児玉幸多先生 追悼
著者 村上 直, 丹治 健蔵
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 69
ページ 91‑93
発行年 2008‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10878
本学史学科の元兼任教授であった児玉幸多先生が、平成一九年七月四日、多臓器不全のため逝去された。享年九七歳であった。七月二二日は学習院百周年記念会館において「お別れの会」が開かれた。当日、先生から受けた学恩に感謝し「法政大学史学会」くrの名において供花を捧げ、史学〈石として》」冥福をお祈りした。児玉先生は明治四二年一二月八日、長野県更級郡稲荷山町でお生れになり、のち東京大学文学部国史学科へ入学なされ、Ⅱ本近世史の研究の道を進まれた。後年、私たちに誕生日が太平洋戦争の開戦の日と同じなのは、何かの因縁を感じると語られたこともあった。私は先生の名著である「江戸時代の農民生活」(大八洲出版)を熟読したのは法政大学在学中のときであり、直接、お目にかかったのも昭和三四年頃であった。その後、地方史研究協議会の常任委員や自治体史の編さんを通して、長い間、ご指導やご教示をいただいた。
児玉幸多先生追悼 児玉幸多先生を偲んで
児玉幸多先生追悼
村上画 法政大学史学科において、特にH本近世史の基礎や発展は、藤沖甚太郎、板沢武雄、岩生成一の三先生によって築かれたといわれることもある。児玉先生がその本学の兼任教授となられた経緯については、次のように話をされることがあった。先生は若くして旧制第七高等学校造士館教授になられたが、昭和一三年に、当時、学習院教授であった板沢先生が東京大学の助教授に移られた後任として学習院教授になられ東京に戻られた。昭和二七年に板沢先生は法政大学教授に就任なさったが「藤井甚太郎先生がなくなられたあと、当時、法政の史学科の主任教授であった板沢先生のお話で、私は昭和三十一一一年十月から法政に出講して、四十八年一一一川まで約十五年間続けた。杵遡の非常勤講師とちがって、大学院の入試などにも立会ったりしたので、法政の史学科の先生には親しくして頂いた」(丸山忠綱追想集「おもいで」)と記されている。この兼任教授という制度は児玉先生だけで終っているが、先生のご研究のなかに「木曽山林の地租改正」二法政史学」一四号)がある。昭和四六年から私は史学科の教員となっているので史学科の名簿には児玉先生とご一緒に名前が記載されている時期もある。しかし、先生は昭和四八年Ⅲ月から学習院大学学長に就
九
一
Hosei University Repository
法政史学第六十九号
児玉幸多先生の御挨拶(平成7年12月2日)
村上直教授、最終講義・五八年館、八三三教室
任なさったので、本学の兼任教授を退かれることになったのである。児玉先生のご誹議は地方史学と大学院の歴史地理学であったが、本務である学習院大学と同様に地方史・交通史研究の分野を中心に幅広く指導に当られた。とりわけ交通史の分野には、すぐれた卒業生の研究者が現われている。後年、私も大学での「地方史学」の在り方について、児玉幸多・斎藤忠の両先生監修の『地誌と歴史』二○号に「地方史学と地誌編さん」という題名で執筆させていただいた。平成八年三月、私は法政大学を定年退任することになったが、その前年一二月二日に大学の五八年館八三一二教室で股終識義を行った。終了後、特に出肘された児玉先生から温かい御挨拶をいただいたことは忘れることはできない。いつも温容であった先生のお姿を偲び、謎しんで哀悼の意を表します。(法政大学名誉教授)
法政大学に多年にわたり貢献された児玉幸多先生がお亡くなりになったとの悲報に接し断腸の思いであった。児玉先生と私との出会いは昭和三十三年1月、私が大学院修士 児玉幸多先生をしのんで
九
丹治健蔵
Hosei University Repository
課程三年次に在学中のことであった。かつては学習院・東大の教授でもあった板澤武雄先生が、十月一日付で兼任教授となられた児玉先生をご案内して大学院棟(旧五十五年館)二○四号室に人ってこられた。その瞬間、私はあの天然パーマのような独特の髪型をした気品のある温厚な先生にお会いすることができたのである。当時交通史、特に利根川水運史を研究していた私にとってはまことに幸運というほかはなかった。その年の授業ではまだ発刊後間もない「近世宿駅制度の研究」(昭和一一一十二年、吉川弘文館)を使って私どもに輪読させたり、鋭い質問を繰り返したあと懇切丁寧に説明してくださったことが今更のように懐しく思い出される。その後私は三十九年囚月文学部研究助手に就任し、大学の規程で博士課程に入り、再び児玉先生の指導を受ける機会に恵まれた。博士課程では「更級日記」「東海道中膝栗毛」「武蔵野市史・資料編」などをテキストにしてご指導頂いたが、私にとって幸いだったのは放課後に研究上のことから難解な古文評の解読にいたるまで気軽に机談に乗ってⅢけたことである。やがて私が川十九年四月文学部史学科の兼任講師に任命されてから蝋川武先生に剛問をお願いし、同志とともに法政大学交通史研究会を結成し、夏期合宿などで渡辺和敏氏の実家のある東海道新居宿・関所の史料整理を法政大学のほか駒沢大学・学習院大学の学生も参加し、大々的に実施したが、その折には児玉・豊田向先生にもご出馬をお願いした。
児玉幸多先生追悼 現地では児玉先生が学生と机を並べ率先して史料の整理を進められている姿を見て私は頭が下がる思いであった。また、夕食後の会合にもご出席頂いたが、その席では学生ひとりひとりから研究テーマを聞き、適切なアドバイスをしていただいたりもした。そんなことが機縁となり昭和五十年五月二十五日児玉先生を会長にお迎えして全川的な交通史研究会が発足することになったのである。そして児玉先生の交通史門下生としては一番年長者であった私が、先生の古稀記念論文集「H本近肚交通史研究」(吉川弘文館)刊行の世話役をお引受することになった。それで私のほか当時は法政の新進学徒であった平川新(現東北大学教授)・山本光正(現国立歴史民俗博物館助教授)・渡辺和敏(現愛知大学経済学部長)・宇佐美ミサ子(元文教女子短期大学教授)氏等にも寄稿・文献Ⅱ録の作成で協力して頂き、五十四年十二月八日京王プラザホテルで開催された祝賀会場で先生に献呈することができたのである。また、吉川弘文館の出版部長川田亨氏(法政史学科卒業)からの依頼で先生とご一緒に刊行に努めた「Ⅱ本交通史」(平成四年刊)が財川法人交通協力会から賞状と賞金(交通史研究会に寄付)を授与されたことも忘れ得ぬ思い出のひとつとなっている。岐後に先生のご冥福を心からお祈り申し上げ、柵筆することにしたい。二九五一年度卒業生、交通史研究会顧問、元法政大学兼任講師)
九
Hosei University Repository