因幡国月
及部庄 の伝領 に関す る基礎 的考察
歴史学教室 錦 ―.
は じblこ 囚幡・ 伯者地方 は全国的に見て もまれな中世史料 の空 白地帯である。 そのため,庄
園・ 公領 の状 況,特
にその内部 の様子,伝
領関係 な どはほ とん ど知 ることがで きない とい うのが実情である。 こ の閉塞状況 を一歩で も前進 させ るためには,隣
接 の諸学の援用 もさることなが ら,残
された僅 かな 史料 を正確 に,か
つ徹底的に読 む という作業が とりあえず求め られていると思 う。 しか し率直 にい って,そ
のような作業が着実に進展 しているとは,い
いえないようである。 原因 はい くつかあろうが,研
究発表の場が乏 しい ことにも一因があるので はなか ろうか。 これ ま での研究 は,相
互 に批半Jをしなが らよ り妥当性 の高い仮説 に至 るとい う,学
問研究 の基本的な過程 を踏 みえていないように思 えるのである。例 えば,本
稿で取 り上 げる月艮部庄 について も,い
くつか の論 は提 出されているが,発
表 された書物 の性格 もあって,前
論 を批判的に検討 して新 しい論 を展 開す る という手続 きはとられていない。極端 に言 えば,相
互 に無関係 に自説 を展開す る とい う形 に なって しまっているのである。地方に根 ざした研究 の発表機関が求 められ る所以であるが,
とりあ えず ここで は,月艮部庄 の,特
に鎌倉末か ら南北朝期 の本所・ 領家職 な どの伝領 について,先
行研究 の採 るべ きところと冷しすべ きところを明確 に指摘す ることを心が けなが ら,残
された史料 を読 み解 いてい くことを目指 している。若輩の僣越な言辞 とみえる部分 もあろうが,そ
の点 についてはご海 容 を賜 わ り,誤
っている点 については厳 しいご批判 を頂戴で きれば幸いである。 なお,服
部庄 の所在地 については小坂博之氏 の後述 の論文 によって,現
在 の鳥取県岩美郡福部村 であった ことが明 らかになっている。また関係す る文書 は,主
として拐厳寺文書(り 「因幡国宇倍宮領 服部庄手継重書案」の14通であるが,そ
れ らについては最初 に リス トを掲 げておいて,以
下で は典 拠 はこの番号のみで示す ことにしたい。①
欠年月日
領家相伝系図(『
鎌倉遺文』<以
下同>,17191号
)②
正応
2(1289)関10,27
後深草上皇院宣案
(17190号
)③
正応
3(1290)7,24
東二条院令旨案
(17394号
)④
正応
3(1290)8,28
坊城俊定奉書案
(17433号
)⑤
正応
4(1291)9,28
坊城俊定奉書案
(17700号
)⑥
永仁
6(1298)10,16
伏見上皇院宣案
(19855号
)⑦
永仁
7(1299)1,20
東二条院令旨案
(19930号
) 勤 織錦織 勤:因幡国月艮部庄の伝領 に関する基礎的考察
③
徳治
2(1307)6,25
③
徳治
2(1307)8,22
⑩
徳治
3(1308)2,16
①
元徳
2(1330)3,10
⑫
元徳
3(1331)3, 3
⑬
応安
7(1374)9,12
⑭
永徳
2(1382)3, 2
遊義門院令 旨案(22997号
) 後宇多上皇院宣案(23030号
) 後宇多上皇院宣案 左衛門督局譲状案(30962号
) 広義門院令 旨案(31372号
) 崇光上皇院宣案 揚梅親覚寄進状案二
.研
究史の整理
服部庄の伝領関係について多少なりとも触れているものは,次
の諸研究である。a)小
坂博之氏「因幡国月又部荘について°もb)山
中寿夫氏 『鳥取県の歴史131』C)『
鳥取県史 第2巻
中世0』 (以下,『県史』 と略称)d)『
兵庫県史 第2巻
。もe)小
坂博之氏『山名常熙 と禅刹0』 f)『 写真でつづる楊厳禅寺9池 (以下,『写真』 と略称 )g)『
福部村誌(9』h)『
角川 日本地名大辞典31
鳥取県0』 i)『鳥取市史 第1巻
古代 。中世篇(10も (以下,『市史』 と略称 ) このうち,特
に重要なのはa,b, C, f,
二であるので,こ
の5編
についてやや細か く紹介する ことにしたい。 小坂氏 はaで
次のように論 じた。 まず,正
応2年
(1289)の 院宣 (②)や
翌年の令 旨 (③)。奉書 (④)か
ら,月R部庄 はもともとは順徳院の姫宮が もっていたが,彼
女の死後,相
伝すべ き人がなか ったので,本
所の東二条院の計 らいとして左衛門督局に領家職が譲 られた。他方,宇
倍宮 も何 らか の形で知行 していたらしいから,「領家職的なもの」は左衛門督局 と宇倍宮で三分されていた と考 え るべ きである。そして,そ
のような領有権の重な り方については,初
め宇倍宮領であったのが皇室 関係者に寄進 され,そ
こから更に皇室を本所に抑 ぐという,二
重の寄進によって形成 されたもので あるとする。つまり氏が,初
め宇倍宮領であった としたのは,宇
倍宮が領家だったことを意味 して いたのである。 その後,正
応4年
に奉書 (⑤)んゞ下され,左
衛門督局の領家職 は宇倍宮に返還されることになっ た。局 には,代
わ りに宇倍宮領高狩別符 (八頭郡用瀬町鷹狩)が
与えられた。 ところが,永
仁6年
(1298)には再び服部庄 は左衛門督局に返還された(⑥)。 小坂氏 はそう論 じている。そして左衛門 督局の領家職 は,そ
の後,楊
梅盛親か ら真乗寺 を経て,楊
梅盛親子息の親行へ返付 され,彼
か ら楊 厳寺に寄進されたとする。bの
『鳥取県の歴史』は,関
係分 は小坂氏の原稿 によると明記 しているが,本
所 についてはaと やや異なる論が示されている。すなわちaで
は,姫
宮の職については本所か領家か明記 されていな い力部1り,こ
こでは承久の乱の頃は順徳天皇の姫宮が本所であったとしているのである。そして,彼
女の死後 (正応2年
没か),後
深草天皇の皇后東二条院に伝えられ,そ
の後,遊
義門院,広
義門院, 宣政門院へ と伝 えられたと述べている。鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 43巻 第
1号
(1992) これに対 して, Cの
『県史』(第二章第四節―「囚幡国の郷・保・ 荘園」)の
主張 はかな り趣 が違 っている。第一 は,も
ともと当庄 は (順徳天皇の姫宮で はな く)順
徳天皇 自身 の所領であった とす る点である。そして没後,相
伝すべ き人がなかったので,正
応2年
に左衛門督局 に領家職が譲渡 さ れた とす る。ただ,以
後 の伝領 については小坂氏 の論 と同 じであるし,正
応4年
の社家への返還, 永仁6年
の再返還 について も,ま
た領家 には局 と社家が並列的に存在 していた とす る点 について も 同様である。 第二 に,④
にみえる「別納 にて御知行」 について,小
坂氏が下地 あるいは得分 を分割 して知行す ることと理解 しているのに対 して,上
分 の納入の仕方の問題 とす る点が新 しい。すなわち,宇
倍宮 への上分 を除 く本所への年貢 については,宇
倍宮 を経由せず,左
衛門督局か ら直接本所 に納 めるこ とが別納 の意味であるとす る。 そして,そ
こか ら宇倍宮の当庄領有 は左衛門督局 の領知 に寄生す る ような形 のもの と結論付 けた。 本所 は,順
徳院 に関 しては「順徳院の所領」 という表現 しかな く,本
所 。領家 のいずれか明瞭で ないが,東
二条院→遊義門院→広義門院 と伝領 されたとする点 は,『鳥取県の歴史』 と同様である。 なお,宣
政門院 について は引言 されていない。 fの『写真でつづ る鵜厳禅寺』は,細
かな事実について初 めて明 らかにした ところが数多 くあ り, その点で は貴重な研究であるが,基
本的な部分 は『県史』 を踏襲 している。順徳院の所領であった とす る点,左
衛門督局 は領家職 の一部 をもち,同
じ く領家 の他 の一部 をもつ宇倍宮 に対 し社用 を上 分 として納入す る義務 を負 っていたが,本
所への年貢 は神社 を経 由せず直接納入す る権利 (別納) を認 め られていた とす る点,な
どな どである。 一つ注 目すべ き点 は,左
衛門督局 を後嵯峨上皇妃で後深草上皇 の継母 とした ところである。小坂 氏 は左衛門督局 について,弘
長4年 (1264)2月
29日の藤原氏女譲状案(1りにみえる「藤原氏の女」 とし,『鳥取県の歴史』で は「東二条院 につかえる左衛門督局」,「東二条院の女房」 とされていた。 iの『市史』は,そ
れ までの研究 とは大 きく論点 を異 にしている。すなわち,「伝領関係 と荘園 と しての様相 については」『県史』 に委ね,庄
の成立 の時期 に関す る詳論 を展開 しているのである。 まず,服
部庄の本所 は順徳院か ら,途
中不明なが ら,後
深草院へ譲渡 されて きた とす る。そして, 貞応3年
(1224)の「宣陽門院所領 目録」 の「因幡国宇倍庄Jは
「宇倍社」の誤記,す
なわち宇倍 社領 の ことであるとし,そ
の中には】艮部庄 も含 まれているとす る。 ところが宣陽門院領 の前身であ る長講堂領 の建久2年
(■91)の
注文 には,宇
倍社領 はみえないか ら,宇
倍社領が皇室領 になった のは建久2年
∼貞応3年
の間,
とりわけ順徳天皇 の期間 (1210∼21)で
あった とみて よい,と
結論 付 ける。 さらに,そ
の ことは有力在庁官人であ り宇倍社 の神主であった伊福部氏が,院
政政権 と直 接的に結 び付 く立場 をとった ことを意味す る,と
している。 『市史』の論 は,在
地 の有力豪族である伊福部氏の古代以来の動 向を見定 めようとい う意志 を強 く感 じさせ る論述で,極
めて魅力的 といってよい。 しか し後述 のごとく,事
実関係 の理解 において 問題 を含 んでいるところもあ り,結
論的には賛成で きない。それ はともか くとして,い
まここで は 本 巧が順徳天皇か ら後深草院へ と伝領 された としている点,正
応2年
に後深草院が本所であった と 主張 している点 に注意 を喚起 してお きたい。 さて,以
上の研究で一致 しているところ,一
致 していない ところをまとめると以下 のようになろ う。異論 のない ところは,次
の2点
である。 ア)左
衛門督局以後 の領家職 は,正
応4年
に宇倍宮ヘー旦返還 されたが (局へ は代わ りに宇倍社領 の高狩別符 を給付),永仁6年
には再 び局へ返付 され,その後 は楊梅盛親→真乗寺→楊梅親行→拐錦織 勤 :因幡国服部庄の伝領に関する基礎的考察 厳寺へ と伝領 された とす る点。 イ
)領
家職 は左衛門督局 と宇倍宮が並行 して もっていた,つ
ま り,領
家職 は三分 されていた こと, それ こそが「別納」の意味であった,
とす る点。 それに対 して,一
致 していない ところは次の諸点である。 ウ)左衛門督局への譲渡以前 の所有者 について。小坂氏 は,順
徳院姫宮か ら左衛門督局へ とするが, 姫宮の もっていた職 について は本所 とも領家 とも記 していない。 ところが『鳥取県の歴史』で は, 本所が順徳院姫宮か ら東二条院へ譲 られ,そ
の東二条院 によって領家職が左衛門督局へ与 えられ た としている。『県史』で は順徳天皇 の所領であった としている。 ここで も職が何であったのかは 明記 されていないが,順
徳天皇 の跡 を引 き継 いで左衛門督局が領家職 を得た としていることか ら すると,領
家職 と受 け取れな くもない。『市史』は,本
所 は順徳院か ら(途中不明)後
深草院へ と 伝領 された とす る。後深草院 を正応2年
段階の本所 と考 える点で,他
の諸説 と異なっている。 こ のように,左
衛門督局以前 の職 の保有者 については,ま
った く一致 をみていない といってよい。 工)宣
政門院が本所であったか どうかについて。 この点 について も,本
所 とす る論 と,そ
のように 明記 しない もの と二様 ある。 オ)別
納の具体的なあ り方 について。小坂氏 は,宇
倍宮 と左衛門督局が得分 あるいは下地 を分割 し て知行 していることと主張す る。それ に対 して『写真』で は,②
の「別納 にて御知行候 うヘハ, 社家のさまたけあるへか らす候」 を「領家職 を有 した左衛門督局 の荘園支配が,年
貢 の一部 を本 所東二条院への上納 と,宇
倍神社 に『社用』の上分米 を納入する義務 を負って」いることを意味 しているとする(80∼81頁)。 別納 は,こ
の場合,左
衛門督局が社家 を経 由せず本所 に年貢 を納入 す ることを指 していると解 されている。詳 し くは記 されていないが,『県史』がいわん とした とこ ろもそのようなことであった と思われ る。 次節で は,上
記の不一致点 の検討 はもちろん,一
致点 について もその当否 を考 えてみることにし たい。三。本
墾 目冊1.左
衛門督局以前の領有関係について ここでは,前
節で指摘 した諸問題 を考えるために,や
や冗長になるが,さ
しあた り事実経過を追 ってい くことか らはじめたい。出発点は,正
応2年
(1289)の 後深草上皇院宣案 (②)で
ある。 こ の院宣 は端書に「伏見院々宣」 とあるが,既
に『県史』(282頁)が
,そ
れは誤 りで,後
深車院の院 宣であることを明 らかにしている。 伏見院 代宣案 因幡国宇倍宮領服部庄事,順
徳院の姫宮手継 をの こされす候 うヘハ,相
伝すべ き人無 によて, 本所 の御 はか らひにて,熊
乃上分以下社用 けたいな く御沙汰候へ く候,そ
の うへ姫宮の御菩提 をもとぶ らい申され候へ きよし,御
気色候,あ
なか し く 法性寺前中納言 正応二年間十月廿七 日雅藤 左衛門督 との ゝ御 つほね 内容 は
,因
幡国宇倍宮領服部庄 は順徳院の姫宮が手継 を残 されていなかったので,相
伝すべ き人が鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第43巻 第
1号
(1992) なかった,(こ
のたび)本
所 の処置 として,(左
衛門督局が)熊
野への上分 をはじめ とす る社用 を怠 りな く納入すべ きであること,加
えて,姫
宮の菩提 も弔 うべ きである (ということになった)と
い う由の (後深草院の)ご
意向であった,
とい うことになろう。 ここか らは,
もともとは順徳院の姫 宮が知行 していた こと,そ
の職 を相伝 すべ き人がない とい う状況だったので,本
所 の処置 として, それ を左衛門督局 に与 えることになった こと,な
どが明 らかになる。 ところで,こ
の文書か ら順徳院の所領 (本所・ 領家 を問わず)で
あった ことを読 み取 ろうとする ものがある。 それ は「順徳院の姫宮」 の「姫宮」 の部分 に虫損があることか ら,例
えば『市史』の ように「順徳院の[ ]手
継」 と読 み,順
徳院が知行 していた と解す ることに起因 しているよう である。 しか し,こ
れについてはすでに小坂氏が「順徳院の姫宮」 と正 しく解読 されている。虫損 は甚 しいが,「姫」の字 は読み取れ るし,本
文後半 に「姫宮の御菩提」 とい う言葉 も出て くるか ら, 疑間の余地 はない と思 う。 そうだ とす ると,)贋徳院の所領であった とする論 は論拠 を失 うことにな る。 また,同
様 に順徳院の姫宮が本所 であった とす る論 もみ られ る。例 えば『鳥取県の歴史』,『兵庫 県史』な ど。 しか し,こ
れにも賛成で きない。順徳院姫宮 とは,こ
れ までの研究で は順徳院の内親 王,す
なわち諦子 (明義門院)と
穣子 (永安門院)の
二人 を指す とされていたが,諦
子が早 く寛元 元年 (1243)に 没 しているのに対 して,穣
子 はこの少 し前の弘安2年
(1279)に 死去 してい るか ら, 後者 を指す とす るのが自然である。姫宮 (穣子)が
死去 した後,譲
状がなかったため彼女 の職が宙 に浮いていた,そ
こで (本来 は姫宮 自身 もし くはその子孫 の権限で,本
所 は口出 しすべ きもので は ないのだが)本
所 の計 らいで左衛門督局 に与 えることにした,
というのであるか ら,姫
宮 の職 は左 衛門督局が得 た職 と同 じものであるはずで,少
な くとも本所で はない。 左衛門督局 に与 えられた職が何であるかについては,こ
の院宣からは明 らかにならないが,①
で は「領家相伝系図」 として「左衛門督局一一大蔵卿盛親一―従三位親行一一拐厳寺」 となっている こと,元
徳2年 (1330)3月
10日の左衛門督局譲状案 (①)に
よって前大蔵卿 (楊梅盛親)に
譲 ら れ,さ
らにその子息楊梅親行 (親覚)が ,永
徳2年
(1382)榜 厳寺に寄進 した (⑭)の
が「服部庄 領家職」であること,な
どか らいって,左
衛門督局の得た職が領家職であったことは明白である。 もちろん,
これは既に指摘されているところである。 さて前引の院宣 をうけて,翌
年7月24日付で東二条院令 旨 (③)が
出される。 ここでは,院
宣に 任せて服部庄 を知行 し,年
貢を牌怠な く納めるようにという東二条院の命が伝えられている。東二 条院がそのような令 旨を出していることについては,既
に小坂氏が指摘されたように,本
所の立場 でなされたものであることは明らかである。 とすれば,前
年の後深草院の院宣を本所 という立場で 出されたものとする『市史』の論 もあるが,そ
れは誤 りで,国
政を握 る院 という立場か ら発せ られ たものであるとすべ きである。3ち 以上,左
衛門督局以前については知 りうるところは次の諸点である。)贋徳院姫宮(永安門院穣子) が当庄に関する職 をもっていたこと,彼
女の職 は領家職であったと考えられること(10,順徳天皇 自 身や後深草院が本所や領家であった という証拠はないこと (正応2年
段階の本所 は東二条院であっ た)。 なお,小
坂論文では左衛門督局 は藤原氏女 とし,『鳥取県の歴史』では東二条院に仕 える女性, 『写真』などでは後嵯lla天皇妃 とする。小坂説 は弘長4年 (1264)2月
27日の譲状 (注(12)参照) に「さ衛門督局 ふちわらの氏女」とあることを根拠 とするが,服部庄の左衛門督局は元徳2年
(1330) に譲状 (①)を
作成 していて,両
者の間は70年近 く隔たっている。二人 を同一人物 とすることには 無理があろう。 また『写真』の後嵯峨天皇妃説は,『本朝皇胤紹運録』に,後
嵯峨天皇の子「円助法錦織 勤:因幡国月風部庄 の伝領 に関す る基礎的考察 親工」の注 に「母左衛門督局中納言能保卿女」とい う記事があること,『尊卑分脈』で藤原能保女子 の一人 に「円助法親王母」と注記 されていること
,な
どに根拠があるようである。 しか し,『尊卑分 脈』 によれば能保 は建久9年
(■98)に
51才で死去 となってお り,元
徳2年
(1330)に譲状 を書い ている女性の父 とす るにはかな り無理がある。従 つて,後
嵯峨天皇妃説 にも賛成で きない。『鳥取県 の歴史』の説 はもっ とも違和感 のない ものであるが,た
だ このように断ずる決 め手 はな く,結
局, 左衛門督局 について は不明 とするほかない。2.別
納 について③の令旨の
lヶ月後
,坊
城俊定の奉書
(④)が
出されている。それは次のようなものである。
同奉書案
服部庄ハ御知行候へ高よし
,院
宣を□され候につ竜下
,お
なしく令旨をなされ候ぬ
,別
納にて
御知行候うヘハ
,社
□のさまたけあるへからす候
[ ],仰
下され候
,あ
なかしく
正応三坊城前大納言 八月廿ノ\日
としさた 左衛門督 との ゝ御つほねヘ 左衛門督局が別納 として知行す ることになっている以上
,社
家の妨 げがあつてはな らない旨,東
二 条院か ら仰せ下 された由が伝 えられている。社家 とは,前
引の後深草上皇院宣 (②)に
「宇倍宮領 服部庄」 とあって,‖贋徳院姫宮 (その権利 を引継 いだ左衛門督局)や
本所以外 に宇倍宮 も当庄 に何 らかの権利 をもっていた ことが窺 えるか ら, ここで も宇倍宮 を指 しているとして よい と思 う。 この 点 は既 に先行研究で一致 をみている点で もある。 で は,明
J納にて御知行」とは具体的 にはどうい うことなのだ ろうか。注 目すべ きは,左
衛門督局 が別納で知行す ることが,社
家の妨 げがない ことの保証 となっている点である。これ は逆 にいえば, 別納 にしない場合,社
家 の妨 げが生ず る可能性があるとい うことになる。 そ もそ も別納 とい うのは,本
来 の収納ルー トをとらずに (あるところを飛び越 えて)納
入 され る ことを意味す る。た とえていえば,も
ともとA→
B→
Cと い う経路で年貢が上級権力の もとに納 め られてい くのに対 して,Aか
らい きな りCに
納 めるようにす ることを指 している。 服部庄 の場合,次
の四つが考 えられ る。第一 は,左
衛門督局か ら宇倍宮 を通 さずに直接 に本所 に 年貢 を納入す ること。 これは『県史』や 『写真』 の主張す るところである。い うまで もな く,こ
れ は,別
納でなければ「】艮部庄現地→左衛門督局→宇倍宮→本所」 とい うルー トであることを意味 し ている。第二 は,そ
のバ リエーションであるが,月艮部庄現地か ら局 を経 由せずに宇倍宮 に直接年貢 を納入す ること。第二 は,服
部庄 の現地か ら宇倍宮 を経 由せずに直接,領
家である左衛 門督局へ納 入す ること。 この場合,「庄現地→宇倍宮→左衛門督局→本所」 というのが本来 の納入経路 となる。 第四 はその変種で,宇
倍宮が局 を経由せず直接本所 に年貢 を納入す ること,で
ある。 この四つのなかで,一
応論理的可能性 として挙 げはしたが,ほ
とんど現実性 のない ものが二つあ る。第二 と第四のケースである。 とい うのは,明
」納 にて御知行候」とは,左
衛門督局 の知行 の仕方 としていわれていることであるのに,右
に二つの場合,別
納 として知行 しているのは現地 もし くは 宇倍宮 ということになるか らである。 で は,残
る第一 と第三 はいずれの方が妥当性が高いのであろうか。前記のごとく『県史』な どは 第一案 を とるのであるが,そ
れ はいったいなぜなのか。理由は二つあると思われ る。一 つ は,先
に 引いた後深草院の院宣 (②)の
中に,「熊乃上分以下社用」を左衛門督局が沙汰 (納入)す
べ しとい鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 43巻 第
1号 (1992) 23
う文言があるが,
この「社用」 を宇倍宮への納入物 と解 していること。つ ま り,左
衛門督局 は宇倍 宮への社用納入 を義務づ けられていた と解 していることである。二つめは,同
院宣などに「因幡国 宇倍宮領服部庄」 とあることか ら,宇
倍宮 は服部庄 のかな り上位 の職 をもつ と理解 されていること である。 確かに,院
宣 の「社用」は宇倍宮の社用 とす ることも不可能で はないが,略
鷺乃上分以下社用」と 「姫宮の御菩提 をもとぶ ら」うこととは,宇
倍宮 とは関係 のない負担 とみることもで きな くはない。 その 高に関 して参考 になるのは元徳3年
(1331)の広義門院令 旨案 (⑫)で
ある。 匠践門院令 旨案 因幡国宇倍宮領服部庄,任
相伝全知行,竹
林院供料以下事,無
牌怠可被致其沙汰之由, 広義門院令 旨所候也,"執
達如件 元徳三年二月二 日 前大蔵卿殿 葉室前大納言卿 按察使 判 ここで は前大蔵卿 (左衛門督局 の譲 りをうけた楊梅盛親)に対 して,宇
倍宮領服部庄 の知行 を認 め, それに伴 う義務 として「竹林院供料以下」 を挙 げている。竹林院 とは上 の令 旨の発布者で,本
所で ある広義門院の実父西園寺公衡 の法号であるか ら(10,少 な くとも「竹林院供料以下」が宇倍宮への 納入物でない ことは明 らかである。 この令 旨の骨組 み は先 の後深車上皇院宣 (②)と 同 じであるが, そこで「竹林院供料」に対応 しているのは 噸鷺乃上分以下社用」である。 とす る と,聯
髯野上分以下 社用」 について も,必
ず しも宇倍宮 と結び付 けなければな らない とい う理 由はない といってよい。 また二つめの点 について も,「宇倍宮領服部庄」という表現 は,必
ず しも宇倍宮が当庄 の上級 の職 をもっていることを意味す るわけで はな く,こ
れだけか ら宇倍宮が もっていた職 を窺 うことは困難 である。従 って,別
納が何 を意味 しているか は,そ
の他 の条件 も力日味 しなが ら総合的に判断されな ければな らない。 さて,そ
こで第一案 をみるとき不 自然 に思 うのは,順
徳天皇 の姫宮 (永安門院穣子)の
保持 して いた領家職 を受 け継 いだ左衛門督局が,庄
園現地 と宇倍宮の間 に位置 している とい う関係である。 姫宮 は勿論,局
も皇室 と関わ りのある女性であるか ら,当
然京都 に住んでいるはずである。それが 服部庄の現地 と直接関係 をもち,月民部庄 の近隣 に所在する宇倍宮 に年貢 を納入す るのが正規の形態 であった,
とい うのはやや考 え難 い ところである。 その点,第
二案 は宇倍宮が在地の人物か ら年貢 を受取 り,京
都 の局への納入 を正式 な形 としていたが,宇
倍宮が それに関 して妨 げをなすので,局
への納入分 は庄園現地か ら直接納めること 暢」納)にした,
とい うことにな り,無
理がない と思 う。 以上,別
納 とは庄園現地か ら (宇倍宮 を経由せず)直
接左衛門督局 に納 め られ ること,と
い う結 論 になったのであるが,そ
うなると,宇
倍宮 は庄園の職体系上 はどのように位置付 けられ るのであ ろうか。従来 は宇倍宮 は領家職 の一部 を左衛門督局 と分割す る形で もっていた とされて きた。 しか し,①
の「領家相伝系図」 には宇倍宮 は出て こない し,領
家職が宇倍宮 との間で分割 されているの なら,ど
のような分割 の仕方なのか を限定するものが どこか にあるはずなのに,そ
のような ものは まった く見当た らない。 また,別
納 というのは一般 には先述 の如 く,上
下関係があるのにも拘 らず そこを経 由 しない ことを意味 しているのであるか ら,そ
のことか らい うと局 の職 と社家の職 には上 下関係があったはずで,同
じ領家職 を分 けあっていた とは考 えに くい。 これ らの理 由で,通
説 には 賛成で きない。決 め手があるわけで はないが,宇
倍宮 は在地領主 と領家 との間の職 をもっていた, 今の ところそう考 えている。 このようにして も,そ
れが「宇倍宮領服部庄」 とい う呼び方 とそ ぐわ錦織 勤 :因幡国服部庄の伝領 に関する基礎的考察 ない
,と
いうことはない と思 う。ただ残念なが ら,そ
の職 の名前 は明 らか にで きないのであるが。3.社
領への返還 をめ ぐって正応 2年
(1289)に左衛門督局に与えられた月
艮部庄は
,し
かし
,同
4年 に国衡領に戻された。次
にそのことを記す坊城俊定奉書案
(⑤)を
掲げる。差出人「としさた」は③・④に見えている坊城
俊定である。
(令)同□眉案
宇倍□傾高狩別符
,服
部郷の替に御知行候へく候
,は
とリハことに申沙汰せられ候て
,社
領に
(られ) (へ)かへし付られて候ハ ゝ
,そ
のかはりに高狩を相伝知行せ[ ]TEEき よし押下され候
,あ
なかし
く 正応四年九月廿八 日としさた 左衛門督 との ゝ御 つほねへ 宇倍宮領高狩別符 を月R部 郷 の替わ りに御知行 なさるべ きである,月艮部 は特 に取 り計 らって
,社
領 に 返付 されたので,そ
のかわ りに高狩 を相伝知行 され るべ きである とい うことを(本所 の東二条院が) 仰せ下 された,
と訳せ よう。月艮部庄 は社領 に返付 され,代
わ りに左衛門督局 には宇倍社領 の高狩別 符 (八頭郡用瀬町鷹狩)が
与 えられることになった,確
かにそう記 されているし,こ
れ までその こ とを疑 ったものはない。 しか し,こ
れ には重大な疑 問がある。 この奉書 を除 く多 くの文書 は,こ
れ とは正反対の事実 を示 しているか らである。 まず,次
竃ような伏見上皇院宣案 (⑥)が
ある。伏見院□宣案
因幡国宇倍宮領服部庄返付候了
,替
家可有御管領之由
,新院御気色候也
,以
此旨可令申入□二条院給
,"執
達如件
永仁六年十月十六 日 謹上 坊城前中納言殿 雅藤卿 参議 判 永仁六年 は西暦1298年。同年 7月22日に伏見院 は新 しく院政 をし くことになったのであるが,そ
の 3ヶ 月後 の10月 16日付 けで,宇
倍宮領服部庄 を返付 したか ら,今
後 は社家が管領すべ きであるとい う意向を,本
所である東二条院へ申し入れているのである。 しか し上記の通説 によれば,月叉部庄 は すでに正応4年
(1289)に社領 に返付 されているはずである。 そ うだ とすれば,こ
こで社家 に返付 というのはどう説明 され るのであろうか。史料 は残 っていないが,正
応4年
以後,こ
の時 までにい ったん局 に返還 されていた とす るのであろうか。 そのような込 み入 った事情があるにしては,そ
の 後の文書 にもまった くそのような ことを窺わせ るものがない。 これが第一 の疑問点である。 そして,⑥
をうけて東二条院 は次のような令 旨を発 している (⑦)。 東二条院令 旨案院
9 (と
のこ ) 因幡国宇倍宮領服部庄事,正
応[ ]な
らひに去年の院宣 にまかせて,
も[ ]と
く御知行候へ きよし, '
東二条院令 旨候也,あ
なか し く帥納副 坊城前
[ ]
永仁七年正月廿 日判 左衛門督 との ゝ御 つほね
鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 43巻 第
1号
(1992) 25
ここで は東二条院 は,正
応院宣 と去年の院宣 に従 って,も
とのごとく宇倍宮領服部庄 を知行するよ うに,
と左衛門督局 に命 じている。 ところが去年の院宣 とは,永
仁6年
の伏見上皇院宣 (⑥)の
こ とであ り,そ
こで は前述 のごとく,宇
倍宮領への返付,社
家 による管領が命ぜ られていたのである。 これが第二の疑問点である。更 に;正
応 の院宣 とは正応2年
の後深草上皇院宣 (②)以
外 にな く, それ はまさし く服部庄 を左衛門督局 に与 えた ものであった。 ③・ ⑦ を虚心 にみれば,宇
倍宮領 に返付 されたか らこそ左衛門督局 の知行 も (再び)認
められ る ことになった,
と解 さざるをえな くなる。つ まり,神
社 の知行 と局 の知行 は矛盾す るどころか,一
体・ 不可分 の もの とされていた と考 え られ るのである。 そしてそのように考 えるとき,上
の二つの 疑問 も氷解す るのである。 実 は,そ
のような証拠 は外 にもある。 その一つは,元
徳2年 (1330)3月
10日
の左衛門督局譲 状案である (①)。 左衛門督局譲状案 いなはの国 うへの宮 りや うの うち,は
とりの庄 ゆつ りまい らせ候,此
所ハぶか くさの院の時, ちう\/さ
たをいたして,う
への宮 りや うに申なして候,そ
れ につ きてゐんせん りや うしを く たされて候,さ
うてんすへ きや うハ リや うしに見へて候,そ
れの御身 にむけてゐんせんを申給 て,知
行せ られ候へ く候,の
ちさたのためにゆつ りしや う くたんの ことし, けん とく二ねん二月十 日判 さきの大 くらJHlと のへ 因幡国宇倍宮領 の内,】艮部庄 を譲渡 いた します
,こ
の所 は深草院の時,重
々 (重ね重ね)申
し立て て,宇
倍宮領 にいたしました,そ
れ に基づいて院宣・ 令 旨を下 されたのです,相
伝すべ きことは令 旨に見 えています,(今
後 は)あなた自身 に対す る院宣 を申請 し,賜
わって知行 され るべ きであ りま す,後
の沙汰 のために譲状 は右 の通 りです,
といっている。 ここで は,左
衛門督局が種々尽力 して月叉部 を宇倍宮領 にし,い
ってみればその功績 によって局へ 領家職 を給付す る院宣・令 旨が下 された という筋道 になっている。 ここで も局 と宇倍宮の知行が抵 触す るどころか,両
者 は一体 の もの として捉 えられているのである。 さらに,徳
治3年 (1308)2月
16日後宇多上皇院宣案 (⑩)は
次のような ものである(lω。 同院宣案 因幡国宇倍宮領服部庄御知行 さういあるへか らさるよし,御
気色 に候,あ
なか し く 法性寺前中納言 徳治三年二月十六 日雅藤 判 左衛門督 との ゝ御 つほねへ 大事 な ところは「宇倍宮領」服部庄が
,左
衛門督局 に安堵 されていることである。 もちろん,前
引 の⑦永仁7年
の令 旨で も同様 に,局
は「宇倍宮領」月艮部庄 の知行 を認 め られてい る。ただ,⑦
で は それ まで宇倍宮領であった ものを,
このたび局 に与 えた という可能性 もまった く否定 はで きなかっ たが,こ
の院宣の場合 はそうで はない。明 らかに,こ
こで は宇倍宮 と左衛門督局 の知行が並存 して いる。宇倍宮 と領家の並存 は,こ
れ も前 に掲 げた元徳3年
の広義門院令 旨案 (⑫)で
も,ま
ただい ぶ後の ことになるが,次
掲の応安7年 (1374)9月
12日の崇光上皇院宣 (⑬)で
も同様 である。 伏見殿院宣案 因幡国宇倍宮領服部庄,任
由緒可令知行給之由 院御気色所候也錦織 勤 :因 幡国月罠部庄の伝領 に関する基礎的考察 日野前中納言教光卿 応安七年九月十二 日
判 楊 謹上 椙梅三位入道殿 困に
,⑫
の前大蔵卿=楊
梅盛親,⑬
の楊梅三位入道=親
行,い
ずれ も左衛門督局 の領家職 を伝領 し た人物である。 以上のようにみて くると,⑤
の正応4年
の東二条院令 旨を除けば,す
べて宇倍宮領 であることと 左衛門督局 (とその継承者)の
知行 は矛盾 していない。 それ どころか,む
しろ両者 は一体 の もの と 理解すべ きものであった ことがわか る。 では,このような食い違いは,これ まで はどう説明 されていたのであろうか。先 に触れたように, この点 を取 り上 げた ものはな く,た
だ僅 かに『県史』が永仁7年
正月20日の令 旨 (⑦)に
ついて, 「その令 旨の中で,『正応四年 な らひに去年 の院宣 にまかせて』という一節があるが,両
年 の院宣 と は先 にぶれた ように,服
部庄 を宇倍宮 に返付す ることを承認 したもので,左
衛門督局 の知行 を承認 した もので はない。 この点 に大 きな疑間が残 るが」(284買)と しているだけである。 そして『県史』 はその上でなお,正応4年
の令 旨は宇倍宮領への返還であった とす る主張 を維持 してい るのである。 しか し,こ
れ までみて きた ところか ら切 らかなように,む
しろ正応4年
9月28日の坊城俊定奉書 案 (⑤)の
方が,一
連の文書の中で はかな り異質な ものであった。従 って,こ
の奉書 を第一義的に 考 え,他
をそれに従属 させ る,も
し くは他 を無視す るとい う,従
来 の立論 は妥当な もの とは思われ ない。逆 に,この奉書 について別 な解釈 は成 り立 たないか,という方向で考 えるべ きである と思 う。 仮 に,こ
の奉書1通
が残 っていなか った とした ら,他
はすべて矛盾な く理解で きるが,奉
書 を無理 な く解釈す るためには,少
な くとも⑥・ ⑦・ ⑩・① o⑫ o⑬な どが邪魔 をしているのである。 そこで,小
稿 で は通説 をまった く逆転 させて,⑤
の奉書以外か ら読み取れ るところをもって宇倍 宮領 と左衛門督局 らの領家職 の関係 として とらえることにしたい。 とはいえ,⑤
の存在 もまた厳然 たる事実である。 それについてはどう考 えるのか,拙
論 を提示 しなければなるまい。 ⑤ の奉書 にまつわ る疑間 は,突
き詰 めれば,奉
書の中の「 はとリハ ことに申沙汰せ られ候 て,社
領 にかへ し付 られて候ハ ゝ」とい う部分 だけである。前半 は,「服部郷」の替わ りに宇倍宮領 の高狩 別符 を局が知行するように,
といってい るのであるか ら,他
の史料 と背馳 しない。 しか も月艮部庄で はな く服部郷 となっていて,前
半部分 だけな ら,月艮部庄が国衝領 に返還 され,代
わ りに宇倍宮には 高狩別符が給付 され,そ
れに伴 つて局 もそれ を知行するようにされた,
というように も解せ るか ら 筋 は通 る。 問題 は「 はとリハ ……社領 にかへ し付 られて候ハ ゝ」 という部分である。 これについて は確証 は ないが,次
のように考 えておいて後考 をまちたい。鍵 となるのは,第
一 に,こ
の奉書が後年 に作成 された案文であることである。『写真』が明 らかにしているように,本
稿 の最初 に リス トを挙 げた期民 部庄手継重書案」 は,次
のような事情 によって作成 された案文であった。永徳2年
(1382)に楊梅 三位入道親覚 (親行)か
ら服部庄領家職 の寄進 をうけた鵜厳寺の南涙昌運が,足
利義満 の安堵 を求 めて義満愛妾 の西御所高橋殿 に仲介 を依頼 した。その折 に,彼
女の もとに預 け置かれていた これ ら の文書が悉 く紛失 した。そ こで応永 の頃に紛失状が作成 され ることになったのであるが,そ
れが こ の14通だったのである。 鍵 の第二 は,「て候」と「候へ く候」は草書体が似 ているといえな くもない ことである。第一,第
二 をあわせて,現
存奉書案の「社領 にかへ しつ けられて候ハ ゝ」 は「社領 にかへ しつ けられ候へ く鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 43巻 第
1号 (1992) 27
候ハ ゝ」の写 し誤 りであった,そ
う考 えてみて はどうだろうか。両者 の違いは,前
者が「社領 に返 付 されたので」であるのに対 して,後
者 は「社領 に返付 され るようにす るつ もりだか ら」 とい うこ とになって,話
はまった く逆転 す る。後者 だ とす ると,⑤
の奉書 は全体 としては次のようになる。 宇倍宮領の高狩別符 を,月艮部郷の替わ りに知行 されるべ きである。月艮部 は特に取 り計 らって, 社領 に返 して もらうつもりであるから,(そ
れまでは)代わ りに高狩 を相伝知行 されるべ きであ るということを,(東
二条院が)仰
せ下 された もし,も
との文書が このようであったとしたら,他
の文書 とは少 しも背馳 しない。むしろよく符合 する。そして現実にも, 7年
後の永仁6年
に服部 は宇倍宮領に返付 され,そ
れは同時に左衛門督局 への領家職の返付をも意味 していたのである。以上,⑤
の奉書については,上
のように解する仮説 を提起 してみたい。4.真
乗寺への寄進について 左衛門督局への返付後の伝領についてはおおむね諸説一致 してるが,た
だ真乗寺への寄進につい ては多少見解が分かれている。本項ではその点について検討 したい。まず,中
心的に分析すること になる文書を次に掲げる。欠年の某天皇綸旨(1つがそれである。 (之)囚幡国服部庄
,御
寄
陣
真乗寺□由
,被
聞食之旨
,天気所候也
,以
此旨□令申入宣政門院給
,"執
達如件
十月十二 日 左中将 (花押) 謹上前兵部権少輔殿 解釈 は後述す ることとし
,こ
れをめ ぐる先行研究 について述べてお こう。 ここに見 える宣政門院 を 本所 と明瞭に記す もの と,宣
政門院の地位 を明記 しない もの と両論ある。 そ こで,こ
の点 を検討す ることが第一の課題 となる。 また上 の史料 に見 えている真乗寺 については,従
来 これ を領家 とす る ことで は一致 していた。 それが承認 しうるのか どうか,そ
の検討が次の課題 となる。 綸 旨の出された背景 について は,『写真』 に的確 な指摘がある。宣政門院 は後醍醐天皇の息女で, 元弘2年
(1332),後 に北朝 の天皇 となる光厳天皇 の中宮 になった女性である。南北朝 の争乱の中で, 暦応3年
(1340)俄に出家 して梅渓 と称 し,京
都 の西郊 に真乗寺 を開山 した。 この綸 旨もこの とき 出された ものであると考 えられ る。 ここで もとにかえろう。上の綸 旨はどう解すればよいのであろうか。(宣政門院が)因幡国の月叉部 庄 を真乗寺 に御寄付 なさ りたい とい う由を,お
聞 き届 けになるという旨の天皇のご意向であった, この ことを宣政門院 にお申 し入れ になって下 さい,と
い うことになるので はないか。つ まり,自
分 の開山 した真乗寺 に服部庄 を寄付 したい とい う,宣
政門院の意思が (前兵部権少輔 を通 じて)天
皇 に打診 され,天
皇がそれを認 めることを (前兵部権少輔 に)伝
えたもの と解 される。 残念なが ら,寄
進 された ものが何であるのか,本
所 なのか領家なのか とい うことについて,こ
こ には記述がない。従 つて,そ
の点 は他の状況か ら判断す るほかないのであるが,まず注意すべ きは, 宣政門院が寄付 の意思 をもっていた ことである。 この ことは,寄
付 され る職が彼女 自身の有す るも のqぁ
った ことを窺わせ るか らである。いかに中宮 とはいえ,他
人 の職 を勝手 に寄進で きない こと はい うまで もない。 そ こか ら出て くるのは,真
乗寺が得たのは宣政門院 の もっていた職であった と いう,あ
た りまえの結論である。つ まり,小
坂論文や 『鳥取県の歴史』のように,宣
政門院 は本所 で,彼
女が領家職 を真乗寺 に寄進 した とすることはで きない し,『県史』や『写真』の ごとく,領
家 職 は楊梅盛親へ譲渡 された後,一
時期,真
乗寺へ寄進 された ことがあるとす るのも妥当でない とい錦織 勤 :困幡国服部庄の伝領 に関する基礎的考察 うことになるのである。後者 の場合 は
,た
とえ宣政門院の職が領家職 だつた として も,盛
親か ら一 時期,宣
政門院 を経 て,真
乗寺へ とすべ きだか らである。 この ことを念頭 において,領
家職 の伝領 をみると,宣
政門院 も真乗寺 もその跡 を残 していない こ とが重要である。すなわち,応
永の頃 に作成 された紛失状,こ
れ は領家職 に関する手継証文 なので あるが,そ
こには宣政門院 も真乗寺 もまった く見 えていない し,①
の「領家相伝系図」 にも当然姿 を現わ していないのである。 そ もそ も上の綸 旨は正文であって,拐
厳寺か ら安堵 を求めて高橋殿 に 預 け置かれていた ものの中には入 っていなかった とおば しい。つ まり,領
家職安堵の際には必要不 可欠な文書で はなかったのである。 これ らの ことは,真
乗寺 に寄進 されたのが領家職で はなかった ことを示 しているように思われ る。 加 えて,元
徳3年
(1331)と い う鎌倉最末期 の本所 は広義門院であったが (⑫),彼
女 は持明院統 の後伏見天皇 の妃であった ことが注 目に値す る。 これ らの事実か ら導 き出され る推論 は,大
覚寺統 の後醍醐が再 び即位 した建武 の段階で,広
義門院 に対 し,当
庄 の本所職 を光厳 の中宮であ り後醍醐 の娘である擢子 (宣政門院)に譲渡す るよう強制す る力が働 いたので はないか,
というものである。 つ まり,建
武初年 に本所職 は広義門院か ら宣政門院へ譲渡 されていたので はないか と推測す るもの である。 そうだ とすれば,真
乗寺 に寄進 されたのは本所職であることになって,上
述の ところとう ま く符合する。 ただ先述の綸 旨が正文であることは,上
の推論 に とって も不都合な ことで はある。それは領家職 に関す るもので はない とした ら,な
ぜ拐厳寺 に残 ってい るのかが理解 しに くいか らである。 それに ついては明 らか にす ることはで きないが,逆
に,綸
旨の伝領 をもとにして宣政門院が領家であった とすることにはよ り大 きな矛盾が生ず るか ら,伝
来 の事情 については今後検討することとし,上
の 結論 はなお維持 し続 けたい。四
.む
すびにかえて
これ まで述べて きた ところをまとめれば,次
のようになろう。 あ)本
所 は東二条院か ら遊義門院→広義門院→宣政門院→真乗寺 と伝 えられた こと。東二条院以前 については明 らかでない こと。 い)領
家職 は)贋徳院姫宮の跡 を,正
応2年
(1289)左衛門督局へ与 えられ,そ
の後 は楊梅盛親→揚 梅親行→楊厳寺 と伝領 された こと。なお,順
徳院の姫宮 とは穣子 (永安門院)を
指 している。 う)別
納 とは,本
来 は庄園現地か ら宇倍宮 を経 由 して左衛門督局 に納入 され るべ きところを,庄
園 現地か ら直接 に左衛門督局 に納入す ることを意味 していた こと。因に,宇
倍宮のもっていた職 に ついてはその名称 は定かで はないが,庄
園現地 の在地領主 (下司職)と
左衛門督局の領家職 の間 に位置するものであった と考 えられ る。 え)正
応4年
(1291)に左衛門督局か ら宇倍宮へ返還 された とす るのは,文
書 の写 し誤 りに基づ く 誤解で,こ の時 は庄園か ら国行領 に返 されたのであ り,当然,宇
倍宮領で もな くなっていた こと。 そして,宇
倍宮 と左衛門督局へ は高狩別符が代わ りに与 え られた。 お)永
仁6年
(1298),服部 は再 び立庄 されて宇倍宮領 とな り,同
時 に左衛門督局 の領家職 も復活 し た こと。鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第43巻 第