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アメリカの現代戯曲とイギリスの現代戯曲──

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第6回大会シンポジウム特集「現代文学に見る多元文化性」

アメリカの現代戯曲とイギリスの現代戯曲

── A・アフタルの Disgraced とT・ストッパードの Arcadia ──

小田島恒志

 2016年4月に翻訳上演されたイギリスの現代劇と同年9月に上演されたアメリ カの現代劇を題材に、現代戯曲に映し出されるそれぞれの国の多元文化性につい て考察する。どちらも拙訳(後者は共訳)により上演されたので、現場での体験 を踏まえ、実際の舞台製作の上で日本の観客にはどのように伝わるのかという問 題意識を織り込んでいく。

 パキスタン系アメリカ人の劇作家アヤド・アフタル(Ayad Akhtar)の『恥辱』

Disgraced, 2013)は2013年度のピューリツァー賞を受賞した。この賞は「アメリ

カ人作家によって書かれた、できればオリジナルの物語を出典とする、アメリカ の生活を扱った戯曲」(1)に贈られるものと定義されている。言わば、「今」のアメ リカが描かれた作品、というわけだ。

 『恥辱』の多元文化性は、まず、登場人物の設定に現れている。主人公のア ミール・カプール(Amir Kapoor)はパキスタン系アメリカ人の弁護士。その妻 エミリー(Emily)は恐らくWASPと思われる白人の画家。その友人夫妻アイ

ザック(Isaac)とジョリー( Jory)のブラスウエイト(Brathwaite)夫妻は、夫

がユダヤ系の美術館キュレーター、妻はアフリカ系黒人でアミールの後輩弁護 士。そこに、アミールの姉の息子で、アメリカの生活に馴染みながらパキスタン 系イスラーム教徒としてのアイデンティティを強く自覚しているエイブ(Abe、 またの名をフセイン Hussein)が絡んでくる。さらに、アミールの務める弁護士 事務所の名前が「リーボウィッツ・バーンスタイン・アンド・ハリス(Leibowitz,

Bernstein and Harris)法律事務所」だという点が注目される。これは、三人のユ

ダヤ人による経営であることがアメリカの観客には、そして恐らく多くの国の人 たちには、名前を聞いただけでわかることを示唆しているが、日本で翻訳上演す る場合にはなかなか伝わらない。そこには、ユダヤ人経営者たちの中で、パキス タン系の、恐らくはイスラーム教徒と思われる(それは本人の口からは否定され る)主人公が働くことの微妙な問題も含まれるわけだが、それも伝わりにくい。

二〇四

(2)

ただし、この点に関しては、徐々に芝居の流れでわかるようになっている。

 物語は、アミールがその肌の色からレストランで差別的扱いを受けた話から始 まるが、扱われるのは単に人種差別の問題にとどまらず、もっとずっと文化的に 根が深いものだ。実は、冒頭のト書きから、その多元文化性が明示されている。

...The stage left wall is covered with a large painting: A vibrant, two-paneled image in luscious whites and blues, with patterns reminiscent of an Islamic garden. The effect is lustrous and magnetic.

Below, a marble fireplace. And on the mantel, a statue of Siva. Along one or more of To one side, a small table on which a half-dozen bottles of alcohol sit.

(5) 

 ここで指定されている「イスラーム式庭園を思わせるパターン」を用いた大き な絵は、画家であるエミリーの作品であることが劇中で分かるが、「白色と青色」

による「パターン」とあるように、実際の庭を模したものというよりは、一目で イスラーム美術と認識されるタイル地に描かれるような抽象的なモザイク画だと 考えられる。実際、アメリカでの初演を始め多くの上演舞台で、それぞれ舞台美 術担当者はそのような絵を描いて用意していた。日本の公演でもこれに倣い、二 村周作氏がモザイク画を描いて見せた(2)

 問題は、このように、はっきりとイスラーム文化を主張する部屋の主としての アミールの文化的背景である。なぜ、ヒンズー教の神であるシヴァ神の彫像が置 いてあるのか? アミールがイスラーム教徒だとしたら、なぜアルコール類がリ ビングに常備されているのか? など、表面的な部分で小さな疑問を抱かせるよ うな設定になっている。

 この冒頭部分のト書きでは、アミールは以下のように紹介される。

... Amir – 40, of South Asian Origin, in an Italian suit jacket and a crisp, collared shirt, but only boxers underneath. He speaks with a perfect American accent.

(6) 

つまり、初めから「パキスタン系」とも「イスラーム教徒」とも書かれてはいな いわけだ。とは言え、別の描写から、彼が「イスラーム」であることは伝わって くる。ここで、彼が上半身だけ「イタリアのスーツとパリッとしたワイシャツ」

で正装しているのに下半身は下着だけである理由は、ト書きからも実際の芝居と 会話からもわかるように、エミリーの絵のモデルをしているわけだが、それは、

二〇三

(3)

前日のレストランでのアミールに対する差別扱いが、彼女にヴェラスケス(Diego

(Rodríguez de Silva y) Velázquez, 1599-1660)の「ファン・デ・パレハの肖像」(The

Portrait of Juan de Pareja(3)を思い出させたことが切っ掛けだった。「そうね。でも

お蔭でヴェラスケスのこの絵のことが気になりだして。これを初めて見た人の反 応もそうだったんだろうな、って。ムーア人か、ムーア人のアシスタントか、っ て」(7)。

 17世紀のスペインの宮廷画家ヴェラスケスは、奴隷の身分でありながら画才の あったファン・デ・パレハを助手に取り立てた。後に彼は一人前の画家としても 仕事をするようになり、作品も残している。この肖像画に描かれた彼は、一目で 当時奴隷の身分であったことが分かるムーア人の特徴を持つ顔立ちに、立派な正 装姿でポーズをとっている。これを模して、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの敏腕弁 護士で、完璧なアメリカ発音で英語を喋るアミールが、「イタリアのスーツとパ リッとしたワイシャツ」姿でポーズをとっているわけだ。

 ここで、アミールが「出世したムーア人」と位置づけられることに意味があ る。後の場面で、ジョリーの口から「ムーア? 最近聞かない珍しい言葉が飛び 出してきた。」(45)と指摘されるように、現代アメリカでは通常使われない表現 のようだ。主に北アフリカのベルベル人と呼ばれる人たちを指すこの「ムーア 人」という表現は、大稔哲也氏によると、今では蔑称と見做されて、少なくとも 本人たちは使っていないという(4)。これが、英語圏の戯曲の中で使われると、蔑 称とは知らずに当たり前のように口にする現代アメリカ人の無頓着振りを映し出 すだけでなく、特別な効果を持つことになる。英語圏の演劇で「ムーア人」への 言及と言えば、まず、シェイクスピアの『オセロー』が思い起こされるだろう が、肌の浅黒いアミールが、社会的地位のある白人女性エミリーと結婚している という設定ばかりでなく、物語後半で妻の不貞を信じた彼が、コーランの言葉に 従い、彼女を(殺さないまでも、恐ろしい勢いで)殴り倒すという行為が、彼を

「ムーア人」と重ねることによって、『オセロー』を連想させ易くなるというイン ターテクスチュアリティ効果を持つわけである。そして、それによって、この人 種間、異文化間の葛藤がいかに歴史的に長く、深いものであるか、現代アメリカ という場にあってさえもいかに未解消のままであるかを示すことになる。

 こうして、ヴェラスケスの絵との重なりを通してアミールが「ムーア人」と位 置づけられることによって、また、壁に掛かったエミリーの大きな絵のイメー ジによって、観客は彼のことをイスラーム教徒だと見做すように誘導されてい ると言っていいだろう。では、どうしてシヴァ神の銅像があるのか? これは、

アミールが法律事務所の上司から誕生日プレゼントにもらったものだと紹介さ れるが、エミリーも疑問に思っている─「でもどうしてシヴァ神の銅像なの?

二〇二

(4)

(短い間)まさかあなたのことヒンズー教徒だとか思ってんじゃないでしょう ね?」(11)。

 エミリーの言い方からは「本当はイスラーム教徒なのに」という含意が感じ られるが、ここでもやはり、現代アメリカ人の─ここでは特に、ユダヤ系アメ リカ人の─民族/宗教に対する無頓着ぶりが映し出されているように思われる。

だが、彼の上司がそう思い込んだのには理由がある。アミールがパキスタン系の 二世であることは、劇中、甥のエイブを巡るやり取りから明らかになるのだが、

それは観客には了解されるものの彼の職場の上司たちには伝わっていない。な ぜなら、彼は入社以前に細工をしたからだ。彼の「カプール」(Kapoor)という 姓は、本名の「アブダラー」(Abdullah)という姓がイスラーム教徒に多い姓で あることを嫌って彼が変えたものだったのだ。カプールは、同じパンジャブ地 方─インド/パキスタンにまたがる地域─でも、主にヒンズー教徒に多い姓で ある。彼は、上司に父親の出身地を聞かれたときにも「インド」だと答えてい る。もっとも、父親がパキスタンで生まれたのはイギリスからの分離独立前の 1946年だから嘘を言っているわけではない。(35)

 こうして、彼が自分のパキスタン系の出自を隠していたのは、イスラーム教徒 だと見做されるのを避けるためである。逮捕されたイスラームの指導者(Imam) ファリードを弁護士として擁護してほしいと甥のエイブと親イスラームの妻エミ リーから懇願されても、Yesとは言わない。自分は同じ側の人間ではない、と拒 み続ける。後に、自分はMuslim(イスラーム教徒)ではない、とはっきりと口 にしさえする。(57)

 ところが、アイザック/ジョリー夫妻を夕食に招き、話題が民族/宗教/文化 の話になってくると、アミールは完全に一人でイスラーム側を背負って立つこと になる。アイザックがエミリーのイスラーム文化に触発された絵画を中心に個展 を開こうと誘い、その祝賀ムードになってきたところで、アミールは「君(=ア イザック)は全然イスラームのことがわかってない」と攻撃を始めるのである。

Isaac: ...Do you know Hanif Saeed? Amir: I don t.

Isaac: He s a sculptor, he s Muslim, he s devout. His work is an amazing testimony to the power of faith. He carves these monolithic pillar-like forms –

Amir (Interrupting): Have you read the Quran, Isaac? Isaac: I haven t.

Amir: When it comes to Islam? Monolithic pillar-like forms don t matter...

二〇一

(5)

Just as Emily and Jory return with the salad and bowls...

Amir (continued): And paintings don t matter. Only the Quran matters.

(53) 

 こうして、彫刻や絵画はどうでもいい、コーランだけが重要なのだ、と主張 するアミールが、これに続けて、「コーランを読みもしないで、イスラームの何 が分かる?」とアイザックに詰め寄ると、アイザックが折れて、「確かに。僕も コーランを読む必要がありそうだ」と認めるのだが、その表記が見逃せない。

Isaac: He has a point. I need to read the Koran. (55) 

 劇中、コーラン(Quran)がこのようにKoranと表記されるのはここだけであ る。恐らく、アメリカでの上演の際は、Quranは近年日本でも使われるように なった「クルアーン」という表記に近い発音で、Koranは日本でも馴染んでい る「コーラン」という発音で使い分けられていたのではないかと思われる。アイ ザックの発音が原語を尊重しない欧米式の発音であることを─そして、アミー ルの主張に対する理解が表面的であることを─示す細かい描写である。

 この後、アイザック/ジョリー夫妻がスペイン旅行を楽しんだ話をすると、ア ミールは自分たちも新婚旅行でバルセロナへ行って大いに満喫したと語る。

Amir: We went to Barcelona for our honeymoon.

The chorizo. The paella. The wine.

Spanish wines are so underestimated.

(56) 

先述の通り、この家にはアルコール飲料が常備されていて、ここに至るまでア ミールは何度もそれを口にしているのだが、このセリフとその後のアイザックの 反応が、観客の疑問を代弁してくれる。

Isaac: See, this is the problem I m having...

You re saying Muslims are so different. You re not that different.

You have the same idea of the good life as I do. I wouldn t have ever known you were a Muslim if it wasn t for the article in the Times.

(56) 

二〇〇

(6)

 「ムスリムは(価値観が)違う」と言っているけど、アミール自身はそんなに 違わない、スペインでチョリソーや、パエリアや、ワインを楽しむってことは、

「いい暮らし」と思えるものが同じってことだ、というわけだ。そして、「(タイ ムズの記事がなければ)君がムスリムだってこともわからなかったよ」というア イザックに対して、アミールが言うのが先述の「僕はムスリムじゃない」という 一言なのである。

 ここで、イスラーム教徒(と思われていた)アミールがたしなむものとしてア ルコールに加えて「チョリソー」が挙げられている点が注目される。実は、この セリフの中の「チョリソー」はアメリカでの初演時のあとに作者が書き換えたも ので、もともとは「ガウディや、パエリアや、ワイン」となっていた(5)。「チョ リソー」に変えたのはここでアミールがアルコールだけでなく、豚肉も食べる人 間であることを強調するためである。つまり、イスラームの教え、コーランの教 えにまたしても反していることが伝わってくる。

 アミールが豚肉を食べることはこの場面以前にも明示されていた。そもそもこ のディナーでのメインディッシュが「ポーク・テンダーロイン」であることが場 面(第3場)冒頭で語られていたのだが、その後も、アイザック/ジョリー夫妻 が到着したときに、次のようなやりとりがあった。

Amir: Em s making pork tenderloin.

To Isaac

You eat pork, don t you? Jory: Every chance he gets...

Isaac: Gotta make up for all the lost years...

(39) 

つまり、ユダヤ人であるアイザックもまたタブーであるはずの豚肉を「(子供の頃 に、家のしきたりのために食べられなかった)失われた年月の埋め合わせをする ためにも」食べるわけである。そうなると、アミールの「僕はムスリムじゃない」

に続く言葉と、それに対するアイザックの答えが特別な意味を持つことになる。

Amir: I m not Muslim. I m an apostate. Which means I ve renounced my faith.

Isaac (Overlapping): I know what the word apostate means.

Jory: Isaac?

(57) 

一九九

(7)

自らを apostate =背教者と呼び、それが「信仰を捨てたということ」だと説明 するアミールに対し、アイザックの言う「知ってるよ、背教者(apostate)とい う言葉の意味ぐらい」というセリフは、文字通りの意味には留まらない。背教者 の意味を知っているということは、すなわち、自分もそうだということだ。相手 の言葉に被せるように言う(Overlapping)というト書きからも、その意図が窺え る。一見、ユダヤ教徒とイスラーム教徒の対立のように見える図式が、ユダヤ教 徒ではないユダヤ人とイスラーム教徒ではないイスラーム人(=イスラーム文化 に育ちながらイスラーム教徒ではない人)の対立であることが浮き彫りになる。

そのうえで、ふたりはそれぞれの信条に基づいて議論を闘わせているのだ。

 こうした、単なる宗教論争ではない民族間の葛藤が日常の光景として描かれる のも、現代アメリカをよく映していると言えるだろう。先述のアミールがコーラ ンの話を持ち出した箇所の引用(53)のト書き─「エミリーとジョリーがサラダ と取り分け用のボウルを持って戻ってくる……」─が象徴的である。実は、この 後すっかり衝突してしまい、ディナーは台無しになるため、仲良く豚肉を食べる シーンには至らない。だが、サラダだけは皆食べる。かつて、ニューヨークは

「人種のるつぼ」だと言われたが、最近では「人種のサラダボウル」という表現 に変わってきている。溶けて混ざり合うるつぼ(melting pot)ではなく、素材が 混ざらずにそれぞれの姿と個性を持ったまま一緒に器に収まるサラダボウルのよ うである、と。まさにこれが戯曲『恥辱』における多元文化性の表象である。

 「イスラーム庭園を思わせるような絵」という指定がありながら、必ずしも庭 園が文化の表象に使われるわけではない『恥辱』に対し、文字通り「庭園」が 文化の象徴となっている戯曲がトム・ストッパードの『アルカディア』( Arcadia, 1993)である。19世紀初頭のイギリスの田舎の邸宅と現代の同場所とを「場」ご とに交互に提示するこの戯曲では、古典主義からロマン主義への推移から現代の カオス理論や熱力学第二法則に至るまで、様々な議論が展開する。

 その中で重要なモチーフになっているのが「イギリス式庭園」である。19世紀 初頭の文学におけるロマン主義の流行と並行して貴族の館で流行したのが「ピ クチャレスク・スタイル」の庭園であった。「絵のような」自然の風景を庭に取 り込むスタイルのことだが、「自然」とはどのようなものか、という考え方が変 わってきたため、初期と後期ではその庭の造形も違っている。特に、『アルカ ディア』で描かれる庭は、後期の庭園設計のモチーフに見られる「不規則性」こ そピクチャレスク庭園の主眼だと言われているのだが、この「自然は不規則なも のである」という考え方が現代のカオス理論やエントロピーの法則へと通じてい ることを並置して見せるのがこの戯曲の趣向である。

一九八

(8)

 現代の場面で、200年前の屋敷の庭のスケッチを見たロマン主義の学者バー ナードが「美しい。本物のイギリスだ」と言うと、これを古典主義者のハンナが 否定する─

Hannah: ...Before and after, you see. This is how it all looked until, say, 1810 – smooth, undulating, serpentine – open water, clumps of trees, classical boat-house – Bernard: Lovely. The real England.

Hannah: You can stop being silly now, Bernard. English landscape was invented by gardeners imitating foreign painters who were evoking classical authors. The whole thing was brought home in the luggage from the grand tour. Here, look – Capability Brown doing Claude, who was doing Virgil. Arcadia! And here, superimposed by Richard Noakes, untamed nature in the style of Salvator Rosa.

It s the Gothic novel expressed in landscape. Everything but vampire...

(36-37) 

自然の風景を取り込んだ庭園を「本物のイギリス」と呼ぶバーナードの感覚は、

恐らくイギリス人に限らず、上演時にこのセリフを耳にした日本人観客を含む多 くの現代人の感覚を代弁していると考えていいだろう。しかも、彼はそうした庭 園設計が盛んに行われた19世紀のイギリス文学を研究する専門家でもある。とこ ろがその「本物のイギリス」の風景は、古典作家=古代ギリシャ・ローマの作 家の描いた世界を再現して見せた外国の画家の絵を模倣して、庭園設計士たち

(gardeners)がでっち上げた(invent)ものだというのである。

 「可能性の達人ブラウン」(Capability Brown)というのは実在の18世紀の庭園

設計士Lancelot Brown (1715-83)のことで、「英国式風景庭園技法の確立者」と

英和辞典にも定義されている(6)第一人者である。実際、現在でもイギリス各地を 旅行して、公開されている貴族の館を訪ねると、ほとんどの場合パンフレットに

「本庭園はCapability Brownの設計による」と書かれていることが多い(7)。庭の設 計に際し「この庭には可能性(capability)がある」と言うのが口癖でそう呼ばれ たわけだが、「可能性」とは庭園風景になり得る自然の原風景に見出されたもの に他ならない。

  と こ ろ が、 そ う し て ブ ラ ウ ン が 設 計 し た 風 景 は ク ロ ー ド(Claude Lorrain, 1600-82)の風景を模したものだとされているが、クロードはフランスに生まれ てローマで活躍した画家である。そのクロードの描いた風景はイギリスの風景で ないばかりでなく、実際に目にしたフランスやイタリアの風景ですらなく、ロー マの詩人ウェルギリウス(Vergil, 70-19 BC)の詩に言葉で描かれた風景で、その

一九七

(9)

イメージとしてハンナはギリシャの一地方名にして「理想郷」の代名詞にもなっ たアルカディアを挙げている(8)

 これだけでも「本物のイギリス」の風景が多元文化的であることは十分示され ているが、さらに、そうしてブラウンの造った庭における風景の「自然」観が変 わったことに応じて、サルヴァトール・ローザ(Salvator Rosa, 1615-73)(9)の絵の ようになっていったと言う。イタリアの画家サルヴァトールの描く自然は、ク ロードの「理想的な」自然風景に比べて断然荒々しい。イギリスの「自然」観が このように変わっていった原因についてもハンナは言及している。良家の子息が イタリアに留学(遊学)して文化を吸収して帰国する、いわゆる「グランドツ アー」によって持ち帰られた、という言葉が示しているのは、単にそのような絵 を持ち帰ったというだけではない。陸路を選んだ者たちは、アルプス越えを経験 し、「自然」というものがイギリスで目にするものより遥かに荒々しく厳めしい ものであることを、目の当たりにしたのだ(10)

 これと同じことが、19世紀初頭の場面で、同じように「アルカディア」という 地名(または理想郷の意匠)に言及しながら、屋敷の女主人レディ・クルームの 口から語られる。ここでは、庭園設計士ノークスの設計図によって、屋敷「シド リー・パーク」の庭が現代風に、すなわちピクチャレスク・スタイルに、それ も、自然を荒々しいものとして捉えなおした後期のピクチャレスク・スタイルに 作り変えられることになったことを知った夫人が弟のブライス海軍大佐と共に異 議を唱えることになる。

Brice: It is all irregular, Mr. Noakes.

Noakes: It is, sir. Irregularity is one of the chiefest principles of the picturesque style – Lady Croom: But Sidley park is already a picture, and a most amicable picture

too. The slopes are green and gentle. The trees are companionably grouped at intervals that show them to advantage. The rill is a serpentine ribbon unwound from the lake peaceably contained by meadows on which the right amount of sheep are tastefully arranged – in short, it is as God intended, and I can say with the painter, Et in Arcadia ego! Here I am in arcadia, Thomasina.

Thomasina: Yes, mama, if you would have it so.

Lady Croom: Is she correcting my taste or my translation?

Thomasina: Neither are beyond correction, mama, but it was your geography caused the doubt.

(19) 

一九六

(10)

「不規則性こそピクチャレスク・スタイルの真髄なのです」と言うノークスに対 し、レディ・クルームは「(絵のようなスタイルにしたいというけど)シドリー・

パークはすでに一幅の絵です、それもとても好ましい絵」だと反駁し、それは

「神の創りしままの」自然の風景であり、まさに今自分は「理想郷」にいるのだ という意味で「私はアルカディアにいる」と言うわけだが、この「Et in Arcadia ego」というフレーズに対するトマシナの反応が絶妙である。今述べたような解 釈をしてみせた母親に「(そうでしょ)トマシナ?」と同意を求められた彼女は

「ええ、ママ、そう言いたければどうぞ」と含みのある反応を見せ、「この子は私 の趣味を正しているのかしら、翻訳を正しているのかしら?」と言う母親に「ど ちらも正す必要はないわ、ママ、ただ、ママの地理の知識が怪しいと思っただ け」と答えている。確かに、「アルカディア」はギリシャの地名なのだから、イ ギリスの邸宅にいる母親にこう告げるのは、いかにも子供らしい反応である。だ が、ここに至るまでにすでにトマシナが13歳とは思えぬ知識を持ち、いわば天才 少女であると察知している観客には、彼女のこの返答が「無邪気な子供の振り」

をしているものだと了解される。つまり、少なくても「Et in Arcadia ego」に対 する解釈に─(母親の)趣味の問題であるにしろ翻訳の問題であるにしろ─疑 義があるわけだ。

 このことは、すぐ後の場面で氷解する。狩りから戻ってきたクルーム伯爵一行 を迎えに一同が庭へ出て行くと、後に残ったトマシナとセプティマスとの間で次 のようなやり取りがある。

Thomasina: ...Papa has no need of the recording angel, his life is written in the game book.

Septimus: A calendar of slaughter. Even in Arcadia, there am I ! Thomasina: Oh, phooey to Death!...

(21) 

父親が狩猟その他で動物を殺すことを嫌悪するトマシナにセプティマスが「アル カディアにあってさえ、我はあり!」と件のフレーズに対してレディ・クルーム とは違う「翻訳」を提示すると、トマシナは「やぁね、死神(Death)のやつっ たら!」と答えて「我」を「死神(死そのもの)」と捉える解釈をセプティマス と共有する。

 この解釈の違いは、天才少女とその秀才家庭教師の翻訳の方が正しく伯爵夫人 が間違っている、という類のものではなく、それぞれ違う解釈をしていることに こそ意味があるのだ。レディ・クルームはこの「Et in Arcadia ego」というフレー

一九五

(11)

ズを引用する前に、「あの画家の言葉を借りれば」と言うが、恐らく、物語設定 上の19世紀初頭であろうと現代であろうと、これを耳にした人々が連想する「画 家」とは、17世紀のフランスの画家ニコラ・プサン(Nicolas Poussin, 1594-1665)

のことだろう。ルーブル美術館所蔵のプサンの表題作(c.1637)は、たとえば今、

インターネットで「Et in Arcadia ego」というフレーズを入れて検索を掛ければ、

文字検索でも画像検索でもほぼ半分以上この絵を提示することからも、一般的に このフレーズと結びつく構図と考えていい(11)。牧歌的風景の中で、二人の牧羊 人が墓石を指さしていることから、「Et in Arcadia ego」は墓碑銘だと考えられる が、傍らに立つ女神の化身かと思われる女性と、神かまたは神に仕える者かと思 われる男性が、表情に微笑みをたたえていることからも、ここに死に対する恐怖 や警告の意義は読み取れず、墓に眠る人物の「今では死んでしまったこの私だっ て、かつては(理想郷)アルカディアに住んでいたのだ」という哀歌的ながらも 平和的な意味合いが感じられる。すなわち、レディ・クルームの翻訳/解釈はこ の絵に基づくもので、「私も(理想郷)アルカディアにいるんだわ!」という発 言に繋がるわけである。

 ところが、プサンはこのルーブル美術館所蔵の「Et In Arcadia Ego」とは別に、

同じタイトルの絵を数年前に描いており、それがイギリス・デヴォンシャー公爵 の地所チャツワースにある「デヴォンシャー・コレクション」の中に所蔵されて いるのだが(12)、こちらの絵の伝えるモチーフは全く違っている。二人の牧羊人 が墓石の墓碑銘を読んでいて、傍らに女神らしき女性と神らしき男性がいるとい う構図は同じながら、ルーブル所蔵のそれとは正反対に、陰鬱な、もの悲し気な 雰囲気を醸し出しており、女性の顔からは不安を、座り込んで病的な背中を向け ている男性の姿からは絶望を読み取ることができる。一番大きな違いは、墓石の 上に髑髏が載っていることで、「Et in Arcadia ego」という言葉は、まさにこの髑 髏から発せられているように思われ、そうなると「我(ego)」とは「死」そのも のをさすことになり、「(理想郷)アルカディアにあってさえ、我、死(死神)は あり」というトマシナとセプティマスの解釈に添うことになる。

 アーウィン・パノフスキー(Erwin Panofsky)は『視覚芸術の意味』の中で、

「Et in Arcadia ego」というラテン語は「アルカディアにおいてさえ、我はあり」

と訳すべきであり、これを発しているのは、プサンの絵に即して言えば、墓に眠 る今は亡きアルカディアの一住民ではなく、擬人化された「死」ということにな る、と説明している。そして、このモチーフが初めて絵画に導入されたのも、こ の意味においてであったが、それはプサンではなく、プサンがローマへやって来 る直前にローマを去ったジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ・グェ ルチーノ(Giovanni Francesco Barbieri Guercino, 1591-1666)だと言う(13)。グェル

一九四

(12)

チーノの「Et In Arcadia Ego, c. 1622」では、二人のアルカディアの牧羊人が、放 浪の途中、崩れかかった切石の上に載った、腐敗と時間を象徴する蠅と鼠にた かられた髑髏を突然見て足を止めている。この石に書かれた「Et in Arcadia ego」 という言葉は、まぎれもなく髑髏によって発せられたものであり、そこには哀歌 的、平和的な響きはなく、この絵が伝えようとしているのは、生の無分別な享楽 を戒める「死を忘れるな」(memento mori)の警告である。

 グェルチーノの絵、プサンの第一の絵(デヴォンシャー・コレクション)、プ サンの第二の絵(ルーブル美術館)と、同じタイトルの三枚の絵を描かれた順に 並べてみると、「Et in Arcadia ego」というフレーズの解釈の変遷をそのまま見る ことができるだろう。すなわち、「(理想郷)アルカディアにあってさえ、我、死

(死神)はあり」という警告から「今では死んでしまったこの私だって、かつて は(理想郷)アルカディアに住んでいたのだ」という牧歌的、郷愁的な哀歌と 受け止める感性の推移である。「プサンのルーブルの絵は、もはや死との劇的な 対面ではなく、生者必滅という観念への沈思を示している。われわれは、薄い ヴェールをかぶった道徳主義から、ありのままの哀歌的な情緒への変化へと出会 うのだ」(14)とパノフスキーは説明している。そうなると、レディ・クルームの解 釈は決して間違っているわけではなく、当時の一般に広まっていたプサンの第二 の絵(ルーブル所蔵)に基づく発言だったわけで、その点で、トマシナの「え え、ママ、そう言いたければどうぞ」という言葉も、「(趣味も翻訳も)どちらも 正す必要はない」という意見も、嘘を言っているわけではないことになる。

 ところが、パノフスキーによると、本来の「アルカディアにおいてさえ、我、

死はあり」と読む解釈が、ヨーロッパ大陸では長い間忘れられながらも、イギリ スではジョシュア・レイノルズ卿(Sir Joshua Reynolds ,1723-92)一派を中心に親 しまれ、「死を忘れるな」という観念を残そうとする伝統が「島国の伝統」とし て守られてきたという(15)。実は、それを仄めかす一言が、戯曲『アルカディア』

の第二場、現代の場面で登場する。

Bernard: ... I spoke to the son on the phone but he didn t mention you by name and then he forgot to mention me.

Hannah: Valentine. He s at Oxford, technically.

Bernard: Yes, I met him. Brideshead Regurgitated.

(33) 

屋敷を訪ねてきたバーナードが、当家の長男ヴァレンタインのことをオックス フォードの学生(正確には、ポスト・ドクトラルの研究生)だと知った時の反応

一九三

(13)

である。この「ブライズヘッド」(Brideshead)というのは、イーヴリン・ウォー

(Evelyn Waugh, 1903-66)の小説『ブライズヘッドふたたび』(Brideshead Revisited, 1945)に登場する架空の貴族の地所の名称だが、その跡取り息子とオックス フォードで同級生だった語り手が学生時代に屋敷を訪ねて行ったことを後に「ふ たたび訪ねた」(Revisited)際に回想する、という設定だ。バーナードは「貴族 の地所」「跡取り息子」「オックスフォード」という共通点からこの名称を口にし たわけだ。

 バーナードはここでRevisitedという語をRegurgitated (吐き戻した)という語 に置き換えて駄洒落のように言っているが、「よみがえってくる」という意味に おいては原意を踏襲しており、それにより観客にこのウォーの小説を連想させる ことが重要なのである。この小説では、語り手が学生時代に医学部から購入した 髑髏を薔薇模様の鉢の上に置き、その額に「Et in Arcadia ego」の文字を刻んで 享楽を戒める章があるのだが、まさにこのフレーズが章題にもなっている。さす がにここまで日本の観客に連想を求めるのは難しいが、小説なり映画なりで「ブ ライズヘッド」という名称に聞き覚えのある人には無理なく連想できることであ り、イギリスの観客の多くはそのように反応するものと考えられる。

 このような、「Et in Arcadia ego」というフレーズに対するレディ・クルームと トマシナ/セプティマスの解釈の違いは、もう一つ別の意味を持つことになる。

すなわち、伯爵夫人のそれがフランス所蔵の絵に基づくフランス的な、ヨーロッ パ的な解釈であるということと、娘とその家庭教師のそれが、イギリス所蔵のイ ギリス的な、伝統的な解釈だということは、先述のような、古典主義からロマン 主義への推移の時代だということに関わってくるのである。

 レディ・クルームが「この子は私の趣味を正しているのかしら」と言うときの

「趣味」とは、このフランス的な、ヨーロッパ的な、すなわち当時のイギリスの 貴族的な趣味に他ならない。「ノルマン人の征服」(1066)以降、イギリスの貴族 社会はフランス的、平民社会は土着のイギリス的、と文化(乃至は「趣味」)が 二分されてきたことは、例えば、動物を表す言葉が、食卓に上る「肉」を表すフ ランス語(例えば pork)と農夫が世話をする動物を表す英語(例えばpig)に分 けられることに象徴される。実はこれは、この劇の冒頭でも暗示されていた。

Thomasina: Septimus, what is carnal embrace?

Septimus: Carnal embrace is the practice of throwing one s arms around a side of beef.

Thomasina: Is that all?

Septimus: No... a shoulder of mutton, a haunch of venison well hugged, an embrace

一九二

(14)

of grouse...caro, carnis ; feminine; flesh.

(4) 

いきなり「肉欲的な抱擁(carnal embrace)って何?」と訊かれたセプティマス が、13歳のお嬢様には本当のことを言うべきではないと判断して、咄嗟に話を誤 魔化し、語源のラテン語の勉強へと誘導する巧みな、と同時に、滑稽な会話で、

ロンドンでも東京でも冒頭から観客の笑いを誘っていたが、ここには、「抱きし める肉」として最後の雷鳥(grouse)以外は牛(beef)、羊(mutton)、鹿(venison) と典型的なフランス語由来の言葉が挙げられることで、あらためて当時の貴族

「趣味」を思い起こさせるという効果もある。

 当時の貴族の存在は、庭園同様、「神の創りしままの」秩序に裏付けられたヒ エラルキーに則ったものであった。その秩序を根底からひっくり返そうという動 きが、他ならぬフランスで起こった─1789年のフランス革命である。文学が古 典主義からロマン主義へ、庭園設計が整然とした幾何学的なものから自然を取り 込むピクチャレスク・スタイルへ、さらには、自然を「不規則」なものと考える スタイルへと移っていったのは、まさにこの時代の流れに沿ったものだったので ある。貴族であるレディ・クルームやブライス大佐がこの不規則な自然をモチー フにした庭園設計を嫌うのも当然である。ノークスの図面を見ながら、ブライス 大佐は次の言葉でこれを却下する。

Brice: Is Sidley Park to be Englishman s garden or the haunt of Corsican brigands? Septimus: Let us not hyperbolize, sir.

Brice: It is rape, sir!

Noakes (defending himself): It is the modern style.

Chater (under the same misapprehension as Septimus): Regrettable, of course, but so it is.

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ここで、大佐とノークスはこの「モダンスタイル」の庭園設計の話をしているの だが、それをセプティマスとチェイターは、チェイター夫人が庭園内で「肉欲的 な抱擁」をしていたことへの言及だと誤解している。そのダブルミーニングの効 果を持たせる言葉の選択として、「イギリス人の庭園」の対照を表すのに「コル シカ島の山賊どもの巣窟」と具体的な地名を出しているのは、ナポレオンへの連 想を促すために他ならない。少なくとも、コルシカ島がナポレオンの生誕地であ ることを知る観客には、この意味するところが伝わるはずである。すなわち、新 しい庭園の設計を否定することは革命を否定することであり、「神の創りしまま

一九一

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の」秩序を守ることなのである。

 このように自然を不規則なものと捉える考え方は、近年になってカオス理論や エントロピーの法則などにより理論的にも明らかにされてきたが、19世紀と現代 の場面を交互に見せることで、その呼応関係を提示するのがこの戯曲の趣向であ ることは先に述べた。それをただ交互に見せるだけでなく、ストッパードはさら に二つの演劇的な手法でこれを達成している。

 まず、第二場の冒頭のト書きの含意である。

...Something needs to be said about this. The action of the play shuttles back and forth between the early nineteenth century and the present day, always in this same room. Both periods must share the stage of the room, without the additions and subtractions which would normally be expected. The general appearance of the room should offend neither period. In the case of props – books, paper, flowers, etc. – there is no absolute need to remove the evidence of one period to make way for another. However, books, etc., used in both periods should exist in both old and new versions. The landscape outside, we are told, has undergone changes. Again, what we see should neither change nor contradict.

On the above principle, the ink and pens etc., of the first scene can remain. Books and papers associated with Hannah s research, in Scene Two, can have been on the table from the beginning of the play. And so on. During the course of the play the table collects this and that, and where an object from one scene would be an anachronism in another say a coffee mug it is simply deemed to have become invisible. By the end of the play the table has collected an inventory of objects.

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すなわち、終幕までにテーブルの上には過去のものも現代のものも「捌ける」こ となく混在することになり、まさにエントロピー値が高くなった混沌(カオス)

状態を呈することになるわけである。

 もう一つの手法とは、舞台上で過去の場面と現代の場面が同時進行することで ある。最終場の第七場は途中から過去の登場人物と現代の登場人物が同時に現れ て、それぞれのストーリーを演じることになるのだが、現代の場面では「時代祭 り」的なダンスパーティの準備で一同が19世紀の衣裳を着けるために一層混在感 が強くなっている。さらに、ラストシーンは、過去と現在のそれぞれ一組ずつの ペア─トマシナとセプティマス、ハンナとガス─が、同時にワルツを踊って終 幕となる。このワルツを教えてほしいというトマシナのセリフはこうなっている。

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Thomasina: I must waltz, Septimus! I will be despised if I do not waltz! It is the most fashionable and gayest and boldest invention conceivable – started in Germany !

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現代において「本物のイギリス」と思われているものが、フランス、イタリア、

ギリシャなどの過去の文化を経たものであったことはこれまで見てきた通りだ が、その現代と過去が混然一体となる場面を作り出す「触媒」となっているのが ワルツというドイツ文化であることが、文化の多元性を一層際立たせていると言 えるだろう。

 戯曲『アルカディア』にはもう一つ多元文化性がある。1993年4月13日、ロン ドンのナショナル・シアターで初日を迎えたこの芝居のために、当日のタイムズ

紙(The Times)は破格の扱いでこれを紹介した。簡単な紹介記事とは別に、作者

ストッパードのインタヴューや劇中言及される「科学用語解説」まで掲載された のだが、その見出しが、「大いなる壁に入った亀裂─これできっと文学と科学と の間に橋が架かることに」(16)というもので、C・P・スノウ(C. P. Snow)が「二 つの文化」を定義して以来、両者間の隔たりが広がる一方であったことに触れつ つ、『アルカディア』はその橋渡しに成功している点で特に賞賛に値すると述べ ている。すなわち、文系文化と理系文化の共存である。

 今回取り上げたアメリカの現代戯曲とイギリスの現代戯曲は、それぞれの手法 で、それぞれ「アメリカ的」「イギリス的」とされているものが多元文化的なも のであることを提示しているものであった。『恥辱』は、アメリカ的な文化の表 層がサラダボウルのように様々な個性を持った民族文化、地域文化の集合体であ ることを映し出していた。『アルカディア』は、イギリス的と思われているもの が様々な文化の融合体であり、さらに過去と現代、文系と理系など、様々な文化 の混在、共存を呈するものであった。どちらも、翻訳を通して日本の観客に伝え るのには限界はあるものの、演劇という形式だからこそ可能な面も見られた。あ らためて、文化というものがそもそも多元的なものであることを映し出す二つの 戯曲が、世界的に民族/文化の分離/隔絶を志向する動きが高まりを見せた2016 年に日本でも上演されたことの意義は大きかったと言えるだろう。

使用テキスト:

『恥辱』:Akhtar, Ayad. Disgraced. New York: Back Bay Books / Little, Brown and Company, 2013.

『アルカディア』:Stoppard, Tom. Arcadia. London: Faber and Faber Ltd, 2009.

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(17)

 

(1) The Pulitzer Prize Official Site: http://www.pulitzer.org/page/how-enter(2016.7.6. 閲覧)

 (2) 例えば、Craig S. Kaplan氏が2015年に担当した時のテキスト解釈と舞台で使用し た絵はhttp://isohedral.ca/tending-toward-the-convex/(2016.7.6. 閲覧)参照。

 二村周作氏作成の絵は、『エンタステージ』WEBページ2016年9月10日付のペー ジに他の舞台写真とともに掲載されている:

http://enterstage.jp/news/2016/09/005626.html(2016.12.18. 閲覧)

 (3) Portrait of Juan de Pareja: https://en.wikipedia.org/wiki/Portrait_of_Juan_de_Pareja

(2016.7.6. 閲覧)

 (4) 大稔哲也氏にはシンポジウム当日(2016.7.9.)、会場で話を伺った。

 (5) 初版Akhtar, Ayad. Disgraced. London, New York: Bloomsbury, 2013. P.48.

 同年出版ながら、こちらは2013年5−6月のロンドン公演用に出版されたもので あり、使用テキスト(Back Bay Books)はその公演を終えてからそのことへの言及 も含めて9月に出版された。

 (6) 『リーダーズ英和辞典』(電子版、2007年)、Brownの項目。

 (7) 例えば、本論文中にも言及のあるデヴォンシャー公爵の地所「チャツワース」の ガイドブックにも記述が見られる。

 Chatsworth: Home of the Duke and Duchess of Devonshire. Derby: Derbyshire Countryside Ltd, 2005. p.62.

 (8) クロード・ロランのウェルギリウスの詩から観念的に風景を描いた「理想的風景 画」の例としてAscanius Shooting the Stag of Sylvia: https://en.wikipedia.org/wiki/Ascanius_

Shooting_the_Stag_of_Sylvia(2016.7.6. 閲覧)

 (9) サルヴァトール・ローザの描いた「荒々しい自然」の例としてLandscape with Tobit and the Angel (1670): THE NATIONAL GALLERY: https://www.nationalgallery.org.uk/

paintings/salvator-rosa-landscape-with-tobias-and-the-angel(2016.7.5. 閲覧)

Rocky Landscape with Waterfall (c. 1640): THE WEB GALLERY: http://www.wga.hu/

html_m/r/rosa/ (2016.7.5. 閲覧)

(10) この辺りの事情は、小池滋『ゴシック小説を読む』(岩波書店、1999年)に詳し く述べられており、クロード・ロランやサルヴァトール・ローザの絵画も掲載され ている。

(11) Et in Arcadia ego (1637-38, 1627) Nicolas Poussin, (c.1618-22) Guercino WIKIPEDIA:

https://en.wikipedia.org/wiki/Et_in_Arcadia_ego(2016.7.6. 閲覧)

(12) 同上。ここで触れている三枚の同タイトルの絵はすべて注(11)のWEBサイトで 閲覧できる。

(13) パノフスキー、アーウィン『視覚芸術の意味』(中森義宗・内藤秀雄・清水忠訳、

岩崎美術社、1971年)pp.284-5。

(14) 前掲書、p.291。

(15) 前掲書、p.287。

(16) Times, The. 13 April, 1993.

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参照

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