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古泉千樫「燭影」考 : 大正期アララギ裏面史(4)

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著者 千野 明日香

出版者 法政大学国文学会

雑誌名 日本文学誌要

巻 77

ページ 46‑58

発行年 2008‑03

URL http://doi.org/10.15002/00010158

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これまで三回にわたり述べてきたように、原阿佐緒は、古泉千樫の生涯を変えた女性だった。千樫は上京して左千夫門下に入った後、二度の転機を迎えている。「大正期アララギ裏面史二」では、千樫の迎えた最初の転機について詳述した。最初の転機とは、千樫が「アララギ」の編集発行人の座を、赤彦に明けわたしたときだった。そのいきさつは、つぎのようなものであった。千樫は初め原阿佐緒の歌のファンであった。大正元年十二月頃、阿佐緒にファンレターを出したことから文通が始まったらしい。一年の文通を経た大正二年十二月、阿佐緒は千樫に会うため宮城から上京した。十二月十八日の夕刻、千樫の隣家から火が

古泉千樫「燭影」考

はじめに l大正期アララギ裏面史四

出た。千樫の家は風上にあったため類焼を免れたが、鎮火直後の焼け跡からは煙が立ち昇り、火事場見物の野次馬であたりは騒然としていた。このとき阿佐緒が千樫の家に現れた。二人が顔を合わせたのはこの晩が初めてだった。このときの出会いを題材にした連作が、「灰儘」(十首)である。数日後の十一一月一一十四日頃、二人は千葉県稲毛の海岸にあった旅館海気館で一夜を過ごす。この一夜を題材にした連作が、「燭影」(八首)である。この一夜で、千樫は深い恋に落ちた。千樫は、突然陥った恋で動揺し、『アララギ』の編集事務が手につかなくなる。そのため、編集中だった「アララギ」大正三年正月号を大幅に遅刊させる。そのことが、編集発行人の座を赤彦に明け渡すことにつながった。このときの感情のもつれから、千樫は「アララギ」に非協力的な態度をとるようになる。大正三年正月号の大幅な遅刊は、ひとえに千樫の怠惰な性格によって引き起こされたと考えられてきた。しかし、主に「灰

千野明日香

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艦」の背景の考察を通じて、このとき千樫が阿佐緒との関係で異様に苦しい精神状態に陥ったこと、その結果、編集発行人を交替したことがわかった。「大正期アララギ裏面史一、三」では、その後日諏となる千樫の二度目の転機について述べた。二度目の転機とは、千樫が「アララギ』から追われたときである。この二回は、つぎのような内容だった。千樫は海気館での一夜以来、阿佐緒を恋い続けた。一方阿佐しょうじいきみ緒は、初恋の人庄子勇との結婚、離婚を経た後、同じアララギ同人で東北帝大教授石原純の求愛を受けていた。千樫は阿佐緒が純にひかれているのを知り、阿佐緒の親友三ヶ島葭子とともに、阿佐緒を純と添わせようと考えた。だが、赤彦など他のアララギ派の幹部同人たちは、純と阿佐緒が別れるよう主張し、千樫と対立した。純は妻帯者で、高名な学者として教職にもあった。大正十年七月、不倫恋愛のスキャンダル報道がなされ、これを機に、千樫と葭子のアララギ派内での立場は悪化する。報道後、阿佐緒と葭子は、赤彦によってアララギ派から追われた。だが、幹部同人の千樫を追うことはできなかった。大正十二年、千樫は北原白秋などとともに『日光』を創刊する。赤彦はこの機会をとらえて、千樫をアララギ派から追った。(以上大正期アララギ裏面史三)従来の研究によれば、純はストーカーで、阿佐緒はその被害者だった。被害者阿佐緒が、スキャンダル報道で純を誘惑した「妖婦」と決めつけられる。そのため、葭子が阿佐緒をかばい、 千樫は阿佐緒に同情的な態度をとったとされてきた。だが、実際はかなり様相が異なる。善意から出たとはいえ、スキャンダル報道を引き起こす要因を作ったのはむしろ葭子と干樫だったといえる。そのため、赤彦は葭子と千樫を追ったのだった。(以上大正期アララギ裏面史一)四回目の本稿では、もっぱら「燭影」の背景をとりあげてみたい。なぜなら、「燭影」の題材である海気館の一夜は、千樫にとって運命的な意味を持つ。阿佐緒との生涯にわたる交渉は、この一夜から生じた。それにもかかわらず、「燭影」の背景については、モデルが阿佐緒であることを除いては、これまで論じられたことがない。しぼう超みのる「燭影」について、茂士ロの門人柴生田稔は「巧繊で」「誠が(椎l)とくじゆ少ない」と倫理的に評し、千樫の門人橋本徳壽は、「甘美で官能的で、潤うて匂ひが高」く、「斯ういふ歌は注釈するとあぢママはひがぬけてゆく、理〈玄を強ひる可きでなく、ただ感ずべきも(注2)のだ」と評している。筆者は、柴生田の倫理的な評は文学的な意味を持たないと考える。また、橋本の「甘美で官能的で、潤うて匂ひが高」いという評には同感するが、「注釈するとあぢはひがぬけてゆく……ただ感ずべきもの」とは思わない。なぜなら、橋本がいうように、「燭影」はわかりやすく、注釈など必要無いように見えながら、よく読むと謎めいた雰囲気を漂わせた連作だからである。上述したように、「大正期アララギ裏面史二」では、主とし

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まず、「燭影」(八首)について紹介したい。「大正期アララギ裏面史二」で述べたように、初出は前田夕暮編集の「詩歌」(四巻三号、大正一一一年一一一月一日発行)である。「燭影」の題名は使われていなかったし、歌数も初出は五首のみだったが、それらについて、ここで繰り返すことはしない。以下は、『定本古泉千樫全歌集」所収の「燭影」八首である。推敲を経て、歌数も増えている(番号は筆者による)。一「湯を出でて夜の廊下のつめたきにふと胸さわぐ君をひとり置きて」 て「灰儀」の背景を取り上げたが、「灰儘」で描かれた、年末の、夕闇立ちこめる火事場の雰囲気は、朝日新聞に残る当日の火事の記事によって、より深く理解できるようになったと思われる。それは、「灰儘」がアララギ派の掲げた、忠実な写生の手法による作品だからであろう。当然、「燭影」も海気館の一夜が、写生の手法でうたわれているはずだ。(注3)この稿では、阿佐緒の歌稿手帳、歌稿ノート類、自伝小説「黒く注4)い絵具lざきやかなる自伝にかへて」{以下では「黒い絵具」と呼ぶ)、千樫の書簡などから、千樫の運命を変えた、阿佐緒の内面に迫ってみたい。(注5)「燭影」のテキストは、「定本古泉千樫全歌集」所収の「燭影」(八首)を用いる。

1.眠らない女 二「夜の海の暗きを見つつ君居たり一人し居りて何をか思ひし」三「闇の海に赤き火一つおぼつかなひとりし君をおきにけるかも」四「さ夜ふかみ小床になびく黒髪をわがおよびにし捲きてかなしも」および・五「燭の火をきよき指におほひつつ人はゑみけりその束のまを」六「夜は深し燭を続ぐとて起きし子のほのかに冷えし肌のかなしさ」七つ7つつなぐねむるおもわも見むものを相嘆きつつ一夜明けにけり」八「朝なればざやらざやらに君が帯むすぶひびきのかなしかりけり」問題は七首目である。ここには、眠らない女が現れる。。夜明けにけり」とあるから、すでに夜は明けている。だが、「うつつなぐねむるおもわも見むものを」からは、女が眠らず、作者が女の寝顔を見ていないことがわかる。五首目、六首目からわかるように、女は夜中まで蝋燭の灯りをともし続け、夜明けまで寝顔を見せない。この夜、阿佐緒は実際に寝顔を見せなかったようで、千樫は(注6)大正一二年一月一八日付けの阿佐緒宛の手紙で、「きういへばこの間私はあなたのねむったお顔を見なかったことを思って妙に寂しくなったのでした」と書いている。興味深いのは、阿佐緒が日常生活でも同じように寝顔を見せ

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なかったらしいことだ。以下は阿佐緒の「黒い絵具』に出てくる、主人公久和子(Ⅱ阿佐緒)と本庄勇吉T庄子勇)の寝室の情景である。阿佐緒は千樫と別れた一一か月後の大正三年四月、初恋の人庄子勇と、二度目の結婚をした。「勇吉(Ⅱ庄子勇)はよく夜ふけに、否、朝明けまでもぱっちりと目を開いて自分の寝顔を見つめている久和子丁阿佐緒)の顔を見出しては、おどろいたことがあった。彼にはそれが気味わるくさえ思われたらしい。『久和さん、おまえどうしたの?そんなに俺の顔が気に入ってるのかい?でも、今夜は、僕も眠れなかったので、いつも久和さんは少し変だと思うから、実は眠ったふりをして何をするか見てやろうとしていたのだよ。夢でも見たふうにして、時々うす眼をあいて見ると、いつまで経っても久和さんは目をぱっちり開いているんだもの…。俺は恐くなったよ…。まさか殺そうと思ってるんでもあるまいね。でも、久和さん、それがおまえの性的な興奮なのかね。不思議に…。おまえは俺の顔ばかりしか愛着を持たないのだね…。実に不思議だね…。お前に可愛がられたら神経衰弱になつちまうね。本当におまえは、たったそれだけで気がすむのかえ?妙だなあ…」(中略)勇吉が眠りながらに、久和子のあらわな腕によだれ垂誕を滴らすことなどもあったが、彼女はそんなとき自分を一層エクスタシーの絶頂に導いた。彼女はそうした感情の後で、疲れ切って眠った。そのほかには彼女は殆ど性欲的の快感を経験しなかった」二○六、一○七頁)阿佐緒は、ここで男には寝顔に対してしか性的興味を持たな いことをほのめかしている。つまり、寝顔を見せないということは、起きていて相手の男の寝顔を見るためだったことがわかる。夫の寝顔を見つめることが重要だったことは事実らしく、「いとほしき寝顔のまへに泣きぬれて暁をみしこともしばしば」S白木樫』大正五年二月刊)と、阿佐緒は歌でも夫庄子勇の寝顔をうたっている。阿佐緒はこの夫と大正六年に離婚するが、親友三ヶ島葭子は、大正十年、『婦人公論」に掲載した「生けるもの、悲しみ」と(注7)いう文章で、夫婦が同居した期間は一年に満たなかったと書いている。夫の「俺は恐くなったよ・・・。まさか殺そうと思ってるんでもあるまいね」ということばは、離婚の原因を連想させる表現になっている。阿佐緒が男の寝顔を見る嗜癖の持ち主だったとすると、海気館で眠ろうとしなかったのも、千樫の寝顔を見るためだったのだろう。蝋燭の灯りは、寝顔を見るための必須の道具ということになる。ところで、この晩は、千樫もなかなか眠らなかったようだ。千樫は、海気館から帰宅直後の大正二年十一一月一一十五日、阿佐(注8)緒宛に出した手紙で、「過去の一一人の最後のお別れとして心から泣いて思ふま餌に泣いて寂しい乍らに緊張しきった一夜を送りたかったのです」と書いている。「緊張しきった一夜を送りたかった」という千樫は、灯りの下で眠らずに明かそうと考えたのかもしれない。冒頭の三首では、暗い海を見つめながら物思いに沈む女に千

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樫は胸を騒がせ、女を一人で残す不安な気持ちをうたっている。千樫の不安は当たっていたようで、阿佐緒の『歌稿手帳二に、同夜をうたったと思われる一首、「青暗らき夜の海を見て(注9)おればのがる②すべを思ひ居たりき」がある。このとき、阿佐緒が考えていたのは、「のがる餌すべ」であった。二人の間には、緊張感が漂っていたはずだ。深夜、阿佐緒は、眠ろうとしない千樫にいらだっていたのかもしれない。四首目の「さ夜深み小床になびく黒髪をわがおよびにし捲きてかなしも」は推敲を経た後のもので、『詩歌』掲載の初出には、「さ夜床になびく黒髪もてあそびいのねらへぬしいに死去ねと云ひき」とある。黒髪をもてあそびながら、阿佐緒は「死ね」とつぶやいている。ところで、海気館の一夜でも、阿佐緒は最後に千樫の寝顔を見ている。阿佐緒の『歌稿手帳こには、上記と同じ個所に、「ひと目見し男の寝顔ときどきに己の心火をさしにけり」が記されている。おそらく、.夜明け」てから千樫はうたたれをした。阿佐緒は、そのとき千樫の寝顔を見つめたのであろう。

阿佐緒は、なぜ男の寝顔にしか性的興味を持たなかったのだろう。その原因は、美術学校に学んだ少女時代にあったようだ。後年、阿佐緒が青春時代を回顧した文章「わが青春記l歌 2.奇すしき性 (注、)に全生命を」などにょうっと、阿佐緒の最初の夫小原要逸は、東京駒込の日本女子美術学校で、英語や美術史を教える教師だった。東京帝大出の翻訳家で美男子の要逸は、阿佐緒にとって尊敬に値する師だった。ところが、阿佐緒は要逸によって人生観(注、)を「一瞬にしてくつがえされ」、妊娠して1」まう。同時に、要逸に妻子がいることを知ったという。阿佐緒は自殺を決意し、胸にかみそりを突き立てるが未遂に終わった。その後長男を出産し、要逸とともに故郷の宮城に帰る。要逸は、このときすでに妻と別れるつもりだったのかもしれない。籍は入れぬまま、故郷では盛大な披露宴が開かれ、世間並みに夫婦の形が整えられたが、阿佐緒は要逸を許すことができず、短期間で別れることになった。この経験は、阿佐緒の心身に変調をもたらしたという。阿佐緒の親友の三ヶ島葭子は、上記の「生けるもの掴悲しみ」の中で、阿佐緒について、「原さんのからだに女として目覚むべきものがまだめざめないうちに、非常に怖い目に逢ってしまったので、自然に任せておいたならやがて相当に熟すべきものが、そのまま永久的に萎縮してしまひ、原さんはそれがために、男性に対して、普通の女の持つべき警戒の必要を考へられないからだになってゐた」と書いている。同棲はしても、おそらく、阿佐緒と要逸は実質的な夫婦関係にはなかった.前記の「わが青春記l歌に全生命を」で、阿佐緒は、要逸との披露宴は「別離の宴だつ」たと書き残している。

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(注旭)阿佐緒は生涯、性への嫌悪感を持子っ続けていたという。葭子のいう「普通の女の持つべき警戒の必要を考へられないからだ」とは、いわゆる不感症を指すのであろう。葭子は、性的なことがらについては女は慎重で警戒心を持つべきなのに、阿佐緒は不感症であるため、ふつうの女の持つ警戒心に欠けるといっているようだ。阿佐緒は「黒い絵具」で、自らを「性的不具者」と呼んでい(注凪)る。石原純の妻にj、、そのことを告げていたようで、不倫恋愛報道がなされた後の、大正十年十二月四日付け「東京朝日新聞」に妻逸子の談が載っている。記事中に、逸子が阿佐緒と会った折、阿佐緒が自らを「性的欠陥のある女です」と話したという〈注Ⅱ)個所がある。阿佐緒の性への嫌悪は、男に対して心身を閉ざした状態を意味するだろう。でも、いったん男が眠れば、恐怖は沈静化し、わずかに残った性への興味が目覚める。阿佐緒の、男の寝顔に対する執着は、「萎縮」した性の名残りだったのではないだろうか。「わがなくてあかさずもが』Dひそかなる奇すしき性を人は知らめや」 うには親しめなかった」と書いている。 男の寝顔を見つめ始めたのは、おそらくこのときからだろう。『黒い絵具』の中で、阿佐緒は、「彼女T阿佐緒)は、知らず知らず同じ興奮でながめて来たことのある寝顔を思いうかべていた。要達T小原要逸)のそれは大理石の彫刻のように美しくはあったが、変化に乏しくて、勇吉T庄子勇)のそれのよ

阿佐緒の心身のあり方は、千樫とのやりとりにも投影されている。それは、阿佐緒に宛てた千樫の手紙からも、読み取ることができる。海気館の一夜の数日後、大正一一一年一月三日に千樫が書いた手(注肥)紙がある。阿佐緒はその前に一度千樫へ手紙を寄越したようで、千樫の手紙はそれに対する返事である。。。「あなた(Ⅱ阿佐緒)は「私(Ⅱ阿佐緒)の身はいく年前と同じでした』と言はれる。これは前の話ですが、私T千樫)は身と心とをどうしても離して老ふることの出来ない人間です。(中略)それからあなたは「勝利者だ』と言はれる。誰に対して勝利者と言ふのですか、私に対してならおかしい。勝利も負けもない筈です」。。『私の身はいく年前と同じでした」という阿佐緒の一」とばは、千樫との交渉によっても、不感症の身に変化は無かったという意味であろう。また、阿佐緒が自らを『勝利者』と称したのは、変化がなかったことを「征服」されなかったと捉え、そのこと (注迎「歌稿ノート四」に残る、自らの性を題材と1」た歌である。こういった歌は、詠草として記されるだけで、発表されることはなかった。「燭影」にうたわれた「眠らない女」は、阿佐緒の性を映し出していると思われる。

3.男への復讐

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を「勝利」と表現したのであろう。阿佐緒の手紙を読んだとき、千樫がどのように感じたかはわからない。だが、一夜を共にした後、相手の女から自分のことを敗者と決めつけた手紙が送られてきたら、傷ついたり、怒りを感じたりしてもふしぎではない。三ヶ島葭子は、先の文章、「生けるもの面悲しみ」の中で、「原さんは誰にも征服されませんでした。それで原さんはこの時分そしから「男を侮辱する』といふやうな誹りを受けなければなりませんでした」と書いている。男に「勝利」を宣言する女……これは、男に対する復讐ではなかったのだろうか。阿佐緒は、「黒い絵具』で、「処女性を真黒に塗り漬」された後、「男性を呪う心」でいつぱいになり、「男性に復讐するには、男性よりもすぐれたものになることだ。自分は、あらゆる力をもって、それに向かおう。久和子(Ⅱ阿佐緒)は男性に対するこの反抗心に溢れて燃えあがる焔を常に焚きつけていた」(二二、二一一一頁)と書いている。また、阿佐緒は周囲の人間にも、「復讐」ということばをもらしている。阿佐緒の理解者で、歌友でもあった山中省二は、「婦人公論」(大正一○年九月号)へ葭子の「生けるもの国悲しみ」と並べ(注Ⅳ)て、阿佐緒に同情を寄せた文章「涙から祈祷へ」を載せている。山中はこの中で、阿佐緒が「私は世と人とに対して何かしら復讐をしたいやうにも思ふ」と言ったり、「男のすべてに対して反逆のこころを抱き、復讐といふ恐ろしいことを企てた」り した過去があると書いている。阿佐緒にとっては美しく装うことも、男への反抗の表現だったようだ。(注型一一一ヶ島葭子が、大正一一一年十月一二日の日記で、初めて会った阿佐緒の美しさを「三越か何かの活き人形を見る」ようだと表現しているように、阿佐緒は容貌が美しかっただけでなく、装いの華やかさでも際だっていた。広島の文学青年で、阿佐緒の処女歌集「涙痕」(大正二年)を編集、製作した西野義雄は、大正一一年七月三○日頃、阿佐緒(注旭)宛の手紙で、「華美な姿を好むでするのも男への反抗心だって仰しやいましたね。反抗心だけでもひとりで通して見せるって、何て哀しい御言葉なのでしやう」と書いている。この世のものとは思われないような美しい女と一夜を過ごし、すっかり心を奪われた後に、いきなり別の男と鉢合わせさせられる(大正期アララギ裏面史二)。それだけでも衝撃的なのに、つぎは手紙で敗者と決めつけられ突き放される。阿佐緒の「男への復讐」は、千樫の場合、そんな形で現れたのである。海気館から帰宅した後の、千樫の動揺は相当なものだ。大正一一一年一月二○日、千樫は赤ん坊だった次女を失う。千樫の内縁の妻山下きよは、夫と阿佐緒の関係に気づき、心痛で乳(注加)が止まってしまった。弱った赤ん坊は急性肺炎にかかり、急死したのだという。(注迎千樫は娘の死を題材にした連作「枢を抱きて」で、「傷を負ひて暗深くうめくけだものの心を感じひた土に臥す」とうたう。ここには、娘を失っても阿佐緒への思慕を断ち切れず、地に伏

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「妖婦」のレッテルが中傷とは言い切れないとしても、阿佐緒の姿には悲しみが漂う。阿佐緒にとって、男と過ごす夜は、自殺未遂の夜の追体験だったのかもしれない。夜通し蝋燭の灯りがともる「燭影」の世界と、「黒い絵具』に描かれた自殺未遂の晩の光景は、よく似ている。『黒い絵具』に描かれた自殺未遂の晩も、蝋燭の灯りに照らされていた。「久和子(Ⅱ阿佐緒)はあらかじめ電灯を消しておいた。しんとした周囲のなかに、黄色い蝋燭の灯だけがほのかに動いていた」(三八頁)。阿佐緒は、仏壇の両側に置かれた一一本の蝋燭 して苦しむ男の姿がある。千樫が「アララギ」大正三年正月号を大幅に遅刊させたのは、このような情況下であった。阿佐緒とかかわりのあった他の男たちも、千樫と似たような経験をしたのかもしれない。葭子は、「生けるもの国悲しみ」の中で、阿佐緒に求愛した男たちの中には、「血書の手紙を寄越した人もあれば、原さんの名を呼びつづけて死んだ青年もあったさうです」と書いている。阿佐緒は純との不倫恋愛報道で「妖婦」と決めつけられたが、このレッテルは、根も葉もない中傷とは言い切れない。阿佐緒の行った「男への復讐」が、徐々に「妖婦」像を形成していったことは間違いないであろう。

4.死を思う夜 に照らされながら、胸にかみそりを突き立てる。(注塑)斎藤茂士ロの「滞欧随筆』所収「花を嗅ぐ」にふしぎなエピソードが見える。「僕の友が、ある美しい女と懇意になったことがある。或るやと日一一人は連れ立って、松の生えてゐる海岸の旅舎へねむりに行った。二人は互に身を寄せて松かぜの音を聞いてゐる。蝋の火なぴは廉きもせずにともり居る。夜は更けた。そのとき、「こんなかみそり晩には、剃刀の光でも見るのがふきはしいと思ひますわ『かう女は云ったさうである。女は繊細な感覚を持ってゐた。すると友は、くるりと女に背を向けてしまったさうである。友は心の中で、この女、何を云ってゐやがると思ったのであった」「僕の友」とは、千樫ではないだろうか。このエピソードは、「僕の先師」から聞いたエピソードと並んでいる。茂吉の師はいうまでもなく伊藤左千夫であり、左千夫門下同門の親友が千樫だった。処女歌集「赤光』(大正二年刊)中で、茂吉は千樫を「あが友」、「我友」と呼ぶ。千樫がモデルとなっている茂吉の歌としてよく知られるのは、「我友は蜜柑むきつつしみじみとはや抱きねといひにけらずや」であろう。婚約者の「幼妻」てる子を恋うている茂吉に、千樫は悪友らしく「はや抱きね」、つまり「はやく抱いてしまえ」とけしかけている。「花を嗅ぐ」は、アララギ派内部の事情を知る人間なら、左千夫と並べられた「僕の友」が干樫であることに、自然と連想

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…鑿i曇`。

明治末ごろの海気館。松林の中に見える中央の大きな建物が本館で、周囲には別荘風の小さな建物が点在している。『ふるさとの想い出写真集明治大正昭和千葉j鳥海宗一郎(国書刊行会・昭和53年12月20日)より

Hosei University Repository

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が働くような書き方がなされている。ところで、海気館は浜辺の松林の中にあった。「松の生えてゐる海岸の旅舎」で「美しい女」と身を寄せ合って「蝋の火」を見つめる男。この設定からは、「燭影」の光景が浮かび上がる。そうだとすれば、『剃刀の光でも見るのがふきはしい」と言った「美しい女」とは、阿佐緒だったということになる。阿佐緒の作品には、血やかみそりを題材にしたものが少なくない。初期の代表歌の一つ「われとわが胸の傷より血とともにたえず流る国かなしみの歌」や、「かみそりをもてばをののくきづつきて血の垂りし胸ふと思ひ出て」、「いまはしき恋のかたみと乳の上の刃の傷痕に心ふるひぬ」(以上『涙痕」大正二年)などは、いうまでもなく自殺未遂の体験に基づく。自殺未遂の記憶に苦しむ阿佐緒にとって、息子の寝顔は心の支えだった。「狂ほしく死を思ふ夜もかたはらに寝し子を見れば心などみぬ」(『涙痕」大正二年)と阿佐緒はうたう。男の寝顔にも執着があった。だが、かつて自らに向けた刃が心に蘇ると、その刃を今度は自分ではなく相手の男に向けてしまう……それが阿佐緒の「復讐」だったのかもしれない。海気館の一夜からわずか二週間後の大正三年一月六日夜、赤(注四)彦が中村憲士ロに宛てて書いた手紙に、「古泉の事件とは何かありしか」ということばが見える。海気館の一夜のことは、千樫と親しかった憲吉や茂吉を通じて、アララギの幹部同人たちの間に、またたくまに伝わったよ うだ。半年後の六月一一十日、赤彦、茂吉、憲吉は三人で稲毛を訪れ、(注別)一泊している。この小旅行でも、千樫と阿佐緒の噂が懸かれたかもしれない。これまで三回にわたって述べてきたように、阿佐緒の存在は大正期アララギ派の人間関係に影を落としている。「アララギ四人」と呼ばれた茂吉、赤彦、憲吉、千樫。茂吉や赤彦から見れば、同門の友千樫は阿佐緒とのかかわりがきっかけで、自分たちとの関係が悪化した。純と阿佐緒の問題が浮上したとき、阿佐緒が、今度は純に魔手を伸ばしたと感じたであろう。だからこそ、純と阿佐緒を添わせようとした葭子と千樫を追うことになったのだ。茂吉は、次男の宗吉(作家北杜夫の本名)に向かって阿佐緒の名を挙げ、「女というものはおそろしいものだから、絶対に〈注溺)近寄ってはならぬ」という教訓を繰り返していたという。(注1)『日本の詩歌六」(中公文庫、昭和五一年四月一○日)「古泉千樫」一○三頁(注2)橋本徳壽「古泉千樫とその歌」(三省堂、昭和一四年一一月)「六、左千夫の死」五八頁(注3)編者大林昭雄が阿佐緒の残した歌原稿、歌稿手帳四冊、歌稿ノート四冊の詠草を起こして、私家版三冊にまとめたもの。影印は付されていない。『原阿佐緒研究一天の巻女の歌』(平成一六年七月)には、歌原稿及び『歌稿手帳一~三』を収める。「原阿佐緒研究二地の巻母の歌」(平成一六

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年八月)には、『歌稿手帳四」、『歌稿ノート「二」を収める。『原阿佐緒研究三人の巻友の歌」(平成一六年八月)には『歌稿ノート三、四」を収める。(注4)「黒い絵具原阿佐緒自伝』(みやぎ文学館ライブラリーI、耕風社、一九九七年八月一○日)昭和二年一月から一二月まで、二回にわたって「婦人公論』に連載された阿佐緒の自伝的小説「黒い絵具lさきやかなる自伝にかへて」を単行本化したもの。表記は現代仮名遣に改められている。(注5)橋本徳壽、安田稔郎編、(石川書房、一九六二、昭和一一一二年二月)(注6)原阿佐緒記念館(宮城県黒川郡大和町宮床字八坊原一九’二)所蔵。(注7)『婦人公論」(大正十年第六年第十号)特集「石原博士と原阿佐緒女史学者の詩、詩人の恋」三編中の一編「生けるもの塾悲しみ」。他の二編は、原阿佐緒「悲痛な過去の扉をひらいて」、山中省二「涙から祈祷へ」。(注8)原阿佐緒記念館所蔵。(注9)注3前掲書『歌稿手帳一」(大正三年)一一頁。日付は一一月七日。この歌は「ひと目見し男の寝顔ときどきに己れの心火をさしにけり」、「いもいわず君がともせし蝋燭の青ざめし火も忘れがたかり」、「狂ほしきわが眼いく度走るらむやぶの中なる高き裸木」、「汝が心裸になしてもの云へと云はる心だにも泣かれぬるかな」などとともに並んでいる。千樫が阿佐緒に宛てた大正三年一月一一一日付けの手紙に「あなたがもつと着物を脱いで裸になって私に何か言っていた

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だきたいと思ひます」とある。「汝が心裸になしてもの云へと」とは、この手紙の文句を指すと思われる。同書でこの他、海気館の一夜をうたった可能性のある歌には、つぎのようなものがある。「眼をとぢぬ灯を細むるとさしのべし男の腕美しみつと、「白き額うすき灯影にほの見せて眠りし人を夜半にかなしむ」(一三頁)「湯あがりのやわらかき頬を相寄せてくちづけしたる心地忘れず」、「くず湯のみくず湯のみつ砥思うことキスするときの君とわが顔」など一○首二七、一八頁)。この一○首の前には、「また見る日ありやなしやと思ひつ、送られにけり古泉千樫に」など、新橋駅での千樫との別れをうたった歌が五首ある。『東京新聞」’九五四年、六月一日夕刊八面による。阿佐緒は、『黒い絵具」では師小原要逸について、「要達(Ⅱ小原要逸)の無恥な行為が彼女(Ⅱ阿佐緒)の処女性を真黒に塗り潰してしまった」と書いている。要逸に強姦されたという意味であろう。阿佐緒は、|賞して強姦されたと主張している。一方、要逸は阿佐緒との関係について何も書き残さず、申し開きもしていないので、要逸がこの点についてどう考えていたかはわからない。要逸から見れば、阿佐緒との「恋愛」だったのかもしれない。阿佐緒研究家小野勝美は、阿佐緒と要逸の交渉が生じた当時、要逸の「妻タチは姑タミとの折り合いが悪く、実家に帰されていた」という。要逸の家庭の不和も、この出来事に影響していたかもしれない。小野勝美は、要逸は「阿佐緒と別れた後の明治四二年七月、妻タチと協議離婚をしている。(中略)

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ところが、どのような事情があり、いつの頃かは不明だが、タチを復籍し、三人の子供達とともに暮らすに至ったのであった」と書いている(小野勝美「涙痕I原阿佐緒の生涯」至芸出版社、平成七年六月一六日)。阿佐緒と別れた後の、妻との離婚、復縁については誰しも理解に苦しむだろう。小野勝美は、要逸の娘に取材を申し込んだが、断られたという。要逸は、阿佐緒と別れた後、東京の京華中学校で国語教員をしていた。映画監督の黒澤明は京華中学校の卒業生(昭和三年卒)で、黒澤の自伝「蝦蟇の柚」(岩波書店、一九八四年六月二二日)には、思い出の先生(「仰げば尊し」二四頁)として、要逸が登場する。「そもそも私は馬鹿

、、.、、正直で、なにかいたずらをしては、担任の教師に、←」んな

、、、、いたずらをしたのは誰だと云われると、正直に手を挙げた。そしてその教師は、私の成績表に操行ゼロと書いた。とこ

、、、、ろが、担任の教師が変わってからも、自分のいたずらに対して、相変わらず正直に手を挙げていたら、その教師は正直でよろしいと云って、私の成績表に百点と書いた。(中略)その先生は、私の作文を京華中学創立以来の名文と誉めてくれた、小原要逸先生である」。黒澤明の思い出に現れる要逸は、自由で柔軟な思考を持つ、優れた教師である。原阿佐緒記念館に、要逸が阿佐緒との間に生まれた息子原千秋に宛てた手紙が残っている(大正七年二月二四日消印)。この手紙で、要逸は千秋の進路についてアドバイスしたり、必要なものがないか尋ねたりしている。要逸は阿 佐緒と別れた後も息子を心にかけ、連絡をとっていたことがわかる。これらからは、阿佐緒の描いた要逸像とは異なった要逸像がほの見える。(注皿)原阿佐緒記念館『生誕百年記念原阿佐緒」(昭和六三年一○月二五日)所収原桃子「母原阿佐緒との二十五年」に、「母は、少女のショックと最初のつまずきで性に対する強い嫌悪感を抱かされ、遂にそのよろこびを知らないで一生を送ったのだろうと、母の口調から私ははっきりとさとりました」とある。原桃子は阿佐緒の次男原保美の妻。阿佐緒と二五年間同居し、最後を看取った。「少女のショック」とは、日本画を学んでいたときに枕絵を見せられた経験を、「最初のつまずき」とは師要逸との不幸な関係を指すようだ。(注Ⅲ)「黒い絵具」一一三頁に、つぎのような一文がある。「男性の強暴によって、突然に虐げられたという恐怖と強い嫌厭とが、彼女の性に対する欲情をなおさらに全く閉じ塞いでしまった。彼女はついに自分の肉体にひそむそのような能力をさえ疑うようになった。そして彼女のうら若い肉体を一つの性的不具者として見ることにさえ一種の誇りを感ぜしめるようになった」(注Ⅲ)五面「石原博士は家庭円満l阿佐緒女史とはアレッ切り」による。(注砠)注3前掲書『歌稿ノート四」二九頁。この歌は、「人と吾と言かはす間を旅づかれの友はいねむれり加茂川の宿に」、

日本文學誌要第77号

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(性別)山下きよは、千樫より十歳年上だった。正式の妻ではなく、帰る実家もなく、頼りは千樫だけだった。千樫が阿佐緒に宛てた、大正一一一年一月三日付けの手紙に、「僕には同棲者はあっても僕の一切を少しでも拘束するものはない」ということばが見える。夫の心に、きよが衝撃を受けぬわけが 「うつそみのわがうまれつきの並ならぬをおのれかなしむ人は知らなくに」、「なくてをしあかさずもがもひそかなる怪しき性を人は知らめや」などとともに並んでいる。大正九年一二月、葭子が阿佐緒を連れて、純の泊まる京都の旅館信楽に伴ったときの歌であろう。信楽は鴨川沿いの三本木にあった。このとき、純は講演のため京都に滞在していた。(注砠)原阿佐緒記念館所蔵。(注Ⅳ)注7参照。山中省二(明治一九年~昭和四五年)は、号波泉。歌集『愛人」(夕潮会、明治四二年〉がある。阿佐緒とは、仙台の文芸誌を通じて交際があったという。S海菜」六九号〔一九九九年二月二五日〕所収の小野勝美「阿佐緒をめぐる人々(七)山中波泉」による)。(注肥)倉片みなみ編『三ヶ島葭子日記上」(至芸出版社、昭和五六年四月一五且「第六部神田表猿楽町時代」五○一頁(注咀)原阿佐緒記念館所蔵。この手紙は日付を欠く。西野がこの手紙を書いたのは、「仙台駅待合室」である。西野は大正二年七月二○日から一○日間ほど阿佐緒宅に滞在した後、自宅のある広島へ帰った。この手紙は、その帰途に駅で書かれたものらしい。 なかった。(注Ⅲ)注5前掲書五○~五五頁「枢を抱きて」(注皿)『斉藤茂吉全集五』(岩波書店、一九七三年一月)「随筆」一○、二頁(性別)「赤彦全集八」(岩波書店、昭和五年十月一五日)「書簡二八一」一九二頁(注別)藤岡武雄「新訂版・年譜斎藤茂吉」(沖積舎、平成一五年六月三○日)「巣鴨病院時代」’一一一一頁。「中村憲吉全集四」(岩波書店、一九三八年一○月一五日)の日記(大正三年六月二○日土曜)に、「午後久保田と斎藤と一一一人にて稲毛にゆく。寂莫なる雨模様の日。しかし夜は大に心を安めて騒ぐ。斎藤ひどくはしゃぐ。去年は、稲毛より帰りし日左翁を訪ひしが最後の日也」とある。久保田は赤彦、左翁は左千夫。稲毛は、同人たちの身近な行楽地だったようだ。(注筋)北杜夫『青年茂吉「赤光」「あらたま」時代」(岩波現代文庫、二○○一年一月一六且「一、赤光時代」一一六、一一七頁

(せんのあすか.文学部教授)

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参照

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雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、