自己肯定としての神―「同一性哲学」における絶対
者の把握、そして知的直観
著者
長島 隆
著者別名
Takashi NAGASHIMA
雑誌名
白山哲学
号
48
ページ
57-86
発行年
2014-02-28
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006409/
シェリング﹁同一性哲学﹂において、﹁思惟l存在の同一性﹂という古代以来のテーゼが中心的な問題となる。シェ リングは、このテーゼをすでに﹁超越論哲学﹂の試みの時期から彼の理論展開の基礎においている。1795年の﹁哲 学の原理としての自我について﹂では、﹁存在の原理と認識の原理とが合致﹂ロ︾目忌巴する点があることが指示さ れている。さらに、1796/7年の後にこう名づけられた﹁知識学という観念論の解明のための諸論﹂では、﹁問 われるのは対象と表象一般のこのような同一性が可能であるかどうか﹂倉.F霊巴であるとされる。これはまた﹁対 象と表象との、存在と認識作用との絶対的同一性を説明する﹂︵①三・︶ことが課題であるとも言われている。そして ︵1︶ 自然哲学の前提としてこのテーゼを認識論的に取り上げ、自然l精神の同一性を自然哲学の展開の原理とした。この 原理を根本において、超越論哲学と自然哲学を二つの分肢とする体系を構想することになる。同一性体系である。 この同一性体系をその原理において論争を通じて鍛えて行く時期がまさに同一性哲学期である。この時期において
自己肯定としての神
l﹁同一性哲学﹂における絶対者の把握、そして知的直観
はじめにl課題の設定長島隆
フィヒテとの対決は大きな意味を持ち、﹁絶対者﹂と﹁絶対自我﹂とを区別するシェリングは、自然哲学の時期を通じて、 明確にフィヒテから分離する。この同一性哲学の出発点において﹁自我がすべて﹂であるフィヒテにたいして﹁すべ てが自我﹂を対置することによって宮︾三︾ご巴、はっきりと自らの体系の出発点を明らかにすることになる。そし てそのモデルになるのがスピノザであった。筆者はこの時期を1801年の﹁私の哲学体系の叙述﹂から1806年 ︵2︶ の﹁自然哲学序論へのアフォリスメン﹂、および﹁自然哲学のアフォリスメン﹂に至る時期と考えている。この時期 において、シェリングはすでに哲学はまさに﹁理性の立場﹂において成立し、理性の境位において成立する。その初 めに、シェリングは次のように宣言する。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 本稿で問題としたいのは、同一性哲学期には、この原理そのものがどのようなものとして考えられるのか、またど 、、、、、、、、、、、、、、、、 のようにして捉えられるのかである。この問題は二つの点で、問われることになる。 第1に、この原理の表現の問題である。少なくとも、この問題は端的にヘーゲルーシェリングのイェーナ期の共同
︵3︶︵4︶
を取り扱う場合に、﹁結合と非結合の結合﹂というヘーゲル的な把握と﹁同一性の同一性﹂Q︾宮︾届己というシェリ ︵5︶ ングの把握の対比として、かつヘーゲルの定義が﹁否定性﹂を含むがゆえに、優位に立つと理解されている。 同一性体系は成り立つ。 まさに同一性体系こそ垂 ﹁私は私が超越論哲学と名づけるものも自然哲学と名づけるものも各々をそれだけで独立に含局胃ご哲学体系そ のものとは見なさない。言い換えれば、哲学体系の一面的叙述以上のものとは見なさない。﹂︵置屋巴 性体系こそがシェリングの考える哲学の体系であった。自然哲学と超越論哲学の一面性を越えたところにこのような通説的な解釈を前提するとしても、シェリングの把握の含意と問題意識はやはり問題にならざるを得な いだろう。シェリングが﹁同一性の同一性﹂という定式化を行うのはなぜか。それはまさにこの原理、すなわち、絶 対者を﹁直接性﹂において捉えることを意味するからである。シェリングから言えば、この﹁絶対者﹂が分裂、反省 の構造を持つとすれば、それはすでにして﹁絶対者﹂ではなく、制限された意味での﹁絶対者﹂でしかない。少なく とも﹁絶対者﹂が絶対的である限り、反省を超え、﹁直接性﹂において存しなければならない。これが、シェリング の基本的な考え方であり、彼の初期から同一性哲学における展開にいたるまで﹁知的直観﹂が、この﹁直接性﹂を示 すものとなった。ここに私が副題として﹁そして知的直観﹂という題目をつける意味がある。 この﹁知的直観﹂という概念もまた本稿で示されることになるが、ミミミミミ、皆勗の言屋屋長からミミミミミ、 雷勗の冨巨巨信へと﹁知的﹂の表記が変えられている。このこともまた問題になる。この場合に、自然哲学に至る時期 と同一性体系では﹁知的直観﹂はどのような相違を持っているのか。この問題もまた問題にならざるを得ない□だが、 これらの点は実はフィヒテの﹁知的直観﹂論とのかかわりがあるので、本格的に論じるのは、別稿を期したい。 むしろ本稿での課題は、同一性体系の理論構造とそこにおける﹁知的直観﹂の持つ意義である。というのも、﹁知 的直観﹂という概念はまさにこの同一性体系の時期を超えるとき、ほとんど使われなくなるからである。すなわち、﹁知 的直観﹂という概念は、まさに﹁自我論文﹂︵1795年︶と﹁詳述﹂︵1802年︶を中心とし、同一性体系の時期 の﹁自然哲学序論へのアフォリスメン﹂︵1806年︶において最後に現れる。その後は、回顧的に初期の自らの哲 学を考察する場合だけである。また、言呈胃言巴から三里禺言里への転換は1800年の﹃超越論的観念論の体系﹄ ︵一○︶ となる。もちろん、例外はいくつかあるが。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 第2に、この﹁直接性﹂としての原理にわれわれはいかに到達することができるかである。この点では、シェリン
グは彼の同一性哲学期の代表的著作であり、かつ最初の論考である﹁私の哲学体系の叙述﹂で﹁絶対理性﹂について 語ることは重要である。まさにそこでは、すでに自然哲学の営みを前提にして、一つの過程としての自然を前提にし ていたのである。したがって、﹁絶対理性﹂の境位において、シェリングは、自然哲学の営み以来の一つの方法的な 操作を前提にしてこの問題を捉えることになる。この方法的操作こそが﹁脱ポテンッ化﹂という操作である。この操 作と、知的直観とはどのような関係があるのか。このことが問題になる。 この後者の点を分析することからはじめたいと思う。 ︵1︶原理としての﹁絶対的理性﹂ まず、シェリングの同一性体系の出発点である﹁私の哲学体系の叙述﹂︵以下﹁叙述﹂と略記する︶から﹁理性﹂ についてのシェリングの定義を引用しよう。 、、、、、、、、、、、、、 ﹁私は理性を絶対的理性︵号g言①寿昌昌鄙︶と名づける。[それは]言い換えれば、主観的なものと客観的なもの 、、、、、、、、 との総体的無差別言巨①宮屋討扁目︶として考えられる限りにおける理性である。 われわれがおよそどの ●●●●●● 、、、、、、、、、、、、、、、 ようにして理性をこのように考えるに至るのか⋮・・・われわれがそこに至るのは、哲学の内で主観的なものと客観的 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 なものとの間に立てられるもの、そして明らかに両者に対して無差別に振る舞うものでなければならないものを反 省することによってである。﹂︵第1節”]︾三・屋ら 1.﹁絶対者﹂とはl始原の直接性
①﹁捨象﹂の問題 こうして、同一性体系においては、﹁反省﹂は﹁理性﹂すなわち、﹁理性の立場﹂に至る方法を意味している“シェ リングは、すでに、自然哲学︵の試みの最後︶において、彼は﹁脱ポテンッ化eg三g昌巨長︶﹂P三ゞ宅︶という 方法的操作を提起した。この操作によって、個々の自然物から根源的な自然のあり方に遡及する。あるいは意識から 同じことを行うことによって原理的な﹁純粋な主観Ⅱ客観﹂にいたるという操作であるP三・雪︶。それによって原 理を把握することができるとする。だから、この原理的な﹁純粋な主観Ⅱ客観﹂から、﹁主観的な主観Ⅱ客観﹂にまで﹁跡 づけする﹂︵z胃ご○言房言邑︶のが﹁超越論的観念論﹂の課題であり、﹁主観的な主観Ⅱ客観﹂から﹁客観的な主観Ⅱ客観﹂ にまで﹁跡づけする﹂のが自然哲学の課題であるとされる。 だから、同一性体系の前提として、自然哲学と超越論哲学とがあることになる。そして、両者はまさに対立した方 向性を持つ学として成立していることになる。この自然哲学と超越論哲学とは円環構造をなし、それぞれが他方を基 礎づける関係にある。このことが﹁反省﹂の前提である。 まず理性は﹁絶対的﹂であり、﹁主観的なものと客観的なものとの総体的無差別﹂と定義される。だが、このことは、 すでに言及したように、自然哲学および超越論哲学という初期の試みが﹁一面的叙述﹂であり、この無差別点に全哲 学の叙述が成り立つとシェリングは考えていることを意味している。この無差別点こそが﹁絶対的理性﹂の領域であ り、そこから自然哲学も超越論哲学もまた捉えかえされなければならない。そしてこの理性へ至るのは、この無差別 、、、、 を反省することによってであると言われている。この﹁反省﹂はまさに﹁捨象﹂というシェリングの独自の方法と結 び付いて理解されなければならない。
まさにこの﹁思惟者の捨象﹂こそが問題となる。すなわち、思惟、すなわち人間的思惟の境位においては思惟者と 思惟されるもの︵対象︶という区別が存在し、この区別を超えない限りにおいて思惟は成り立つ。だからこそ、﹁純 粋な主観Ⅱ客観﹂の境位では、この区別そのものが否定されなければならない。そのことが﹁捨象﹂である。 、、、、、、 だから、﹁反省﹂はここでは二つの機能を持っていると言えるだろう。第1に、絶対的同一性そのものの反省であり、 それによって絶対的同一性そのものへと還帰することである。自然哲学の時期には自然と精神とが前景に出て、絶対 的同一性がそれらの背後に隠れていた。だが、今や反省によって、絶対的同一性はこれら二つの領域を自らの内に回 収し、絶対的同一性として自らを確立することになる。これが﹁絶対理性﹂の境位である。 第2に、これが﹁捨象﹂と結び付けられていることである。 先の引用文のあとに次のように﹁思惟者の捨象﹂が述べられている。 ﹁理性は先の捨象によって真の自体︵雷︺︲胃gとなるのであり、これはまさに主観的なものと客観的なものとの無 差別点に属する。﹂︵第1節︽①豆.︶ ならない。﹂︵第1節恥﹄、三・旨と したがって私が要求する立場に到達するためには、思惟者︵量の己①房①邑の︶が捨象され︵号弩呂寅①目︶なければ ﹁理性の思惟eg寄邑号局壽目昌邑はどの人にも要求されることができる。理性を絶対的であると考えるためには、
だから、ここで言われる﹁反省﹂はもはや人間的思惟を主体とした反省ではない。むしろ、﹁絶対理性﹂が行う反省、﹁存 在論的反省﹂とも言うべきものにほかならない。このようにして﹁絶対理性﹂の境位において﹁理性﹂の運動として 性﹂は主観的理性でし上 問題は立てられている。 したがって、この境些 同一性は、存在︵する︸ 認識﹂︵医﹄圏︶となる ②﹁絶対理性﹂と﹁絶対的同一性﹂ だから、﹁同一性哲学﹂では、①によって到達された﹁絶対理性﹂における﹁理性の自己展開﹂が問題となる。この﹁絶 対理性﹂はどのようなものなのか。すでに﹁思惟﹂の枠組みを超えているが故に、端的に一切は理性のうちにあると 述べられる。シェリングは次のように言っている。﹁理性の外部には何ものも存在しない。そして理性の内には全て が存在する﹂︵第2節︾﹂︾員屋巴。少なくとも第1節で述べたように、思惟の段階を止揚し、しかも、すでにその限 り、理性は主観的理性ではなく、﹁絶対理性﹂である。もし﹁理性﹂の外部に何ものかがあるとすれば、このような﹁理 性﹂は主観的理性でしかない。したがって、もはや理性の外部には何もなく、すべて理性の内部にあるという境位で だが、このようにして到達された﹁絶対理性﹂はすでに述べたように、﹁絶対的同一性﹂とシェリングによって表 現されることになる。けれども、この限りでは、まだそれ自身において明らかになっていない。シェリングは自然哲 学と超越論哲学によって前提が作られているとしても、独自の基礎付けを行おうとしている。 問題は立てられることになる。 この境位において絶対者は﹁絶対的同一性﹂という表現を獲得することになる。しかも、この絶対的 ︵すること︶と認識︵すること︶の同一性であるが故に、認識することもまた﹁絶対的同一性の自己 となる。そしてここにおいて絶対的同一性は﹁同一性の同一性﹂︵第陥節補遺率﹄︾三届己という表
この﹁絶対的総体性﹂はシェリングによれば、﹁宇宙﹂であり、﹁絶対的同一性﹂の現実の存在形式となる。というのも、 すでにシェリングの主張を想起すべきなのだが、﹁絶対的同一性﹂はまさに存在しなければならず、単なる点として ではあるとしか言えないものであり、存在するためにはあらゆるもの︵万有︶として存在しなければならないからで ある。この存在するものにおいてこそ、差別は存在し、﹁絶対的同一性﹂においては、差別は存在しない。けれども、 、、、 この存在するものは﹁絶対的同一性﹂の存在でなければならないが故に、﹁絶対的総体性﹂は直接に﹁絶対的同一性﹂ 対的同一性﹂は成立することになる。﹁絶対的同一性はただ同一性の同一性という形式においてのみ存在する﹂︵①三・︶。 現を獲得する。この含意はまさに﹁認識としての同一性﹂と﹁存在としての同一性﹂の同一性という点において﹁絶 この点は﹁叙述﹂のあとに書かれた﹁哲学体系からのさらなる叙述﹂︵1802年︶において、より詳しく書かれ ることになる。すなわち、絶対者は二つの存在様式を持つ。存在することと認識することである。この二つは、スピ ノザの属性論を思い起こさせる。だが、重要なのはスピノザの属性と異なって絶対者はこの二つだけを存在様式とし 、、 ていることである。絶対者が﹁絶対的同一性﹂である限り、これは点という数学的概念と同様に、あるとしか言えない。 だから、この絶対的同一性は二つの存在様式で存在することになる。この点は、﹁叙述﹂で絶対的同一性と﹁絶対的総体﹂ の関係として次のように言うことを具体的に展開したものと言えるだろう。 である。 ﹁絶対的同一性は絶対的総体性︵ざ三一重︶である﹂︵第恥節三三届巴。
︵2︶知的直観の変貌 、、、、、、、 、、、 したがって、このような﹁絶対的同一性﹂の境位は、直接性と不可分性そして活動性という指標によって示される。 ︵6︶ だが、このような指標で示されるのは、﹁知的直観﹂と呼ばれるものである。デュルナーの指摘を待つまでもなく、﹁知 それゆえ、二つのことが付け加えられる。すなわち、第1に、﹁量的差別﹂として理解されるのは﹁個別的存在﹂ あるいは﹁個体性﹂である。第2に、﹁自体﹂は絶対的同一性であり、したがって﹁絶対的同一性﹂の存在様式であ る﹁絶対的総体性﹂である。﹁個別的存在﹂あるいは﹁個体性﹂はこの﹁絶対的総体性﹂の外部にあり、その限り、﹁量 的差別﹂の領域に存することになる。 ﹁量的差別﹂は本質において同一でありながら、その存在のあり方において差別がある︵異なっている︶ことを意 味している。この差別というのは、﹁主観性﹂と﹁客観性﹂の﹁量的差別﹂であり、したがって、すでに本節の冒頭 で述べた﹁絶対理性﹂の外部に、﹁思惟﹂の領域に存することを意味している。それゆえ、﹁個別的存在﹂あるいは﹁個 体性﹂はまさにこの﹁思惟﹂という人間的有限者の世界にあることになる。したがってそれは自体ではなく、現象の︵む しろ仮象の︶世界である。逆にこの立場から﹁絶対的同一性﹂は﹁量的無差別﹂と表現されることになる。シェリン グはこの差別を﹁形相的差別言詳禺①三四ざ局日四房︶﹂︵﹁叙述﹂第刈節注1率岸三︾届④とも呼び、﹁量的差別はおよ そ分離の働き︵壁︺の○呂の日長の四豆によってしか、また分離の働きを考慮してしか定立されない﹂︵の三・︶ということ になる。 ﹁量的差別はただ絶対的総体性の外部でのみ可能である﹂︵第茄節追加恥①三・︶。
①この知的直観は、認識の原理として理解される。したがって、存在のあり方、すなわち、﹁有限者﹂、﹁無限者﹂そして﹁永 遠者﹂P三鴎巴にしたがって認識も区別される。 ることになる。 る。これが両 する。このこ皿 的直観﹂がすでに﹁叙述﹂において指示されていることは言うまでもない。冒頭で引用した﹁絶対理性﹂の問題がそ 、、 れである。この﹁絶対理性﹂は﹁絶対的同一性﹂の存在する場面であり、そこでは直接に二つの存在様式で現に存在 する。このことが﹁直接性﹂において存在することであり、活動性である﹁絶対理性﹂の基本的なあり方を示してい る。これが﹁知的直観﹂である。シェリングは1802年の﹁哲学体系からのさらなる叙述﹂においてこれを検討す 当然、この三つの認識は、まず第1に、﹁肉体と認識と不可分な諸規定の直接的で単純な認識である﹂色︾三︾詮9。 これは感性的認識である。外部からの影響によって、生じる認識である。第2に、このような認識が﹁認識の認識作 用という概念﹂によって可能である。これは﹁自己認識﹂を意味しており、これが﹁無限な認識﹂とされる。そして これが﹁通常の知﹂が高まる最高の段階であるとされる。したがって、この二つは﹁有限者﹂の可能性にかかわる認 識であり、﹁無限な認識﹂にしても﹁有限な認識﹂の可能性を根拠づけるべき認識であり、﹁無限者﹂の内に特殊者を 取り入れることによって可能となるとされる。 問題は最後の﹁永遠者の認識﹂である。この認識こそシェリングによれば、﹁絶対的認識作用a尉号g言① 異がその認識が純粋に有限な認識であるか、あるいは無限な認識であるか永遠な認識であるかにもとづく﹂︵の三・︶ ﹁存在するものすべてが一般に三つのポテンッ、有限者、無限者そして永遠者に立ち返るように認識のすべての差
国南国ロg︶﹂Q﹀三・詮gと言われるものである。さらにこれは﹁原像的認識作用﹂P三・潭己とも呼ばれる。というのも、 この﹁絶対的認識作用﹂は原像が特殊者Ⅱ有限者と無限者の合一を意味するのであり、﹁その原像をただ理念のうち 、、、、、、、、、、、 で、したがってただ知的にのみ、直観することができるからである。なぜなら、理念は絶対的認識の直接的様態であ り、しかし、この認識はあらゆる理念の理念、あらゆる形式の形式であるから﹂P君ゞ詮己・ 原像とは概念が思惟の純粋な様態であり、無限であるけれども、特殊者に対立しているのに対して、普遍者と特殊 者の絶対的統一を示しており、思惟と存在の絶対的統一を示している。したがって、この原像的認識作用は、原像の 直観、直接的把握を意味することになる。だから、この原像的認識はまさに原像の直接的な直観である。その意味で この認識は存在することそのものを意味することになる。そのかぎり、この直観は﹁絶対理性﹂の認識と存在という 存在様式そのものを示すことになる。 だから、﹁知的直観﹂は﹁絶対理性﹂の直接性を示し、かつその存在様式の不可分性を示す.そして重要なのはも はや初期の﹁自己直観﹂としての﹁知的直観﹂ではなく、むしろ﹁絶対的同一性﹂の存在様式であることになる。し たがって、初期において自我の﹁自己直観﹂という基本性格を持っていた﹁知的直観﹂は、この同一性哲学において 変化する。すなわち﹁自己﹂が自我から絶対者Ⅱ神へと変化する。すでに自我から絶対者へとこの主体は変化してい ることを示している。 ︵3︶知的直観の問題性 ︵8︶ ﹁知的直観﹂が重視されたのは、当初から﹁直接性﹂の問題にある。すなわち、反省を介して﹁原理﹂を把握する ことは、﹁制限された絶対者﹂を捉えることができるに過ぎない。問題はあくまでも﹁絶対者﹂そのものである。し
、、、、、、 たがって、﹁知的直観﹂というカントが否定した概念を取り出してくる。この知的直観は第1に、﹁直観﹂の受容性を 主張するときに、﹁直観の外部﹂に出ることを否定できる。﹁受容性﹂は直観にそくして見れば、カントが﹃純理﹄の 、、、、、 ﹁感性論﹂で正しく指摘しているように、﹁触発される含鄙風①己﹂されることであり、自らが解発されていることだ けを示している。﹁感性的直観﹂の場合には、常にすでに﹁直観﹂の外部に何らかの﹁受容されるもの﹂、すなわち触 、、、、、 、、 発するものがあることを想定させる。例えば、カントの﹁物自体﹂が端的にそのように﹁直観﹂の外部を示すことに 、、、、、 なる。だが、知的直観は感性的直観と異なり、﹁知的﹂であるが故に能動的である。したがって、知的直観はもはや﹁直観﹂ の外部に何ものも必要としない。﹁知性﹂そのものが概念史的に、このような能動性を指示する。アリストテレスの﹁能 ︵、u︺︶ 、、 動的知性﹂と﹁受動的知性﹂の区別を﹁直観﹂理解のもとで継承しているとも言えよう。こうして知的直観は、能動 性の否定的表現を示すことになる。 、、 、、、、、、、、、 このように、シェリングが﹁知的直観﹂がこの﹁直観の受容性﹂を能動性の否定的表現として定式化するとき、﹁直 観﹂に現在する﹁絶対者﹂が﹁それ自身に即して自己を開示すること﹂が可能となる。シェリングの考える﹁知的直 観﹂はその意味で、次のように言うことができる。 第3に、初期にあっては﹁自己直観﹂は﹁自己﹂Ⅱ自我であるがゆえに、﹁自我﹂が﹁絶対者﹂を把握するという 機能を持つことになる︵フィヒテの﹁絶対自我﹂︶。だが、同一性哲学期には﹁自己﹂Ⅱ﹁絶対者﹂であるがゆえに、 すでに軸足が﹁絶対者﹂に動いており、﹁絶対者﹂が﹁知的直観﹂において現在することになる。シェリングの考え る﹁知的直観﹂はつねに﹁自己直観﹂であるが、初期から同一性体系への展開の中で﹁自己直観﹂がわれわれ有限者 と絶対者を繋結する機能と位置を持つことになる。そして、﹁自我﹂と﹁絶対者﹂の中で本質を同じにしながら、隔 ︵、︶ 離があることが明らかになる。この点から、したがって、問題はわれわれが﹁知的直観﹂に到達することが問題であ
さて、﹁絶対者﹂そのものはどのような構造をしているか。シェリングの表現﹁絶対的同一性﹂I﹁絶対的総体性﹂、 あるいは﹁有限者﹂l﹁無限者﹂l﹁永遠者﹂という三つの区別、これらはすべてシェリングが﹁絶対者﹂の構造を 示すために提示したものである。前者が﹁絶対的同一性﹂の存在様式を示し、知的直観というあり方を示すとすれば、 後者はこの﹁知的直観﹂によって示される﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的総体性﹂の内部構造を示すものである。 そして重要なのは、この﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的総体性﹂は﹁絶対理性﹂における臼己構成として理解される ことである。﹁絶対的総体性﹂は﹁絶対的同一性﹂の存在形式である。したがって、この両者は直接性におけるもの であると同時に無時間的な存在様式である。 それゆえ、自然哲学以来登場する﹁自己l客体⑦①さ等○昼①廓︶﹂P昌浅④、﹁主観l客観︵普互①蚕︲○豆①蚕︶﹂ロ︾目 ご巴あるいは﹁主観I客観化﹂ロ・ぐ・筐巴、﹁自己l客観化命①弓串○且のきぐ国巨信と口・雪︾さ︶という用語も、フィ ヒテにおいて登場する﹁対象化﹂の論理ではなく、﹁自己﹂の存在様式論であると考えることができるだろう。すな わち、﹁絶対的同一性﹂が存在するのは﹁絶対的総体性﹂として同時的に存在するのであり、両者は直接的に一体的 り、到達すれば、﹁絶対者﹂そのものが問題となる。 ﹁形式的に絶対的な認識はこうして必然的に同時に絶対者そのものの認識である。したがって、絶対者の直接的な 認識が存するのであり、:::最初の思弁的な認識であり、一切の哲学の可能性の原理にして根拠である。われわれ はこの認識を知的直観と名づける﹂ロ︾三︾霊巴。 2.絶対者と自己構成
であり、不可分であるとみなきれる。したがって、シェリングが使用するこの﹁自己l客観化﹂あるいは﹁主観l 客観化﹂命巨互①毒︲○昼の三島屋伝︶という概念は﹁絶対者﹂の自己構成を示す方法的概念であると考えられる。だが、 このとき﹁主観﹂が白己を否定し自己と向き合うⅡ対象化の論理としてみるべきではない。むしろ、﹁自己分節化﹂ あの守串雷三三①昌信︶とでも言うべき論理展開をめざしている。 だが、この﹁絶対的同一性﹂Ⅱ﹁絶対的総体性﹂であり、﹁絶対的同一性﹂が現在するとき﹁万有﹂として現在す ることを意味し、これがヘーゲル的な﹁否定﹂を含まないと考えるべきである。﹁否定﹂を含むことは﹁絶対性﹂を 否定することになる。 シェリングはこの絶対的同一性が同一律の命題AⅡAで表現できると言う。まさにフィヒテを想起させるように、 ﹁同一律﹂を問題にするのである。この命題が意味するのは、Aが主語としてのAも述語としてのAでもなく、同一 性そのものが定立されることである。すなわち、この同一性が直接的に.端的に、かつ無時間的に定立されているこ ︵1︶不可分性と直接性l﹁同一性﹂と﹁無差別﹂ ︵Ⅲ︶ ﹁不可分性﹂というメルクマールが登場している。このメルクマールの意義は、すでにランクが指摘している。﹁絶 対的同一性﹂の意味するのは﹁諸対立﹂の統一であるが、これは﹁反省﹂によって対立させられ、相互関係において 現れた諸規定を、この関係を﹁捨象する﹂ことによってそれ自体において、一言い換えると﹁絶対的に見られれば﹂、 あるいは﹁その本質において見られれば﹂、それらの諸規定は、すなわち主観的なもの、あるいは客観的なものとし て現れるのではなく、主観的なものは客観的なものとの同一性において、客観的なものは主観的なものとの同一性に おいて現れることを意味している。
﹁絶対的同一性﹂は量的差別を生じさせない。だから、それ自身において存在するとき、同一性が存在するのであり、
﹁絶対的総体性﹂として現在することになる。だが、有限者を顧慮するとき、そこには量的差別が生じる。このとき、
絶対的同一性は﹁量的無差別﹂として表現されることになる。
のは、両者が主観、客観としてそれだけで考察されることも考盧して表現するならば、図1︵本稿別ページ︶のよう な形式で表されることになるだろう。 こうして、﹁主観的なもの﹂及び﹁客観的なもの﹂は﹁絶対理性﹂において存在することになる。根源的存在はま さに主観的なものⅡ客観的なもの︵AⅡB︶であるが、無限性においては﹁主観的なものの優勢﹂として現れる︵A +ⅡB︶か、﹁客観的なものの優勢︵AⅡB+︶﹂として現在することになる。﹁無差別﹂という表現そのものは、ま さしく﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的総体性﹂という展開の側から無限者の領域において﹁絶対的同一性﹂と区別され る事態を示す用語であることになる。 そしてまた﹁純粋同一性﹂という用語もまた使用される。だが、この﹁純粋同一性﹂という表現は、すでに、有限 者の実在を前提にして言われる用語であり、有限者の量的差別にたいして、それと対立して主観性と客観性の同一性 を示す表現である。 ﹁個別者を顧慮すれば、いかに一方の側面かあるいは他方の側面かに優位が向けられていようとも、そのうちで何 ものも区別されない純粋同一性に気づくであろうということ、したがってまた、かの量的差別もやはり、自体的に 措定されているのではなくて、むしろただ現象の内にのみ措定されているということである﹂︵﹁叙述﹂第帥節解明唖 ﹂葛届己。 ︵2︶実体と属性 こうして、絶対的同一性は﹁絶対的総体﹂としては存在することと認識することとして現在する。これが無時間的
な端的な﹁理性の境位﹂における構造的な構成を意味している。この構成は、﹁絶対的総体﹂が﹁宇宙﹂であるとして、 ﹁絶対的同一性﹂の存在の領域として自然の領域が描かれることになる。 ︵旧︶ 自然哲学において、自然の発生は﹁論理発生︵宮琶需邑①の①︶﹂として説明される。だが、このとき自然は﹁生産性 と産物の同一性﹂として定義され、﹁生産性﹂Ⅱ﹁絶対的能動性﹂である。そして、この自然の定義から自然の﹁自 己構成﹂Ⅱ自己組織化として展開される。個々の自然物はまさしくこの生産性の﹁記念碑﹂であった。 ︵卿︶ そして、シェリングは自然そのものを﹁自然体系三呉昌の湯毎日︶﹂として捉え、﹁自然史︵z四言彊の⑪の三の三の︶﹂と いう自然の時間的出現から区別した。すなわち、自然の生産性は経験的には、﹁自然史﹂として現象する。そして、 この﹁自然史﹂は自然の総体、すなわち、﹁自然体系﹂のずれ室三①月言長︶として現象するとした。すなわち、﹁自 然体系﹂の諸契機が経験的に実現されるとされたのである。 同一性哲学において、この自己構成は﹁自然体系﹂の側に問題が移動する。すなわち﹁絶対者﹂の自己構成である。 この﹁構成﹂そのものはカントの﹁数学的構成﹂を念頭においているといえるだろう。実際、同一性哲学の時期には、 この﹁構成﹂概念そのものを分析し次のように言っている。 ﹁後者︹哲学l筆者︺では構成が二側面に向かって分離するとき、構成は後者では絶対的無差別点にある。この ことが︹明るみにでるの︺である。すなわち、特殊的に表現すれば、前者︹数学︺が必然的に特殊者における普遍 者の表現か、あるいは普遍者における特殊者の表現かであるとき、哲学は一方︹特殊者における普遍者の表現︺で も他方︹普遍者における特殊者の表現︺でもなく、数学では分裂して現れる、絶対的無差別における諸統一の表現 ︵M︶ である、このこと︹が明るみにでるの︺である﹂Pぐ︾屋己。
﹁絶対的総体性﹂のポテンッにおける最高の存在こそが﹁有機体﹂である。もちろん、この﹁絶対的総体性﹂その ものではなく、逆に﹁有機体﹂の自体が﹁絶対的同一性であると言われることになる。 つまり、このとき、シェリングはこの﹁絶対者﹂の自己構成が﹁直接性﹂の場面で、﹁直接性﹂として展開される と考える。その現在のあり方として﹁自己構成﹂が行われていることを主張することになる。したがって、自然哲学 における﹁自然体系﹂が知的直観における﹁絶対理性﹂の構造的展開を示すことになる。 すでに述べたように、﹁同一性の同一性﹂という定義︵﹁叙述﹂第陥節︶は単なる点に過ぎない。だから、それ自身 としては﹁絶対者﹂とはいえない〃そのため、﹁絶対的同一性﹂は現在する。﹁絶対的総体性︵号普三のご菌昏登﹂︵﹁叙 述﹂第恥節︶はまさに、﹁絶対的同一性﹂の存在形式であった。 まさにカントと異なって、シェリングは﹁知的直観﹂の成り立つ場面において﹁哲学的構成﹂が論理発生として成 立することを主張している。したがって、彼はこの議論によって﹁ポテンッ﹂をこの﹁哲学的構成﹂によって展開し ようとしている。 ﹁絶対的同一性は存在するすべてのものから分離しては考えられ得ないからである@したがって、絶対的同一性は ただあらゆるものとしてのみ、存在する。すなわち、絶対的同一性は絶対的総体性である﹂︵﹁叙述﹂第恥節”﹄。ご︾ ﹄画。︶○
シェリングは、実体の概念でもって、この存在様式を示そうとする。そのとき、自然事物はまさに﹁実体﹂ではな く、むしろシェリングの実体は﹁基体﹂というアリストテレス的な意味のもとに捉えられるのであり、その限り、﹁絶 対的有機体﹂としての自然が問題になり、﹁無限な総体性﹂を意味することになる。だから、彼が問題にする﹁有限者﹂ というのも、第一義的には、分割可能な領域の根底における﹁実体﹂の領域における問題である。 すでに示した﹁有限者﹂、﹁無限者﹂そして﹁永遠肴﹂という、この三つの区別は﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的総体 性﹂と言う内部構造を示す言葉である。シェリングのこの区別はあくまでも﹁知的直観﹂のあり方であり、したがっ て、構造的なあり方を示すと見るべきである。だが、そこには﹁同じ地平で﹂分節されているのであるから、三つの 間には﹁量的差別﹂しかない。個体性もまた﹁本質において同こである。そしてシェリングはまさに次のように言う、 ﹁実体、あらゆる存在の本質は全てと同様に、端的に不可分である。⋮⋮絶対的な実体そのものは分割されないだ ろう。たとえば、分割されるものは、われわれが物体について語る場合には、物体は無限に分割可能であるのだが、 そのような分割されるものは決して物体的な実体そのものではなく、むしろ実体の否定である。﹂︵﹁体系﹂第肥節亜 ﹂・畠ゞ弓巴 らないから﹂︵﹁叙述﹂第陥節亜拐員弓④ ﹁有機体は絶対的総体性ではない。なぜなら有機体によって実在する同一性はただこのポテンッの同一性にほかな
﹁自己肯定﹂として﹁絶対的同一性﹂を捉えることは、この﹁絶対者﹂の存在様式命里扁言里陥︶が﹁絶対的存在︵号g言朋 静冒︶﹂と﹁絶対的認識作用︵号g言隅因島2口gとであり、この二つの存在様式がつねに一つであることを示すこ とになる。そしてつねにこの運動が絶対者のうちで、絶対者の地平で行われていることを示している。 ﹁絶対者﹂においては﹁反省﹂はなく、﹁知的直観﹂そのものの現在のあり方として絶対者の﹁自己構成﹂を描こう ︵1︶﹁自己肯定﹂という議論 、、、、、、 さて、﹁神﹂Ⅱ﹁絶対者﹂の現在する場面が﹁知的直観﹂である。この﹁知的直観﹂においてすべてがあると考えられる。 しかも﹁受動性﹂と﹁能動性﹂の同一性であるがゆえに、この﹁神﹂の自己運動が肯定する自己と肯定される自己と が同じものである。したがって、神とは﹁自己肯定﹂としての神である。この点が明確に登場するのは、1804年 の﹁全哲学の体系﹂という、ヴュルッブルク時代︵一八○三’一八○六年︶において行われた講義の草稿である。 ﹁知的直観﹂は﹁絶対者﹂の自己直観であり、したがって、神が現在し、この場面を離れない。この場面において は主観も客観もない。知られるものも知るものも存在しない。 ﹁どこにも主観としての主観は存在しないし、客観としての客観は存在しない。そうではなくて、そこで知り、か つ知られるまさしく一にして同じものだけが、したがって自体的に主観的でも客観的でもない一にして同じものだ けが存在している﹂︵﹁体系﹂第1節恥﹄ゞ舅屋巴。 2.﹁自己肯定﹂としての神
この﹁肯定﹂によって﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的無差別﹂そしてポテンッにおける存在のあり方が構成されてい くことになる。すでに確認したように、この存在様式を区別するメルクマールはまさにその認識作用という存在様式 にかかわっている。 とする。すべての﹁現在﹂が﹁知的直観﹂にある。 ﹁主観と客観の区別がなされる反省のその領域から永遠に自らを分かつ﹂︵﹁体系﹂第1節恥岸弓︾虞goしたがって、 シェリングは﹁自己肯定お里富国囲局昌呈目︶﹂という用語を使用し、﹁知的直観﹂という﹁絶対的同一性﹂の存在様 式そのものを﹁肯定する﹂ことによって現在が自覚化されると考える。この﹁肯定﹂と言う用語の使用は、﹁反省﹂ ととうあり方をしないものとしてどのように理解するかという点で提出されている。現在する﹁絶対的同一性﹂が自 らを肯定することが﹁絶対的同一性﹂の存在を構成することになる。この端的に﹁存在すること﹂を示すのが﹁肯定﹂ という用語にかかわっている。 、、、 ﹁神は絶対的に単純である。しかしまさにこの絶対的な単純性のために神は自分自身を直接肯定する。この自己肯 、 定によってもそのものとしての肯定するものおよび肯定されるものが、主観的なものとしての主観的なものが措定 されているのではなく、神だけが肯定し、かつ肯定される神として定立されている。﹂︵﹁体系﹂第肥節恥据畠屋巴 ﹁ここで可能であるあらゆる差異はまさに、肯定されるものが肯定するものと完全な均衡の内に、無差別の内にあ るということか、あるいは肯定されるものが肯定するものに対する優位を持ち、また反対の場合であるか、である。﹂
このように、三つの階層の区別はすでに述べた﹁永遠者﹂、﹁無限者﹂そして﹁有限者の区別であるが、まさにこれ は﹁肯定するもの﹂と﹁肯定されるもの﹂の存在様式の区別に基づくことになる。 ︵2︶﹁永遠者﹂l﹁無限者﹂l﹁有限者﹂という存在形態。 このような﹁絶対者﹂における展開は存在様式としての展開であるが、これはポテンッとして展開されることにな る。少し長くなるが以下に引用しておく。 、、、、、、、 ﹁神の理念から生じる直接的な系列の真の図式はこうである。原像としての神はそこで実在的な万有および観念的
、、、、、、、、、、、、
な万有が把握されている絶対的同一性である。実在的な全ておよび観念的な全てそのものの直接的な系列は肯定す 、、、 るものおよび肯定されるものの無差別であり、したがって、二重の表現を持つ、つまり実在的なものにおける一方 の表現、観念的なものにおける他方の表現を持つ︵絶対的同一性は前者にも後者にも属さないので︶。次いで無差、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
別から下降する系列において出てくるのは、肯定されるものあるいは実在的なものにたいする机対的な優位におけ 、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、 る肯定するものあるいは観念的なものであり、そして肯定するものあるいは観念的なものに対する相対的な優位に 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 おける肯定されるものあるいは実在的なものである。﹂︵﹁体系﹂第冊節注解率﹄︾畠・曽己 このように、存在にかんする図式は、第1段階Ⅱ原像としての神Ⅱ絶対的同一性、第2段階Ⅱ実在的系列と観念的 ︵﹁体系﹂第別節恥トヨ・潭e系列Ⅱ無差別、第3段階Ⅱ無差別から下降する系列Ⅱ相対的優位における肯定的なものおよび肯定されるものという 三つの段階で示されている。これを先の図式にならって記述すると、図2︵本稿別ページ︶のようになる。 少なくとも、第1段階と第2段階はまさしく﹁絶対的同一性﹂の存在そのものであり、﹁実在的系列﹂Ⅱ﹁絶対的存在﹂ と﹁観念的系列﹂Ⅱ﹁絶対的認識︵作用︶﹂であり、まさしくこれらはすでに述べた﹁絶対的総体性﹂を意味してい るだろう。それにたいして相対的優位は、量的無差別における優位である。したがって、本来A︵AⅡB︶およびB ︵AⅡB︶と書くことが分かりやすいであろう。 こうして、ここでは、少なくとも、カッコの外のAが存在、Bが認識を意味するとすれば、存在及び認識はその根 底に﹁同一性﹂が存在すること︵AⅡB︶を意味している。これは﹁量的差別﹂とも表現されるけれども、この点で はこの﹁量的差別﹂が﹁有限者﹂の領域を意味するという先の説明との関係では微妙なものがある。つまり、相対的 優位としての﹁有限者﹂の領域は、これは﹁有限者﹂の無限性における表現を意味するからである。 ここで一言う﹁有限者﹂をただちにシェリングの﹁量的差別﹂という批判Ⅱ有限者を基礎付けることができない、流 出論的問題構成であるという批判から見ることができない。そもそも自然領域を例にとって検討してみると、向然す なわち﹁絶対的有機体﹂あるいは﹁総体としての有機体﹂はその自体を﹁絶対的総体性﹂のうちに持つことをシェリ ングは指摘しているのである。だから、白然は﹁理念﹂という性格を持ち、その総体においては無限性を表現するも のとされる。すなわち先に指摘したように、自然もまた﹁実体﹂の領域の問題として取らえられることになる。 その一方で自然の個体性すなわち個物としての自然は、まさにこの﹁絶対的有機体﹂あるいは﹁総体としての有機 体﹂を自己内で表現しつつ、現象世界に属するものとされているのである。
﹁ポテンッ﹂において現れる﹁実在的なものとしての実在的な万有a尉用巴①と旨房蔚巴閉︶﹂が﹁現象様式が無限 性としての自然の表現である﹂と考えられている。すなわち、まさしく自然哲学の時代に表現された﹁自然は無制約 者の否定的表現﹂口・白﹀崖︶として、経験世界に生きるわれわれの前に現れることになる。だから、﹁絶対的有機体﹂ 及び﹁総体としての有機体﹂として表現される﹁自然そのもの﹂あるいは﹁自然体系﹂ではなく、個物としての自然 の集合こそが﹁反省﹂にたいして現れる現象としての自然であることになる。まさにここでは﹁量的差別﹂としての﹁有 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ﹁諸ポテンッの三重性[三肢性、三肢構造]は実在的なものとしての実在的な万有の必然的な現象様式であり、同 様に観念的なものとしての観念的な万有の現象様式である。何故なら、それ︹万有︺は︵第四十九節︶ただ有限な 物によってのみ現象することができるから、そしてその現象の差別はただ三つのポテンッによってのみ表現される ことができ、その三つのポテンッは第一のポテンッが肯定されていることの優位を、もう一つのポテンッが肯定す ることの優位を、および第三のポテンッが両ポテンッの無差別を示すからである。﹂︵﹁体系﹂第恥節恥岸舅麗e もう一つすでに言及した第朋節からポテンッについて説明した部分もまた引用しておこう。 ても定立する。﹂︵﹁体系﹂第Ⅲ節率岸畠・窓e いるから。ところでしかし、有機体は現実・活動︵胃言︶にとして無限であるとして物質を現象そのものにたいし ﹁物質の実体は物質の無限性である。それは、実体そのものは万有に等しい。そして万有の典型を自己内に担って
限者﹂の世界が成り立つとされることになる。このようは﹁ポテンッ﹂の構造はまさに﹁二重性e匡昌g壁と︵淫︶、 ﹁三重性︵苧巨亘雲︶﹂︵配︶として展開されることになる。これはまさに﹁無限性﹂としての﹁絶対的総体性﹂の経 験的な表現として階層順序を形成することになり、自然哲学にかんしては、このポテンッの総体を通じて﹁絶対的有 機体﹂としての自然の総体を表現することになる。こうして、すでに述べたように自然哲学の時代の﹁無限者の否定 的表現﹂という自然理解は同一性哲学においても維持されることになる。 、、、、、 したがって、同一性体系において、日然の世界もまた︵自然哲学︶﹁実在的系列﹂として﹁絶対的総体性﹂という 存在様式におけるあり方を示すことになる。それに対応して、精神の世界︵超越論哲学︶もまた同様に、﹁絶対的総 体性﹂という存在様式を示すことになる。だから、﹁有限者﹂の世界は実は世界という全体としては成り立たず、む しろ、個別的存在として見られるときに、言い換えれば、﹁反省﹂によって個別性において見られるとき、﹁有限者﹂ は現象としてわれわれの前に現れることになる。 そして、たとえば、自然物はすでに自然哲学の時期には、最終的に﹁生産性と産物の同一性﹂P白・鴎巴として 表現されたけれども、自然哲学の時期には、自然は﹁絶対的能動性﹂として表現されていた。この表現は﹁生産性﹂ のことであるが、この能動性こそが﹁絶対的同一性﹂を意味していた。それゆえ、この時期には﹁純粋同一性﹂と呼 ばれることになる。このことは自然の領域において自然の生産性ばかりではなく、むしろ自然は個体として存在する ことがその領域を必然的な領域とするが故に、﹁純粋同一性﹂と呼ばれざるを得なくなる。このことは自然の世界に おいて自然の生産性は﹁絶対的同一性﹂の存在様式であり、しかしそれだけでは現象世界の自然物を表現することが ︵喝︶ できない。したがって、シェリングはこの時期には自然哲学の時期の自然の基礎づけを継承しつつ、﹁自己l客体﹂ という表現に連なる﹁主観l客観化﹂という表現を導入することになる。以後、この方向で︵すなわち、自然の形而
この同一性体系にたいして、問題はこの時期シェリングが行った﹁流出論論争﹂が想起されるだろう。﹁流出論的批判﹂ にたいして、問題は﹁有限者﹂もまた﹁絶対的同一性﹂l﹁絶対的総体﹂の構造的構成要素を示すのであり、その限り﹁流出﹂ するのではない。だが、そのとき、それだけでは答えたことにはならない。すなわち、シェリングが﹁現象世界﹂を することになる。 このとき、自然哲学と超越論哲学によってつくられる円環構造は、まさに﹁有機体﹂という自己関係構造として﹁絶 対的理性﹂の直接性にして不可分性として取り込まれ、活動性として﹁絶対的同一性﹂の内的構造を無時間的に展開 このようにして、同一性体系においては、自然哲学と超越論哲学はもはやそこに吸収され、同一性体系の二つの分 肢となった。したがって、両者が作る円環構造もまた、それは現象世界を考盧して見られるときに、成立する構造で あることになる。それゆえ、同一性体系はこれらの二つの分肢による円環構造を捨象したときに成立したのである。 同一性体系は﹁絶対的理性﹂の体系として構想されたと言えるだろう。 その限り、1804年の﹁全哲学の体系﹂における﹁自己肯定﹂としての絶対的同一性理解は、確実に1801年 の﹁私の哲学体系の叙述﹂における図式性を克服し、後者がスピノザの叙述にならうと言うシェリング自身の表明を 克服し、﹁同一性﹂の力動化とも一言うべき展開を示していると言えるのではないか。すなわち、直接性及び不可分性 をメルクマールにして﹁知的直観﹂を取りだしたシェリングは、ここにおいてその活動性を強調する体系性を主張す 上学的基礎付け︶、シェリングは自然哲学を維持することになる。 ︵略︶ ることになる。 小 括
救い出すのは、自然の全体、精神の全体である。このことによっては現象世界における﹁個体性﹂の問題が依然とし て残されている。この﹁個体性﹂は独自の存在理由を持つのかどうか、すなわち、﹁個体性の存立根拠﹂、いわゆる現 実の個別者Ⅱ有限者の独自性をどのように説明するのかという問題が残っていると言わざるを得ない。私自身はシェ リングのこの議論を﹁流出論論争﹂にたいして今回は回答を留保しておきたいと思う。それは次の課題であると述べ ︵F︶ ておきたい。
A A = A A + = B A = B + A = B 図 1 絶 対 的 同 一 性 と 絶 対 的 総 体 性 、 量 的 無 差 別 A = B (実在的系列) A + = B A = A A = B (観念的系列) A = B + 図 2 原像としての神 無差別の系列 相 対 的 優 位
註 ︵5︶このような理解が今日の研究上の通説となるが、当時のヘーゲルとシェリングでは後者の存在の大きさと比して前者がほとんど問 題にならないのは留意すべきである。とりわけ、両者の編集による﹁哲学批判雑誌﹂︵180111802︶の論文の執筆者は今日で は明らかにされているけれども、これらは匿名で刊行されている。それゆえ、﹁信仰と知﹂などはシェリングの論文とみなされ、批判 されていることもある。たとえば、宝&﹃三冒弓の巨ゞ粋言ミ員ぢい暮尽ミミ§の。§駒ミミ聖誉吻gミ、舅gの。ミミミ。言︾扇9.を参照。 ︵6︶例えば、﹁自我論文﹂︵恒・弓己あるいは﹁哲学書簡﹂戸屋弓雷言︶では、三里異白呈という言葉が使用されている。 ︵7︶言﹃国g三四弓&︾国己のご眉目ゞ$国ミミミミきゃミ自彊菫。言震員電ミ薑雲、車曽暑号、更信、、国薑思包&曼蜀の冒三①旨の﹃︾匿臣 ︵8︶この点では神崎繁﹁アリストテレスの子供たちlヘーゲル・マルクス・ハイデッガー﹂﹃西洋哲学史Ⅲ﹂講談社、2012年。 ︵9︶シェリングの著作について簡単に説明しておく。超越論哲学の時期と言われる179511797年の時期にシェリングは﹁哲学 一般の形式の可能性について﹂﹁哲学の原理としての自我について﹂﹁独断論と批判主義に関する哲学的書簡﹂﹁知識学という観念論の 解明に関する諸論文﹂という4作を書いている。同一性哲学は1801年から1806年までであるが、重要なのは、1801年の﹁私 の哲学体系の叙述﹂、1802年﹁哲学体系からの詳述﹂、1804年﹁全哲学の体系﹂、﹁哲学と宗教﹂である。 ︵蛆︶この点は、初期からシェリングにとってはすでに問題になっていた。フィヒテにたいする基本的な批判は﹁自我の系列﹂と﹁観察 する自我の系列﹂を区別し、フィヒテの問題設定において出発点の自我と到達点としての絶対自我の混同を批判していたことには留 *本編では、シェリングからの引用については湾富農眉一の患日日震呂の君国憲・昂閉l畠臼から、部門、巻数、ページ数を記す口部門とペー ジ数は算用数字で、巻数はローマ数字で示す。 ︵1︶拙稿﹁フィヒテとシェリングー生きている自然と﹃思惟l存在の同一性﹄﹂﹁自然の根源力﹂︵西川富雄編︶ミネルヴァ書房、 1995年において、同一性体系については一度私の見解を示している。 ︵2︶この点については、さしあたって﹃哲学中辞典﹂︵尾関他編︶、知泉書館、2014年3月︵印刷中︶の頂Ⅱ﹁同一哲学﹂を参照せよ。 ︵3︶これはヘーゲルの﹁1800年の体系断片﹂にあける表現である。 ︵4︶マンフレート・フランク﹁同一性と非同一性との同一性﹂貢−ゲル哲学研究﹄第岨号︵2013年︶、1∼羽ページを参照。ま た尻目号房弔目星。房.ロ詩圃舅討言信ミミロミミ静.国ミ崖冒言、ミミ噌量雷電向ミミミミ員ミミさミミミ.啓言雪愚震曼函侭里言屍烏. の口﹄茸胴巴詳恥︷白の茸︲n.茸P﹄や﹃や
意しなければならない。拙稿﹁近代的自我と絶対者−フィヒテとシェリング、あるいはシェリング自然哲学の理論的前提﹂﹁物象化と 近代主体﹂︵永井、福山、長島編︶。創風社、1991年、1231153ページ。 ︵、︶蚕眉︾雰目言己︾国、ミ言ミミミ豆ミミ雷酎.国ミSミ爵ミ言信豊野言ミ長西国、ミミごミ言§ミ、蜀国昊言儲国.三二号号函。の胃冒四目ゞ ︵過︶この﹁自然体系﹂が﹁普遍的有機体aの﹃四后g]の旨①○﹃魑昌の日巨の︶﹂Q︾自認巴あるいは﹁絶対的有機体a①﹃号の○三の○侭9重目のとロ︾ ︵u︶﹁論理発生﹂という指摘は次の論文に基づく。函R冑臣目.評言言己.z胃昌あの房匡号晨融ご罠言呈融三国z胃昌嘗ぎg冒冷︾冒乏ミミ ミ薑この愚萄迂さ舜登︾ご侭︾ぐC邑田奇国毒四ごロ国R丙白煙屋P国9日騨邑ご肉感邑鴨匡邑・詞匡昌つ員三里①塚稗三侭閏兵団且○四国ご里呂吋○日目四国古o厨ずccいご額︾ ︵Ⅲ︶引用はシェリングの﹁哲学における構成について﹂からである。この論文は短いものであるが、カントの数学的構成概念を批判して、 カントが﹁哲学的構成﹂を否定する理由を﹁知的直観﹂を認めないところに求めている。 ︵妬︶拙稿﹁シェリングの自然哲学﹂﹃東洋大学哲学講座第2巻哲学を享受する﹂2006年を参照。 ︵船︶シェリングは1801年の﹁私の哲学体系の叙述﹂、1802年の﹁哲学体系からのさらなる叙述﹂、1804年の﹁全哲学の体系﹂ と体系記述を展開しているが、つねに挫折していることは注目すべきである。この点で、シェリングが1804年の﹁哲学と宗教﹂ でエッシェンマイャーとの﹁流出論論争﹂を展開するが、これだけがこの哲学体系の挫折の原因であるかどうかは極めて大きな問題 であると思われる。ただし、シェリングの同一性体系の挫折は、﹁量的差別﹂の領域の叙述の問題であることもまた留意すべきである ︵Ⅳ︶この点で四日谷敬子﹁自己肯定の神と自己否定的精神lシェリングの同一哲学とヘーゲルのイェナ論理学﹂冨井医科大学一般教育 紀窒第三号︵1983年︶閃l例ページはこの問題をエッシェンマィャーを視野に入れて検討した優れた論文であり、それは参考 になるだろうと考えている。 だろう。 畠・弓︶と表現されている。 の・函①岸︲四四画 四つつP国門の扇の︻四目雨一