2016/02/14 礼拝 ルカ3:1-17「すべての人に救いが」 ○ 東京教区デーで中目黒教会に行きました。私は将棋、オセロなどの担当でした。富士見 台の子ども達4 人が参加しました。この男の子は将棋、オセロに来て、いっしょに過ごし ました。他の教会の方ともお交わりが許されました。T 君は、お父さんに将棋を習ってい るそうで、いろいろと教えてくれました。私は2 回も T くんに負けました。S くん、Y く んともオセロをしました。それからもってきたUNO(カードゲーム)でも遊びました。子 ども達の姿を見ていて、将来が楽しみだなあ!と感じていました。 小さいときにいっしょに遊んで、親しい友達になるって幸いですね。竹馬の友というこ とばがあります。子ども達が大きくなっても、信仰の道を進んで、友となり、多くの方に イエス様を伝えて行ってくれたらと思います。 ○ 今日お読みしましたところに出てきたのは、ヨハネという人です。 聖書にはいろいろなヨハネが出てきますが、彼のことをバプテスマのヨハネと呼びます。 彼は預言者で、人々に悔改めのバプテスマ、洗礼を授けていたので、バプテスマのヨハネ と呼ばれていました。 実は、ヨハネとイエス様は親戚なんです。 ヨハネの父はザカリヤ、母エリザベツ イエスの父はヨセフ、母はマリヤ。 マリヤに天使が現れて受胎告知がありました。まだ男の人を知らないマリヤが聖霊によ って身ごもる、男の子を産む、その名をイエスとつけなさい。 マリヤはびっくりぽん、御使いは神には不可能な事は無いこと、エリザベツは高齢で、 あの年になって男の子をやどしている、もう6 ヶ月だよと教えてくれます。 急いでマリヤは山地にあるエリザベツのところに行ってみると、なんとエリザベツおば さんのお腹には赤ちゃんがいて、マリヤが来ると胎の赤ちゃん、(この赤ちゃんが後のバ プテスマのヨハネです。)が聖霊に満たされて喜んだのです。 ですからヨハネとイエス様とは半年ぐらいの差、ですから同い年といってもいいでしょ う。マリヤは機会ある毎にエリザベツのところにいったでしょう。またエリザベツも子供 をつれてマリヤの所に。ですから赤ちゃんのときから二人はしばしばいっしょに遊んで、 二人で山地を駆け回っていたことでしょう。 ですから竹馬の友。 ヨハネはあるときに、預言者として召されて、荒野に行き生活をするようになります。 両親は年をとっていましたから、主のもとに召されたあとかもしれません。また、クムラ ン派やエッセ派と関係があるという人もいますが、聖書からは分かりませんが、ヨハネは 両親から離れ、預言者の訓練を受けていったのです。 一方イエス様は父ヨセフは大工、父親の元で大工の仕事をみていました。当時の大工さ んというのは家具を作ったりするのが多かったようです。家で机や椅子を作っているのを 見ている少年イエス。ヨセフはどれ、これをつくってみるかと、小さな椅子を作れるよう にしてくれていたかもしれません。このヨセフはイエス様がおおよそ 30 才の時にはもう
主のもとに召されていました。イエス様は大工として父の仕事を継ぎ、母マリヤ、家族を 守っていました。 イエス様の家族では、ヨハネの話題がときどきでていたのではないでしょうか。「あの ヨハネ、今どうしているだろうか。神様に召されて毎日神様と祈り、また訓練をうけてい るようだけれど。また会いたいなあ。」 使命 人は神様に愛されるために生まれ、それぞれに使命をもって生を受けています。 三浦綾子さんは使命というのはいのちを使うと書く、生きているときに、いのちを使う ような大切な働きがあると言っています。 ヨハネの使命はなんでしょうか。 ルカ1:17 を見てみましょう。 これは、ヨハネの父、祭司ザカリヤが神殿で一人御用をしているときに、御使いが現れ て語ったことばです。 1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲 まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、 1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。 1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向 けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のため に用意するのです。」 一言で言うならば、「救い主が来られる前に、人々の心を整えさせる」という使 命でした。 一方イエス様の使命は何でしょうか。マタイ1:21を見て見ましょう。 これはヨセフに御使いが夢にあらわれて語ったことばです。 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っ ているものは聖霊によるのです。 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、 ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためで あった。 1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌ エルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) イエス様の使命はなんでしょうか。「御自分の民をその罪から救う」ということ です。 この御自分の民はユダヤ人だけではありません。イエス様はまことの王、主の主 であります。すべての人類が「御自分の民」なのです。 ヨハネもイエス様も使命を持っていました。 私たちもそれぞれ使命があります。またクリスチャンとしての使命はなんでしょ うか。世の光、地の塩として、イエス様のことを伝え、この世を清めるというこ とです。大切な働きを私たちは神様から委ねられているのです。 ・ヨハネはエリヤのような人
*1 この中間時代に、1,バビロン 2,ペルシャ 3,ギリシャ 4,プトレマイオス 王朝 5,セレウコス王朝 6,マカベア革命 7,ローマが登場人物のようにして現れ ていきます。 御使いがザカリヤに言ったことばに 「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」というのがあります。 エリヤは旧約聖書の預言者の代表のような人です。旧約聖書の最後の書物は マラキ書という小預言書です。その最後にこう書かれています。 4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリ ヤをあなたがたに遣わす。 4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、 わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」 預言者エリヤを遣わし、その人物は人々のこころを整えさせるのです。 このマラキ書によって預言されてから、400 年の間を暗黒時代、もしくは、新旧 訳聖書の中間時代といいます。400 年の間、聖書として残る書物はありません。*1 この時代の400 年でユダヤの人々は、聖書に約束されている救い主をますます待 ち望むようになって行くのです。そう、丁度、イスラエルの民が400 年の間エジ プトで奴隷のような状態であったとき、400 年の間にユダヤの民が神様に助けを 求めていたときにも似ています。神様はユダヤの人々をエジプトから救う為に預 言者モーセを立てて導かれました。 400 年の中間時代には神様からの約束がありました。 預言者エリヤのような人が再び合われて、人々の心を救い主に整えていく。 神様は私たちの苦しみの声を聞いて下さるお方、約束を守って下さるお方です。 ○ コップに水を少しずつ入れていくと、「時至って,満ちる」時があります。 中間時代の400 年、時至って、時が満ちたのです。 荒野にいた、ヨハネに神の声が望みました。預言者は神の声を預かって、言う、宣言す る人のことを言います。 一体何を言ったのでしょうか。 「罪が赦されるための悔改めのバプテスマ」を受けなさいということでした。 聖書はこのことが旧約聖書の預言者イザヤの言葉の成就であると説明しています。 「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに せよ。 3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はま っすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
*1イザヤ ロマ 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 ここでの被造物は人を除くす べての被造物 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。ロマ 8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、 すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 贖い:本来あるべき姿に変わる。アダムとエバによって自然界も崩れてしまった。地球温暖化によって多くの生物が 苦しんでいる、環境問題についても、人間が自らの体を管理するように、あるべき姿に近いものになるように努力が 求められる。二酸化炭素の放出量とキリスト教は離れたものではなくて、世界全体の贖いを考える時に、私たち人間 には大切な課題であろう。 しかしイザヤ書40:3-5 ルカ 3:5-6 を見る限り、地球規模の救いを最初には言っていない。主が来られる前に、人 々の心が整えられていく、高ぶるものが砕かれ、もうダメだと思っている者の心が回復していく、イエス・キリスト にある事によって、人の心が変わる、その準備をバプテスマのヨハネがするということを表している。 イザヤ40:3-5,ルカ 3:6 の あらゆる人は 異邦人にも救いが広がることを意味している。(ESV 注) 高ぶる者、 傲慢なものが謙遜に成り(1:52,14:11,2:40)遜り、自らを低くするものが引き上げられるそして、ひねくれた者、曲 がったもの(cfActs2:40)が変わるという隠喩を含んでる。 イザヤ書40:3-5 ルカ 3 章は 40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。 40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。 40:5 このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからだ。」 このすべての者は欄外 注にあるように「肉なるもの」 ヘブル語のバサールの訳、これは肉、人間、動物 体その
もの、すべての生きているものall living things も含まれる。ルカ 3:6 のすべての人は パサ サルクス(肉とも訳せ
る)
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」*1
O さんご夫妻は、ヘンデルのメサイヤにとても詳しく、また多くのところで合唱を しておられます。
メサイヤの第一部 第三曲をO さんが訳しておられます。
Ev'ry valley shall be exalted, and ev'ry mountain and hill … made low: … the crooked ... straight, and the rough places plain: (Isaiah 40:4) 第3曲 アリア(テノ一ル) すべての谷はうず高く埋め、山と丘は削ってならせ。 曲が った道は真っ直ぐに、でこぼこ道は平らにせよ。 (イザヤ書 40:4) 人の心はまっすぐではなく、谷のようにえぐられ、あるいは山や丘のように高くなって います。曲がっていたり、でこぼこの道だったりするのです。谷のようにへこんでいるも のを引き上げ、山や丘のように高ぶっているもののこころを平らにする。 これはイエス様が来られる前に道ぞなえをするヨハネの役割を表しています。 ヨハネはこれから来られる救い主を人々が信じるために道ぞなえをする、その働きをヨ
ハネはしたのです。 あらゆる人が神の救いを見るようになる。 この聖言が今日の中心聖句です。 あらゆる人が神の救いを見ることのできる時代の始まりをヨハネは告げました。 あらゆる人が神の救いを見る。 ヨハネのところには何千人もの人達がやってきていました。 ヨハネは言います。 彼は大声で言うのです 「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか」 びっくりしますよね。 牧師である私が、初めて教会に入ってきた人に向かって,いきなり「「まむしのすえ たち。だれが必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか」といったら、とんでもないとこ ろに来てしまったと思って急いで帰ってしまうでしょう。 しかし、ヨハネは神様からの宣言の言葉を受けて、叫んでいたのです。 ヨルダン川に洗礼のために来ていた人は、いなくなってしまいましたか? いいえ、必ず来る御怒り これは大変なことだ、その神の御怒りから逃れたいという 思いをもって進み出ていったのです。 聖書はこれだけ厚い本です。この本を読むのには時間がかかります。 この聖書の中心のことばはどこですかと聞かれたらヨハネ3:16と考える人が多い でしょう。 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じる 者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。 神様は始め何も無かったところから、全世界を造っていってくださいました。 宇宙のすべてのものも、地球のすべてのものも、そして私たちも。 先週アメリカのカルフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学のチームが重力 波の発見をしました。これは100年前に理論物理学者のアインシュタインが予言してい たことでした。それを実際に観測で見つけることが出来たというのです。 アインシュタインは 満天の空を見て、 この夜空の星を見て、どうして神がおられ ると信じない人がいるだろうか。 と言ったのをかつて読んだことがあります。 神様が造られた天体の法則のほんのわずかなものを人間は見ているだけです。 神様は天国も造られました。そして人がやがてその天国に帰ってきて欲しいと願って おられます。しかし、これがあっては決して入ることができないというものがあります。 それが罪です。 ここにリンゴがあるとします。私は野球のボールを握っているとします。このリンゴ をどうぞ、といわれたときに、私は野球のボールをもったままリンゴがつかめるでしょう か。いいえつかめません。まず野球のボールを置いて、そして差しだされたリンゴを手に する、つかむことができます。 私たちが罪をもったまま、救いを得ることはできません。ただ私たちが罪をすてて、救 いを差しだしてくださる神様を信じて、提供される救いを受けとるときに、人は救われる のです。 神様は限りなく愛の深い方です。そして神様はどこまでも正しい,義なる方です。
私たちを罪から救おうと、御自分の大切なひとり子イエス様をこの世に遣わされました。 そして、イエス様は私たちの罪を全部負って、十字架にかかって下さったのです。それ は、イエス様を信じるものが救われるためです。これは神様の限りない愛の現れです。 一方、神様は正しい方ですから、罪を見過ごされはしません。 罪とは、神によろこばれないことを、思ったり,したり、言ったりすることです。 人間には自由意志があります。そして私たちには素晴らしい口、舌という器官がありま す。この口を通して、良い言葉をだすこともできますが、人を傷つけることばも出すこと が可能です。 神様が、そんなことを思うと悲しいな、そんなことをすると悲しいな、そんなことをい うとは、悲しいなと思われることを人間が自由意志で敢えてしてしまう。それが罪です。 すべての人は罪を犯したので神の栄誉をえることができない。と聖書は言っています。 その罪があっては、この地上で幸せにいきることができませんし、やがて天の御国には いることもできません。聖書はなんと言っていますか。滅びることなく。つまり、罪ある ままでしたら、やがて私たちが地上の生涯を終えるときに、滅びに行ってしまうというの です。「やがてくる神の御怒り」です。神様はその滅びの方に行って欲しくないと願って おられるのです。 私たちには二つの道があります。一つは救いの幸せの道です。 もう一つはこの世の神様が喜ばれない楽しさ、みんなやっているよ、人の悪い噂だって みんなやっている、誰かを話しの肴にしたら楽しいでしょう。みんなやっているよ。そん な道です。 でも生涯の終わりには、その道は途切れ、がけがあるようなものです。 私たちは生きている間、二つの道のどちらかを選ぶことができるのです。 こんな話を聞いたことがあります。 中国にある村に何でも知っている知恵のある仙人のような人がいました。 村の子供が二人やってきてためそうと相談しました。 良い考えが浮かびました。雀を捕まえて手の中にいれて、仙人に聞こう、 この雀は生きているか,死んでいるかと、 仙人が生きているといったら、わけない手の中で雀の首を折ればすぐ死ぬ。 死んでいるといったら、その生きた雀を見せれば良い。 こうして二人は仙人の所に行った、そして「この手の中に雀は生きているか,死んでい るか」と聞くと、仙人は二人の顔をじっと見つめてこういったそうだ。「少年よ、その答 えはあなたの手の中にある」 皆さん、主イエス様を信じるか信じないかは私たちにかかっているのです。 心を開いて主イエス様を信じましょう。また人がイエス様を信じることができるように 祈り、愛をもって接しましょう。 聖霊はすべての人の心の中に働いて、悔い改めることができるように助けてくださって います。今は恵みの時、救いの日です。 ヨハネのところに来た人々に彼が言ったのは ・悔い改めなさい ということでした。 ヨハネが3種類の人達に言っています。
1,群集 どうしたらよいのですか →下着を二枚もっているものは一つも持たない者に分けなさい 食べ物を持っている者もそうしなさい。 ・・・自分が、自分がという罪を悔い改める 2,収税人たち どうすればよいのでしょうか。 決められたもの以上には何も取り立ててはいけません。 ・・・貪欲さ、人の苦しみを顧みない心 3,兵士たち どうすればよいのでしょうか。 ユダヤのヘロデの兵士か、あるいはローマの兵士か → だれからも力尽くで金をゆすったり、無実の者を責めたりしては いけません。 力ずくで金をゆすったり無実の者を責めたりしてはいけません。 ・・・不当なことを公然としてきたこと 手の中にある野球か何かのボールのようなもの、それを捨ててこそ、神様のくださ る救いを得ることができるのです。 ですからヨハネは、群集、収税人、兵士たちに 神様が心に示して下さる具体的な 罪を捨てるようにと言っています。 悔い改めというのは ギリシャ語でメタノイア といいます。これは方向転換を言 います。ヨハネは来たるべき救い主イエス様を迎える準備をしていったのです。 ○ こうしてあらゆる人が 神の救いを見るようになる。 これが今日の 中心の聖言です。 私たちにどう適応できるでしょうか。 1,私たちは罪咎を赦され神の子となることを感謝しましょう。 ・・・感謝 あらゆる人の中にまず私たちが入れられた事に感謝しましょう。 最後の讃美はこの讃美です。 2,あらゆる人が・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・讃美 ですから、あらゆる宗教、無宗教、アニミズム、無宗教、無関心の人も、神様 の招きが用意されつつある。私たちもその用意に参加できる。祈り、証し、身 の人に対する感謝。今まで一日一回 ありがとう。を言っていたら2回3回と 感謝を見つけて、ありがとう。ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に、子供が 親に、親が子供に、おじいちゃん、おばあちゃんに、近所の方に,職場の同僚 に。 私が救われてから,両親に感謝、とって繕っているような感謝ではなく、ほん とうに感謝の思いがありますから、ありがとう。両親は私の変化を見ていまし た。私を通して生ける神さまを感じて行ったのだと思います。2年後主に導か れ洗礼をうけました。 私は、今純さんにならって毎日郷里の母に夜電話をしています。5分ほどの短 い電話ですが、最後にお祈りをします。その電話の中でも、母への感謝を忘れ ません。母は私の電話を待っています。 ・・祈り
3,神の救いを見るようになるように、祈りましょう。 私が主都中央教会の青年だったとき、蔦田眞実先生が、そうこのエンブレムの 下でこう話されました。皆さん、いつでも3人のことを思って機会あるごとに 祈りなさい。そうすると、毎年、友人の誰かが教会に導かれ、その中から洗礼 を受けられる方が興されたのです。 こうしてあらゆる人が神の救いを見るようになる。 私がケニアにいったとき、市場に行きました。そこでサンダルを売っている小 さな掘っ立て小屋のようなお店がありました。そこにあるサンダルを手にすると、 どこかでみたような素材が使われていました。それはタイヤでした。サンダルの ひももすべてタイヤのリサイクルでした。よくもこんなに上手に作るのかとびっ くりしました。 ある英国の二人のビジネスマンのことを聞いたことがあります。 二人はそれぞれアフリカに遣わされました。 彼らはアフリカに靴を売り込むつもりでした。 一人が社長に報告しました。 「社長だめです、皆靴履いていません。ここでは売れません」 もう一人も報告しました。 「社長ここはいいところです。皆靴を履いていません。売れ込めます。皆に靴の 素晴らしさを教えて買ってもらいましょう」 同じものを見ても違ったのですね。 私たちはどうでしょうか。日本は99%はまだクリスチャンではありません。 日本は難しい所だから福音が広げられないとおもいますか。99%がまだクリス チャンでなかったら、福音の素晴らしさを伝えて99%をクリスチャンに!と思 いますか。 聖書は、なんと言っていますか「あらゆる人が神の救いを見るようになる」 ビジョンを持とうではありませんか。今イエス様に対して無関心であっても、反 対しても、神様はその方が救いを見るようになる事を願っておられます。 お祈りしましょう。 父なる神様、御名を讃美します。あらゆる人が神の救いを見るようになる,そ のような時代が来ています。私たちはほんの少し先に、イエス様の愛、素晴らし さを知り、自らの罪に気づき,イエス様を信じて罪赦されたものです。また主を 知らない多くの方々がいます。その方々を主に導くことができますように、私た ちを世の光、地の塩としてください。主イエス様の御名によってお祈りします。 アーメン