産大法学 38巻1号(2004. 6)
歴史神学者平泉澄︵二・完︶
植
村
和
秀
はじめに 第一章 歴史神学をもたらすもの 第一節 日本国家の精神的機軸 第二節 ナショナリズムの変質とその日本的変奏︵以上、第三七巻第四号︶ 第二章 国史学の神学的代位︵以下、本号︶ 第一節 理性と信仰 第二節 教義 ― 皇国日本の理念的構成 第三節 教会と伝道 ― 崎門の復活 おわりに第二章
国史学の神学的代位
第一節 理性と信仰 国史家平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらんと欲した。平泉は、自己の国史家としての抜群の学識と、東京帝国大学国歴史神学者平泉澄(二・完) 史学講座の職責をもって、日本の歴史に一個の神学的な構成を枠付けようとしたのである。平泉の目算によれば、それ は、日本国家の精神的機軸を真に確立し、ネイション意識の集約を精神的かつ創造的に遂行する試みなのであり、首尾 良く成功すれば、日本人の理性に信仰の支柱をもたらし、日本への信仰に理性的な均衡をもたらすはずであった。そし て、そのためにまず平泉は、理性の優位する学者たちと、信仰の沸騰する国士たちの双方に、この構成の意義を自覚さ せる必要があったのである。 大正の末年から昭和の始めにかけて、平泉の心意はこの要点にかけられていたと推測する。大正一五年四月に、平泉 は文学博士の学位を授与され 、東京帝国大学助教授に任命された 。そして同年中に 、﹃中世に於ける精神生活﹄と ﹃我 が歴史観﹄ 、そして ﹃中世に於ける社寺と社会との関係﹄の三冊が上梓され 、三〇代前半にして学界の大家たることが 明白となった。その業績を示した上で、平泉は、まず歴史の専門的な研究者たちに対して、国史研究における神学的構 成の意義の自覚を呼びかけたように思われる 。すなわち 、大正一四年四月の史学会例会に講演され 、同年五月発行の ﹃史学雑誌﹄に掲載された﹁歴史に於ける実と真﹂の一文である。 そこで平泉は 、イタリアの哲学者ベネデット ・ クローチェの行論を踏まえ 、それを日本に応用した 。クローチェは ﹃歴史の理論と歴史﹄において、 ﹁文献学的歴史は多分正しく 4 4 4 はあり得るが決して真 4 なり得ない﹂と力説し、 ﹁真実さを 欠くが故にまた真の史的関心を欠く﹂と断罪していたのである ︵姐︶ 。そして平泉は 、新井白石の実証の不備を論証しつつ も 、それがかえって歴史の真に迫ることを力説し 、あるいは 、﹁板垣死すとも自由は死せず﹂の一言の 、実ならざるも 真を伝えることを指摘して、学問的な歴史研究の趨勢を以下のように批判している。 ﹁惟ふに史実の正確のみを期して文書記録の精査に耽り、而して歴史の生命の失はれゆくを顧みなかったのは、近代 学風の一弊害である。博覧洽聞、殊に一切妄誕の記事を棄てゝ専ら当時実際に働きたる文書又は之に関係し之を見聞せ
る人々の記録に拠り、正確動かすべからざる説を立つるは其の長所ではあらうが、しかもそこに現るる人物は往々にし て魂なき骸であり、従ってその歴史は精神を失ひ、真を逸せる空文に過ぎない。予は近時学界に現るゝ諸種の論文を読 むごとに、この歎を重ねざるをえない。この道を辿るとき、歴史は偶然のうつりゆきであり、人は甲乙を別たず一箇の 生理的存在に過ぎないからである。かくて史学は煩瑣見るに堪えざる骨董の分析であり、青年の気力を枯らし霊魂を眠 りに導く毒酒となるであろ ︵虻︶ う﹂ 。 平泉の講演を行った史学会は、日本における専門的な歴史研究者たちの本拠地の一つであった。これは明治二二年の 創設にかかり、現在まで引き続き、東京大学文学部の管掌して﹃史学雑誌﹄を発行する学会である。その発会式兼第一 回学会において 、発起人の中心で当時の代表的な国史家である重野安繹東京帝国大学文科大学教授は 、﹁史学ニ従事ス ル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ﹂と題する講演を行った。 ﹁歴史ハ時世ノ有様ヲ写シ出スモノニシテ、其有様ニ就キ考案ヲ加ヘ、事理ヲ證明スルコソ、史学ノ要旨ナラン、然 ルニ歴史ハ名教ヲ主トスト云フ説アリテ、筆ヲ執ル者、動モスレハ其方ニ引付ケテ、事実ヲ枉クル事アリ、世教ヲ重ン スル点ヨリ云ヘハ、殊勝トモ称スヘキナレトモ、ソレカ為メ実事実理ヲ枉クルニ至ルハ、世ノ有様ヲ写ス歴史ノ本義ニ 背ケリ、唯其実際ヲ伝ヘテ、自然世ノ勧懲トモナリ、名教ノ資トナル、是即所謂公平ノ見、公平ノ筆ナ ︵飴︶ リ﹂ 。 この学会において平泉の行った講演は、それでは重野への挑戦状であったのであろうか。ちなみに、重野安繹は明治 四四年に長逝するまで、実に二〇年の長きに亙って史学会会長を務め、その発展に尽力し続けた。重野の尊重した﹁実 事実理﹂の考究は 、大学アカデミズムの堅実さと信頼感を生み出すとともに 、たしかに無味乾燥の弊をもたらしはし た。しかし、それをもって平泉が、重野の﹁実事実理﹂の考究を斥けたとするのは速断であると考える。平泉自身はむ しろ、重野の心を発展的に継承しようとしたとも考えられるからである。
歴史神学者平泉澄(二・完) 重野は史学会発会の目的を 、﹁今此会ヲ開クハ 、従来史局ニ於テ採集セシ材料ニ依リ 、西洋歴史攷究ノ法ヲ参用シ テ 、国家ヲ裨益セント欲スルナリ﹂としてい ︵絢︶ た 。これは全く 、平泉の共感する目的である 。重野はまた 、﹁歴史ノ事ヲ 大別スレハ、攷究ト編修トノ二ナリ﹂として、歴史研究を実証で終らせてはならないと警告してお ︵綾︶ り、平泉の講演はこ れに和して、歴史研究における構成の重要性を説くものだったと把握することができよ ︵鮎︶ う。もとより重野の実際は、攷 究への努力に強く傾くことにはなった。しかしこれは、国史学の新たな第一世代に必要な傾向であったし、それは幕末 の薩摩藩で﹁尊王主義、勧懲主 ︵或︶ 義﹂の歴史書を編修した重野の転身としても、あるいは、その一面としても理解しうる ものである。平泉澄が考証史家として群を抜く実証の大家であったことも考え合わせると、果して、重野と平泉は断絶 していると言うべきなのであろう ︵粟︶ か。 この重野安繹にせよ、三上参次や黒板勝美にせよ、国史学科の先任教授たちと平泉との距離は、実はきわめて近かっ たのではないか。流刑先の奄美大島で西郷隆盛と語り合った漢学者重 ︵袷︶ 野、荻生徂徠への贈位を峻拒した國體論者三 ︵安︶ 上、 南朝正統論の闘将にして国士たる黒 ︵庵︶ 板、これらの先任教授たちと平泉とは、マルクス主義に走る若い歴史家たちと比べ て、はるかに肝胆相照らす仲だったように思われ ︵按︶ る。しかもその距離は、政治的立場の相違というよりも、むしろ拠っ て立つ教養そのものの相違、思想や生活における江戸時代との連続性の有無に由来していたのではないだろうか。ちょ うど、津田左右吉や美濃部達吉、柳田國男や長谷川如是閑たちが、丸山眞男と深く断絶していたのと同様に、江戸時代 の名残りとの断絶を、われわれはここにも見出すのである。 ただし平泉は、その先任教授たちとの時代の相違もまた、強く感じざるを得なかったようである。そうであるから、 あえて史学会において、 ﹁歴史に於ける実と真﹂を問題提起し、 ﹁近代学風の一弊害﹂を強調したものと思われる。遠く 重野の時代には、国史学の自立にこそ国史研究の意義があった。欧化全盛の気風の中で、国史学は大学においてまとも
に扱われず、重野自身も変転の苦労を重ね、明治二〇年にようやく東京帝国大学に史学科が設置され、翌年重野も教授 に就任した。国史学の独立の学問たるを弁証せねばならぬ窮状は、重野をして、西洋の歴史学と切磋し、江戸時代の歴 史学を蝉脱させる、国史学の再出発へと向わせしめたのである。それに対して平泉の時代には、国史学の大学内での地 位は確固たるものである反面、国家内での大学の意義の方が変化しつつあった。近代化の成功によって強大化した国家 は、他の強国との競争に勝ち残るため、大学に、知の伝達による社会的分化を促進する機能よりも、知の活用による社 会的統合を促進する機能の方を、ますます強く求めてきていたのであ ︵暗︶ る。それはもとより、先任教授たちも強調してき た機能ではあるが、平泉の相違する所は、神学に代位して、国史学こそが、日本への信仰の枠組みを作るべきであると 強く踏み込むことにあった。 ﹁歴史に於ける実と真﹂の結論は以下である。 ﹁明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了れりとした。所謂科学的研究これである。その研究法は分析で ある。分析は解体である。解体は死である。之に反し真を求むるは綜合である。綜合は生である。而してそは科学より はむしろ芸術であり、更に究竟すれば信仰である。まことに歴史は一種異様の学問である。科学的冷静の態度、周到な る研究の必要なるは 、いふまでもない 。しかもそれのみにては 、歴史は只分解せられ 、死滅する 。歴史を生かすもの は、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である。この霊魂の力によって、実は真となる。 歴史家の求むる所は、かくの如き真でなければならない。かくて史家は初めて三世の大導師となり、天地の化育を賛す るものとなるであら ︵案︶ う﹂ 。 この講演から約半年後、平泉は﹁我が歴史観﹂の一篇を書き下ろし、翌大正一五年五月に上梓する﹃我が歴史観﹄の 劈頭に据えた。そこで平泉は、近代史観に対峙する現代の史家として自己を描き出し、百花繚乱に対抗するに取捨選択 をもってした 。すなわち平泉は 、ヨーロッパ近代史学の主たる特徴を 、﹁文明史乃至文化史﹂による ﹁研究領域の拡
歴史神学者平泉澄(二・完) 大﹂に見出し 、それらが雑然と日本の学界に流入し 、しかも日本では 、﹁それら近代的史観を幾分かは斟酌しつヽ 、根 本に於てはこれを蔑視して、昂然として純粋客観の大旆をひるがへすオーソドックスの塁壁は猶高い﹂とする。 ﹁それら多種多様の史観は、袖手して之を傍観する時は、百花繚乱の美がないではない。しかしながらその中に入っ て取捨選択を行はんとすれば、左右の晶光一時に目を射て瞑眩し、却ってその矛盾背反の潮流に漂没するおそれさへあ る。現代史家の悩は正にこの点に存する。しかも荀くも心を歴史に傾くる以上、この問題に就ては何等か解決の血路を ひらかねばならな ︵闇︶ い﹂ 。 平泉は、歴史観の雑居状態が日本ではひときわ甚だしいと見ていた。そして、そのような雑居状態を整序して歴史家 の主体性を確立することが、現代の急務であると判断していた。そのため平泉は、歴史が﹁自由の人格が永久にわたる 創造開展の世界である﹂ことを確認 ︵鞍︶ し、さらに進んで歴史家自らが、その人格によって歴史を創造開展すべきであると 要求し、さもなければ歴史家は歴史を真に理解することができないと主張した。 ﹁我が歴史観﹂の結論は以下である。 ﹁過ぎ去りし事実はいかにも固定して千古不変であらう。しかしその事実をいかに把捉するかは、歴史家の個性、及 びその時代の思想によって相違する 。中世に書かれたる歴史は 、畢竟中世的把捉である 。現代は現代的把捉を要求す る。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならない。⋮⋮而してこの事は史家の人格、及び彼がいかに深くまた 正しく現代を理解してゐるかが、最も重大である事を示す。実際純粋客観の歴史といふものは断じてあり得ないので、 もしありとすれば、それは歴史でなくて、古文書記録即ち史料に外ならない。歴史は畢竟我自身乃至現代の投影、道元 禅師の所謂﹁われを排列して、われこれをみる﹂ものである。しかも又歴史を除外して我はない。我は歴史の外に立た ず、歴史の中に生くるものである。歴史を有つものでなく、厳密には歴史するものである。前には歴史のオブゼクトに 人格を要求した。今は歴史のサブゼクトに人格を要求する。かくの如く内省してゆく所に、現代史観の特徴がある。外
へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思ふにかくの如きはひとり歴史に於てのみ見らるる所ではあるまい。すべて は今や深き反省によって、自己を確立すべき秋であ ︵杏︶ る﹂ 。 平泉は理性の優位する学者たちに、主体的人格として歴史を作ることを求めた。歴史への真の理解は、その歴史を作 ることによって把握されると考えるからである。そして平泉は、日本の歴史の具体的な多様性よりも、日本の歴史の全 体的な構成を重視すべき時の来たことを宣言する。すなわち、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸足を移し、その 実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を告げるのである。そのような平泉はさらに進んで、今度は、現に歴史 を作らんとする人々へと呼びかけねばならない。歴史を真に作るためには、その歴史を真に理解することが不可欠であ る 、と 。学者たちから目を転じて 、信仰の沸騰する国士たちに平泉の強く向き合ったのは 、﹃我が歴史観﹄刊行の約半 年後、大正一五年九月擱筆の﹁歴史の回顧と革新の力﹂の一文である。 ﹁歴史の回顧と革新の力、思を過去に潜める事と足を将来に踏み出す事と、この二つは庸愚暗劣の徒にあっては常に 矛盾せる対立と考へられ、彼に重きを置くものは此を取らず、此に専らなるものは彼を捨て、互に無縁の者として白眼 視するのみならず、殆んど仇敵の如く相戦ふに至るのである。かくて前者は遂に保守退嬰に陥り、歴史の研究といふも 徒に骨董的玩弄に過ぎず、而して後者は頻りに破壊反逆を事とし、理想の追求と称するも単に新奇を衒ひ流行に諛るに 外ならない。その方向は相反しながら、その浅薄と愚劣とに於て、以上両者は正しく類を同くするものである。事実、 大勢の推移、流行の変遷に伴ひ、往々にして彼より此にうつり、此より彼に変ずるものさへあるではないか。しかるに 歴史の明示するところ、偉大なる精神に於ては、この二つは必ずしも相矛盾せず、歴史の回顧によって自己本来の使命 を悟り 、その本にかへる事によってその心を純粋にし 、よって以て高く理想の標識をかかげ 、深く現実の真相を理解 し、陋と邪とを去って正義を顕はさんが為に、大破壊を敢てし、大革新を行ふものである。以下少しくその実例を指摘
歴史神学者平泉澄(二・完) せしめ ︵以︶ よ﹂ 。 この冒頭部分に引き続き 、平泉は 、聖徳太子 、中大兄皇子 、後鳥羽上皇 、順徳天皇 、後醍醐天皇の国史研究を紹介 し、さらに明治維新の例を挙げるとともに、武家においても国史研究の行われたことを、足利尊氏、徳川家康、新井白 石、徳川吉宗、松平定信などの故事に及んで紹介する。その結論は以下である。 ﹁見来れば古来偉大なる人格に於ては、歴史の回顧と革新の力と常に相提携し、相融合し、否本来合致して唯一不二 である。両者の分離する時、甲をとるにせよ、乙に趨くにせよ、いづれもその思想は浅薄愚劣であり、その行動は根抵 無き表面的妄動に過ぎない 。知らず 、今日 、改造といひ 、国粋といふ 、果して歴史の骨髄をつかんで本来の面目に徹 し、日本人の真の使命を自覚せるや否 ︵伊︶ や﹂ 。 この一文の掲載された﹃歴史地理﹄第四八巻第四号は、同巻第一号とともに、国史学修の意義を訴える特集を組んで いた 。その発行者である日本歴史地理学会の編集担当者と思しき筆には 、﹁目下我が国民の思想混沌として殆ど帰嚮す るところなきの状にあり、帝国の前途誠に慮に堪えず﹂として、 ﹁国史教育の徹底を期すべき方策﹂を問い、 ﹁本会微力 なりと雖も、率先して之が機運を促進し、学徒報国の事に竭さん﹂とあ ︵位︶ る。 平泉は、他の教育者、軍人、文部官僚、衆議院議員などとともに諮問に答え、他の論者ともども、国史教育の国家的 意義を論じて轡を並べていた。しかし、その中にあって平泉が異彩を放つのは、文部省への膝詰め談判の風のある諸論 の中でただ一人、その筆先が文部当局以上に、国家革新の運動家たちに向けられていたことにある。平泉の声は、官僚 よりも国士に向けて発せられていたのである。 このような呼びかけは、その約九ヶ月後の﹁国史学の骨髄﹂の一文に結実することとなった。これは、昭和二年六月 二三日の朝に書き下ろされ 、同年八月発行の ﹃史学雑誌﹄に掲載された歴史論であり 、昭和七年発行の ﹃国史学の骨
髄﹄の劈頭を飾る論文である。そこにおいて平泉は、専門的な研究者たちにも、政治活動を行う国士たちにも、そして それらに関心を持つ人々にも 、彼の把握する国史研究の意義を広く開示した 。すなわちこれは 、平泉歴史神学の ﹁骨 髄﹂なのである。 ﹁かくて歴史は、自国の歴史に於いて、我れ自らその歴史の中より生れたる祖国の歴史に於いて、初めて眞の歴史と なり得るものである事は、今や明かであらう。我が意志によりて組織し、我が全人格に於いて之を認識し、我が行を通 して把捉するが如きは、祖国の歴史にあらずんば、即ち不可能である。祖国の歴史にして始めて古人と今人との連鎖、 統一は完全である 。古人はここに完全に復活し来る 。︵思へ 、世には厳かなる科学的歴史の仮面を被りて 、復活せざる 屍骸を羅列し 、精神的連鎖は全く之を欠如せる書のいかに多きか 。︶而して古人がここに完全に復活し来るを思ふ時 、 歴史は即ち永生となる。歴史を認識するは永生の確信を得る事である。吹く風の目にこそ見えね、古人の魂は永遠に現 在する。この点より直ちに引き出さるる事は、凡そ世界中に於いて、我が日本の歴史こそ、最も典型的なるものである といふ確信である。前に歴史は変化を必要とするといった。しかし実はその変化は発展でなければならない。個人にし ていへば⋮⋮人格の発展向上でなければならない。国家に於いても同様である。革命や滅亡によって、国家の歴史は消 滅する。中興により維新により、国家の歴史は絶えず生き生きと復活する。未だ曾て革命と滅亡とを知らず、建国の精 神の一途の開展として、日本の歴史は唯一無二である。世界の誇りとして、歴史の典型は、ここ日東帝国に之を見る。 ⋮ ⋮一の精神の開展である 。古と今との統一的連関は 、ここに於いて完い 。道元禅師いへるあり 、﹁佛佛の相嗣するこ と深遠にして不退不転なり 、不断不絶なり﹂と 。わが国の歴史も亦 、その相嗣深遠にして 、不退不転不断不絶であ る ︵依︶ ﹂ 。 平泉はこれを﹃史学雑誌﹄に掲載し、専門的な歴史研究者に提示する一方、当時の国士の代表格である大川周明に送
歴史神学者平泉澄(二・完) 付して、直接に国家革新運動との接触を持った。そしてこれ以降、戦後に至るまで、大川は、九歳年下の平泉を深く重 んじ、敬意を抱き続けた。大川の返書は以下である。 ﹁陳者此度はからず御懇書と共に高著一篇恵投を忝うし、芳情不堪感激候。早速拝誦、敬嘆此事に御座候。独り史学 と言はず 、自余の諸学に於ても 、老台の識見を抱いて精進する学者輩出するに非ずば皇国真個の学は出現せずと奉存 候。生亦下手の横好きにて、日本史の研究に甚大の興味を抱き居ることにて、虚空叫希有の歓喜を覚え申候。国史の研 究に就て 、向後はどうぞ生の導師たる労を賜り度 、不日更めて拝趨 、御示教を仰ぐべく候へ共 、不取敢書中御礼まで 匆々如是御座 ︵偉︶ 候﹂ 。 他方 、平泉に正面から反論したのは 、六歳年下の羽仁五郎であった 。羽仁は当時 、東京帝国大学史料編纂所に勤務 し 、マルクス主義的な革命運動に積極的に関与していた 。約一年後の ﹃史学雑誌﹄に掲載された ﹁反歴史主義批判﹂ は 、文献学的歴史と文化史を批判するとともに 、﹁精神主義的歴史﹂を ﹁一種の ― というのは人間中心の ― 神学﹂ と断罪するのである。 ここでの羽仁の文献学的歴史への批判は、その﹁方法の確実性﹂の盲信への批判であり、クローチェに依拠して平泉 と合流するものであっ ︵囲︶ た 。さらにまた文化史への批判も 、﹁学問的総合原理﹂の喪失に向けられて 、やはり平泉と合流 していた。しかし羽仁は、その総合原理を日本精神に求める平泉を斥ける。 精神主義的歴史は 、﹁歴史の骨髄または本質または原理を求める 。そして一方には文献学的歴史を精神領域への拡張 によって補足し、他方には精神的なるものをもって歴史の確実なる指導原理としようとする﹂ 。それは、 ﹁いうまでもな くかの教会史をその中世における先駆とするものである。けれども教会史のごとき断乎たる仕方において歴史現象を神 の干渉および指導によって理解することは、文献学的歴史以後遺憾ながらもはや可能ではない。そこでいま神のかわり
に人格が、神の国のかわりに祖国が、そして唯一なる啓示のかわりに個別性が発見されたのである。したがって一言に していえばこの精神主義的歴史は一種の ― というのは人間中心的の ― 神学である。この神学は本来の神中心的神学 のだしがら 4 4 4 4 であり、再演であり、いわば戯画であ ︵夷︶ る﹂ 。 羽仁はそれが、キリスト教神学に比較して絶対性と普遍性において劣り、 ﹁物神崇拝の色を帯びる﹂と批判した。 ﹁教 会史における神格は一方において絶対なる歴史的法則性でありえたが、精神主義的歴史における人格はむしろただ一切 の歴史法則を無視する神秘でのみあ ︵委︶ る﹂ 。そして、 ﹁歴史のうちに人格的法則性をひき入れることは一つの反動である﹂ と規定した上 ︵威︶ で 、﹁唯物史観﹂を正解と示唆して一文を終えてい ︵尉︶ る 。このような羽仁の批判は 、どの程度適正であった だろうか。 羽仁の慧眼は、平泉の神学性をいち早く見抜くものであった。しかし羽仁は、キリスト教神学の歴史的特殊性を看過 して、それがあたかも、実際に普遍的であるかのように論ずるようである。あるいはまた、歴史の法則性の主張をもっ て、実際に法則があるかのように論ずるようである。そして何よりも、人間中心という規定は、後世より見れば誤解で あった。平泉の描く歴史は、人間中心であるとは思えないからである。 平泉の描く歴史の舞台には 、たしかに多くの人間が登場し 、躍動し奮起して 、時に美しく滅びていく 。しかし彼ら は、言わば皇国理念の操り人形なのである。遣い手の神技は彼らに生気を吹き込み、絵巻物の如く見る者の息を呑ませ る。しかしそれは、余人の模倣しえぬ平泉の筆の力の賜物であり、本義はあくまでも理念の方にある。そのため彼らの 人生は、理念の部分へと刈り込まれる。平泉の簡明流麗な文体は、本末を判断して結論のみを述べ、その結果、論理的 な整合性は亢進し、人間は語り尽くされる。そこに平泉の文体の透き通った特徴が生じ、そしてそこに平泉の、あまり にも論理的に説明し尽してしまう短所が見出しうるのではないだろうか。
歴史神学者平泉澄(二・完) 平泉の言う歴史の骨髄とは 、﹁本質または原理﹂とするよりも 、むしろ理念なのであった 。しかもそれは皇国理念で あり、国史の骨髄をつかむとは、皇国理念を心に掴むことに他ならなかった。そして平泉の期待するのは、この理念を 掴むことによって、理性と信仰が相乗的に働き、それらが人間を主体的行為へと衝き動かすことだったのである。 註 ︵ 34︶ クロオチェ、羽仁五郎訳﹃歴史の理論と歴史﹄ 、岩波文庫、四〇頁。この翻訳は大正一五年一二月初版であり、同月の﹃史 学雑誌﹄に平泉が書評を書き 、羽仁を祝福している 。平泉澄 ﹁クロオチェ ﹃歴史叙述の理論及歴史﹄邦訳を得て﹂ ︵一九二六 年一二月︶田中卓編 ﹃平泉博士史論抄﹄ 、青々企画 、一九九八年 、六一∼六二頁 。平泉はドイツ語版でクローチェを愛読し 彼のマルクス主義批判にも深く学ぶ所があった 。留学時に自宅を訪問した想い出については 、平泉澄 ﹁ナポリの哲人﹂ ︵一九五三年六月初出︶ ﹃寒林史筆﹄ 、立花書房、一九六四年参照。 ﹃平泉博士史論抄﹄にも所収。 ︵ 35︶ 平泉澄﹁歴史に於ける實と眞﹂ ︵一九二五年四月︶ ﹃我が歴史観﹄ 、至文堂、一九二六年、三六四∼三六五頁。初出は﹃史学 雑誌﹄第三六編第五号︵一九二五年五月︶ 。﹃平泉博士史論抄﹄にも所収。 ︵ 36︶ 重野安繹 ﹁史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ﹂ ﹃史学雑誌﹄第一編第一号 ︵一八八九年︶ 、三頁 。史学会 の歴史は、 ﹃史学会小史 創立五十年記念﹄ 、一九三九年。 ﹃史学会百年小史﹄ 、一九八九年参照。 ︵ 37︶ ﹁同﹂五頁。 ︵ 38︶ ﹁同﹂四頁。 ︵ 39︶ 掲載誌裏表紙のドイツ語表題は 、
“Gewissheit und Wahrheit in der Geschichte
” であり 、訳すれば ﹁歴史における確実さと 真理﹂である 。平泉自身の校閲を経たかは不明のためここでは紹介に止めておきたい 。﹃史学雑誌﹄第三六編第五号 ︵一九二五年五月︶ 、裏表紙参照。 ︵ 40︶ 大久保利謙 ﹁島津家編纂皇朝世鑑と明治初期の修史事業﹂ ﹃史学雑誌﹄第五〇編第一二号 ︵一九三九年一二月︶ 、三三頁 なお、原田文穂﹁重野安繹博士の史観に就いて﹂ ﹃史学雑誌﹄第五三編第七号︵一九四二年七月︶ 、二二∼三〇頁参照。 ︵ 41︶ それゆえ平泉においては 、編修に必要な史料の選択が重んじられ 、選択に必要な価値観が問われることとなる 。しかし
その価値観は史料の検討に先行させるべきではないとの重野の反論が推測され、平泉ならばこれに、史料の検討そのものに価 値観が含まれると答えるであろう。その意味において平泉と重野は断絶する。けれども、重野の実証主義には漢学の口調が強 く感じられ、その態度に儒学的な価値観の変奏が感じられてならない。そして平泉においては、儒学的な価値観の、これとは 異なる変奏があると筆者は考える。果たして、両者は断絶しているのであろうか。ちなみに、実証主義史学の大家として日本 でも敬仰されたレーオポルト・ランケの場合、その事実への愛は深いキリスト教信仰に根差しており、史学はすなわち敬虔な る宗教的営為であった。事実に働く神の手を感じることを喜ぶランケは、それゆえに、事実の探求を何よりも重んじたのであ る。これについては特に、フリードリヒ・マイネッケ、菊盛英夫・麻生建訳﹃歴史主義の成立﹄下、筑摩叢書、一九六八年、 付章参照。 ︵ 42︶ 重野と西郷の関係については、平泉澄﹃首丘の人大西郷﹄ 、原書房、一九八六年参照。 ︵ 43︶ 三上が、贈位を求める犬養木堂に﹁言語道断﹂と激昂した一件については、丸山眞男﹁荻生徂徠の贈位問題﹂ ﹃集﹄一一参 照。 ︵ 44︶ 黒板は 、南北朝正閨論争に際して大日本國體擁護団に参加し 、建武中興六〇〇年祭にも愛弟子平泉とともに参加してい る。その生涯については、石井進﹁黒板勝美﹂ ﹃二〇世紀の歴史家たち︵二︶ ﹄日本編下参照。 ︵ 45︶ 平泉と講座の先任者黒板勝美との不仲説については 、門下生からの説得的な反論がある 。著者も 、様々な状況証拠から師 弟は親密であったと判断している。時野谷滋﹃大関の里集﹄ 、窓映社、二〇〇三年、七九∼八四頁。 ︵ 46︶ 昭和期前半における大学の意義変化については 、竹内洋 ﹃大学という病 ― 東大紛擾と教授群像﹄中公叢書 、二〇〇一 年、特に第一〇章参照。 ︵ 47︶ 平泉澄﹁歴史に於ける實と眞﹂ 、三七九∼三八〇頁。 ︵ 48︶ 平泉澄 ﹁我が歴史観﹂ ︵一九二五年一一月︶ ﹃我が歴史観﹄ 、六頁 。﹃平泉博士史論抄﹄にも所収 。初出は ﹁現代歴史観﹂の 表題で﹃太陽﹄大正一五年一月号。 ︵ 49︶ ﹁同﹂ 、一六頁。 ︵ 50︶ ﹁同﹂ 、二二∼二三頁。 ︵ 51︶ 平泉澄 ﹁歴史の回顧と革新の力﹂ ︵一九二六年九月︶ ﹃國史学の骨髄﹄ 、至文堂 、一九三二年 、一八∼一九頁 。﹃平泉博士史
歴史神学者平泉澄(二・完) 論抄﹄にも所収。 ︵ 52︶ ﹁同﹂二八∼二九頁。 ︵ 53︶ ﹃歴史地理﹄第四八巻第一号 ︵一九二六年七月︶ 、一五二頁 。単行本としては 、同号は ﹃歴史地理 国史之教育﹄の表 題、 第 四 号︵ 一 九 二 六年 一〇月︶は ﹃歴史地理 国史之懐古﹄の表題 、両号合本版は ﹃歴史地理 国史之懐古﹄の表題で それぞれ日本学術普及会より出版されている。なお、直接の関連は不明であるが、第一号発行と同月の七月二三日に、文部大 臣が国史教育家と意見交換したとの報が第四号に言及されている。 ︵ 54︶ 平泉澄﹁國史学の骨髄﹂ ︵一九二七年六月二三日︶ ﹃國史学の骨髄﹄ 、至文堂、一九三二年、一二∼一四頁。初出は﹃史学雑 誌﹄第三八編第八号︵一九二七年八月︶ 。﹃平泉博士史論抄﹄にも所収。 ︵ 55︶ 昭和二年八月二九日付平泉澄宛書簡﹃大川周明関係文書﹄ 、芙蓉書房、一九九八年、四四九頁。平泉と大川の関係について は、清家基良﹁大川周明と日本精神 ― 平泉博士と比較して ― ﹂﹃藝林﹄第三七巻第四号︵一九八八年一二月︶ 、二四∼六一 頁参照。 ︵ 56︶ 羽仁五郎 ﹁反歴史主義批判﹂ ﹃羽仁五郎歴史論著作集﹄第一巻 、青木書店 、一九六七年 、三四頁 。初出は ﹃史学雑誌﹄第 三九編第六号︵一九二八年六月︶ 。 ︵ 57︶ ﹁同﹂ 、三八頁。 ︵ 58︶ ﹁同﹂ 、三九頁。 ︵ 59︶ ﹁同﹂ 、四〇頁。 ︵ 60︶ ﹁同﹂ 、四五頁。 第二節 教義 ― 皇国日本の理念的構成 国史家平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらねばならなかった。それは平泉が、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸 足を移すため、その実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を感じるからである。そして実践の根拠たるために
は、歴史は、理念的に構成されねばならなかった。すなわち、個々人の主体性を窒息させるほど完璧ではなく、個々人 の主観性を野放しにするほど散漫ではない、倫理的な根拠と創造的な足場たるに十分な、しかも政治的行動への意欲を 発条させる、そんな歴史の骨格が必要だったのである。 昭和期における平泉の心意は、この骨格の構築にかけられていたと推測する。日本人に日本史の骨髄を掴ませるため に、平泉自身は、日本史の骨格を提示しようとしていたわけである。それは平泉にとって、国史家としての自己の使命 と任ずる課題であり 、一刻も早く 、そこに全力を注がねばならぬ課題であった 。﹁歴史の様々に変化する相を研究し 、 その裏に流れる一貫した或物を見出す﹂ことを 、平泉は 、在外研究直前の昭和五年の講演において 、﹁私の歴史研究に 対する信念﹂と述べてい ︵惟︶ た。しかし、その後の平泉の努力は、独創的で学問的に興味深い変化の相の研究によりも、む しろ一貫性の提示の方に向けられていくこととなった。現代の歴史家として、平泉は、こちらにより重大な意義を見出 したからである。 平泉は、日本の歴史から理念を抽出し、その高みから日本の歴史を取捨選択する。その理念とは、皇国理念である。 この日本史の骨髄は 、日本史の骨格を規定する 。それゆえ例えば室町時代の大半は 、平泉にとって 、﹁これといってお 話すべき価値あるものは、ない﹂と言い切れるのである。 ﹁吉野時代の五十七年にくらべて、室町時代の百八十二年は、三倍以上の長さです。しかし三倍以上というのは、た だ時間が長かったというだけのことで、その長い時間は、実は空費せられ、浪費せられたに過ぎなかったのです。吉野 時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありま した。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起すのでありました。これに反して室 町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その粉乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去
歴史神学者平泉澄(二・完) られていたのでし ︵意︶ た﹂ 。 そして、このような﹁浪費﹂の多さは、平泉に挫折感を与えない。むしろそれは、平泉に使命感を与え、その行動へ の意欲を発条させる。皇国理念の実現は、一に行動する人間の努力にかかっているとするからである。 ﹁大体日本歴史を考へる上に於て人々の考は実に楽観し過ぎて居る。日本の歴史は実に見事な歴史である、日本の國 體は実に立派な國體である、是には何も問題はない、斯ういふ風に非常に楽観し過ぎて居るのであります。飛んでもな い話。日本の歴史が光にみちた歴史であることは言ふまでもない。日本国の國體は萬国に冠絶せる國體であることは言 ふまでもない。併しながらこの優れたる國體、此の優れたる歴史といふものは好い加減な気持を有って何等為すなくし てこの輝きを得られたものでは断じてない。幾多の苦しみの中に幾多の忠義の人々が命を捨てて、漸く護り来ったとこ ろである。実際事情を能く見て参ったならば幾多の恐るべき問題があって、その幾多の恐るべき中に於て傑れたる人々 が命を献げ奉って之を護り来ったのが日本の國體でありま ︵慰︶ す﹂ 。 承久の変 、建武の中興 、明治維新 、その辛苦 、﹁若しそれを真剣に考へるならば茲に吾々は深き覚悟を有たなければ ならない。又日本の國體を考へる以上は、日本の歴史を考へる以上は、真実にこの國體を護り奉らんが為に、この日本 の歴史をして光あらしめんが為に吾々は何をすべきであるか。此の事を深く考へる所なくしては、自分の責任に於て此 の國體を護り奉つるといふことを覚悟せずしては 、真に日本の國體 、日本の歴史を考へることは出来ないのでありま す ︵易︶ ﹂ 。 このように考える平泉は、日本の過去への讃美を厳しく斥ける。日本の真の歴史とは、人間の努力によって過去の中 に間歇的に噴出するものであり 、﹁自分の責任に於て﹂護持されるべき永遠の課題だからであ ︵椅︶ る 。過去を整序する皇国 理念は、未来を創造するため、今現在の各人の努力を要請する。過去の讃美は静寂主義的な大勢順応に堕し、他者への
ひたすらなる糾弾は、やはり静寂主義的な事勿れ主義に堕す。理念に裏打ちされた生によって未来を創造することが、 平泉の目標なのであり、そのためには、まず自己が深く信じることが要請され、取捨選択は大局から行うべきことが主 張される。 ﹁しかるに歴史が、その本来の道にかへり、本来の面目を発揮せんが為には、歴史に対する者、即ち歴史家自身が、 日本の使命、日本の理想を明確に認識し、体得しなければならぬ。⋮⋮曽て深き思索もなく十分の検討も加へずして、 破壊的考察に附和雷同した者の多かったやうに、今日はまたおごそかに仰ぎ謹みて思ふ事なくして國體を説き、大義を 叫ぶ者が少くないのであり、それは一方には国史の浅薄なる美化主義となり、一方にはその過酷なる摘発主義となって ゐるのである。⋮⋮国史は大局の上に立ち、國體の大義に依り、皇国の理想に照らして、雄渾なる反省を必要とする。 決して些些たる末節にとらはれ、徒らなる論難攻撃を事とすべきでないと同時に、また因襲に従ひ、浅薄なる美化主義 に盲従すべきでもない。即ち我等は、おほらかに、而して大胆に、皇国日本の歴史の真実の姿を明かにしなければなら ぬ。そこには何の作為もなく、欺瞞もあるべきでない。而して其の作為なく欺瞞なき真実の姿は、直ちに大東亜の光と なって輝き、人々に理想を与へ、光明を授けるであら ︵為︶ う﹂ 。 それゆえ例えば、建武中興の短期間での蹉跌は、その価値を何ら損なわない。建武中興は、皇国理念に直接するがゆ えに 、それ自体において絶対的な価値を持つからである 。あるいはまた 、北畠親房の筆に不都合な箇所があるにして も、それは親房の価値を損なうものではない。なぜなら親房は、皇国理念に直接して生きていたからである。およそ人 間は、自己の歴史的世界を成立させている理念に直接することによって、真の倫理性と創造性、真の主体性を発揮する ものであり、そして日本人は、日本という特殊絶対的な歴史的世界の理念、すなわち皇国理念に直接することによって のみ、倫理的かつ創造的に、そして主体的に生き得るものである、というのが平泉の信仰の前提であった。
歴史神学者平泉澄(二・完) ﹁更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、櫻咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ 立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我 等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出で、日本の歴史 を相嗣せる日本人によって初めて成立する。⋮⋮求むれば則ち之を得、舎つれば則ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へ ば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならな ︵畏︶ い﹂ 。 われわれはここで、平泉歴史神学の信仰の核心に触れている。それはすなわち、特殊絶対的な歴史的世界への信仰な のである 。平泉によれば 、人間は特殊絶対的な歴史的世界の中に在り 、その世界を成り立たせている理念においての み、真に生き得る存在である。そして日本は、そのような特殊絶対的な歴史的世界の一つを最も正しく形成してきたと され、その世界の成立根拠である特殊絶対的な皇国理念の顕現において、日本人は真に生きえ、人類に貢献しうるとさ れるのである。 つまり、平泉の日本への信仰とは、日本という特殊絶対的な歴史的世界の実在への信仰なのであり、その世界を成立 させている理念、日本を日本たらしめている皇国理念への信仰なのであった。これが、平泉の全生涯の原点であり、扇 の要に他ならない。そして、平泉の平泉たる所以は、この信仰の旗の下に、自己完結した世界を国史学によって論理的 に構築する所にあった。すなわち、国史学は神学に代位し、信仰の合理的な体系が整然と整えられていくのである。わ れわれはこの平泉歴史神学の論理を、その啓示、聖書、聖人、聖職者について瞥見していこう。 平泉澄において、世界史は存在しない。地球上には複数の特殊絶対的な歴史的世界が並立し、人間はそれぞれの中に 在るのみである。そして人間は、異なる歴史的世界を真に理解し得ず、ただ自己の歴史的世界のみを真に理解しうる存 在である。これらの歴史的世界は、その特殊絶対性を貫徹すれば興隆し、喪失すれば滅亡する。ダニレフスキーやシュ
ペングラーの歴史哲学に近似し、しかし没落への法則を信仰によって否定する点で彼らと異なるこの確信は、平泉年来 のものであって、彼らの影響の形跡は見出せな ︵異︶ い。ただし、シュペングラーの生きているヨーロッパに平泉が滞在し、 この確信をますます強めたことは確かである。留学中の研究日記の冒頭、昭和六年元旦の欄には以下のように記されて いる。 ﹁凡そこの数日、つらつら旧年中得るところを回想するに、民族性を異にして結局解し難しといふ一事の確信を得た り。従って彼の所謂世界史なるものは、何等の連絡なく、何等の統一なき寄木細工にして、真の歴史の意義と遠く離れ たるものなる事、予年来の説、ここに至って愈々牢固動かすべからざるを想ふ。西洋史、又世界史といふものは、国際 連盟の如し。ありて悪しからず、むしろ便利なるものとして喜ぶべきも、そは第一義のものにあらず、絶対的のものに あらず、あくまで便宜的のものなりといはざるべから ︵移︶ ず﹂ 。 それでは、日本の特殊絶対性はどこに顕われてきたのか。平泉はその場所として、特に国史と神道を指定し、両者の 不二一体なるを帰国後早々に説いた。帰国から約半年後の昭和七年二月、神道学会の講演で平泉は、両者を皇国理念に 集約すべきことを強調したのである。 ﹁今日我国に於ては、世界的な国際的なものに憧憬する傾向が頗る旺であるが、これは実に恥づべき陋風であって、 実際これ程無意味な事はない。民族の特異性は決して失うてはならないばかりではなく、仮令失はんとしても失へるも のではないのである。如何なる国民も皆それぞれの特色を具へ、相互に、之を尊重して、それぞれ発揮させることに力 めるのが本当である。そして歴史は、此の民族性と聯関して互に離るべからざるものであるから、民族の特異性が永久 に失ふべからざるものであるのと同様に、歴史も亦、恒久不変であって、初めて歴史と云へるのである。即ち革命のあ る所には歴史は無いのである。無論時に応じて幾多の改革又は革新を行ふことは必要であるが、それは歴史の根本精神
歴史神学者平泉澄(二・完) を継受したものでなければならぬ。即ち民族本源の力に溯る力の発揮としての維新でなければならぬ。乃ち之を我が日 本に当て嵌めて言ふならば、日本の歴史は、太古以来の日本精神の一途なる開展でなければならぬ。脇道に外れない、 民族の特異性を失はない発展でなければならぬ。而もそれは、やがて又、惟神の大道即ち神道の開展を意味するもので ある。神道と云ふ語は、今日の如き世界的国際的風潮の下には、陳腐とも固陋とも感ぜられ、総てが著しい革新の歩み を取ってゐる時代の前には、或は古色の甚だしいものとして映ずるかも知れぬが、実際は、これこそ我が日本の生命の 源泉であって、此の一見して甚だ陳腐に見える神道の中には、尽きざる真理が活きてゐるのである。我々の総ての研究 は、此処から出発せねばならないものであると考へ ︵維︶ る﹂ 。 かくして国史と神道の一切は、皇国理念へと縮約され、それゆえ此岸の政治的行動に奉仕させられることとなった。 ﹁日本の生命の源泉﹂である皇国理念は、この世界への啓示だからである。皇国理念において日本という歴史的世界は 生まれ 、皇国理念のために日本という歴史的世界は存在する 。国史も神道も 、言わば 、この理念の顕現の仮称にすぎ ず、この理念の実現の根拠にすぎない。昭和四五年に﹃少年日本史﹄を執筆した際、平泉は、この啓示を以下のように 平易に解説していた。 ﹁﹁天壌とともに窮無かるべし﹂とは、瓊瓊杵尊直系の御子孫は、 ﹁代々日本の国の統治者として、天皇の御位をお継 ぎになり、その輝かしい光栄と、その重い責任とを担って、いつまでも、いつまでも、永遠にお栄になるのだ﹂という 意味であります。即ちそれは、大神の宣言であり、誓約であります。皆さんは、キリスト教のバイブルを知っています か。⋮⋮つまり神と人との間の約束、それを説いたものが聖書です。我が国では、その誓約が、天壌無窮の神勅として 伝わって来たので ︵緯︶ す﹂ 。 そして、この﹁誓約﹂に努力し、この歴史的世界の存立に貢献した人間は、日本の聖人となる。平泉の言う先哲であ
り忠臣である。それゆえ、先哲の書を読み忠臣の事蹟に学ぶことは、聖書を読み聖人伝に学んで信仰を堅固にする如き ものでなければならない。昭和三五年の﹁松下村塾記講義﹂において、平泉は、膝下に参じた若者たちにこう語りかけ ている。 ﹁アメリカに於ては礼拝堂といふものが大学の中心にある 。皆 、キリスト教を奉じてそれを中心として養われてを る。私はアメリカの大学はほとんど見てをりませぬ。私の見ましたのはドイツ、フランス、イギリスでありますが、い づれも礼拝堂と食堂が大学、或は学部の中心をなしてをりました。一緒に礼拝をし、一緒に食事をする。⋮⋮そして例 へば米人にしましても、随分だらしのない米人でも、日曜毎に教会に行きまして、バイブルを讀むのであります。日本 だけが何らさういふ眞劍なる教、心の教といふものを受けてをらぬ。真の日本といふものが、かういふことでは立てよ うはずがないのであります。願くは松下村塾記の如き古典は、皆さん毎朝これを讀まれてよろしい。もし毎朝お讀みに なることがつらければ、日曜毎にお讀みになってよろしい。私共の力はさういふ所から初めて出てくるのであります。 讀んで讀んで讀みぬいて 、はじめてそれは自分の魂にしみわたって来るのであります 。すらりと讀んでそれを讀みを はったといふはずのものではございません。日本の道を何によって知るか。かういふものを熟讀玩味することが何より の近道です。こひねがはくは、ただこれを一時のこととして、このまま讀みすてられないで、願はくは終身これによっ てその心をお養ひいただきたいと思いま ︵胃︶ す﹂ 。 平泉歴史神学における聖人は、皇国理念に直接した人間であり、その言動に学ぶことによって、読者は皇国理念に直 接する可能性を獲得する。そして、その導き役に平泉が指定するのは、国史家と神道家であった。国史家と神道家は、 この世界の聖職者として、日本への導師たるべき職責を負うことになるのである。 平泉にとっての﹁学問﹂とは、この世界の成立根拠たる啓示を信じ、その上で、啓示を具現化した聖人に学ぶことに
歴史神学者平泉澄(二・完) 他ならなかった。平泉は、そのような聖人に﹁先生﹂の敬称を付け、例えば谷秦山ならば、谷秦山先生と呼ぶのを日常 の作法と定めていた。それはちょうど、ニコライを聖ニコライの尊称をもって讃えるのと同様のことである。皇国理念 に直接した日本の聖人とは、国史の本義を顕現し、神道の奥義に透徹した人間なのであり、国史家と神道家はこの聖人 に学び、かつ、その聖性を平信徒に伝達する義務を負うこととなる。すなわち、国史家は、先人の列聖を判定し、聖人 の言行録を集成し 、基本的な聖典を編纂し 、解説することをまず行わねばならず 、神道家は 、神道の本質を国史に徴 し、聖人の祭事に勤しみ、皇国護持への祈りを捧げることをまず行わねばならないのである。 この先人の列聖の判定は、大日本帝国においては早くから政治制度化されていた。すなわち、歴史的人物への贈位で ある 。昭和三九年の眞木和泉守百年祭での講演において 、平泉は 、﹁亡くなりました忠臣 、功臣に位を贈り 、若しくは 神としてこれを祭るといふこともまた先生の發意であります﹂と和泉守を顕彰し、以下のように述べている。 ﹁眞木和泉守は正四位を明治天皇より賜はりました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、 何を意味するものであるか、亡くなってをらぬからであります。死んだ人に位を贈るといふことは意味をなしませぬ。 和泉守は生きてをられるのであります。生きてをられるからこそ位を賜はったのであります。このことの不思議に驚か ずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのでありま ︵萎︶ す﹂ 。 こうして国史家と神道家は、聖人の姿を自己の仰ぐべき理想として、ともに聖職者として日本という世界に奉仕せね ばならぬこととなる。その際、国史家はより多く神学者であり、神道家はより多く司祭となるものの、実際には両者は 一体化され、しかも主導権は国史家の側にある。神道家は、進んで国史家となり国史を学ばねばならないのであ ︵衣︶ る。そ して国史家と神道家は、平信徒とともに、聖性の力強い再現を期して自ら立たねばならない。すなわち、先頭に立って 信仰を率先垂範し、此岸の政治的行動を自他に発条させねばならないのである。
﹁本当に日本の國體に触れて之を身を以て守らうとするには、何としても建武中興の諸忠臣の精神を受けて来なけれ ばならない。学問としては崎門学を受けて来なければならない。他に是だけの精神の籠ったのはございませぬ。驚くべ き学問と言はなければならない。日本の國體といふことは明瞭であり、吾々の為すべき事はもう明瞭であって、何も特 にさういふ学問を必要としないやうに一見すれば見えますけれども、併しながら実際問題としては余程自分の心を深く 練って参りませぬと、物事の筋道を明瞭に判別しないでは大事に臨んで本当の御奉公の出来るものではないのでありま す。⋮⋮結局は真実の御奉公といふものは道に殉ずるといふ外はない。自分の一身一命を道に托するといふ外はないの であります。ここに於いて問題となって来るのは道を明かにするといふことであります。是こそ即ち学問の本體であり ます。道を明かにするといふことが即ち学問であります。後になりまして学問といふ意味が余程変りまして唯知識を求 めるとか或は或資格を得る手段として知識を集める、さういふ風に段々考へが変って参りますが、根本に於ては道を学 ぶといふことが即ち学問の本體であります。古い所では学問をすることを御承知の通りに稽古と申して居ります。是は 北畠親房公の神皇正統記にもしばしば書いてあるところであります。⋮⋮今日の思想界が非常な混乱に陥って参ったの は明治以来の我国の学問が稽古を廃したからであります。稽古といふことは即ち古を稽へるといふ事であります。日本 人としては日本の国がどういふ国柄であるか、どうして出来た国であるか、如何なる歴史を有って居るのであるか、そ の日本の美事なる歴史、美事なる國體は何人に依って此の貴さを発揮し護り来ったものであるか、それを明かにしてそ の精神を受けて行くといふことでなければ本当に自分の行く道は分るものではないと思いま ︵謂︶ す﹂ 。 かくして国史学の神学的意義は、皇国理念の啓示の閃光を、日本史の聖書と聖人の中に明らかにし、それによって日 本人の内面に、皇国理念の力強さを復活させ、政治的な行動への意欲を発条させることに見出される。これが平泉歴史 神学の目的である。しかしその真価は、実は論証にある以上に構成にあり、さらに言えば、構成を行う平泉自身の中に
歴史神学者平泉澄(二・完) あった。国史の神学的構成の基本を、他ならぬ平泉澄という人間が提示し、それによって正統性を確保すること。これ こそは、平泉歴史神学の真価であり真の意義だったのである。 日本に関しては 、国史の基本を構成することは至難の技であった 。神話と歴史の渾然として靄のかかった源流に発 し、きわめて多量の歴史史料を蓄積し、きわめて古い風俗習慣を保存してきた日本の歴史は、そこに何らかの意味のな いはずはない、という漠然たる確信と、あまりにも豊富な歴史構成の可能性とを、もたらしていたからである。実際、 荒唐無稽や美辞麗句も含めて、きわめて多種多様な日本史の物語を紡ぎ出すことが可能であった。日本の歴史は、ネイ ションの歴史としての構成にあまりにも適合的すぎたのである。他の事例に比べて、このネイションの輪郭は強靭な明 確さを持ち、その内容は過剰な豊富さを持って、強烈なネイション意識を無自覚的になるほどに、広く深く浸透させて きたのであ ︵違︶ る。 しかもまた、歴史の神学的構成それ自体が、日本には馴染み薄いものであった。救済への願望や摂理への欲求は、通 常は、根深い無常感の前に敗北し、歴史の意味への探求は、無常の境地か表面的な教訓へと帰着したからである。文明 開化の進歩史観も、このような感覚を全体的に揺り動かすことはできず、ヨーロッパに見られたような、進歩への宗教 的信仰にまで深化しなかった 。丸山眞男の指摘するように 、﹁ある永遠なるもの ― その本質が歴史内在的であれ 、超 越的であれ ― の光にてらして事物を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思想的抵 抗が少なく、その浸潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化﹂したのであ ︵遺︶ る。そし て歴史に宗教的な意味を見出し得た例外は 、近代日本においては特にキリスト教とマルクス主義だったのであり 、実 際、平泉の意識していた相手もこの両者だったのである。 もとよりこれは、明治以降の宗教的活力が弱かったためではない。実際、文明開化による世俗化の進展とは裏腹に、
諸宗派・諸宗教は、明治以降顕著に再活性化し、浄土真宗・日蓮宗の新展開や、新仏教、古神道の叢生、親鸞や道元、 禅への関心の高まりなど、新しい宗教的活力は踵を接して生じ、宗教改革的な気運が醸成されていた。しかし、これら 諸宗派・諸宗教は、雑居的にひしめき合って、國體を脅かさず、歴史の意味を簒奪して國體に挑戦しようとはしなかっ た 。國體護持のためには 、さしあたりこれらを抱擁し 、自己への忠誠競争を促進させておけば十分に事足りたのであ る。 國體にとっては、敢えて自己を神学化し、紛れもない政治宗教とすることは、実は一つの転落に他ならなかった。諸 宗派・諸宗教の上に立つ国民的基盤たる尊厳を守るため、生々しい宗教的な活力そのものから超然としている必要が、 國體にはあったのである。そしてそれにもかかわらず、敢えて諸宗派・諸宗教に正面衝突するのは、國體を特定の宗教 の次元にまで引き下げることであり、本来ならば無用の冒険にすぎなかった。しかも実際、ほぼ全ての宗派・宗教は、 ごく普通に愛国的だったのである。 國體を敢えて政治宗教化する理由の一つに、マルクス主義の挑戦があったことは明らかである。これも丸山眞男の指 摘であるが、日本におけるマルクス主義の思想史的意義は多岐に渡り、昭和初期には無視できない政治的影響力を保持 するに至っていた 。それは学問として 、﹁歴史について資料による個別的な事実の確定 、あるいは指導的な人物の栄枯 盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求する﹂魅力を 持ち 、世界変革のためには 、﹁直接的な所与としての現実から 、認識主体をひとたび隔離し 、これと鋭い緊張関係に立 つことによって世界を論理的に再構成すればこそ 、理論が現実を動かすテコになる﹂ことを自覚させ 、生の倫理とし て 、﹁思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく 、そこには人間の人格的責任が賭けられている﹂こと を教えたのであっ ︵医︶ た。そのどれにおいても、平泉は、これに堂々と反論できる歴史神学を構築しようとしていたのでは
歴史神学者平泉澄(二・完) なかったか。 國體そのものへの反逆が政治的力を持ち始めたことは、平泉を、マルクス主義に対抗しうる歴史神学の構成へと衝き 動かした。しかしそれ以上に、國體が政治的対立の道具に乱用されるようになったこともまた、平泉を深く衝き動かし たはずである。平泉はその乱用の原因を、歴史の神学的構成の不十分さに見出していたからである。 國體は、すでに昭和の初めには、国法上の次元にまで引き降ろされていた。マルクス主義を主敵とする治安維持法の 条文に、國體の文言が入れられたのは示唆的であり、弁護団の上告趣意書に応じて、大審院の判事が國體の定義を下さ ねばならないほど、その聖性は剥奪されていたわけである。その上國體は、生々しい権力闘争の次元にまで引き降ろさ れ、暴力的な争奪の旗印にさえされてしまった。そのような中で國體の存続と尊厳を確保するためには、敢えて國體を 神学化して、反逆に正面から対決し、混乱を実質的に収拾する現代の必要が、平泉によって見通されたのではないだろ うか。それはまさに、ネイションの市民宗教化と国家の総動員体制化という時代の要請に合致したものであり、平泉の 歴史神学とは、このような時代の要請に自覚的に応えるものであったのである。 そこで不可欠であったのは、実に、平泉澄という人間なのであった。学識の深さにおいても信仰の深さにおいても、 またその職分からしても、平泉澄こそはまさに、国史の基本を提示し國體を闡明するに最適任の人物であった。平泉が 語るからこそ、その﹁国史の概要﹂や﹁国史の眼目﹂ 、﹁国史概説﹂は、格別の意義と説得力を持ったのである。 平泉は、荒唐無稽も美辞麗句も斥け、信仰に裏打ちされた﹁実証﹂に即して、信仰の鋳型を作る作業を担当しようと した。神学なき日本の神学者として、平泉は、そこから日本人の信仰の共通化と標準化を実現させ、信仰の減失と信仰 の過剰のコストを最小限に管理しようと試みたのである 。それは 、﹁一定の根本的見解における共通性と 、種々様々で あって構わないもの相互間の寛容と是認 ― いわばネイションの年齢の幾日かにおける神の平和 ― を得る﹂ことを
願ったマイネッケの思いを、平泉流に実現させようとするものに他ならなかった。國體の争いを停止するために、平泉 は、 ﹁一定の根本的見解における共通性﹂を確保することに自己の使命を見出したのである。 学生の革命運動も学者の無関心も、国士の革新運動も軍部の内訌も、全てそれらを、信仰の共通化と標準化によって 日本国家興隆の健全な活力へと転化せしめねばならない。これこそは、平泉の決意であった。そして、そのために平泉 は、独創的な研究を措いて、標準的な教義を定めることに努力を集中したのであろう。平泉は、日本人に必須の標準的 な教義を定め 、それによって 、それ以下の一切を斥け 、それ以上の争いを止める基準を確立させようとしていたので あった。 この標準的な教義の中には、平泉によれば、日本人の倫理性を守り、創造性を高め、主体性を起動し、政治性を駆動 させる可能性が一式含まれていた。すなわちこの教義には、革命を断乎として否定させ、革新の争いを創造的な政治改 革の競争に転じさせ、日本人が主体的かつ政治的たらざるをえなくなる構成が施されていたのである。それは平泉によ れば 、日本的近代の作為の論理を起動させ 、日本における政治の論理を駆動させるはずのもの 、すなわち 、﹁維新の原 理﹂なのである。 ﹁かう云ふ風にして我国の改革は、大化の改新にしましても建武の中興にしましても、明治維新にしましても、悉く 其の原動力を歴史の中から汲みまして、我国本来の姿、正しい日本に戻さうと云ふのが根本の精神であり、其の根本の 精神さへ確立して居りますれば他の細かい制度の末に於きましては、所謂時の宜しきを制すればよい訳である。しかも 時の宜しきを制する為めには、外国の制度を参酌することは少しも差支のないところである。其の意味に於いて、昔は 隋、唐の制度を取入れ、後には西洋各国の文物制度を取入れられたのであります。今内外の形勢非常に重大でありまし て、改革の叫ばれます時に於いて、私共の考へて置かなければならないのは、茲に行はれる所の改革は必ず其の原動力
歴史神学者平泉澄(二・完) を歴史の中に汲み、日本の本来の姿、正しい日本の姿に戻さうとする運動でなければならないと云ふ点であって、従来 の一切を否定して、新しい社会組織を作らうとする革命であってはならないと云ふことであります。尤も個々の局面に 於いては、或は個々の結果に於いては同じことになるかも知れないと思ひますが、併し根本の精神に於いては全く違っ たものである。総て問題が重大であれば重大であるだけ、其の根抵を確立し、明白にしておかなければならないのであ ります。今日漫然として革命と云ふ言葉が用ひられ、是に於いて殆んど世間が注意を払って居ないのは洵に残念なこと であって、是は今にして心しておかなければならない重大事であると思ひま ︵井︶ す﹂ 。 しかし、このような平泉の歴史神学には、窓がない。それは特殊絶対的で、論理的に自己完結した世界である。外界 との唯一の通路は信仰である。信仰の細道を通れば、論理的に首尾一貫し合理的に構成された平泉澄の円錐形の世界が 広がっている。啓示は天頂にあり、聖書と聖人伝は円錐の壁面を具体的に構成し、この世界を支えている。天頂近くに は祝福された聖者が列し、ただ信仰の力によって、人間はその聖性を我が身に復活させ、この世界を飛翔しうるのであ る。それは果たして、どれほどの魅力を当時の日本人に及ぼしたであろうか。日本人を倫理的で創造的な、主体的で政 治的な行動へと踏み切らせるために、このような世界はどの程度役に立ったのであろうか。 この世界が大学の一角に作り出された時、言いようのない違和感が生じたようである。当時の雰囲気をある門下生は 以下のように伝えている。 ﹁相嗣復活 、礼拝得髄を研学の正道とされる平泉史学は 、東大文学部国史学科に衝撃を与へ 、大きな波紋をえがい た。平泉教授の立場は科学ではなく教学であり、科学的研究の殿堂である大学の講壇にふさはしくないとする批判的空 気が瀰漫した。いはんや、階級的立場に立って史学を社会科学の一環に位置付けてゐる唯物史観流においてをやで、こ の方面からは仇敵視されるに至ったのであ ︵亥︶ る﹂ 。
しかしわれわれの想起すべきは、この平泉の博した人間的な信用である。大学の外部において、平泉は、各界の人士 に重んじられ、特に軍部への影響力には突出したものがあった。また、平泉を慕い重んじる学者学生は、理系文系を問 わず他の諸学部にも広がって、その私塾は順調に発展していった。平泉に接して、多くの人々が紀律を内面化させ、能 動的な主体性と政治性を発動させて世に立ったのである。それは結局、この歴史神学が時代の要請によく合致したのみ ならず 、﹁思想を実質的に整序する原理﹂として 、実際にある程度 、機能しえたということではなかったか 。唯物論の 立場から激烈な日本主義批判を展開していた戸坂潤は、ちょうどその頃、以下のように獅子叫していた。 ﹁処で日本主義 ︵之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだという点に注意を払うことを怠ってはならぬ︶ は、この自由主義的ブルジョア社会常識に照らせば、著しく非常識 4 4 4 な特色を有っている。この非常識さが自由主義者を 日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるのに十分なのである。処がそれにも拘わらず、事 実上は 、こうした非常識であるべき日本主義思潮が 、今日あまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実 を、どうすることも出来ない。そうなると又一つの常識 4 4 だということにならざるを得ないように見えるのである。社会 に於ける大衆 4 4 やその世論 4 4 ︵?︶というものがどこにあるか、という問題にも之は直接連関している。 ― で、常識とい うものの有っているこうした困難を解決するのでなければ 、今日の日本主義に対する批判は十分有力にはなれま ︵域︶ い﹂ 。 なぜ平泉の歴史神学は、短期間の間に多くの信奉者を生み出しえたのか。そしてなぜ信奉者たちの中核は、戦後も団 結を保持しえたのか。平泉の影響力は、決して終戦とともに終結したわけではない。われわれはこの同学集団に目を転 じ、平泉歴史神学への共鳴の精神的基盤を考察しよう。それはわれわれの見る所、近世日本の儒学の伝統上に、とりわ け崎門の伏流の上にある。われわれは、平泉歴史神学を、崎門の近代版と見るのである。