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川田雄琴の『大洲好人録』について 利用統計を見る

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(1)

川田雄琴の『大洲好人録』について

著者名(日)

吉田 公平

雑誌名

東洋大学中国哲学文学科紀要

20

ページ

1-18

発行年

2012-03-10

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002443/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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川田雄琴の﹃大洲好人録﹄について

吉 田 公 平

はじめに  川田雄琴、名は資深、通称は半太夫、字は君渕、号は琴卿、晩年は雄琴と号した。貞享元年︵一六八四︶四月二十 八に江戸に生まれ、宝暦十年二七六〇︶十一月二十九日に伊予大洲に逝去した。享年七十七歳.始めは明石藩の梁 田蜆巌二六七ニー一七五七︶に朱子学を学んだが、蜆巖の勧めにより三輪執斎︵一六六八−一七四四︶に陽明学を 学んだ・享保十七年︵一七三二︶雄琴四十七歳の時に、三輪執斎の推挙により、伊予大洲藩︵六万石︶第五代藩主加 藤泰温︵やすあ?、第六代藩主泰街︵やすみち︶に仕えた,川田雄琴は三輪執斎から大洲に中江藤樹の祠堂を建立 して藤樹心学を盛んにすることを委託された、幾多の困難を乗り越えて延享四年二七四七︶に実現し、又止善書院 明倫堂︵後に藩校﹀を設立し自らがその運営に当たった,また、もう一人の師であった梁田蜆巌に大洲赴任の不安を 相談したおりには、大洲は盤珪永琢の禅心学の遺風が色濃く残っている筈であるから、むしろ心学教化の基盤がある ので、勇気を出して赴任し、禅心学を良知心学に転換させたらよいと、励ましの助言をうけている、 川田雄琴の一大洲好人録 について

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市不苛け大帯†叫国折]岸ナ﹂疋巳†裂n匂礼要  第一一ー口写  川田雄琴の著書は生前に刊行されたものはない,死後に﹁大洲好人録﹄のみが木版で刊行されたが、これまで着目 、。、れ.三レほ全くなかった.些、三輪執斎の﹃伝習墾嚢を川田雄琴が筆記した﹃伝習録筆記﹄が早稲田杢†出 版﹁漢籍国字解全圭旦に収録されたので、旧来、川田雄琴はこの=伝習録筆記﹄の筆記者として理解されてきた、こ の漢籍国字解全圭.所収﹃伝習録筆記﹄は原﹃伝習録筆記 に記された朱筆・墨筆の区別が曖昧になり・また文意が鮮 明でないところがあること、そもそも三輪執斎の﹁標注伝習録﹄が世界最初の註釈ながら、簡単なものでしかないた めに、三輪執斎の陽明学理解が浅薄なものでしかないのではないかと即断されてしまい、﹃伝習録筆起も特に注目 、。れ.三ンほなか。た.、関壁郎編﹃近世漢学者伝記著作大事些には川田雄琴の著作として﹃伝習録筆記=学談 敗鼓三豫州大洲好人録二周易家人升二卦々変説﹄が著録されているが、川田雄琴の遺著を調査紹介する作業はこれ ま﹂なされなか。た、.ム7、小山国三氏L協働して悉皆調査を行・ているが、その成果の全体については・小山氏と共 に、も、つ少しの整理をとc近い将来に公刊にこぎつけたい、その前に﹃大洲好人録﹄の特徴につい♂人報告することに したい 二  =.大洲好人録﹄の結構と成立の経緯  ﹃た洲好人録﹄の結構は次の通りである.行論の便宜上、 内は本文内の講学夜会教諭などの記事、. ﹃豫州大洲好人録﹄ ﹁好人録序﹂.寛政己未季夏.大洲藩臣 安川寛謹撰、 通し番号を附けた、、︵︶内は川田雄琴の論賛の要点.、=

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一豫州大洲好人録自序﹂、延享二年乙丑春二月 川田資深識 ﹁題言五条﹂︵凡例に相当︸ =大洲好人録﹄巻之壱.   目録  1 厩下人喜兵衛妻りき孝心貞烈の事、︵長文の解説、切磋の会など︶  2 下田乃口孝子孫平が事  3 下田の口孝子延寿院が事  大洲好人録=巻之二・   目録  4 重松村小白姓吉郎右衛門後妻貞女が事 ︵講学の成果︶  5 八口市村正木喜右衛門飢人救し事.︵講学の成果︶  6 上田口村農民六平の事 ︵講舎の夜話教諭の席︶  7 野尻村農民七郎左衛門銀子差上候事・、  8 大久喜村農民四兵衛鳥目差上候事,︵切磋の会︶  9 高山村貧民吉藏米差上候事,一庄屋が夜会教諭・講書のお世話役﹂  10 五郎村吉藏御助扶持差上候事 ͡庄屋が切磋の会に熱心︶﹁人心のエ⋮三ロ⊥良知ならんや﹂  H 成能村農民二十七人同志郷約の事 ﹁講学の意を伝へ聞いて﹂︵長文の解説︶ =大洲好人録﹄巻之一.一 川川雄琴の=大洲好人録 について

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車h・汗ナ、字中国哲字文学科紀要 第二ー口? 四  12 中山村町塗師重兵衛妻姑へ孝行之事、︵貧賎ながら誠実に孝養したこと︶  13 上灘村漁夫長左衛門家内親睦事、︵人皆可以為尭舜、蓋観於此而知之こ  14 大瀬村孝婦八兵衛か妻の事.  15 六日村農民孝子文六夫婦事.͡愚昧なる父に孝養︶  16 黒木村良農市太夫か事.  17 本町横町播磨屋権兵衛事 ﹁講席夜会に道を聞き﹂﹁信仰の一事ハ我が癖と﹂﹁講学の席取持候事﹂  18 中村町正木屋清兵衛事 ﹁夜話の学談、妻娘なども婦人教諭の席、切磋の会﹂︵清兵衛方の同志会を六部が聞き    及び、浄土真宗の他力の立場から意見を述べると、会員がそれにやんわりと反論しているニ  ー9 灘町孝子米屋彦ヒか事・  別 灘町孝P治郎兵衛か事.  21 徳森村農民清貧平次が事 ︵簾潔の操と︶  の一大洲村農夫孝子之事 =ぺ洲好人録=巻之四.  23 大洲村五助夫婦之事  24 仲之村由右衛門た婦の事  25 高岸村冶兵衛夫婦之事・・  26 古田村金八下女さん  27 大平村農夫重右衛門娘せき

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 28 黒田村孝子弥助徳右衛門与右衛門兄弟三人の事、  29 大久喜村四兵衛井鳥目差上し事、附木患子手箒の事・、﹁心ばかりは此木患子の玉のようなる物﹂    患子・手箒の献上は心術を的言しているて  30 長浜市中泉屋金治孝行親睦之事 ︵奉行の余裕の波及効果︶.1  31 湊町漁人松右衛門  32 森杓孝丁了西の事、 ﹃大洲好人録﹄巻之五  33 森村孝子源太郎事  34 森村孝子仁右衛門事  35 大平村九郎兵衛事 ﹁門内御割当の分をなを当村難儀の面々へ御わり加へ遣され候やうに﹂  36 麻生村孝子組頭市郎左衛門事  37 菅田村徳兵衛親愛の事  38 本川村孝子作治兵衛  39 袋[村孝子武助夫婦  40 河之内村源八夫婦孝心和順  41 城下市中孝子樽屋忠蔵  42 城下比志町孝婦じゆん・  43 城下町孝子山伏千寿院光明院兄弟の事 ︵四兵衛の木 川日雄芸,の=大洲 好人録=につい、 五

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東痔大字中国哲学文学科紀要 第二十[ゲ 六  44 播磨屋権兵衛井御褒美賜ハりし事  補  45 厩下人吉兵衛妻りき、  46 上灘漁師長左衛門、 巻末に次の﹁教示﹂が掲載y、\れている..=大洲好人録︻の根底を流れる倫理観が呈示されているので、全文を紹介す る.     教示  親は子を愛しミ、子はよく親を大切にし、君は申すに及ばず、すべて吾より上たる人をバうやまひ、とうとむべし. 夫婦はなれ安きもの故に、差別の⊥︶候やうにいたすべし、兄は弟を憐ミ、弟は兄に順ひ、すべて己より年たけたる人 をば丁寧につくし、疎にすべからず,友達の間詐なく、信を以て交るべし 惣じて何事によらず、たとへ利潤ありと も、人のためあしき事はなすなかれ  只々おのれおのれが職分を守り、家業専一につとめなば、自然と天道に叶ひ、 かならず 罪科なかるべし・  この﹃大洲好人録﹄の冒頭に掲載する安川寛が寛政己未季夏︵一七九九年︶に執筆した﹁好人録序﹂によると、藩 主︵第十代藩主加藤泰済︶が﹁好人録﹂を閲覧して﹁斯の書は政教に補い有れば、宜しく之を縣邑に頒つべし﹂と判 断して、藩版として出版させたという..川田雄琴逝去後三十九年のことである、川田雄琴が延享二年乙丑春三月二 七四五年︶に執筆した一豫州大洲好人録自序﹂は配慮の行き届いた一文である..﹃豫州大洲好人録﹄を編纂した根本 的意図、及び本書の基調を簡明に記しているので、全文を現代語に訳し、文意を鮮明にするために解説をはさむこと

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にする.・   在野の人々が、道を学ぶということは少ないのであるから、おおむね生まれながらの素質が素敵だったから、孝   子.忠臣.貞女.義±と称賛される振る舞いをしたのだろうか.だから、社会に道が実現されている・されてい   ないに関わらず、︵悪逆無道の︶桀村幽属の時代でも、孝子は︵道を学ばなくとも︶あるがままで孝を振る舞い、   忠臣は︵道を学ばなくとも︶あるがままで忠を振る舞います。確かにそうなのですが、残念なことに、社会に道   が実現されていない時代には、人々の感性も希薄で、為政者も︵孝子・忠臣・貞女・義士を︶称賛しないがため   に、そのように振る舞う人々が居たとしても、居ないことになってしまいます.・そのように振る舞った人々の名  前をさえ伝え残さなかったならば、なおさらその人々がそのように振る舞ったという事実を確認する術が無くな   ってしまいます.勿論、彼らは名誉を求めてそうしたのではありません.利益を求めてそうしたのではありませ   ん.自らの︵本性としての︶誠を発揮したのですから、︵彼らの振る舞いを記す︶伝記が有ろうと無かろうと、   ︵彼らの本性に後天的に︶付け加えられたり奪い減らされたりすることは、全くありません.しかし、後世にな   って道︵人間らしく生きたいという生き方︶を生きたいという心意気があって、孝弟忠信を生きた人々を思慕す   る人々にとっては、︵道を生きた人々の伝記が無いということは︶一大欠事です.伊豫の國の大洲は͡中江藤  樹.盤珪永琢の遺徳が社会に浸透しているので二兀もと︵道に生きた︶人材には乏しく有りません・・近年、市  中.田野に生きる卑賎な人々の中に、私自身が直接に見たり聞いたりして感銘し人々、藩主に称賛された人々を  幾人か集めて﹁好人録﹄五冊を編集しました。広く天下の人々に見せたいと思っているわけではありません.後  世にこの大洲の地で、道に生きたいという心意気があって、孝悌忠信に生きた人々を思慕する人々のために﹃大  洲好人録 を編集したのです、鳴呼孝悌忠信に生きた人々が、︵本書﹃大洲好人録﹄に︶示す如くこの時代に 川円推琴の﹁大洲好人録=について ヒ

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−果洋大学中国哲学文学科紀要 第二十月 八  登場したのは、天運がこのようにさせたのか..︵それだけではあるまい︶..我が大洲藩主が道を信じ、古︵の教  え︶を尊重し、政治を執っては孝悌の道を重視し、善行を称揚された、その教育の成果がこのような結果を生ん  だのてはないでしょうか.天運か人為か、それは私は関知しません.藩主が先述の如く三年四年と、孝子・貞婦  の一人一人を観察し、忠臣義上一人一人の事が耳に入れば、例外なくその人々を賞与されましたので、役人たち  はそのように生きた人々の事を上司に進言する事を喜び、大洲藩の人々は孝子貞婦忠臣義士が誉め称えられ、藩  主から賞与されることを楽しんで聞きました.︵﹃大洲好人録 が出版されたなら、なおのこレこ、今後は在野の  人々で、未だに孝悌を実践せず、未だに忠臣になり得ていない在野の人々でも、自然と感化を受けるでしょうか  ら、浬が豹に変化するのも、いずれ期待できます・、小生がまま論評を加えて我が子弟に示すことにします. この﹁自序一に述べていることを縮約したのが、﹁豫州大洲好人録﹄の巻末に附録された﹁教示﹂であるとも言え る  次ぎに掲載する﹁題言﹂は全て五条である,.  第一条の趣旨、=.豫州大洲好人録﹄に収録した逸話は、元文二年︵一七三七年︶から延享二年︵一七四五年︶に亘 る九年間の事であること、︵川田雄琴が大洲藩に出仕したのは享保十七年二七三二年︶四十九歳の時であったから、 この﹃豫州大洲好人録﹂の最終的編纂は、赴任後十三年と言うことになる。その間、藩内を順行して心学の講席に臨 んでいた そこで取材した内容が﹃豫州大洲好人録﹄に結晶したのである。︶伝を立てたのは四十余人︵実際には ﹁補﹂を加えて四十L二、複数をまとめている場合もあるのでのべ八十人という、延享二年︵一七四五年︶六月に第五 代藩主加藤泰温が三十歳で逝去したので、取材を停止した、第六代藩主加藤泰術が先代の教化政策を継承するので、 今後はなお一層好人が輩出するであろうから、後人が続編を編纂することを期待する

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 第二条の趣旨・.役所の記録を根拠とし、詳細を知る人に取材したこと.取材した人の物語に詳略があり記録にも精 粗があること  第三条の趣旨..取り上げられた人物については、かねてより知っていた人、知っていた人ながら改めてお会いした 人、まだお会いしていない人の三種類がある..始めからその人が善人であることを知っていた人は四五人のみで、そ れ以外は自分がある年に求められて、郡中を順行して教諭した際に取材したものてある.順行教諭の実情を次のよう に記している一大変興味深い内容なので、次ぎに現代語に訳して紹介することにする   わたしは、ある年、求められて、郡中に順行して教諭した事がある。毎席、男女・僧俗が百人二白人と入れ替わ   り立ち替わり参集して、︵部屋に入りきれずに縁側まであふれて︶縁側が崩れてゆり落とされる始末であった、   一度順行すると、講席に参加した人数は二一二万人にも及んだ時もあった.そのおりに﹁豫州大洲好人録﹄に採録   した孝子.貞婦を目にしたら、必ず講席が散会したのちに引き留めてその人に面会し、その人の物語を聞いたと   ころ、山野草葬に生活する鄙びた人であるから、容貌や言葉つきは野︵素朴︶ではあるが、誠実さがあふれて、   わたしを驚かすことが多かった.会うたび毎に、剛毅木訥に近い彼らの人柄にこちらが養われ、みずからは巧言   令色にまかせて、仁が乏しい人問であることを免れていないことを恥入った.. 取り上げられたのは、全員﹁山野市中の孝弟忠信の徒﹂﹁農民それも貧農・賎民・小商人・漁夫など.生活に困窮す る中で、結果として﹁孝子・貞婦・忠臣・義士﹂と称揚される生き方をした人々を取りあげている.  第四条の趣旨.文体が一様でなく、拙文であること。採録した逸話も年月が不順に終わったなどの事情を語る.  第五条の趣旨  豫州大洲好人録﹂の未完成稿が出回っているがこれが定稿であること  この﹁題言五条﹂の内、第三条が誠に興味深い・.一度の順行で参集者が二一二万人というのは恐らく誇張した数では 川田雄⋮琴の=大洲何人⇔録﹂につい’ 九

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東汀大学中国哲学之≡ナ利紀要 第一.﹁[万 ない.かつて盤珪永琢が藩主に請われて大洲に赴任して不生禅を講演し、大洲の地に如法寺を開いた・盤珪永琢は、 至る所、不牛禅を説法した講席には、それこそ男女・僧俗が蝟集したという.彼の場合、総数は二十万人は下らなか ったと記録されている 又、会津の喜多方で藤樹心学が講じられた時には千人が参集したという 人として人間らし く生きたいという心意気︵志︶に燃えていた人々は、どこにでも居たのであり、道︵いかに生きるか︶を求めていた のである 大洲藩は大藩ではない・それでいてこれだけの人々が参集したというのは驚きである.川田雄琴が大洲藩 赴任の折りに相談した、師.梁田蜆巖の励ましの助言が、順行して道を講釈した現場で誠実に生かされ、その成果が 如実に顕れたことになる 三 川田雄琴の論賛 =豫州大洲好人録一は﹁好人﹂を記録して道を志す人々に一つの道標を示した,しかし、もう一つの特色がある.そ れは主に川田雄琴の論賛にある.⊥げ一伝四十六の内、論賛があるのは十四.、その論賛に一貫するのは、講学会が﹁好 人﹂の育成.称揚に大きく貢献し、それを媒介にして、参加者が意識を高めている場面を如実に書き残していること である,順次、その梗概を述べて講学会の果たした役割を鮮明にしたい.、 ︹]二りきが孝心貞烈の事=婿養子忠兵衛が養父譲りの痩せ田畑の処分をめぐって妻のりきともめた事件.親戚を 巻き込んで紛糾の末、主筋の松本某に調整が持ち込まれる、、この松本が講学切磋会のお世話役・.その講席でこの﹁り き.喜兵衛﹂事件が話題になり、参会者が意見交換していく中で、先見に囚われて判断していたことを互いに自己批 判して、りき.喜兵衛双方の有り様を理解し、両者、特にりきの振る舞いを高く評価して、家老に上申して褒賞を承

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けることに≠、写った・参会者が自己革新していく経緯が興味深い. ︵4︶﹁後妻が自分が身ごもっ、た子を堕胎してまで、先妻の子を育てた事﹂、宗門改めの役人が巡郷した折りに庄屋組 頭なとと宗門謹之の改めが終わった後に、役人同士が一言一行の善を感嘆称揚しているのを庄屋組頭五人組等が聞い て、後妻の貞女を役人郡奉行群吏に上達した ﹁.されば此貞婦の顕ハれしも講学の絵裕ならずや﹂という、 ︵5一﹁飢えし人を救い﹂事﹂蛭害のために飢餓に苦しむ人が多数出た 喜右衛門は財産を傾けて救済した 藩主が その仁愛を感嘆称揚して米を恩賜した 喜右衛門は名聞のため、恩賜を日当てに、後世天堂決楽の望みでしたのだと ひとヒき流言されたが、藩主の仁政が進められ、役人層が講学する気風が浸透したので、悪評は自然と消えた [6︶﹁庄屋の六兵衛が飢民を救血するのを六平が助力したことなど﹂.庄屋の六兵衛夫婦は不和で家内騒動が絶えな かったか、二近年講舎の夜話教諭の席に連り、志出来きて﹂庄屋仲間の会も白宅で世話をし、他の切磋の会にも参加 L、・ 、の結果、郷約も調い、夫婦仲が良くなり家内も穏やかになり、村支配が深切になった. ︵8二極貧の小百姓の四兵衛が敵金したこと﹂ この四兵衛の事が上申されたのは、代官・小役人が定期的に開催し た切硫の会で話題になったことが契機 ͡9二高山村の吉藏が米を差しヒげたこと﹂ この村の庄屋が夜会の教諭・講書に参加し、世話役を引受るなどして、 ﹁身持ち正しく、村あつかひよろしき一として家名帯刀を許された. [10︶﹁五郎目の吉藏が助扶持を差上げた事﹂ この村の庄屋の三瀬金右衛門は﹁,教諭講書切磋等の席にのぞみ 講求 怠らなかったので村支配が親切であった ︹吉藏の振る舞いはその余裕である︶ 一H二農民同⊥郷約の事﹂.農民達が講学の意を伝え聞いて、自主的に郷約﹁相定之覚﹂十一条を定めたこと 川田 雄琴は﹁始めに誠を立る事をいひ、次に公法を慎む事をいひ、又次に農家勉め同井協力の事をいふ 其言野なりとい ‥一蜿F好、ー\録一に・つ.二、

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第   ㌦ ヘビも、暗に出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦すとまひし、聖賢の法によくかなひて、肝要の事也﹂と いい、一学±文人の事を記するハ、必其序を失ハん事を恐れ、又其文の偽りならざらん事を欲し、彼これと心外に馳 て、かへつて其實をかく事も有に、彼等は一向に志を述るまでにて、外に求めなき故、朴實にして道に近し﹂と絶賛 している. ︹12︶﹁嫁が姑に孝行せしこと一世間では華美な儀礼を行っているが、この嫁は貧賎の中で誠実に孝養していること を称賛する、 ︹13︶﹁大家族が家内親睦であること﹂ 陸象山の例を﹁好人﹂の典型であると称賛し、﹁人皆可為尭舜﹂の実証である レニ 一15二農民孝子文六録夫婦の事﹂・ 本朝孝子伝=韓魏公﹂の発言をひいて称賛する、 ͡17︺﹁播磨屋権兵衛の事﹂.小商人の権兵衛は講席夜会に参加し講舎のお世話役をする.、商業と両立しないそと批判 ぷ、 vれても 信仰の一事は我が癖と思めしゆるして﹂と答える ︵18﹂﹁正本屋清兵衛﹂ 清兵衛は商人.夜話の学談に参加,妻娘にも婦人教諭の席に積極的に参加させる.切瑳の会 を⊥催して教化活動を行う・大洲市中に切磋の会が多く開催される.清兵衛宅て開催された同志会で同宿した六十六 部͡遊行僧︶との超遁が興味深い.六十六部は商人清兵衛宅を宿にした会合であるから、さぞかしどんちゃん騒ぎに なーー、安眠できないのではないかと危惧していた。ところが﹁道の物語り、互に心得たがひなど﹂をム双議しているの を傍聴いていたが、進んで参加して次のような意見を述べた。   有為の世間法に泥ミて、ひたすらに五倫のまじハりを論じ、心術の、徳行のとて、夜をひかし給ふ・我田心ふに、   たとひ一生,㊤を用給ふとも、末世の衆生の凡夫の身のさとる事は有まじく候ヘバ、自力を費し給ふハ、人なる御

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  、心違に候ハすや.他力本願にまかせ、仏さへ御頼候は・、御心ひかめるといふとも、往生極楽疑ひ有へからず候.   夢幻の世の中に、かく骨折給ふハ、僻事ならずや、 この遊行僧は浄⊥真宗の信徒であったのであろうか,自力主義は無意義だから他力本願にまかせなされレ三会衆は穏 やかに受けとめて、次のように言う.   夢幻の世と仰候ヘハ、弥只今の一念こそ大切に候へ.其元にも当下たうとくまします心の弥陀に随ひ給ひて、御   試ミ給ふまじくや.仏のちかひの有難きも、いやましにこそおもひあたり給ふらめ 只今の御心位にて物に接ハ   リ給は、・、いか.・侍らん この発一、巳の叩て、﹁只今の一ム.心こそ大切﹂﹁当下たうとくまします心の弥陀一という﹁只今の一念﹂﹁当下たうとく﹂ という日振りは、まンこしく±龍渓などが﹁この当下現在の一念﹂に自己の存立をかけて生きることを力説した、良知 心学の鍵概念てある・さらに遊行僧に一.心の弥陀﹂と呼びかけて、心外に弥陀を立てていないことにも留意したい.. 仮に救済者レ一しての阿弥陀仏を認知するにしても、﹁心の弥陀﹂である限り、救済を願うのは﹁我が心﹂ということ になり、救済これんことを祈念する努力は日力である 六十六部を我が良知心学に半ば引きずり込んだことになる 六十六部は会衆の助言を﹁有難き結縁﹂と心得て素直に受け入れて夜もすがら講究したという.この対話はできすぎ ,﹁、いるのて、川田雄琴の半ば創作ではあるまいかとも疑われる・しかし、実話が元になって記録されたのであろう. ͡21二極貧の農夫が施しを拒むのを代官が賜ることにしたので受納した事﹂.﹁廉潔の操﹂と評価する ͡四︶﹁百姓の四兵衛が鳥目・木患了͡むくろじ・木の実︶・手箒を会所に寄進したこと﹂ その折りの一三口上に﹁貧しき 百姓も心はこの木患子同様であるから、これを失わずに生きていると家内も村内でもちゃんと生きられる﹂という 川田雄琴は四兵衛の木患子を有司から頂き、程なく上京して徳大寺中将君の御裏御殿に半月ほど逗留した際に、毎日、 川川蛸三、,,丁・、川

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艇序ノ、︹・ 四 講書した.その折りにこの四兵衛のことを話題にしたところ、清泰院君が木患子を所望したので奉った..川田雄琴は 四兵衛が,心を本患子に喩え干、日常生活で実践していることを﹁心術﹂であると高く評価し、有司に向かって次のよう に解一祝する   いでや会所は闇郡を掃除する地にして、法度禁令のよつて出る所也 民の訟獄苦楽も大やうこ・に決するなれバ、   清きが上にも清からん事を欲L、有司たらん 胸中独知の一念頭より、ようつの事物上に至る迄、一芥一塵の私   をも弥はらひ、弥清めぬべき事也.されハ格物克己の玉箒ハ、少鹿の角のつかの間も、手をまなすまじき物なら   すや かの四兵衛の献芥の誠意、もしくハかくのごとくならん. 独知11良知目木患子が独知一念の意識作用はもとより、他者に働きかけるあらゆる関係の場に微塵も私情を持ち込ま ないこと 具体的な他者との閨係の場で良知という箒︵木患子11玉︶みずからが私情を打ち払い打ち勝ち͡格物克 己一払い清めるのであるから、その工箒を瞬時も手放してはいけないと 四兵衛が寄進した誠意とはこの意味が込め られていたのではなかったのか  有司は次のように答えた   然り.・我、かれが容貌言語をミて、其誠意に感ぜり されバ彼をあなとりしにハあらねど、三隅を反ざりしハ、   是我怠り也と. ﹁三隅を反す一とは﹁論語﹄述而篇九条の=隅を挙げて、三隅を以て反せずんば、則ち復︵また︶せざるなり丁τ 踏まえる..四兵衛に木患子・箒を寄進したその真意を問いそこねたことを、怠慢であったと自己批判しているわけで ある 四兵衛の誠意に満ちた義士振りも興味深いが、それを良知心学の一表現として解釈しているところが一層おも しろい.勿論、四兵衛白身は良知心学を知らない.しかし、学知としては知らなくとも、誰もが先天的に良知良能を

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持ち合わせていると言うのが、良知心学の根本原理であった.この立場からみれば、四兵衛は無意識のままに͡作為 なしに自然に︶良知心学を発揮していたことになる.、良知心学が講学切磋の会などを介して有司の間に浸透し成熟し ていたことが、ここでの有司の返答に象徴的に見られる.、 ︵30二‘賎民の金治が孝行親睦する事一・金治は貧賎で家業に専念せざるをえないので﹁今川状一﹃実語教﹄などを熟読 する術がないから、孝行親睦するのは﹁生質の美﹂ゆえともいえるが、﹁奉行も志有人なるゆへ、その余裕︵講学の 成果が他者に波及すること︶および、かれがこときの者も、うちかたらふ友とよりより践履の実を討論して、おのが おこたりを責ぬると聞バ、一編に生質の美のミともいふべからず﹂. 四 結びに代えて  川田雄琴は順行して有司・泰行等と講学し、その折りに各地の民情をしり、孝子貞婦義士忠臣を見出して、性善説 ͡生質の美︶を⋮層確信しながらも、教育がその生質の美をよく発揮させることを強調する.まるでみずからの布教 活動の成果を確認している向きもあるが、論賛を加えることなく、﹁好人﹂の生活振りを簡明に淡々と書き残してい るところの方が多いことをみると、むしろ、他者からの布教を待たずして、生質の美が自然に存分に発揮されること をも力説しているとも言える ことさらに論賛を附していない﹁好人﹂伝の方が多いのはそのためであろう、 好人 録﹂の素材を取材できたのは確かに藩内を順行し講学したことが契機であった.・大洲藩に赴任してまもなく、心して 藩内を順行L、講学切瑳の会を重ねた、その余裕︵布教成果︶を確認したことは嬉しかったであろうし、大洲藩に招 請されて、赴任にためらいながらも、それに応じて赴任したことが間違いでなかったことを実感したであろう・それ 川旧雄︰’・チ、﹃り 一ゾ、州⋮.rOーへ担パ一⋮ °つい \ n

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東.︻日ナ、斗⋮国、⋮﹂.丁ノ㌧7す利紀要 箒   一.’ 六 が川田雄琴が大洲で生涯を終えることにさせた遠因であろう,大洲の人々が生活の場で、結果として心学を生きてい る姿を実見し、心学の生活化に応分の役割を果たし得たことを実感し得たことは幸福な生涯であった.  川田雄渠,には一!豫州大洲好人録一の外に、﹃伝習録筆記﹄ 学談敗鼓﹄﹃古本大学説屑﹄﹃琴卿妄=等がある しかし、 これらは写本のままに伝わるしかなかった.唯一、﹃豫州大洲好人録﹄のみが木版で刊行されたが、それも死後の事 である いわば忘れられた陽明学者であった。﹃豫州大洲好人録﹄以外は川山雄琴個人の哲学的古典学的著作である これらの著作も、内容の理解とその解析が全く行われていない 一瞥する限り、川田雄琴の良知心学理解は深度が深 い.その個別的な解析はム,後に待つしかない.しかし、川田雄琴の場合、社会倫理の作興を目的とする、順行・講学 の成果でもある﹁豫州大洲好人録﹂という著作と、良知心学の真理性を確認する﹁伝習録筆記﹂﹁古本大学説屑﹄﹃学 談敗鼓﹂レ一い・つ哲学的著作があるこレ一の意味は大きい 単なる書斎の哲学者ではなかった また、川田雄琴が心学を 普及させる運動を展開した時に、既成の教学を鵜呑みにして安易に実践に熱中した﹁実践屋﹂でもなかった・実践活 動の原理を再確認しながら、それを.個人の世界における実践に腸踏させずに、藩内に拡張して、原論そのものの正 しさを単に理論的に再確認するのではなくして、それを社会の多数の人々、それも貧農小白姓漁夫等の世界に検証し て、改めてり安当性を再確認していることの意義は大きい−、  この﹁豫州大洲好人録﹄の﹁好人﹂たちは、他者の不幸を目の当たりにして、見て見ぬふりをするのではなくして、 それぞれがなし得る範囲で目︸杯、さりげなく救済の手をさしのべている事実の記録に横溢している一石門心学の救 済活動︵ボランティヤ活動︶についても記録ン、﹂れていることがある 心学活動の一特色である.学者の世界に限定さ れた理論闘争が一見激しい形で展開されることがある、理論の世界における論争はいずれを勝ち組とするかは論者に よって判定が分かれるこレ一があるだろう しかし、それは所詮書斎の戯論に過ぎない・その理論が当該の現場といか

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に切り結ぶのか.その検証を経た理論なのか.あるいは検証しようという意識があったのか否か.二豫州大洲好人録﹄ は川田雄琴がみずからの実践の成果を顕示するために編纂したのではない.そうではなくして、良知心学の原理であ る性善説が社会の実情にかなう人問理解なのか.はたまた、良知心学が社会倫理学として果たして有効なのか否か. この二点を再確認するのが、順行・講学の営為であった、その決算が﹃豫州大洲好人録⊆であったと言って過言では ない  さて本稿では﹃豫州大洲好人録﹂を如上の視点でひとまず解析して見たが、実は視点をかえれば、この﹃豫州大洲 好人録一は社会史研究の上でも興味深い史実を示してくれる.・  例えば、不動産取引の仲介をする﹁取持﹂がいたこと.山伏や堕胎婆が活躍の場を持っていたこと、宗門改めの役 人が定期的に村落を巡検していたこと.当時は養子縁組が多かったこと、生活困窮者が多かったこと.藩内の支配構 造の仕組みが人脈からみで紹介又、、れていること、など、それぞれの専門家には、特別の記事ではないのかも知れない が、社会史的事実を把握するこ−.︸ができると、この﹃豫州大洲好人録﹄を多面的に解析し内容を豊かに紹介すること ができるのであろうが、その実力がないことを遺憾とする..﹃好人録﹄なるが故に、美談として決めつけられてしま いそうである ]8世紀の大洲藩内に生まれて=播民として貧しく悲しく生活しながら、その中にあって﹁好入﹂と して生きた人杉、を次世代の人み、のために願いを込めて編纂されたのが﹃豫州大洲好人録﹄である、一心学者のささや かな実践とその成果を謙虚に記録した、ほほえましい報告書といえる、 ※本稿は、平成二十二年度科学研究費補助金・基盤研究︵C︶﹁王畿の良知心学と明末の講学活動に関する基礎的研究﹂ 川川雄琴の につ.﹂“’、 一ヒ

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課題番号N家NO︵已 研究代表 小路口聡 東洋大学中国哲学文学科紀要 第. ー1山万 の研究成果の 剖である ノk

参照

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