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管理・監督過失における作為と不作為 : 火災事故をめぐるドイツの判例の検討を通じて-香川大学学術情報リポジトリ

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管理・監督過失における作為と不作為

―― 火災事故をめぐるドイツの判例の検討を通じて ――

目 次 1.はじめに 2.ドイツ連邦通常裁判所の3つの判例 3.わが国の火災事故をめぐる議論状況 −作為犯か不作為犯か− 4.本稿の立場

1.は じ め に

故意犯においては作為犯と不作為犯とが存在し,後者については保証者 的地位が犯罪の成立要件として要求されていることは,判例・学説上,広 く承認されているところである!。ところが,従来,過失犯においては,作 為犯と不作為犯の双方が存在することを明言する見解は少なく,過失不作 為犯の成立要件につき,わが国の判例・学説は必ずしも積極的自覚的には 議論してこなかったといってよいように思われる。すなわち,わが国の判 例・学説は,過失犯では作為と不作為の区別はなく注意義務違反があれば 端的に業務上過失致死傷罪等の成立を肯認してよいとの考え方を暗黙裡に 前提としてきたといってよい状況にあったように思われる " 。たしかに,新 1(1)

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過失論を採るにせよ ! ,修正旧過失論を採るにせよ " ,過失犯においては,合 義務的代替行為を措定しそれと構成要件的結果との間に因果関係があるか 否かを論ずるので,従前の判例・学説が業務上過失致死傷罪等の成否を論 ずる局面で行為構造を曖昧にしてきたことは,むしろ,当然であったのか もしれない#。実際,ホテル・デパート火災事故$,明石歩道橋事故%,薬害エ イズ帝京大ルート等の過失不作為犯が問題になる事案で&,判例は,必ずし も行為構造を明確にせずに,軒並みこれらの事件の被告人の所為を業務上 過失致死傷罪の名の下で可罰的としてきたのである'。 しかしながら,ホテル・デパート火災事故に関する議論や製造物責任と 過失致死傷罪をめぐる議論を通じて,近時の学説は,過失犯にも作為犯と 不作為犯の両者が存在し,後者については注意義務違反とは別個に作為義 務違反を犯罪成立の要件として要求することを承認しているように見受け られる(。かねてより,注意義務と作為義務の混同が一因となって過失犯の 処罰範囲が不当に拡張しているのではないかという疑念は存在していた が),やはり,処罰対象を適切に選別するためにも,過失犯においても,作 為犯と不作為犯とが存在し,後者については保証者的地位が必須の要件と なることを承認するべきであるように思われるのである。 ところで,火災事故に起因する死傷事件はドイツでも発生している。 もっとも,ドイツにおける火災致死傷をめぐる事件は,ホテル・デパート 火災事故に関する刑事判例ではないことに若干の注意を要する。当然のこ とであるが,そこでは,わが国と同様,因果関係,結果回避可能性や結果 予見可能性といった過失犯成立のための個々のメルクマールに関する議論 が展開されている。しかしながら,注意しなければならないことは,ドイ ツでは,火災致死傷をめぐる事件が発生した場合,被告人の所為が作為か 不作為かを争点にして,活発な議論が展開されていることである。とりわ け,留意すべきことは,不真正不作為犯について定めるドイツ刑法13条 2項が,被告人の不作為を刑の裁量的減軽事由としていることである * 。ド イツにおいて,作為か不作為かの区別問題が,わが国以上に重要問題であ 2(2)

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ることはここから容易に理解されうる。 従前,作為犯なのか不作為犯なのかが問われる事例として,わが国で論 じられてきたものとしては,心肺装置の取り外しの事例を挙げることがで きる。その他,救助の妨害の事例!や盗品等の保管の事例等でも作為犯か不 作為犯かが問題になってきた"。これまで,わが国の学説では,こうした事 例を念頭に置いて,専ら作為と不作為との区別問題が論じられてきた。し かしながら,管理・監督過失の問題が作為と不作為との区別問題の1つで あると認識する見解は,必ずしも,多くはないように見受けられる。結論 から述べれば,管理・監督過失の問題は,予見可能性要件等の充足をめぐ る論点に尽きるわけではなく,作為と不作為との区別問題としての側面を も有している。少なくとも,このような認識に立脚すべきなのである。 本稿では,管理・監督過失のうち,火災事故における作為と不作為の問 題を取り上げることにしたい。次章の第2章では,火災事故をめぐるドイ ツ連邦通常裁判所の判例を素材として,そこでの被告人等の態度が作為か 不作為なのかを解明することにしたい。そして,第3章以下では,ドイツ 連邦通常裁判所の判例を検討して得た知見をもとに,ホテル・デパート火 災致死傷事故におけるホテル・デパートの社長等の所為が作為か不作為な のかについて今一度検討してみたいと考える#。

2.ドイツ連邦通常裁判所の3つの判例

わが国でホテル・デパート火災事故が問題になっているのと同様に,ド イツでも火災事故が発生している。ただ,わが国と異なり,そこでは,過失 作為犯か過失不作為犯なのかが主要な論点となっている。このことは我々 の関心を大いに引く現象であるように思われる。火災事故をめぐる刑事判 例として連邦通常裁判所が取り組んだとされる事案は3つある。それは具 体的にいうと,連邦通常裁判所1957年12月18日決定,連邦通常裁判所 1999年8月17日決定および連邦通常裁判所2005年2月1日判決の3件 3(3)

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の判例である。以下では,順次,各々の判例を概観していくことにしよう。 ! 連邦通常裁判所1957年12月18日決定" [事実の概要] アルンスベルク地方裁判所は被告人らに建造物失火罪の成立を認め被告 人らを有罪にした。被告人らはこの有罪判決に対して上訴したが,ハム上 級州裁判所は地裁の判断を支持して,被告人らの控訴を棄却した。 地裁は基本的に次のような事実認定をした。1951年に左官職人は暖炉 を法規に違反して設置した。そのため,1955年には火災が発生した。建 築会社の社長である被告人Xと現場監督である被告人Yは,過失により火 災を惹起した容疑で起訴されることになった。地裁は,種々の建築上のミ スと暖炉の設置に関する義務違反があった旨認定した。すなわち,地裁は, アスベストセメントは完全に石で覆われなければならないが,実際にはア スベストセメントを覆うべき石は4分の1しか使用されておらずそのよう な素材で囲壁が覆われたにすぎなかったとの事実を認定した。また,地裁 は官庁の許可が下りなかったこと等も同時に認定した。しかしながら,火 災の発生と因果的連関がある唯一の欠陥だとされるのは,左官職人の長で ありかつての被告人であったZの劣悪な仕事内容であった。彼は鉛管を被 覆するにあたり空洞や!間をそのままにしておいた。特に,後に火災が発 生する場所のそばの空洞を埋めることもなくそのまま放置しておいた。火 災の発生場所付近の空洞が原因となり熱が大量に放射されることになり, 熱は家を焼損させたのである。もし,被告人X・Yが充分に左官職人の長 のZを監督していたら,空洞も発生しなかったし火災の発生もありえな かったであろう。なお,地裁は,左官職人の長Zを充分に監督しなかった 被告人の態度に過失不作為が存在すると考えている。 [判旨] 行為時という文言に結果の発生を含めて考えるべきかという問題は,す 4(4)

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べての法領域で統一的に決定されるものではあり得ない。むしろ,個別に 解釈されるべき法規定の意義と目的が重要である。行為時の意味を解釈す る場合には,自然主義的な意味概念ではなく法律的な意味概念が問題に なってくる。いわゆる結果犯に焦点を当てれば,行為時が標準になる場合 もあるし結果の発生時が標準になる場合もあり得る。判例上承認されてい るのは,次のような事態である。たとえば,時効は,悪しき結果の発生を も含め可罰的行為のすべての構成要件要素が充足されてはじめて進行す る。すなわち,刑事訴追が可能になってはじめて時効は進行するのである。 さもなければ,行為が可罰的になる前に時効が進行することになってしま う。また,告訴期間の開始についていえば,行為者が行為の認識をする必 要性が生ずるが,この場合の行為の認識は結果の認識をも包含する。反対 に,ドイツ刑法51条の意味するところは,次のとおりである。責任能力・ 限定責任能力における行為時という文言は結果との関連性はなく,結果と は切り離して解釈される。 1949年12月31日恩赦法(Straffreiheitsgesetz)は,刑事司法の領域にお いて,無秩序な時代に終止符を打つ意義を有していた。そして,1954年 の恩赦法は,1949年以後の数年間で生活基盤の崩壊によって人生を狂わ された理性的な人間が諸法律と衝突するようになったことを考慮して,戦 時・戦後形成された異常な諸関係の清算をすることをその究極的な目的と していたのである。 まず,第一次的に解明しなければならないのは,惹起された結果が恩赦 法の時間的な適用可能性にとって重要な要素かどうかという問題である。 この問題を解明するにあたっては,結果が行為とどの程度のつながりを有 していたという問題を解決する必要がある。両者が緊密な結びつきを有し 行為と結果とが不可分な一体性を形成しているパターンでは,行為が結果 を包含しているといえる。このようなパターンにおいては,両者を分離す ることなどそもそも不可能であるし,問題を解決するにあたっても両者を 分離したところで何らの有用性も存しないのである。以上述べたことは確 5(5)

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定的故意により遂行された犯罪行為に妥当する。我々は,確定的故意が問 題になる局面では,行為者の認識と意思という媒介物が行為と結果とを相 互に結びつける役割を果たしていることを看過してはならない。未必の故 意で行為が遂行された場合も同様のことがあてはまる。何故なら,未必の 故意のケースでも,結果が行為者の認識の対象となっており,行為者の意 思も結果に及んでいるからである。恩赦法の適用期間経過後に至ってはじ めて結果が発生した事例で,結果の発生前の時点で行為は既に終了してい ると解して,行為者を恩赦法の恩典に浴せしめる選択肢もあるかもしれな いが,こうした解釈は恩赦法の意義と目的に抵触するものといわざるをえ ない。行為者の視点から見れば結果の発生時点も偶然ではないのである。 仮に,行為者が予期していたよりも結果の発生が著しく遅れた場合には, 現実に発生した因果経過と行為者が予め思い描いた因果経過との齟齬を問 題にし,一般原則に基づいてその齟齬が故意を阻却せしめるほど重大か否 かを吟味しなければならない。現実の因果経過との齟齬が重大でないので あれば,その結果は彼の故意によって実現されたものである。したがって, この場合,恩赦法を適用しないことが正しいように思われる。反対に,齟 齬が重大なものであるなら,結果を包含しない未遂罪のみが存在し,適用 期間内に構成要件該当行為のみが存在しているということになるので,恩 赦法をダイレクトに適用し恩赦の恩典を付与してもよいのである。 しかし,行為者が認識ある過失で行為した場合であったとしても,上記 で検討した内容がそのまま当てはまる。ここでは,認容はしていないもの の,行為者は結果が発生する可能性を自らの認識の中に受け入れているの である。すなわち,場合によっては,行為者は後に起こる結果の表象を抱 いているといえる。したがって,未必の故意のケースと同様に,結果は表 象の紐帯により行為と結びつけられているのである。いずれにせよ,結果 は行為と不可分な統一体を形成しているのである。したがって,恩赦法が 予定する行為遂行の時点が,故意のパターンと同様に判断されうる。 反対に,行為者が認識なき過失で行為した場合には,上述したような内 6(6)

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容はあてはまらない。たしかに,認識なき過失の場合には,因果性を媒介 として行為と結果との結びつきが存在している。しかしながら,ここでは, 表象を媒介として行為と結果との間に相互に統一体が形成されているわけ ではないのである。故意や認識ある過失においては,行為と結果との間の 統一体を形成する行為者人格との内的心理的連関が存在していたが,認識 なき過失では行為者人格との内的心理的連関は欠如しているといえる。た しかに,認識なき過失においても,現行法がそうであるように,法律は, 結果および行為と結果との間の因果性を可罰性が生ずる前提条件として位 置づけている。しかし,認識なき過失の場合には,恩赦法の予定する行為 概念を解釈するにあたって,結果発生の時点は決定的ではないのである。 むしろ,行為は行為者が所為を終了する時点まで遂行されていたのであ る。 以上で述べてきたことは,結果犯のうち過失不作為が問題になる類型に も妥当する。認識なき過失で過失不作為が問題になるパターンでは,結果 とは別個に,答責性がなくなるまで存在していた過失不作為を中心に恩赦 法の適用の有無を考えるべきである。 我々の見解に対しては内的な矛盾を孕んでいるとの反論も予想されると ころであるが,我々の見解に内的な矛盾を見いだすことはできない。認識 なき過失において恩赦法の時間的な適用可能性を議論する際,一方で未だ 結果が発生していない行為時が決定的な役割を演ずると説いておきなが ら,他方で構成要件的結果の発生が可罰性を基礎づけそれが恩赦を付与す るための法律上の前提となっている事実に着眼しないのは矛盾であるとい うのである。たしかに,後に発生する構成要件的結果の発生が可罰性を基 礎づけるのであるが,このような事情は別段矛盾ではないと評価されるの である。 [検討] まず,本決定の最大の特徴は,シュトレー=ボッシュが指摘しているよ 7(7)

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うに " ,本判決が被告人に過失不作為犯が成立することを前提にしたところ にある。暖炉の設置作業を行ったのは現場で工事を担当した左官職人なの であるから,暖炉設置作業自体は作為であると評価しうる。これに対し, 暖炉設置作業を入念に監督しなかった建築会社の社長や現場監督の所為は 不作為であると考えられる。本件は過失不作為犯の成立を認めたとしか解 釈しえない事案であるといえよう。 もっとも,本件の直接の争点は,恩赦法の適用の有無である。左官職人 が杜!な暖炉設置工事をしたのは1951年であり,本件火災事故が発生し たのは4年後の1955年である。結果発生に至るまでかなりの時間が経過 したという事情が,1954年恩赦法の適用にかなりの混乱を生ぜしめたこ とは想像に難くない。通常,過失犯では,結果が発生してはじめて被告人 の罪責が論じられることになるが,恩赦法のような被告人の可罰性を阻却 させるような法律は原則として1954年以降に発生した事件に適用される ことはない。しかしながら,結果発生が1955年だとしても,行為時を標 準にして1954年恩赦法が適用されれば,被告人は可罰性が阻却される等 の恩恵に浴することができるのである。結局,認識なき過失の事例である 本件では,被告人の行為に1954年恩赦法は適用された。 ところで,連邦通常裁判所1957年12月18日決定は,故意犯,認識あ る過失,認識なき過失の3パターンに分けて恩赦法の適用の有無を論じて いた。しかしながら,このように3つのパターンに分析して考察する必要 性が本当にあったのかどうかについては疑問が残るところである。端的 に,認識なき過失の事案で可罰性の阻却が建造物失火罪の構成要件該当行 為を起点にして判断されるのか,それとも結果をも含めて広く判断される のかを検討すれば事足りたというべきである。 ! 連邦通常裁判所1999年8月17日決定# [事実の概要] 被告人は,1998年8月5日の午前に,当時3歳になる長女Mを長時間 8(8)

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自宅に残して外出をした。既にこの時点で,以前にMが監督下にない時に 鉄板のスイッチを入れた事実が判明していた。それにもかかわらず,被告 人は長女Mが鉄板のスイッチを入れる可能性に対し安全対策を講じなかっ た。数日が経過しMは再び鉄板を作動させた。温度の上昇で鉄板のそばに あった紙が燃え始め,やがて台所が火事になった。Mは窒息死した。地裁 においては,被告人に過失致死罪および失火罪が成立した。両罪は観念的 競合の関係に立つとされ,被告人には3年の自由刑が言い渡された。なお, 被告人は上訴したが,その上訴は効を奏した。 [判旨] 地裁は,詳細な根拠づけをせずに,被告人の所為が積極的作為であるこ とを前提としているように見受けられる。すなわち,地裁は,子どもを放 置して部屋を離れた点に作為が存在していることを考察の出発点にしてい るように思われる。反対に,地裁は,不作為犯の可罰性が存在しているか に否かについては,踏み込んで検討しているわけではない。ドイツ民法 1626条以下を手がかりにすれば,被告人は母親として保証人的地位にあ る。そして,ドイツ刑法13条1項に基づけば,母親の不作為も積極的作 為と同列に論じられる可能性がある。 たしかに,上記の点を除けば下された有罪判決に法的誤!はない。しか しながら,究極的には地裁の刑の言渡しは無効になると考えられる。とい うのも,ドイツ刑法13条2項とそれと連動して規定されているドイツ刑 法49条1項によれば,不作為は刑の減軽事由になるからである。そして, 作為か不作為かの区別問題を解決するためには,行為者の態度の重点が作 為にあるか不作為にあるかが問題になってくる。この点については,事実 審裁判官の認定に基づいて判断が下されるべきである。ここでは,自宅か らの外出が本当に積極的作為を意味するのかどうかが充分に吟味されるべ きである。他方で,被告人が監督上の配慮義務を怠っていないか,少なく とも鉄板に技術的な安全措置を施す義務を怠っていないか不作為犯の成否 9(9)

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も検討されるべきである。 したがって,刑の言渡しの点では上述した欠陥が存在するので,この点 が考慮される必要がある。もっとも,母親の所為が不作為だと認定され刑 の減軽がなされうるか否かが吟味される際には,不作為犯との関連のみで 刑の減刑の可能性が検討されるべきではない。地裁は,この点につき,一 連の重要な刑の減軽事由の存在を認識している。前科のない被告人は,家 族形成と子どもの養育の詳細を少年保護施設で話し合うため,その日特別 に自宅を離れたのである。たとえば,被告人が神経的にまいっており子ど もの教育が手に負えないと感じており,養育支援を執拗に求めていたので あれば,そのような事情は,刑の減軽事由として視野に入れられうる。 [検討] ここまで,連邦通常裁判所1999年8月17日決定を紹介してきたが,本 決定は重要な問題を我々に提示しているように思われる。まず,本件で, 地裁は母親の所為を過失致死罪の構成要件該当行為として把握しているも のの,地裁の判断はそれが作為なのか不作為なのかが明らかにしておら ず,この点に法的過誤があるとして連邦通常裁判所1999年8月17日決定 が地裁判決を破棄している点が重要である。前述したように,ドイツでは 作為か不作為かが科刑上の判断に影響を及ぼす事情であるので,作為か不 作為かはわが国以上に重要問題になりうる事情であることは見落としては ならないポイントである。 さて,本件被告人の所為が仮に作為だということであれば過失致死罪の 構成要件該当行為は母親の外出行為だということになるし,逆に不作為だ ということになると火災の危険源を除去しなかったという母親の不作為態 度が過失致死罪の構成要件該当行為となる可能性が出てくる。しかしなが ら,火災が発生する前の母親の外出行為を過失致死罪の構成要件該当行為 として位置づけることは無理である。何故なら,外出行為自体は子どもの 生命法益に対する具体的危険を惹起する行為だとはいえないからである。 10(10)

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ヴァルターも,本件における母親の外出行為は点火した蝋燭を立てて外出 する行為とは危険性という点で雲泥の差があるので,連邦通常裁判所 1999年8月17日決定の事案では過失致死罪は問題にならないとしてい る!。これは正当な指摘である。他方で,母親の不作為態度に注目し,これ を過失致死罪の構成要件該当行為だと捉えることも,結局のところ,不可 能であるように思われる。不作為犯で作為義務が生ずるのは具体的危険が 発生する時点以後とされているが,本件では火災発生の時点で母親は在宅 しておらず,本件は作為可能性がない事案だと評価できるからである。 もっとも,この点については,「原因において自由な不作為」の理論を援 用すれば母親の不作為もまた可罰的になりうるという反論も予想されると ころである。現に,フリスターは「原因において自由な不作為」の理論に 依拠して本件では母親の不作為が可罰的である旨説いている"。この点につ いては後に検討することにしたい。 ! 連邦通常裁判所2005年2月1日判決# [事実の概要] 地方裁判所は,事実的・法的根拠から,5歳4カ月になる長男と3歳 10カ月になる長女に対する過失致死罪の容疑につき被告人に無罪を言い 渡した。 被告人は自らの住まいの居間にたくさんの客を招待し,客たちは一緒に なってかなりの量の煙草を吸いアルコールを飲んだ。隣接する子ども部屋 で子どもたちは眠っていた。20時30分から20時45分にかけて被告人は 客たちと自らの住まいを離れ,飲食店に赴いた。なお,直後に2人の別の 客が住まいを離れている。22時頃,一番最後の客が2人の子どもがベッ ドで寝ているのを確認している。息子はこの時点で水疱瘡に罹患してお り,熱があった。23時30分頃被告人は住まいに戻ったが,子どもに注意 することなく子どもを後に残して外出した。被告人は,ここで,居間の中 にある燃焼する危険性のある対象物,特に火のついた,あるいは微光を発 11(11)

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する煙草の残骸を点検するのを怠った。被告人は居間のソファーの上に異 常な状況下でとりわけライター,紙,雑誌,クッション,衣類を残したの である。 被告人の留守の間に,被告人の住まいはソファーの燃焼から火事に発展 し,2人の子どもは酸素欠乏と中毒で死亡した。 地裁は,火災の原因につき2つの可能性を検討している。第1は,もう 少しで5歳になる息子が居間のソファーでライターを用いて火遊びをして いた可能性である。第2は,煙草そのものがソファーの上に落ちたか,煙 草の灰がソファーに転落したかで火事が発生した可能性である。 [判旨] 地裁は被告人に課せられるべき注意義務に関し過大な要求をしている。 州検事局および連邦検事局がこの点を指摘しているが,当然の指摘だとい える。過失構成要件実現の意味において義務違反的だとされる者は,自己 の知識や能力にしたがえば法益侵害が避けられたにもかかわらず構成要件 的結果を惹起し,なおかつ法益の保護に役立つ注意義務に客観的に抵触し た者である。適用されるべき注意義務の態様や程度は,行為者が置かれた 具体的な状況や社会的な立場を考慮した上で定立される。また,基準とな る注意義務の態様や程度は,思慮深く誠実な人物を標準とし,客観的な危 険状況を視野に入れた上で事前に定立される必要がある。建造物失火罪が 問題になる事例とまさに同じように,義務違反の不作為で過失による死の 結果が惹起されることは起こりうる。作為か不作為かの問題を判断するに あたっては,作為か不作為のうち行為者の態度がそのどちらに重点がある かが重要である。被告人の所為が作為か不作為かについては,事実審の裁 判官が事実認定にしたがってこれを決定する必要がある。 被告人にソファー周辺部分の鎮火に関し点検義務はないとした地裁の判 断は破棄されるべきである。地裁は,被告人自身の先行行為に焦点を当て ても,被告人の知人である第三者の軽率さに焦点を当てても,ソファーの 12(12)

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周辺部分に残り火があるか否かを点検する義務はないとしているが,こう した判断は誤っている。むしろ,地裁の判断は,具体的な状況下で被告人 に課せられる注意義務を正当に評価したものではないといえるのである。 自らも喫煙者である被告人は,客たちが自宅内で喫煙をすることを許容 した。被告人は,少なくとも23時30分を少し過ぎたあたりから翌朝の4 時45分まで2人の子どもを監督することなく自宅に残したままにしてい たのである。しかも,被告人は,ソファーの上で散乱していた雑誌,紙, 衣類を片付けることなく外出していたのである。火や煙草を粗雑に取り 扱ったために危険は顕在化したが,被告人はこのような危険を認識してい たはずである。また,被告人は熱を発するものを粗雑に取り扱っていただ けでなく,火がついたままの煙草と灰を放置していた。さらに,危険性を 認識した段階で,被告人は煙草や灰の火が紙やその他の容易に燃焼する素 材へ燃え広がるのを阻止するべきだった。つまり,被告人は燃え広がる可 能性を最小限に抑制する施策を講ずるべきだった。 部屋に居合わせた5人は,かなりの量の煙草を吸っていた。また,被告 人と客たちは数時間に亘って喫煙しながらアルコール飲料を飲んでいた。 灰皿,受け皿はガラス机の上に置かれていたが,その背後にはソファーが あった。灰皿,受け皿の中に多数の煙草の燃えさしが存在し,ソファーの 上にはライターと容易に燃えうる素材,とりわけ,紙,雑誌,クッション, 衣服があった。しかも,これらの物は散乱した状況にあった。そのような 中で被告人たちは外出したのである。これらの諸状況の存在により危険性 は飛躍的に増大したといえる。したがって,被告人には特別の注意義務が 課せられたものと評価してよい。さらに付随的ではあるが,次のような事 情も指摘できる。被告人の子どもは未だ非常に幼かった上に,息子の方は 水疱瘡のためベッドに臥せていた。本件の特殊事情に照らせば,当刑事部 は,両親が長時間監督することなく子どもを放置して外出した事案でその ような所為が一般的に義務違反だといるかなど,判断する必要はない。 合義務的な代替行為を採ったとしても火災や2人の子どもが死亡した事 13(13)

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態が発生した可能性は排除しえず,それ故に被告人の義務違反は非難しえ ないとした地方裁判所の判断は,結論から述べれば,法的な検討に堪え得 ないものである。したがって,被告人には,数時間以上自宅を離れる場合 のみならず,ごく短い時間危険領域から離れる場合にも,燻っている煙草 の残骸の様子を入念に調査する義務は存在したとみるべきなのである。し かしながら,地方裁判所はこうした義務の有無につき検討をしていない。 住まいを離れる場合だけでなく,夜家にいて被告人自身が就寝のためベッ ドで横たわる場合にも,自宅の危険源を除去する義務は,被告人に課せら れていると捉えるべきである。 [検討] 以上,連邦通常裁判所2005年2月1日判決につき言及してきたが,当 該判決もまた重要な問題を我々に突き付けているように考えられる。既に 紹介した連邦通常裁判所1999年8月17日決定と同様に,本件でも,母親 の所為が過失致死罪の構成要件該当行為になるか否かが争点になっている ように思われる。ここで注意しなければならないことは,本件の地裁は無 罪判決を下したが,連邦通常裁判所2005年2月1日判決は無罪判決を破 棄し原審に差し戻したことである。本件と前述した連邦通常裁判所1999 年8月17日決定の事案との相違は,被告人あるいは客が喫煙した煙草の 吸殻から火災が発生している可能性が存在していることである。すなわ ち,本件においては,母親が外出する段階で既に亡くなった子どもの生命 に対する具体的危険は客観的に存在していたものと考えられる。そうだと すれば,本件事案の下では母親の作為義務を肯定することも可能であるよ うに思われる。本件は過失不作為犯の成立を認めることが可能な事案で あったものと思量される。なお,外出行為については,外出すること自体 は子どもの生命に対する具体的危険を惹起する行為ではないので,本件に おいて作為的要素に着目し過失犯の構成要件該当行為を認めることは不可 能である。 14(14)

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! 小括 ここまで概観してきたところから,わが国のみならず,ドイツにおいて も火災致死傷が問題になる事案は発生していることが確認された。そし て,そこでは過失作為か過失不作為かが争点になっていた。すなわち,そ こでは,左官職人による杜!な暖炉設置作業における建設会社社長と現場 監督の所為,幼児を自宅に放置したままで外出する母親の所為が作為か不 作為かが問題となっていた。杜!な暖炉設置作業における建設会社社長と 現場監督の所為は過失不作為しか問題にならないように見受けられるが, 母親の外出行為が作為か不作為かについては一応検討してみる必要があ る。思うに,外出行為自体は直接子どもの生命法益の危険性を招来する行 為ではないので,ここでは不作為のみが問題とされるべきである。母親の 外出行為については,幼児の危険源を除去しないという不作為態度のみが 問題になるというべきである。もっとも,外出する段階で未だ法益侵害の 具体的危険が惹起されていない連邦通常裁判所1999年8月17日決定の事 案では,過失致死罪の成立は否定されるべきである。作為義務が生ずるの は具体的危険が生じた段階以後であるからである。なお,前述したように, 「原因において自由な不作為」の観念を認めれば,連邦通常裁判所1999年 8月17日決定の事案で過失致死罪の成立を認めることも可能だとの見解 も存在した。しかしながら,このように解すると,既に指摘されているよ うに,交通事故を繁華街で起こし被害者が死ぬかもしれないと思って轢き 逃げしたという事例で,殺人罪の成立を肯定せざるをえない帰結に至る(自 ら救助可能性がない事態を招いている)"。しかし,このような帰結は不当 である。自ら作為可能性がない状況を招いた「原因において自由な不作為」 の事例においては,やはり過失致死罪の成立を認めるべきではないように 思われる。 15(15)

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3.わが国の火災事故をめぐる議論状況

−作為犯か不作為犯か−

さて,ここまで検討してきたことから得られた知見を踏まえて,わが国 における議論状況に目を転じてみよう。わが国で起こった火災致死傷事故 は,ドイツで発生したような火災致死傷事故ではなく,ホテルやデパート において多数の宿泊客・客が死傷する形態の事故である。従前からホテ ル・デパート火災事故が刑法理論上大きな問題として耳目を集めているこ とはよく知られているところであるが,そこでの社長や防火管理者の所為 が作為か不作為かは激しい論争の的になっている。すなわち,ホテル・デ パート火災が発生した場合,社長や防火管理者を業務上過失致死傷罪で捕 捉するというのがわが国の通説・判例なのであるが,社長や防火管理者の 所為が果たして作為か不作為かについては,激しい議論が展開されている のである。 ! 作為犯だとする見解 一般に,ホテル・デパート火災致死傷事故を業務上過失致死傷罪で問擬 する際には,それは作為犯ではなく不作為犯として捕捉されるものだと考 えられている。しかしながら,果たしてこのような前提が自明のものであ るのかどうかについては,ここで改めて検討してみる必要がある。現に, ホテル・デパート火災致死傷事故を刑法211条1項で捕捉する場合に,こ れを作為犯として理論構成した上で可罰的としている見解も主張されてい るのである。ただ,作為犯として理論構成し可罰的とする見解も,以下で みるように,概ね,3つのヴァリエーションに類別することができる。 まず,安全体制確立義務の懈怠や避難誘導訓練の怠慢等物的・人的不備 が存在する状態でホテルやデパートを営業することを過失犯における実行 行為だとする見解がある。すなわち,本説は,建築基準法違反や消防法違 反のホテルやデパートの全体的な営業活動そのものを過失致死傷罪におけ 16(16)

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る実行行為だと解するのである。この立場がわが国の判例が暗黙裡に前提 としている立場だと推察される。たとえば,従前,自動車事故では,前方 注視義務に違反して自動車を走らせること自体が過失犯の実行行為だとさ れ,これは作為だと考えられてきた。ホテル・デパート火災致死傷におけ る実行行為をこれとパラレルに考えるのであれば,安全体制が確立してい ない状態でのホテル・デパートの営業活動そのものを過失作為犯における 実行行為として把握することが可能になるように思われる"。要するに,本 説は,安全体制が確立していない状態での営業活動を過失作為犯として構 成し,刑法211条1項のもとで可罰的だとするのである。 しかしながら,本説には,次の4つの批判を加えることが可能である。 第1の批判は,このような理解によると,問責の対象となる過失行為が火 災発生以前の遥か過去に無限に!ることになるというものである#。たしか に,火災発生以前の遥か過去に!って過失行為があると捉えるのは無理で あるように思われる。また,火災発生以前から過失行為が存在していると 解すると,かなり長期に亘って過失致死傷罪の実行行為が持続すると考え ざるをえなくなるが,このような考え方もやはり不自然なものであるよう に感じられる$。第2の批判は,ホテルやデパートの全体的な営業活動を問 責の対象とするのは民事法的発想に基づいたものであり,過失作為犯とし ての上記のような構成は,個人責任の原理を貫徹する刑事法的思考になじ まないというものである%。この批判は正鵠を得た批判であるように思われ る。なお,第2の批判の論者は,ホテルやデパートの全体的な営業活動を 個人責任に分解した上で,管理・監督者個人が「為すべきであったにもか かわらず,為さなかったこと」を明確化するためには,過失不作為犯とし て理論構成する方が望ましい旨の指摘をしている&。第3の批判は,仮にホ テルやデパートの客が焼死することを願って欠陥のある防火施設で営業活 動をしたとしても,それが殺人罪の実行行為になる可能性はないのであ り,そうだとすれば,このようなホテル・デパートが営業活動をしても業 務上過失致死傷罪としての実行行為性はないというものである。たしか 17(17)

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に,危険性の程度という観点からすれば,落雷することを望んで憎き友人 を森に行かせるとか,飛行機が墜落するのを期待して飛行機に乗せる事例 と大差ないのではないかとの疑問を払拭することはできないように感じら れる"。この批判も的を射た批判であるように思われる。 第4の批判は,たとえ建築基準法等の行政法令違反が存在していても, それを根拠にホテルやデパートの営業が直ちに禁止されるわけではなく, このような行政法令違反を根拠に過失犯の実行行為ありとする結論を導く のはやや性急だとするものである。たとえば,行政法令の改正に伴い,新 基準を充たすための工事が完了するまではホテルやデパートについては従 前の基準で営業することを行政法令ですら許容しているが,このことを踏 まえれば行政法令違反を過失犯の実行行為にするとの立場は必ずしも説得 力を有するものではないというのである#。私にはこの指摘も正当なもので あるように思われる。 次に,作為である危険状況創出行為が事後的に危険実現判断を経て顕在 化する理論構成を採る見解がある。本説によれば,偶然的な事情が介在し た段階で,事前的潜在的実行行為である危険状況創出行為が過失致死傷罪 の実行行為に転化するということになる。いうまでもなく,本説の独自性 は,危険状況創出行為が作為であるとする点にある$。もっとも,本説によ れば,危険状況創出行為には,危険源誘発類型と危険状態拡大源設定類型 の2種類があるとされている。子どもの立ち入りそうな野原に大型冷蔵庫 を放置して子どもが誤って中に閉じ込められて窒息死した事案は前者に属 し,泳げないプールの監視員を選任し!れかけた子どもを救助しえなかっ た事例やスプリンクラーを設置せずにホテルを経営し火災が拡大し多数の 人々が死亡したケースは後者の範疇である%。両者は偶然的な事情の発生に 因果的影響を与えているか否かで区別されるという&。また,この見解は次 のような傾聴に値する主張を展開している。すなわち,過失犯では,結果 の発生のない以上,「不法状態はありえない。たとえ危険状態を不法と評 価するとしても,少なくとも過失犯の実行行為以降でなければ可罰的不法 18(18)

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とはいえない」と説いている ! 。したがって,本説にしたがえば,「長期に 亘って過失犯の実行行為が継続するのは不自然である」との前述の批判を 乗り越えることができるのである"。 しかしながら,本説に対しては,若干の批判も提起されるように思われ る。第1の批判は,作為と不作為の区別基準に関する問題である。本説は, 因果関係の存否を基準にして,作為と不作為とを区別している。すなわち, 本説は,「作為とは,結果に向かう危険な因果力を引き起こし,または, その因果系列に介入して利用し,結果を発生させる行為である。これに対 して,不作為とは,結果発生に向かう危険な因果力の因果系列の進行に よって結果に対する具体的危険が生じているときに,それに干渉しないこ とによって結果を発生させる行為である」との区別基準を採る#。しかしな がら,この区別基準を念頭に置くと,危険状態拡大源設定行為は火災の原 因力になっていないので作為ではないとの結論を導く方がより説得的であ るように思量されるのである。すなわち,既に指摘されているように,欠 陥ある防災システムの設置といった危険状態拡大源設定行為はそれ自体具 体的危険を発生させるものではなく,これを作為の危険状況創出行為とし て理解することは無理であるといいうるのである$。第2の批判は,危険源 誘発行為や危険状態拡大源設定行為に関する問題である。たとえば,別人 が欠陥ある防災システムを設置しその別人からホテルやデパート自体を購 入した社長等の態度は危険源誘発行為や危険状態拡大源設定行為で作為だ と言い切れるのかは疑問である。つまり,危険源誘発行為や危険状態拡大 源設定行為のどちらの範疇にも属さない所為があるのではないかという問 題である。そして,第3の批判として指摘しうるのは,危険状態拡大源設 定行為をしてから結果が発生するまで長期に亘り過失の実行行為が持続す ることになる点に関する批判である。この点につき,本説は,過失犯が可 罰性を帯びるのは結果の発生時なので,法益侵害の結果が発生する段階ま では「不法状態」はなくこの部分については特に不都合はない旨示唆して いる。しかしながら,本説からは,反対に,危険状態拡大源設定行為を完 19(19)

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了して以降「不法状態」が存在しつづけていると解釈することも可能なは ずである " 。本説に依拠すれば,具体的危険が生じて以後はじめて「不法状 態」が存在すると考える必然性はないように思われる#。 次に,ホテルやデパートに具体的な危険のある状況で客を招致する行為 が作為であることに着眼し,ホテルやデパートへの客の誘引行為を業務上 過失致死傷罪の実行行為としうるとする見解がある$。前述したように,火 災発生前の遥か過去に!って,長期に亘る経営者の怠慢行為を業務上過失 致死傷罪の実行行為として捕捉する見解も存在していたが,こうした見解 に対しては奇異なものであるとの批判が向けられていた。本説によれば, 問責の対象となる過失致死傷罪の実行行為が(被害者となる)客を誘引す る時点以前に!ることはあり得ないので,かかる批判を乗り越えることが でき,理論的な破綻に至ることもないように思われる。また,火災発生直 前の客の誘引行為の段階では,AやBといった具体的な被害客体も特定さ れているので,自動車事故等他の過失事故との均衡を図ることもできるも のと推察される。たしかに,AやBといった具体的な被害客体が特定され ていない段階で,抽象的に過失犯の実行行為があると断定するのは原則と して許容されないので,その点では本説の立場は妥当であるように思われ る。 しかしながら,ホテルやデパートに客を招き入れることは,今にも天井 が崩れ落ちそうな宿泊施設や営業施設に客を招致する行為と比べて,危険 性という点で雲泥の差があり%,過失致死傷罪の実行行為はやはり想定しえ ないとの批判も展開されている&。また,仮に,危険性のある行為だとして も,ホテルやデパートへの誘致行為は社会的な有用性のある許された危険 の範囲内にある行為であり,こうした作為を過失致死傷罪における実行行 為と把握することはできないように思われる'。これらの批判は我々を首肯 させるものであるように感じられる。 20(20)

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! 不作為犯だとする見解 それでは,今度は不作為説について概観してみよう。周知のように,ホ テル・デパート火災事故については不作為説が通説である。不作為説にも 種々のヴァリエーションがあるが,ここでは,不作為説を採る代表的な見 解を検討してみよう。 ここで,検討するのは,ホテルやデパートの社長等の所為を過失致死傷 罪で問擬する場合に,保証人的地位を充分に論証した上で当該社長等の不 作為を過失致死傷罪の実行行為だとすべきだとする見解である。この見解 の独自性は,火災発生以後のホテル・デパートの社長等の不作為のみが刑 法典上の過失致死傷罪の行為資格を取得し,火災発生以前の不作為は単に 建築基準法違反等行政法規違反を基礎づけるにすぎないと解する点にあ る!。したがって,本説に依拠すればホテルやデパートの社長等が火災現場 におらず,火災時にゴルフ場で遊興に興じていた事例などでは当該社長等 は不可罰であるとの結論が導かれる"。 しかし,本説に対しては,火災発生以後の不作為を過失致死傷罪の下で 捕捉するといっても,火災以後の段階に立ち至ればもはや結果回避可能性 はなく不可抗力である場合がほとんどであるので,社長等の不作為が可罰 的行為となるケースは現実には稀であるとの批判が加えられている#。ま た,厳密には,第三者から放火予告がなされたり,ホテル・デパートで日 常的に漏電があったり,建築業者を呼んで改築工事をしたような場合に は$,(このような事態は極めてレアーなケースであるが,)火災発生前の 社長等の不作為が問責の対象になる事態は起こりうる事態だというべきで あろう。本説は,火災発生以後の不作為だけが過失致死傷罪の実行行為と なりうるとの結論を導いているが,こうした考えに対しては,異論も提起 されるように思われるのである。 21(21)

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4.本稿の立場

冒頭で述べたように,火災致死傷事故における社長等の所為が作為か不 作為かを,作為と不作為の区別問題という視点から論ずるのが本稿の目的 であった。刑法学上,作為と不作為の限界づけの基準をめぐっては,周知 のように,種々の見解が提唱されている。身体動作の有無で決する見解, 因果関係の存否で決する見解,法益を現状よりも悪化せしめるかどうかで 決する見解,違法評価の重点が作為か不作為のどちらにあるかで決する見 解等が披瀝されている!。しかしながら,結論から述べれば,違法評価の重 点が作為か不作為かのどちらにあるかで決する見解が妥当である"。たとえ ば,盗品等保管罪における保管行為は作為的要素と不作為的要素の2つが 混合したものである。この場合,「保管をする」という作為的要素に焦点 を当てると作為犯だということになるし,反面「官憲・被害者に盗品を返 還しない」という不作為的要素に焦点を当てると不作為犯だということに なる。このように,現実には作為と不作為とは相互に排他的な関係にある わけではなく#,構成要件該当性を判断するにあたっては,作為と不作為の うちどちらに重点が置かれているかを十分に精査して最終的な結論を導く 以外に選択肢はないものと考えられるのである。 ここで,本稿の直接のテーマではないが,従来から論議の対象になって いる人工心肺装置の除去の問題につき検討してみよう。身体動作の有無で 決する見解,因果関係の存否で決する見解,法益を現状より悪化せしめる かどうかで決する見解に依拠した場合には,人工心肺装置の取り外しにつ いては殺人罪の構成要件該当性を認めざるをえないように思われる$。しか しながら,こうした帰結は不当であろう。現在,脳死状態に陥った患者等 末期患者に対しては,治療レベルを下げざるをえないことが広く医療の現 場で承認されている。学説の中には,このような医療現場の実情を踏まえ ると,脳死状態に陥った後の末期患者に対しては通常は医師には高度な治 療義務は課せられないとの指摘もある。この指摘は正しい指摘だというべ 22(22)

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きである ! 。たしかに,心肺装置を取り外す行為それ自体は身体動作であり, そのような身体動作と脳死状態に陥った後の末期患者の死の結果との間に 相当因果関係があることは何人も否定しえない事実だが,心肺装置の交換 が何ら法的に非難されないことからもわかるように",心肺装置の取り外し という一コマだけをクローズアップして殺人罪の構成要件該当性を肯定す るのは必ずしも的を射たアプローチだとはいえないであろう。心肺装置の 取り外しという一コマだけに焦点を当てるのではなく,心肺装置を取り付 けてから取り外すまでの一連の流れを我々は考察の対象とするべきであ る。それは,心臓マッサージを始めてから止めるまでの一連の流れを考察 の対象とすることと法的には同じことなのである#。 それでは,従来わが国で盛んに議論されてきたホテル・デパート火災事 故における社長等の所為は作為なのか不作為なのか。前述したように,作 為か不作為かをめぐっては,身体動作の有無で決する見解,因果関係の存 否で決する見解,法益を現状よりも悪化せしめるかどうかで決する見解, 違法評価の重点が作為か不作為のどちらにあるかで決する見解等が披瀝さ れていた。 まず,身体動作説から検討しよう。身体動作説は,身体動作がある場合 を作為としそうでない場合を不作為とするが,そもそも構成要件判断と完 全に切り離して作為・不作為の区別を論じようとしている点に方法論的に 問題を抱えているといえる。我々の所為は無数に認識しうるのであり,構 成要件との関連づけを行わずにある所為が作為か不作為かを分類しても, それは無駄な作業であるばかりか本来的に不可能なことであるというべき である$。実際的に考えても,防火シャッター付近での社長や従業員等の身 体動作につきそれが作為か不作為かを論ずることに意味があるともいえな いように思われる。したがって,この見解は妥当でない%。 他方で,因果関係の有無で作為か不作為かを決める見解は,構成要件該 当性判断との関連性を意識している点で,前述した身体動作説の欠陥を克 服していると評価できるが,この見解も妥当なものとはいえないだろう。 23(23)

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この見解は心肺装置の取り外しを作為とし,反面,人工透析の中止を不作 為とするが ! ,このような考え方はあまりに不自然なものといわざるをえな いように感じられる。また,因果関係の有無で作為か不作為かを区別する 見解に依拠し,ホテルやデパートの社長等の所為を作為と解することは厳 しいものと推察される。ホテル・デパート火災は第三者が放火したり失火 したりして発生するのであり,危険状態拡大源設定行為は火災の原因力と はなりえないので作為と位置づけることは無理であると考えられる。さら には,安全性に不備のあるホテル・デパートを第三者から購入した者の所 為を直ちに作為であると言い切ることはやはりできないように思われる。 次に,法益を現状よりも悪化せしめるものを作為,法益を現状維持また は現状よりも改善するために一定の態度を遂行しないものを不作為とする 見解について検討してみよう。この見解も妥当でないように思われる"。な るほど,この見解が,火災発生前の段階では作為・不作為は問題になりえ ない旨指摘した点は基本的には妥当である。すなわち,この見解が,過失 致死傷罪の実行行為として観念できるものは,せいぜい火災発生以後の社 長等の不作為のみだとしている点は正当であり,この見解が!り着く結論 自体は本稿の立場からも是認されるものである。しかしながら,法益を現 状よりも悪化させるかどうかで作為・不作為を区別する見解は,暗黙裡に 作為か不作為かを截然と限界づけられることを自らの見解の出発点にして いるように考えられる。繰り返しになるが,盗品等保管罪に象徴されるよ うに,現実の被告人の所為は作為的要素と不作為的要素が混合したものが 大半であるように思われる。この見解は,作為か不作為かを厳然と区別で きることを前提としており,無理があるように思われる。また,この見解 は,心肺装置の取り外しを作為と位置づけているが#,心肺装置の除去は救 命の方向へ流れていく因果の流れを阻害する行為と位置づけることも理論 的には可能なのであり$,こうした所為を直ちに純然たる作為としてよいか どうかも疑問である。したがって,我々はこの見解にも与することができ ない。 24(24)

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究極的には,前述したように,違法評価のどちらに重点があるかで作為 か不作為かを判別するしかないものと思われる。漏電が随所で発生してい る施設を社長等が建設したような事案を除き,通常,ホテル・デパート火 災では,社長等の火災発生以後の不作為しか法的には問題にはならないで あろう。一見すると,社長等が現場にいない事例では,火災発生前のホテ ル・デパートからの社長等の外出行為を作為と評価して問責の対象とする こともできるようにも思われるが,第2章でみたように,幼いわが子を持 つ母親の外出行為後に火災が発生した事例では外出行為という作為は過失 致死傷罪の構成要件該当行為となりえなかった。この事例と同様に,ホテ ルやデパートからの外出行為は過失犯の実行行為たりえないというべきで ある。したがって,社長等がゴルフ場に赴いて現場にいないような事案で は,ホテルやデパートからの外出行為を過失致死傷罪の実行行為と観念す ることはできないように思われるのである$。反対に,火災発生時に社長等 がホテルやデパートに現在している事例においては,当該社長等の火災発 生以後の不作為を問責の対象とすれば事足りるように思われるのである%。 ! 井田良『講義刑法学・総論』(2008年)143頁以下。 " 刑法典上の古典的犯罪とは異なり,特別法上においては両罰規定という法形式が 広範に採用されている。とりわけ,従業員が違反行為者であるパターンにおいては, 原則として,当該従業員のみならず,業務主も当該従業員に連動して処罰されるこ とになっている。この場合,通説は,業務主に選任・監督上の過失が推定されると 理解している。わが国で管理・監督過失の処罰がさほど違和感なく受容されている 背景には,特別刑法で数多く見られる両罰規定の存在があるのかもしれない。拙稿 「法人処罰」井田良ほか編『よくわかる刑法』(2006年)24頁以下。 # 新過失論を採るのは,団藤重光『刑法綱要総論』(1990年)332頁以下,佐久間修 『刑法講義・総論』(1997年)132頁以下,川端博『刑法総論講義・第2版』(2006年) 187頁以下,大塚仁『刑法概説総論・第4版』(2008年)201頁以下,大谷實『刑法 講義総論・新版第3版』(2009年)193頁以下,伊東研祐『刑法講義総論』(2010年), 福田平『全訂・刑法総論第5版』(2011年)125頁以下等。なお,予見可能性の法益 関連性を要求する新々過失論に近い見解としては,井田『講義刑法学・総論』(前掲 注1)196頁以下,高橋則夫『刑法総論』(2010年)199頁以下がある。 25(25)

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# 本稿では,結果回避可能性なき場合に条件関係ないし因果関係を否定する見解を 修正旧過失論と呼ぶことにしたい。修正旧過失論を採るのは,山口厚『刑法総論・ 第2版』(2008年)224頁以下,山中 敬 一『刑 法 総 論・第2版』(2008年)363頁 以 下,林幹人『刑法総論・第2版』(2008年)274頁以下,西田典之『刑法総論・第2 版』(2011年)254頁以下,前田雅英『刑法総論講義・第5版』(2011年)287頁以 下等。平野龍一博士も,過失犯において実質的で許されない危険を問題にしている ので,修正旧過失論に位置づけられよう。平野龍一『刑法 総論!』(1972年)190 頁以下。 $ 島田聡一郎「管理・監督過失における正犯性,信頼の原則,作為義務」山口厚編 『クローズアップ刑法総論』(2003年)98頁以下。 % 最決平成2年11月16日刑集44巻8号744頁(川治プリンスホテル事件),最決 平成2年11月29日判例時報1368号42頁(千日デパートビル事件),最判平成3年 11月14日判例時報1411号(大洋デパート事件),最決平成5年11月25日刑集47 巻9号242頁(ホテルニュージャパン火災事件)等。なお,佐伯教授は,ホテル, デパート火災は既知の危険なので,予見可能性要件を認めることができるとする。 佐伯仁志「予見可能性をめぐる諸問題」刑法雑誌34巻1号(1995年)115頁以下を 参照。 & 明石歩道橋事故については,最決平成22年5月31日刑集64巻4号447頁を参 照。 ' 薬害エイズ帝京大ルートについては,東京地判平成13年3月28日判例時報1763 号17頁を参照。 ( 結果回避可能性を因果関係ないし客観的帰属で考慮しない伝統的な旧過失論の立 場を採るのは,内藤謙『刑法講義総論(下)!』(1991年)1128頁以下,浅田和茂『刑 法総論・補正版』(2007年)335頁以下,中山研一『口述刑法総論・補訂2版』(2007 年)242頁以下,齋野彦弥『刑法総論』(2007年)214頁以下,曽根威彦『刑法総論・ 第4版』(2008年)168頁以下,大塚裕史『刑法総論の思考方法・新版補訂版』(2008 年)401頁,松宮孝明『刑法総論講義』(2009年)203頁以下等。 ) 議論状況については,甲斐克則「欠陥製品の製造・販売と刑事過失」斉藤豊治ほ か編『神山敏雄先生古稀祝賀論文集第1巻 過失犯論・不作為犯論・共犯論』(2006 年)157頁以下,北川佳世子「欠陥製品回収義務と刑事責任 −市販後の製品回収義 務の根拠をめぐるわが国の議論−」斉藤豊治ほか編『神山敏雄先生古稀祝賀論文集 第1巻 過失犯論・不作為犯論・共犯論』(2006年)181頁以下を参照。 * 神山敏雄「" 過失」大塚仁ほか編『大コンメンタール・第2版第3巻』(1999年) 295頁。さらに,神山敏雄「第2章 ホテル・デパート火災致死傷事故の実行行為性」 中山研一ほか編『火災と刑事責任・管理者の過失処罰を中心に』(1993年)126頁を も参照。 26(26)

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! ドイツ刑法13条は不真正不作為犯に関する規定である。ドイツ刑法13条2項は 「刑は,第49条第1項により,これを軽減することができる」旨定めている。訳出 は宮澤浩一訳『法務資料第439号 ドイツ刑法典』(1980年)9頁を参照。しかしな がら,不真正不作為が問題になるケースで,本当に裁量的に刑を減軽する必要があ るのかについては,今一度吟味する必要がある。ドイツ刑法13条2項を解釈するに あたり,もし「作為の場合には悪しき結果を惹起するのに因果的寄与をなしている が,反面,不作為の場合は因果的寄与をなしていないので刑を減軽することを認め てもよい」と考えるのであれば,それは妥当な考え方ではないように思われる。こ のような考え方は,因果性の有無で作為か不作為かを区分する立場を暗黙裡に前提 にしており適切なものだとは思われないからである。 " レール教授は,次のような事例を挙げている。すなわち,沖合いに流された人を 救助しようと第三者の船に乗り込んで出発しようとしたが,船が損傷するのを恐れ たその第三者が船を出すのを許可しなかったという事例を挙げている。レール教授 が挙げた事例は救助行為の妨害の事例にあたるが,この事例における船の所有者の 態度が作為か不作為かについてはわが国でも論議の的になりうるように思われる。 Röhl, Die Abgrenzung von Tun und Unterlassen und das fahrlässige Unterlassungsdelikt, JA1999, S.898ff. # 判例は盗品等保管罪を継続犯と解し,盗品等を保管し続ける作為が盗品等保管罪 の構成要件該当行為だとしている。最決昭和50年6月12日刑集29巻6号365頁。 通説もこの結論を支持している。たしかに,保管し続けるという積極的作為に着眼 すれば,作為犯ということになる。しかしながら,ここでは実質的には盗品等を返 還しない不作為が問責の対象になっていると考えるべきであろう。保管行為の処罰 は,実際上,盗品等を返還しない不作為態度,官憲に通報しない不作為態度を処罰 していると考えるべきである。詳しくは,井田良『新論点講義シリーズ2・刑法各論』 (2007年)155頁以下を参照。また,松原芳博「継続犯における作為・不作為 −保 管・所持を中心として−」斉藤豊治ほか編『神山敏雄先生古稀祝賀論文集第1巻 過失犯論・不作為犯論・共犯論』(2006年)287頁以下。もっとも,判例とは対照的 に,保管行為を保管のために盗品等の占有を移転せしめる行為だと解釈するのであ れば,知情後の被告人の態度は不可罰となる。 $ 過失犯において,新過失論の立場から,実行行為と結果回避義務の2つのメルク マールの関係性を論じたものは必ずしも多くはないようである。わずかに,井田教 授が,過失作為犯における行為者の刑法的義務には,実行行為を禁止する内容の不 作為義務と行為基準を具体化した結果回避義務の双方が存在し両者は区別されるべ きだとの見解を公にしているにすぎない。井田『講義刑法学・総論』(前掲注1)211 頁。さらに,井田良『変革の時代における理論刑法学』(2007年)167頁以下を参照。 % BGHSt 11, 119. 本判例の訳出にあたっては,篠塚春世訳『法務資料第329号』 27(27)

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(1954年)1頁以下を参照した。また,本稿が紹介した3つの判例をも含め,最近の 過失不作為をめぐるドイツ連邦通常裁判所の判例については,神山敏雄「過失犯に おける作為と不作為の区別基準論(中) −ドイツの判例を中心に−」法律時報2109 号(2011年)3頁以下が詳しい。

# Stree/Bosch, in : Schöke/Schröder, Strafgesetzbuch Kommentar, 28. Aufl., 2010, vor §§13ff. Rdn.158.

$ NStZ1999, S.607ff.

% JZ 2005, S.686. ヴァルターの評釈が掲載されているが,ヴァルターの評釈上にこ のような指摘がある。

& Frister, Strafrecht AT, 4. Aufl., 2009, S.261. 「原因において自由な不作為」の理 論については,町野朔『刑法総論講義案!・第2版』(1995年)142頁が詳しい。 ' JZ2005, S.685ff. ( 島田「管理・監督過失における正犯性,信頼の原則,作為義務」(前掲注5)103 頁以下を参照。 ) 井田良『犯罪論の現在と目的的行為論』(1995年)204頁以下。 * 神山「" 過失」(前掲注11)331頁。 + 結果惹起の危険性の程度が極めてミニマムな所為が過失致死傷罪における実行行 為性を基礎づけうるのかという問題がある。たとえば,非常階段に段ボールを山積 みする態度が危険状況創出行為であり作為といえるのかについては疑問も沸いてく るように思われる。大塚裕史教授も,段階的過失を問題として採りあげる場面にお いてであるが,「結果と因果関係が認められる行為を過失行為とするといっても,結 果と条件関係が認められるだけでは足りず,相当因果関係まで要求するとなると, 自ずと過失行為の範囲は法益侵害の危険性のある行為に限定される」旨述べている。 大塚裕史「段階的過失における実行行為性の検討」『神山敏雄先生古稀祝賀論文集・ 第1巻 過失犯論・不作為犯論・共犯論』(2006年)41頁。 , 井田『犯罪論の現在と目的的行為論』(前掲注23)205頁以下。 - 井田『犯罪論の現在と目的的行為論』(前掲注23)205頁以下を参照。なお,企業 の全体的な営業活動を分解した上で特定の個人が担うべき義務を明確化する場面 は,業務上過失致死傷罪が問題になる局面以外にもあるように思われる。たとえば, 悪徳商法を営む企業体が老人や主婦等の経済的弱者から財産を騙し取っているよう な場合には,企業体全体の活動と経営者の個人責任とが混淆するのを防ぐため,代 表者個人が担うべき義務を解明した上で詐欺罪の適用可能性を論じる必要も出てく るように感じられる。少なくとも詐欺罪においては,特定の個人が担うべき義務を 明確化するために,不作為犯による詐欺として理論構成しなければならない場面は 数多く存するはずである。 . 酒井安行「管理・監督過失における実行行為 −不作為犯なのか−」西原春夫ほ 28(28)

参照

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