろうか6) 1)行の先行研究に関しては,村上 1987,1988,1989,1990,上杉 1978,高橋 1983a, 1983b,服部(2011, pp. 285–350)を参照.   2)MN. 44 (vol. I, p. 301).   3)DN. 33 (vol. III, p. 266); AN. 9, 31 (vol. IV, p. 409).   4)MN. 44 (vol. I, p. 302).   5)SN. 22, 56 (vol. III, p. 60).   6)既に,平野(1965,p. 191 註 5)及び,梶山(1984, p. 344) は,無明と行の滅が実践的な役割を果たしていた可能性を指摘しているが,本稿のよう に行滅の用例を通しても,それらの研究に従う結果となった.    〈参考文献〉 上杉宣明 1978「サンカーラの研究」『仏教研究』7: 19–33. 梶山雄一 1984「輪廻と超越――『城邑経』の縁起説とその解釈――」『哲学研究』550: 324–359. 高橋審也 1983a「原始仏教における行(サンカーラ)の意義について」『仏教学』15: 27–48. ――― 1983b「原始仏教における行(サンカーラ)の意義について(その 2)」『仏教研 究』13: 89–104. 武内義範 1956「縁起説における相依性の問題」『五十周年記念論集』京都大学文学部, 153–181. 服部弘瑞 2011『原始仏教に於ける涅槃の研究』山喜房仏書林. 平野真完 1965「縁起成道説資料」『印度学仏教学研究』13 (1): 187–191. 村上真完 1987「諸行考(I)――原始仏教の身心観――」『仏教研究』16: 51–94. ――― 1988「諸行考(II)――原始仏教の身心観――」『仏教研究』17: 47–87. ――― 1989「諸行考(III)――原始仏教の身心観――」『仏教研究』18: 43–70. ――― 1990「諸行考(IV)――原始仏教の身心観――」『仏教研究』19: 67–119. 〈キーワード〉 十二支縁起説,行,禅定,想受滅,saṅkhāra (佛教大学大学院)

(2)

えながらも,マヤ堂においてアショカ期以前の建造物痕跡の発見に成功し,新た な学説を提示して衆目を集めた.その概要を示すと7) ① アショカ王以前に建てられたマヤ堂建造物の存在が明らかになり,祠堂の 形態が少なくとも幾つかの段階を経てアショカ期の建造物に発展したこと. ② 最初期のマヤ堂は聖樹を祀り,その周囲を木材のフェンスで囲った祠堂 (Timber shrine)であったと考えられること. ③ マヤ堂 C5 室の炭素測定により,紀元前 6 世紀中頃には祠堂が存在したと 考えられることから,仏滅年代を現在の主流学説から 100 年程遡る紀元前 543/544 年説(南伝)を支持したこと. 上記の如く,アショカ以前のマヤ堂は煉瓦ではなく木材を使用した祠堂であっ たことが明らかになり,また,それに伴い考古学的見地からはじめて釈尊の生存 年代に関する見解が提示されたことは特筆に値する.更に,ルンビニにおける人 間の定住時期が村の塚(Village Mound)の調査により,紀元前 1300 年頃と推定さ れた.これはティラウラコットよりも 500 年以上早い年代である.

4.Phase 2:ティラウラコット(2014–2017 年)

ティラウラコットはルンビニから西に 23 キロ,近隣のタウリハワ町から北西 3 キロに位置し,東西 450 m・南北 500 m の南北に主軸を有する西方にバンガンガ 川を望む城塞遺跡である.Phase 2 は,立正大学の調査以来,実に半世紀ぶりとな る大規模なプロジェクトであり,発掘チームはティラウラコット全体像の把握と 遺跡内の人間の定住・退去時期の解明を主眼に,西アジアにおける他の古代遺跡 との比較や『カウティリア実利論』(Arthaśāstra)に説かれる王宮の建造法を通し てその位置づけも目指している.そして,伝統的な発掘手法はもちろんのこと, 土壌・地形の分析,磁気探査,炭素測定,OSL などの高度な科学技術を用いた調 査を並行しておこなっている. Phase 2 の予備的な調査としては,2012 年にティラウラコットの南端から南 100 m ほどに位置する鉄の精製所と思われる Mound X(Industrial mound)があり,4 m × 3 m の範囲を発掘して,約 8 トンにも及ぶ鉄のスラグを採取した.そして,炭素測定 をおこなって,その生産活動が紀元前 4 世紀頃に始まったと推測された8) 更に,2013 年には Debala Mitra によって紀元前 3–2 世紀以前に人間の居住した 形跡がないと結論された北側城壁の再発掘がおこなわれ,城壁煉瓦層の下から 9 個の木材を使用したと考えられる柱跡(Posthole)が発見された.この発見により, カピラ城の地理的特徴を精査し,この遺跡が有するカピラ城としての高いポテン シャルを証明して,以来,多くの考古学者・仏教学者の関心を集めている. 1962 年には Debala Mitra によって北側城壁の部分的な発掘がおこなわれ,ティ ラウラコットが紀元前 3–2 世紀以前に人間の居住した形跡がないとして,釈尊の 時代にまで遡る遺跡ではないと結論された2).そして,ピプラハワから南 1 キロ に位置するガンワリア遺跡をカピラ城に比定した. カピラ城の所在地を巡るティラウラコットとピプラハワの論争は,カピラヴァ ストゥを釈迦族の王都と考えた場合,インド側のピプラハワとガンワリアの両遺 跡は間違いなくその領内に収まると考えられるが,カピラヴァストゥを王城に限 定した場合は,ピプラハワ及びガンワリアは僧院遺跡と思われるため,カピラ城 探索の対象から外れることは今日多くの研究者が是認するところである.

そして,DOA の Tara Nanda Mishra は,1967–1972 年にティラウラコットのサマ

イ・マイ(Samai Mai)と呼ばれる祠堂及び西門の調査をおこない人間の定住・退

去時期を紀元前 700 年から紀元 200 年と推定した3).同じく DOA の Babu Krishna

Rijal による 1972–1974 年の調査では,Mound VI と城外周辺地の発掘調査をおこ ない彩文灰色土器(PGW)や北方黒色研磨土器(NBP)が確認され,ティラウラ コットにおける人間の定住時期を紀元前 8–7 世紀と推定し4),釈尊の時代に遡る

と予想した.

1967–1977 年には,立正大学の中村瑞隆博士らによる大規模調査がおこなわれ, 主に Mound VII と Mound II の発掘により,PGW や NBP などが出土して,遺跡の 年代を紀元前 4 世紀から紀元 3 世紀中頃と推定した5).また,1999 年には,ユネ スコによる Mound V を対象とした調査がおこなわれ,紀元前 5 世紀におけるティ ラウラコットでの人間の活動を認め,定住時期を紀元前 8 世紀まで遡る可能性を 示唆した6)

3.Phase 1:ルンビニ(2010–2013 年)

本プロジェクトの Phase 1 では,釈尊降誕の地ルンビニ(Lumbini)の考古学調査 がおこなわれた.ルンビニは 1992–1995 年に全日本仏教会(JBF)の主任考古学者 であった上坂悟氏を中心にマヤ堂の発掘調査がおこなわれ,釈尊の誕生地点を特 定する印石(Maker stone)を発見し,ルンビニは 1997 年に世界遺産に登録されて いる.Phase 1 では,マヤ堂だけではなく周辺の庭園・村の塚・井戸・ヘリポート の 5 ヶ所の中から計 21 ヶ所で調査が実施された.そして,JBF の発掘結果を踏ま

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えながらも,マヤ堂においてアショカ期以前の建造物痕跡の発見に成功し,新た な学説を提示して衆目を集めた.その概要を示すと7) ① アショカ王以前に建てられたマヤ堂建造物の存在が明らかになり,祠堂の 形態が少なくとも幾つかの段階を経てアショカ期の建造物に発展したこと. ② 最初期のマヤ堂は聖樹を祀り,その周囲を木材のフェンスで囲った祠堂 (Timber shrine)であったと考えられること. ③ マヤ堂 C5 室の炭素測定により,紀元前 6 世紀中頃には祠堂が存在したと 考えられることから,仏滅年代を現在の主流学説から 100 年程遡る紀元前 543/544 年説(南伝)を支持したこと. 上記の如く,アショカ以前のマヤ堂は煉瓦ではなく木材を使用した祠堂であっ たことが明らかになり,また,それに伴い考古学的見地からはじめて釈尊の生存 年代に関する見解が提示されたことは特筆に値する.更に,ルンビニにおける人 間の定住時期が村の塚(Village Mound)の調査により,紀元前 1300 年頃と推定さ れた.これはティラウラコットよりも 500 年以上早い年代である.

4.Phase 2:ティラウラコット(2014–2017 年)

ティラウラコットはルンビニから西に 23 キロ,近隣のタウリハワ町から北西 3 キロに位置し,東西 450 m・南北 500 m の南北に主軸を有する西方にバンガンガ 川を望む城塞遺跡である.Phase 2 は,立正大学の調査以来,実に半世紀ぶりとな る大規模なプロジェクトであり,発掘チームはティラウラコット全体像の把握と 遺跡内の人間の定住・退去時期の解明を主眼に,西アジアにおける他の古代遺跡 との比較や『カウティリア実利論』(Arthaśāstra)に説かれる王宮の建造法を通し てその位置づけも目指している.そして,伝統的な発掘手法はもちろんのこと, 土壌・地形の分析,磁気探査,炭素測定,OSL などの高度な科学技術を用いた調 査を並行しておこなっている. Phase 2 の予備的な調査としては,2012 年にティラウラコットの南端から南 100 m ほどに位置する鉄の精製所と思われる Mound X(Industrial mound)があり,4 m × 3 m の範囲を発掘して,約 8 トンにも及ぶ鉄のスラグを採取した.そして,炭素測定 をおこなって,その生産活動が紀元前 4 世紀頃に始まったと推測された8) 更に,2013 年には Debala Mitra によって紀元前 3–2 世紀以前に人間の居住した 形跡がないと結論された北側城壁の再発掘がおこなわれ,城壁煉瓦層の下から 9 個の木材を使用したと考えられる柱跡(Posthole)が発見された.この発見により, カピラ城の地理的特徴を精査し,この遺跡が有するカピラ城としての高いポテン シャルを証明して,以来,多くの考古学者・仏教学者の関心を集めている. 1962 年には Debala Mitra によって北側城壁の部分的な発掘がおこなわれ,ティ ラウラコットが紀元前 3–2 世紀以前に人間の居住した形跡がないとして,釈尊の 時代にまで遡る遺跡ではないと結論された2).そして,ピプラハワから南 1 キロ に位置するガンワリア遺跡をカピラ城に比定した. カピラ城の所在地を巡るティラウラコットとピプラハワの論争は,カピラヴァ ストゥを釈迦族の王都と考えた場合,インド側のピプラハワとガンワリアの両遺 跡は間違いなくその領内に収まると考えられるが,カピラヴァストゥを王城に限 定した場合は,ピプラハワ及びガンワリアは僧院遺跡と思われるため,カピラ城 探索の対象から外れることは今日多くの研究者が是認するところである.

そして,DOA の Tara Nanda Mishra は,1967–1972 年にティラウラコットのサマ

イ・マイ(Samai Mai)と呼ばれる祠堂及び西門の調査をおこない人間の定住・退

去時期を紀元前 700 年から紀元 200 年と推定した3).同じく DOA の Babu Krishna

Rijal による 1972–1974 年の調査では,Mound VI と城外周辺地の発掘調査をおこ ない彩文灰色土器(PGW)や北方黒色研磨土器(NBP)が確認され,ティラウラ コットにおける人間の定住時期を紀元前 8–7 世紀と推定し4),釈尊の時代に遡る

と予想した.

1967–1977 年には,立正大学の中村瑞隆博士らによる大規模調査がおこなわれ, 主に Mound VII と Mound II の発掘により,PGW や NBP などが出土して,遺跡の 年代を紀元前 4 世紀から紀元 3 世紀中頃と推定した5).また,1999 年には,ユネ スコによる Mound V を対象とした調査がおこなわれ,紀元前 5 世紀におけるティ ラウラコットでの人間の活動を認め,定住時期を紀元前 8 世紀まで遡る可能性を 示唆した6)

3.Phase 1:ルンビニ(2010–2013 年)

本プロジェクトの Phase 1 では,釈尊降誕の地ルンビニ(Lumbini)の考古学調査 がおこなわれた.ルンビニは 1992–1995 年に全日本仏教会(JBF)の主任考古学者 であった上坂悟氏を中心にマヤ堂の発掘調査がおこなわれ,釈尊の誕生地点を特 定する印石(Maker stone)を発見し,ルンビニは 1997 年に世界遺産に登録されて いる.Phase 1 では,マヤ堂だけではなく周辺の庭園・村の塚・井戸・ヘリポート の 5 ヶ所の中から計 21 ヶ所で調査が実施された.そして,JBF の発掘結果を踏ま

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尚,この巨大建造物の西門から直線的に東門へ抜ける道路の延長線上に旧東門 の存在を予想して調査がおこなわれたが,城壁に監視塔は確認されたものの,旧 東門を発見するには至らなかった.

5.むすび

以上,ユネスコによる近年の発掘調査でティラウラコットの全体像がほぼ明ら かになり,計画的に整備された城塞遺跡であることが確認された.そして,サマ イ・マイや北側城壁の調査によって,ティラウラコットにおける人間の定住時期 を紀元前 8 世紀,城塞化を紀元前 6 世紀と推定し,Debala Mitra の学説を改めて 否定している.このようにティラウラコットにおいて歴史上早い時期に都市化が 進められたことは,ルンビニ近郊の遺跡では他に例のない顕著な特徴であると考 えられる15) また,過去の調査で入竺僧の記録と明確に照合可能なティラウラコット内の遺 構や出土物は城壁などを除いてあまり存在しなかったが,城外東側で確認された 巨大僧院は玄奘の記述を彷彿とさせ,Mound V 周辺で新たに存在が確認された四 方を壁で囲われた巨大建造物は,法顕や玄奘の伝える「白浄王の故宮」「浄飯王の 正殿」と考えられ,その遺構の上に存在する建造物 A についても玄奘の記述と関 連付けられる可能性を秘めている.今後,更なる調査を待つことは言うまでもな いが,今回のユネスコによる発掘調査により,ティラウラコットのカピラ城であ る蓋然性はさらに高まっているというべきであろう. 今回の研究発表に際して,貴重な資料・写真を提供してくださったダラム大学の Robin Coningham 教授と DOA 前局長 Kosh Prasad Acharya 氏,また,ご教示を賜ったダラム大学 の Christopher Davis 博士に記して謝意を申し上げます.  1)Mukherji 1901.  2)Mitra 1972, 15.  3)Mishra 1978, 16.  4)Rijal 1979, 62.  5)中村瑞隆・久保常晴・坂詰秀一 2000, 255–256,坂詰秀一 2015, 132–133, 564–565.  6)Coningham et al. 2016, 24.  7)Coningham et al. 2013, 1108–1121.  8)Strickland et al. 2016, 52.  9)Davis et al. 2016, 36–38. 10)『大唐西域記』大正 51: 900c27–29,水谷真成 1971, 191. 城壁が紀元前 6 世紀頃のものと推定され,ティラウラコットの城塞化もこの頃に 始まり,都市機能の中央集権化が図られたとの仮説が提示された9) 2014–2016 年の調査では,中央貯水タンク(30 m × 30 m)が確認され,部分的な 発掘であったが,タンクの使用開始をマウリヤ期と推定した.そして,マウリヤ 期のインフラ設備としては,この貯水タンクが最初に発見された建造物であると 考えられる.Mound III の西南エリアでは,住居跡や祠堂(Shrine)の遺構が確認さ れ,また,サマイ・マイ北側の発掘により,ここでも柱跡を約 20 個発見し,ティ ラウラコットでの人間の定住時期が紀元前 8 世紀と推測された. 城外周辺地の調査では,城外東側に位置する仏塔(Mound XI)の磁気探査がお こなわれ,仏塔の南に隣接するエリアに南北 250 m × 東西 100 m の巨大な僧院複 合施設(Monastic Complex)の存在が明らかになった.伝承によれば,この仏塔は カンタカ・ストゥーパとも呼ばれ,釈尊の出家と関連付けされる向きもあるが, その正否は今後の検証を要する.また,『西域記』の記述では「宮城の側には,一 伽藍あり,僧徒は三千余人,小乗の正量部の教えを学んでいる.」とあり10),城 外の僧院について言及している.更に,僧院境界壁の南端からはテラコッタの壺 に入った 497 枚のパンチマークコイン(打刻印銀貨)が発見され,今後の詳細な報 告が待たれるところである. Mound V における 2015 年の磁気探査では,四方を壁で囲われた巨大建造物

(Central Walled Complex)の存在が明らかになり,2016 年 1 月から発掘が始まった.

建造物は東西 100 m × 南北 100 m の大きさで,周囲を 1.5 m 幅の煉瓦壁で囲われ ている.この建物は,『法顕伝』には「白浄王の故宮」11),『西域記』では「浄飯 王の正殿」12)と記される宮殿跡と推測されるが,行政的な施設の存在は以前に予想 されていた13).発掘は北側部分から開始され,本年は東西 70 m,南北 20 m の範 囲で調査がおこなわれた.堅牢な北門とその東側のエリアに 10 室以上の部屋を有 する僧院のような建造物 A(仮称)が確認された.この建造物 A の部屋は 40 cm 幅の壁で区切られ,一室が約 5.0 m × 3.5 m の大きさである.また造営上の特徴 は,宮殿の煉瓦壁の上にこの建造物 A が建てられていることであり,これに関し て玄奘の記録には「浄飯王の正殿である.[建物の跡の]上に精舎が建ててあり, 中に王の像が作ってある.」と述べられ14),宮殿遺構の上に精舎が建てられてい ることを記録している.この巨大建造物の遺構の上に造営されたと推測可能な建 物は他にも磁気探査で確認されており,現時点で建造物 A が玄奘の記録と照合し 得るものとは断定できないが,極めて興味深い事象であると考えられる.

(5)

尚,この巨大建造物の西門から直線的に東門へ抜ける道路の延長線上に旧東門 の存在を予想して調査がおこなわれたが,城壁に監視塔は確認されたものの,旧 東門を発見するには至らなかった.

5.むすび

以上,ユネスコによる近年の発掘調査でティラウラコットの全体像がほぼ明ら かになり,計画的に整備された城塞遺跡であることが確認された.そして,サマ イ・マイや北側城壁の調査によって,ティラウラコットにおける人間の定住時期 を紀元前 8 世紀,城塞化を紀元前 6 世紀と推定し,Debala Mitra の学説を改めて 否定している.このようにティラウラコットにおいて歴史上早い時期に都市化が 進められたことは,ルンビニ近郊の遺跡では他に例のない顕著な特徴であると考 えられる15) また,過去の調査で入竺僧の記録と明確に照合可能なティラウラコット内の遺 構や出土物は城壁などを除いてあまり存在しなかったが,城外東側で確認された 巨大僧院は玄奘の記述を彷彿とさせ,Mound V 周辺で新たに存在が確認された四 方を壁で囲われた巨大建造物は,法顕や玄奘の伝える「白浄王の故宮」「浄飯王の 正殿」と考えられ,その遺構の上に存在する建造物 A についても玄奘の記述と関 連付けられる可能性を秘めている.今後,更なる調査を待つことは言うまでもな いが,今回のユネスコによる発掘調査により,ティラウラコットのカピラ城であ る蓋然性はさらに高まっているというべきであろう. 今回の研究発表に際して,貴重な資料・写真を提供してくださったダラム大学の Robin Coningham 教授と DOA 前局長 Kosh Prasad Acharya 氏,また,ご教示を賜ったダラム大学 の Christopher Davis 博士に記して謝意を申し上げます.  1)Mukherji 1901.  2)Mitra 1972, 15.  3)Mishra 1978, 16.  4)Rijal 1979, 62.  5)中村瑞隆・久保常晴・坂詰秀一 2000, 255–256,坂詰秀一 2015, 132–133, 564–565.  6)Coningham et al. 2016, 24.  7)Coningham et al. 2013, 1108–1121.  8)Strickland et al. 2016, 52.  9)Davis et al. 2016, 36–38. 10)『大唐西域記』大正 51: 900c27–29,水谷真成 1971, 191. 城壁が紀元前 6 世紀頃のものと推定され,ティラウラコットの城塞化もこの頃に 始まり,都市機能の中央集権化が図られたとの仮説が提示された9) 2014–2016 年の調査では,中央貯水タンク(30 m × 30 m)が確認され,部分的な 発掘であったが,タンクの使用開始をマウリヤ期と推定した.そして,マウリヤ 期のインフラ設備としては,この貯水タンクが最初に発見された建造物であると 考えられる.Mound III の西南エリアでは,住居跡や祠堂(Shrine)の遺構が確認さ れ,また,サマイ・マイ北側の発掘により,ここでも柱跡を約 20 個発見し,ティ ラウラコットでの人間の定住時期が紀元前 8 世紀と推測された. 城外周辺地の調査では,城外東側に位置する仏塔(Mound XI)の磁気探査がお こなわれ,仏塔の南に隣接するエリアに南北 250 m × 東西 100 m の巨大な僧院複 合施設(Monastic Complex)の存在が明らかになった.伝承によれば,この仏塔は カンタカ・ストゥーパとも呼ばれ,釈尊の出家と関連付けされる向きもあるが, その正否は今後の検証を要する.また,『西域記』の記述では「宮城の側には,一 伽藍あり,僧徒は三千余人,小乗の正量部の教えを学んでいる.」とあり10),城 外の僧院について言及している.更に,僧院境界壁の南端からはテラコッタの壺 に入った 497 枚のパンチマークコイン(打刻印銀貨)が発見され,今後の詳細な報 告が待たれるところである. Mound V における 2015 年の磁気探査では,四方を壁で囲われた巨大建造物

(Central Walled Complex)の存在が明らかになり,2016 年 1 月から発掘が始まった.

建造物は東西 100 m × 南北 100 m の大きさで,周囲を 1.5 m 幅の煉瓦壁で囲われ ている.この建物は,『法顕伝』には「白浄王の故宮」11),『西域記』では「浄飯 王の正殿」12)と記される宮殿跡と推測されるが,行政的な施設の存在は以前に予想 されていた13).発掘は北側部分から開始され,本年は東西 70 m,南北 20 m の範 囲で調査がおこなわれた.堅牢な北門とその東側のエリアに 10 室以上の部屋を有 する僧院のような建造物 A(仮称)が確認された.この建造物 A の部屋は 40 cm 幅の壁で区切られ,一室が約 5.0 m × 3.5 m の大きさである.また造営上の特徴 は,宮殿の煉瓦壁の上にこの建造物 A が建てられていることであり,これに関し て玄奘の記録には「浄飯王の正殿である.[建物の跡の]上に精舎が建ててあり, 中に王の像が作ってある.」と述べられ14),宮殿遺構の上に精舎が建てられてい ることを記録している.この巨大建造物の遺構の上に造営されたと推測可能な建 物は他にも磁気探査で確認されており,現時点で建造物 A が玄奘の記録と照合し 得るものとは断定できないが,極めて興味深い事象であると考えられる.

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ジャイナ教在家信者の 7 つの悪徳

堀 田 和 義

はじめに

ジャイナ教在家信者の行動規範を規定したシュラーヴァカ・アーチャーラ文献 には,賭博,飲酒,肉食,買春,狩猟,窃盗,人妻に耽ることという 7 つの悪徳 (vyasana)に言及するものがある.本稿では,先行研究で参照されていないものを 含む一次文献に基づいて,これら 7 つの悪徳を検討する. はじめに,シュラーヴァカ・アーチャーラ文献における 7 つの悪徳の分類や説 明を概観する.そのうえで,ジャイナ教在家信者の行動規範におけるそれらの位 置付けや意義を検討し,最後にジャイナ教以外の文献に見られる悪徳についても 検討する.

1.在家信者の悪徳の分類

シュラーヴァカ・アーチャーラ文献の中でも,7 つの悪徳にはっきりと言及し ている文献は少ない.7 つすべてに言及し1),順番を同じくするものには,

Upāsakasaṃskāra2),Umāsvāmiśrāvakācāra3),Praśnottaraśrāvakācāra4),Lāṭīsaṃhitā5)

Vratodyotanaśrāvakācāra6)がある.一方,同じ 7 つを挙げるが,順番が異なるもの

には,Guṇabhūṣaṇaśrāvakācāra7),Dharmasaṃgrahaśrāvakācāra8)

,Puruṣārthānu-śāsana9),Bhavyadharmopadeśopāsakādhyayana10),Vasunandiśrāvakācāra11)

,Śrāvakācāra-sāroddhāra12),Śrīpūjyapādaśrāvakācāra13),Sāgāradharmāmṛta14)がある.

これらの文献における記述の仕方は様々であるが,共通点として,それぞれの 悪徳に耽ったことで身を滅ぼした人物を列挙する点が挙げられる.列挙される人 物はほぼ共通しており,賭博の場合はユディシュティラ,肉食はバカ,飲酒はヤー ダヴァ,買春はチャールダッタ,狩猟はブラフマダッタ,窃盗はシュリーブー ティ,人妻はラーヴァナが挙げられる15).他の人物を挙げるものとしては, Cāritrasāra が賭博に関してユディシュティラの他にスケートゥを,肉食に関して 11)『法顕伝』大正 51: 861a,長沢和俊 1971, 80. 12)『大唐西域記』大正 51: 901a,水谷真成 1971, 192. 13)Coningham et al. 2016, 24. 14)『大唐西域記』大正 51: 901a,水谷真成 1971, 192. 15)Coningham and Young 2015, 440.

〈参考文献〉

Coningham, R. A. E. et al. 2013. “The Earliest Buddhist Shrine: Excavating the Birthplace of the Buddha, Lumbini (Nepal).” Antiquity 87 (338): 1104–1123.

―――. 2016. “Defining the Chronological and Cultural Sequence of Mound V, Tilaurakot: A Report on Pilot Excavations Conducted in 1999.” Ancient Nepal 190: 18–29.

Coningham, Robin, and Ruth Young. 2015. The Archaeology of South Asia: From the Indus to

Asoka, C. 6500BCE–200CE. New York: Cambridge University Press.

Davis, C. E. et al. 2016. “Re-investigating Tilaurakot’s Ancient Fortifications: A Preliminary Report of Excavations through the Northern Rampart at Tilaurakot (Nepal).” Ancient Nepal 190: 30–46.

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坂詰秀一 2015『釈迦の故郷を掘る:カピラ城比定地ティラウラコット――発掘の記録――』 北隆館. 財団法人全日本仏教会 2005『ルンビニーマヤ堂の考古学的調査』文明堂印刷. 長沢和俊訳注 1971『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫 194,平凡社. 中村瑞隆・久保常晴・坂詰秀一 2000『立正大学ネパール考古学調査報告第 I 冊ティラウ ラコット本文編』雄山閣出版. 水谷真成訳 1971『大唐西域記』中国古典文学大系 22,平凡社. 〈キーワード〉 カピラ城,城塞遺跡,宮殿,Posthole (法華宗陣門流学林教授,立正大学法華経文化研究所特別所員)

参照

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