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文学と思想の課題 : 現代の政治社会状況の中で

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文学と思想の課題 : 現代の政治社会状況の中で

著者

綾目 広治

雑誌名

清心語文

19

ページ

41-55

発行年

2017-11

URL

http://id.nii.ac.jp/1560/00000173/

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四一 清心語文 第 19 号 2017 年 11 月 ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会 却」すべき当の「レジーム」について正確に知っていないとい うことであって、 言うも情けないことだが、 ほとんど何も分かっ ていない「戦後レジーム」から「脱却」することを目標にする など、本来なら有り得ないことである。にもかかわらず、安倍 晋三は「戦後レジームからの脱却」ということを広言するので ある。その知性のほどが疑われる。   また、法学専門家の小林節によれば、二○○六年に衆議院憲 法審査会の「日本国憲法に関する調査特別委員会」に小林節が 参考人に呼ばれたとき、 「(略)憲法とは国家権力を制限して国 民の人権を守るためのものでなければならない」という話をす ると、 自民党議員の高市早苗が「私、 その憲法観、 とりません」 という趣旨の議論を展開したそうである (『 「憲法改正」 の真実』 集英社新書、二○一六 ・ 三) 。これまた、言うも情けなくなるこ とだが、憲法は一般の法律と決定的に異なっていて、憲法は権 力 側 を 監 視 し 縛 る た め に 設 け ら れ て い る 法 律 な の で あ る。 「 そ 一   憲法・沖縄・天皇制   一九四七年五月三日に公布された現憲法は、第九条違反の自 衛 隊 と い う 軍 が 存 続 し て い る な ど、 問 題 を 抱 え 込 み な が ら も、 しかしそれがあることによって戦後日本の民主主義が曲がりな りにも守られてきたと言えるが、いま危機を迎えている。日本 の近現代史についての知識もろくに持っていない安倍政権の閣 僚たちや三世議員、四世議員たちが改憲を目論んでいるのであ る。彼らが情けないほどに無知であることは、たとえば彼らの 代表である宰相安倍晋三が、第一次内閣のときに「戦後レジー ムからの脱却」ということを政権の最大の目標にしていたのだ が、しかしその「戦後レジーム」を形作ったポツダム宣言につ いて、国会において〈ポツダム宣言の認識を認めないのか〉と いう質問に対して、 安倍晋三は「つまびらかには読んでいない」 と答えたことに象徴的に表されている。それは、そこから「脱

文学と思想の課題――現代の政治社会状況の中で

 

 

 

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四二 の徳山喜雄もその本末転倒ぶりを指摘している。国会で憲法学 者が「安保法制は違憲だ」と口をそろえ、学生などの若者をは じめ多くの人が街頭で反対の声を挙げたとき、安倍晋三は強行 採 決 を し た 後 に、 「 国 民 に 丁 寧 に わ か り や す く 説 明 し て い き た い」と語ったが、その書で徳山喜雄は、 「「説明」は本来、決め る前にするものである。強引な手法で採決した後に「説明して いきたい」という本末転倒した物言いは人をバカにしているよ うにもとれる」 、と述べている。   た し か に 安 倍 晋 三 は、 「 人 を バ カ に し て い る 」 と こ ろ の あ る 人物である。たとえば、広島や長崎での平和祈念式典で行った 一 昨 年 の ス ピ ー チ の 何 割 か の 部 分 は、 そ の 前 年 と 同 様 の も の だったのだが、このようにまさに平和を祈念する大切な式典で ス ピ ー チ 原 稿 の 使 い 回 し を 平 気 で す る よ う な 人 物 な の で あ る。 また、式典の後、長崎平和運動センター被爆者連絡協議会の川 野浩一議長が〈集団的自衛権について納得していない〉旨を言 うと、安倍晋三は「見解の相違ですね」と応じたらしい。国民 に 理 解 し て も ら お う と い う 気 な ど、 さ ら さ ら 無 い と 言 え よ う。 「 丁 寧 に わ か り や す く 説 明 し て い き た い 」 と、 実 は 少 し も 思 っ ていないのである。安倍晋三は平気で嘘を言う人間だと言って いいだろう。 の憲法観」を〈採る採らない〉という次元の問題ではないので ある。この、法律学や政治学の常識的理解さえできていない人 物が、現内閣の閣僚なのである(だったのである) 。もっとも、 宰相があの程度の知性であるから、その他の閣僚も推して知る べしであるが、そう言えば副総理の麻生太郎などは、高校程度 の漢字も読めないという基礎学力の無さをさらけ出したことも あった。   こういう人物たちが国政を担う地位にあること自体、重大な 国家的危機なのである。日本は危険な曲がり角を曲がりつつあ ると言えようか。このことに関して、やはり小林節はこう述べ て い る。 「 安 保 法 案 と い う 名 の 戦 争 法 案 が 成 立 し て か ら と い う もの、政府が憲法を反故にするという異常な状態にこの国は突 入しています。憲法によって縛られるはずの権力者が、憲法に 違反する立法を行い、憲法をいいように解釈したり、無視する ような政治を続けている。まさに憲法停止状態です」 (同) 、と。   こ れ は 本 末 転 倒 ど こ ろ で は な く、 そ れ 以 上 の こ と が ま か り 通 っ て い る わ け だ が、 た だ 本 末 転 倒 と い う こ と で 言 う な ら ば、 安 倍 晋 三 の や り 方 の 多 く が そ う で あ る。 そ の こ と に つ い て は、 「 政 権・ メ デ イ ア・ 世 論 の 攻 防 」 と い う 副 題 の あ る『 安 倍 晋 三 「 迷 言 』 録 』( 平 凡 社 新 書、 二 ○ 一 六 ・ 一 ) で、 ジ ャ ー ナ リ ス ト

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四三 る 。 お そ ら く あ っ た の は 、大 日 本 帝 国 憲 法 へ の 郷 愁 だ け で あ っ た 。   敗戦間際のことで言うならば、天皇制を守るために少しでも 有利な戦況に持って行くために昭和天皇裕仁は降伏を遅らせて しまい、そのために沖縄戦の惨劇を招き、さらには全国各地の 空襲、そして広島、長崎の悲劇をもたらしたのである。降伏を 遅らせたのは、繰り返して言えば、天皇制の護持と自らの延命 を考えたためなのである。その当の人物が自らの戦争責任を全 く反省することなく、のうのうと戦後を生きたのである。だか ら、たとえすでに鬼籍に入っている人物であっても、私たちは 昭和天皇裕仁の戦争責任を執拗に追及しなければならないので はないだろうか。   さて、安倍晋三は今のところ天皇制の問題については踏み込 んだ発言をしていないが、一五年戦争政策に文官のトップとし て関わった、戦犯の祖父岸信介を敬愛しているような感性と知 性だから、おそらく戦前的な天皇制の復活を画策していると考 えられる。宗教学者の島薗進は『愛国と信仰の構造   全体主義 は よ み が え る の か 』( 集 英 社 新 書、 二 ○ 一 六 ・ 二 ) で、 「 も う す でに現在の日本は、いくつかの局面では全体主義の様相を帯び ていると考えてもいいでしょう」として、例としてマスコミな どの「統制」を挙げている。私たちは、何としてでも反動化の   このような宰相なのであるから、沖縄の普天間米軍基地の問 題を、というよりもそれを含めて沖縄に集中している米軍基地 の問題を、真に解決して沖縄の負担を軽減しようとする意思な ど、 現内閣には全く無いと考えられる。沖縄について述べると、 少しは知られていると思われるが、もっと広く知られるべきで あることに、昭和天皇裕仁が、沖縄を米軍基地に提供した歴史 的 事 実 が あ っ た と い う こ と で あ る。 た と え ば、 「 裸 の 王 様 を 賛 美する育鵬社教科書を子どもたちに与えていいのか」というや や 長 い 副 題 が あ る、 増 田 都 子 著『 昭 和 天 皇 は 戦 争 を 選 ん だ!』 (社会批評社、二○一五 ・ 六)においても、一九五一年二月十日 に裕仁がアメリカ側に、沖縄を米軍基地に使用してはどうかと いう提案をしたことが詳しく語られている。   因 みに 、 こ の 書 は あ の 一 五 年 戦 争の 戦 争 政 策 に お い て 昭 和 天 皇 裕 仁 が い か に 積 極 的 に 関 わ っ て い た か 、 決 し て 軍 部 の 傀 儡 な ど で は な か っ た こ と を 説 得 力 あ る 論 述 で 展 開 し て い る が 、 さ ら に 戦 後 に お い て 彼 が 戦 争 責 任 を 免 れ る た め に 種 々 の 工 作 をし た こ と に つ い て も 述 べ ら れ て い る 。 そ の 一 つ が 沖 縄 を 基 地 に 提 供 す る 提 案 を し た こ と だ が 、 こ の こ と 自 体 、 天 皇 が 政 治 に 関 わ る こ と を 禁 じ た 現 憲 法 に 違 反 し て い た の で あ る 。 も っ と も 、彼 は 現 憲 法 の こ と を 真 に 理 解 し て 守 ろ う と す る 気 な ど 無 か っ た の で あ

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四四 と再婚することになった。しかし、 庄一は生きていたのである。 戦後に彼は復員して故郷に帰り、妻と弟のことを知る。庄一の 子は弟を本当の父親だと思っているようで、また妻は弟の子を 身ごもってもいた。そのことを庄一に教えてくれたのは、義兄 であった。結局、庄一は身を引くのである。   このように戦争は、修復できない人間関係と、そして当該人 物 の 人 生 の 上 に は、 悲 劇 を も た ら し た の で あ る。 『 黒 い 雨 』 で 原 爆 の 悲 劇 を 描 い た 井 伏 鱒 二 に も、 「 帰 郷 」 と 同 様 の 悲 劇 を 描 いた小説がある。たとえば 「復員者の噂」 (一九四八 ・ 六) には、 夫 の 戦 死 を 公 報 で 知 ら さ れ た 妻 が 再 婚 し て、 「 こ の 夫 婦 は 円 満 に暮らしていけさうであつた。ところが、戦死した筈の宙さん が帰つて来た」ため、再婚相手の男性はそのまま隣村の生家に 帰り、 「宙さんは大変に無口な人間になつてゐた」 、という話が 語られている。戦争は人間関係を 捻 ねじ れさせ、また当の人間の性 格をも壊してしまうのである。戦争は単に肉体的な破壊に留ま らない、深い精神的な傷を人間に残すものだと言えよう。   同じく伏鱒二の小説である「遙拝隊長」 (一九五○・二)は、 戦中の事故で頭を強打して脳に異常をきたした元陸軍中尉の青 年が、戦後になっても軍国主義精神を村人に強要して、何事か あれば東方(皇居の方)を遙拝させる悲喜劇を描いた小説であ 流れを食い止めなければならない。食い止めることができない な ら ば、 反 動 化 の 先 に 待 っ て い る の は、 お そ ら く 戦 争 で あ る。 このことを私たちは、危機意識を持って本気で考えなければな らない状況に足を踏み入れていると思われる。   次に戦争の問題を扱った小説とルポルタージュについて見て いきたい。 二   戦争と文学   一九九七年に『 鉄 ぽ つ ぽ や 道員 』で直木賞を受賞した浅田次郎の最近 作 に、 『 帰 郷 』( 二 ○ 一 六 ・ 六 ) が あ る。 こ の 著 作 は、 い ず れ も 戦争と関わる六つの短編から成っている短編集である。 その内、 本の題目にもなっている短編「帰郷」は、戦争がもたらした悲 劇の或る一面を描いている。   庄屋の総領息子であった 古 ふるこし 越 庄 しよういち 一 は、結婚して女の子の嬰児 もいたが、昭和一八年の春に召集されて戦地へ赴く。最初は満 州であったが、その後にマリアナ諸島のテニアン島の守備隊に 配属になる。やがてそのテニアン島は激戦地となり、守備隊は 全滅して、昭和一九年八月に庄一も戦死したという公報が家族 に届く。庄一には仲の良い二つ年下の弟がいたが、妻はその弟

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四五 ている。悲劇は戦後も長く続いたのだ。   また同書には、沖縄の宮城喜久子という女性の、次のような 言 葉 も 紹 介 さ れ て い る。 「 生 き て い る 友 達 を そ の ま ま 置 き 去 り にするということがね、それはもう、どの人も体験します。そ れがいまだにこう、うん、辛くこう、心の傷ですね、そういう の は 」、 と い う 言 葉 で あ る。 こ の こ と は 沖 縄 戦 だ け で な く、 原 爆の惨劇にもあったことで、しかもそれは友達だけでなく肉親 の場合もあったようなのである。重松静馬の日記をもとに書か れている『黒い雨』の中では、崩れた家の木材に足が挟まって 抜け出すことできない少年を、父親が何とか引っ張り出そうと しながらも、迫り来る火焔のために少年を見捨てて逃げ出す場 面が描かれているが、宮城喜久子氏の証言によるならば、その ようなことは必ずしも特異なことではなかったのである。しか し、それはやはり極めて辛いことであり、見捨てた側の人は生 涯の「心の傷」になっただろうと思われる。   私たちは、このような辛く悲しいことを二度と起こしてはな らないと深く反省し、非戦と平和を戦後に堅く誓ってきたはず だ。しかし近年、その反省と誓いを 蔑 なみ するのが、当然であるか の如き言動が目立ってきている、それも政府主導によってであ る。 西 谷 修 が『 戦 争 と は 何 だ ろ う か 』( ち く ま プ リ マ ー 新 書、 る。この青年は本来は素朴な柔らかい心根を持った人物であっ たようなのだが、軍国主義が彼を硬直した人物にしてしまった のである。戦中の事故というのも、その硬直が災いした結果で あった。また、戦後になっても続く戦争の悲劇ということで言 えば、 『黒い雨』では、主人公の姪である矢須子の見合い話が、 途中までうまく進んでいたのに、矢須子が被爆直後の広島市内 を歩いていたことを相手側が知り、結局は破談になってしまう ことが語られている。   実際にも、原爆は被爆者のその後の人生に黒い影を落とした の で あ る。 『 綾 瀬 は る か「 戦 争 」 を 聞 く 』( 岩 波 ジ ュ ニ ア 新 書、 二 ○ 一 三 ・ 四 ) は、 女 優 の 綾 瀬 は る か が 戦 争 被 害 者 の 話 を 取 材 した本であるが、その中で長崎の被爆者である片岡ツヨという 女 性 は、 「 結 婚 を し な か っ た。 原 爆 の た め で す よ。 傷 だ ら け に なってから、誰がもらうですか。一人ぼっちです。やっぱり一 人ぼっちは……。もう寂しいです。 (略) 」と語っている。同書 で は こ う 語 ら れ て い る、 「 被 爆 し た 女 性 は、 戦 後、 結 婚、 出 産 など、 ことあるごとに、 言われのない差別を受けてきたのです」 、 と。綾瀬はるかは、龍智恵子と菅原耐子という二人の被爆者の 話 を 聞 い た 後、 「 お 二 人 と も、 戦 後 の ほ う が た い へ ん だ っ た と おっしゃっていて、それがすごく悲しいと思いました」と語っ

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四六 は、 「死ななきゃ直らない」人物であり、 「付ける薬は無い」男 であるが、その稚拙な言説に対して正面から一つ一つ本気で反 論していかなければならないだろう。いかに馬鹿ゝゝしく面倒 であっても、である。   因 み に、 藤 生 明 の『 ド キ ュ メ ン ト 日 本 会 議 』( ち く ま 新 書、 二 ○ 一 七 ・ 五 ) に よ れ ば、 最 近 問 題 に な っ た 籠 池 泰 典 の 森 友 学 園が運営する塚本幼稚園に日本会議の関係者が挙ってその教育 を褒めそやしたそうである。その教育というのが、園児たちに 教育勅語と五箇条のご誓文を暗唱させるというものである。こ のように度し難く反動的で極右的なことが堂々と行われ、それ を日本会議のメンバーが絶讃しているということを、私たちは 知らなければならないし、批判の声を挙げなければならない。   次に、戦争と知識人との関係という問題について見ていきた い。 三   知識人と戦争協力― 詩人・大木惇夫のことなど   大木惇夫という詩人は、現在では忘れられた詩人かも知れな い。 大 木 惇 夫 の 次 女 で あ り、 か つ て 中 央 公 論 社 の 文 芸 誌「 海 」 の編集長を務めたことのある編集者で、同社退職後はエッセイ 二 ○ 一 六 ・ 七 ) で 述 べ て い る よ う に、 「「 戦 争 は も う し な い 」 と 言えた時代が「戦後レジーム」だということ」であって、した がって宰相安倍晋三が政治目標とする「戦後レジームからの脱 却 」 と は、 「 軍 事 化 を 目 ざ し て ア メ リ カ の 戦 争 を 手 伝 う 」 こ と で あ り、 「 こ れ か ら は も う 戦 争 を 辞 さ な い と い う 姿 勢 を、 中 国 その他の国々に示そう」ということである。それはつまり、戦 前レジームへの回帰ということなのだ。   そのことは、安倍内閣の八割が「神道政治連盟」に属し、約 四 割 が「 日 本 会 議 」 に 属 し て い る こ と か ら も 窺 わ れ る。 山 崎 雅 弘 の『 日 本 会 議   戦 前 回 帰 へ の 情 念 』( 集 英 社 新 書、 二 ○ 一六 ・ 七)によれば、 「日本会議」は政財界の右翼勢力によって 構成されている組織で、たとえば戦時中に日本軍が犯した「悪 事」は、 すべて中国共産党などの反日勢力が作りだしたもので、 事実無根だとする。そして、 大日本帝国時代とくに「国家神道」 の政治思想が人々を支配した戦前昭和期を、高く評価するので ある。 「神道政治連盟」は「日本会議」よりも宗教色が強いが、 その政治的主張は同じである。すなわち、戦後の民主主義を根 本から否定して、戦前の神権的天皇制国家に戻ろうとする主張 である。 言っていることは情けないほどに低レベルではあるが、 私 た ち は そ れ を 笑 殺 し て い て は な ら な い。 た し か に 安 倍 晋 三

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四七 れ、徐々に祖国への愛を育てていったものと考えられる」 、と。 昭和一七年一月に大木惇夫は陸軍文化宣伝班員として徴用され てジャワに行き、同年の九月に帰国し、その体験の中から同年 一一月に詩集『海原にありて歌へる』を〈ジャワ・バタビア現 地版〉として刊行し、さらに新たに二編加えた国内版を翌昭和 一八年に出版している。この詩集は大東亜文学賞を受賞するこ とになり、大木惇夫はこれによって名声を博したのだが、しか しこの経緯は大木惇夫が戦後にジャーナリズムから「抹殺され る一大要因」となったのである。大木惇夫の戦争詩集としては 他にも、 『神々のあけぼの』 (昭和一九年四月) や 『雲と椰子』 (昭 和二○年二月)などを加えて五冊にのぼるが、それらに収めら れ た 詩 に つ い て、 宮 田 毬 栄 は「 こ れ ら の 詩 の 表 現 は 激 し い が、 詩そのものの強さは見られない」と述べる。   た し か に、 た と え ば 詩「 椰 子 樹 下 に 立 ち て ― ラ グ サ ウ ー ラ ンの丘にて。 」では、 「極まれば、死もまた軽し、/生くること 何ぞや重き、/大いなる一つに帰る/ 永 と は 遠 の道ただに明るし。 」 と 詠 わ れ、 長 詩「 赤 道 を 越 ゆ る の 歌 」 で は、 「 ひ た 進 み、 攻 め 寄 せ て 来 こ し / す め ら ぎ の 遠 み い く さ の / 船 団 は 壮 ん な る か な 」 と さ れ、 末 尾 近 く で は、 「 み ん な み の 果 て に し あ れ ど、 / 大 君 の 辺 へ に死するなり、/大君の辺に死するなり、 」という詩句が、 ストとして活躍している宮田 毬 ま り え 栄 が、父についてその題目もま さ に『 忘 れ ら れ た 詩 人 の 伝 記   父・ 大 木 惇 夫 の 軌 跡 』( 中 央 公 論 新 社、 二 ○ 一 五 ・ 四 ) と い う 大 部 の 伝 記 を 書 い て い る。 も っ と も、 「 忘 れ ら れ た 詩 人 」 と あ る が、 こ の 本 が 出 版 さ れ て す ぐ に売れ切れになったことを考えると、大木惇夫は今も知る人ぞ 知る詩人であると言えようか。この本には大木惇夫の詩人とし ての面や家庭人としての面が、丁寧な筆致で述べられている。   たとえば、大木惇夫が「 〈恋愛体質〉 」であったこと、そのた めに起きた中年以降の恋愛によって、毬栄たち家族だけでなく 大木惇夫自身も辛い思いをしたことなどが、次女としての父へ の情愛に基づきながらも、距離を取った冷静な叙述で淡々と語 られていて、読み応えのある伝記作品になっている。その落ち 着いた筆遣いの中でも最も優れている一つは、米英などとの戦 争に突入した時代に書かれた、大木惇夫の戦争詩や、戦後に彼 の故郷のヒロシマを詠った詩などについての、宮田毬栄の批評 である。   大 木 惇 夫 の 戦 争 詩 に 触 れ て、 宮 田 毬 栄 は こ う 述 べ て い る、 「(略)社会性や批判精神に乏しい父は、戦争やナショナリズム に 対 す る 嫌 悪 の 気 分 を 抱 き な が ら も、 国 家 の 政 策 に た や す く 飲みこまれ、詩人の魂が燃えやすい愛国心という火種を投げら

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四八 しなかったのだ。   彼 の そ の 甘 さ は、 詩 集『 物 言 ふ 蘆 』( 昭 和 二 四 年 八 月 ) の 最 後に収録されている詩「ヒロシマの歌」にも露呈している。原 爆 に つ い て 彼 は こ う 語 る、 「 ソ ド ム の 日   ゴ モ ラ の 日 か と / 怒 いか りの日   審 さ ば き 判 の日かと」 、「蘇へる 命 いのち のあるは/み憐れみ尽きざ る に 因 る / 懲 こ ら し め の 後 の 愛 な り 」、 と。 宮 田 毬 栄 が 述 べ て い るように、 「(略)戦中、ペンを持って戦争に深く関わっていた にもかかわらず、原爆の悲劇は恐怖の天災であるかのように書 かれてしまうのである」 。このような大木惇夫のあまりにナイー ブでノン・ポリティカルな精神の姿勢は、やはり糾弾されなけ ればならないだろう。たとえ彼が、純粋で無垢な精神の持ち主 であったとしても、戦争詩によって戦争中に持て囃された詩人 であったがゆえに、今日においても厳しく指弾されなければな らないと思われてくる。   大木惇夫と違って、政治に深い関心と知識を持ち、政治の問 題について積極的に発言していた知識人たちについて、マイル ズ・フレッチャーの「近衛新体制と昭和研究会」という副題目 のある『知識人とファシズム』 (竹内洋・井上義和訳、柏書房、 二○一一 ・ 四) には興味深い論が展開されている。 それによると、 これまで丸山眞男が論じていたような論、すなわち日本でファ 空疎な響きとともに〈高らか〉に詠われている。それらの詩句 が天皇制とどう関わるのかというような問題意識など皆無のま ま、用いられているのである。大木惇夫は、時代の空気や潮流 に全く無批判に巻き込まれてしまった詩人だったのであり、宮 田毬栄が述べているように、 彼は 「(略) 一代の詩人の矜持をもっ て、高揚にまかせて戦争をうたったのだった」 。   それでは大木惇夫は、戦争中の自らのあり方に対して、戦後 にはどういう態度を取ったかと言うと、他の少なからぬ文学者 のように見苦しい言い訳はせず、むしろ沈黙していたが、しか し な が ら、 戦 後 直 後 に 刊 行 さ れ 詩 集『 山 の 消 息 』( 昭 和 二 一 年 九月)の「田園四季の記― あとがきとして」では、 戦後に着手 した「翻訳詩稿」の仕事の合間にも「戦争の真相なるもの」が 伝わってきて、 「その度びごとに、愚かしかった自分を思った」 と し て、 大 木 惇 夫 は こ う 語 っ て い る、 「 多 く の 欺 瞞 の 前 に、 自 分は一介の幼児でしかなかった」 、と。しかし、 「幼児」云々に ついて宮田毬栄は、 それは「明らかな欺瞞ではなかったろうか」 と述べ、 『海原にありて歌へる』の、 「その詩人のなかに大いな る幼児がいたのであって、無垢な一介の幼児が詩人だったので はなかった」と手厳しく批判している。つまり大木惇夫は、戦 後になっても戦争中の自分のあり方に正面から向き合うことを

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四九 一見知的に洗練されたような、実は危険な方向へと誘導する言 説にも惑わされることがあってはならないだろう。   そ の た め に も、 ポ リ テ ィ カ ル な 問 題 に 正 面 か ら 挑 ん だ 文 学 を、私たちもまた正面から論じていかなければならないと思わ れる。 四   論じられるべき文学者   村上春樹の文学については、文芸評論家だけでなく少なから ぬ 文 学 研 究 者 た ち に よ っ て も 論 じ ら れ て い る。 し か し、 村 上 春 樹( 一 九 四 九 年 生 ま れ ) と 同 世 代 で あ り、 数 多 く の 小 説 や エッセイ等を書き、また行動する作家としても活躍した立松和 平( 一 九 四 七 年 生 ま れ ) に つ い て は、 論 じ ら れ る こ と が 少 な い。そうした中にあって、このたび立松和平の文学を論じた著 書 が 上 梓 さ れ た。 文 芸 評 論 家 の 黒 古 一 夫 に よ る『 立 松 和 平 の 文 学 』( ア ー ツ ア ン ド ク ラ フ ツ、 二 ○ 一 六 ・ 一 〇 ) で あ る。 黒 古 氏 に は す で に、 『 立 松 和 平 ― 疾 走 す る「 境 界 」』 ( 六 興 出 版、 一九九一 ・ 九) と 『立松和平伝説』 (河出書房新社、 二○○二 ・ 六) の二冊の立松和平論があったのだが、今回の著書は、二○一○ 年一月から二○一五年一月まで五年間かけて刊行された『立松 シズムに加担したのは小学校 ・ 青年学校の教員や村役場の吏員、 下級官吏などの言わば「亜知識人」層であって、本来の知識人 層はファシズムや軍国主義に対しても冷ややかであったという 論は誤りである。実際、結果的にファシズムを先導した「昭和 研究会」に入会したのは、ほとんどが本来の知識人たちであっ たのである。   マ イ ル ズ・ フ レ ッ チ ャ ー は、 「 昭 和 研 究 会 」 の 中 で も 著 名 な 知識人であった笠信太郎、蠟山政道、三木清などは、ヨーロッ パのファシズムを導入することによって日本国家の改革を試み ようとしていたことを説得力ある論で展開している。 おそらく、 ファシズムにしろ皇道主義や日本精神主義にしろ、それらは知 的でないファナチックな連中が飛びついた、思想的には低級な も の に 過 ぎ な か っ た 、 と い う 先 入 観 が 丸 山 眞 男 に は あ っ て 、 そ の 先 入 観 が 「 昭 和 研 究 会 」 に 集 ま っ た 知 識 人 た ち の フ ァ シ ズ ム へ の 加 担 や 先 導 の 有 り 様 を 見 え な く さ せ て し ま っ た と 考 え ら れ る 。   このように、政治的にナイーブであっても、逆に政治に深く 関心を持つタイプにおいても、結果的には知識人たちが同様の 戦争協力をしてしまったことが見えてくる。私たちは、先人た ちが踏んだ誤った 轍 てつ を二度と踏んではならない。だから、安手 の 反 動 イ デ オ ロ ギ ー に 乗 っ て は な ら な い こ と は も ち ろ ん だ が、

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五〇 な っ た か、 を 描 き 出 そ う と し た 」、 と 黒 古 氏 は 述 べ て い る。 因 みに〈うんたまぎるー〉は、沖縄県西原町の民話で語られてい る、富裕層や権力者から金品を盗み、貧民に施しを行ったとさ れる義賊の主人公のことである。   こ の よ う な 指 摘 を 見 て く る と、 黒 古 氏 が、 「 も し 立 松 が 生 き 続けていたとしたら、必ずや「反戦」 「反体制(反権力) 」の旗 を降ろすことはなかったであろう」と語っていることに納得で き る だ ろ う。 「 盗 作・ 盗 用 」 問 題 と し て マ ス コ ミ の 話 題 に な っ た 『光の雨』 (改作版は一九九八 ・ 三~五に 「新潮」 に分載) は、 実は一九六○年代後半から一九七○年代にかけての、あの〈政 治の季節〉とは何であったかを問いながら、自分たちの世代の 闘いを次世代に語り伝えようとした小説であったことを考える と、 黒 古 氏 が 述 べ て い る よ う に、 な る ほ ど そ れ は「 ( 略 ) 志 半 ばに倒れた作家高橋和巳の意を汲んだ埴谷雄高が言うところの 「精神のリレー」を試みたもの」だと言える。   し た が っ て、 先 に 見 た 指 摘 な ど も 踏 ま え る と、 「 立 松 が 戦 後 文学を継ぐ作家である」という、黒古氏の判断は首肯されるだ ろう。もっとも、立松文学の言わば領域の広さはそれらに留ま る の で は な く、 「 卵 屋 の 子 」 と 呼 ば れ て い た、 自 ら の 幼 少 年 時 代と父母のことが語られている、第八回坪田譲治文学賞を受賞 和平全小説』 (全三○巻+別巻一) の各巻の 「解説」 をまとめて、 総枚数が一二○○枚あったその「解説」に訂正等を施しながら 八二○枚余りに「仕上げたもの」のようである。このことから もわかるように、これは立松和平の文学を初めて包括的に論じ た、 本 格 的 な「 「 評 伝 的 」 作 家 論 」 の 大 著 で あ る。 で は、 黒 古 氏は立松文学のどういうところを評価しようとしているのか。   たとえば立松和平には、田中正造に焦点を当てて足尾鉱毒事 件 を 扱 っ た『 毒 ― 風 聞・ 田 中 正 造 』( 東 京 書 籍、 一 九 九 七 ) と そ の 続 編 で あ る 遺 作『 白 い 河   風 聞・ 田 中 正 造 』( 同、 二 ○ 一 ○・五)があるが、これらは立松和平が「団塊の世代の作家と してあくまでも「反権力・反戦」を底意に潜めた作品を書き続 けていたこと」だと黒古氏は述べている。また、野間新人文芸 賞 を 受 賞 し た『 遠 雷 』( 河 出 書 房 新 社、 一 九 八 ○・ 六 ) に つ い ては、都市と旧農村との「境界」に生きる人々の悲喜劇を描く ことで、初期の近代日本にはまだあった「共同体」が解体して いく様と、それと併走するようにして従来の「家族」もやはり 解体していく様子を描いたものであると指摘する。さらに『う んたまぎるー』 (岩波書店、 一九八九 ・ 一一)で立松和平は、 「琉 球 処 分 」 に よ っ て 近 代 日 本 に 組 み 入 れ ら れ た 沖 縄 が、 「 そ れ 以 後今日までいかに理不尽な「差別」的状況を強いられるように

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五一 に眼を向けるようになったことである。そこには盟友中上健次 や 尊 父 の 死 も あ っ た と 黒 古 氏 は 述 べ て い て、 な る ほ ど そ う で あったであろうと考えられるが、ともかくもその仏教への彼の 熱い思いは、やがて泉鏡花文学賞と親鸞賞とを受賞することに な っ た 小 説『 道 元 禅 師 』 上・ 下( 東 京 書 籍、 二 ○ ○ 七 ・ 七 ) に 結 実 し た の で あ る。 ま た、 多 作 で あ っ た 立 松 和 平 で あ っ た が、 仏教関係の著作に限っても軽く十冊は超える著作を上梓してい る。これはやはり特筆すべきことだと思われる。   先に立松文学が戦後文学を継承した文学であるという黒古氏 の言葉を引用したが、仏教との関係においてもそのことは言え るだろう。戦後文学でも、たとえば野間宏の文学と親鸞、ある いは武田泰淳の文学と仏教とは根底的なところで関係している のである。とは言え、立松和平がそのことを意識していたから 仏教に近づいたということは、むろんあり得ない。そうではな く、より本質的なところで、戦後文学も立松和平の文学も、人 間の救済と解放という問題をその文学の中心に据えていたから こそ、ともに深く仏教と関わる文学になったものと言えよう。   このように見てくると、立松和平の文学が扱った多様な領域 とその広さとともに、それらが今日を生きる私たちにとって本 質 的 な 問 題 で あ る こ と が わ か る。 そ う で あ る に も か か わ ら ず、 した『卵洗い』 (講談社、一九九二 ・ 五)のように、少年の眼と 感受性で「まわりの風景を凝視している」 (『卵洗い』の「あと がき」 )小説などもあるのである。   さらに注意されるのは、若い時から生涯を通して立松和平が 仏 教 に 正 面 か ら 向 き 合 っ た こ と で あ る。 と く に 興 味 深 い の は、 あの『光の雨』事件の後にインドに行ったときに、車の中で立 松 和 平 は い わ ゆ る 見 仏 体 験 を し て い る こ と で あ る。 『 ぼ く の 仏 教入門』 (ネスコ/文藝春秋、一九九九 ・ 九)で、立松和平はこ う 語 っ て い る。 「 フ ッ と 気 が つ い た ら、 ぼ く は 金 色 の 仏 像 の よ うな形をした何かを見ていたのです。暗闇の中、運転手さんの 体越しにボーッと浮かんでいる。闇を透かすようにして何かが 浮かんでいたのです」 、と。もっとも、 「単なるぼくの幻想にす ぎなかったのかもしれません」 とも述べているが、 しかし 「(略) 黄 金 の 仏 さ ん の 姿 が、 ぼ く の 眼 に は は っ き り と 見 え た の で す 」 と続けているのである。   私 た ち は こ の 体 験 を 合 理 的 に 解 釈 す る こ と も で き る だ ろ う。 た と え ば、 『 光 の 雨 』 事 件 で 精 神 的 に 追 い 詰 め ら れ て い た か ら こそ、救いを求める切実な願いが仏の姿を目の前に幻想として 現出させたのである、と。もちろん、真実のところはわからな いが、大切なことはこのような体験を通して彼がいよいよ仏教

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五二 ル チ ュ セ ー ル は『 甦 る マ ル ク ス Ⅰ 』( 河 野 健 二・ 田 村 俶 訳、 人 文 書 院、 一 九 六 八 ・ 六 ) で、 マ ル ク ス の 史 的 唯 物 論 に お け る い わゆる上部構造について、その「 独自な諸要素に固有の本質に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 つ い て の 理 論 0 0 0 0 0 0 が あ る 」( 傍 点・ 原 文 ) と し て、 そ の 理 論 の 大 ま かな輪郭については知られているものの、細部は知られていな い 領 域 だ と 述 べ、 次 の よ う に 語 っ て い る。 「 マ ル ク ス と レ ー ニ ン以後、いったい誰がこの探検を 真に 0 0 試み、あるいは押し進め た で あ ろ う か?   わ た し が 知 っ て い る の は グ ラ ム シ だ け で あ る」 (同) 、と。たとえば、下部構造(経済)においていかに搾 取されていても、上部構造すなわち人々の意識がその搾取を問 題にしないならば、搾取ー柀搾取の支配構造は変わらないまま であろう。グラムシはその上部構造の問題をこそ「探検」した というわけである。   上部構造の問題に関してグラムシは、ある階級の他の階級に 対する支配は、単に経済的あるいは物理的な強制力だけによっ て で は な く、 柀 支 配 階 級 に 支 配 階 級 の 信 念 体 系 に 同 意 さ せ て、 その社会的文化的価値を共有させるように仕向けていくことだ と考えた。だからほとんどの場合、支配体制を揺るがすような こ と は、 被 支 配 階 級 は し な い の で あ る。 こ の こ と に つ い て グ ラ ム シ は、 国 家 の 問 題 に 関 連 す る 形 で『 グ ラ ム シ 獄 中 ノ ー ト 』 立松文学は研究対象になるようなことは、前述したように村上 春樹の文学と比べて極めて少なかったのである。なぜか。ポリ ティカルであって、且つ言葉の本質的な意味においてラディカ ルな問題を包摂するような立松文学は、研究の俎上に載せるに は不適合だと判断されて忌避されたのであろうか。   もしもそうだとするならば、そのことの方に問題があるだろ う。私たちはポリティカルであることを恐れてはならない。と くに昨今のように、反動的な方向に政治が進んでいるような状 況においては、それに対峙するためにも強く意識的にポリティ カルな精神の姿勢を持たなければならない。そして、立松和平 が文学で行った問題提起に真摯に向き合うことは、その姿勢を 堅持することに繋がると思われる。     それでは、その反動的な方向に対峙するために、言わば思想 の武器としての変革思想についてはどのように考えていけばい いだろうか。そのヒントとなる思想営為について次に見ていき たい。 五   変革思想の再生に向けて   フランスの構造主義者で且つマルクス主義者であるルイ・ア

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五三 鵠 こく を得ているであろう。   つまり、支配というものは強制による独裁などではなく、説 得 と 合 意 に 基 づ く、 支 配 階 級 の「 ヘ ゲ モ ニ ー」 ( 主 導 権 ) に よ る の で あ る。 J・ ジ ョ ル も『 グ ラ ム シ 』( 河 合 秀 和 訳、 岩 波 書 店、 一 九 七 八 ・ 五 ) で グ ラ ム シ の こ の 考 え 方 を 説 明 し て、 あ る 支配階級のヘゲモニーとはその階級が他の諸階級に自らの道徳 的、政治的、文化的価値を承認させることに成功したことを意 味 す る と 述 べ、 こ う 語 っ て い る、 「 成 功 す る 支 配 階 級 は、 現 実 に政治権力を手に入れる前にすでに知的、道徳的指導性を確立 している支配階級である」 、と。   だからグラムシは、文化と政治は切り離すことはできず、革 命はすべて一つの偉大な文化的事象であると考えていた。文化 という上部構造を重視するこの考え方は、また、人々の主体的 能動性の尊重にも繋がってくる。そのことに関して、思想史家 で も あ る 鈴 木 正 は「 〝 グ ラ ム シ と 日 本 〟 に 寄 せ て 」( 『 グ ラ ム シ の 思 想 空 間 』〈 社 会 評 論 社、 一 九 九 二 ・ 一 一 〉 所 収 ) で、 「 グ ラ ムシのいう革命は(略)天下をとる前に、歴史のなかで自分を 変 え る 文 化 革 命 が 先 立 つ も の で し た。 ( 略 ) 民 衆 が 主 役 つ ま り 自律的主体として参加する革命は、すべての民衆が人格の全面 的実現の可能性を手にする」と述べている。 (石堂清倫や訳、三一書房、一九七八 ・ 三)の中でこう述べてい る。すなわち、 「国家とは、指導階級が自己の支配を正当化し、 維持するだけでなく、また被治者の 能動的 0 0 0 な 合意 0 0 の取得に成功 する実践的、理論的活動の総体」 (傍点・引用者)である、と。 この「能動的な合意」についてグラムシは、支配的集団に対し て「住民大衆があたえる「自発的」同意」という言い方もして いる。   やはりグラムシとともに西欧マルクス主義の源流に位置する ルカーチは『歴史と階級意識』の中で、マルクスの予言にもか かわらず、 先進資本主義国のプロレタリアートが資本主義の 「墓 掘 人 」( 『 共 産 党 宣 言 』) に な ら な か っ た の は、 多 く の プ ロ レ タ リ ア ー ト が〈 物 象 化 〉 さ れ た 意 識 の 中 で 微 ま ど ろ 睡 ん で い る か ら だ、 ということを論じた。そうなると、 その微睡みから覚醒すれば、 プロレタリアートたちは革命闘争に立ち上がるはずだという論 理が導き出されて来るが、しかし、その論理に基づいた革命運 動は、全世界的に見て部分的には成功することはあっても、先 進資本主義国家の体制は揺るがなかったのである。それは、ま さにグラムシが述べているように、被支配階級がその支配体制 に「能動的に合意」しているからである。たしかに、微睡んで いると見るよりは「能動的に合意」していると考える方が、 正 せい

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五四 は、革命運動の中や革命後において、すべての人が知識人にな ることを考えていたのである。その場合の知識人とは、グラム シの言葉で言えば「有機的知識人」であり、それは知的に自立 していて自らの知性で物事を判断することができる人のことで ある。   さて、そのレーニンの前衛主義が革命を歪めて、結局は硬化 した官僚制国家を生むことにも繋がったこと、そしてそれがソ ビエトや東欧の〈社会主義政権〉を崩壊させることに結果した ことをなどを考えると、グラムシの知識人論や、前述した人々 の主体性を尊重する思想が持っていた可能性を認めざるを得な いであろう。また上部構造を重視する考え方や、革命闘争にお ける〈陣地戦〉の考え方など、 グラムシ思想には今日において、 省みられるべきものがある。しかし、残念ながら日本の変革運 動の側はグラムシ思想から効果的な摂取をまったくと言ってい いほどしなかったのではないか。グラムシから学び、変革思想 を再生させなければならない。   もちろん、変革思想の再生はグラムシから学ぶことだけに限 らないであろう。たとえば、変革思想においてマルクス主義が 主流となったために片隅に置かれた感のあるイギリスの社会主 義、ジョン・ラスキンやウイリアム・モリス、ロバート・オー   ここで注意したいのは、J・ジョルや鈴木正も述べているよ うに、革命運動における文化の重視は、民衆の自律あるいは自 己規律を促すものであるとともに、その運動の中ですでに革命 後の新しい社会や新しい秩序を内包していなければならないも のとしても意識されていたことである。日本のグラムシ研究で は 代 表 的 存 在 の 一 人 で あ っ た 片 桐 薫 は『 グ ラ ム シ の 世 界 』( 勁 草 書 房、 一 九 九 一 ・ 一 二 ) で そ の こ と に つ い て、 「 つ ま り 彼 は、 過去の延長線上に革命的未来を抽象的に描いたのではなく、近 代的工場の現実のなかで、未来社会の萌芽とそれへの主体的寄 与の可能性を問題にした」と述べている。   このようにグラムシは、革命や革命運動における、文化およ び人々の主体的意識を重視したからこそ、その運動の中で革命 後の未来が人々の意識の上で先取りされていなければならない と考えたのである。別言すれば、上部構造は下部構造によって 完全に縛られていないと考えていたから、人々の意識という上 部構造は、 革命後の未来を先取りできるとしたのである。また、 そうでなければ革命後に、真に民主的で自由平等な社会を築く ことはできないであろう。また、人々の主体性を重視すること は、後衛(大衆)が前衛(知識人)によって指導されるという レーニン主義的な発想を退けることにもなる。むしろグラムシ

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五五 エ ン な ど の 社 会 主 義、 さ ら に は 生 協 運 動 の 源 流 と も い う べ き ロッチデールでの協同組合運動には、今日から振り返ってみて 学ぶべき点が多くあるように思われる。國分功一郎と山崎亮と の対談である『僕らの社会主義』 (ちくま新書、二○一七 ・ 七) の「 お わ り に 」 で、 山 崎 亮 が 社 会 主 義 の「 美 味 し そ う な 部 分 」 を「 つ ま み 食 い 」 し て、 「 次 の 地 域 社 会 に つ い て 考 え た い 」 と 述 べ て い る が、 「 地 域 社 会 」 だ け で な く、 こ の 日 本 社 会 全 体 を 考えていくためにも、様々な変革思想から学んで行かなければ ならないだろう。そして、本稿の前半で述べたような反動的動 向に対しては、決然と抗していかなければならない。 [ 追 記 ] 本 稿 は、 「 千 年 紀 文 学 」 一 一 四 号( 二 ○ 一 六 ・ 四 )、 同一一五号 (二○一六 ・ 七) 、同一一六号 (二○一六 ・ 一○) 、 同 一 一 七 号( 二 ○ 一 七 ・ 一 )、 同 一 一 八 号( 二 ○ 一 七 ・ 四 ) に掲載した小論に若干の訂正を加えて一つの論文にまとめ たものである。 キーワード=現代政治・戦争・変革思想

参照

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