井上円了の初期思想(その二) : 東京大学時代の軌
跡
著者名(日)
三浦 節夫
雑誌名
井上円了センター年報
号
16
ページ
81-122
発行年
2007-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002777/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja井上円了の初期思想その二︶
東京大学時代の軌跡
一
一
一
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ミ ミ ≒ ⊇ 〉 . 予備門時代の円了 井ヒ円.﹂︵以ド、円.ーという︶の初期思想について、筆者は、真理金針﹄以前の初期論文を分析して、円rの 原点を明らかにしたが戸1、本稿はその論文の続きである。ここでは、初期思想が形成された東京大学時代の軌 跡と、思想家として成長する場となった新聞・雑誌の性格など、初期思想の基本的条件について述べることとし たい.. 円.﹂の東京大学時代は、のちに﹁哲学館の..、恩人﹂の.人として敬愛した洋学者の加藤弘之との出会いから始 まる..徳川時代の加藤は幕府の蕃書調所の教官となり、ドイツ学に取り組み、日本初の立憲思想を紹介する著作 を辞いている 明治維新後は天皇の侍講、.兀老院議官を経て、明治.○年に創立された東京大学初代総理︵三学 部︶となり、のちに枢密顧問・帝国学士院長などを歴任した、明六社員として近代思想の啓蒙につとめた著名な 指導者の一人である、その加藤と円.ーの川会いについては、円.ーの文章を引用するが、その理解のために、円.﹂ の長岡時代からの変化を記しておきたい。 明治、○年四月、日本で初めての人学として東京人学が創設された これで、小学・中学・大学という日本の 81 11 ll] /t k,▲t)j+」]tLl \L学校教育体制の最初の骨格できた。円.jの生家である慈光寺の本山・東本願L寸︵真宗大谷派︶でも、新教育体制 の創設を急いでいた、その初期段階として、全国.万ヶ﹂の末L寸から優秀なr弟を選び、京都の本山で英才教育 を施し、体制の中核を作ろうとしていた。すでに、僧侶の子弟を対象とし僧侶教育の師範学校をめざした教師教 校と、僧俗を問わずに教団内のr弟を対象とし英才教育で幹部を養成する育英教校は創設されていた。東京大学 が創設された明治一〇年に一九歳となった円了は、新潟県長岡の洋学校の後身である長岡学校で教員の補助にあ たる﹁助教﹂をつとめていたが、本山から﹁至急ヒ洛するように﹂との命令があった..教師教校に﹁英学科﹂を 新設したので、洋学を学んでいた円了がその要員として京都の本山へ招集されたのである。 ヒ月に郷里の浦村を発った円了は、..週間余りで京都へ着き、他の三名とともに九月に教師教校へ入学した。 それから七ヶ月後にあたる明治.、年四月に、円rは東本願寺の東京留学生に選ばれて慌ただしく上京した。こ のヒ京の直後に、円了は加藤弘之との知遇をえる。そのことが円了の人生と思想において大きな意味をもつこと になる。円.ーは加藤が還暦を迎えたその記念に﹁加藤老博トに就きて﹂と題して、その出会いに至る経過を記し ている︵2︶。 ﹁余が老博ヒの知遇を辱うせし由来を、、.口して置かうと思ふ。余が明治卜年夏期本願寺英学部にありし時 東京小石川戸崎町念速寺の副住職近藤秀諦氏と同窓にて眠食せしことあり。斯くして其翌春東京へ上る時 に、近藤氏は小石川の自宅へ宿泊せよとて紹介状を余に与へたり.。念速寺は加藤老博上のr供の逝去せし時 に、此に葬儀を行はせられたりとて.平素親しく御交際を.辱うして居る由に聞及べり。余は東京へ着するや、 其翌H念速寺を訪ひ、此に一泊し、秀諦氏の父トと共に、加藤老博十を訪問する事を定め、数日の後近藤老 僧余を案内して番町ヒ..番町四卜四番地に至り、初めて老博﹂に面謁するを得たり。是より後時々拝趨して 82
知遇を辱うせり。﹂ 当時の念速芋の住職は、加藤弘之と葬儀を縁として交際していたというが、その理由にはこの住職が東京にお ける真宗大谷派の仏教学者でもあったからである。念速芋の住職は円了を本山が選んだ優秀な留学生として紹介 し、その育成を加藤に依頼し、それに対して加藤は東京大学法理文学部総理であったので、円了に予備門への入 学を勧めたと考えられる。 東京大学予備門は旧東京英語学校を改組したものであるが、円了が上京した明治=年四月に﹁教則の選定﹂ が終わったばかりであった、円.﹂は同年に入学したが、r備門は四年間の修業年限であり、﹃東洋大学百年史 通史編1﹄三.九頁︶では、円了が一四年七月に卒業したから、第三級︹第二学年。予備門では第一学年を第四 級と、第四学年を第一級と呼んでいた ︹︺は筆者注、以下同じ︺に入学したと推測している。当時の文部大 輔・川中不、、麿に対して加藤弘之総理が報告した﹁東京大学法理文学部第七年報 n明治ト一年九月至同卜一、年 八月﹂という資料には、そのときの入学試験の経過が記されている言︶。 ﹁明治卜一年九月﹂日ヨリ十、一日迄第.一級二新募ノ生徒.、.卜四人第四級二新募ノ生徒百七十人ノ試業ヲ施 行ス此内第二級二在テハト一人合格シ第四級二在テハ八トヒ人合格ス但シ第、一級ノ試業二落第スル者ノ内、一 卜人ハ更二第三級二入ランコトヲ申請セリ仰テ総計百十八人ノ仮入学ヲ許ス﹂ これによれば、円.ーが第.,級の募集に応じて、第、、.級への人学を許可されたと考えられる。合格率をみると、 第四級の倍率は二倍、第一.級はそれより高い二.倍の難関であった.試験は一三歳以上を対象に、科目は三科目 で、﹁和漢学︵国史撃要・作文﹀、英語学︵読万・綴文・釈解︶、算術︵分数・小数︶﹂︹三である。円了は後年の明治 四〇年五月、大分県立竹田中学校で講演して、予備門の入学試験の結果を語っている︵5︶。 83 「J|∫Lつ1「)lt]1‘+i旦1 ︸
﹁私共が書生の時代はとても今頃のやうに気楽には出来ぬ、教へる人も所謂変則流で発音も何も有つたも のではない、﹁ナイト﹂︵夜︶など﹁ニグフト﹂と読んだ私が大学の予備門に人る時など英語で困つた、幸に 数学の方が九十点位あつたから入るを得た﹂ さきの東京大学の年報と円.﹂のこの証.ぼを合わせると、円.ーは第..級を受験して、.長岡の洋学校の変則的英語 教育によって英語の﹁読方﹂などで失敗し、﹁試業二落第スル者ノ内二十人﹂の一人であったが、他の科目の高 い成績によって第...級︵第、.学年︶に人学できたと考えられる.円.ーは当時のr備門について語っている亘。す でに引川した文章とやや重複するところがあるが、そのまま紹介しよう、 ﹁私は明治卜.年に東京帝国大学︵当時の東京人学︶に入学した.其時は本科と予科︹予備門︺と分れて扮 科は今の高等学校で、先づ順序としてr科に人り、r科から本科に入る規定であつたので、私も予科に人る ことになりました。其時私は深く感じたことがあります.何故かと言ふと、教師と頼む者は全部西洋人で用 語は皆英語で、学校の掲.小及達し等の文章は悉皆英語であつて、恰も西洋の学校と同様の感じがしました, 是れを見て東京大学はn本の大学に非ずして西洋の学校である様に思はれました。﹂ この円.ーの講演記録は、亡くなる一年前の大正じ年に朝鮮の公立普通学校で行われ、その題も﹁東西両洋の文 明について﹂という比較論であるために、やや強調された部分があるかも知れないが、この文章には予備門に人 学したときの円∼の衝撃が語られている、西洋をモデルにした日本の近代化は明治一〇年代には、東京大学の創 設に象徴されるように、﹁お雇い外国人﹂から学問・技芸の知識を吸収することが積極的に取り81まれようとし た段階であった.それだけに、混乱や試行錯誤の段階であり、このような中において国の近代化をt体的に考え たのが円rの世代でもあった、真宗大谷派という日本を代表する仏教の伝統教団に生まれ、その教団を代表して 84
東京大学へ留学し、r備門に入学した円.Jはまもなく..○歳になろうという年齢であったから、伝統と文明開化 との関係を、先の講演のように衝撃的に﹁深く感じた﹂ことであろう。 東京大学の予備門ではどのような教育がなされていたのであろうか.円.﹂が人学する数ヶ月前に﹁扮備門課 程﹂が定められたばかりである,﹁東洋大学百年史 通史編1﹄︵四〇頁︶では、その後の課程の具体化と変化を ﹁東京大学予備門一覧︵明治..一、一、、.年こによってまとめている 四学年の共通学科は、英語学͡英吉利語︶、 数学、画学、和漢学で、学年にしたがって学科の内容をつぎのように増加させている。 第一学年−英語学︵読方・綴方・文法・釈解︶、数学︵算術︶、地理学︵政図地理︶、画学︵自在画法︶、和漢学︵十 八史略︶ 第、.学年ー英語学︵読方・作文・文法・釈解︶、数学︵算術・代数・幾何︶、地理学︵n然地理︶、史学︵万国史 略︶、画学︵自在画法︶、和漢学︵日本外史︶ 第、、.学年ー英語学︵修辞・作文・釈解・習講︶、数学︵代数・幾何︶、史学︵万国史︶、生物学︵生理・植物︶、画学 ︵自在両法・用機画法︶、和漢学︵口本政記︶ 第四学年−英語学︵英文学・作文・釈解・習講︶、数学︵代数・幾何・、.、角法︶、物理学︵重学・乾電論・水理重 学.熱論・光論・磁力論・湿電論︶、化学︵無機︶、生物学︵動物︶、理財学︹経済学︺︵大意︶、画学 ︵用機画法︶、和漢学︵通鑑撃要︶ 予備門では英語、数学、国語、画学を基礎学力として徹底的に教育し、その上に人文科学、自然科学の基礎教 養を修学させた、円.ーの初期の著作はこのような基礎教養に裏付けられている。﹁東京大学法理文学部第七年報 自明治卜一年九月至同十二年八月﹂に従って、当時の予備門生の学習状況をみておきたい︹7︶。 85 il 円 ノf)JtEl] 十1 ,し)
明治一二年の﹁東京大学予備門生徒明細表﹂によれば、七月現在の生徒の総員は、下から第四級︵六クラス︶ が九九人、第三級︵五クラス︶が一、.四人、第.一級︵...クラス︶が八九人、第、級︵..一クラス︶がL六人となって いて、級がLがるにしたがって生徒数が少なくなっている。円了が同年九月の﹁新募﹂に応じることができたの は、級別の欠員を補充していたからである.すでに記したように、試験は第一.級と第四級であって、新たに人学 させた生徒数は、ドから第四級が八ヒ人、第一、,級が.一〇人、第二級が二人、第一級が四人である。予備門の年 報の﹁試業﹂によって生徒の試験結果を知ることができる。九月から七月までを一.;の学期に分け、各学期の末 に試験が行われ、その成績によって﹁登第﹂と﹁落第﹂と﹁再試︵評点数僅かに不足︶﹂に分けている。そして、 ﹁学年試業﹂を行い、学期毎の成績を加えて最終判定が下されるのであるが、総生徒二、七一人のうち﹁卒業・昇 級者﹂は79%、﹁落第者︹原級・再試︺﹂は21%となっている。したがって退学者が出る。 一.、年八月までの年度 内の退学者数は、第四級が二九人、第三級が四一人、第二級が一〇人、第一級が七人であった。円了が入学した 第...級の退学者数は多く、試験成績をみて仮人学が許された事情がここにあると考えられる。ともあれ、r備門 で高成績をヒげ続けなければ第一級には昇級できず、大学の学部へも進学できなかった。 北条時敬は、円∼のチ備門時代からの同級生であり、大学では理学部数学科に進学し卒業後に教員となり、金 沢の第四高等学校長、東北帝国大学学長、学習院長を歴任するなど、教育者として有名である︵北条は金沢時代 に西川幾多郎を同家にド宿させた。青年時代の西川は、円rの﹃哲学.夕話﹄を愛読し、そのことが西田をして哲学を専 攻させた動機の。つと言われている︶。予備門からはじまる円了の東京大学時代について、北条は語っている︵8︶。 ﹁概括して言へば、学生時代の井上君は頭脳明晰で且つ大の勉強家でした、勿論私は予備門時代にも井上 11とは組が別であったが。君の級では何時も君は首席を占め薪然頭角を見はして居た。加之君が出色の人物 86
であつたことを云ふ事は、学科の成績以外に君が学生であり乍ら、頗る活動家であつたからで、其後本科に 進んでからは、井ヒ君は文学科に私は理科に行つた為め科は異つて居たが、君が創意的の見識と読書から得 た豊富な知識と其弁とは、自ら学生間の一異彩であつた。﹂ 第二級では、円∼が﹁ニノ組﹂、北条が﹁三ノ組﹂であった。円了は首席を争う成績で予備門を卒業してい る。同期の卒業生数は、、五名であったから、創立間もない東京大学において、r備門を経て大学へ進むことは難 関であったと考えられる。 、一文学部哲学科時代の円了 明治一四年九月、円了は東京大学文学部哲学科に入学した。哲学科は独立して第一学科となったばかりで︹第 ..学科は政治学及理財学科、第..、学科は和漢文学科︺、哲学科への人学者は円r、人であった。円了はすでに二 三歳になっていた。予備門の第四学年に、﹁印度史の抄訳﹂﹁親切の話﹂を真宗大谷派︵東本願寺︶の機関誌﹁開 導新聞﹄亘へ発表していたから、自らの思想を著作として世に問う準備ができつつあったと考えられる。思想 の表明が本格化するのは、人学したこの年の一〇月からである。 円了の初期思想の形成の場は東京大学であり、その思想は論文にまとめて雑誌に掲載された。ここで、学年別 の講義とその参考図書と、発表された論文を比較してまとめておきたい,大学の講義については、円rの試業と 東京大学法理文三学一覧および東京大学年報の資料にもとついて執筆されたものが﹃東洋大学百年史 通史編 1﹄︵四..一∼四五頁︶に掲載されている”また、論文については﹁井ヒ円.﹂関係文献年表﹄︵東洋大学井上円了研究 会第三部会、、九八七年︶がある。第1表の比較表はこの、一つから作成した。 87 1‘」 の初期田itL
第 学 イ1三 明 治 四 年 度 四 年 ノL 月 ∼ 第 1 表 井上円了の文学部時代の講義と論文 五年八11︶
一
講 義
和文学ー講師は田中稲城。﹁制度通﹄を川いて目本の占 今の制度と中国の制度の.班、それに﹃語彙別記﹄﹃語ノ .某,を川いて国語の要言と辞の活川。 漢文学ー講師は信夫※.﹃史記㍑と月..回の漢詩の作詩. 史学ー講師は井上哲次郎。英国史、仏国史、ギゾー﹃欧 洲開化史, 英文学 講師はW・A・ホートン、 英吉利語︵英語︶ 講師は外山正一。エマーソン﹃カル チャア・アンド・ビヘイビア﹄、デクインシー﹃チャール ズ・ラムい、マコレー一英国憲法史い、 論理学講師はE・F・フェノロサ.エヴェレット﹃論 川仁汚子一; 王ノ [﹁ 論理学ー講師は﹁頭清臣。ゼボンロ論理学‘など 法学通論 講師は穂積陳重。 独逸語︵ドイツ語︶ー講師はR・レーマン.@
@
@∧燗文 .山
﹁﹂客問答﹂︵.四年一〇月∼..月、﹁開導新聞﹄に連 載︶ ﹁耶蘇教防禦論﹂︵、五年一月、﹃開導新聞いに連載︶ ﹁尭舜ハ孔教ノ偶像ナル所以ヲ論ス﹂︵、五年六月、、東 洋学芸雑誌﹄︶ ﹁僧侶教育法﹂︵一五年八月、﹃開導新聞﹄に連載︶ ﹁宗乱因山﹂︵.五年八月、﹃仏教演説集誌じ 第..学年︵明治 講 ∫ll 年 度 義 1il 年 九 Jj ∼ 六年八月︶ ー■−論 刻
東洋哲学ー講師はルL哲次郎,東洋哲学史、 ﹁宗教篇﹂︹ κ年 O月∼ 月、い開導新聞Lに連載︶ 88﹁西洋哲学−講伽引エノ。サ・スペ・ザいバ態償モー﹁牧都宇応こう三川年d川一東洋学芸雑誌﹄︶﹂
ーガン 、古代社会﹄を参考に社会学を講義し、シュベグラ ー㍉哲学史﹄︵英語抄本︶を教科書として近世哲学史やカン ト哲学を講義 西洋哲学 講師は外山止,、ペイン、心理学﹄、カーペ ンター﹃精神生理学﹄、スペンサー﹃哲学原理総論﹄などを 一 用いて心理学を講義 史学 講師は外山正二.歴史の研究のために、社会学の 一原理をはじめ、社会の進化する順序を講義 英文学 講師は外川正一.シェイクスピア ハムレッ ト﹂、エマーソン︰シヴィリゼイション・アート、エロー クェンス・アンド・ブックス﹄、マコーレー﹃フレデリッ ク・ザ・グレイト﹂などを川いた, 和文学 講師は木村正辞、 和文学−講師は飯旧武郷 、大鏡い、﹃増鏡﹄、﹁伊勢物 語﹄、パ﹂佐日記﹄. 漢文学−講師は信夫禁,唐家八家分﹁ 英文学−講師はW・D・コックス シェイクスピア﹁キ ﹁ング゜リア三 一 独逸語−講師は0・ゼン ﹁日本人ノ創造力二乏キ所以井二之ヲ救フノ術ヲ論ス﹂ (, 「ハ年五月、 口新潟新聞﹂︶ ﹁黄石公ハ鬼物ニアラズ又隠君子ニアラザルヲ論ズ﹂二 Lハ拒−五月、 □い果洋︰学叶ム雑活心﹄︶ ・ ﹁読日本外史﹂︵一六年一〇月、﹃東洋学芸雑誌﹄︶ 89 ll Ii #「Jtt《111’,1‘自治一六年度
義 六年 九 月 ∼ ヒ年八月︶﹂
‘ 講 論 文丁¶闇は島田董支那哲割 ﹁排孟論﹂︵一ヒ竺月三月﹃東洋学芸雑誌﹄に連載︶
印度哲学ー講師は原坦山。﹃輔教編﹄、﹃大乗起信論﹄、 ﹁哲学要領﹂︵一七年四月・六月、ゴ令知会雑誌﹄に連載︶ 印度哲学ー講師は吉谷覚寿。﹃八宗綱要﹄。 ﹁加藤先生ノ、大疑問二答ヘントス﹂︵一ヒ年六月、﹃東 西洋哲学−講師はフェノロサ.ウォーレスの英訳本を使 洋学芸雑誌﹄︶ 川して、カント哲学からへーゲル哲学への展開、ヘーゲル ﹁読萄子﹂︵一七年八月、﹃学芸志林三 の論理学を講義。 生理学ー講師は永松東海、 一 和文学ー講師は木村正辞。万葉集字止口仮字用格を講義。 和文学ー講師は大沢清臣。﹃徒然草﹄ 漢文学 講師は.、一島毅。﹃左伝﹄、﹃旬子﹄、﹃揚チ﹄、﹃法 言、などの輪読。T L匡llll﹂ 論 文
東洋哲学ー印度哲学。講師は原坦山。﹁大乗起信論﹄、 ﹃維摩経﹄。講師は吉谷覚寿.﹃天台四教儀﹄。 東洋哲学 支那哲学。講師は島田重礼。﹃荘r﹄。 西洋哲学ー心理学、講師は外山正一、ダーウィン、スペ ンサー、ミルなどの著作を教科書にした。 ﹁哲学要領﹂︵.七年九11∼一八年五月、﹃︿−・知会雑誌﹄ に連載して、その後も継続、一八年六月から﹃教学論集﹄ に転載︶ ﹁余か疑団何れの日にか解けんー耶蘇教を排するは理論 にあるか﹂︵一ヒ年一〇月∼一八年八月、﹃明教新誌㏄に連﹂ 90西洋哲学−道義学・審美学、講師はフェノロサ H・シ ジビック﹃道義学﹄やカントの著作を教科書とし、基礎を 純正哲学に置いて、へーゲル哲学からスペンサー哲学にも とついて、道義哲学・政治哲学・審美哲学・宗教哲学を講 義。 漢文学 講師は中村正直。易論。 作文 英語 独逸語 卒業論文 ‘ − ー‘ー‘ ー ﹂
載で鷺紗憂藁︵↓鯉ゴ鴨弐㍑詫置
、﹃東洋学芸雑誌﹄︶ ﹁真宗僧侶教育法ヲ論ス﹂︵一八年四月、﹃令知会雑誌﹄︶ ﹁易ヲ論ス﹂︵一八年七月・八月、﹃学芸志林﹄︶ ー一 円了の大学時代の講義ノートは、現在、東洋大学の井上円了記念学術センターに保存されている︵⑩。その数 は三〇冊であるが、表紙などに記されている文字から判別すると、第.学年は、.一冊、第二学年は四冊、第三学年 は四冊、第四学年は四冊であるが、不詳が、五冊ある︹前記の学年別の講義内容と異なるものもある︺。 文学部時代の円了の成績は、卒業後の学位授与式で﹁総代﹂となったことから、極めて優秀であったと考えら れる。そのことが文部省への公文書である﹁東京大学第四年報﹄に記されている。申報者は木村正辞で、木村は 幕末・明治の和漢文学者で、とくに﹁万葉集﹂の研究者として著名であった..円rは第.二学年に日本占代法律と 和文学の講義を受けたが、木村はその成績について記している︹旦。 ﹁此学年中小官ヲシテ殊二満足セシメタルハ法学四年生ニテハ奥田義人哲学三年生ニテハ井上円了ノ両人 タリ占典科ニテハ関根正直.戸沢盛定常二高点ヲ占メタリ﹂ 9] ±1 lF]∫『の初1咀「tLi zL CJ)この木村の申報の他、教員側からの円了の評価はこれまで分からなかった。ところが、数年前に慶応大学名誉 教授の小泉仰氏が、円了の第四学年の漢文学の教授であった中村正直の﹁敬宇[乗﹄︹敬宇は号︺という日記を 分析して、中村が川∼の将来性を高く評価していたことが明らかになった﹁12︺。 中村正直は江.戸末期に徳川幕府の朱子学者になったが、同時に洋学の必要性をヒ張した学者で、幕府の英国留 学生派遣に際して一二名の取締役になって、慶応.=一八六六︶年から二年余りロンドンに滞在した。明治維新 のときに帰国し、福沢諭吉の﹁学問のすすめ﹄とともにベストセラーとなったサムエル・スマイルズの﹁西国立 志編﹄を翻訳し、さらにミルのパn由之理⊂を翻訳して出版した.これによって、近代日本の初期に西洋の精 神・思想を紹介し新しい時代の潮流を作り上げる指導者となったが、中村は明治六年に森有礼、福沢諭吉、西村 茂樹、西周、加藤弘之などの洋学者と﹁明六社﹂という学術会議を作り、近代に始まった日本の学問の基礎を形 成した.人である、東京大学では創立時の明治.○年から教員となり、一四年に教授に昇格し、漢学を担当し た。一九年一、月に元老院議官となって大学をやめ、のちに文学博上、貴族院議員となったが、、一四年二月に逝去 した. 円、Jの長岡時代の読書記録によると、福沢諭吉の﹁学問のすすめ﹄とともに中村正直訳の﹁西国立志編﹄があ る。両書は当時の青年に思想的に大きな影響を与えたものである。大学四年生になって、円了はその中村から講 義を受けたが、後年にそのことを回顧している︹亘。 ﹁私が帝国人学︹円.ーの在学中は東京大学︺に居りました時は、哲学部は私一人で、其にト人以ヒの講師 でしたから、講義といふよりも寧ろ唯の話で課業を済ました事がいくらも有りました、中村敬宇先生は易を 受持つて居られましたが、先生は其の名の如く正直で今聖入です、其れ故講義をする学問上の教師としては 92
不適当でした、それで此の先生の教場では、例の通り、一人指向ひですから、猶更授業にはなりませぬ、先生 は﹁私は酒が好きで何時も葡萄酒を飲むが、西洋の商標の貼つてあるのは信用することが出来るが、口本の 商標の貼つてあるのはドーモ不正直で良くない﹂などの雑話は折々川てくる、之が畢克易の講義なのです、 こんな風でしたから先生と私との問は普通の師弟の関係以ヒに親密でした﹂ 中村が講義以外に円了を相手に西洋の珍しいことや面白いことを語ったことは、欧米の先進諸国の生活・学問 の体験者が数えるぐらいであった当時では咀11亜なものであり、川.ーの知的好奇心を刺激したことと考えられる、 中村の﹃敬宇日乗﹄という日記を分析した小泉氏は、﹁ともかく﹁敬宇日乗﹄の中で東京大学の学生のうち、大 学で教えたn付のところに名前を几帳面に記録した学生は、井上圓了しかいない。﹂と指摘している。さきの円 .﹂の川顧に﹁師弟の関係以﹂の親密さ﹂があったということと照応する また、同氏は日記に、中村が﹁申報﹂ ︹東京大学から文部省への年報︺として書いた文章を読み込んで、円rより一年先輩で和漢文学科の学生・棚橋 一郎の卒業論文を中村が評価したあとに、﹁易経論語を教えた学生たちについて、いずれも皆勤勉であって鋭い 質問をするので、自分も教えるための準備を十分にしておかないと、そうした質問には対応していけない﹂と中 村が告白していることを明らかにし、﹁圓.ーの鋭い質問に屡々七立ち往生した敬宇を想像することができる﹂と小 泉氏はいう。棚橋は円了の哲学館などの教育事業のよき協力者で、私立郁文館の創立者でもある。小泉氏は結論 として﹁健康状態のすぐれなかった敬宇にとって、特別飛び抜けた秀オの井ヒ圓∼と棚橋,郎とが一緒のクラス ではなかったとしても敬宇の講義に出席していたことは、緊張を強いられたこととはいえ、また楽しみであった だろうと推察される﹂と述べている. このような円∼への評価は、学業だけに限らず、著作にもあった.円.ーの著作活動は文学部時代から始まると 93 円 別’1!・川fy
述べたが、その第一学年に円了が発表した﹁尭舜ハ孔教ノ偶像ナル所以ヲ論ス﹂は四〇〇字に換算して九枚余り の小論である.この小論で円.ーは、中国における徳治の象徴と..∩われる尭舜の時代が、後代において孔∼や孟∼ によって理想像として思想的に作り上げられたことを証明しようとした。この小論に対して、高い評価を与えた のが、助教授に就任して円.ーを教育し始めた井ヒ哲次郎である。哲次郎︹ロゲを巽軒という︺は円rの小論の末尾 にその評価を記している︹14︶。 ﹁井ヒ巽軒日、余ガ東洋哲学史儒学起原ノ処二、尭舜ハ孔孟ガ暁々スル程ノ大聖人ニアラサルコトヲ論シ タルガ、今此篇ヲ読ムニ、亦其意アリ、而シテ其﹁尭舜ハ孔教ノ偶像ナリ﹂ト云フガ如キハ、実二翻案ノ妙 アリ、読者勿々二看過スル勿レ﹂ 円.ーはこの小論において批判的な論述を展開しているが、哲次郎はその着想のよさを評価したのである。この 論文は﹃東洋学芸雑誌﹄という総合学術雑誌に掲載されたものである。それまでの円了の著作は、東本願寺教団 の機関誌に掲載されただけであったから、この小論が学術雑誌に掲載されたことは円.ーの思想をより一般的な次 元へと発展させるきっかけをつくったものと考えられる。 円了の初期思想は東京大学のr備門から学部の時代へ人ってより明確になる.学部時代の円.﹂の学生生活はす でに述べたように、教員からその能力の高さを評価されているが、具体的にはどうだったのだろうか。阪谷芳郎 は円∼と同じ文学部の一年先輩である.阪谷は卒業後に大蔵省に人り、同省の・E計局長・総務長官・大蔵大臣を 歴任するなど、近代口本国家の経済財政政策を担当し、その後に東京市長や貴族院議員となった.、阪谷は学部時 代の円.ーについて語っている︵15︶。 ﹁円了博トと私とは今の帝国大学がまだ一ツ橋附近にあつた時代からの知友で勿論前にも話した通り博﹂ 94
は哲学科で私は政治経済科であつたが同じ寄宿舎に起臥して居た所より博士と私とは親密であつた。概して 言ふと博Lは学生時代から非凡のオ能をもつた人で凡ての点に於て衆人に卓越した所があつた。又一面には 非常な着眼力の鋭敏な人で其時代に日本で始めての催ふしであつた学生の運動会、演説会などには種々の技 巧を凝らして衆人をアッと謂はしたこともあり又演説も仲々の雄弁で学生の嘱望する所であつた。其外学生 の団体でやる事業にはいつも参謀として諸般の事務を執り敏活のオを振つて居られた。斯様に博士の学生時 代は.而にはオ気溌渕な所があつたが又他面には大の読書家であつた。騒々しい寄宿舎に居ても独り沈黙を 守りて読書に耽つたり、図書館などにてはいつも博士の姿を見うけた。普通の人は沈黙家、読書家であると 一種の性癖があつて変人とか奇人とかの風評を受けるものであるが博士にはそんな態度がなかった。至つて 温和な社交家で学生の談話会にはいつも話の中心となつた人であつた。大学在学中には博士の外にも沢山の 知友が居たが私の脳裡に一番印象の深かつたのは博上であつた。﹂ 阪谷は学部時代の円.ーをこのように多面的に語っている。円rが﹁着眼力の鋭敏さ﹂もっていたことと、さら に﹁大の読書家﹂であったことは、さきの教員の高い評価を裏付けるものであろう。 .、、円了の初期思想の著作と哲学の研究 後述するように、円了の初期思想を表したヒ要著作は大学時代の末年から始まる。ここでははじめに初期の仁 要著作をみておこう。第2表は初期のヒ要著作とその文字数︵概数︶をまとめたものである。それぞれの著作 は、前編.後編、初編・続編・続々編、第、編・第、一編・第二、編などと編で区切られているものが多い.、文字数 は合計数であるが、飛躍的に増加している、筆者が初期論文として取りヒげた大学の第.学年の﹁主客問答﹂は 95 1︸ F[1 ∫ a)kL|tl|‘n tsl
第2表井上円了の初期の主要著作の文字数 字数 76.000 221,000 30DOO 143,000 1 400’テ弓奥Z/ 195 552 74 357
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40,000 83ρ00 211.OOO 36,000 書 名 ‘一 哲”iζ:要宣n 編数 2 3 0δ 1 ー ワ] qJ 1 真∫1{1金針 ¶1学一夕話r通燃心理学
:’已・艮}け商要 「倫理通論 イム孝欠i舌ri命 [哲学道中記 文字数と400字換算数は概数である ?1 四〇〇字に換算して一..二枚、未完ではあるが第二学年の﹁宗教 篇﹂も四.,枚で、初期論文のなかでこの..論文は文字数が多 く、他は二〇枚以ドの小論である。 第2表の初期のド要著作をみると、その文字数が五〇〇枚を 超えているのは﹃真理金針﹄﹃仏教活論﹄であり、つぎが三〇 〇枚以ヒのゴ通信教授 心理学﹄而︸、一、○○枚前後は[、哲学要 領﹄可倫理通論﹄、一〇〇枚未満が﹁心理摘要﹄﹁哲学道中記﹄ ︵E﹁哲学一夕話﹂である。因みに、これらの八冊の合計の枚 数は四〇〇字詰め原稿用紙にして.、○○○枚を優に超えてい る。円.Jと同じく哲学科の二年先輩の三宅雪嶺は、のちに政教 社を結成して雑誌パー1本人﹄を創刊しともに活動し、近代日本 の思想界に大きな影響を与えたが、その三宅は円了の初期の著 作について、﹁即ち在学中充分に火薬を顕め、︰竿業後弾丸を発射した﹂︹18︶ものと語っている、 円.﹂の旺盛な著作活動がいつごろ、どのように行われたのか。それを知るためにまとめたものが第3表である が、ここでは刊行年月順にビ要著作を配列した.これをみると、﹁哲学要領 前編﹄は大学の第.、.学年に雑誌へ 発表することから始まり、これについで第四学年の直後から﹃真理金針 初編﹄︹この題名は単行本化されたと きに付けられたもので、原題は﹁余が疑団何れの日にか解けん﹂﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂である︺を 新聞へ発表している。この.、つは連載の論文であるが、その詳細は後述する。この連載とともに、﹃通信教授 96第3表井上円了の初期の主要著作(明治17年以降) 哲学要領 真理金針 真理金針 1 通信教授
[
. 真理金針L哲学一郷第・編
哲学・夕話 第二編 仏教活論 序論 倫理通論 第一 [常一・偏第一i tni 哲学要領 後編 倫理通論 第’ 哲学道中記 [心理編要一 仏教活論 本論第…編 1 破邪活論 仏教活論 本論第:編 顕正活論 織’…のFIJ t’J: ”1’月二「緻櫟㌫元19年8月’ L38・…
雑誌は17年10月∼18年9月,、 87.000慰慧::19年,月⊥
1 80.000 単行本は19{f−11Jj 1欝罐; 蒜㌫単行E…・
雑誌は19年7月∼19年11月,, 54,000 単行本は20年1月 19年7月 &000、19年ll月 1⊇
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igl’:,,’11iz 慧
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20年4月 44,000 204…6月 36.000 20iki 9月 40,000 20年12月 23年9月 400字換算 95 217 200 357 135 ・。?MW㌘㎜m釦㎜品
7 0 31
注:年IJ一は明治。文字数と400字換算数は概数である。 文字数は初版のもの。ただし、『通信教授 心理学』は初版より再版の方 が大幅に多いために再版とした,, 97 #1川∫の初期脱想.その心理学﹄という講義録が月刊で発表され、それが終了しないうちに、﹁哲学一夕話﹄の第一編と第二編が刊行さ れている。これが一九年までのことで、.一〇年には続々と単行本が発表される。それを列挙すると、﹃仏教活論 序論﹄﹁倫理通論 第一﹄﹃哲学一夕話 第三編﹄﹃哲学要領 後編﹄﹁倫理通論 第二﹄﹃哲学道中記﹄﹃心理摘 要﹄﹃仏教活論 本論第一 破邪活論﹄の八冊が刊行されている.いずれも四〇〇字詰め原稿用紙で一冊あたり .OO枚前後であるが、多岐にわたる学問分野を並行的に執筆するだけの能力と意欲が円rにあったことを示し ている。このような著作活動が可能になったのは、大学在学中の積み重ねがあったからで、さきに紹介した三宅 の﹁在学中充分に火薬を填め、卒業後弾丸を発射した﹂という形容通りであろう。在学中のいつ頃から、円∼の 学究的活動がはじまったのか、そのことについてつぎに述べたい。 筆者はすでに文学部の講義と論文について第1表にまとめたが、円了の在学中の論文の流れには第二学年と第 三学年との間に、つのエポックがある。前期の論文として、第一学年に﹁主客問答﹂があり、第.一学年の﹁宗教 篇﹂は五講五。,段の構成で執筆を開始したが、一〇回の連載で終わり、本文は第ヒ回の﹁第.講緒論 第一、、段我 が教法の敵手﹂までであり、残り三回は目次の一覧である。この論文が未完で終わった事情は分からない。しか し、この時期から円rが取り組んだものは論文執筆ではなく、西洋哲学の研究であり、そのことを物語る資料が ある。 円了が東本願寺の東京留学生の第一号であることはすでに述べたが、同教団はそれ以前に海外へ留学生を派遣 していた。南条文雄と笠原研寿の..人である。南条と笠原は留学前に、教団内に大・中・小の教校を設けるため に教師教校と育英教校を新設するという新制度の企画立案した人物である。その後、明治九年六月に二人は極秘 のうちに出国し、イギリスのオックスフォード大学の宗教学者であるマックス・ミュラーの指導により、梵語 98
︵サンスクリット︶による仏教経典の研究に従事していた、ところが、笠原は卯田学中に病気を患い、一五年一一月 、一〇日に帰国した︹19︶。その笠原から南条へ送られた帰国直後の書簡があり、後年に南条はその書簡について記 している︵20︶。笠原が帰国した当時、東本願寺の東京留学生は円了に続いて増加していた。 ﹁君が新橋へ着かれた時、大谷派から東京大学へ留学して居られた人々が、打ち揃つて迎ひに出られたと いふ⋮⋮其通知の終りに、かう書いてありました. 因に当時英学廷日生は左の如し、育英校の生残りの類なり。 越後慈光寺井上圓了、尾張徳永満之、大阪徳龍寺澤邊昌丸、越前柳祐久、これ丈は大学にあり。井上を上 とする、奇なる人なり.今川覚神︵拾翠弟︶同人舎に在り、今月卒業するなり。柳祐信、慶応義塾。これ 等の人々に頻りに所謂哲学を学ばせてあり..ミルとかスペンサーとか云つて、ピヨコくして居るは、畢 克どうする図りか知らん。 理屈好きの笠原君が、かういふ手紙をk日いたのは興味のあることです。私はこれを読んで偉い人達が出来 るものと思つてゐました.﹂ 南条によれば、笠原は﹁哲学が好きで非常に談論に達者であつた﹂という。その哲学好きの笠原が帰国して驚 いたのが、円了の西洋哲学への強い傾倒であった、笠原が書簡をオックスフォード大学にいる南条へ向けて出し た時期は、円了の第二学年の第一学期であり、この学年から円了は西洋哲学を本格的に学び始めている。フェノ ロサからは、スペンサー﹃世態学﹄、モーガン﹃古代社会﹄を参考にした社会学や、シュベグラー﹃哲学史﹄︵英語 抄本︶を教科書とした近世哲学史やカント哲学を受講した。もう一人の講師の外山正一からは、ペイン﹃心理 学﹄、カーペンター﹁精神牛理学﹄、スペンサー﹁哲学原理総論﹄による心理学を受講している。そして、つぎの第 99±1[]1 「)♪”kU Lft桔
三学年になって、フェノロサから、カント哲学からヘーゲル哲学を、またウォーレスの英訳本を使用したヘーゲ ルの論理学を受講している。当時の講師陣を検討すれば、円了の哲学への傾倒に、フェノロサが大きな役割を果 たしていると考えられる︵型。 当時の哲学は論理学、心理学、倫理学をく14む広い意味のものであるが、円.ーの哲学研究に没頭した足跡の一つ は、﹁明治卜六年秋 稿録 文三年生 井上円r﹂︵東洋大学附属図書館所蔵︶というノートでうかがい知ること ができる。この西洋紙のノートは表題のように、明治一六年秋、文学部第.、年生より書き始められたものと考え られる。この﹁稿録﹂については、すでに喜多川豊宇氏によって﹁井上円了英文稿録解﹂として翻刻がなされ ︹22︶、それをもとにして茅野良男氏が﹁井上円了の哲学史研究について﹂︵23︸と題してノートの内容を分析し、さ らに本号に掲載した清水乞氏の﹁井上円了における近代西洋哲学研究の原点ー﹁明治十六年秋 稿録﹂とその展 開﹂︵24︶という論文では、﹁稿録﹂と初期の著作との関係が究明されている。さきに﹁稿録﹂を分析した茅野氏 は、ほとんどが英語文献の抜き書きである川rのノートを通して、﹁、○○以ヒ前のn本人の英語の読解力のす ごさを知った﹂といい、その分析した内容を記している。 ﹁研究ノートとして、哲学、般・心理学・論理学・倫理学・教育・その他の項目で二..○種以﹂の書名、 各種の哲学史から八〇名以上の哲学者が挙げられ、実際の抜粋は哲学史・哲学・道徳哲学・心理学の著作が ほとんどである。書名で哲学史を追うと、F・ボウエンの近代哲学史、フリントの哲学史、ヘンリーの哲学 史概要、ランゲの唯物論史、リューイスの列伝体哲学史と哲学史、シュヴェーグラーの哲学史、スティーヴ ンの英国思想史、ユーバヴェークの哲学史であり、図書番号らしい符号入りですべて英訳か英米書である。 またA・ベインの﹃精神と道徳の科学﹄の抜粋と考えられる部分は注意すべき箇所である。しかしとりわけ 100
U立つのは、A・シュヴェーグラーの哲学史の活川である。﹂ つぎの清水氏は、この﹁稿録﹂と第三学年の中期にあたる一ヒ年一月∼二月に発表された﹁排孟論﹂を比較し た結果、この﹁稿録﹂が﹁大学時代における円.﹂の西洋哲学説に関する知識の源泉であると同時に、広く哲学・ 思想の歴史観を確立する原点であったと確信﹂したと述べている。そして、清水氏は﹁稿録﹂が99・9%が英文 であり、その英文文献の主要な抜き書きを主題別につぎのように分類している。 A 巻頭部分の仁題 一、0り℃6ロひ巽の呈臣け零日巳豆①亀勺巨oσo℃巨勺①口﹂↓庁①ご呉8≦①げ言ひ訂百隅ニニ<<≦−<一一等。 二、廿ヨ6°・↑6σqσq而 ひ露コ6°・6Ω昂ω一8の孟了︵忌①日⊆°・︶に関する記述。 、、一、近代西洋哲学思想家の著作から﹁良心﹂︵8房⇔ζひ色を中心とする道徳の規準に関する記述。 四、ζ=目身の=書告昌△H葺竺品opO6を中心とする﹁習慣智力論﹂。 11、°o合≦ooQ言吟哲学史英語訳の占代の部分。 六、<σ冨5の哲学辞典からの運命︵晋゜−旨ぺ︶の項。 七、哲学:心理学・物理学等の概念に関する諸説。 八、哲学と理学との比較に関する記述。 九、宗教と理学.一 B 末尾部分の主題 一、宗教に関する諸説。 .一、記号・著者・書名のリスト. 10111 Fり 」 の3J)興月Ll!坦‘一そ〔t’)
二. A中国哲学史。 四、﹀白智ぎ∋69合而庄。。8Qo完茎88蔓 κ、中国哲学史。 Lハ、潜在音心識∧醐・ば9①み已叶已コσq° 七、﹃日本外史﹄の評論︵未完︶。 この﹁稿録﹂の抜き書きは、清水氏の論文によって、その後の著作﹃哲学要領﹄﹁排孟論﹂﹁倫理通論﹄﹁心理 摘要﹄﹃妖怪玄談﹄などに生かされていることが詳細にわたって証明されている.・円rの読書については、同級 生の北条時敬、一年先輩の阪谷芳郎の談話をすでに紹介したが、﹁騒々しい寄宿舎に居ても独り沈黙を守りて読 書に耽つたり、図書館などにてはいつも博﹂の姿を見うけた﹂と阪谷が述べていたように、﹁大学二、年生から四 年生の円了は西洋哲学による真理の探求、仏教復興のための倫理道徳の研究、心理学による人間性の探求などに 取り組んでいた﹂、と清水氏は指摘する。 このような円了の哲学への強い関心は、明治一ヒ年一月二六日の日本における﹁哲学会﹂の創立の原動力とな った。井ヒ哲次郎が﹁是年、井ヒ圓.﹂主唱して東京大学に哲学会の創立あり。﹂と自身の略年譜に記している通 りである︵25︶。 円.﹂は﹁稿録﹂から数年後に、ベストセラーとなった﹁仏教活論 序論﹄を刊行した。同書では、自己の教育 学習の過程と真理の探求の遍歴を重ねて表現している。仏教、儒教、キリスト教の﹁旧来の諸教諸説は一も真理 として信ずべきものなし﹂として、﹁余がもっぱら力を用いたるは哲学の研究にして、⋮⋮余が十数年来刻苦し て渇望したる真理は、儒仏両教中に存せず、ヤソ教中に存せず、ひとり泰西講ずるところの哲学中にありて存す 102
るを知る。﹂︵26︶と述べているのは、大学時代の経験を記しているのである。 このようにして、円.﹂の初期思想は大学時代に西洋哲学を中心とした西洋の諸学を受容することで発展的に形 成されたものである。その成果の最初のものが西洋思想と中国思想を比較検討した﹁排孟論﹂であり、第三学年 の一ヒ年一月∼、一月に﹃東洋学芸雑誌﹄に発表している︵比較論の分析は清水氏の論文を参照されたい︶。 四 ﹁哲学要領﹂と﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂の連載論文 第三学年に執筆した﹁哲学要領﹂は、さきの﹁稿録﹂に記された円了の東西の哲学研究の成果であり、一ヒ年 四月、一九日に創刊された月刊誌﹃A−−知会雑誌﹄に連載の形で発表されたものである。この﹁哲学要領﹂は連載終 了後に﹃哲学要領 前編﹄にまとめて単行本で刊行されたが、哲学史を研究された柴田隆行氏は同書について ﹁本書は、一八八⊥ハ年に令知会から発行された﹂︵包と記している。年号に直すと、発行年は明治一九年である。 これは単行本を指しており、その前に雑誌論文として連載されたことは紹介されていない。雑誌論文の刊行形態 と、単行本とする際の加除を調査してまとめたものが第4表の﹁哲学要領 前編﹄の書誌事項である。雑誌論文 の﹃哲学要領﹄は一七年四月から一九年八月まで、﹃令知会雑誌﹂の、号から、一九号の間に一五回掲載された, 連載が終了するまで一年四ヶ月かかっている。大学の第三学年、第四学年、卒業後にわたって執筆して掲載され たものである。この論文はそのまま﹃教学論集﹄に転載されている.﹁教学論集﹄をみると、一八年六月から、一 〇年一月まで、一八編から三七編までの間に同じく一五回掲載されている、 雑誌論文から単行本にまとめる際に、円∼は加除などを行っている。削除されたものを雑誌論文の目次で示す と、削除されたものは﹁第二段 東洋哲学 第五節 影響﹂﹁第三段 支那哲学 第五節 利害﹂の二項目、見 103 tl l‘IJしアmトリlt こ1旭] てcJ)
第4表 『哲学要領前編』の書誌事項 雑誌:「令 雑誌「教 知会雑誌1 学論集11 編
4と
雑、r志の目次 18/06/05 第 ・[錐 哲』ノ錐:糸者‘論 18編 第’節 哲学義解 第:節哲学範囲 第 ・1節 iil’ t}i:ll的 第1几1節 寸斤ノ}:・疑問 第’1:節 ¶「ノ了:学:i辰 第六節 哲学分類 17/09/「30 18,08’05 6号 20編 17/10!31 18/10,05 7号 22編 17/ll/30 8号 17/12f21 削除・変更さ れた項目 「if行本 1哲ノξ:要領 前編』 序言 18/07〆05 第:段 東洋哲学 19編 第 ・負tj 総↓,論 第 :即 董重類 第 {節 性質 第四負行 rllt}‘i一 第h:節 景多響タ 第 :拷∼ 支那t’i’”)ft 第 ・即 史論 第 :艮P 上ヒ考’ 第 三即 rfL老 第四節 盛衰 第1]:負『 利害 第四[生 印度哲♪デ: 第 ・即 概論 第 :節 ヤk質 第 三節 董重類 第四節 婆累κ門 第∫1:節 釈迦教 第∫llモ生 西洋哲ゾ;: 第 ・節 史n命 第 1節 分類 第 :節 t生質 第四節 気壊t 名の変更 名の変更 「性質⊥気風」 で収録 第六段 希臓哲学 第一一総1論 第 輻儂 糸者‘論 第’節 義解 第一二節 範囲 第三節 目的 第四節 疑問 第f,1節 ∼)fti派 第六節 iJJ9類 第ニモ生 東洋哲学 第ヒ節 史論 第八節 手重類 第九節 寸生質』 第十節 倉套↑青 ‘第一三段 シナ哲学 第十’節 史論 第十二節 ⊥七考’ 第十 :節 イL老 第十四節 盛衰 第四段 インド哲学 第十κ節 史論 第十六節 比考 第・卜七節 種類 第十八節 婆羅教 第十九節 釈迦教 第五段 西洋哲’子 第二卜節 史論 第.1・1’ ・負行 分類 第一,卜 :負5 ↑生質 第六段 ギリシア哲学 第・、 1049号 18,・Ol,21 10号 18/02’21 11弓・ 26編 24編 第 第 第 . ?1 19/OlO5 第じ 25編 第 第 第 21 一. P9〆02、05 第
18b,。1已吋
勝 、編「第八節麟i学派
一一
第一節起源 第一1節 発達 第三節学派 第じ段希膿哲学第二組織
第一節 「アイオニック」学派
第二負『i 「イタリ・ソク」学派
第二節 「エリヤチック」学派
ノブ’ ノttt 第四節論弁学派 第五節 「ソクラチース」学派
第六節 「プラトー」学派
第七節 「アリストートル」学派
ビキ ヤ’.tt 第九節以彼占羅学派 七,、佃L。《:節、籠:;;:派 第一三結論 3。tW 1第一節結果 第二節批評 19/08、/05 第九段 近世哲学第一総論
32編 第一節 起源 第二節 発達 第三節学派 19/10/05(第卜段 近世哲学第二組織
34編 第一節 「ベーコン」氏学派
第二節 「デカーツ」氏学派
第三節 「スピノザ」氏学派
一
−
1 第:1’三節起源 1 第iI・四節 発達 第1 1−一 bl節学派 第七段 ギリシア哲学 第一:組織 第L i’六節 イオニア学派
第:|・七節 イタリア学派
‘ 第:1’八節 エレア学派
ー
第:1一九節 ,;危弁学派 第:1’節 ソクラテス学派
第:1−・節 プラトン学派
第:1’二節 アリスト テレス学派 第:卜三節 ストア学派
第:卜四節 エピクロ ス学派 第三卜五節 懐疑学派 第八段 ギリシア哲学 第三結論 第.川’六節 結果 第:1一ヒ節批評 第九段近Llt哲学 第一総論 第 ヨー八節 起源 第:卜九節 発達 第四卜節 学派 第.卜段 近世哲学 第二組織 第四1−’節 べ一コン 氏学派 第四1一二節 デカルト 氏学派 第四トニ節 スピノザ 氏学派 105 ±ilitlrの初則i三1轡そc」・19・05’21 19・ILO5 26り』 35編 19・06/21 19,12/05 27)J’ 36編 19,’08「「21 29U・ 20.OlO5 37編 第四節 第∫1:節 第六節 第L節 第八節 第九節 第1節 「ロック」氏 学派 「ライプニッツ」 氏学派 「ベルケレー」 氏学派 「ヒューム」氏 学派 「リー|□氏 学派 「カント」氏 学派 「フィフテー」 氏学派 第i・一節 「セーリング」 氏学派 第卜:節 「ヘーゲル」 氏学派 ・lsi l’:負∬ 「ノ、ミノレトン 氏学派 第1・四負ti 「クーザ’ン」 氏学派 第 十1[ Atj 「 ミ ノレ」 氏 学派 第1’六節 「スペンセル」 氏学派 第卜・段 近itf:哲学 第.三結論 第・節 結果 第1節 批評 加|竿 舞3 lt4 i ’ vq firj ロック;k 学派 第四i’Itl節 ライプニ ッツ氏学派 第四1’六節 バークリ ー氏学派 第pql・L節 ヒューム 氏学派 第IJq l・八負∬ リードik 学派 第四1’九節 カント氏 学派
㎏:∴フ璽
グ氏学派 第∫11t:節ヘーゲル 氏学派 第ti:}’ :負衡 ノ、ミ ノレ ト ン氏学:派 第f’/1』pq節 クーザン 氏学派 第h:1’fE:節 コント氏 学派 第1【:1・ノV負β ミ)レIL 学派 第∫【:トビ節 スペンサ ー氏学派 第.1・.・段 近世哲学 第{結論 第1[1・八節 結果 翁δ i1: 1−JL負行 打ヒ占1ド 」 注 刊行Hの年号は明治、年/月/日, は『井ヒ円r選集』第一’巻所収のもの。 変更は単行本からみたものである。 雑誌の目次は原文のもの、、単行本の目次 106出しの変更は﹁第四段 印度哲学 第一節 概論﹂﹁第四段 印度哲学 第二節 性質﹂である。﹁第五段 西洋 哲学 第二節 性質﹂と﹁第五段 西洋哲学 第四節 気風﹂は単行本において﹁性質﹂の見出しで一つになっ ている。雑誌論文にはなくて、単行本で新設されたのは﹁第十段 近世哲学 第二組織﹂の﹁第五十五節 コン ト氏学派﹂である。このように加除は大幅なものではなく、雑誌論文の内容を基本として単行本が刊行されたと みてよいだろう。著者名は雑誌論文では炸ヒ甫水︵甫水は川ゲ︶、単行本では井ヒ円了に改められている. 円了の初期の主要な著作の一つはこの﹁哲学要領﹂であるが、もう.つは第四学年のはじまりから発表された ﹃真理金針 初編﹄である。この書名は新聞に連載した論文をのちに単行本化する際に付けられたもので、新聞 のはじめの原題は.④﹁余が疑団何れの日にか解けん﹂、.②﹁耶蘇教の畏るべき所以を論ず﹂、③﹁耶蘇教を排する は理論にあるか﹂がそれぞれあって、ざ.と③を並記する回数が多かったが、連載が進むにしたがって③の﹁耶蘇 教を排するは理論にあるか﹂を題名としたものである。この論文の第、回は。七年一〇月一六目の仏教系新聞 ﹃明教新誌﹄に﹁余が疑団何れの日にか解けん﹂という論文名で発表された。著者名は井上甫水である。その書 誌をまとめたものが第5表の﹃真理金針﹄の書誌事項である。この連載論文は、円.﹂の東京大学在学中からはじ まり、卒業後も連続していて、時期的には本稿の範囲を超えるが、初期思想の基本的事項にあたるので、ここで 説明しておきたい。この論文は第一論文が﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂、第二論文が﹁耶蘇教を排するは 実際にあるか﹂、第..,論文が﹁仏教は智力情感両全の宗教なる所以を論ず﹂という,..つの論文から構成されてい る。単行本にするときに、円了は書名を﹃真理金針﹄とし、第.論文を初編、第二論文を続編、第三論文を続々 編とした。 新聞の連載は、第一論文が一七年一〇月一六口から.八年九月一.八日までのおよそ、年間で、その掲載数は四 10711 り∫ ’ノκr!lllj FJI t
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1891 第5表 『真理金針』の書誌事項イ5678901
22222233
18/04/28 18!05/(.)6 18・05’10 18・〆0皇・14 18/07/28 ﹂ピト+ 18〆07.’30 馴ii二iiiii 33 18/08.10 14 18/08、/12 35 18/08、/14﹁
一 T 36 37 38 39 40 41 ・12﹁ ・13 L−・・. 18/08/16 1892 18/08、〆20 1894 18/08..22 1895 L8.・08・2.1 1896 18,・,〔〕8/「30 1899 18/09/02 1900 18/09「2・1 1911 18/09・「26 1912 18/09/28 19. 13[
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﹃破邪新論﹄が明教社から文学士井上甫水著で刊行されたのは同年一一月である。この﹁破邪新論﹄では冒頭の 部分が第一論文の通りではなく、﹁明教新誌﹄の.﹂四九ロゲから一Lκ九号までの四回分を改訂している。﹁破邪 新論﹄では、一七四九号の始めの数行と、一七五九号の終わりの数行を残し、その他の八〇〇〇字ほどの文章を 一一〇〇字余りに縮めて苫き直している。﹃破邪新論﹄の巻末のところは、﹁真理金針 初編﹄と同じで、第.論 文の一九一一号の半分まで使って、これに一行を加えて終わり、一九一二号と一九一三号は削除している。﹁真 理金針 初編﹄の冒頭は﹃破邪新論﹂の改編したものではなく、第,論文のままである。このように、円了の第 一論文、﹃破邪新論﹄、﹃真理金針 初編﹄には相違がある。 71 初期思想の普及の媒体となった新聞・雑誌 連載論文である﹁哲学要領﹂と﹁耶蘇教を排するは理論にあるか﹂は、円了の出世作となった。そのことは第 3表の初期の主要著作の表から分かるが、論文を連載した新聞と雑誌の性格や発行部数などをみると、円了の初 期思想が社会的にどの層に受け人れられたのかを知ることができる。とくに、発行部数は社会的な影響の度合い をはかるものであるが、明治一〇年代の統計資料は探しても容易には見当たらない。筆者は中野目徹氏の﹃政教 社の研究﹄︵...八頁︶によって、﹁官報﹄に掲載された明治、.一年,.一月の﹁新聞紙雑誌配付高﹂を知ることが できた。これによって作成したものが第6表の井上円了関係の新聞・雑誌発行数であるが、円了の論文が掲載さ れた時期ののちのものであるから、参考資料である, はじめに﹁哲学要領﹂を掲載した﹃令知会雑誌﹄をとりあげよう。この雑誌の発行は令知会という会費制の団 体であり、その会員に雑誌が月刊で配付された、この団体は、明治初期の日本の宗教政策の転換に大きなきっか lll 91 [:1 ⊆’)1)〕顯1オと1巳「
第6表井上円了関係の新聞・雑誌発行数 合 計 92 398 27,372 3,012 12.212